『祝福される人生』

2016年6月19日(日)
新城教会牧師 岡本信弘
詩篇1篇1〜3節

『幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。』

 ハレルヤ! 主の御名を心から感謝します。
皆さん、おはようございます。皆さんのお祈りに支えられ、今日も健康でここに立てることを心から感謝します。実は、私がここに立たせていただくのは今年になって初めてです。順先生が外で奉仕がある時に、牧師たちが順にメッセージをするのですが、私が忙しいということで順番を配慮していただいているようです。

 さて、先日、報告していただきましたが、私もようやくおじいちゃんになりました。予定日の二週間前、ある人に出会いがしらに「先生、あと二週間ですね!」と言われ、孫の予定日だということをすっかり忘れていて、「何かイベントでもあったかなぁ」と考えてしまいました。また、ある人に、「初孫が生まれるってどんな心境ですか。楽しみですか、心配ですか?」と問われ、「どちらかというと、心配のほうが強いですね」と答えました。
 お産は少し大変だったようですが、無事に元気な男の子が誕生し、安心しました。朝早く生まれたので、その日のうちに見に行ってきましたが、生まれたばかりの子とは思えないほどしっかりした顔つきをしていました。一枚写真をお見せします。

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 名前を「入(いり)」と名付けたそうです。私の息子の名前は、「出」と書いて「いづる」と言います。親が「出」るだから、子どもは「入」る(笑)ではなく、フェイスブックに、こんなふうに発表していました。

『名前の由来は、僕の名前の由来にまで遡ります。僕は牧師の家庭に生まれたクリスチャンです。「出(いづる)」は、聖書の中に登場するモーセという人物に由来しています。出エジプト記という書の中で、モーセはエジプトに奴隷となっていたイスラエル人を連れ出し、救い出すリーダーでした。四十年の旅の後、約束された地カナンへ入る前にモーセは亡くなるのですが、その前に、ヨシュアという人物を後継者として任命しました。カナンへ入ることを許された祝福された人物、ヨシュアの意味を込めて「入(いり)」と名付けました。』

よく考えて、なかなかいい名前をつけたなぁと感心しました。ちなみに「出」という名は、故 明先生が「モーセのようになるように」と付けてくださった名前です。名に恥じない者であるかどうかは分かりませんが・・・。とにかく、孫が無事に生まれたこと、母子共に守られていることを、高いところからですが、皆さんのお祈りを心から感謝いたします。

 さて本題に入ります。今日は、先ほど読んでいただいた詩篇一篇より、『祝福された人物、祝福される人生』ということについて、共に考えていきたいと思います。

 この詩篇一篇の御言葉は、二〇一六年の御言葉として私に与えられたもので、カウントダウンの集会で語らせていただきましたが、あれから、あっという間に半年が過ぎようとしています。
三節に『時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える』とあります。主の来られる時が近い今、誰もが多くの実を収穫したいと願っていることでしょう。

 私は、今年八月で六十歳になります。私自身は健康で、家族も守られ、日々それぞれの働きをさせていただいていて、何の不安もなく毎日を過ごしています。しかし、世の中には不安なことばかりで、十年後、二十年後を考えたらお先真っ暗と言えるのではないでしょうか。
 私は時々、保存されている自分のメッセージを読み返してみるのですが、語る内容が変化しているなぁと感じます。若いころは、自分がしたいこと、自分がしなければならないことについて祈り、語っていましたが、最近は、自分がというより、子どもたち、若い世代の人たちに何を残せるか、また、信仰の継承という視点を持つようになったように思います。それだけ歳をとったということかもしれませんが・・・。
とにかく最近は、心配なことだらけです。五年前に、東日本大震災で大津波によって多くの方が亡くなり、何もかも失ってしまった方が大勢いました。原発事故のこともいまだに深刻な問題です。また、熊本や北海道に起こった地震やTPPの問題、少子高齢化問題、年金のことも大きな不安材料です。
先日、順先生が「私も年金をもらえる年齢になった」と言っておられましたが、私を含め、六十歳を過ぎた人たちは、金額は別として、年金を必ずもらうことができます。しかし、若い人たちは年金を受け取れるかどうか分かりません。それで年金を払わない人も出てきているわけですが、そう考えるのも仕方がないことのように思われます。
 これらの問題が今後、どのようになるか分かりませんが、私たちは、自分の将来だけでなく、日本の未来、さらに世界にも目を向けてもっと祈らなくてはならないと思わされています。
 そんな問題や不安の多い現代で、「祝福される人生を送るには何が必要か」について、詩篇の御言葉から学んでいきたいと思います。

 祝福される人生を送るための秘訣の第一は、詩篇一篇一節にあります。

『幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。』

 「その人」とは誰でしょう。サタンの手から解放されて救われたクリスチャンです。皆さんは、自分が救われた時のことを覚えていると思います。救いの体験は様々で、苦しみの中から、また自分ではどうすることもできない問題から救われてこられた方も大勢いらっしゃると思います。
救われるとはどういうことでしょうか。単に問題が解決されるということでしょうか。御言葉にはこうあります。

『それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。』(使徒の働き二十六章十八節

「暗やみから光に、サタンの支配から神に移され、御国を受け継ぐ者とされる」、これが救いの定義のひとつです。
 人は、罪の種、原罪を持って生まれ、サタンの支配下にありますが、イエス様を信じるなら、その信仰によって憐みを受け、罪の赦しを得、聖なるものとしていただけるのです。

 しかし、この世は罪に満ちており、会社においても、学校においても、様々な誘惑があり、クリスチャンであっても、時に誘惑に負けて罪を犯し、神様の道から外れることがあるのも事実です。この社会でクリスチャンとして証しを立てていくのは容易なことではなく、戦いの連続です。

私は恵みによってクリスチャンホームに生まれたことにより、今まで守られてきました。
私が母の胎にいる時、母が救われ、私は物心つく前から教会に通っていましたが、いつも信仰は低空飛行で、いつ墜落してもおかしくないような者でした。
 高校時代は、あまり勉強もせず、テスト勉強と称して友達の家に行き、朝帰りをしたことがしょっちゅうありました。私はタバコを吸うことも酒を飲むこともしませんでしたが、友だちの家の六畳一間に五、六人集まって、ある人はタバコを吸い、ある人は酒を飲みというような、煙でもんもんのようなところで一緒に遊んでいました(彼らは決してぐれているわけではありませんが)。タバコのにおいは私の服に染みついていたと思いますが、朝帰りした私に、母は「タバコ吸ってきたんじゃないの?」と聞いたことは一度もありませんでした。
母は毎日、早天祈祷会で私のために、家族のために、教会のために祈っていました。私は母が真剣に祈ってくれていた姿をずっと見ていましたし、自分のことを信頼してくれている母を裏切りたくないという思いもあって、罪の誘惑から守られてきました。こうして、低空飛行ながら信仰を保つことができたことは、本当に幸いだなぁと思っています。
もしクリスチャンホームに生まれていなかったら、到底今のようには生きていなかっただろうと思うと、主のあわれみと恵みを感謝せずにいらせません。

 サタンは、いつも私たちにつきまとい、すきあらば罪を犯させようと誘惑してきます。世の中の事件に目を向けると、その多くにお金が絡んでいます。金は魔物だと言われるように、金は人を変えてしまいます。一歩間違うと、私たちもマモンの力に飲み込まれてしまいます。
覚せい剤で逮捕された清原さんや、お金を不正流用したとして世間を騒がせている舛添さんも、闇から抜け出せていない人たちです。彼らは、有名人であるがゆえにメディアに取り上げられていますが、このようなことは毎日のように起きていて、多くの人たちがそのような罪にまみれています。
聖書はこう教えています。
 
『悪者どもの道にはいるな。悪人たちの道を歩むな。それを無視せよ。そこを通るな。それを避けて通れ。』(箴言四章十四〜十五節)

これからどんどん世の中は悪くなっていくでしょう。私たちは弱い者です。ですから、悪に近づかないこと、避けることがとても重要です。そして、先に闇から光へと移されている私たちは、闇の中にいる人たちのことを覚えて、サタンの支配から神に立ち返るように、神に祈らなければなりません。

 さらに聖書は、クリスチャンが歩む道をこのように教えています。

『しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。しかし、神の人よ。あなたは、これらのことを避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい。』(第一テモテ 六章六〜十一節)

私たちは今まで信仰生活が守られて過ごしてきましたが、「私は過去何年クリスチャンでした」では何の意味もありません。今後、自由に礼拝もできない、自由に聖書も読むこともできない、そんな時代が来るかもしれません。今も、家族に内緒で教会に来られている方もいらっしゃるかもしれません。迫害や、誘惑の中にある方もおられるでしょう。しかし、どんな時にも悪の道を避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求め、最後の最後に主の前に立つために、主に従い通すことが重要で、これが祝福される第一の条件だと思います。

 第二に、祝福された人生の秘訣は、御言葉に従うことだと教えています。
 
『まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。』(詩篇一章二節)

 主の教え、それは、聖書の御言葉です。聖書は世界のベストセラーで、現在、世界中で三千以上の言語に訳され、ある資料によると毎年三億冊以上が発行されていると言われています。
今日、聖書を持ってこなかった方がいると思います。この教会では、プロジェクターで映し出されますから、わざわざ重く分厚い聖書を持ってこなくてもいいと思っている人がいると思います。
また、スマートフォンに聖書アプリを入れておけば、いつでもどこでも読むことができます。礼拝もこれ一つで要を果たす。便利な時代ですね。でも、隣り合ったアイコンで、一つ押し間違えれば聖書ではなくゲームがスタートする、といったことにもなりかねませんので、気をつけなければいけません。

 聖書について調べていた時、こんな記事が目に留まりました。
今から二百年ほど前のフランスに、ボルテールという、多くの書籍を出版して有名になった啓蒙思想家がいました。彼は聖書が大嫌いで、「もう百年もたてば聖書は、世の中に一冊も発行されなくなり、博物館でしか見られなくなるだろう」とまで言ったそうです。この人は何を根拠にそんなことを言ったのかと思いますが・・・。
しかし、どうでしょう。聖書はなくなるどころか世界中に溢れています。かえってボルテールの住んでいた家が、聖書の倉庫となり、彼の書物を印刷していた会社は、彼の死後、聖書を印刷する会社となったそうです。皮肉なものだなぁと思います。
あれから二百年以上たった今日では、ボルテールの著書は、大きな図書館の片隅にしか見ることができないとその記事は結んでいました。

 イエス・キリストは、『この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることかありません』と言われました。『わたしのことば』とは、聖書の御言葉であり、決して滅びることがなく、力があります。

『いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。』(使徒の働き二十章三十二節)

 私は幼い頃、子ども祈祷会や日曜学校で、いつも御言葉を暗記させられました。頭の悪い私のような者でも、毎週繰り返していれば覚えていくのです。その頃には、「これが何の役に立つのか」と思っていましたが、その時に覚えた御言葉の多くは、今でも忘れずに蓄えられていて、いざという時に私の力になり、盾となっていることを感じます。
 
ピリピ二章十六節には

『いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます。』

とあり、御言葉をしっかり握って蓄えるなら、その御言葉は私たちを支え、人生を生き抜く大きな力となり、闇の中で輝く光となることを教えています。

 先々週の礼拝では、「賛美はメッセージ」というタイトルで、開先生が語られ、大変恵まれました。ざわめきの賛美は御言葉そのものであり、賛美する時、力が与えられます。私も音程を外しながらも大声で賛美して恵まれています。
聖書を読み、御言葉を蓄え、賛美をとおして御言葉を宣言していきましょう。必ず祝福されます。

 祝福された人生への秘訣の第三は、神様と共に歩むことです。
詩篇一篇三節をもう一度お読みします。

『その人は、水路のそばに植わった木のようだ。』

「水路」という言葉を調べてみると、原語では複数形であり、作物の生育に必要な水を供給するために人工的に作られた水路のようです。人の手によっていろいろなところから水を引き込み、豊かな水をめぐらせ、そこに木を植え、よく手入れし、実りを得る。実りが約束されている状態を表しているようです。
 皆さんは、「水路のそばに植わった木」と聞いてどんな木を連想しますか? 一説では、「なつめやし」の木ではなかったかと言われています。

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 なつめやしは、木の高さが十五~二十五メートル、樹齢は約百年だそうですが、中には二百年も生きるものがあり、長く実を結び続けるそうです。すごいなぁと思います。
私たちの信仰生活においての水路とは、神様がつくってくださったものであり、その流れを私たちが信仰によって人生に引き込み、その水路につながっているなら、そこから流れ出る恵み、祝福を受け、豊かな実を結ぶことができるのです。
 さらに、イエス様はこういわれます。

『わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。』(ヨハネ十五章四節)

 その実とはどんなものでしょうか。

『御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。』(ガラテヤ人への手紙、五章二十二〜二十三節)

 私たちは、神様にしっかりつながり、神様から養分をいただき、成長して御霊の実をならせ、神様の栄光を現わす者となっていきたいと思います。

 旧約時代、神様が友と呼んだ人物、それが「アブラハム」でした。彼は七十五歳の時、神様が示すと言われたその地へ、行くところを知らずして出て行きました。そして、神様から約束をいただき、百歳になってやっと子どもが与えられたのです。
しかし、ある時、イサクと名づけられたその最愛の子どもを、神様は「ささげなさい」と言われたのです。アブラハムにとっては、本当に辛い決断だったと思いますが、彼はイサクをモリヤの山に連れて行き、いけにえとしてささげようと刀を取って自分の子をほふろうとしたその時、「待った!」がかかったのです。神はイサクの代わりに、一頭の雄羊を下さいました。

『それから主の使いは、再び天からアブラハムを呼んで、仰せられた。「これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。』(創世記二十二章十五〜十七節)

アブラハムの神に従いとおした信仰により、彼は「神の友」と呼ばれ、約束どおり敵の門を勝ち取る者とされ、「信仰の父」と呼ばれ、大きな祝福を得ました。
どんな時にもアブラハムのように信仰もって前進し、主と共に歩むなら、神が私たちをもサタンの策略を見破り、敵の門を勝ち取ることができる者としてくださいます。

 皆さんに祈っていただきながら、なかなかご報告できずにいるのですが、プレイズ出版の新規事業も一年がたちました。
 レストラン「雲の柱」、「餃子ノブズ」も、多くの方々に来ていただき、美味しいと評判を得ています。就労支援B型のシャロームにも、少しずつ利用者さんが増やされています。
老人ホームのアークホームは、六月に入って十三部屋がすべて埋まりました。また、デイサービスしおんも、毎日平均十名ほどの方々が喜んで集っていただける場所となっています。
 出版の働きは、今年で二十六年になりました。昨年から事業拡大したこともあり、パートを含め四十名近いスタッフが与えられています。
 本来、レストラン事業も介護事業も、私にとっては縁遠いものでした。また私は、食にこだわりがなく、せっかちで気の短い男です。ですから、レストランで働くことも、介護スタッフになることも到底無理な者です。しかし、新しい事業を展開していく中で集められたスタッフを見ていると、それぞれの場所に神様が必要な人たちを選んでくださったなぁと、思います。いろいろな意見の違いやすれ違いもありますが、みなクリスチャンなので、祈り合いながら共に働けることを、心からうれしく、感謝しています。あらためて「クリスチャンは、素晴らしいなぁ」と思わされています。
 また、この働きは、実際に働くスタッフだけでなく、背後に多くのクリスチャンの祈りがあることを感謝しています。そして、この事業を継続していくにあたっては、私の兄姉が様々なサポートしてくれていることも感謝したいと思います。
これからもプレイズ出版は、ビジネス、食文化、福祉といった様々な領域で主の栄光を現わしたいと切に願っていますので、ぜひ続けてお祈りください。
 先週、順先生がヨブ記八章七節から、『あなたの始めは小さくても、その終わりは、はなはだ大きくなる』と語られました。とても恵まれました。最近、順先生も歳のせいか、昔話が多くなったと思います(笑)。私ももちろんそうなのですが、明先生もたくさん昔話をしてくれました。
 この教会が始まった時には、少ない人数、小さな集まりから始まりました。六十年以上前のことですから、それを知る人はほとんどいないでしょう。
今はこの地域の方にも、クリスチャンは祭りの寄付や偶像を拝まないといったことを認識していただいていますが、因習の深い新城の田舎において、初代のクリスチャンには多くの戦いがあったと聞いています。
 私の母もクリスチャンになった時には大問題になり、親族会議が開かれ、親族を取るか、キリストを取るかと迫られたそうです。それでも母は、信仰を捨てることなく、ここにいる清子先生と共に祈り、この地域で村八分にされても戦ってきたことにより、今があることを覚え、本当に感謝しています。初代のクリスチャンがしてきたように、私たちも、これから後に続く人たちのために、戦っていきたいと思います。
また、岡本家の店も、当時日曜休みにすることは商売家にとっては大きな決断でしたが、主日礼拝を守ることにより店舗も増やされ、祝福されています。『あなたの始めは小さくても、その終わりは、はなはだ大きくなる』の御言葉の実現だと思います。しかし、それで終わってはいけないと考えます。
「小さなところから、よくもこんなに大きくなったなぁ」とか、「問題だらけだった人生から、よくここまでこらえたなぁ」と現状に満足しておられますか。『いま持っているもので満足しなさい』と御言葉にありますから、与えられている環境、与えられている恵みに感謝し満足するということは大切なことです。ただ私は、「これで十分、これ以上何も望まない」というのは、ちょっと違うのではないかと思っています。
私は神さまの祝福は、こんなものではない、と思っています。ですから六十歳を目前にしている今でも、さらなる新しいことに挑戦させていただきたいと願っています。
ヨハネ十五章八節に

『あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。』

とあるように、私たちが祝福されてもっと多くの実を結び、弟子として働いてくなら、私たちの信じている神様が栄光をお受けになるのです。ですから、私たちはもっと祝福されなくてはいけないのです。

 また、『時が来ると実がなり』とありますが、私たちは多くの実をならせていただきたいと願っています。皆さんも、今まで多くの祝福をいただいて実をならせてこられたと思いますが、自分のためだけに実をならせるだけでなく、子や孫の世代、またあなたの周りのすべての人、そして世界中に実がなることを求めていかなければなりません。

先ほどご一緒に祈りましたが、来月にはネパール宣教があります。私はネパールには行ったことがありません。今回も、散々誘われたのですが、「忙しいので行かれません」とお断りしました。実は、外国の食事が合わないし、体力的にも不安があるので無理だと思ったのです。そんな行ったことがない国のためにも祈る必要があります。
また、今年は、「すべての県で伝道集会をしよう!」と、ミッションが計画した『四十七都道府県巡回リバイバルミッション』が行われています。皆さんの行ったことのない県がたくさんあると思いますが、ミッションのために、教会のためにささげてくださった献金によって、日本各地、海外の宣教の最前線に人が遣わされ、その働きが進められていきます。皆さんの祈り、皆さんのささげものによってリバイバルが前進していることも確かなことなのです。
教会全体、日本全体、世界全体が祝福されて、皆が「主こそ神です!」とあがめる国としていただくため、自分のためだけではなく、人のため、日本、世界のためにできることをなし、祈り、神様に栄光をおささげできる者となってまいりましょう。
 そのために、悪を避け、御言葉に従い、神様と共に歩み、祝福された人生を送っていただきたいと思います。

お祈りします。
 愛する主よ、心から感謝します。今、祝福される人生というテーマで詩篇から学ばせていただきました。私たち一人ひとりは弱い者であり足りない者ですが、主の憐れみによって救われ、今あることを心から感謝いたします。多くの恵みをいただいてきましたが、ここにいるお一人おひとりが、さらに祝福された人生、そして神様の栄光を現す者として用いられますよう導いてください。
 病める人がいるならば癒しを与えてください。問題を抱えている人には解決を与えてください。そして、もっともっと喜びと祝福に満たしてください。
 今から聖餐式にあずかります。イエス様が私のために十字架にかかり、命を投げ出してくださり、また死の力を打ち砕き、よみがえり、今も私たちを支え、導いてくださっていることを感謝します。
 この恵みの中で、私たちは聖餐を受け取ります。お一人おひとりに主がお語りくださり、主の御心をお示しください。そして、私たちがこの御血御肉にあずかることにより、私たちをきよめ、主を宣べ伝える者として、また、恵みを告げ知らせる者として用いてください。今からの時をすべて主の御手にゆだねます。信じ、感謝し、主の御名によってお祈りいたします。アーメン。