『すべてが生きる!』

2016年3月6日(日)
新城教会主任牧師 滝元順
エゼキエル書47章7節~9節

『私が帰って来て見ると、川の両岸に非常に多くの木があった。彼は私に言った。「この水は東の地域に流れ、アラバに下り、海に入る。海に注ぎ込むとそこの水は良くなる。この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入る所では、すべてのものが生きる。』

 ハレルヤ!今もヘブンリーキングダムの、素晴らしい賛美を聴くことができて、本当に感謝します。すべては過ぎ去りますが、永遠に変わることのない主が共におられることを覚えて、礼拝ができますことを、本当に感謝します。

 今週、私はペルーに行くのですが、是非、祈って支えていただきたいと思います。教会は、地域に福音を伝えるだけでなく、世界に福音を伝える使命があります。新城教会も、そのような働きが知らないうちに自然と始まり、世界に福音を伝えるようになりました。今年の夏も、ネパール宣教があります。それに先立ってというわけではありませんが、新城教会では、長年にわたりペルー宣教がなされています。
 今回、新城教会から、フェルナンド先生はもちろんのこと、私と鈴木陽介スタッフが行くのですが、あとお二人、埼玉県から、早川先生という、スペイン語がおできになる方で、霊的戦い専門課程に来て下さっている先生と、アメリカ・タコマの竹内先生も合流します。国際的日本人チームで行くことになっています。先週も少しお伝えしたのですが、今回、フジモリさんと会うことができるように一応なっています。

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 元ペルー大統領のフジモリさんは今、刑務所に入っています。なぜならば、テロリストを大勢殺したからです。日本大使館占拠事件で多くの人たちがテロリストらの人質となりましたが、救出の為にテロリストを殺したということで、後の政権によって逮捕されたのです。テロリストとは、政権を倒すためのテロリストみたいな面もあり、なかなか政治的には不安定な国です。フジモリさんは日本で生まれたけれど、ペルー人になって、大統領にまでなった唯一の人です。熊本県出身です。今回、彼と出会うことができる様です。福音を伝えるために行きます。特別刑務所に入っているらしいですが、一応、許可が出ているみたいなのです。右側の人は、娘のケイコさんと言います。今年、ペルーの大統領選挙がありますが、彼女が大統領になると予想されています。
 この人になってほしいと思っています。日系人で、フジモリさんの娘です。そうすると彼は恩赦になるわけです。なかなか複雑ですが、今回、ケイコさんの特別顧問をしている牧師で、ここにも来られたミゲル先生ともお会いして、一緒にお祈りすることになっています。政治の中に主が関わってくださるように、祈りたいです。

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 ペルーに行きますと、こんな光景が広がっています。貧しい人たちも大勢おられます。またそれとは反対に富裕層もいます。格差が開いています。今の時代は、格差社会だと言われます。日本も格差社会になって来ましたが、ペルーもその様な状況があります。是非とも、祈って支えていただきたいと思います。新城教会、世界宣教LINEに登録してくださっている方々には様子をお伝えします。

 今日、みなさんと一緒に学びたい聖書箇所は、エゼキエル書の四十七章です。先ほども、すべてが生きるという賛美をしましたが、四十七章九節、

『この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入る所では、すべてのものが生きる。』

 「すべてが生きる~♪」と賛美しますが、エゼキエル書四十七章からの賛美です。
 教会は、すべての人が生き、神の御心の中で生きて欲しいと願って、主が地上に建てられた存在です。神殿の土台から流れ出した水によって、すべてが生きるようになると預言されています。
 家に帰られましたら、エゼキエル書四十七章をよく読んでいただきたいと思います。
 祝福の源は、神殿の敷居の元から流れ出た水にあります。神殿とは何かといったら、イエス様ご自身です。イエス様は「この神殿を壊してみろ!三日で建て直す。」と言われました。
 旧約時代の神の宮とは、目に見える建物が神の宮でした。しかし、イエス様が来られて「わたしが神の宮、そのもの。」と言われました。イエス様から水が流れ出るのです。

 しかし、イエス様が十字架にかかって、よみがえられてから、神の宮は、イエス様だけでなく、私たちクリスチャン、一人一人にも同じ機能が与えられました。
 この水とは、何かというと、ヨハネ七章の三十七節、三十八節を読みますと、聖霊であることが分かります。ヨハネの福音書七章三十七節~三十八節、

『さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」』

 神殿とは、イエス様ご自身ですが、水は聖霊を現し、今の時代は、信じる者すべてから、生ける水の川が流れ出るようになると言われたのです。今日、ここにおられる全ての方々から、生ける水は流れ出るのです。

 昨夜も、ザワメキの賛美集会があったのですが、神様は、一日のテーマを賛美に託して与えてくださると話されていました。
 かつて新城教会で、「床の上賛美大会」という賛美集会を開いたことがあります。それは朝、起きた時、頭の中をめぐっている賛美をメモっておいて、集計して賛美する集会でした。またやってもいいかなと思うのですが、たいへん恵まれました。
 朝起きた時、賛美が頭の中を巡っている時ってあるじゃないですか。自分は、歌おうと思っていないのに、勝手に賛美が頭の中を巡っている時ってあります。あれは結構重要だと思います。それを一日のテーマにしたらいいと思います。それは聖霊の水の流れです。

 私は昨日、朝起きたら一曲、頭の中を巡っていました。どういう歌かというと、「心渇いている者よ~私の与える水を飲めと~♪」という賛美がぐるぐる巡っていました。
 今日はこのテーマかなと思って、毎朝、教会では職員たちの朝礼があって、誰かがメッセージをするのですが、昨日は私の番でした。それで私はヨハネの七章三十七節と三十八節から語ろうと思い、メッセージの前にこの賛美をしました。

 実は、昨日、嬉しいことがありました。それは何かといったら、お二人の方が洗礼を受けられたからです。それもご夫婦で、なんと足して百八十歳。お二人とも九十歳の方が洗礼を受けられたのです。
 木下さんご夫妻です。知立から来られている藤谷さんの奥様の、お父さんとお母さんです。九十歳になって洗礼を受けるって、なかなかすごい決断です。このお二人、以前は結構手強くて、「わしは仏だ。」とぶつぶつ言っていたというか、なかなかクリスチャンになりませんでした。日蓮宗だ!とか言っていましたが、ついに「イエス様を信じます。」と告白して、バプテスマを受けられたのです。感動でした。

 昨日は、藤谷信二くんが洗礼式の賛美リードをして、私が短いメッセージを語り、洗礼式を行いました。
 賛美は、すべて任せておきました。彼は何を選曲して歌うのかなぁと思っていたら、「心渇いている者よ~♪」と、私のその日のテーマ曲を賛美しました。キリストのからだは、素晴らしいと感動しました。
生ける水は、一人一人から流れ出ますが、キリストのからだ全体から流れ出るのです。それが流れて行くところに主の素晴らしさを見るのです。

 今日も、ネパール宣教のために、キムチ販売がなされます。キムチをすべて提供してくださったのは林福子さんです。本当に感謝です。材料費も何もかも、献げて下さり、一週間かけて作って下さいました。私は先週、福子さんの家にお邪魔して、びっくりしました。

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 見てください。冷蔵庫の中、キムチだらけです。
 やはり韓国の方々の信仰を、私たちは見習わないといけないと思います。なぜなら教会を愛して一生懸命、やってくださるのです。日本人は案外さらっとしたところがあるのですが、韓国に行くとよく献品して、それを売って宣教のために用います。やっぱり、韓国クリスチャン魂はすごいなと思います。
 先週のキムチを食べました?福子のキムチ。我が家では、あっという間になくなりました。何しろ美味しかったですよね。キムチもキリストのからだの中で祝福となります。

 今、私たちは何気なく、礼拝をやっていますが、この背後にも多くの奉仕者の皆さんの助けがあります。自然と映像が出ているわけではありません。自然と歌詞が出るわけではないのです。自動ではなく手動です。礼拝中、警備をしてくれたり、子ども礼拝をリードして下さったり、カメラ、電気をつけたり消したりする人、多くの兄弟姉妹によって、それぞれの役割が全うされて、このような礼拝ができるわけです。本当に感謝します。そのような中で、生ける水の川が流れるのです。

 先週、家庭集会で林福子さんの所に行かせていただいたのですが、証しを聞いて感動しました。かつて通っていた教会で、いろいろな問題があったそうです。それで本当に落ち込んだそうです。すぐ近くの畑に行って真夜中に座り込み、毎晩のように「神様、助けてください。助けてください。どうしたらいいですか!!」と祈っていたそうです。
 そうしたら、やがてその畑に、彼女の家が新築される事になったというのです。家を建てることになり、設計士が来て打ち合わせをしたそうです。設計士がどこの人なのか知らないし、誰なのかも気にしていなかったそうです。
 ある日、祈っていたら主が、「新城教会に行きなさい。」と示されたので、新城教会に来たというのです。ちょうどリバイバルミッションの聖書講座か何かに来たそうです。
 そうしたら隣に座っている人の声が、どこかで聞いたことのある特徴ある声だと思ったそうです。そうしたら隣の人も、「どこかで会ったことありませんか?」という話になって、それが誰だったかというと、新城教会のメンバーで設計士の佐野さんでした。すごいでしょう。
 福子さんは、岡崎の郊外に住んでいます。佐野さんは新城市に住んでいます。一山も二山も越えないと行けません。仕事にはテリトリーがあって、ほとんど行かない地域だそうです。一生懸命、畑で祈っていたら設計士の佐野さんが福子さんに送られたのです。それで新城教会に来られるようになったというのです。
 神様は祈りを聞いておられます。偶然はありません。私はそれを聞いて感動しました。
 一人一人、様々な働きをしているかもしれませんが、職業のただ中に、主の働きがあります。一方では、「神様、私は教会で行き詰まっています。どうしたらいいんですか。」と祈っていると、「新城教会に行きなさい。」と語られただけでなく、新城教会のメンバーが送られて、彼女の信仰が復活したのです。今ではキムチをみなさんに提供するくらい、回復しました。
 今日も買ってくださいね。全額、ネパールのためになります。五百円あったら、山の上で十人分くらいは食事を用意できると思います。
 これらはすべて、神殿の敷居の下から流れ出る水によって、なされるのです。人の働きではなく、神の働きです。一人一人の腹の底から、聖霊の水がどんどん流れるのです。

 今日は午後から、祈祷会があります。雲の柱での祈祷会で、一周年記念祈祷会です。祈祷会に出席されますと、ドリンク一杯…?、一杯だけですか?あっ!二杯でもいいですか。フリードリンクみたいです。雲の柱で、祝福を祈っていただきたいと思います。
 雲の柱って、良い名前ですよね。普通は「意味は何ですか?」という話ですが、「雲の柱は聖書の中に出て来ます。」と、レストランのランチョンマットに書いてあります。
 よく話すのですが、新城教会のメンバーである朏智之さんが、昔、豊橋市で、雲の柱というレストランを開店しました。彼は一大決心で、レストランを始めました。本当に美味しくて、私も大ファンだったのですが、それ以上に、レストランの場所代が高かったのです。それで残念ながら、店を閉めなければならなくなってしまったのです。彼はがっかりしました。今まで使っていた食器とかフライパン、プロ用の道具ですから高いのです。
 私は閉店の日に行ったら、彼はちょっと落ち込んでいました。「この道具、捨てなければならない。」という感じでした。しかし、私はこうオススメしました。
「雲の柱は、ある時は動くし、ある時は止まります。止まってもまたいつか動きますよ。」
イスラエルの民は四十年間、荒野を旅したのですが「今日はあそこまで行くぞ!」という様なプランを一切、立てませんでした。雲の柱、火の柱は、神様の臨在を表していました。それが動くに連れて、十二部族も動いて行きました。
 もしも夜でも火の柱が動き出したら、二百万人くらいの人々は、「火の柱が動いたぞ!」という声を聞いたら、すぐに起きて火の柱に付いて行ったのです。ある時は雲の柱が一年、二年、三年と止まったら、そこにずっと宿営しました。雲の柱が動くまでは動きませんでした。
 ある意味、教会もそうならなければいけないと思います。雲の柱、火の柱が動く時に動くという法則を知らないといけないと思います。
 また、私たちの人生もそうです。現代社会は計画をよく立てます。五年計画、十年計画と立てて、動く社会に生きています。もちろん計画も大切ですが、クリスチャンは、基本的には、雲の柱が動いた時、動かないといけないのです。火の柱が動いた時、動かないといけないのです。
 だから私は、朏さんに話ました。「やがて雲の柱は動くから、全て保管したら」と言いました。彼は忠実に、どこかの倉庫に、自分の使っていた道具の全てを保管しておいたそうです。彼は「必ず雲の柱は動くから!」という言葉を預言的に受け取りました。
 しかし、五年経っても、六年経っても、十年経っても、全くその気配がありませんでした。私は、「いや~、悪いこと言ってしまったかな~、古道具屋さんに売ったほうがいいよと勧めたらよかった」と思いました。
しかし、雲の柱は動いたのです。十年ぐらい経って、雲の柱が動いて、今では昔よりも優れたレストランをやっています。
 私たちの前にも、主が先立ってくださいます。雲の柱が動いた時、動き、止まった時に止まるなら、一番良いタイミングで生きることができると信じます。

今回のミッションの為に「すべてが生きるPart2」を、開先生が作りましたが、リバイバルミッションでは、ミッションがある度にテーマ曲を発表しています。気軽に「テーマ曲作って。」とリクエストすると、開先生はあっという間に作ってきます。だからいつでも歌はできるもんだと思っているのです。
 でも今回は、ちょっと辛かったというのです。なかなか曲が降って来なかったというのです。「主よ、曲が来ませんが、どうしたらいいですか?」と、真剣に祈ったそうです。
 気分転換に夜、ランニングしたそうです。バイパスをずっと走って、雲の柱とアークホームの所に来た瞬間に、上から賛美が降りてきたそうです。どんっと「すべてが生きる~♪」と、新しい賛美が与えられたというのです。
 特に、その時「病の癒し」というテーマと共に下さったと昨日、証しをしていました。エゼキエル書四十七章の十節から読みますと、このようになっています。エゼキエル書四十七章十節~十二節、

『漁師たちはそのほとりに住みつき、エン・ゲディからエン・エグライムまで網を引く場所となる。そこの魚は大海の魚のように種類も数も非常に多くなる。しかし、その沢と沼とはその水が良くならないで、塩のままで残る。川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。』

世界中、川の両岸には、多くの木が生い茂っています。それと同じで、聖霊の川が教会から流れ始めると、周りに木が茂ってくるのです。果実もできるのです。そして木の葉は、薬になるというのです。薬を飲むと、病気が治ります。飲んでも治らない薬もありますが、一般的には治ることを信じて飲むわけです。神様の薬は百発百中です。この水のほとりには、癒やしがあると教えています。
 特に、今回の四十七都道府県のために作られた、「すべてが生きるpart2」の賛美は、新城教会の中に、いろいろと病の方がおられて、ちょっと心が暗くなって、「主よ。どうしたらいいですか。」と、祈っている最中に、なんと、アークホームと雲の柱の場所で、「癒やしを与えます」というテーマで歌をくださったというのです。
 アークホームに入所されている方々は、お歳を召されていて、いろいろと身体に障害があったり、不具合があって入所される方が多いです。私たちは案外、「歳を取ればこんなもんかな。」と諦めてしまいます。私の母も今日来ていますが、九十三歳です。少しというか、たくさんというか、だんだん記憶が消えて来ています。それも幸せじゃないかと思います「明さんが死んじゃった!」と泣き続けられたら困るけど、記憶が薄れている感じで、あんまりそういう事は話しません。よく寝るし、よく食べるし、良かったなという感じです。しかし、「九十三だもんなぁ。こんなもんだ。」と、案外、諦めることってありますよね。
 しかし、この賛美をもらったのは、アークホームのおじいちゃんや、おばあちゃん、デイサービスの人たちのことをイメージして頂いた賛美だというのです。
 私たちは、諦めてはいけないのです。神の癒しは、超自然的なものです。いくら歳を取っても主は回復できる!不可能を可能にすることができる!という、預言的な賛美として、この曲を頂いたと昨日、話していました。

 実はエゼキエル書四十七章を、イスラエルに対して語られたこととして読むとよく分かります。これはイスラエルの地図です。

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 神殿の敷居から水が流れたとありますが、水は東のほうへ流れ出たとエゼキエル書四十七章は告げています。
 神殿はエルサレムにあったわけですから、エルサレムに神殿を置くと、水は右側に流れたわけです。地図は一般的には、上が北です。右側が東、左側が西、下が南です。水が海に入ったと書いてありますが、「海」とは、死海のことだと分かります。死海を海と表現しているわけです。
『漁師たちはそのほとりに住みつき、エン・ゲディからエン・エグライムまで網を引く場所となる。』と語られています。エン・ゲディだ、エン・エグライムだと言われても、どこか分からないですね。「豊橋から豊川まで網を引く場所となる。」と書いてくれたら分かりますが、分からないです。しかし地図を見ながら読むと、意味が分かります。見てください。

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 エン・ゲディとエン・エグライムはここです。死海の辺りにある街です。死海というのは、どんな場所か。

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 この様に塩が結晶として吹き出しています。塩分濃度が普通の海の七倍だと言われます。ここに行ったら、かなづちだって浮くのです。

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 浮きながら新聞を読めます。これが死海です。またイスラエル旅行に行きたいなと思っていますけれど、こんな海があるのです。ここは塩分濃度が高すぎて、魚などの生物はいません。住んでいる魚は、唯一、塩鮭です。これを信じる人は天国に行けませんけどね(笑い)。魚なんか一匹も住んでいません。
 しかし、聖書から言うと、エン・ゲディからエン・エグライムまで漁師が住みつく場所になるというのです。死海が魚を獲る漁場となるというのです。聖書地理と自然環境を合わせて理解すると、「不可能な事が可能になる」ということを、ここで教えている事が分かります。
これは、イエス様が帰って来られた後に始まる、千年王国の預言ではないかと言われるのですが、新約聖書では、聖霊の働きと共に述べられていますから現代の教会に起こることとして、理解できます。一人一人の中に起こることです。魚なんか住めるはずもなく、生物は生息できない所が漁場になるというのです。果樹が実り、葉も茂るようになるのです。環境が完全に変えられ、不可能が可能になることを、ここで教えているわけです。
 これを見ると、希望が湧いてきます。案外、私たちは、「この問題は絶対に駄目だ!うまく行くわけない!」と思いますが、いくら年を取ったって、不可能と見えるようなことだって、神様はちゃんと解決してくださるというわけです。
 川は源流に近づくほど急流です。

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 水が流れ出している源流は、水に勢いがあります。しかし川はだんだんと下流になるほど、ゆったりするのです。

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 どちらの川がいいですか。カヌーなどやっている人は、急流のほうがいいかもしれませんが、心落ち着くのは、やはり下流です。

 見てください。下流は両側に立派な木がいっぱい生い茂っていて、心癒されます。すばらしいですね。しかし、どんなに大きな川でも、源流から始まるわけです。

 聖霊の流れも、まさしく同じです。流れ出た時は、激流です。しかし、下流に行けば行くほど、エゼキエル書四十七章も告げているように、だんだんと深くなり、巾も広くなるのです。

 実は、一九九二年に、新城教会に聖霊が注がれた時って、ものすごかったです。ある意味激流でした。あの時を生き抜いてくださった方々に、本当に感謝しています。突然、川が流れ始めて、すごい流れでした。愛知県民の森に聖霊が注がれた後の二年位の間、愛知県民の森の祈祷会って、本当に凄かったです。広場に入っただけで、人がすっ飛ばされ、転がって行くような事が度々起こりました。
 一九九二年、青年たちが豊川の河川敷で二ヶ月くらい毎日、祈祷会を続けました。その時の聖霊の注ぎも、すごかったです。毎晩、聖霊様が激しく訪れて、何でもできるような気になりました。水の上も歩けそうでした。もちろん試しませんでしたが。ある夜の祈祷会で、ある人が宙に浮きました。誰が宙に浮いたかと言いますと、四元雅也先生です。彼は気づいていないかもしれないけれど、私は目撃しました。
 また、一人のか細い女性がおられたのですが、今ではちょっぴりおばちゃんになっていますが、聖霊の風が吹いて来て、転がり始めたのです。豊川の河川敷には堤防があるのですが、結構高いです。三メートル近くありますが、転がって上まで登りました。唖然としました。普通では絶対に転がりながら登れません。その当時一番、体力のありそうな中学生にやらせてみましたが、一メートルも登れませんでした。あのか細い女性が、上まで登りましたから信じられないです。聖霊の風って、すごい。まさに濁流状態でした。
 でもあれは、今から思えば、普通では登り切ることが困難な環境でも、登り切れますよ!ということを預言的に教えて下さったんだなぁと思います。彼女はいまでは、嫁ぎ先で一生懸命、困難な中で福音を伝えています。あれは預言的なことだな~と。

 しかし、今は、あまりそういう事は起きません。愛知県民の森の祈祷会に来てください。でも、その名残は今でも十分ありますから。なかなか激しいところがあります。しかし、以前に比べたらゆったりしてきました。昔のような現象とか、あまり起こらなくなりました。ある人は、聖霊様が去ってしまったと心配しますが違うのです。時間が経てば経つほど、川は急流から静かになって、広く、深くなるのです。

 聖霊の流れは、祈りによって受け継がれるものです。一九九二年頃は、まさに、濁流のような祈りをしていました。今も、その祈りを絶やしてはいけません。

 四十七都道府県巡回ミッションがありますが、是非、祈っていただきたいです。LINEに登録していただきますと、情報が届きます。LINEの登録の仕方が分からない方は、若者に聞いてください。

 そして今日、四十七日間の連鎖断食祈祷会の登録用紙があります。是非とも登録してください。実はこのアイディアを下さったのが、四元昌俊さんです。四元雅也先生のお父さんです。祈りの人です。去年の沖縄ミッションでは、一人で、七十日間、朝だけ抜いて断食して祈ってくれました。今年は、キリストのからだ全体で祈りましょう!というプログラムです。これも一人の老人から始まったわけです。赤ちゃんからお年寄りまで、誰一人無駄はありません。すべての人が主の働きに導かれています。

 みんなで祈り続けていく時に、必ず、ゆったりした大きな川の流れになります。

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 このように広く深く、水が流れる時、両岸には多くの木が茂って、その葉は薬となるのです。癒やしが起きるのは、これからです。これから主が本格的な癒やしをはじめてくださると信じましょう。去年はちょっと、癒やしの信仰を失いかけた面があります。
 なぜなら滝元明が、多くの兄弟姉妹の祈りもむなしく天に召されたからです。しかし彼は、病気もあったけれど八十六歳でしたから、一般的に見たら平均寿命以上です。自然の法則も神が創られた法則ですから、それも尊重する必要があります。がっかりしてはいけません。
 しかし、みんなで一生懸命祈ったのに、なぜ?それに引き替え、天野先生の所では猫ちゃんがいやされたじゃないですか!なんて不信仰を持ってはいけません。すべて神の手の中でのタイミングがあるからです。
 前にも一度話しましたが、私の父の件で一人、不信仰になった男がいました 。毎日、もんもんとしていたそうです。そうしたら、ある晩、夢を見たそうです。滝元明が夢の中に出て来たそうです。一人で出て来たのではなくて、二人で来たというのです。そして、その男に、「どうしてこのタイミングで死ななければならなかったのか。」について細かく話してくれたというのです。明さんはこの地上でもおしゃべりだったけれど、どうもあの世に行ってもまだまだおしゃべりだったようです。男は説明を聞いて、本当に納得したというのです。「そうか!それで、このタイミングで死んだのね!分かった!」と。今まで、もやもやしていたのが、夢の中で消えたというのです。
 私はそれを聞いて、親父は彼に何を話したのかな?と「何って話してた?」と聞くと、彼がこう言うのです。「それがねー、納得したんだけど、朝起きたら全く内容を覚えてないんだよね。」というのです。一つも覚えていないというのです。「ちゃんと思い出せ!」と言いました。周りにいたもう一人も「シャレにもならんな!」と言ってました。。
でも彼はこう言いました。「朝起きて内容は忘れてたけど、今も納得してる。」と言うのです。「じゃぁ、今は疑問はないわけ、納得してるわけ?」と聞いたら、「納得している。」と答えました。そして、もんもんとしていた気持ちが消えたというのです。
 夢の中では、二人で会いに来たというのです。もう一人は、静かに横で聞いていたというのです。誰が一緒に来たのかなぁ、田中政男先生かなと思ったけど、あの人だったら絶対にしゃべるだろうから、違うなと思ったり、じっと横で聞いていたというのです。
彼がこの様に言いました。「後から考えると、もう一人はイエス様だったかもしれない。」
 この不信仰な男は誰だったかというと、今日は名前を言っちゃいますが、私の息子です。すべてに神様はタイミングを持っておられます。

キリストのからだの中で起こることは、いろいろありますが、全て主のご計画の中で、起こるのです。
 今年はきっと、主が新しい扉を開いて下さり、両岸に多くの木が成長し、癒やしが起きますよ!と語ってくださっているのではないかと思います。
 信じて、賛美して、祈り続けようじゃありませんか!祈りの火を絶やしてはいけません。私たちは常にリバイバルのために祈り、主のお帰りを待ち望んで行かなければならないです。

 火曜日からペルーに行くのですが、ペルーに行く前にいつも思い出すので、これも何回か話したのですが、また話させていただきたいと思います。この教会にペルー人の方々が来られるようになったのが、今から二十七、二十八年前ではないかと思います。
 新城の唯一のスーパーマーケット、ユニーがあったのですが、そこで、トラクト配布をしていました。ある時、ちょっと色の黒い、日に焼けた顔の二人が、トラクトを受け取ってくれました。話しかけたら、日本語がよく通じませんでした。あれ?外国の方かな?二十数年前って、外国人って日本にはあまりいませんでしたから、ちょっとめずらしいなと思って、「教会に来てください!」と誘ったら、その方々が教会に来られました。その人たちがペルー人の方々でした。
 私は本当に申し訳ないけれど、ペルーがどこにあるかさえ、それまで知りませんでした。アフリカかなと思ったりして、調べたら南米なのです。

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 ペルーって結構遠いです。日本はここですから、本当に遠いのです。
 しかし、その二人が来られるようになってから、この周りにペルー人の方々が多く住んでいることが分かり、教会にお招きするようになりました。そんな中から、今ではペルー人の牧師であるフェルナンド先生も生まれ、奥さんはひかるさんで、この教会で救われた方です。牧師も、牧師夫人も、スタッフも新城教会の中から育ち、インターナショナルの働きが生まれました。

 ある時、一人のペルー人の娘がこの教会に来ました。平井の跨線橋の下に住んでいました。二十代の娘さんで、元気の良い、明るい子でした。ある日、「ちょっと顔が痛い。」と言うのです。「どうしたの?働き過ぎ?」「病院に行く」と言って、豊川市民病院に行ってレントゲン検査を受けました。
 そうしたら、顔の下の骨の隙間に、多くの腫瘍ができていることが分かりました。それは、手術しないと治らない。顔を剥がすような手術で、顔も元に戻らないかもしれないというのです。そういう大きい問題が起こると、祈る気にもなりません。無理だな、祈ったって。
 私は、すぐに医学書を調べました。そうすると、骨肉腫というのが出て、「これにぴったりだ。」と思い、さらに無理だ、葬式はどうしようかと思ったくらいでした。
 しかし、やっぱり祈らなくてはいけないと思って、彼女を呼んで祈りの時を持ちました。何を祈っていいのか分からない。それで、「何を祈ったらいいですか?」と主に祈ると、「この人が、なぜ日本に来るようになったかを聞け!」と語られたような気がして、理由を聞きました。すると、彼女は重大なことを決める場合、お母さんが中心となって、必ず、霊能者と先祖の墓に行くというのです。霊能者に先祖の霊を呼び出してもらうというのです。しかし、先祖の霊が出て来るのではないのです。先祖のふりをした、悪霊が出て来るのです。それは、先祖たちに悪さをした悪霊の指示に従う事になります。彼らの言葉を信じたら、たいへんなことになるのです。
 「日本に行け。日本に行ったら幸せにしてやるぞ!」と言われ、お金を集めて日本に来たというのです。初めは言われた通りに、お金がいっぱい儲かったというのです。「霊能者が言った通りだ!」と思っていたけれど、時間が経ったら、顔に癌ができて、「もう駄目だ!」という所まで追い込まれたのです。
 もちろん病気は、いろんな環境で発生するので、一概に悪霊とは言えませんが、この人は、霊能者が深く関わっていたのだから、悪霊的な力が関わっているはずです。悔い改めと、つながりを断ち切る祈りをしました。今でも覚えていますが、教育館の二階のスタジオで祈りました。
 「この背後に働いている悪霊よ聞け!彼女から手を放せ!」と命じた途端です。彼女の体が震えて、「うるさい!うるさい!うるさい!黙れ!」と言い出して、「俺はこの女が嫌いだ!俺はこの女が嫌いだ!この女を殺してやる!」と叫ぶのです。自分でですよ。
 まさに、今まで沈黙していた存在が現れた瞬間でした。悪魔のテーマは、沈黙です。働いていても、自分の存在を隠しているのです。しかし、イエス様が来られた時、沈黙の存在が露わになったのです。沈黙の存在が露わになった時は、勝利です。この病は悪霊から来ているという事が分かったから、悪霊が打ち砕かれるように祈りました。聖霊様が働いて、彼女は意識を失うほど、激しく聖霊様に触れられました。
 私はちょっと心配でした。こんなに派手なことが起こっても、何も起こっていなかったら、どうしようかと思ったけど、なんと、完全に癒されました。
 今週も、ペルーに行きますが、彼女はすでにペルーに帰っています。エルサさんと言いますが、会う度に、奇跡を思い出す度に、感謝するのです。彼女は今も、元気にしています。

 私は彼女が先祖を拝んだ場所とか、全然知りませんでした。

今回、どこに行くのかというと、首都のリマとワッチョという、北のほうの町に行きます。なぜワッチョに行くようになったのかといいますと、その街に一人の牧師がいました。ワッチョは霊的に重い町で、教会を閉じようと思っていたというのです。「イエス様、私は教会を閉じます。」と祈ったのです。
 そうしたらその夜、夢を見たというのです。夢の中にイエス様が出て来たというのです。そしてこう告げたというのです。「がんばっているな。おまえを助けるために、アジアからサムライたちを連れて来てやる。」と言ったというのです。
 そうしたら、その後、下田先生に出会ったというのです。それで、私が行くようになりました。今では、いろんな先生方も一緒に行って、今週は金土と、霊的戦いの聖会をやります。
 その町は、魔法使いの町と呼ばれていて、全国の魔法使いたちが年間に一度、スタジアムを借りて、魔法使い大会が開催されます。町には多くの霊能者がいるのです。
 エルサさんという人、どこの出身か、私は全然気にもなっていなかったのですが、ワッチョのすぐ隣街でした。私は彼女がオカルトをやった場所なんて、興味もなかったです。しかし、その場所は、なんとワッチョの郊外の墓場だったのです。

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 これです。気持ち悪いでしょう。数年前、ここにとりなしに行きました。私たちは知らずして新城で戦っていたのですが、主は、ここで戦っておられたのです。きっと、その時、町の何かの覆いが取れたのだと思います。それで一人の牧師に主が、「サムライを連れて来てやるぞ!」と語られ、それが我々のことだったわけです。神様の働きはグローバルです。水の流れが、どんどん広く深くなっている証拠です。

 神様は新城教会の水の流れを、どこまで広げられるのでしょうか。しかし、この水はどこから流れるのか。それは、一人一人から流れます。教会から流れ出ます。心を一つにして、リバイバルのために、主の帰られる道を用意し、期待して祈る時に、リバイバルは必ず起きますよ!と、今年はそのような年になることを、私は信じています。

 今からみなさんと共に、聖餐式を持ちたいと思います。
「すべてが生きる」・・・教会に、個人に、家庭に、社会に、それが広がっていくように、祈っていきたいと思います。一言祈ります。

 ハレルヤ。天の父なる神様。御名をあがめて感謝をいたします。あなたが水を流して下さった事により、今日あることを、心から感謝します。新城教会に、新しい流れを起こしてください。さらに広く深くなって、両岸には多くの木々が生い茂りますように。十字架の血潮によって、私たちも神の宮です。心から感謝をいたします。今からの聖餐式を祝してください。み言葉と聖霊によって、今から聖餐式を行います。一人一人から、水が流れ出る聖餐式となりますように。イエス様の御名によって、感謝して聖餐を受け取ります。アーメン。