『主があなたの守りです』

2016年5月15日(日)
新城教会主任牧師 滝元順
詩篇121篇1節〜8節

『私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。
私の助けは、天地を造られた主から来る。
主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。
見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。
主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰。
昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。
主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。
主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。

 ハレルヤ!皆さんと共に礼拝を守ることができますことを、心から感謝をいたします。今日は五月十五日ですが、月日はどんどん進んで行きますね。人生って、あっという間に終わってしまいそうだなぁと思います。一日一日を大切にして、主のために仕えていきたいと願っています。現代は主からの守りがないと、一日たりとも生きることが出来ないような時代です。今日は、「主があなたの守りです!」というタイトルで、お話しさせて頂きたいと願っております。

 今週、私はアメリカに行きます。リバイバルミッションの働きで行くのです。みなさんにロン・ブラウンさんのために祈っていただいているのですが、ロンさんは昨年の十二月まで日本に来てくださっていました。その後、どんな具合か一度様子を見に行ってほしいと言われ、また、みなさんがロンさんのために献げてくださったものを、直接、お届けするためにも行ってきます。ロンさんの記憶が薄れて、「あなたはだれ?」とならない前に、早めにお会いし、何よりも、共にいやしを祈りたいと願っています。
 まだ、私のことは分かってくれると思うので、私と彼は同年代で、本当に良い友達なので、真剣に祈って来たいと願っています。ジョー先生も「俺も一緒に行く!」と言って下さり、ロサンゼルスに来てくれます。是非とも、祈りでサポートしていただきたいと思います。

 私がロサンゼルスに行くとある方にお伝えしたら、アメリカの教会が日米合同祈祷会を開催したいと申し出て下さいました。熊本で地震があったりして、日本のために心を痛めて祈ってくださっているようです。ロンさんの友人のミュージシャンの方々とか、いろんな方が集まり、日本とアメリカのために祈る祈祷会が19日(日本時間5月20日)に開かれますので、是非、覚えて祈ってください。
 現在、アメリカは大統領選挙戦のまっただ中です。アメリカの大統領選挙についても、是非とも興味を持って祈っていただきたいと思います。誰になるのか、ヒラリーになるのか、トランプになるのか、大きな話題になっています。トランプが大統領になったら日米関係はどうなるのか、心配していますが、マスコミ情報がすべてみたいに信用しないで、よく調べて祈らなければならないと思っています。この時期に渡米する機会が与えられたので、心から感謝しています。
 来週の日曜日は、ジョー先生の教会でも奉仕をさせていただきます。世界のために、祈っていきたいと思います。

 熊本地震の義援金を私たちの教会でも集めていますが、まもなく平岡先生が熊本の各教会を回って、義援金をお届けすることになっています。今、いろいろと調査をしています。ある教会は完全に潰れてしまい、全く使えなくなって赤紙が貼られたりと、様々です。地震は決して対岸の火事ではありません。明日は我が身かもしれないのです。

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 以前この図をお見せしましたでしょうか。震度七以上の地震が起こった地域を赤色で示すと、日本全国、逃げ場がないのです。地震に遭いたくなかったら、日本には住めないかもしれません。
 熊本の人たちも、「自分たちの所だけは地震は起こらない。」と考えていたはずです。起こる直前までそう考えていたと思います。私たちも同じように考えていますが、もしかしたら、明日から車中生活をしなければならないかも知れない国に住んでいるのです。
 今の時代って、人間の守りだけでは、不十分です。主の守りがないと、絶対に生き抜けない時代です。

 そんな中で聖書は、主が私たちを守ってくださるという、力強い言葉を私たちに語っています。詩篇の百二十一編一節から八節を、先ほど読んでいただきましたが、みなさんでもう一度、声に出して読んでみましょう。『私は山に向かって目を上げる。』
 「山」とは問題を表しますから、今、問題を抱えておられたら、力強く自分の信仰告白として読んで下さい。この山は登り切れないなというような時がありますが、この言葉は信仰告白であり、同時に祈りでもあります。これを皆で宣言してみたいと思います。詩篇百二十一篇一節〜八節、

『私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。
私の助けは、天地を造られた主から来る。
主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。
見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。
主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰。
昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。
主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。
主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。』

 ここで、「すべてのわざわいから、あなたを守ります!今よりとこしえまでも守ります!」と約束されています。こんな力強い言葉をかけてくださる神様は、ほかにはおられません。本当に感謝です。

 この箇所からメッセージを準備している時、ふっと思い出したことがありました。そういえば、昔、グロリアシンガーズというバンドをやっていて、この頃もちょっと、おあそびでやっていますが、この箇所から作られた曲をレコーディングしたなぁと、思い出しました。
 三十年くらい前のことで、私は音源をすべてなくして、グロリアシンガースの音源は先日作ったCDくらいです。しかし新城教会には一人だけ、持っている可能性がある人がいるのです。でも、まさか彼でも持っていないだろうと思いましたが、一応、聞いてみました。そうしたら、なんと彼は自分のスマートフォンに、ちゃんと入れていたのです。ドラえもんヨシヤと呼んであげたいくらいです。本当に彼に感謝しているのですが、「私は山に向かって目を上げる」という、ちょっと懐かしい曲です。しばらく聞いていただきたいと思います。

♪私は山に向かって目を上げる 私の助けはどこから来るのか
私の助けは天と地の造り主 主なる神様から来る
君はひとり誰かを求めている それが誰かは知らないだろう
君の心を満たしてくれる人は 君を造られたお方

 ある方はこの歌を覚えておられるかもしれません。詩篇百二十一篇から作られた歌です。神様がすべて責任を持って、あなたを守ってくださるという約束です。このみ言葉を、しっかりと心に捉えていきたいですね。

 この中身を注意深く見ますと、「守る」という言葉が、六回ほど出て来るのが分かります。
①あなたを守る方は(三節)、②イスラエルを守る方は(四節)、③あなたを守る方(五節)。④すべてのわざわいから、あなたを守り(七節)、⑤いのちを守られる(七節)。⑥とこしえまでも守られる(八節)。
 原文でも六回です。聖書において「六」とは人間を表す数字だと言われます。「七」は完全数で、神様の数字です。六回守ると出て来るのは、神様が一方的に私たちを守ってくださると言うよりも、人間側も、神様が提供される守りのアイテムを、意識して受け取ることが必要だと暗に教えているのかもしれません。

 ですから、今日は、聖書の中から、私たちが受け取らなければならない、六個の守りの武器というか、守りのアイテムを拾ってみたいと思います。それらを意識して一週間を始めるならば、完全なる神様と一緒に、完全な守りを受け取ることができると期待しています。

 今日は、教会にとって一つの記念日です。それは何かというと、「ペンテコステの日」と呼ばれる、聖霊が注がれた記念日です。「教会誕生日」とも言うべき日です。
 実は、このイエス様の十字架も、復活も、聖霊降臨も、すべてユダヤ教の祭りとシンクロしながら起こっています。
 キリスト教は、ある意味、ユダヤ教を母体として完成しました。しかし「ユダヤ教」という名称は、後から付けられたものであり、旧約聖書はヘブル民族が直接神様と交った記録です。神がヘブル民族を選び、交わりを持った延長線上にイエス様はお生まれになったわけです。
 ですから、当時、ユダヤ人たちが行っていた様々な祭りも、神が規定されたものであり、それらとシンクロしながら、様々な出来事が起こったのです。ですから、現代を生きる私たちも、それらを意識する必要があるわけです。
 過越の祭りの時に、イエス様は十字架につけられ、種なしパンの祭りの日に葬られ、初穂の祭りの日によみがえられました。祭りの概念はイエス様の十字架を表し、イエス様は十字架の死と復活によって祭りを成就されたわけです。

 そして、聖霊降臨日は、「七週の祭り」とシンクロしています。イエス様がよみがえられた初穂の祭りの日から七週間経った、四十九日後に行われる祭りです。その翌日、五十日目を「ペンテコステ」と呼びました。この日に聖霊様が人類に訪れられたのです。
 七という数字、七の七倍の四十九、五十、特に五十は五十年目の「ヨベルの年」と関わりがあることを、先日、お話しさせていただきました。神様はすべて韻を踏みながら、人類に関わっておられるということです。
 聖霊降臨も、主のよみがえりから五十日目に起こったのは、完全なるヨベルの年につながる概念だと思われます。
 私たちは聖霊様が訪れられて始まった、教会時代に生きています。今日も、神学カフェがありますが、聖書は、大きく六つの章で区分されると前回に学びました。

一.世界の創造
二.人間の堕落
三.イスラエルの物語
四.イエス・キリストの物語
五.教会の物語
六.新しい世界の到来

 現在、私たちは五番目の、教会の物語の中に生きているわけです。教会の物語が始まったのが、「聖霊が注がれた!」というペンテコステの日から始まったのです。
 そして今や私たちは「新しい世界の到来」という、最終ゴールの直前を走っている者たちなのです。多くの聖徒たちによって、様々な歴史の流れの中、福音は私たちのところにまで届けられました。この歴史の深さと、それぞれの役割を意識する時、私たちはさらに真剣に、主に仕えなければならないことを教えられるわけです。使命を達成するために、聖霊の油注ぎを受け取ることが重要です。
 ペンテコステの日から、すべての人に聖霊が注がれる時代となり、「油注ぎによる守り」は重要です。

一、油注ぎによる守り
詩篇百五篇十節〜十五節を読んでみますと、

『主はヤコブのためにそれをおきてとして立て、イスラエルに対する永遠の契約とされた。そのとき主は仰せられた。「わたしはあなたがたの相続地としてあなたに、カナンの地を与える。」そのころ彼らの数は少なかった。まことにわずかで、そのうえそこでは、寄留の他国人であった。彼らは、国から国へ、一つの王国から他の民へと渡り歩いた。しかし主は、だれにも彼らをしいたげさせず、かえって、彼らのために王たちを責められた。「わたしの油そそがれた者たちに触れるな。わたしの預言者たちに危害を加えるな。」』

 エジプトから脱出したヘブル民族は、当時の世界から見たら、吹けば飛ぶような、小さな部族だったわけです。いつ滅んでも文句を言えないような、小さなグループだったのです。しかし、神様は彼らを特別に選び、この民族に油をそそいだのです。
 そして主は、敵たちに何と宣言されたかというと、「わたしの油そそがれた者たちに触れるな!わたしの預言者たちに危害を加えるな!」と、宣言され、敵の手から守られたのです。

 日本において、クリスチャンは、マイノリティ、少数民族です。人口の一パーセントにも満たない人数です。これから教会はどうなってしまうのかと、時々、不安になることがあります。しかし、油そそぎを受けている者たちにとっては、恐れることはないのです。主が敵に対して宣言されるからです。
 「わたしの油そそがれた者たちに触れるんじゃない!危害を加えるんじゃない!」と、神が主の民を後ろにおいて、先頭に立って、敵に宣言されるからです。すばらしいじゃないですか。
 その為にも、私たちが聖霊の油そそぎを求めることが重要です。

 キリスト教会は、大きく分けて二つのグループに分かれます。現代における聖霊の働きを認める教会と、認めない教会の二つに分かれます。
 初代教会に見られる聖霊の働きは、聖書成立のために特別にあったもので、聖書が完成した後は終わったと考える教会も多くあります。聖書がすでに完成したから、神は人類に聖書を手渡して、『これに沿って歩んで行きなさい。マニュアルとして渡しましたよ。がんばってね!』と言って、聖書を渡して天に戻ったように考えているみたいです。
 けれども、今でも神は私たちに油を注ぎ、昔も今も変わらず、聖霊様は働いてくださると信じるグループに分かれています。
 みなさんは、どちらがいいですか?「聖書だけ渡しておくからね!これに沿ってがんばってね!」と去ってしまったという理解のグループに属したいのか。それとも、「主は今もなお共に働いてくださる!」という信仰に立つほうがいいのか、どちらがいいですか。
 やはり聖霊様が今も働いて、昔も今も変わらずに共にいてくださるほうがいいじゃないですか。
 私たちは、堅く信じています。「今も、主は働いてくださる!聖霊の油そそぎは今もある!」

 教会における聖霊の働きは、ペンテコステの日から続いているですが、案外、現実感がないのも事実です。
 新城教会もかつては、現実感がありませんでした。しかし一九九二年の二月十三日に、突如として天が開かれ、聖霊様が訪れてくださったのです。あの時から私たちは変えられました。私たちは、「あの日に天が開かれた」と言うのですが、別にあの日に天が開かれたのでも、何でもないのです。すでに、二千年前のペンテコステの日に聖霊様は来られていたのです。ただ我々が、扉を閉じていたのにすぎません。
 私たちが切羽詰まって、神を真剣に求めた時、現実的に分かるような形で、聖霊様の働きを教えてくださったのに過ぎないということです。
 聖霊の油そそぎを体験すると、変えられます。私も聖霊の力を体験してから、本当に変えられました。

 私が牧師になった頃、ある牧師と一緒にサウナ風呂に行ったら、彼は風呂の中で私に忠告をしてくれました。昔から知っている人で、「順。おまえはちょっとは頭もくるくる回るし、牧師に適していると思うよ。」と言ってくれました。しかし、「でも、おまえに一番欠けているのは、聖霊の力がないことだ!」と言われました。
 私はそれを聞いて、聖霊の力を求めるような人は感情的な人で、俺のように理性的な者は関係ないと思いました。本当は少しも理知的でも、理性的でもないのですが、聖霊は求めなくてもいいと思っていました。私にアドバイスしてくれた人に、「あんたには聖霊が必要かもしれないけど、俺には必要ない」とは言いませんでしたが、思ったことがありました。

 しかし一九九二年に聖霊様を体験してから、私も相当、変えられました。熱くなりました。かつて田中たづ子さん、田中政男先生のお母様が新城教会におられました。私たちは、たづ姉さんと呼んでいましたが、たづ姉さんが私の所に来てよく言いました。「新城教会でいろんな奇跡が起こったけど、一番大きな奇跡は順牧師が変わったことだねぇ。」と何度も言いました。それほど俺って冷たかったのかな・・・と、ちょっと悲しかったですが、やはり変わったみたいです。
 聖霊の油そそぎをもらってから、教会も聖霊様に対して開かれ、様々な問題があっても、力強く乗り越えるようになったし、守りというレベルから考えても、全然変わったと思います。
 なぜなら、油注がれた者たちに対して、主が先頭に立って、「わたしの油注がれた者たちに対して手を触れるな!危害を加えるな!」と宣言してくださるからです。
 すでに聖霊様はこの地上に来てくださっていますから、日々、聖霊の油そそぎを求めることです。聖霊の働きを現実的に見たかったら、県民の森祈祷会に来てください。目に見える形で、聖霊様を体験することができます。
 この間もある人が初めて祈祷会に来てびっくりしていました。「何これっ!」って。でもその人、その夜から変わってしまいました。目が開かれたそうです。やはり油そそぎをもらうことは重要です。聖霊の油そそぎは求める者たちに、与えられるのです。完全な守りがほしいなら、聖霊様を求めることです。

 二番目に、何よりも重要な守りのアイテムは「み言葉」です。み言葉による守りは欠かすことができません。

二、み言葉による守り
 詩篇百十九篇百五節に、このように書かれています。

『あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。』

 聖書は、今も学んだように、世界の創造から新しい世界の到来まで、永遠の世界まで指し示しているすごい書物です。しかしそれと共に、ちょうどフラッシュライトのような、懐中電灯のような役割も果たすのです。
 暗い夜道を歩く時、懐中電灯がなかったら、前に進むことができないでしょう。懐中電灯って、足下を照らすのです。一キロ、二キロ先を照らすわけではないのですが、足下を照らして、一歩一歩、歩んで行く時に、穴に落ち込まずに安全に進むことができるのです。
 詩篇百十九篇九節〜十一節には、こんな言葉があります。自分が若いと思う方、一緒に読んでください。

『どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。私は心を尽くしてあなたを尋ね求めています。どうか私が、あなたの仰せから迷い出ないようにしてください。あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。』

 今は誘惑の多い時代です。罪に満ちた時代ですが、聖書のみ言葉を心にたくわえていると、様々な罪の誘惑や危険な時に、ブレーキがかかって、私たちを守るのです。
 詩篇の記者は語っています。「私は、あなたのことばを心にたくわえました。」と。聖書をよく読んで、心に聖書のみ言葉をたくわえておいてください。そうすると、様々な危険な時に、ブレーキがかかるのです。
 車って、いくらエンジンが高性能でも、ブレーキが壊れていたら、本当に危険な乗り物になります。人生も同じです。ブレーキが壊れている人生は、悲惨な人生になるわけです。今、世界中の多くの人たちのブレーキが壊れているのです。なぜかというと、聖書のみ言葉を心にたくわえることが出来ていないからです。

 子どもたちも「ホサナクラブ」などで、暗唱聖句をやっています。暗唱聖句大会とかあって、いろいろとみ言葉を暗唱するのは大切です。
 昨日、孫が家に来たので、暗唱聖句を覚えているかと聞いたら、「はじめに神が天と地を創造された。創世記一章一節」と答えました。聖書のみ言葉を心に刻んでおくと、「聖書はこう言っていたな。この道を選んじゃいけない。」ってね、ブレーキがかかるのです。
 特に若い方々、み言葉をちゃんとたくわえておかないと、時代に対応できませんから、み言葉をよく学んで下さい。
 今日も、神学カフェがありますから、み言葉を学んでいただきたいと思います。

 三番目のアイテムとして、とりあげさせていただいたのは、
三、とりなしの祈りによる守り

 とりなしの祈りは、私たちの教会のメインテーマですが、実は「とりなしの祈り」とは、本当に重要な祈りなのです。イスラエルがアマレク人と戦ったことが記されているのですが、出エジプト記十七章十節〜十三節、

『ヨシュアはモーセが言ったとおりにして、アマレクと戦った。モーセとアロンとフルは丘の頂に登った。モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になった。しかし、モーセの手が重くなった。彼らは石を取り、それをモーセの足もとに置いたので、モーセはその上に腰掛けた。アロンとフルは、ひとりはこちら側、ひとりはあちら側から、モーセの手をささえた。それで彼の手は日が沈むまで、しっかりそのままであった。ヨシュアは、アマレクとその民を剣の刃で打ち破った。』

 新城教会の前の広場は、古戦場です。ここで徳川家康と織田信長の連合軍が、武田勝頼の軍隊と激突して、数時間の戦闘で一万六千人が死にました。設楽原の戦いでは、連合軍が勝ちました。現実的な戦争が、この場所で起こったのです。戦争は現実の戦いです。
 今、読んだイスラエルの軍隊とアマレクの軍隊の戦いも、現実的な戦いでした。この戦いにヨシュアを隊長とするイスラエル軍が勝利しました。勝利した重要な要素はどこにあったかと言うと、「モーセが山の上で手を上げ続けていた」ことにありました。
 手を上げていた時は、イスラエルの軍隊が優勢でした。しかし一人で手を上げ続けていると、疲れます。だんだん手が下がって来ると、今度は、敵方のアマレクが優勢になってイスラエルは押されたのです。
 それが交互に続いたのを見て、アロンとフルという側近が、「モーセにずっと手を上げ続けてもらわないと!」ということで、石を持ってきてモーセを腰掛けさせて、右と左から、このようにモーセの両腕を支えたわけです。それで山の下で行われていた現実の戦いに勝利したというわけです。

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 祈りとは、神様に対しての叫びです。祈りは霊的行為です。戦争って何ですか?現実的行為です。普通、目に見えない活動と、目に見える活動とは関係ないと一般的には考えやすいのです。
 しかし、目に見えない世界の活動と、目に見える世界の活動は、密接に関わっている!ということです。そして、現実の世界は、見えない世界の勝敗にかかっているのです。

 霊的戦いはモーセ一人では駄目だったのです。アロンとフルが支えたことによって、霊的戦いに勝利し、現実の戦いにも勝利出来たのです。
 「設楽原の戦い」などに例えたくはありませんが、分かりやすくするために例えると、設楽原の戦いの時に、私が雁峰山に上って、手を上げていたら、どちらを勝たせていいのか分かりませんが、たとえば、徳川と織田の連合軍が勝って、私が疲れて手を下ろしたら武田軍が優勢になった、それを見ていた上條先生と信弘先生が私の腕を支え続けた結果、連合軍が勝ったという具合です。
 普通では、目に見えない世界なんか、見える世界に影響を与えるはずがない、もしも影響を与えたとしても、ごくわずかの影響だと考えるでしょう。クリスチャンでも、そう考えている人が結構、多いです。祈りが答えられるなんて、宝くじに当たるよりも難しい!と思っている人がいるかもしれません。
 しかし実際は、とりなしの祈りは、現実の戦いに勝利し、守りを勝ち取るために、最も重要な武器の一つなのです。

 教会は、何のためにあるのかというと、みなさんのためにあるます。何をする場所か、それは、手を上げる役割です。手を上げるのは、一人ではいけません。みんなが手を上げて、みんなでとりなして祈る時に、現実の勝利が決定づけられるのです。
 近頃、スマートフォンのLINEなどで、祈りのグループができています。私も海外で奉仕をする時など、様子をLINEでレポートすることにしています。みなさんが祈ってくださる時に勝利するのを現場でよく体験します。
 今、四十七都道府県のリバイバルミッションの最中ですが、LINEのグループがあって、何百名もの人たちが祈っていてくれています。それで勝利するのです。
 現場だけの戦いでは負けるのですが、山の上で手を上げる人と支える人によって、勝利は決定づけられるのです。
 ですから教会がさらに、とりなしの手を上げ続けることができるよう、祈っていただきたいと思います。また一人一人が、ある時は手を上げる人、ある時は支える係、ある時はモーセになり、ある時はアロンとフルになり、現実の戦いに勝利できたら、守りは完璧になります。

 私は第二列王記の六章に記録されているストーリーが好きです。私たちのとりなしの祈りもこうなりたいといつも願っています。第二列王記六章八節〜十二節、

『アラムの王がイスラエルと戦っていたとき、王は家来たちと相談して言った。「これこれの所に陣を敷こう。」そのとき、神の人はイスラエルの王のもとに人をやって言った。「あの場所を通らないように注意しなさい。あそこにはアラムが下って来ますから。」イスラエルの王は神の人が告げたその場所に人をやった。神の人が警告すると、王はそこを警戒した。このようなことは一度や二度ではなかった。このことで、アラムの王の心は怒りに燃え、家来たちを呼んで言った。「われわれのうち、だれが、イスラエルの王と通じているのか、あなたがたは私に告げないのか。」すると家来のひとりが言った。「いいえ、王さま。イスラエルにいる預言者エリシャが、あなたが寝室の中で語られることばまでもイスラエルの王に告げているのです。」』

 アラムというイスラエルの敵国の王が、「今度はイスラエルをこのルートで攻めよう!」と后と寝室でひそひそ話をしている事まで、全部バレていたというのです。秘密で立てた計画がすでに、イスラエルに漏れていたのです。イスラエルはアラムを待ち構えていて、何度も打ち負かされたというわけです。だから、「なんだこれは!スパイがいるぞ!」と王が怒ると、側近が、「いや、スパイじゃないです。イスラエルにはエリシャという預言者がいて、あなたが寝室で語っている言葉さえも、イスラエルの王に告げているんですよ!」と告げました。
 エリシャは、地獄耳というか、天国耳というか、すごいなぁ!と思います。危険を事前に察知して、事前に行動を起こしていたのです。新城教会も、このくらいまでとりなし能力をアップさせてもらわなきゃいかんと、日々祈っていますが、案外、とりなしの祈りは、悪魔に一発やられてから立ち上がることが多いです。それをいつも悲しく思うのですが、今年はこのようになりますように!と、上條先生が新年に語っていましたが、事前に敵の動きを察知して、守られるためには、聖霊の油そそぎによるとりなしの祈りが重要です。
 キリストの体のとりなしの祈りが一丸となる時に、主の勝利は前進していくのです。

 続いて、守りのアイテムとして神が与えている言葉が、ヘブル人への手紙十三章の所にあります。これは、「牧者による守り」と名付けてもいいと思います。ヘブル人への手紙十三章十七節、

『あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。』

 この事は、ちょっと語りにくいところもあるのですが、私は牧師で、教会には、他にも何名かの牧師たちがいますし、スタッフたちもいて働いてくれています。
 先週のフェルナンド先生のメッセージも良かったでしょう。新城教会の牧師たちのメッセージは、どれもすばらしいです。「俺なんかいなくてもいいなぁ」と思うことがあるのですが、それぞれの賜物で、弾を撃ってくれるのは、すばらしいと思います。フェルナンド先生のように、他国の文化から語られる言葉って、案外、日本人が語れない所を、うまくカバーするのです。キリストのからだの中で、うまくできているなぁと思います。
 先週、私は滋賀県のブラジル人教会で奉仕をさせていただきました。その教会、すごく熱心に霊的戦いをやっている教会で、私をよく招いてくれます。今回、伺う前に、「教会の指導者たちに、皆が従順に従ってくれるように話してください!」というテーマをもらいました。「いや〜、そんなテーマでは語りたくないなぁ、そういうのって嫌いだ」と思ったのですが、でも祈って、そのテーマで語らせてもらいました。

 ある教会に行くと、「私の言うことを聞かないと悪いことがありますよ!」なんて言う牧師も中にはいます。でももしも、私がみなさんの前でそんなことを語るようになったら、この教会から逃げてくださいね。「私に従わなかったら悪いことが起きる。」なんて私が言い出したら、または他の牧師たちが言うようになったら、この教会から逃げたほうがいいです。それは良い教会ではなく、カルト教会になった証拠ですから。
 どこの教会にも、牧師とかリーダーがいます。では、何のためにいるのかというと、「見張り人」としているというのです。彼らは見張り人だというのです。
 どこを見張るのかといったら、みなさんを見張るのではありません。敵が来ないように外側を見張る人たちです。

 内側を見張る場所は刑務所です。三月に私たちはペルーに行きまして、フジモリ元大統領に出会ったのですが、どこで出会ったのかといったら、刑務所の中で出会いました。そこに行ったら、見張りが大勢いいました。入る前に私たちの身分証明書もすべて提出させられて、前にも話しましたが、私は身分証明のパスポートをホテルに忘れてしまって、いや〜困ったぞ!と思いましたが、私の運転免許証、ゴールド免許です。違反しても捕まらなかっただけですが、「私の証明です!」と出したら、誰が漢字を読んだのか知りませんが、中に入れてくれました。
 でも入ってからも、金属探知機で調べられるは、持ち物検査はあるは、大変でした。刑務所の見張り人は、内側を見張っているのです。内側を見張る場所は、刑務所です。

 しかし国は、外側を見張るのです。敵が来ないように見張るわけです。教会の牧師とかスタッフたちは、どういう役割か、それをみなさんによく理解してほしいのです。それは神の国の見張り人たちです。それも、外から敵が入って来ないように、しっかりと見張り、働く者たちだ!と、ヘブル人への手紙の記者は告げています。
 だから、指導者たちの言うことを聞き、また「服従しなさい」と言っているのです。しかし、服従とは、盲目的に従う、支配されて従うというのではなく、「信頼関係の中で情報を共有する」という意味です。
 新約聖書の書簡は、ローマ帝国がイスラエルを支配していた時代に書かれました。ローマの軍隊が常に近所にいたわけです。軍隊の組織と対応して、従うという言葉が使われました。
 軍隊に入隊したら、兵士たちは上官の命令に共感し、信用して従わないと、自分の命が危なかったわけです。教会も、牧師やスタッフたちと、心を一つにして、情報を共有して、敵に対して立ち向かう場所であり、教会で奉仕する者たちは、見張り人たちです。彼らがしっかりと見張ることができるように、良い関係を保ちなさい!と、ヘブル書の記者は教えているわけです。
 先週、私はブラジル人教会でそのことをお話しさせていただきました。

 以前にもお話しさせていただきましたが、私は何度もイスラエルに行ったことがあります。
 実は、ちょっと話が変わりますが、今度、イスラエル旅行があります。十一月にあります。よかったらリバイバルミッションのツアーは他と比べて安いですから、行っていただきたいと思います。イスラエルに行きますと、聖書の舞台がよく分かります。ざわめきが一緒に行く賛美ツアーです。
 イスラエルに行きますと、羊がいっぱいいます。羊は羊飼いに導びかれて、牧草のある方向に移動して行きます。しかし羊飼は、あまり動いていないのです。木陰に寝ていたりします。でも、羊の群れが一定の方向に動くのは、なぜかというと、羊飼いは必ず牧羊犬を持っています。牧羊犬が周りを飛び回って、群れを羊飼いが設定した方向に向かわせるのです。どこの世界でも、危ないほうに行くのがいるのです。羊の世界でも人の世界でもですね。そこに牧羊犬が飛んで行って、群れに戻すのです。だから、危険な方向ではなくて、安全な方向に行くわけです。
 そして牧羊犬が最も力を発揮するのが、夜だというのです。砂漠の夜は様相がわり、昼間とは全く異なります。夜になると羊も牧羊犬も寝てしまうのですが、夜になると起き上がる動物たちもいるのです。
 それが何かというと、猛獣たちです。羊を食べに来るのです。しかし牧羊犬は、夜中に猛獣が来た時に、いち早く起き上がって、猛獣に飛びかかって、追い払う役割だというのです。
 そのために、牧羊犬って、砂漠の知恵ですよね、羊飼いによって耳の先端が切り落とされています。犬の耳って、普通はとんがっているじゃないですか。それを羊飼いが、耳の先端部分をちょん切っているのです。それで牧羊犬たちは台形の耳をしています。そうすると、耳に傷があるでしょう。昼間は無茶苦茶暑くて、傷がじりじり痛むし、夜になると、ものすごく冷え込むものだから、もっと痛いのです。だから、牧羊犬は熟睡できないというのです。眠りが浅く、かすかな風の動きと共に忍び寄る猛獣の臭いをかぎ分けて、ばーっと飛び出して猛獣をやっつけるというわけです。
 私たち、牧師とかスタッフたちは、犬と同じです。牧羊犬みたいなものです。敵に対して耳を切られた存在になりたいと、いつも願っています。
 だから是非とも、牧師たちやスタッフたちのために祈ってください。犬として役割を果たすことができるように。臭いを事前にかぎ分けて、敵に対して立ち向かうことができるように、祈っていただきたいと思います。

 もう時間がなくなってしまいましたが、五番目にあげられている守りは、天の軍勢による守りです。天の軍勢は、私たちの所に遣わされて、私たちを守ると聖書は告げています。詩篇九十一篇十一節、

『まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。』

 霊的戦いが始まった一九九二年の七月、以前の私は天の軍勢のことなど、全く意識していなかったけれど、その時、初めて、天の軍勢を意識しました。集会に天の軍勢が来ている!と分かったのです。主が私たちのために、天の軍勢を派遣してくださるように祈れ!と、示され、祈るようになりました。
 今日も、みなさんの所に、強い天使たちが配備されて、お帰りになる時には、完璧な護衛と共に家に帰ることができますように。また、その天の軍勢がすべての現場に対応して、みなさんを守るように、主の御名によって祝福します!

 最後は、「霊的戦いによる守り」です。攻撃は最大の防御だ!とあるでしょう。エペソ人への手紙六章十節〜十二節には、こう書かれています。

『終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。』

 私たちの戦いは血肉の戦いではない!と、はっきり告げています。エペソ人への手紙六章十三節〜十八節、

『ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。』

 武具をつけろ!と、言われました。今日、このような武具をつけてお帰り下さい。パウロがエペソ人への手紙を書いた当時に、こういう武具をつけた兵隊たちが回りにうろうろしていたのです。

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 「信仰的にもこういう武具を身につけないと、サタンに負けてしまうなぁ!」と感じたのでしょう。だから、ローマ軍の兵士たちが付けている武具、また持っている剣、盾、それになぞらえて、このように語ったということです。
 私たちが、武具に身を固めて、み言葉の剣を持って敵に立ち向かっていく時に、攻撃は最大の防御ですから、完璧な神様と一つとなって、完全な守りをいただくことができるということです。

 「主があなたの守りです!」・・・完全なる神が私たちを守ってくださいますが、私たちも主を意識しなければならない、人間側の要素があることをお話をさせていただきました。

一、油注ぎによる守り
二、み言葉による守り
三、とりなしの祈りによる守り
四、牧者による守り
五、天の軍勢による守り
六、霊的戦いによる守り

 今日、語ったところを意識して、主からの完璧な守りを受け取りましょう。
 今から聖餐式を行いたいと思いますが、聖餐式は、血潮による守りです。イエス様と一つになって完全な守りをいただいて、一週間を始めたいと思います。今週一週間、完全な守りで生きることができますように!守りを意識して、聖餐式に移らせていただきたいと思います。

 ハレルヤ。父なる神様、御名をあがめて心から感謝します。今日、主が私たちを守ってくださいます!というメッセージを語りました。今から聖餐式を行います。イエス様と一つになって、完全なる方と一つになって、完璧な守りの中で一週間を始めることができますように。今ここに置かれていますパンとぶどうのジュース、聖霊によって、み言葉によって、イエス様、あなたと一つになるひとときとしてください。今からの時、聖霊様の臨在の中で、聖餐式を持たせてください。主の御名により祈ります。アーメン。