『いのちを得、それを豊かに持つために』

2016年7月3日(日)
新城教会主任牧師 滝元順
ヨハネの福音書十章七節〜十節

『そこで、イエスはまた言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗です。羊は彼らの言うことを聞かなかったのです。わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。』

 ハレルヤ!みなさん、おはようございます。共に礼拝を守れますことを感謝しています。
 七月になりました。あっという間に年月は過ぎて行きます。暑い日がこれからも続いていきますが、祈り合って、支え合っていきたいと願っています。

 今日のメッセージのタイトルは、「いのちを得、それを豊かに持つために。」です。誰でも幸せになりたいと願っています。一度しかない人生です。長いいのちを、幸せに生きることが出来たら、そんなすばらしいことはありません。
 聖書は、私たちが幸せに生きる秘訣を提供しています。私たちがそれを知り、人生に適用したら、人生は変わるのです。
 教会の働きは、結構、悲しいことから始まります。第一報として教会に届く情報は、誰かが病気ですとか、問題がありますとか、聞くのがあまり嬉しくない情報から始まります。でも、こうして礼拝に来てみると、結構、みんな元気にやっているな!と思われるでしょう。それは、お一人一人がいのちを得、豊かになった証拠です。なんでもお試しコースがあります。イエス様も、試してみないと分からないところがあります。すでに、ほとんどの方々は、「ここに道がある!」とイエス様を体験されました。

 今日読んだ箇所に、「二つの門」が出て来ます。一つは、「わたしは羊の門です。」とイエス様が語られましたから、イエス様が門です。そしてもう一つの門は、強盗たちが作った「不幸に至る門」です。
 人生は突き詰めていけば、二つの門しかないのです。幸せの門と、不幸の門。人はこの二つのうち、一つを選んでいるのです。
 近頃、オレオレ詐欺が多いです。インターネットでも、いろんな詐欺が流行っているみたいです。次から次へと新手が出て来ます。
 先日も、私の携帯に一通のメールが来ました。「あなたの口座に三千万円振込したいのですが、教えてくれますか?」というメールでした。「俺に三千万円くれるの!?」とびっくりしました。でも、そういう話には、絶対にのってはいけません。「三千万円欲しかったら、このリンクをクリックしてください。」なんて書いてありました。クリックしたら、三千万円どころか、それ以上に取られてしまうわけです。偽りだらけの世界に住んでいますから、気をつけなければならないです。

 今は、参議院選挙の選挙期間中です。次の日曜日は投票日です。是非、みなさん投票に行ってくださいね。当日行けない人は、事前に行くなりしていただきたいと思います。今回の参議院選挙って大へん重要です。しかし、最も重要なテーマは、隠されているのです。そのことは、あまり語られません。
 今回の選挙の最も大きなテーマは、「憲法改正」です。憲法って、国民にとってすごく重要です。しかし、案外、関心がないのです。「そんなのどうでもいいや!」と思っています。もしも、一つの政党が勝ったら、憲法改正に大きく動くからです。
 憲法は、本来、国民は守らなくても良いものです。それは、権力者が守らなければならないものなのです。国民は法律を守るのです。権力者は憲法を守る。これが基本です。しかし現政権が目指している憲法は、国民が守らなければならない憲法になっています。怖いです。戦争に駆り立てられていく憲法です。個人の人権が認められない、個人が国家のために犠牲となる憲法になろうとしています。
 しかし、そういうことは争点から外され、隠されているのです。日本の政治は後出しじゃんけんのようです。嘘だらけです。マスコミも嘘がいっぱいです。よくよく注意しないといけない世界に私たちは生きています。自己責任として、よく祈り、どの政党に投票したらいいのか、祈って決めてください。特にクリスチャンの未来に関わることです。
 
 将来のことを考えると、心が暗くなります。けれども、教会は、悪い知らせばかりではありません。すばらしい知らせも、飛び込んで来ます。絶対に無理だということが、イエス様に頼った時に変わった!という、すばらしい知らせが飛び込んでくるのです。それを体験すると、もう、やめられない、とまらないのです。かっぱえびせんだけではありません。イエス様も同じです。イエス様を体験したら、人生の価値観が変わります。

 先週は、私にとって本当に励まされるニュースがありました。四月に私はロサンジェルスに行ったのですが、私の友人である、ロン・ブラウンさんのお見舞いに行きました。彼は昨年の十二月で、仕事を終えました。アルツハイマーという病気が進んだからです。怖いですね。一回、そのような病気になると、病はどんどん進んで行きます。ロンさんと別れて、五ヶ月近く経っていましたから、どんな具合なのか、会いに行きました。しかしロンさんと会った瞬間、私は本当にショックでした。

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 変わり果てたロンさんの姿に、たいへんショックを受けました。私はジョー先生と一緒に行ったのですが、ジョー先生はよくしゃべる先生ですが、先生もその姿を見て絶句して、ずっと黙っていました。あまりにも、変わり果てたロンさんでした。私は、ロンさんと同じ年です。ロンさんは体が固まって、動かなくなっていて、呼びかけても反応がありませんでした。そんなロンさんを見て、涙が出てきました。でも真剣に、彼の為に祈りました。みんなで、心を合わせて祈りました。
 その後もいろいろな方が、訪問したり、祈ってくださったのですが、先週、岩井夫妻が、安武さんのレコーディングでロスに行きました。そうしたら奇跡が起こっていました。
去年の十二月以上に、元気だったそうです。彼は日本に来ていた頃、塩ラーメンが大好きだったそうです。それで、日本のインスタントラーメンを持って行って、作ってあげたというのです。

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そうしたら、なんと完食したのです。それを見て、奧さんも家族も泣いて喜んだそうです。
 私が会いに行った時には、痙攣が止まらず、スマホも持つことができませんでした。コップも持つことができずに、ふるえながらストローで水を飲むくらいでした。しかしみんなで、心をこめて祈りました。そうしたら、痙攣も止まって元気になったそうです。絶対に祈りの力だと思いませんか?塩ラーメンを箸で完食ですからね。

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 去年の十二月から、大好きなサクスフォンも吹けなくなっていたのですが、先週、一つの動画が送られて来ました。先週の金曜日くらいの動画だと思います。



 いや〜。感動じゃないですか。数ヶ月ぶりに吹いたのです。家族は本当に喜んで、「日本からの祈りによって、ロンが癒され始めています!」と言うのです。

 いろんな事があっても、先ほどの賛美のように、「あきらめちゃいけない!暗いトンネルの中に入っても、必ず、出口がありますよ!」と歌ったように、あきらめちゃいけないのです。
 しかし四月にロンに会ったとき、私は一発であきらめましたよ。「こりゃだめだ!」ってね。すぐに平岡先生に、「先生も早くロンに会ったほうがいいよ。」と電話したくらいです。しかし頼るのは、イエス様しかないですね。
 そのとき、霊的なものが、ロンさんに関わっているように感じました。一部の黒人の人たちは、街で魔術をやったりするのです。コミュニティーで魔術をやるのです。その影響が、もしかしたらあるかも知れないと感じました。私たちは、そのような暗闇の力が打ち破られ、ロンさんに悪い影響がないように祈りました。
 主は、時々、このようなすばらしいこと行って下さいます。それを見て、信仰を燃やし、前進するのです。今後も、「祈り続ける」ことが大事です。祈り続ける時に、暗いトンネルを脱出できるのです。ロンさんのためにも祈り続けて下さい。

 聖書は人を羊に例えています。羊には一つの習性があります。それは、目の前の羊の行動に付いて行ってしまう性質です。

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 これは羊が門から入っていく様子です。一つの門に集中していく様子ですが、羊は、前の羊がどのように行動するかで、後ろの羊もまねして行動するのです。聖書が人を羊に例えているのは、人って、羊の習性によく似ているからでしょう。

 記憶にある方もおられるかもしれませんが、今から二十年以上前でしょうか。東名高速道路の日本坂トンネルで、大火災があり、大勢の人が亡くなりました。その後、長い間トンネルが使えなくなって、一年くらい通行止めになって、流通に支障が出て日本経済が傾いたことがありました。その事を知っている方は、案外、お年の方だと思いますが。
 あの時、最初数台の車がトンネル内で事故を起こしたそうです。その事故で、火災が発生したのです。いち早く、トンネルの入り口には、「トンネル内火災発生進入禁止」というサインが出たそうです。それでも、どんどん車が入って、結果的に何百台という車が焼けて、犠牲者も多くなったのです。命からがら助かった人に「あなたは火災発生進入禁止を見ながら、なぜ入って行ったんですか?」と聞いたら、「火災発生進入禁止というサインは見ましたが、前の車が入って行ったから、私も入っても大丈夫だろうと思った。」と答えていました。それは羊と同じじゃないですか。
 前の人が入って行くからいいや!と、振り返らず、立ち止まらず、ついて行ってしまうことがあるのです。この門から入っていいのか?と、確かめてから、入っていかなければならないのですが、案外、文化だ、習慣だ、みんなやっている、と同じように行ってしまうわけです。しかし、一度しかない人生ですから、ちゃんと考えたほうがいいのです。
 特に、神様を選択する場合、「日本の神様はこんなもんだ。先祖からみんなやっているよ!」って、案外、批判しないのです。
 しかし、ちょっと立ち止まって、この門でいいのかどうか、宗教の問題ではなく、現実問題として、チェックしなければいけないのです。

 イエス様が「わたしが門です。」と語られました。ヨハネの福音書十章十一節に、こんな言葉があります。

『わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。』

 私たちの神様は、命を張って、人間のために、がんばってくださる神様です。教会のシンボルは十字架です。なぜ、十字架かというと、イエス様が全人類の罪の身代わりとなって、悪魔の奴隷となって滅びる人たちを、助けて下さったからです。体を張って命の門を開けてくださったのです。十字架自体に力があるのではありません。イエス様が私たちのために、命を捨ててくださったところに意味があるのです。
 イエス様は罪があったから殺されたのではないのです。全くの無実です。何の罪もなかったけれど、人類の罪の身代わりとして死んで下さったのです。
 一般的にも、罪があったら様々な裁きに合います。神様の前でも同じです。人が罪を犯したら、滅びの道に進んでいきます。それが証拠に、罪を犯したら、良心がうずくわけです。クリスチャンであるとか、クリスチャンじゃないとか関係なく、人間っておもしろいです。全人類に共通した価値感、良心があるのです。人を殺したら悪い。人のものを取ったら悪い。嘘をついたら悪い、というような、共通の価値感があります。それが良心です。それは神の心そのものです。罪があったら、幸せに生きることは出来ません。
 しかし、イエス様が私たちの罪の身代わりとなって、十字架にかかって死んでくださった。それゆえに、いのちの門が開いたのです。私たちが「イエス・キリスト門」を選択して、入っていくなら、 『わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。』という言葉が実現します。

 ちょっと話は変わりますが、新城市近辺は歴史的な大事件が起こった場所です。それは一五七五年の七月の事です。新城教会の前は、「設楽原」と呼ばれるのですが、設楽原で大戦争がありました。

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 昔は写真がなかったので、絵図だけ残っています。織田信長と徳川家康の連合軍と、武田勝頼の軍勢が、連吾川を挟んで戦ったのです。その結果、数時間の戦いで、一万六千人が死んだのです。これは、すごい戦いです。鉄砲が実戦で効果的に使用され、数時間で一万六千人も戦死したのです。後にも先にも、設楽原ほどの戦いは、以後、三百年間起こっていないのです。設楽原で起こった戦いは、世界最初の近代戦でした。お隣の豊川市で、太平洋戦争の後半、海軍工廠が爆撃されました。B29が多数飛んできて、あめあられと爆弾を落としました。それでも犠牲者は、二千三百人です。あれだけの近代戦でも二千三百人です。しかし設楽が原では、数時間の戦いで一万六千人の犠牲者です。いかに大規模な戦いであったかが分かります。広島の原爆の犠牲者は二十万人です。設楽が原の戦いは、歴史に特筆すべき、大きな戦いだったのです。

 それ以後、世界の戦争の歴史が塗り替えられました。しかし、このような戦いに発展したのも、長篠城の戦いという小規模な戦いから発展し、設楽原の戦いにつながりました。長篠城は当時、徳川方の城だったのですが、武田方に周囲を固められて、兵粮攻めにあったのです。
 しかし一人の男、鳥居強右衛門が、夜中に城を抜け出して、岡崎城から援軍を取り付けてきたのです。再び戻ってきた時、彼は武田軍に捕まりました。武田方から、「援軍は来ないから降参しろ、と城の人たちに伝えろ!」と強いられたのですが、彼は、「援軍が来るからがんばれ!」と叫び、ある意味、身代わりとなって磔にされて死にました。

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 ちょっと話は変わりますが、私のネタは孫ネタが多いですが、特に四歳の男の孫がかわいいのです。彼がこの写真を見て、「僕の身代わりとなった。」と言いました。たぶんホサ・ナクラブで、イエス様の十字架のことを聞いた後だったから、そのように言ったと思います。「あの人とは関係ないよ!」と説明してあげました。鳥居強右衛門という男の行動で、ある意味、大きく歴史が変わったのです。

 新城市って、雰囲気的に何か重いところがあります。聖書を見ると、土地の上で罪が犯され、土地に血が流されると、「土地から呪われる」とあります。血が流された場所に住んでいるだけで、人は何らかの悪い影響を受けるみたいです。
 日本人は聖書を読んでいないけれど、そのような事を理解しています。「なんかこの土地、やばいんじゃないか?」「なにか悪いことが、起きそうだ。」と感じるのです。私も長い間、この地域に住んでいますが、地域に悲しい出来事が多すぎる気がします。どこに原因があるのか、家族とか、個人というよりも、土地に原因があるような気がします。
 しかし、私たちの主は、土地の呪いも取り去ってくださる神様です。クリスチャンになったら、住民の守りを祈らなくてはいけないです。教会では、そのために真剣に祈っています。十字架によって、罪赦されて、土地の解放のために用いられるのです。すばらしいことです。

 実は先週、もう一つ、私にとって嬉しいニュースがありました。「これは絶対、祈りの答えだな!」というニュースでした。6月30日付の中日新聞に、こんなニュースが出ていました。

 「豊川殺害再審請求へ 受刑者側弁護団来月にも」という見出しのニュースです。二〇〇二年のことですが、豊川の一号線沿いのゲームセンターで、一つの事件が発生しました。夜中に一歳十ヶ月の男の子が誘拐されて、数キロ離れた三河湾に投げ捨てられ、殺されたのです。全国的に大きなニュースになりました。しかし、すぐには犯人が捕まりませんでした。けれども、九ヶ月後、一人の男が捕まったのです。「このことを私は覚えています。」と言う方、スイッチオン。結構いますね。この地域の大ニュースでした。
 誰が捕まったのかというと、田辺雅樹という男性が捕まったのです。その後、その事件を巡って、様々なテレビ番組が作られました。それは、「絶対にえん罪だ!」という番組でした。なぜなら、なんの証拠もなかったからです。田辺さんという人は、ゲームセンターの端っこに、ただ車を止めて寝ていただけでした。彼は奧さんから、「出て行け!」と言われて、寝る場所がなく、軽自動車の中で寝ていたのです。すると、夜中に事件が起こったのです。そもそも、子どもを誘拐して、殺した犯人が現場に戻って寝ているはずがありません。
 九ヵ月後、彼が犯人として捕まえられ、全国に彼は知れ渡ったのです。裁判が始まったのですが、なんの証拠もなかったので、名古屋地方裁判所での第一審は無罪でした。当然のことです。物的証拠は、何一つありませんでした。彼は自白を強要されたのです。日本の司法の為にも、真剣にとりなし、祈らなければなりません。えん罪で一生を棒に振った人はいっぱいいます。
 しかし、近頃、ちょっとずつ司法が変わって来ました。数日前の新聞にも、「三十一年前の殺人、再審決定!」と出ていました。

 取り調べの可視化が認められたり、再審請求は普通、四千件に一件にも満たないくらい難しいらしいのですが、時々、見かけるようになりました。

 豊川の事件ですが、一審では無罪でしたが、高等裁判所に上告されて、逆転有罪、懲役十七年の刑となりました。その後も、最高裁にまで行きましたが、判決は変わりませんでした。今、田辺さんは大分の刑務所に服役中です。
 実は彼、毎週、新城教会のメッセージを読んでいます。私たちは、彼を助けています。
 なぜかというと、第一審で無罪になった後、釈放されて、豊橋の駅にいたらしいのです。その時、新城教会の一人の女性が彼の横を通って、「あれ?昨日、テレビに出ていた人だ!」と、ぴんっと来たと言うのです。それで、「あなたは昨日釈放された、田辺さんじゃないですか?」と、声をかけたそうです。「あなたは教会に来たほうがいいですよ。」と言って、その後、教会に連れて来られたのです。そして、イエス様を信じる祈りをしたのです。
 私は、彼と一緒に、事件が起きた時間にあわせて、現場に行ってみました。そして、どのように調書を取られたのか、全てトレースしてみました。現地を彼と一緒に巡ってみて、「絶対に彼は子どもを殺していない」と確信しました。子どもを拉致して、抱きかかえて、軽自動車に乗せて、数キロ走って、岸壁のガードレールを越えて子どもを海に突き落としたと言うのですが、その時、引き潮でした。突き落としたら、岩場に落ちて怪我をするはずです。しかし子どもには、何の外傷もなかったのです。その後、警察は調書を書き換え、「子どもを投げた」としました。弁護団が子どもと同じ重さの砂袋を投げて、実験しました。力一杯投げても、水辺まで届くような距離じゃないのです。無茶苦茶です。犯行を犯した後に、逃走せず、誘拐現場にまで戻って寝ているなんて、絶対にあり得ません。はっきり言って、これは警察のねつ造です。絶対におかしいと思いました。
 彼は日曜日の礼拝にも毎週出席するようになりました。しかし第二審で逆転有罪となり、十七年の刑で刑務所に収監されました。私も本当に、心が痛かったです。

 そのことから、日本の司法のために真剣に祈らなければいけない!と気づかされました。新城教会はいろんな仕事をしていますが、みなさんにすぐには発表できない仕事もあります。
 特に、四元先生と、私の家内が司法に重荷を持って、最高裁判所長官に手紙を書いたり、番組のDVDを送ったりしました。家内が最高裁長官に、こんな手紙を送りました。

「突然のお便り差し上げます。この度、一審において無罪、二審で有罪になった豊川ゲームセンター前幼児殺人事件の田辺雅樹被告の案件について、お便りさせていただきます。 
 私は、愛知県豊川市の事件現場までは、車で三十分くらいの所に居住している者です。田辺被告とは、この事件を通して個人的に交わりを持つようになりました。彼を知る者として、今回の二審での判決は、彼を知り、事件現場を実際の目で見、事件に関しての地元の数々の情報を耳にする中で、私たちにとって正直、耳を疑うものでした。
 彼自身を知る者として言えることは、彼はあのような大それた事件を起こせるような人間ではありませんし、とても気の弱い人間で、取り調べの威圧的な環境は彼にとっては耐えがたい苦痛であり、彼自身も告白していることですが、その環境から逃れたいがために自白に追い込まれたということは想像に難くありません。
 現在、物的証拠は何一つあげられておらず、ただ自白だけで二審の結果が出たわけです。現在、最高裁において審議が継続中であるとのことですが、一人の人権が関わっています。ここ何年かに最高裁に上告された四千件以上の判例の中で再審が認められた例は、四千件に一件しかないと聞いていますが、今回の名高裁が出した判断は、裁判における鉄則である、『疑わしきは罰せず』を無視した判決であることは、疑う余地はありません。
 もし、彼が無実だとしたら、裁判所は、法を司り、国家を見張る機関として、歴史に汚点を残す罪を犯すことになると思います。一人の人間の人生がかかっています。国の威信をかけて、最高裁でしっかりと調査し、慎重に審議をしていただきたいと、心から願っています。田辺被告に関する『手紙』という番組のDVDを一度ご覧いただければと思います。」

 こんな手紙を出したり、それと共に、とりなしの祈りをしました。あの時は一生懸命祈ったけれど、その後、どうなっちゃったかなと思っていました。

 何年か前、私は、大分まで彼に会いに行きました。弁護士事務所に相談したら、「あなたが行ったらきっと、面会を拒否されますよ」と言われたものだから、「面会法」という法律をコピーして持って行きました。「誰でも面会できる」という法律です。
 そして、私は面会を申請しました。しばらくしたら、「滝元さんの面会を拒否させていただきます!」と言われました。私はそれを聞いて、頭に来て、「面会法のコピーを持って来たから、今から読みます。良く聞いて下さい」と言って読み上げました。しばらくしたら所長が出てきました。三人の護衛を付けて、私の所にやってきました。なんか私が罪人のような感じになりました。他の部屋に連れて行かれ、三人の看守が見張る中で、私は、いろいろと今までの経緯を話しました。
 そうしたら、所長が、「滝元さん、あなたはいい人ですね!」と言うのです。始めは、そう見えなかったらしいです。「特別、許可いたします!」と言ってくれました。
 中に入って、田辺さんと面会して、一緒にお祈りしました。彼は本当に気が小さい人で、椅子にも深く腰掛けないのです。「もっと深く腰掛けたら?」と言っても「いいんです。いいんです。」と言っていました。模範囚のマークを付けていました。「そのワッペンかっこいいね!」と言ったら、『模範囚です。』「模範囚だといいことあるの?」と言ったら、『一週間に一度、甘いものが食べられるんです!』なんて言ってましたが、『毎週新城教会のメッセージを読んでいます。出所したら必ず、新城教会に行きますから!』と言っていました。
 是非とも、みなさん、田辺さんの為に祈ってください。再審請求が受け付けられて、無実が証明され、自由の身になるように、祈って下さい。日本の司法制度も変わるように、祈らなくてはいけないです。クリスチャンが放っておいてはいけないです。

 私はよく話しますが、聖書の真理を知っているだけではいけないのです。それをどう、人生に、社会に適用するかです。社会の偽りや悪が見えたら、そこに真理を投げ込んでいかなければならないのです。黙っていてはいけないのです。おとなしくしていてはいけないのです。戦う時には、戦わないといけないのです。真理によって、暗闇を引き裂いていかなければいけないのです。

 しかし、社会になぜ、これほど問題があるのかという、原点は、人ではないのです。目に見えない敵、悪魔とその一味、悪霊どもです。ヨハネの福音書八章四十四節から、こんな言葉があります。

『あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。』

 世界に、偽りはたくさんあります。偽りがあったら、必ず後ろに、偽りの父、悪魔が関わっているのです。悪魔や悪霊どもって、目に見えないけれど、働いているのです。それも、「偽り」という中心軸を持って、常に働いているのです。
 世界を見たら、偽りだらけです。政治も経済も何もかも、偽りだらけですが、その後ろに、偽りの父、サタンが関わっているのです。

 先ほども話しましたが、日本人には結構霊感が強い人がいます。科学にもならないし、学問にもならないような、霊的世界を感じ取ります。この付近の人たちも、結構、霊的に敏感な人が多いように思います。設楽原なんかに行ったら、なにか霊的な力が働いていることを感じるみたいです。今日は、設楽原の戦いの供養行事があるみたいです。
 何年か前、設楽原の戦いの現場で、供養する係の坊さんと話をしたことがあります。彼がこういうのです。「私はあそこに行くと、いつも頭が重くなる。なんかいるね。あそこには絶対。」と言うのです。私は、「あなたが毎年、悪い霊を呼んでいるからじゃないのかい?」と話したのですが、彼は、「順先生が悪霊がいるという話をしたから、今回はちょっと注意して出かけたら、やっぱりいるわ!あそこには!」と言うのです。だから私は彼に、「悪霊を呼ぶ仕事をしちゃ駄目だよ!追っ払う働きをしないと幸せになれないよ。」と言いました。
 教会は、目に見えない敵を追っ払う働きをしているんだよ!と言ったら、「すばらしい働きですね!」と言っていました。私は、「あなたもクリスチャンになって、一緒にやろうよ!」と話したのですが、何かがいるわけです。
 オレオレ詐欺と同じで、多くの人が悪霊を呼ぶ側に廻っています。オレオレ詐欺は老人の所に電話をかけて来ます。孫とか、息子のふりをして、「おじいちゃん!僕の願い、聞いてくれる?」とか言って、かかってくるわけです。孫とか息子だと信じたら有り金、全部持って行かれます。詐欺だ。偽りだ!と分かったら、被害には会いません。

 聖書は、宗教の問題じゃなくて、実際に目に見えない敵である、悪魔とその子分、悪霊どもがいるから、気を付けろ!と警報を発しています。世界には二つの門しかありません。幸せに至る「神の門」と、「悪魔・悪霊どもの門」の二つです。

 最後に、悪魔・悪霊どもが罠をはっている、強力な場所についてお話しします。マルコの福音書五章一節〜五節の所に次のように書かれています。

『こうして彼らは湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。イエスが舟から上がられると、すぐに、汚れた霊につかれた人が墓場から出て来て、イエスを迎えた。この人は墓場に住みついており、もはやだれも、鎖をもってしても、彼をつないでおくことができなかった。彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまったからで、だれにも彼を押さえるだけの力がなかったのである。それで彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていた。』

 『だれにも彼を押さえるだけの力がなかった』とあります。現在、人類のかかえている問題って、ほとんどが「だれも彼を押さえることができない」問題ばかりです。政治的にも、軍事的にも、健康に関しても、経済的に関しても、誰もどうすることができない問題が、山ほどあるじゃないですか。それらの問題の後ろに、目に見えない敵の力が働いていることを教えています。
 この男がどこに住んでいたかというと、「墓場に住んでいた」というのです。ここに悪魔・悪霊どもの罠の情報が隠されています。
 日本人って、結構、先祖を敬い、墓参りによく出かけて行きます。なぜ、行くのかといったら、墓に行くと先祖がいるような気がするからです。墓参りに行くと何かを感じるのです。しかしそれが先祖のふりをした悪霊だなんて考える人は、誰もいません。
 人間は、死ぬと、魂をこの地上には残さないのです。ちゃんと神様が管理してくれて、地上に魂を残す事はありません。
 墓場は、ある人が地上に生きていた証であり、記念の場所です。しかし、霊魂がとどまる場所では決して、ありません。
 でも、日本人はどうでしょうか。墓場に霊感を感じるのです。

 さて、みなさんにちょっと質問ですが、日本人って、よく墓参りに行きますが、世界の墓参りランキングの中、何位くらいだと思いますか?日本は一位かなぁ?いや、韓国のほうがよく行くなぁ?ここに、世界墓参りランキングがあります。

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 日本人は年間一・八回です。三十位です。墓参りに最も行く人は何処の国の人かというと、ギリシャ人です。年間十一・一回。月平均一回弱行くのです。チェコ・スロバキアの人は、九・一回、インドとドイツの人は七回、日本人は墓参りによく行っているようですが、世界レベルではそれほど行かないんですね。
 実は、ゲラサという街はどういう街であったのか、これが当時の街の遺跡ですが、ヘレニズム時代に建てられた「ギリシャ風の街」だったのです。

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当時も、世界で最も墓参りに行っていた民族が、ギリシャ系の人たちだったのです。ゆえに、その文化が今でも継続しているのです。
 そしてその街の墓場に、最も強い悪霊の軍団がいたのです。人類が騙されている大きなポイントは、人々が敬う「先祖」のふりをして人々を苦しめる存在なのです。
 クリスチャンになると、祖先崇拝の危険性について理解できるので、墓との関係や先祖との関係が変わって来ます。ゆえに人生が変わって来るのは当然です。聖書は不幸になる巨大な力がどこから侵入するのか、ちゃんと情報を与えているのです。日本人は先祖が守ってくれるって、考えていますが、先祖には守る力はないのです。本当に守ることができるのは、天地宇宙を造られた、「わたしは門です。」と語られたイエス様だけです。
 先祖は天地宇宙を造ってくださった神様が、管理してくださっていることが分かります。だから、心配しなくてもいいのです。本当に感謝です。

 死後の世界をうまく説明している箇所が、ルカの福音書十六章十九節〜三十一節です。これは、クリスチャンならば、誰でも知っていると思いますが、「ラザロと金持ち」のストーリーです。あえて説明することもありませんが、この所を見ると、死後の世界は、二つあるみたいです。
 ラザロが行った死後の世界は、「アブラハムのふところ」と呼ばれるところでした。それは神が管理されている死後の世界です。そして、もう一カ所は、金持ちが行った死後の世界、「ハデス」と呼ばれる場所です。
 家に帰ってからルカの福音書十六章のラザロと金持ちのストーリーを読んでいただきたいと思います。死後の世界同士は、会話ができるみたいです。アブラハムのふところと、ハデスでは、相互に、コミュニケーションができるみたいです。そけは、死後の世界という、大きなくくりの中にあるからでしょう。
 しかし生きている者たちの世界と、死後の世界とでは、全く隔離されていて、コミュニケーションは不可能です。互いに情報を送ることができないのです。こちらから送ることもできないし、向こうからも送って来ることができないのです。
 生ける者たちの世界は、独立した世界です。死後の世界と一緒になっていたら、混乱して、まともな生活はできないです。しかし日本社会の面倒なことは、死んだ人たちも仲間に入るから、面倒くさいことになるわけです。独立した世界として、神は私たちの世界を造ってくださったのです。
 金持ちは、ハデスという、恐ろしい死後の世界に入ったのです。聖書は金持ちに対して反発があると思うかもしれません。しかしルカの十六章を初めから読んでいくと、ラザロと金持ちの話に行きつく前に、一つの伏せんがあります。これは何かというと、ルカの福音書十六章十三節〜十四節、

『しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」さて、金の好きなパリサイ人たちが、一部始終を聞いて、イエスをあざ笑っていた。』

 金持ちとは、暗に誰のことを指摘しているのかというと、パリサイ人たちです。そして、神にも仕え、富にも仕えることができない、二人の主人に同時に仕えることができないと語られています。富とは、ただの富じゃなくて「マモン神」という、富を司る悪霊だったのです。
 日本はどうでしょうか。富を司る神を人々は一生懸命、信仰しています。一言でいえば、日本の神々は、すべて商売繁盛のための手段です。多くの人たちが経済成長に捕まえられて、それがすべて!と考えています。実はその経済の領域に、ゲヘナに引き連れて行く、強力なマモンという悪しき力が潜んでいることを指摘しているのです。
 先週も話しましたが、神は人が平等に創られ、平等に生きていくことを望んでおられます。しかし今の時代、たった一パーセントの人たちに、地球の富の半分が渡っています。他の人たちはどんどん貧困になって、日本では、現在、「六人に一人」の子どもが貧困で苦しんでいます。私の知り合いの牧師が東京で、子ども食堂という働きを行っています。なぜならその地域は、あまりにも貧困の子どもたちが多いからです。
 子どもの貧困率は、全国平均で六名に一人です。給食の一食だけが食事という子どもたちも多いのです。特に多いのが、東京足立区だと言われます。子どもたちの四人に一人が貧困だと言われます。食事を三度食べられる子どもが少ないのです。一食しか食べられない、給食が唯一の楽しみという子どもたちも多くいるのです。
 先週もちょっとビデオを見せましたが、経済の中に混乱があります。なぜか?ゲヘナに連れて行くような、強力な暗闇の力が働いているからです。それがラザロと金持ちの話の中心にあるのです。ただ、天国と地獄というだけのストーリーではないのです。なぜなら、当時のユダヤ人たちは、すでに、そのような死後の世界観を持っていたからです。
 私たちも、経済活動のただ中に身を置いていますが、背後に、人々をゲヘナの門へと連れて行く、敵に立ち向かいなさい!ということを教えています。

 イエス様はわたしが門です!と言われました。その門から入ったら、決して、不幸になることはありません。最初に読んだ、ヨハネの福音書十章九節から、もう一度読んでみたいと思います。

『わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。』

 今日、ここにおられる全員が「イエス様門」から入って、安らかに出入りし、牧草を見つける人生になってほしいです。
 悪魔が作ったゲートの最たるものが、先祖のふりをして人々を地獄に引き込む、「祖先崇拝門」と、経済の中で働く「マモンの門」です。

 最後にみなさんとご一緒にお祈りして、門であるイエス様に心から感謝したいと思います。一言、お祈りします。

 ハレルヤ。天の父なる神様。御名をあがめて、心から感謝をいたします。門であるイエス様、あなたを門として入ることができ、心から感謝いたします。ここにおられます、お一人お一人が牧草と出会い、一度しかない人生、幸せに暮らすことができますように。決して、悪魔の策略に引っかかり、騙されたりしないようにしてください。お一人お一人の上に、特別な祝福がありますように。今から聖餐式を行います。イエス様門から入ります!という宣言として祝福してください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。