『目をさまし、よく注意しなさい。』

2016年4月3日(日)
新城教会 牧師 上條実
第エペソ人への手紙5章14節17節

『明らかにされたものはみな、光だからです。それで、こう言われています。「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。』

 ハレルヤ!おはようございます。心から感謝しています。
先ほどもお祈りしていただきましたが、四十七都道府県巡回リバイバルミッションの集会が、三月二十一日から行われ、今日でまず第一弾が終了します。今日は島根県の松江市という所で滝元順牧師が奉仕しております。そしてその礼拝が終了後、車で約一時間くらいの所にある、鳥取県米子市の教会で三時半から集会があります。ぜひ祈ってください。
 三月二十一日から始まって二週間、十一府県で十五集会が行われました。今回奉仕下さった滝元順牧師、また前半ご奉仕下さった平岡修治牧師、また二週間音響と運転を担当して下さった岩井兄の上に祝福があるようにお祈りしましょう。また特別ゲストとして、アメリカから皆さんご存じのジョンフルカーさんが来日してくださり、すばらしい奉仕をして下さっています。ジョンさんは今日午後の集会が終わりましたら、米子空港から羽田空港に飛び、アメリカに帰る予定になっています。多大な犠牲を払って下さったジョンさんに特別な祝福と健康が支えられるようにお祈りいただきたいと思います。
 また今日は井草聖二さんの素晴らしいギター演奏を聞かせて下さいました。感謝します。昨日は、青年会が企画して行われたザ・コールと言う集会がありました。全部で百六名の方が集い、新しい人が六十名も集まって下さいました。そこで井草聖二さんが素晴らしい演奏を聞かせて下さいました。井草さんはこの四月十九日から二十四日まで、平岡修治先生とともに北海道地区を、また五月には二十七日から六月五日の十日間、有賀喜一牧師と東海地区と関東地区を巡回して四十七都道府県巡回リバイバルミッションでご奉仕下さいます。毎日、違った場所で集会があります。ぜひ覚えてお祈りください。昨日の写真がこちらです。

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 またいつも私と家族のためにお祈りくださり感謝します。うちの家内の為にもお祈り下さり感謝します。そんな中、三月十九日には、三男の結婚式が祝福の中行われました。結婚式では大変お世話になり、感謝いたします。是非二人の為に引き続きお祈り下さい。

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 二十五年前の写真ですが、こんな写真がありました。真ん中が結婚した三男です。彼は赤ちゃんの時、ミルクを飲む事が下手で、ミルクと一緒に空気をよく飲む子でした。ですからよくミルクを戻していました。私が家庭集会に出かける用意をして、三男に「行って来るよー!」と抱っこした途端、ミルクを戻し、頭や顔、また洋服まで汚された事を覚えています。そんな彼が結婚式しました。これからの二人の為にお祈り下さい。

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 また三月二十日と二十七日の両聖日では、併せて六名の方々がバプテスマを受けることが出来ました。その中に今度小学校三年生になる孫がバプテスマを受けました。私には孫が五人おります。男の子が三人、女の子が二人です。今回孫がバプテスマを受け、感謝の祈りをしていた時、父と母が信仰を持って結婚をし、私たち兄弟が生まれ、子どもが与えられ、そして四代目の孫たちもバプテスマを受けるという、信仰が継承がされている事に心から感謝しました。イエス様を主として信じ、家族親族でイエス様を愛する事ができることを心から感謝しています。

 さて先ほど読んでいただきましたみ言葉から、学んでいきたいと思います。今日は二〇一六年度初めの礼拝です。新しい年度を迎えある方々は小学校に、また中学校、高校、大学に入学し、新しい環境の中で過ごす方々がいます。また会社に入社した方もいらっしゃいます。またある方は地域で、区の組長や役につかれた方もおられると思います。ある意味新年度は緊張し、また変化する時であります。新しい一歩が始まるということは、すばらしい出来事ですが、ある意味戦いが始まる時でもあります。
もう一度エペソ五章十四節~十七節をお読みします。

『明らかにされたものはみな、光だからです。それで、こう言われています。「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。』

 この世の終わりが近づく今、しっかりと神様の前にどうあるべきか、どのように神と交わっていかなければいけないか。また、私たちはどんな証しを立てていかなければいけないかということを、しっかりと考えていかなければいけないと思わされます。十四節に、『眠っている人よ。目をさませ。』というみ言葉がありますが、先週水曜日と木曜日にかけて中高生キャンプがありました。わが家の四男もそのキャンプに参加させて頂きました。とても楽しかったと行っておりましたが、疲れ果てておりました。次の朝、私が教会に出かける時間になっても起きてきませんでした。そして家に夕方帰ると、お昼を食べた形跡はあるのですが、夕方も寝ているんです。死んじゃったかな?と思うくらい寝ているのです。でも、このみ言葉は、『眠っている人よ。目をさませ。』とか、『賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意しなさい。』とか、『主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。』というみ言葉があります。眠り続けるのではなく、私たちは今、目をさまし、自分の信仰が、今どの場所に立っているか。チェックしていかなければいけないと思います。

 「忙しい」という漢字は、「心が亡びる」と書くと、よく言われますが、毎日忙しく生活をし、必死になっていると、知らない間に、神さまとの関係が疎かになり、信仰を二の次になっていないかをよく考えなくてはいけないと教えています。「神の国と神の義とを第一に求めなさい。」とありますが、一番大事にしなければいけないものを、ないがしろにしてないかどうかを、「眠っている人よ。目をさませ。」そして「よくよく注意し、機会を十分に生かし」「主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。」と教えています。新年度、私たちは一番大事なものを意識して、生活しなければいけない。あなたは神と自分の関係をよく意識しているでしょうか?

 先週は復活祭の礼拝を持ちました。そして「復活。それは事実です!」というタイトルでみことばをいただきました。私たちは再度、「イエス・キリスト以外に救いはない!」と信じ、イエス様が私のための罪のために死んで、そして亡んでくださった。そして三日目によみがえってくださった。この復活は真実だと再度認識し、その神であるイエスキリストを第一にして生活しなくてはいけないと信じる時を持つことが出来ました。しかし、私たちは、礼拝の時と、普段の生活とではスイッチがあって切り替わってしまうのではないかと思います。礼拝の時には、みことばで励まされます。しかし教会を出ると、普段の生活に戻ると、自分の生活が第一であり、神を忘れて生活してしまいます。神を軽く考えてしまいます。
私は今朝、創世記二十五章を読みました。また皆さんも読んで頂きたいのですが、そこにはイサクの子であるヤコブとエサウの事が書かれていました。エサウが兄であり、ヤコブが弟でした。エサウは巧みな猟師、野の人であり、ヤコブは穏やかな人で、天幕に住んでいた人でした。ある日ヤコブが煮物を煮ているとき、エサウが飢えて、疲れて野から帰って来ました。エサウはヤコブに「どうか、その赤いのを、そこの赤い物を私に食べさせてくれ。私は飢え疲れているのだから。」とヤコブの造った食べ物をねだったのです。するとヤコブは、「今すぐ、あなたの長子の権利を私に売りなさい。」と言ったのです。するとエサウは、「私は死にそうなのだ。長子の権利など、今の私に何になろう。」と言ってエソウは長子の権利をヤコブに売ったとあります。神が定めた権利を簡単に売ったのです。腹が空いている今、私に何になろうと軽く考えたのです。エサウは長子の権利を軽蔑したと書いてあります。軽蔑したことでエソウの人生は祝福を失いました。私たちも同じ事をしていませんか?
忙しく生活している時、神さまが邪魔になる。神の教えを軽蔑してしまうことはありませんか?仕事をする事はとても大事な事ですが、出世する時、営業をする時、仕事の契約を取る時、友達と接する時、神さまを軽蔑していませんか?神さまがやってはいけないとみことばに書かれていることを、軽蔑し、「神を第一」にするのではなく、神の教えを軽蔑して、世の働き、世の計らいを第一にしてしまっています。
 しかし今日、私たちはしっかりと神の前に出て、今、どこに立っているのか。どのポジションに立っているかということを、しっかりと考えていかなければいけないと思います。
「眠っている人よ。目をさませ。」とあります。「賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。」また「主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。」とあります。あなたはどんなときでも神さまであるイエスキリストを信じ、第一にしなくてはいけません。

ヘブル人への手紙二章一節~三節 (リビングバイブル)には、

『そういうわけですから、私たちは、すでに聞いた真理を、ますますしっかり心にとめなければなりません。そうでないと、真理から離れて、漂流することになります。御使いのことばでさえ、いつも真理と認められ、そのことばに従わない人は、例外なく罰せられました。そうであれば、主イエス自身の口から語られ、それを聞いた人たちが伝えてくれた、このすばらしい救いを無視した場合、どうして、罰を免れることができるでしょう。』

 とあります。神を第一にしないなら、真理から離れて、漂流することになるとあります。神のことばに従わない人は、例外なく罰せられると言うのです。毎日の自分の立っている場所が、どこに立っているか?神のポジションに立っているかしっかりと考えてなさいと教えています。
 私は信仰、神の道がどのようなものかを時々イメージするのですが、それはまっすぐな道です。みことばに「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。」とありますが、その道は、狭い門とありますから道も狭いかも知れません。しかしその道をまっすぐに進んで行くならば、天のみ国、神の国に入ることができます。もし現実にそのような道をあなたが通らなくてはいけなくなったら、どのようにして進みますか?私だったら高い所がそんなに好きではないので、絶対に落ちないように、慎重に、真ん中を歩くと思います。しかし目に見えない神の道になると、簡単にみことばを軽蔑し、みことばから外れた生活をしてしまいます。崖ギリギリの所を歩き、危ないと言うことも認識せずに、神の存在を忘れて歩いてしまいます。あなたは自分中心の生活をしていませんか?神第一の生活をしていますか?今日あなたは今どこに立っているか?どこを歩んでいるかをもう一度確認する時が必要であり、またこの新年度の時、新しい戦いが始まる時、「眠っている人よ。目をさませ。」そして「よくよく注意し」「主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい」時であって欲しいと思います。

 有名なみ言葉で、エペソ人への手紙六章十一節に、こういうみ言葉があります。

『悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。』

 何回も何回も、このみ言葉は聞いていると思います。『悪魔の策略に対して』とあります。
 「策略」というのは、辞書で何と書いてあるかというと、

策略:自分の目的を達成するために、相手をだまして苦しい立場に追いやる。わなにかける。"

私たちは、このみ言葉を軽く考えていませんか?私たちに、あの手この手で策略、だまして苦しい立場に追いやろうと、わなを仕掛けてきます。あなたは悪魔に立ち向かうために神の武具を身につけていますか?時々武具を身につけはしますが、日常生活では武具を身につけることを忘れていませんか?あなたをだまし、苦しい立場にさせて、罠を仕掛けて、攻撃をしている存在があることを今日しっかり覚え、武具を身につけ直す時を持たなくてはいけません。

 もう一つ、エペソ人への手紙六章十二節に、こういう事が書いてあります。

『私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。』

 このみ言葉も聞く耳にするみ言葉です。と書いてあります。この「格闘」というのも、辞書で調べると、

"格闘:組み合ってたたかうこと。とっくみあい。くみうち。
    困難な物事に一生懸命に取り組むこと。"

とあります。悪魔が私たちと、とっくみあいをして、困難な物事が起きるように戦いを挑んできます。悪魔は必死です。しかし私たちは軽く考えていませんか?福音は恵みです。私たちが十字架と復活を信じる時、イエス・キリストを告白したら救われます。身代わりになってイエスキリストが傷つき、苦しみを受けて下さいました。本当に恵みです。しかしその恵みを無にして軽く考えて生活していませんか?暗闇の力、悪魔、悪霊はこの戦いがどんなに大切なことか、意味あることであるかを理解して策略を巡らせ、格闘を仕掛けてきます。しかし相対する私たちは軽く考えています。ある人は聖書に戦いだとあるにも関わらず、戦いなどないと考えてしまっています。

 また有名なみ言葉の中に、第一ペテロ五章八節(リビングバイブル)、

『最大の敵である悪魔の攻撃に備えて、くれぐれも警戒しなさい。 悪魔は、飢えて、ほえたけるライオンのように、引き裂くべき獲物を求めて、うろつき回っているのです。』

 とあります。「ほえたけるライオンのように」とありますが、もしこの会堂に飢えたライオンが入って来たら、どうでしょうか。私たちは一斉に逃げると思います。危険だからです。しかし霊的ライオンにはそこまでの危機感はありません。新しい環境になり、親元から離れたりすると、友達付き合いなど罪に対して、軽く考えて、神よりも人を重視してしまうのです。「これを断ったら、友達じゃなくなってしまうんじゃないか」とか、「人からなんて言われるんだろうか。」と。私たちはクリスチャンの立場はどうあるべきかは知っています。しかし戦い、また戦う相手を軽く考え、武具も着けずに、戦う事もせずに過ごします。今日「眠っている人よ。目をさませ。」「よくよく注意しなさい。」「主のみこころが何であるかということを、しっかりと悟りなさい。」と、始め読みましたが、どんなときでも軽く考えないで武具を着けて戦うことが必要です。主を第一にしましょう。
 せっかく頂いた信仰を失ってしまったら、本当に悲しいことです。ですから、新しい学校、会社、様々なお交わりの中でも、地域の付き合いなども、堅く立って下さい。また他の人はその方々のためにとりなし祈りましょう。
 小さい時は、親の言いなりの信仰です。しかし中学校、高校、それ以上になってくると、やはり親の信仰ではあなたがたが、イエスキリストに会う必要がありません。自分と神様との関係になって、イエスキリストを救い主として告白し、どんなことがあっても信じきる者にならなくてはいけません。

 第二ペテロ二章二十節~二十二節(リビングバイブル)、

『主であり、救い主であるイエス・キリストについて学び、この世の悪い生活から、いったん足を洗った人が、またもとの罪の生活に舞い戻り、その奴隷になるなら、その状態は以前より、もっと悪くなるでしょう。キリスト様を知ったあとで、目の前のきよい戒めに背を向けるくらいなら、キリスト様について何にも知らなかったほうが、はるかにましです。古いことわざに、「犬は自分が吐いた物をなめ、豚はいくら洗ってやっても、どろの中をころげ回る」というのがありますが、まさに罪の生活に舞い戻る人々に、ぴったりのことばではありませんか。』

とあります。絶対に罪の生活に戻らないで下さい。教会にいる時だけが信仰生活ではありません。二十四時間いつでも、どこでも戦いです。私たちはしっかりと、神の道を歩んでいきたいと思います。

 子どもたちと話している中で、ある子は、こんなことを言います。私が事務所でパソコンをで入力していると、「何やってる?」と聞く子がいます。何でも「何やってる?」「何やってる?」と聞く子がいます。初めは丁寧に「これはこうだよ。」と答えます。しかし何回も聞かれると、「うるさいな。」と思うのです。そして、「ちょっと向こうに行って、お母さんの所に行って。」と追いやってしまいます。もし神様があなたに「なにやってる?」と質問している考えたことありますか?私たちは携帯で都合の悪い人から掛かってきたら、電話に出なかったり、着信拒否にして出なくします。いつも神はあなたと共にいます。そして「何やってる?」と聞いています。私たちは、神の前に本当にいつも、神様が「何をやってるんだ?しっかりと真ん中歩け!」と、み言葉が語っており、その道の真ん中を歩くことが重要です。

第一コリント人への手紙十章三十一節、

『こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。』

常に、神を私たちの前に置き、どんなことでも神の栄光を現す者にならなくてはいけません。また

コロサイ人への手紙三章二十三節には、

『何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。』

と書いてあります。どんな人に対しても、主があり、主に対して行いなさいと言っています。

 私はスポーツをする事は苦手ですが、鑑賞する事は好きです。プロ野球が開幕しました。私も中日ファンで、最近負けているので、残念なのですが、プロ野球選手は強くなるために、練習が必要です。しかし自己流だと、なかなかうまくいきません。やはり、コーチや監督がいて、指導して頂き、悪いところを直したりして、だんだん成長し、立派な選手になっていくことができます。私たちが生きているわけではありません。神によって生かされています。野球で例えたように、私たちのコーチ、監督は、聖書です。イエス様です。この神のみ言葉をしっかり受け取って、私たちはまっすぐに、真ん中を、安全な道を歩んでいきたいと思います。

 マルコによる福音書四章三節~九節、

『「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、種が道ばたに落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。また、別の種がいばらの中に落ちた。ところが、いばらが伸びて、それをふさいでしまったので、実を結ばなかった。また、別の種が良い地に落ちた。すると芽ばえ、育って、実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。」そしてイエスは言われた。「聞く耳のある者は聞きなさい。」』

 こういう事が書いてあります。あなたはどの場面が魅力ですか? 良い地に種を蒔いて、三十倍、六十倍、百倍の収穫をいただくことを、私たちは願います。クリスチャンとして、神様からのあふれるばかりの祝福を頂きつつ歩んでいきたいと私は思います。この例えの話の中で、三節に、『よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。』とあります。そして、九節、ここにも、『そしてイエスは言われた。「聞く耳のある者は聞きなさい。」』二度も、「聞きなさい」「聞きなさい」と言っています。これは、とても大事な例えであることがわかります。
 霊的戦いが激しい場所はどこだと思いますか?ある面私は礼拝だと思います。み言葉を聞く時が一番激しい時だと信じます。なぜかというと、三十倍、六十倍、百倍の恵みをあなたが受け取ってしまったら、どんなに大変なことか。あなたがみ言葉の剣を受け取ってしまったら、悪魔は、どんなに恐ろしいことか、はっきり分かっているのです。だから芽を出し実を結ぶ前に、どうにかして奪い取りたいのです。
 礼拝で、あなたはみ言葉の剣を毎週頂いていますか?道ばたに蒔かれた種を、サタンが来て、蒔かれたものをすぐに持って行きたくて罠を仕掛けています。
 二番目は、喜んで、み言葉を受け入れます。受け取るんですが、み言葉を学んでいく中で、み言葉の中で困難や迫害に遭うと、すぐに悪魔は攻撃を仕掛けてくるのです。そこで種が奪い取られてしまいます。
 そして、三番目は、いばらの所です。いばらに蒔かれた種は、世の心遣いや富の惑わし、その他いろいな欲望が入り込んでみ言葉を塞ぐので実を結びませんとあります。様々な心遣い、お金の問題等々、問題があります。また私たちには欲望がいっぱいあり、知らない間に、神に目を向けるのではなく、この世の中に目を落としてしまう時に、悪魔はみ言葉を奪い、実を実らせなくしてきます。せっかく成長してきて、あと少しの所でダメにしてきます。祈りが答えられないとか、献金したのに祝福がないとか言い、落胆させてきます。

 しかし、先ほども読んだように、み言葉を私たちがしっかりと良い地に種を蒔くと、三十倍、六十倍、百倍の祝福があります。しかし良い土地に蒔くだけではいけません。やはり雑草をぬいたり、また温度管理、水、肥料とか、様々な管理をして行く時素晴らしい実が結びます。私たちも聖書を学び、神様を第一としていく時に、神は三十倍、六十倍、百倍の恵みを、下さるのです。
 毎週礼拝に出かける時、先ほども言いましたように、是非礼拝で良いみ言葉が与えられるように、み言葉の剣をしっかり握ることができるように、戦いの祈りをしましょう。礼拝のためにとりなしの祈りをして下さい。また悪魔にみ言葉を奪い取られることがないように。神からのみ言葉を聞いて、学んで、剣として握り、戦う事ができるようにとりなしましょう。そして私たちに対する、神の約束、三十倍、六十倍、百倍の恵みを頂きましょう。三十倍、六十倍、百倍の恵みを与えてくださるという約束です。

 私が高校生の時に、個人的に父からもらったみ言葉を、今も覚えています。それは申命記二十八章十二節~十三節、

『主は、その恵みの倉、天を開き、時にかなって雨をあなたの地に与え、あなたのすべての手のわざを祝福される。それであなたは多くの国々に貸すであろうが、借りることはない。私が、きょう、あなたに命じるあなたの神、主の命令にあなたが聞き従い、守り行なうなら、主はあなたをかしらとならせ、尾とはならせない。ただ上におらせ、下へは下されない。』

 このみ言葉です。家に帰ってから申命記二十八章を読んでみてください。その前後を読むと状況がよく分かると思いますが、「あなたに命じるあなたの神、主の命令にあなたが聞き従い、守り行なうなら、あなたは絶対に下る者にはならない。上になるんだ。祝福があるんだ。」とあります。神の命令を聞き従い、守り行うなら祝福して下さるというみ言葉です。下に下るのではなく、上におらせて下さるのです。また有名なみ言葉で、ヤコブ一章二十二節、

『また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。』

 吠え猛る獅子が決闘をしようと挑んできます。毎日お腹を空かしてうろつき回る、必死にさせる悪魔どもが私たちに狙いをつけて来ます。しかしみ言葉の剣を持って、み言葉を宣言し、み言葉を実行する時勝利をいただけます。
 私たちは、今日、みことばをしっかりと握って、絶対に失うことがないようにしましょう。どんなに自分が新しい環境の中に立ったとしても、しっかりと主の立場に立って、私たちは進んでいきたいと思います。

 今日イエス様だけに目を向けて、しっかりとみ言葉の剣を持って、毎日、戦いに勝利していきたいと思います。

 最後に、使徒の働き三章十九節~二十節を読みたいと思います。

『そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。それは、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにメシヤと定められたイエスを、主が遣わしてくださるためなのです。』

 今日、人には言えなくても、神に祈りましょう。どこに立っているか。まずい所に立っている、罪を犯してしまった。そういう方は悔い改めの祈りをささげましょう。主は責める方ではなく、愛で包んでくださる方。そして、完全に罪を赦してくださって、「もう二度と罪を思い出さない。」と神は言って下さいます。
 せっかく、この救いをいただいたのですから、しっかり目をさまして、よくよく注意して、御心が何であるかを悟りましょう。「何やってるの?」と神の声を聞き、神が求めていることを日常生活の中で実行しましょう。三十倍、六十倍、百倍の祝福を私たちがいただくことができることを、私たちは期待し、今年は祝福を頂きたいと思います。今年は砂漠に必ず花園が現れる年であることを信じましょう。

 今から聖餐をいただきます。もう一度、イエスキリストを信じる祈りをしましょう。罪ある者は悔い改めましょう。悔い改めたら二度と思い出さないとみことばで語っています。永遠のいのちがあることを感謝し、また神の国が早くこの地に来るように、マラナタ!と叫びつつ祈りましょう。お祈りします。


 愛する天のお父様。今日、どこに立っているか、よくよく注意しなさい。目をさましなさい。みこころは何であるかを悟りなさいというみ言葉を語らせていただきました。今日、み言葉の剣を全員に持たせて下さい。皆がみ言葉の剣を落とすことがありませんように。悪魔、悪霊がこのみ言葉の剣で打ち砕かれて、圧倒的な勝利をいただけますように。またすぐ不信仰を持ったり、神さまを忘れがちになってしまいますから、常に目をさまし、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いる事ができますように。そして主のみこころが何であるかを、よく悟るものとなるようにさせて下さい。
あなたの十字架の血潮をもう一度、仰ぎます。イエスキリストが神さまであることを、高らかに宣言します。十字架の血潮によって、すべての罪が赦され、み言葉の剣で悪魔、悪霊を打ち砕いて、約束である三十倍、六十倍、百倍の祝福をいただく器となっていくことができますように。
 今からのこの聖餐を祝福してください。主よ、来てください。一人一人に触れて下さい。語ってください。主イエスキリストの御名によってお祈りします。アーメン。