『一つの道』

2016年2月14日(日)
新城教会主任牧師 滝元順
ヨハネの福音書14章5節〜6節

『トマスはイエスに言った。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』

 ハレルヤ!おはようございます。心から感謝しています。
 今のピアノの演奏、本当にすばらしかったです。「神様の国がこの地に来ますように!」というタイトルの曲でしたが、私たちの目的は、いち早く主がこの地に帰って来てくださり、王となってくださることです。

 今日は遠くから教会に来られている方々にとっては、すばらしい日になったと思います。なぜなら、昨日、新東名が開通したからです。遠くから来てくださっている兄弟姉妹にとっては、かなりの時間短縮となったのではないかと思います。早く完成するように祈っていましたが、本当に良かったと思います。
 昨日は、夜七時半から、新東名を賛美と祈りで祝福し、霊的に勝ち取ろう!という企画をしました。すると、マイクロバス三台分の方々が集まりまして、雨の中を新城インターチェンジから豊田東まで、折り返し、浜松いなさまで、ぐるっと廻って賛美と祈りの時を持たせていただきました。すごくよかったです。恵まれました。
 しかし道が複雑で、かなり混乱して、バスは三台ともバラバラになってしまいました。その中にも主の導きがあったと思うのですが、昨日は、二月十三日で、私たちの教会にとっては記念日でした。
 一九九二年二月十三日、聖霊様が新城教会に訪れてくださり、霊的に新しい道が開かれ、新しい扉が開かれました。
 この日を記念するかのように、新東名が開通したことは、何か預言的な意味があるのではないかと、勝手に考えているのですが、これから新城教会の宣教範囲もぐっと広がるので、大きく期待しています。
 今日、みなさんに、新城教会ニュースをお配りしたのですが、私はいつも巻頭言を書かせていただいています。今回のタイトルは、「祝!新東名高速道路開通!」で書かせていただきました。新城の人たちは関心を持っていますから、そんなタイトルを付けさせていただいたので、読んでみて下さい。

sintomei.jpg

 新しい道ができるだけで、生活環境って、大きく変わります。また、どの道を選択するかで、方向も大きく変わります。
 昨晩、私たちの車は、順調に賛美し、祈りながら、豊田方面に走って行きました。豊田東で下りて、Uターンして、新東名に乗って、いなさまで行くコースを走っていたつもりでした。
 しかし、道がいくつもあって、どれが新東名なのか、旧東名なのか、他の道か分からず混乱しました。事前に調べていたはずですが、雨も降っていて、看板も見にくくて、「どの道だ?どの道だ?」と言いながら、Uターンしたはずだったのですが、出た先が東名の岡崎インター方面でした。なんと、普通の東名高速道路に入ってしまって、走っていたのです。しかしそれも導きでした。昨夜の東名高速道路は、がらがらでした。いつもは三車線に、車がぎっしりの所ですが、ほとんど通っていないのです。祈りながら、岡崎東から入って事なきを得たのですが、いなさ付近でも混乱しました。本当に選ぶ道によって、全然方向が変わってしまいます。

 人生も同じです。日本には八百万の神々と言われるほど、神々がいっぱいいて、どの神様を選んでいいのか、分からないです。イエス様道さえ選んだら天国に続くわけですが、下手な道を選ぶと、全く違った場所にたどり着きます。
 イエスさまは、『わたしが道であり、真理であり、いのちです。』と、断言されました。いつも話すのですが、この言葉って、普通の人では、絶対に語れない言葉です。私が語ったら、絶対にいかれていると思われます。「あんたが道で、真理でいのちだって?この人、ちょっと、おかしいわ!」と言われます。
 しかしイエス様は、この事を全世界に告げて、二千年の歴史の中で、イエス様に従う人たちは絶えないわけです。この言葉って、人類にとって、本当に重要な言葉です。十四章六節、

『イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』

 日本人の考え方って、「富士山に登るのだって、いろんなルートがあるように、どの道でも、やがて頂上に着く。どの宗教だって同じだ。」と考えています。しかし違うのです。天国に行くためには、イエス・キリスト道しか、道はない!のです。
 そして、『わたしを通してでなければ、』と語っています。私たちの神は三位一体の神様です。神は、天地宇宙を支配しておられます。とんでもなく大きなお方です。そんな方を、知ろうと思ったって、知れっこないです。その方が地上に、人となって来てくださったわけです。ですから、イエス様も神です。
 しかし、イエス様が地球に来ている間は、宇宙はコントロールを失った、神様がいなくなっちゃったかと言うと、そういうわけではないのです。依然として、宇宙は保たれていたということは、神様は、しっかりとおられたわけです。
 やがてイエス様は十字架にかかり、よみがえられて、天に帰ってしまわれました。そうしたら地球は神様を失ったのかといったら、そうではありません。神の霊である聖霊様が支配してくださっています。これは、父なる神様も、子なるイエス様も、聖霊様も、同じ神。三つにして一つの神であられる証拠です。
 人間の脳みそではなかなか理解できないのですが、この偉大なる神様に接近するためには、「イエス・キリストという道」以外にありません。イエス様という道を歩んだら、私たちは、偉大なる神の元に到達できるのです。その道以外は、神の所に到達できないのです。
 使徒の働き四章十二節に、こんな言葉があります。

『この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」』

 「この名のほかに救いはない!」と、よく賛美します。私たちは全日本リバイバルミッションという働きをさせていただいていますが、この働きは、日本リバイバルクルセードという、一九七〇年から、父と田中政男先生が始めた働きを前身としています。その標語が、「天下にイエス・キリスト以外に救いはない!」という標語でした。それは使徒の働きの四章から付けられました。「この名のほかに救いはない!」のです。
 イエス様の名前以外は、神の所に到達することができないばかりか、悪魔の所に到達してしまうのです。悪魔は名前の法則をよく知っていて、イエス様以外の神々の名前で祈りを捧げさせるのです。
 祈る人は、気持ち的には「神様に祈りを聞いてほしい!」と願っています。しかし名前が違えば、受け取る存在も変わるのです。
 電話も、同じじゃないですか。一桁違っても通じないし、他の所にかかってしまいます。この頃、孫が、電話機の操作と数字を覚えて、自分で数字を押して電話をかけることが趣味になったみたいです。私に、「ちょっと電話を貸して。」と言って、「ゼロキューゼロ…」とか言って、「かかった!」と喜んでいるのですが、「めんどくさいから、一桁くらい適当に。」と押したら、どうでしょうか。一桁違うだけで、全然違う人にかかってしまいます。
 同じです。祈りは純粋で、神様に祈りたい!と願っていても、番号が一桁違いでも、他の所にかかるのと同じように、イエス様以外の名前を使ったら、他の存在にかかってしまうのです。
 ということは、イエス・キリストという名前は重要です。教会は、この、一つの道を伝えるために存在しています。

0001.jpg

 この道は一本道です。イエス様の道だけを伝えるために、私たちは、働いています。この名前以外は、決して救われる名はないのです。

 みなさん、私たちは不思議なことに、イエス様と実際に会ったことがないのに、イエス様の存在を信じ切っています。これって、すごいと思いませんか?イエス様が目の前に現れた体験をする人って、特殊です。普通は見えません。イエス様の声だって、別に聞こえるわけじゃありません。しかし私たちは、イエス様を愛しているし、イエス様に従っているのは、聖霊様の働きです。
 ペテロという弟子は、イエス様の側で、話をしたり、交わりをして過ごしました。しかし最終的には、イエス様を裏切ってしまうことまでしました。彼は、イエス様の一部始終を見届けた人物でした。
 しかし彼は、イエス様と実際に出会ったことがないのにイエス様を愛し、イエス様に従っている聖徒たちを見て、感動したのです。そのことを記しています。第一ペテロ一章八節〜九節。

『あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。』

 今日、ここにお集まりのみなさん、イエス様と実際に出会ったことはないかもしれないけれど、イエス様を愛しているし、イエス様に従う気持ちがあるのは、救われている証拠です。
 時々、私たちは、本当に救われているのかな〜、なんて考える時があります。しかし見た事がないイエス様を現実に愛する気持ちがあるとしたら、救われている証拠なのです!
 『栄えに満ちた喜びにおどっています。』とあります。クリスチャンになると、なんか知らないけど、心の中に喜びが湧いてきます。これは、救いを得ている証拠です。
 ペテロが感動しているのです。「自分は、目の前でイエス様を見て、また一緒に話をした。しかし最終的に、イエス様を裏切ってしまった。けれども、イエス様を実際に見たことがない聖徒たちが、見たこともないのに、イエス様を愛しているじゃないか!従っているじゃないか!喜びに満たされているじゃないか!これは、救われている証拠だ!」と、感動したのだと思います。
 今日、みなさんのうちに、喜びはありますか?イエス様を愛する愛がありますか?それは聖霊によって、あなたが救われていますよ!と、主が語っておられる証拠です。

 イエス様は、目には見えませんが、今の時代、どこで出会うことができるのかというと、基本的には「ことば」の中で出会うことができるのです。
 ヨハネの福音書一章一節〜五節にこのように記されています。

『初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。』

 『初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。』とありますが、創世記一章一節〜三節に、神が天と地をことばで創造された様子が記されています。

『初めに、神が天と地を創造した。地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。』
 宇宙と地球は、神様のことばによって造られたのです。聖書は、神のことばが記されている書物です。私たちは教会に来て、神のみことばを聞き、自分でも聖書を読んでいるうちに、みことばの中で、神様はご自分を現されます。すると知らないうちに、見たこともない方を愛するようになるわけです。本当に不思議な現象です。

 話は変わるのですが、言葉って、すごい支配力があります。私たちは、何気なく言葉を使っていますが、言葉は私たちを支配する、ある意味、原動力です。言語を持っている動物は、人間しかいないです。他の動物は、言語を持っているようには思えません。でも、ペットを愛している方々は、動物の言語も分かる!と言われます。私はさっぱり分かりませんが、なんか言語を持っているようです。

 話はどんどん変わりますが、先週、私は、天野先生の教会に行きました。
 天野先生の教会は、すばらしい教会です。最近、先生の家庭に大きな奇跡が起こりました。それは何かというと、先生ご夫妻にはお子様はおられないのですが、かわいい猫ちゃんを飼っています。それを自分の娘のように愛しておられます。先日、その猫が癌になって、助からない、駄目だとなりました。手術をした写真も見せてもらいましたが、獣医から「もう助かりません。」と宣告されたそうです。それで先生ご夫妻と教会は、猫ちゃんの癌が癒されるように真剣に祈ったのです。
 そうしたら、奇跡が起きて、完全に治ってしまったのです。ガンが全てなくなって、猫でも血液検査をやるらしいのですが、天野先生の血液検査の結果よりもずっと良くなっちゃったらしいです。奇跡です。うちの親父は死んだけれど、なんで神様は猫を生かすのか・・・、とちょっと思いましたが、今回、先生の教会に行く前に祈っていたら、ヨナ書のことばがふっと浮かんで来ました。
 ニネベという町がどうして助かったのかと言うと、十二万以上の右も左もわきまえない人々と、多くの家畜がいたからでした。それで神様はニネベを助けたのです。神様は家畜やペットにまで愛の目を注いでおられる、やさしいお方です。そして神がペットを助けるというのは、ある意味、神の究極的な憐れみの姿ではないかと思いました。
 先生が牧会している草加という町には、多くの人たちが住んでいますが、その町にある教会のペットを助けたということは、この町の住民を見捨ててはいないぞ!という、神様からメッセージだ!と思いました。主は、ペットにさえも目を留めておられるお方です。ということは、私たちに、目を留めておられないはずがないのです。

 その神様が、言葉の中で出会ってくださるというのです。言葉とは、神様が使っていたものを、人類に貸して下さったわけですから、何気なく使っていますが支配力はたいへん強いのです。
 みなさん、これ好きですか?

0003.jpg

 刺身好きな人?私は大好きです。「刺身」という言葉を聞いただけで、よだれが出るというか、お昼に食いたいな!と、思うじゃないですか。
 でも、刺身をこの言葉に置き換えたらどうでしょうか? 「死んだ魚の生の肉」

 実際はこの言葉の方が正確です。刺身とは、「死んだ魚の生の肉」なのです。でも、「死んだ魚の生の肉ほしいですか?」と聞かれたら、「いらん。いらん。」と言いますが、「刺身を食べたいですか?」と聞かれたら、「食べたい」と答えるのです。ということは、私たちは魚の肉を食べる以前に、言葉を食べているのです。

0004.jpg

 もう一つは牛乳です。牛乳、大好き!という人、いますか?いますね。牛乳をたくさん飲むと背が伸びると言われるのですが、私は飲めなかったので、背が低いです。牛乳が白いのもいいですよね。赤かったら、飲みにくいです。白い色も神様の配慮だなと思います。
 しかし牛乳って、実際は、何か知っていますか?
 「牛のリンパ液」だそうです。「牛のリンパ液、飲みたいですか?」と聞かれて、「飲みたい」答える人は少ないと思います。いくら白くたって、飲まないですよ。ということは、白い液体というより、言葉を飲んでいるのです。

0005.jpg

 ステーキだってそうです。あぁ、ステーキ喰いたいな。私、ステーキが大好きですが、ステーキとは何かというと、
「殺された牛の肉を焼いて食べる」ということです。殺された牛の肉とは、現実です。
 ということは、案外、私たちは知らずして、言葉に支配されているのです。

 ということは、神様のことばを蓄えると、神様のことばで支配され、知らないうちに変えられるのです。
 神様がご自分を、ことばの中で紹介されているのは、重要です。毎日、聖書を読んで神の前に、自分の言葉で祈るのです。

 しかし祈る時には、イエス様の名前を通さなければいけないのです。先ほども言いましたように、『わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』とあるからです。
 私たちの祈りは、イエス様の名前を通すと、父なる神様の所に届きますよ!「イエス様!」と祈っても、正確には「父なる神様の所に通じますように!」という意味です。基本的に正しい祈りは、「イエス様の名前を通して、父なる神様に祈りをささげる」ということです。
 イエス様が言われたように、『わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』というのですから、父なる神様に願いを届けたかったら、イエス様の名前だけを使って祈れ!ということです。
 私たちが、イエス様!と呼びかけても、父なる神との会話であり、答えは、みことばから、聖霊によって告げられるのです。

 一九九二年二月十三日、聖霊様が激しく私たちの所に訪れてくださいました。あれから大きく変えられました。あの日のことを考えると、よくぞあの時期を切り抜けてきたなという実感もあるのですが、聖霊が注がれた夜、愛知県民の森の小屋の中には、たった八人しかいなかったのですが、一週間の間に、教会全体に聖霊の働きが広がって行きました。やがて子どもたちにも、聖霊が注がれました。当時、新城教会のクリスチャンホームの子どもたちは、二十数名いたでしょうか。その子どもたちは、ほとんどがクリスチャン三世で、親から教会に連れて来られていて、救われた実感が伴っていなかったのです。
 しかし、彼らのために、七週にわたって、毎週土曜日に私たちが聖霊を受けた小屋に連れて行って祈らせたのです。子どもたちは愛知県民の森に行ったら、広くて楽しいから飛び回って、祈りにならん!収集がつかん!というレポートでした。
 しかし、子どもたちのリーダーは、粘り強く、子どもたちを七週にわたって、愛知県民の森に連れて行ったのです。
 そうしたら、第七週の最後の土曜日でしたが、子どもたちの上に聖霊が注がれました。普段は、飛び回って落ち着きのない子どもたちが、涙と鼻を流して、コンクリートの床にひれ伏して、「もう時間だから帰るよ!」と言うまで、祈り続けたというのです。その日、子どもたちの内側が変えられたのです。

 子どもたちは本当に喜んで帰って来ました。「不思議なことが起こった!祈りが止まらなくなった!」「自分で祈っているようで、自分で祈っているようではなかった。」と言うのです。「誰かが内側で祈っている姿を、横から眺めているような感覚だった。」と言うのです。祈っている時に、友達の顔や先生の顔が次から次へと、走馬燈のように浮かんできて、「友達がイエス様を信じてほしい!先生が救われるように!救われて天国に行くように!」と泣きながら祈ったそうです。
 ある子どもたちは、いろんな国の旗が目の前に出て来て、国々のために祈っていたというのです。あの日から、子どもたちは変えられました。
 そして、口々に言ったのが、「イエス様の十字架の意味が分かった!」ということでした。今までは、「イエス様はあなたの罪の身代わりとなって、死んだのですよ!」と聞いても、人ごとのようだったのが、「イエス様の十字架は、私の罪の身代わりだったんだ!」と分かったというのです。涙が止まらなかったというのです。
 聖霊様が訪れる時、主が語られるのです。

 あれから、二十数年経って、その時の世代は現在、親になっています。昨日は、新城教会の第四代目の子ども達を、愛知県民の森の中に連れて行って、かつて親たちが聖霊を受けた場所で、祈らせたのです。
 昨日、私の孫たちも行きました。「どうだった?」と聞いたら、「ん?普通…。」という感じでしたが、何か新しい事が起こったらいいなと思うのですが。主の約束は、必ず実現するのです。
 イエス様の名前で祈ると、聖霊様が来られます。新城教会に聖霊が注がれたことによって、新しい道が私たちの前に開かれました。

 さて、旧約聖書には、「二つの道」について記されています。申命記十一章二十六節〜二十八節、

『見よ。私は、きょう、あなたがたの前に、祝福とのろいを置く。もし、私が、きょう、あなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令に聞き従うなら、祝福を、もし、あなたがたの神、主の命令に聞き従わず、私が、きょう、あなたがたに命じる道から離れ、あなたがたの知らなかったほかの神々に従って行くなら、のろいを与える。』

 モーセは神様から来たことばを、民に告げたのですが、「あなたの前には二つの道がある。それは祝福とのろいの道だ。」と告げました。祝福の道とは、神に従う道、すなわち、イエス・キリストの道です。
 しかしもう一つ、のろいの道もあるのです。のろいの道とは、『あなたがたに命じる道から離れ、あなたがたの知らなかったほかの神々に従って行くなら、のろいを与える。』というのです。

0002.jpg

 人生とは、どちらかの道を選択することです。イエス様を信じた人たちは、すでに祝福の道を選んでいるわけです。しかし、もう一方はのろいの道だというのです。
 のろいの道は具体的には、「他の神々に従うこと」です。偶像礼拝です。偶像礼拝は、手で作った神々を拝む事です。神社や寺に行って手を合わせるのは偶像礼拝です。しかし、そこで祈る人たちの祈りは、結構、純粋です。
 神社に奉納されている絵馬を見るのは、結構、興味深いです。絵馬には、願い事が記してあるのですが、そこは個人情報の宝庫です。住所・名前も書いてあり、願い事や必要も書いてありますから、あそこで情報収集して、DMを送ったら絶対に商売になると思います。そこに書いてある内容は、教会で礼拝後に依頼される祈りの課題と、ほとんど同じです。病気が治りますようにとか、受験がうまくいきますようにとか、結婚がうまくいきますようにとか、問題が解決しますようにとか、全て内容は同じです。

 では、何が違うのかといったら、どの神様の名前で祈るかの違いです。イエス・キリストの名前で祈れば、祝福の道に行きます。祈りの電話は真の神にかかります。
 しかし、他の神々の名前を選んでしまうと、悪魔が、神のふりをして祈りを受け取ってしまうのです。だから結果が悪いのです。

 ここに、このような言葉があります。誰の言葉だと思います?

「私には神(光)が見えない。五十年間、私は虚しい暗闇を生きてきた。虚しい。孤独だ。」
「私は神の存在を確信できなかった。私の信仰はどこへ消えたのか?心の奥底には何もなく、虚しさと闇しか見えない。この得体の知れない痛みがどれだけ辛いか・・・。神が存在しないのなら、魂の存在はありえない。魂が真実でないとすれば、イエス、あなたも真実ではない。」

 この言葉、誰が語った言葉なのか、知っていますか?滝元明だったら、大変ですが。これは、みなさんが、よく知っている人物が残した言葉です。

0006.jpg

それはマザー・テレサです。平和ノーベル賞を受賞した人物です。インドのカルカッタで、「死を待つ者たちの家」を作って、大勢の人たちを世話し、聖人だと言われている人物です。ローマカトリックでは、今年、彼女を聖人にするというのです。
 世界中の人に、「あなたの尊敬する人は誰ですか?」と聞くと、「マザー・テレサだ。」と答える人が最も多いそうです。しかし、彼女が晩年に語った言葉が、この言葉です。

 彼女が死んでから、カトリック教会から、”Come Be My Light”という本が出版されました。「来て、私の光となれ」という意味ですが、その本を読むと、彼女の内側の真実が分かります。彼女には「神の愛宣教会」を始める前から、死ぬ間際まで数人の相談相手がいたのですが、彼女は自分の内面を彼らに、明かしていたのです。手紙に書いていました。
 若い時から、死ぬ間際まで、彼女が一貫していたのが、「光が見えない。孤独だ。喜びがない。私には二つの顔がある。一つはみんなの前の演じている顔。もう一つは、どうにもならない闇を抱えている自分。」と、彼女はメンターである大司教たちに告げていたのです。彼女は、その手紙を破棄してくださいと頼んでいたのですが、それが保存され、彼女の死後、カトリック側から出版されたのです。
 その本では、「マザーは、ここまで深い闇と戦いながら、神に仕えた」と美化しています。しかし、これは、美化されるものではなく、彼女の現実であり、本心なのです。「私は孤独だ。神が分からない・・・。」

 彼女の働きは、誰にもまねのできない働きだったかもしれません。死を待つ者たちの家は、貧しすぎて路上で倒れ、死にかけている人たちを施設に連れて来て、ベッドの上で死なせてあげたいという働きでした。しかし、彼女はその人達に一度も伝道していないのです。ヒンズーの人ならば、ヒンズー。仏教の人ならば、仏教。イスラムの人ならイスラム、自分の宗教で死んで行くことが、人にとって最も幸せだと考えていたからです。
 なぜなら、自分が救われた実感がなかったからです。自分の信仰に確信がなかったから、「イエス様だけが道ですよ!」と自信を持って言えなかったのです。人は行いによっては救われません。私たちはイエス様の道だけを、しっかりと握っておかなければいけないのです。
 どんなに偉大な働きをした!と、人々から評価されても、イエス様の道を歩んでいなかったら、何にもならないです。
 なぜ、彼女がこのようになってしまったのかというと、それは彼女の生まれ故郷の環境や家系など、様々な要素が関わっています。その研究本がカトリック関連から出版されています。私はその内容を勉強して、次回の霊的戦い専門課程で発表しようと思っているのですが、ここに、私たちが信じるモーセの十戒があります。一から十までを読んでみましょう。

①わたしのほかに神があってはならない。
②あなたはいかなる像も造ってはならない。仕えてはならない。拝んではならない。
③あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
④安息日を心にとめ、これを聖別せよ。
⑤あなたの父と母を敬え。
⑥殺してはならない。
⑦姦淫してはならない。
⑧盗んではならない。
⑨隣人に関して偽証してはならない。
⑩隣人の物をほしがってはならない。

 これがモーセが神から受け取った十戒です。カトリック教会も、キリスト教だと言いますから、十戒を語ります。では、カトリック教会の十戒、お見せしましょうか。これです。

ローマカトリックの十戒
①わたしのほかに神があってはならない。
②あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
③主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。
‥‥

 あれ?さっきのとちょっと違うじゃないか?と気づきませんか。一番は同じですが、二番目の「偶像を拝んではならない。」という戒めを、カトリック教会は省いています。なぜかと言えば、マリアや聖人、キリスト像を拝んだりしますから、具合が悪いわけです。これは救いの道どころか、人々にのろいの道を用意するようなものです。
 いくら、人のために役立った!平和ノーベル賞に値します!というような働きをしても、自分の中には、「光がない。虚しい。」と、死ぬまで言い続けなければならない理由はここにあります。
 ある意味で、彼女はかわいそうだったと思います。イエス・キリストの道さえ、はっきり分かれば変わったはずです。

 彼女の祈りについてのレポートがありました。彼女は、どういう祈りをしていたかというと、彼女が出した手紙には、必ず、一つのマークがついていました。「+LDM」と記しました。+LDMとは、「マリアの取り次ぎによってイエスへ」という意味です。
 彼女の祈りは、すべてマリアの取り次ぎ、すなわち、マリアの名前を通してイエスに祈るという祈りでした。十字架マークとLDMは、それを現していました。彼女はそれ以外の祈りをしなかったのです。マリアの名前を通し、イエスに取り次いでもらい、父なる神へという祈りでした。彼女の祈りは、マリアへの祈りでした。その事がマザー・テレサに関する研究本に記されていましたが、イエス様も、父なる神様も近くにおられたはずなのに、一文字違うだけで、こうも違うのかと愕然としました。

 イエス様の名前を通して祈ることができる、イエス・キリストの道を知っていることは、何にも比べることのできない、大きな祝福です。私たちは、イエス様の道を、一人でも多くの人たちに教えなくてはいけないですね。決して、行いで救われるのではなく、ただ神の恵みによって、救われるのです。

 今回、新東名が開通したことによって、道について意識させられて、考えさせられた次第です。イエス・キリストの道を堅く握り、この道から離れることなく、歩んでいきたいと願います。

 この二月は、短い月ですが、いろいろなプログラムがあります。今日は、午後から「Son of God」という映画の映画会があります。
 来週は、午後から、霊的戦いセミナーをさせていただきたいと思います。近頃、日本は右寄りになって、国家神道のほうに寄っています。本当に危ないです。クリスチャンがよくその事を知って、日本の将来のために祈らなくてはいけない!と思うので、その事をみなさんにお分かちしたいと思います。これは人ごとではなく、自分たちの将来に関わることですから、よく知って、祈っていただきたいと思います。

 再来週、二月の最後の週は、「ファミリーコーヒータイム」があります。予定の中に入れておいてほしいと思うのですが、どんなプログラムかというと、なんと、グロリアシンガーズ・コンサートです。ちょっとおもしろいかもしれません。「一回しかやらんと言ったじゃん!」と言われそうですが、おもしろがってやっているところもありますが、もう少しがんばってやりたいと思います。そこで「一つの道」という歌を歌うことにしています。
 最近、「子どもの頃の思い出」というCDを作らせていただきまして、まだお買い求めになっていない方は、是非ともよろしくお願いします。なかなか評判がいいですよ。「一つの道」は、イエス様の道だけを歩んで行きましょう!という歌です。最後に、「一つの道」を一緒に歌って、イエス様の道だけを歩んで行きましょう!

♪一つの道

この世の中に ただ一つだけ造られた
光の道を あなたに伝えよう
イエス・キリスト この世の光
約束の国へ 僕らを導く

※大きな主の愛は 悩みを吹き飛ばす
大空見上げれば 心が躍るよ

この世の中に ただ一つの真実は 
神のみことば あなたに教えよう
イエス・キリスト 僕の友だち
光の道を 共に分かち合おう

※くりかえし

 最後に一言、お祈りさせていただきます。

 ハレルヤ。父なる神様。御名をあがめて、心から感謝します。私たちはイエス様、あなたの名前で、父なる神様のところに到達できることを、心から感謝します。今日、私たちはイエス様の名前で、父なる神様の前に出て祈ります。ことばが人となってくださったイエス様、十字架で死んで、よみがえってくださったことによって、今日、私たちは救われていることを心から感謝します。
 この道を、一人でも多くの人たちに伝えることができますように。今日、この中に、イエス様を知らない方がおられるならば、今日からイエス様の道を歩んでいくことができますように。今から聖餐式をいたします。イエス様が天国への道を造ってくださいました。そのために、私たちも働いていきます。一刻も早く、この地上に帰って来てくださって、地球の王様となってくださる事を祈ります。今からのこの聖餐式を祝福してください。イエス・キリストの御名によって、父なる神様に祈りをおささげします。アーメン。