『賛美はメッセージ』

2016年6月5日(日)
新城教会牧師 滝元開
マルコの福音書4章26節〜29節

『また言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実が入ります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」』

 感謝します。今日は、こうして賛美をもって主を礼拝できることを感謝します。今日の礼拝には、順先生がいらっしゃるのに、み言葉を取り次ぐ。こんなにやりにくいことはないのですが。どういうわけかよく分からないですが、感謝します。

 今日のメッセージのタイトルは、「賛美はメッセージ」というタイトルにさせていただきました。賛美そのものが私たち一人一人に対して、主が語ってくださるメッセージです。その事を信じて、賛美の中で励まされたり、力をいただいたり、また導かれたりします。今日は賛美を、主から受け取って帰っていただいて、それぞれ、みなさんの生活の中で、この一週間、生活に賛美にあふれていくことを願います。その賛美の中で主が語ってくださるメッセージに従っていく時に、主は大いなる業を表してくださると信じています。
 神の国というのは、人が種を蒔くようなものだと今もみ言葉を読みましたが、夜は寝て、朝は起きる。普通の営みであるわけですが、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どうしてか分からないけど、いつの間にか育っていくという、それが神の国だということなので、その神の国が現されるために、今週の日毎の営みの中に、みなさんの生活の中に、主への賛美が溢れることを願っています。

 「賛美はメッセージ」。これは、どうしてこういうタイトルにしたかというと、つい先日、授産所に行きました。毎週木曜日に授産所で集会があるのですが、そこに行って私は授産所の兄姉に言いました。「今度の日曜日、順先生がいるのにも関わらず、私がメッセージしなければならない。こんな大変な事態に陥ったので、みんな祈って!」と言ったら、そしたら、みんなが大丈夫だと言うのです。「何が大丈夫なの。祈ってよ。」と言ったら、「大丈夫だ。賛美はメッセージだ。」と、そう言われたのです。そうなのです、「賛美したら、みんながそれを受け取ってくれるから、だから心配しないでいい。」と言われたので、私は心配せずに、今日のタイトルにしたのです。この年もここまで主が導いてくださって、一歩一歩、主の導きの中で、いろんな場面々々に、主が賛美をお与えくださって、その賛美が私たちの中で力となって、そして導きとなったなぁということを、すごく強く感じています。
 今、四十七都道府県のリバイバルミッションが行われていますが、それに向けて「全てが生きるパート2」の賛美が与えられたことも本当に感謝しています。主がくださるのでなければ、何もできないので、ただ主を待ち望んでいたのですが、イエス様は真実なお方で、「すべてが生きるパート2」を与えてくださり、その賛美の中で、「全てが生きる!世界が生きる!」という、壮大なテーマを与えてくださっていることを感謝します。

 本題に行く前に、少しだけ、ご案内をさせていただきたいのですが、先々週、みなさんにこのチラシをお配りさせていただきました。「ザワメキの賛美で巡るイスラエルツアー!」是非ご参加いただければと思っています。十一月十七日から二十四日の八日間。三十名限定!ということで、早速申し込んでくださったみなさんがいらっしゃって、今のところ、十四名の方々が与えられています。
 二十六万八千円なんですが、これ、サーチャージ込みということで、実はすごく安いのです。普通の日本のキリスト教界のこういったツアーはだいたい十万くらい上なのですが、なんとか若い皆さんに行ってほしいと、もちろん昔若かった皆さんにも行ってくださって結構ですけれども、五つや四つ星の寝心地の良いベッドに寝るのではなくて、寝てしまえば一緒なので、星の数はなくてもいいので安いツアーをしたいとうい願いを聞き入れていただき、こういう値段が出ました。
 今回は、「賛美でイエス様の帰られる道を備えよう!」という、そんなタイトルになっていますので、イエス様が帰られる道を備えるための旅に一緒に出かけていただければと思います。
 六年前にザワメキの賛美で巡るイスラエルツアーがありました。本当に祝福されました。行く先々で賛美して、歌う歌もすべて、全曲、ザワメキを歌いました。ガリラヤ湖の岸辺に来たので、「ガリラヤ湖の岸にて〜♪」って、歌ってくださいと言われたのですが、「いや、今回はザワメキなので!」と、ひたすらザワメキを歌いました。でも、主は働いてくださいました。やはり、リバイバル!という願いの中で、あのイスラエルに行くというのは、すごく大きな意味のあることなんだなぁと本当に思っています。
 夕陽に輝くエルサレムというのは、黄金のエルサレムと言われるのですが、本当に綺麗なのです。私たちもその夕陽に輝くエルサレムを見ながら、さぁ賛美しよう!と、構えたのです。そして、さぁいよいよだな!と思った時に、私たちの後ろ側にアラブ人地区があって、そこに子どもたちがたくさんいたのです。私が、さぁこれから夕陽に輝くエルサレムを見よう!と思っていたのに、こっちの子どもたちが気になってしょうがなくて、ギターを抱えて後ろを向きました。そうしたら、二十人くらいの子どもたちが、わぁ〜と遊んでいるのです。だから、何気なくギターをこうやって「お〜い!」と言いながら歌い出したら、彼らはすごく喜んで手を振り出しました。二十メートルくらい下だったのですが、こうやって手を振って、私たちの歌を聴きだしたので、いろいろ歌ったら、彼らがリズムにのって楽しんでくれるのです。
 彼らはなかなか反応が良かったので、「オーイェイ!」という歌を歌いました。「オーイェイ!」と言ったら、『オーイェイ!』と向こうが歌うという。その歌をちょっと教えて、「オーイェイ!」『オーイェイ!』と言うのです。だから、これはしめた!と思って、アラブ人の彼らに、「イエス様を!」と言ったら、『イエス様を!』と言ったのです。「信じます!」と言ったら、『信じます!』と言うのです。「ハレルヤ!」と言ったら、『ハレルヤ!』と彼ら叫びました。最後には「イエス様を信じます!ハレルヤ!」と言って喜びを共にしました。結局夕陽に輝くエルサレムではなくて、主は、アラブ人の子どもたちに向かって歌うようにとおっしゃったのです。

 そのツアーの最後はカイザリアに行きました。カイザリアにあるローマの水道橋の前で歌いました。そのツアーが本当に祝福されたので感謝して歌いました。十一名のツアーだったのです。十一名とガイドさんと。そのツアーが終わり本当に感謝しながら、海を見つめながら歌い始めました。
 「夜明けの星」を最初に歌っていたのですが、歌っていたら、どこからともなく黒いスカートを履いた女学生たちがやってきて、賛美の中に入って来ました。そして、私たちが夜明けの星を歌っていたら、何と私たちの前で踊り出すのです。十一名歌っていたのですが、彼らが躍るので、一緒になんとなく踊り始めて、そうしたら、こうなったら今度はダンシングだと思って「Dancing!」と歌って、歌い出したら、彼らが本当に喜び躍り出しました。わーーっ!と踊りだして、どこからともなくどんどん来て、最終的に七十名くらいになったのです。みんなで輪になって、「Dancing! Dancing! Dancing!」と歌いました。
 後から聞いたら、その黒いスカートの女の子たちというのは、ユダヤ人のラビの最も厳格な家庭の子どもたち。だから普通じゃ絶対にありえない。だから、ガイドさんはその姿を見て、大丈夫かしら?と思ったらしいのですが、神様は賛美の中でイエス様が帰られるための道を備える働きを、こんなふうにしてくださるんだという感動のツアーでした。

 ということで、この十一月にありますので、主が「行きなさい!」と語られた方は、是非ご参加いただければと思います。

 そしてもう一つ。ネパールツアーのためにお祈りいただいていますが、今回、ネパールに三十四名の方が行くことになりました。一昨年から始まった「中高生をネパールに連れて行こう!」という順先生の無茶ぶりから始まって、それはありえない!と思い、私は中高生会担当なので、最初は順先生が言っても知らんぷりしていました。本当に。
 そうしたら、二年前のスプリングキャンプ出発前のバスに順先生が乗って来て、「おい、今からスプリングキャンプの祝福を祈ってやる!」と言って、「イエス様、祝福されますように。アーメン。」と言って、そして最後に言い残した言葉が、「あのな、今年の夏のキャンプはネパールだぞ!分かったか!」と、一言言って出て行かれたのです。それから中高生の中にボーンっと火が点いて、「ネパール!ネパール!」本当にあの大変な所に二度行きましたが、二度とも実は本当に大変でした。
 にも関わらず、三度目。もっと増えて三十四名。しかも「おじさん」というタイトルが付いているのです。今回、おじさんが行ってくださることになったのです。なんと心強いことか、本当に嬉しいのですが、神様がこの末の日のリバイバルのために備えてくださっている一歩一歩だなぁと、本当に思っています。是非覚えてお祈りください。
 今回、また岩井勝先生の医療チームが行かれます。またハワイから冬木先生も来られるのですが、冬木先生の娘さんが現役のナースなので、その方も参加して、そこで医療の働きもなされます。今回はそれだけではないのです。山の上の村の水質改善の働きもします。そのための装置も作ります。濾過装置というので、実は昨日、現地に行く前の実験として、この教会に作られまして、その写真があります。これが濾過装置です。

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 豊川から石と砂を拾って来て、水を巡回させて、今は泥水状態になっていますが、あれが一週間後には、本当に美味しい水に変わるのです。水道水よりも美味しい水に変わるという。鈴木剛さんがこれを作ってくださいました。剛さんは行かれないのですが、そのノウハウを伝授していただいて、今回、ネパールに先乗りした人たちが作っておくということをします。
 是非、覚えて祈ってください。

 それからもう一つ。教会塗装という働きをします。去年の写真が一枚あります。

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 これは山の上の小屋の教会で、あの中にも三十人くらいの人たちが入ることができるのですが、ここに二年間、その前から順先生は何度か行かれていますが、村のために祈って、重荷を持って、リバイバル!そして霊的戦いでサタンの力が打ち破られるように!という働きの中で、主が大きな祝福を与えてくださって、どんどん祝福が広がっているのです。その結果、何が起こったかというと、なんと教会が建ちました。

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 山の上に大きな教会。向こうの小屋と比べて、どれだけ大きいかとお分かりいただけるかと思いますが、このようにすばらしい神様の業が本当に進んでいることを、感謝します。
 そして今回、このために、私たち行って、何か残ることをしよう!ということで、水質改善の他に、このできたての教会をペンキで塗るという、そういったミッションがあります。実は、今回、そのおじさんの中の一人に、ペンキ塗りのプロが行きます。ですから、そのペンキ塗りのプロの指導のもとに教会塗装ということがなされるので、是非覚えてお祈りください。
 今、毎日、そのための準備をしています。準備は何しているかというと、毎晩、腕立て伏せをして、腹筋、背筋運動をして、毎晩汗をかいて準備していますが、霊的にも、肉体的にも、本当にあらゆる面において備えができるように。これもリバイバルの一歩一歩だと思っていますが、そうこうしているうちに、必ず神様の大きな業がなされると信じています。
 では「賛美はメッセージ」。本題に戻っていきたいと思いますが、主が一つ一つの働きのただ中で、賛美を与え、導いてくださっていることを心から感謝します。
 「すべてが生きるパート2」主がくださいました。イエス様が癒やしのみ業に対して、新しい領域をもう一度開かれて、そしてなおかつ私たちの思いよりもさらに大きなことを主はされているなぁと、すごく思うのです。そのことは、すでに礼拝の中でみ言葉が語られましたが、主の癒やしの川が流れ、その流れがどこに行くかというと、主の宮から流れた流れは、エルサレムから出て死海の方に流れていくのです。エルサレムの東から流れて行った水が、死海側に流れるのです。
 死海というのはご存じのように海抜マイナス四百十何メートルです。今ではマイナス四百二十八メートルになってるらしいですが、二〇五〇年には、死海は干上がるらしいです。塩分濃度がどんどん濃くなっていて、生物が生きることのできる状況ではないのです。
 そこに向かって、主の癒やしの川が流れていくと、なにが起こるかというと、その死海に多くの生物が生まれるようになるというのが、このみ言葉なのです。死海沿岸のエン・ゲディからエン・エグライムまで、そこが漁をする場所になる。普通、ありえないのです。本当にありえないのですが、神様が今回与えようとしておられる、「全てが生きる!世界が生きる!」という働きは、この終わりの時代のリバイバルのために、主はそのようなことをしようとされているんだなぁとすごく思います。詩篇百二十六篇四節〜六節に、こんな言葉があります。

『主よ。ネゲブの流れのように、私たちの繁栄を元どおりにしてください。涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。』

 『ネゲブの流れのように、私たちの繁栄を元どおりにしてください。』これはどういったことかというと、エルサレムなどの標高の高い所に降った雨がネゲブへの流れとなって、死海のほうに流れていくのですが、その流れというのは、「鉄砲水」だというのです。死海のほうは晴れていて、雨が降っていないのにもかかわらず、エルサレムのほうで雨が降ると、その雨が濁流となって、「ネゲブの流れ」となって激しく押し寄せて行って、その死海に大きな流れができる。それがネゲブの流れ、鉄砲水のような流れです。二十数年前にイスラエルに行った時に、その状況を目の当たりにしました。道が寸断されるようなことが起こりました。神様のされる事というのが、本当に激しい主の流れの業をしてくださいます。そのことを信じて、進んでいきたいと思います。

 私たちの日々の歩みは、やはりリバイバルを求め、そして、イエス様が帰ってこられる道を備えるという、その働きが私たちの日々の歩みだと思います。人とは何者でしょう。私たちの存在そのものの意味。どうして生きているのかというのは、やはりイエス様が帰られる道を備えるために、私たち一人一人がいるんだ!と、神様は本当に教えてくださっているんだと思うのですが、そんな中で主が、リバイバルのために、いろんな流れを出してくださる中で、四月一日朝に、私は一つのみ言葉が与えられました。そのみ言葉は、どういったみ言葉かというと、ヨハネの福音書一章五十一節、

『そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」』

 このみ言葉が与えられました。天が開かれて、人の子の前を天の御使いが上り下りするのを見る。神様がしようとしておられるリバイバルというのは、私たちの日々の生活の中に、天の軍勢が上り下りするような主の業を私たちの中に現そうというのが、これからのリバイバルだと思っています。
 今日も、「天が開けて」という賛美をしましたが、私たちの日々の生活が、天が開かれて、主の業が為される。その業がもっともっと現されていったらいいと思います。

 何週間か前のシオンタイムだったのですが、私が担当させていただいて、私の隣に私の母がいて、神学校の小講義室で行いました。テーブルを囲んで賛美していたのですが、その場所では、毎週中高生の祈祷会ユースプレイヤーもしていて、楽しく歌っているのですが、中高生はだいたい時間通り集まらないのです。でも、シオンタイムのみなさんは三十分前くらいからいらっしゃるのです。中高生はだいたい歌っていると後から後から入って来るのです。
 中高生の中で、一人よく遅れてその部屋に入ってくる兄少年がいます。そーっと扉を開ける子がいるのですが、でも、彼はまた閉めるのです。すぐに入ろうとしないのです。そーっと開けて、閉めて、そーっと開けて閉めて、そしてそのうちに入って来て、そっと座る、そんな子がいるのですが、そのシオンタイムの時には全員いらっしゃったのですが、歌っていたら、なんか扉から、そーっと入って来られる感覚を受けたのです。「えっ?イエス様って?」そんな不思議な気持ちになりました。その少年ではなく、イエス様がそっと入って来られて、そのシオンタイムの中で、一緒にこうやって座ってくださって、おじいちゃんおばあちゃんに触れておられるような、それをすごく感じました。天が開かれる!って、こういう感じかなと、すごく思いました。天が開かれて、私たちの所に来てくださって、私たちの必要を満たしてくださる。そのことがこれからどんどん起こされていくのかなと思っています。
 リバイバルというのは、この地にサタンによってかけられている覆いを取りのくためのものです。そのために私たちは賛美して、祈って戦っています。そうすると天が開かれて主の業が現わされるのです。そして、そこには主のご臨在が現されていくのです。そんなことが、これからは私たちの日々の歩みの中で、はっ!と気づいたら主がそこにいらっしゃる!ということを体験していけたらいいなと思います。

 ザワメキで、ある一つの教会に行きました。小さな教会だったのですが、力いっぱい賛美して、賛美の中ですごく神様が働いてくださって、すごく祝福されたのです。そうしたら、そこの教会の牧師先生が、最後にこうおっしゃいました。「いや〜、良かった!エマオのようだった。」と、そうおっしゃったのです。エマオというのは、イエス様がよみがえられた後に、エマオの途上で、二人の弟子と共にエマオに向かって、そして宿屋に着いて、イエス様がパンを裂かれると、イエス様の姿が見えなくなるという、そのシーンですが、その時に、弟子たちが言った言葉が、こうなのです。「道々、話し合ってくる時も、私たちの心はうちに燃えていたではないか!」、その「燃えていたではないか!」という言葉を先生が表現するために、「エマオのようだった。」と、そうおっしゃってくださって、天が開かれて、私たちと共にイエス様がいてくださる時に、エマオのように心が燃えるという働きが、これからもっとなされていくのではないかと思います。
 日々の生活、いろんな大変なことがあって、苦しかったり、問題があったり、本当に戦いがあって、もうどうにもならない!と思ってしまうことって、たくさんあると思うのですが、イエス様はどのような中にも共にいてくださって、シオンタイムのおじいちゃん、おばあちゃんたちと共に座ってくださり、また私たちの心にほっと火をつけてくださるお方が共にいてくださるので、その方を見上げて進んで行きたいと思っています。

 今年、いろんな教会をめぐる中で、多くの教会で歌ってくださっていたザワメキの歌がありました。その歌は何かというと、東京ミッションのテーマ曲の「光のある間に」でした。ザワメキが来るからということで、私たちの前に歌いますと言ってくださる歌が結構「光のある間に」が多かったのです。
 でも、その中で、同じ台詞を結構何回か聞いたのですが、「いや〜、誰も働くことのできない夜が来るというのが、もう遠くない。もう間もなくだ!というのを、今感じています。」と、そのことを、いろんな方がおっしゃってくださる姿を見ました。一九九八年に、「東京にリバイバルを。崩壊ではなくて、主の救いを!」ということで、歌って祈って叫んだのですが、主はもう一度、この光のある間に、私たちは福音を伝えるべき時が来ていると語られているように思っています。ヨハネの福音書九章四節、

『わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。』

となっています。誰も働くことのできない夜が来る。何気なくみなさんで賛美していますが、でも本当に誰も働くことができずに、福音の扉がバシッ!と閉じてしまう時が近づいているのです。あのノアの日の洪水の時に、民衆が、私たちを入れてくれ!と、ノアの箱船の戸を叩いても誰も入れられなかったのと同じように、救いの扉が閉じられてしまうのです。誰も働くことのできない夜が来るわけなので、私たちに与えられたそれぞれの機会を通して、イエス様を宣べ伝えるということを、私たちはさせていただかなければいけないなぁということを、私たちは思っています。

 そんな日本のいろんな教会を巡る中で、もう一つ、すごく印象に残ったことは、七十才前後の牧師先生方のメッセージを聞く機会が与えられて、そういった先生方、それも日本の別々の所なのですが、同じことをおっしゃっていたのです。「もう間もなく、イエス様が帰って来られるけれども、今までは牧師とか、教会のスタッフとか、そういった人たちがやってきたけど、もうこれからはすべての信徒が、一つとなって、イエス様のために捧げるべき時が来ているんです!」と、叫んでいるのです。少なくとも三人の先生が、同じことをおっしゃって、これは本当に、主の帰られる時って、私たちが思っているより長くないだろうな。
 そして、私たちクリスチャンとされた一人一人、イエス様によって選ばれた我ら一同一人一人が、本当にイエス様ご自身の光を輝かすために働くべき時が来ているなぁとすごく思っています。

 万座温泉にも家内と三ヶ月に一回ずつコンサートに行かせていただいているのですが、最初、その万座温泉からお電話いただいて、そこのオーナーの方がクリスチャンなのですが、私たちに依頼してくださった時に、こうおっしゃいました。「お客様の前のコンサートなので、いらっしゃっている皆様は九十九パーセント、クリスチャンではない。たまにクリスチャンの方が来られますが、九十九パーセント、クリスチャンではないので、そのお客様に向かって、『イエス様を信じなさい!悔い改めなさい!』それをやっちゃうと大変なことになるので、そういうことは直接言わないでください。」と言われました。「はい、分かりました。いろんな施設だったり、刑務所に行ったりする時の、そんな感じのコンサートをします。」ということで、そして私たちは万座温泉とも、深いお交わりをさせていただく中で、そのオーナーの人たちともいろんな交わりの中で、すごくそこが変わっていくことを感じました。
 そして、行く度に、クリスチャンでない方々が、その中で本当に触れられて、泣いてくださるのです。賛美の中で泣いてくださって、そしてそのコンサートのみならず、次の日のチャペルタイムにもわざわざ来て、「私は仏教徒だけど来た。」と言って、イエス様の福音をしっかりと聞いてくださる事が起こっています。
 そうしたら、前回行った時に、そのオーナーがこう言うのです。「万座温泉に来て、病を癒されるということがいっぱい起こる。癌が癒されたとか、膠原病が癒されたとか、普通ではありえない病気が癒される。これはみなさん、ここのお湯がいいと思っておられますけれども、そうじゃない。私たちがここで祈っているからだ。」と、おっしゃっておられました。本当に神様の力がそこで働いておられることをそこで感じたのですが、ただ今回、そのオーナーが言ったのが、「病が癒されてもどうにもならない。」と言うのです。それで「本当にイエス様を信じなかったら、病が癒されても、また年老いて結局亡くなっていくわけだから、永遠のいのちを持たなかったら、どうにもならない。だから、これからもっとストレートに福音を語ってください。」と、そうおっしゃいました。本当にイエス様の時が来てるんだな!と、すごく思いました。

 パウロが言った言葉が、エペソ書六章十九節〜二十節に書かれています。

『また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください。私は鎖につながれて、福音のために大使の役を果たしています。鎖につながれていても、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。』

 パウロが二回言っています。『福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください。』そしてまた、『鎖につながれていても、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。』同じことを二回言っているのですが、パウロがイエス・キリストの福音を伝えるという伝道者の代表のような人物ですが、その彼が、イエス様の福音を大胆に語れるように祈ってくださいと言っているのです。イエス・キリストこの名の他に救いはないわけで、イエス様を信じたら幸せになります。そして、御利益も与えられるかもしれない。でもただ、それじゃなくて、イエス様を信じなかったら、永遠のいのちを得ることはできない。イエス様を信じなかったら、永遠の裁き、地獄に行ってしまうという現実があるわけなので、私たちが本当にこの福音の奥義、イエス様を信じたら天国に行けて、永遠のいのちを持つことができる。罪から解放されるという、この福音を大胆に語ることができるように、祈り合っていかなければいけないのではないかなぁとすごく思います。
 お年寄りの施設に行って、コンサートをさせていただいたりするのですが、それ以来、やっぱりここで賛美して、「いや〜、良かったわ。心癒されたわ。」と、それだけじゃいけないと思うんですね。イエス様を信じて変わった!という、そのようなことが、本当にこれから起こされていかなかったらいけないなと思います。


 今日も「角笛を吹き鳴らせ」を歌いましたが、「主の勇士よ、今、目を覚ませ!」と歌の中で言っているのですが、イエス様は今、私たち一人一人に、「さぁ!角笛を吹き鳴らして主の業をなせ!」と語っておられることを感じています。
 先週ここで語られたみ言葉の中で、ヨベルの年というのは、角笛を吹き鳴らす時だとおっしゃっていましたが、今、本当に私たち一人ひとりが、角笛を吹き鳴らすべき時が来ていると思います。
 四月にある一つの教会でザワメキの集会をしました。その賛美の中で、その教会が私たちの前に賛美をしてくださって、そこで、「角笛を吹き鳴らせ」を歌ってくださいました。やっぱりザワメキを違う教会で熱く歌ってくださるとすごく嬉しいものです。そこの教会の牧師先生も七十過ぎなのですが、とってもお元気な方です。二十年ぶりくらいにお会いしたのですが、見た目はお歳取られた感じなのですが、雰囲気は全然、お歳取ってなくて、マイクはどういうマイクかというと、こうったハンドマイクではなくて、よくエアロビの先生が付けるようなマイクを付けておられて、そしてお話だけでなくて賛美のリードされるのです。「♪主の勇士よ〜!今、目を覚ませ!」と賛美をされるのですが、その先生はまた燃えておられて、一生懸命こうやって賛美をされていたのですが、「♪角笛を吹き鳴らせ!」と言ったら、おもむろに後ろを向いて何をするかと思ったら、角笛を持ち出して、会衆のみなさんに向かって、プーッと吹き出しました。
 そういう教会、よくあるんですね。角笛を吹いたり、旗を回して賛美される教会もありますね。以前、今やスーパースターのようなベーシスト滝元堅志君とザワメキの奉仕をしました。彼がステージ上でベースを弾いていたら、その教会の方が旗を振り回して、ステージの上に来て彼の頭をファーンファーンと旗をかすめるのです。彼は一生懸命弾き続けていましたが、いろんな教会があって、楽しい教会がたくさんあるのです。その教会、またプーッと吹いてくださるし、私は目が点になってしまいました。そして、「あっ、吹いてる、吹いてる」と思ったら、ただ、その先生の角笛には、なんかとても感動をしたのです。
 だから、その日のザワメキの集会の中でも、「最後にもう一度、角笛を吹き鳴らせを歌いましょう!」と言って、私たちが歌いました。すると、歌い出したら、また先生が一番後ろの座席からおもむろにステージ上に来られて、そして、角笛を手にして、またも私たちの前でプーッと吹き出したのです。角笛というのは音程が取れないので、私たちが音程Aのギターコードで歌う音程に対して、全く関係ないところで、プーッとやるので、なんかあれ?って感じに普通はなるのですが、その時は違ったのです。なんか、「吹き鳴らせ!吹き鳴らせ!」と、あちこちに向かって、その先生が、みんなに向かってこうやっているものだから、なんかすごく熱いものを私は感じて、イエス様が本当にすべての勇士に向かって、「今こそ、目を覚まして、角笛を吹き鳴らす時だ!」とおっしゃっている時だなぁということを、すごく強く感じております。士師記六章三十四節、

『主の霊がギデオンをおおったので、彼が角笛を吹き鳴らすと、アビエゼル人が集まって来て、彼に従った。』

と書かれていますので、私たちは本当に主に従って、角笛を吹き鳴らす者でありたいと思います。


 今年のゴールデンウィークの二十四時間PPHの時に、雅也先生がえらい目にあったと、先日のメッセージの中で言っておられましたが、仕掛け人は私でありまして、先生は知っているか知らないかわかりませんが、明け方一時間半歌う。それっくらいなんてことないかなと思ったので、私はシフトを組んだのですが、でもあの時、本当に恵まれました。
 私は夜中の時間の一時か二時くらいに来て、ここでまず一時間歌ったのです。そしてその次、明け方また来て、再び歌ったのですが、夜中一時に来たら、しおんタイムのおばあちゃんお二人が一番後ろで歌ってくださっていたのです。真夜中であるのにも関わらず。しかも、中学生、高校生、大学生の子たちが頑張って歌っているその中で、おばあちゃんたちが二人で、一番後ろの席で歌っておられて、いや〜元気なおばあちゃんたちがいるなぁと思って、私たちは見ていました。
 そして、私は自分の時間が終わって、申し訳ないですが、一旦家に帰って、二時間ちょっと寝て、再び戻って来たら、おばあちゃんたち、お二人、まだそこにおられるのです。結局、ずっと夜を徹して歌っておられて、いや〜すごいな〜、若者だけじゃなくて、お年寄りまで歌い出して、イエス様が何か始めておられるなぁということをすごく感じています。
 でも、主は、お年寄りから若者に至るまで、一人一人に対して、主が今、語っておられる時だと思いますよ。

 先日、教育館の二階に用事があって、行きました。そうしたら、二人の少年がそこで何かしているのです。誰もいない所で何かしていて、ちょうど私が上がって行ったら、「やった〜!!!!」と、躍っているのです。「良かった〜!!!」と、ハレルヤと言わんばかりに喜んでいたので、「何があったの?どうした??」と言ったら、「ゲームでステージが上に上がった!」と言って、大喜びしているのです。もう何事があったかなと思ったら、なんかゲームの中でステージが上がったとか言って、大喜びして、ハレルヤとまでは言ってなかったですが、だから、その時に私は言いました、「ゲームの世界の中には何の未来もないよ。」という話をしました。
 今、神様も働いていおられますが、逆になんか引き止めようという、サタンの策略もすごく感じるのです。多くの子どもたちがピコピコしていますが、最近では子どもたちだけでなくて、おじさんたちも結構やっているのです。先日ある教会の礼拝の中で結構まじめな顔をしてメッセージ聞いているのかと思ったら、なんとパズドラやっているのです。あれ、駄目ですよ。パズドラって知っていますか?いろんな神々の何かを取り入れるのです。神々もヨーロッパ系の神々から、中国系の神々から、日本系の神々から、いろんな神々との契約を結ぶというか、詳しい仕組みは知らないですが、そういった神々のキャラクターを呼び込むことによって、そうするとやっぱり、その神々とのつながりというのができるので、サタンもその人たちに働くことができるのではないかなと思うのです。
 だから、子どもたちからおじさんに至るまで、おじさんも含めて、やはり目を覚まさないといけない時が来ているのかなと本当に思います。だから、ゲームの世界でステージをクリアしても、私たちの人生の中では何もクリアしていないのです。クリアするどころか、悪しき束縛というのを受けてしまうという現実があるので、本当に主によって時が短いこの時に、私たち一人一人に、主がすでに用意してくださっている働きがあるので、本当に主にあって、目を覚まして、すべての世代が、角笛を吹き鳴らす、そのような時になればなぁと思っています。

 今日は、ちょっとシオンタイムの話がいくつか出るのですが、シオンタイムの中でみなさん本当に、すばらしい証しをしてくださるのです。だから、すごく恵まれるのです。私の母はだいたい私の横にいて、証しをするのですが、だいたい毎回のように、同じように語るみ言葉があるのです。そのみ言葉は何かというと、イザヤ書五十一章のみ言葉です。「『あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ。』と書かれている。本当に私は東京に生まれて…、」という話をします。大学の先生、教授までして、すべてを捨てて山の中に入って来たわけですが、「そして山の中に入って、主人と結婚して、最初は小さかったけれども、今はこんなに大きくなって、本当に祝福されています。『あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ。』その事をいつも思います。」と、必ずそうやって、そのみ言葉の証しをします。いや〜、そんなもんかなぁと思って、また同じことを言っているなぁと思って、ちょっと思いながら聞いていたのですが、でもそのみ言葉を読んで、本当に、私たち、切り出された岩、掘り出された穴を見なければいけないなぁと思いました。イザヤ書五十一章一節〜三節、

『義を追い求める者、主を尋ね求める者よ。わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ。あなたがたの父アブラハムと、あなたがたを産んだサラのことを考えてみよ。わたしが彼ひとりを呼び出し、わたしが彼を祝福し、彼の子孫をふやしたことを。まことに主はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰めて、その荒野をエデンのようにし、その砂漠を主の園のようにする。そこには楽しみと喜び、感謝と歌声とがある。』

 アブラハムに対して、与えた神様の祝福は、イスラエルの民全体に広がったのですが、その切り出された岩、掘り出された穴を見る時、廃墟をなぐさめて、荒野をエデンのように、砂漠を主の園のようにするというのです。やっぱり私たちも、切り出された岩、掘り出された穴というものを覚えなければいけないのではないかと思います。
 それぞれがイエス様と出会って、イエス様にある感動を持ったその時の熱い思いというものを持ち続けていかなければいけないと思います。

 ユダの手紙十八節〜二十一節に、こんな言葉があります。

『彼らはあなたがたにこう言いました。「終わりの時には、自分の不敬虔な欲望のままにふるまう、あざける者どもが現れる。」この人たちは、御霊を持たず、分裂を起こし、生まれつきのままの人間です。しかし、愛する人々よ。あなたがたは、自分の持っている最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げ、聖霊によって祈り、神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに至らせる、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。』

と、書かれていますけれども、『自分の持っている最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げ、』とあるので、もう一度、熱い自分燃え立たせるべき時が来ているのではと思っています。甲子園ミッションの時に、本当に熱く燃えて、その時、二十代、三十代の若者たちが集まって、すべてを捨てて、主のために、リバイバルのために!と励んだわけですが、イエス様が帰られるこの時に、もう一度、主が私たちに対する使命を与えてくださって、今、もう一度、目を覚まして、戦うべき時が着ているんじゃないかなぁということを、本当にすごく強く感じています。
 エリヤがバアルの預言者と戦った記事が、第一列王記に書かれていますが、その中で、エリアがバアルの預言者たちを前にして、民に向かって何と言ったかというと、「あなた方はいつまで、どっちつかずにいるのか。」と言うのです。「本当の神がバアルだったら、バアルに従えばいい。でも主が神だったら、この主である神に従いなさい。」と、すごくはっきり言ったのです。「いつまで、どっちつかずにいるのか。」
 私たちはリバイバルの戦いの中で、神様がここまで導いてくださって、私たち一人一人が選ばれて今ここにいる。私たちの存在そのものが主のために生きる!という、その現実を思う時に、やっぱり本当にこの終わりの時代、どっちつかずではなくて、徹底した信仰を持って、主にあって戦っていくべき時が来ているのかなぁとすごく強く、そのようなことを感じさせられています。
 エリヤが天からの火を持って答える神に祈る時に、三年六ヶ月雨も降らない大変な状況の中で、カルメル山の上で、水を注ぐのです。おびただしい水を、二度せよ!と言い、そしてさらに、三度せよ!と、三度するのです。それでも、主が神様だったら、ここに火を呼び下すことができる!と言って、「火を持って応える神、主よ、答えてください!」という時に、火を持って応えたことが書かれていますが、私たちも本当にそのような、エリヤが持ったような徹底した信仰を持って進んでいきたいと思っています。

 時間が来ているので、最後にしたいと思いますが、今日は「賛美はメッセージ」というタイトルで主が導いてくださっていますけれども、今日、歌った歌の中で、久しぶりに歌った歌があるのですが、「勝利、感謝、主に栄光」という歌を歌いました。あの歌は、ザワメキ五に入っているのですが、「勝利、感謝、主に栄光」、一つ一つの主の戦いを、イエス様にあって戦い抜いて、その戦いに勝利して、そして与えられた勝利の感謝を主への栄光として、主にお返しするという、そういう歌なのです。
 この歌は、ザワメキ五の時ですので、一九九五年くらいに与えられた歌なのですが、実はその歌が与えられて、私の父、明牧師がこう言いました。「これは、天国に行ってから歌う歌だな。」いや、そうではない。一つの戦いが終わって、そこで栄光をお返しして、それでまた進んで行けばいい!と、私はそう言ったのですが、そうしたらまたこう言うのです。「この歌はな、天国に行ってから歌う歌だ。」と言うのです。結構、そこは曲げなかったのです。でも、こっちも曲げなかったのですが。

 先週、ちょっと不思議なことがありました。ある人から、メールをいただきました。私にとっては、天国の父から来たメールのような、そんな気分だったのですが、「勝利、感謝、主に栄光を録音したので、これを聞いてください。」というメールでした。どこから来たメールかといったら、ブラジルからだったのです。その方は、もうすでに、六、七年前から、私に連絡があって、「勝利、感謝、主に栄光を、オーケストラで歌いたい。歌っていいですか?」とおっしゃって、「いいですよ。」と言って、それっきりでした。そうしたら、今から二、三ヶ月前にメールが来て、「歌いましたよ。」と来たので、「良かったですね。また聞かせてくださいね。」と言ってから、先週、突然送られて来たのです。そして、「歌ったから、これ、聞いてください。」と、それがYouTubeに上がっているのですが、それを見て、いや〜、神様の働き、本当にすばらしいなぁと思いました。
 今日のみ言葉である、そうこうしているうちに、夜は寝て、朝は起きて、そうこうしているうちに、だんだん実を結んで、刈り取る時が来る。本当に、そうこうしているうちに、こんな祝福って注がれるんだ!と思って、すごく大きな感動を覚えました。
 今から、五分三十秒くらいあるので、少し長いのですが、その映像をみなさんにご覧いただきたいと思います。日系のブラジル人の一人の初老の方が、一生懸命、日本語で歌ってくださっています。それをご覧いただければと思います。ご覧ください。



 感謝します。本当に神様がなさることは、私たちの思いを超えた中に主がなしてくださって、本当に最初は種が蒔かれて、朝起きて夜は寝て、そうこうしているうちに神の国というのは広がって、やがて時が熟して、刈り取る時が来ると、その広がりを見たような、そんな賛美でした。
 神様は、私たちヨシュアの世代に対して、新しいチャレンジをこの教会に、私たち一人一人にしてくださっています。明牧師がヨシュアの世代、頑張れ!と言って、天に帰って行きましたが、時が経って、なんか先週はメールをしないはずの彼からメールをもらったような、そんな気持ちになったのですが、本当に主の栄光をお返しするために、私たち一人一人が主の前に立ち上がって、主の業に励んでいきたいと、心から思っています。一言お祈りします。


 ハレルヤ。イエス様、感謝します。あなたのすばらしい御名をあがめて心から感謝します。あなたは本当に生きて働いてくださっているお方であることを、本当に感謝します。今、主よ、あなたに栄光をお返しいたします。あなたご自身が持っておられるご計画、これから成し遂げてください。私たちが主よ、この終わりの時代に成すべき業を成し遂げていくことができるように。私たちの思いを遙かに超えて、このように地球の裏側で新しいことを主が広げてくださって、私たちを励まし、導いてくださっている、そんな姿を見ることができたことを、心から感謝します。
 イエス様、もう一度、私たちはあなたにすべてを捧げますから、私たちを本当にイエス様、導いてください。この教会を助け、守り、導いてください。あなたの持っておられるご計画が、これから私たちの周りに広がっていくことを信じて心から感謝します。今、すべての栄光をあなたにお返しして、尊きイエス・キリストの名前によって、この祈りを父なる神様の御前にお捧げいたします。アーメン。