『自由の律法を実行しよう』

2016年5月22日(日)
新城教会牧師 四元雅也
ヤコブの手紙1章25節

『ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。』

 ハレルヤ!こうして久しぶりに皆さんの前に立つことができ、心から感謝します。先週くらいから、地域によっては真夏日を迎えるような陽気になってきて、みなさんも暑い中を過ごしておられると思います。教会の中では先日、順先生が口火を切ってクールビズになりまして、その日に僕が背広を着ていたので、変なマッチングになってしまいまして、僕のほうがメッセンジャーのような感じになって、ちょっとバツの悪い思いをしたわけですけれども、今日は、私もクールビズでみなさんの前に立たせていただきました。

 今、ヘブンリーキングダムの賛美も、すばらしくて、「神の栄光を全地に輝かせてください!神の栄光で私たちを満たしてください!」と、私たちの日々の祈り、それを賛美にして、力強く歌ってくださって、励まされました。

 今日は、「自由の律法を実行しよう」ということで、みなさんと一緒にみ言葉を学んでいきたいと思います。

 その前に、順牧師は先週から訪米しておりまして、ロン・ブラウンさんと再会されています。

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 ジョー先生も来てくださって、これはロンさんの自宅でしょうか。親しく交わりをすることができたそうです。ロンさんは、昨年の十二月で、滝元明ミニストリーや全日本リバイバルミッションでも、日本での奉仕には、一つ区切りをつけられました。ロンさんのおかげで、日本における主の働きが大きく前進したわけですが、今はご病気の療養中ということであります。そういう中でお会いしたので、日本からも、奇跡が起こるようにお祈りをさせていただきました。でも、元気そうな感じで写真に写っていますので、本当に感謝します。

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 それから、もう一枚の写真、これはリオネシアさんという方ですが、三年前に豊橋でヘブンリーキングダムがコンサートをやった時に、この方が来てくださって、美しい歌を歌ってくださいました。また二〇一四年にも来てコンサートをしてくださったのですが、昨年の六月に大きな交通事故に遭って、一時は命が危ないと言われた中で、教会としても真剣に祈ったのですが、今回、順先生がアメリカを訪れた時に、このように元気な姿で、集会の中で美しい賛美を響かせてくださっていたそうです。感謝だなぁと思っております。

 話は変わるのですが、すでに一ヶ月くらい前の話なのですが、四月二十九日に、新城教会の遠足がありました。教会からも六十名、七十名くらいの方々が参加してくださったと思うのですが、その時には、地引き網をしよう!と楽しみにしていました。しかし、先日、順先生がここで報告されていましたように、あれは天候に左右されるイベントでして、遠足前日に業者から連絡が入り、風が強いということで地引き網をあきらめざるを得なくなりました。僕らも「地引き網をやるんだ!」と意気込んで祈っていたので、駄目だった時のプランを全然考えておらず、前日にダメと聞いてから大慌てで、どうしよう!となったのです。
遠足では、午前中のアクティビティー、昼食のバーベキュー、そして午後の青空賛美集会、という三本柱を一挙に叶えてくれる場所を選定しており、それが前日になって、一から探し直し、という羽目になってしまいましたが、探してもなかなか三拍子そろう場所というのはないんですね。しかも何十名単位を受け入れ可能で、賛美集会ではバンドや音響設備も出して歌いたいという希望もあったので、前日ということもあって、あちこち断られたりしながら、最終的に伊良湖でイチゴ狩り、ということになりました。
 そして、当日、現地に向かいました。

午前中、地引き網は狩りですけれども、イチゴ狩りも一応狩りです。随分趣向の違う狩りですけれども、これは楽しくできました。
 でも、昼になって、バーベキュー会場に行きましたら、「風が強い」ことは言われていたのですが、本当に台風のような強風吹きすさぶ中、バーベキューをする事になりました。お皿に野菜を盛っても吹っ飛んでいくし、お肉も吹っ飛んでいくし、お肉をちょっと放っておくと、水分が吹っ飛んでぱさぱさになってしまい、そこでお手伝いをしている人も、食べる人も、和やかに食事をしましょうなんて余裕はなく、必死でとにかくお皿ごと飛ばされる前に口に入れ、ひたすら食べるという感じでした。それもサバイバルな狩りっぽい感じで良いといえば良いのかもしれませんが。
 そして、その後の賛美集会。食事会場の近くで楽器や音響設備出して賛美しようと思っていたのですが、とてもじゃないけどそんな状況ではないということで、風のないような場所を探しながら移動していったわけですが、結局適当な場所が見つからずに、海岸で強風の中、砂が顔にバチバチ当たって口の中にも入るような過酷な状況下で、トラックに積んでいった音響機材を出すこともせず、ギター一本でみんな必死に賛美をしました。
とにかく賛美!と、無理矢理やった感じでした。そういう形で遠足の一日が終わりました。

 その次の日でしょうか。礼拝で、「新城教会史上、最悪の遠足でした。」と、順先生がおっしゃっていたのですが、まさにそうでした。
僕は主催者側の人間なので、落ち込みました。みなさんに来ていただいたはいいけど、楽しむどころではない。無事に生きて帰れたことだけが感謝だった、というような遠足でしたので申し訳なく思いました。風の強い日に風の強い場所である伊良湖に出かけてしまったことも甘かった。
ただ、そういう中で、一つだけ自分の心に残る感謝なことがありました。
 それは何かというと、「あぁ、やっぱりクリスチャンっていいなぁ!」と思うことだったのですが、行かれていた方たちは、まさにいるだけで過酷な状況だったのですが、愚痴を言うわけでもなく、子どもさんやお年寄りとか、何か月という赤ちゃんまで参加していたわけですが、いたわりあって、この天気を恨むわけでもなく、主催者側である我々に文句を言うわけでもなく、一生懸命、その時間を過ごしておられるのです。
 そして、帰る時に、僕は「みなさん大変でした。本当に申し訳なかったです。」という気持ちであったわけですが、「いや〜、本当に良い経験をさせていただきました。」とか、何人かの方がそうおっしゃいました。それで僕は慰められまして、「いや〜、クリスチャンはいいな〜。」と思わされました。それが、今回の過酷な遠足の中で一番心に残った出来事でありました。

 私たちが神様にある人生を歩んで行く時に、行く先々で、様々な問題から守られて、そして神様の祝福の中に支えられて導かれて、前に進んで行くことができる。これは素晴らしいことで、私たちが神様に持っている一つの信頼であるわけですが、時々、当初の計画が変更を余儀なくされて、変更して進んで行った所に、いろんな問題や困難が待ち構えていた!というような、思いもよらない出来事にぶち当たることが人生の中に時にはあるのです。
 でも、今回、遠足に参加して感じたことは、そういう中であったからこそ、兄弟姉妹っていいなぁ!とか、クリスチャンっていいなぁ!という特別な恵みを感じることができたように、みなさん一人一人、違った人生を歩んでおらますが、もちろん全部うまくいくことも素晴らしいですし、大抵はそのように神様が導いてくださるのですが、時に史上最悪の出来事が起きたとしても、後になって「良かったなぁ。あれがあったからこの恵みを感じられるんだなぁ。」と、違う恵みを感じることができることも覚えて、神様の前に信頼を強く持って前に進んでいきたいと思います。
 あれからもう一ヶ月近くになるので、何を今さらと思われるかもしれないのですが、この機会に証しさせていただきました。

 ヤコブ書というのは、そのようなクリスチャンの「行い」に重点を置いて書かれた、そういう書簡です。クリスチャンの実践的な信仰を薦める。信じる人はどのように行っていくべきか、行動に表していくべきかと教えているのです。
 ヤコブ書の中を見ていきますと、「行いがなければ、信仰だけでは駄目だ」ということが書かれています。それは二章に出て来るわけですが、そこでこのヤコブの手紙が、歴史の中で、教会によって、聖書の中に加えていいものかどうかという議論が巻き起こったくらい、いわく付きの書巻であったりするのです。「行いのない信仰は死んだものだ」と、そういうことを書くのは、信仰義認を重んじ、信仰によってのみ救われる、というキリスト教の教えと、ある意味で相反するものではないか、ということが議論された時代があったのです。

 特にパウロが書いた書簡、ガラテヤ書とかローマ書には、「信じるだけで救われます。」ということが強調されて書かれている書物であります。ローマ人への手紙三章二十八節を見ますと、

『人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。』

と、「行いによるのではない」という事が、はっきりと書かれています。対してヤコブ書二章二十四節は、

『人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。』

と、全く反対の文章が書かれているのです。
 こういう一見、矛盾することが、ヤコブがパウロの語る救いに反対意見を持っていたんじゃないかと思われた、そういう時代もありました。

 十六世紀の宗教改革者でマルチン・ルターという人がいます。「九十五箇条の論題」を発表しました。現代プロテスタント教会の、ある意味で「産みの親」と言われるような人なのですが、この人も「信仰義認」を彼の論理の柱として、当時のカトリック教会に対して挑んでいきました。
彼は、ヤコブの手紙のことを「藁の書」と呼びました。藁の書というのは、「ページを破って火の種にするくらいしか用がない。それくらいの存在価値しかない。」と言ったのです。でも、ちょうどヤコブ書とガラテヤ書、ローマ書の一見矛盾するような論理が、実は矛盾するものではないということを、先週、山崎ランサム先生が神学カフェで語っておられました。
 山崎先生がそこでおっしゃってのは、一見矛盾するような二つの節が、聖書の信仰の本質を私たちが理解するカギになる、とおっしゃっていました。
 パウロとヤコブは「信仰」という言葉を、それぞれ別の意味で用いているのです。ヤコブの言う「信仰」とは、聖書の言葉をただ頭だけで理解し、「ふんふん。そうだな。」と、ただ同意しても、その後の人生に影響をもたらさない、その人の人生に何の変化も生じさせない、ただの頭の理解だけの信仰。そういった「頭だけの信仰」を表現したのです。
 パウロのいう「信仰」は、「行いも含めた全人格的な信仰」です。神様に忠実に従う姿勢を表していくことを、パウロが言う「行いによるのではない信仰」という、その「信仰」のなかに「含まれる」とおっしゃっていました。
どうしてそういうことができるか、というと、ローマ書の中でもそうなのですが、特にガラテヤ書の例で言いますと、ガラテヤ書では、二章や三章に、今言ったように「行いによるのではない。律法によるのではない。信じるだけで救われる!」と論じるのですが、同じガラテヤ書を読み進んでいくと、五章、六章では、彼は「行い」についての教えを語り始めるのです。御霊の実についても行いを現す言葉が含まれています。私たちが与えられている自由を通して、義の奴隷として神の前に生きて行く、ということをパウロは述べています。
これは、ヤコブの手紙の中で言われている「行いのともなった信仰」と同様のなのです。
 一節だけを読んで、その言葉を平べったく理解するということではなく、聖書全体の中で、パウロなりヤコブが述べている「信仰」というものをまとめて考えていく時に、私たちの信じる信仰とは、私たちが受け入れて、私たちの生活に行いとなって現れていく、そうなるものであると、見ることができます。
 それを山崎先生は、すなわち、「イエス・キリストの人格に忠実に生きること。」とまとめておられました。イエス様が生きて歩まれたように、我々もイエス様のマネをして歩んで行く、ということに集約されてくると述べておられました。パウロとヤコブの両者に矛盾はない、ということなんですね。

 話は変わるのですが、最近、一つの本を読みました。それは日本の宗教、あるいは世界の宗教について述べている本で、その本が言うには、日本の宗教人口が年々減少している、そういったデータが出ているそうです。
これは、毎年、文化庁が発表しています、「宗教年鑑」という、日本の宗教に関する調査をまとめた資料があるのですが、毎年出されています。

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 この資料で、各宗教団体が発表している「信者数」が分かります。それは宗教団体が発表しているものをそのまま載せており、客観的に第三者が調べたものではないので、本当の数字かどうかは、結構怪しいところがあるわけです。どの宗教も「自分たちは頑張って教勢も伸びているよ!」とアピールしたいので、ちょっと盛ってみたりとか、そういうこともあるかもしれない。
 それにもかかわらず、平成二年当時から現在までの四半世紀を見ると、ほとんどの宗教で減少しているというのです。それも、微減ではなく、数十パーセント単位。この二十五年間に、ある宗教は半数に、ある宗教は三十パーセント、というレベルで右肩下がり、かなりの減少を見ているというのです。その中には、有名なところでいうと、天理教・立正佼成会・成長の家とか、霊友会とか、幸福の科学、そういう新興宗教と呼ばれるような宗教であり、日本最大の信徒数を誇ると言われている創価学会でさえ、信者数は実減していると言われています。現世利益を謳って、戦後の高度成長期に信者数をぐーっと、それらの宗教は伸ばしていったんですが、今、そういった信仰のあり方、繁栄を与える神という、そういう信仰のあり方が行き詰まりを見せている、というわけです。
 既存宗教の神道とか仏教も、傾向としては同じだそうです。日本人の宗教観を調べると、多くの方は「自分は無宗教だ」と言います。日本人が言う「無宗教」とは、実は無宗教ではなかったりするのです。初詣には行く、盆とか彼岸の時にはお墓参りに行く、とかです。そうしながら、それに対し宗教をやっている、という考えを持っていない人が、日本には大勢おられるわけなんです。
 だから、例えば、巡礼をしたりとか、行を積んだり、また日常的な礼拝行為というところに及んでまで、神仏に頼って生きているという人は、少なかったりします。ただ、そういう形だけの無宗教を謳う方たちも減少している、というのが今の日本の現実です。

 それは、日本だけの減少ではなく、世界中に見られる減少でもある、世界的なうねりだというのです。

 イスラムは、第三世界で、主たる宗教というか、多くの信者を抱えている宗教で、一見増加しているように見えます。今、二〇一〇年くらいの統計だと、キリスト教が世界で、カトリック、プロテスタント、いろいろ合わせて、二十数億人だと言われていました。そして、イスラムは十数億人だと言われていました。
 それが、ある資料だと、二〇五〇年くらいに、またある資料だと、二〇七〇年くらいに、他の資料だと、二〇三〇年くらいという資料があるのですが、信者の人口が逆転するのではないかと言われています。そのくらい、イスラムが増加傾向にあるという見方が、データの中で見られているということなのです。
 それはなぜかというと、イスラム教が台頭している国々というのは、わりあい、他の国々と比較すると、多産系だということなのです。人口が増加しているような国にイスラム教が多いということなのです。
また、イスラム教の宗教のあり方にも関係しています。イスラム教にはイスラム法という法律があり、その中では、信者は信仰を親から子へ、孫へ、というふうに受け継ぐことが義務化されています。他宗教への改宗も認められない。異教徒との結婚も認められない。また、子どもを人工中絶することも認められない。そしてイスラム法では、違反した者を、通常の法律と同じように犯罪者とみなし、厳格な処罰がおこなわれる。最悪死刑にもなったりします。そういうことがあって、ある意味で、信者はぎゅっとイスラム法に抱え込まれて、身動きできない状態でイスラム教徒たちは生きているのです。
 そんな中、自然増加、子どもが生まれて、イスラム教は増えているというのです。
 しかし、多くの厳格なイスラムの国では、人々がそのような教えを離れて、ある人は母国を捨てて、西欧諸国に流出する人たちが増えています。
 また多くのイスラムの国は、国家が経済優先政策をとり、イスラム教が世俗化の道を進んでいる国々もあります。西欧社会の宗教離れと同様、信者たちの世俗化、あるいはイスラム離れが進んでいるということなのです。
 だからこの見た目上の増加現象の影で、グローバルな経済の影響を受けながら、徐々に勢いを失いつつあるわけです。

 キリスト教はどうかというと、アフリカやアジアの一部の国々で、我々と同じような福音派のプロテスタントが伸びています。そういうふうに大きく信徒数を増加させる国がある一方、「キリスト教国」と呼ばれていたような西欧諸国、いわゆる欧米の国々では、今言ったイスラムと同じように「世俗化」がどんどん広まって、「無宗教」に鞍替えする人たちが増えているのです。カトリック、プロテスタント共、信者数が減少の一途を辿っているのです。
 エホバの証人とか、統一教会、モルモン教とか、キリスト教という顔をしながらキリスト教ではない、我々からすると「異端」のグループも同様です。
ということは、今、世界規模で、宗教を問わずに、神を信じる人が減少する現象が起きています。
 それは、日本の場合、「宗教年鑑」にはっきりと数値になって表れています。どこの宗教だって、「信徒が減りましたよ。」なんて出したくないのですが、数十パーセントレベルで、そういった数字を発表しているのです。

 それはなぜか?最も大きな原因として考えられるのが、やはり国境を越えて巨大化している「経済」と言うことができるかもしれません。世界がこぞって豊かになろうとする時、資本主義の中に宗教がのみ込まれていくのです。

 我々が社会の現象を見ても感じると思うのですが、現代人はある意味で、神様に対して、宗教的な捉え方をしているというよりは、何か便利グッズ的といいますか、コンビニのような感覚で、必要な時に行って、必要な時に取り出して、人生にあてがっていく、必要な時にちょっと顔を見せて、自分の必要な物だけ取って、「あとは知らない。あとは無宗教です。」というような考え方を持っている、コンビニエンスストアとか、インターネットでいったらポータルサイトのような、なんでも情報をここから引っ張り出すことができますよ、という、そういった感覚で宗教心を持ち、神様と親密で人格的な交わりをするような、宗教的な価値感は、多くの人に嫌煙されているのです。
 言い換えれば、現代人というのは、信仰者としての生き方を選んでいくのに反論している、いや、拒絶しているように見受けられるのです。

 順先生が最近、この講壇の上でもお話しされている中で、教会の中に伝道会をやる教会が少なくなってきていると、そういう現実があるそうです。
 今、四十七都道府県がリバイバルミッションで行われて、今週もこの中部地区で始まっていきますが、そういう世相の中ですので、この集会のために、我々はぜひ、祈っていかなくてはいけません。
 このためには新城教会でも独自のプログラムで四十七日間、連鎖断食祈祷をさせていただきまして、多くの方に賛同していただいて、先日無事に四十七日間、断食祈祷が終わったのですが、十一月までは集会が続いて行くので、ぜひみなさんにも祈り続けていただきたいと思います。
 終わってからも、「私は続けて祈っております。」と、僕に報告してくださる方が何人もいらっしゃって、すごいなぁと思わされました。「もう一回連鎖断食祈祷やりませんか?」とおっしゃる方もおられます。個々によかったら断食して、この集会を通して、神様の福音が本当に大きく光輝くように祈っていただきたいと思います。

 教会が、宣教ができなくなって、目を身内を守っていくということだけに向けて、活動が内向きになっていったら、やっぱり教会は、他の宗教と同じように、下降線をたどっていく運命になるのではないかと思います。
 そういう意味で、今回の巡回リバイバルミッションは、日本という大きな枠組みで、キリスト教会のカンフル剤のような役割を果たすような、そういう働きであるかもしれないです。そのような役割を与えられているのかもしれません。そのために用いられて、教会での伝道活動が全国的に活発にされていくように、祈らなくてはいけないのではないかと思います。

 聖書の中で、ある律法学者がイエス様に、「最も大切な律法とは何ですか?」と言った時に、イエス様は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」と、仰せになられました。これも実行することで初めて成就する律法なのですが、初めにお読みしたヤコブの手紙一章二十五節に、

『ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。』

と、書いてありますが、ここで「完全な律法」とか、「自由の律法」と書かれているのは、なんだろうかと考えると、神様が人間を創造して以来、変わることなく連綿と私たちの心の中に刻み込まれている、ある意味で黄金律と呼ばれるような、この言葉に集約される信仰の歩みを我々一人一人が心に留めて実践するため、努力できたらいいなと思います。

 話は変わるのですが、またゴールデンウィーク中の話ですが、二十四時間連鎖賛美がありました。この中で、たまたまここ数回、私もソングリードさせていただく時間を任されています。
私は、家庭集会に行ったり、礼拝でもソングリードをさせていただくので、そのためにギターを覚えたのですが、正直上手ではありません。
 普段は、礼拝でも家庭集会でも、弾いても三十分くらいですが、今回の連鎖賛美では、一時間半、普段の三倍の時間やるように命じられたわけです。しかも、早朝五時から六時半という、一番人数が少なくなる時間帯で、その時間帯は伴奏もなく、コーラスの人もおらず、ギター一本で一人でやるということでした。僕もギターを三十分くらい弾くと、指が痛くなって音が出なくなったりするのに、一時間半と言われて、初めの頃は、「何!このシフトは?!」という感じでした。果たしてできるだろうか、と、はっきり言って、ブツブツ言っていました。言ってもしょうがないのに。替えてもらえるわけじゃないし。本当に悪い態度だったのです。
 そして、その時間帯なので、参加している人たちも十人くらい。そしてその中の何人かは、夜通しずっと賛美をし続けて、なんかちょっとテンションが高いぞ!妙にはじけてるぞ?みたいな方がいて、他では、椅子にもたれかかって泥のように眠っておられる方もいる、という特殊な中で、賛美がなされていくのです。
 そして、その時間のテーマは、ザワメキのCDの八、九、十を、ただ順番にずーっと歌い続ける。みなさんも想像してみてくださいね。
 僕はといえば、そんな態度で、初めからテンションも上がることもなく、なるべく疲れないようにギターを省エネ奏法で歌い始めて、朝早くて声もよく出ない、会場はテンションが高かったり低かったりして独特な雰囲気の中、ギター一本下手に弾きながら、とにかく一時間半、しゃべりもなく祈りもなく、淡々と曲を順番に歌っていくという、そういう絵面なのです。大変だなって思ってもらえましたか?
 結論から言いますと、それにもかかわらず大変恵まれました。不思議だなぁと思うのですが、なぜそういう中で、自分が恵まれるのか。人間的なコンディションとは無関係に、時間と共に声に力が出て来るし、ギター弾くのもだんだんと苦にならなくなるし、身体も楽になって、心も徐々に神様に向いていくというような、楽しくて、それこそ、遠足の話じゃないですが、僕はここで良い経験をさせていただきました。人間的には恵まれるはずもない環境の中で恵まれる。ギター一本で長く賛美するということを、普段僕はしないのですが、長い時間やるのもいいもんだなぁ、と感じました。感謝な時でありました。

 賛美というものには、やはり、人間的な世の楽しみとか、そういったものでは味わえない、喜びとか恵みが確かにあると思います。神様を信じて生きていくという、クリスチャンの本質的な部分が、そういう賛美を捧げて行く時に体験として私たちに与えられるのかなぁと思います。

 その二十四時間PPHが終わった日ですが、僕はインターナショナル部会の兄弟姉妹と一緒に、ある集会に出かけました。それは、リバイバルミッションとは別の、やはり超教派の賛美集会でした。そこで、新城教会のインターナショナル礼拝の賛美チームが出場して、二十分くらい賛美させていただくために行きました。
 その集会は、四時間くらいの集まりだったと思うのですが、正直にいうと大変疲れる集会でした。なぜ疲れたかというと、これは批判ではありませんが、そこで長い時間賛美を導いていた賛美チームが音楽的にすごくうるさかったのです。みんなとにかく熱心に歌ってはいたのですが、何がそんなにうるさかったかといいますと、まず演奏するバンドのチューニングが合っていない。楽器はチューニングを合わせないと、聞こえてくる音が濁って気持ち悪い音になってしまいます。
 その上、一人の男性が賛美を導いたのですが、一生懸命歌っているのですが、こともあろうに伴奏のキーと違うキーで歌い始めたのです。何人かのコーラスの人がいて一緒に歌うのですが、なんとその方たちも、それぞれ違うキーなのです。聞いていて、どこに合わせていいのか分からない。歌いたくても歌えない、ゴーンとくる音圧に、ただたたずむ、何時間かそういった賛美が続いて、歌えない!聞くのも辛い!と過ごしました。
 それでも集会が終わるまでなんとか我慢して、終わって会場の外に出たのですが、その時に、一緒に行った兄弟姉妹たちも、「今日は疲れたね!」と、みんな「やっぱりそうだった?」という感じで励まし合いました。その時、「新城教会は賛美の音がいい!バンドがうまい!」「今日ほどそれを恵みとして実感した集会はなかった!」と言っておられました。みなさん、こういう中で思いっきり賛美して礼拝ができることは、神様の恵みです。機材もすばらしいし、楽器もすばらしい、演奏者もすばらしい。音だけではなくて、映像も、照明も、礼拝を組み立てている様々なパーツが良いハーモニーを奏でているのです。空調も効いている。これは当たり前ではなくて恵みなんだということを、その集会に出ながらしみじみ実感したわけです。

 でも、その一方で、ステージ上で歌っていた方たち、その方たちは、純粋な気持ちで、神様を賛美されていたと思います。
 とすれば、我々の評価と神様の評価というのは、必ずしも同じではないかもしれないと思います。聖書の中でも、大金を献金した金持ちよりも、レプタ銅貨二枚を神様の前に捧げた貧しいやもめの方にイエス様が目を留められて、その行いを称賛された記事があります。
その集会に行ったのは、僕が朝早くに賛美リードをした同じ日でした。そう考えると、かたや僕は眠い目をこすりながら、テンション低く、ブツブツ言いながら賛美をはじめて、一方で、キーは違うかもしれん。だけど、なんか一生懸命賛美をしていた。本当にどっちを神様は見られて称賛されるのかなぁということも、同時に考えさせられました。淡々と歌っていた僕の姿は神様にどう映ったの?ということです。

 ここにおられる皆さんの中でも、「賛美が好きだ!」という方は大勢おられると思います。もっと言うと、「祈りは五分でも苦しいけれども、賛美ならばいくらでも歌える!」という人も、もしかしたらいるかもしれないですよね。僕を筆頭にそうかもしれませんが。
 実際、歌うということは身体の健康にも良いですし、精神的にも良いですし、良い効果をもたらすわけですよね。言ってしまえば神様に心を向けなくても、漫然と歌うことだってできるわけです。一時間三十分の賛美。その前半部分の僕というのは、まさにそういう感じだったかもしれないです。

 今日のこのメッセージの結論は、クリスチャンのメッセージは信仰の実践があって、はじめて、神様の前で認められる。もっといえば、祝福される。ということです。
 持っているだけで不幸から守られる「お守り」的な信仰、中身のない信仰というのを我々は捨てなくてはいけない、というのが、今日のメッセージです。神様と人格的な交わりの中で御心を求めて生きるクリスチャンにお互いになっていきたいと思います。

 宗教人口がぐっと減って来ている中に、そういった、ある意味で自分に都合の良い、便利グッズのような形でしか神様を捉えていない、そして経済という大きなうねりの中に翻弄されて、追い求めなくていいものを追い求めて生きてしまっている、というのが現代人なわけです。
 そしてクリスチャンも、ともすると、そういう潮流の中で毒されて、神様に対する信仰が浅い、そういう信仰になってしまう、そういう恐れがあるのではないかと思います。

 神様の御心を知って、それを行っていく人生。それは、お気軽なイメージや、イージーな信仰、というものではないと思います。むしろ、神様と共に苦しみ忍耐しながら、他者のために働いていくとか、そういった所に本物のクリスチャンの人生があるのではないかと思います。
 聖書の中でも、アブラハムとかモーセとか、またヨシュアとかエレミヤとか、使徒パウロとかヨハネとか、そしてイエス様がそうですが、みんな苦難と忍耐の人でした。
 私たちの信仰の師であり、ある意味親でもある滝元明先生も、ある意味で東京で将来を約束された職に就いていながら、それを捨てて、苦しい郷里伝道に自ら進んで入って、幾多の苦難を乗り越えて働いて来られた方でした。

 これが、今日の私のメッセージですけれども、最後にヤコブの手紙の中で、行いの伴った信仰というテーマを結論付ける聖書箇所がありますので、それをお読みして終わりにしたいと思います。ヤコブの手紙四章四節〜十節、

『貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。それとも、「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる」という聖書のことばが、無意味だと思うのですか。しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。あなたがたは、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。』

 私たちはこの世を牛耳る悪に同化せず、神様の前にへりくだって仕えるという、ヤコブの手紙の冒頭で読んだみ言葉の中では、「自由の律法」と称している行いをともなう信仰、自分を捧げることを人生の中で行い通し、そして神様の栄光を現す。そういった者となっていけたらと思います。
 それは、時として、すべてうまくいくものではなく、逆風があり、また世に憎まれる、そういう道かもしれません。苦難と悲しみが降りかかってくる。そういう道であるかもしれない。だけど、私たちはそれにひるむことなく、すべてを益としてくださる神様を信じて、みんなで前進していきたいと思います。

 これで、メッセージを終わらせていただきます。

 最後に一言、お祈りしたいと思います。そして、今日私がお話ししたメッセージを思い返しながら、自分自身の信仰に照らし合わせ、私たち全員が神様の前にへりくだって、また神の御心を知り、信仰の道を歩んでいくことを、また罪があったら悔い改めて、神様が喜ばれる者となるように、自分自身を捧げていく祈りを、捧げていきたいと思います。
 一言お祈りさせていただきます。

 ハレルヤ。イエス様。み言葉で学んだように、我々が世の流れに従い、世と同化して生きるのではなく、私たちの人生を通して、神様との人格的な交わりの中で与えられる恵みと喜び、祝福をこの世に現していく者となっていくことができるように助けてください。この世の惑わし、富の力、暮らし向きの自慢などの欲によって、人々が神の前から離れてしまっています。そのような現実の中に私たちが食い込んで、あなたの栄光を放っていく者となることができるように。お一人お一人の上に、今聖霊による導きと満たしを与えてくださいますように。イエス様の御名により、感謝して祈ります。アーメン。