『今日も明日も次の日も』

2016年8月14日(日)
新城教会牧師 滝元開
ルカの福音書13章33節

『だが、わたしは、きょうもあすも次の日も進んで行かなければなりません。なぜなら、預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはありえないからです。』

 今日はこのみ言葉から学んでいきたいと思います。タイトルは、「今日も明日も次の日も」ですが、このみ言葉は、ネパールツアーの最終日、カトマンズのホテルで与えられました。
 ネパールツアーは、今年で三回目となりましたが、毎回、みなさんご存じのように、過酷なんですね。山を上がっていたりすると、何してるんだろう?と、ちょっと思うんですね。この歳になってというか、順先生はすごいですね。本当にあの苦しい山を上がって行くのです。若い人たちは喜んでほいほい行くんですが、本当は半ば、命がけなのです。毎回すごい暑い中で。でも今回はすごく涼しかったのですが。
 ただ、そこを上りながら、何でこんなことしているのかな?と、ちょっとだけ思うのです。私たちの願いは、日本のリバイバル、世界のリバイバル、この国が変わるように、その事だけのために戦っているわけですが、にも関わらず、リュックを背負って、一生懸命山を登っているのです。何をしているのかなぁ?と、ちょっとだけ思わないわけでもないのですが、そんな過酷なツアーを終えて、カトマンズのホテルに来ました。
 今回、中学生の二人の兄弟が一緒に行ってくれて、なんとか彼らを無事に日本まで連れて来なきゃ!と思って、基本、同じ部屋だったんですね。そして、一人の兄弟は、途中、具合を悪くしたりして、部屋の隅っこで丸くなって、ずっと動かないのです。「明日、山に登るぞ。」と言っても、何もしないのです。ただ、大きなリュックサックがあって、そのリュックを見たら、普段、聖書も読まない彼が、何と、大きな荷物の中に、大きな聖書まで入れて山に上がろうとしているのです。「いつも読まない聖書をどうして持って行くんだ?」と、もう一人の兄弟は小さな新約聖書を持っていたんですが、彼は大きなのを持って山に登ろうとしているのです。「ちょっと待てよ。それないぞ!」と言って、私が聖書を取出しました。聖書を取り上げる牧師って、なかなかいないと思うのですが、取り上げて、一緒に山に登りました。
 そして、彼はなんとか山に上がって、山に上がったら、結構元気で、にこやかにいろんな作業をしました。そして、山から帰って、カトマンズに着いたら、また丸くなっているのです。そして、部屋の片隅にいるのです。でも、こうやって、丸くなって何をしているかな?と思って、ちょっと覗いたら、なんと、聖書を読んでいるのです。しかも、創世記五章まできたとかいって、彼にしたら三年分くらい読みました。これからも続けて欲しいのですが、そんな横で、私は聖書を読んでいました。いや〜、今回も本当に大変だったな。本当に守られて、パーフェクトな旅だったのですが、一歩間違えたら、谷底に落ちるようなツアーで、すごく大きな祝福と勝利!これは絶対に必要だ!と、分かっているにもかかわらず、いや〜、これで最後かなぁと、ちょっとだけ思わないわけでもありませんでした。
 そんな中で与えられたのが、今のみ言葉で、イエス様が、『だが、わたしは、きょうもあすも次の日も進んで行かなければなりません。』と言われました。本当にすごくドキッとしました。リスクを恐れて、もうこれ以上、進むのが嫌だなと思う時がないわけではないですが、そんな中でも、イエス様は、イエス様ご自身はエルサレムに登って行かれ、私たちの罪のために十字架にかかるために、ただエルサレムにまっすぐ向いて、進んで行かれたわけです。イエス様が最後の最後まで、エルサレムに進んで行かれたように、今日も明日も次の日も進まなければならない。リバイバルというのは、そのようなものだということを主が語ってくださいました。帰りの日、ホテルからバスに行くまで、デコボコの道をトランクをかついでバスまで行ったのですが、このみ言葉がずっと心に響いていて、「きょうも明日も次の日も、イエス様、ごめんなさい。あなたが行けという所であれば、いつでも喜んで行きます!」と言って、ネパールから帰国して参りました。

 一年前のネパール宣教ツアーは、とっても悲しいツアーとなってしまいました。明牧師が天に帰るという大事件が起こりました。しかし、父が天に帰って一年後、今度は母の容態が思わしくなくなって、いつ天に帰ってもおかしくないという状況でした。こちら日本側、待っている家族は、一生懸命祈って支えてくれました。またも、昨年のような、同じ悲しみをネパールで味会わせたくない!と言って、あまりこちらネパールにいる私たちに母の大変な状況というのを知らせてきませんでした。
 ただ、今時代、携帯電話でスマカメというのがありまして、母の部屋の様子をライブ映像で二十四時間見ることができるので、ちょうどWi-Fiがつながり私が映像を見てみたら、なんか、私の家内が、「はぁーー!!」みたいな大変そうな顔をしていたのです。彼女は分かりやすい人なので、これ、何かあったな!と思ったのですが、「おばあちゃん、がんばってる!大丈夫!ネパール、山、がんばって!」と、励ましのエールばかりがくるのです。だから大丈夫なのかな?でも、この映像?でも、その後によく見ると、その周りで娘たちはニコニコして、何気なくいるので、あれ?何もなかったのかな?と思ったのですが、後から聞いたら、その八月一日、昨年、父が天に帰った、その時のその時刻に、「本当に大変な状況だった。あれは戦いだった。」と言っていましたが、そんな戦いを経て、そして母も、なんとかネパールから私たちが帰るまでがんばる!」と言って、がんばってくれたらしく、そしてネパールから帰って、たった四日後に天に帰って行きました。神様ご自身はすべてのことを支配してくださっていて、特に昨年の父が天に帰った時から、今回に至るまで、いろんな事を教えられました。
 父の最期を見て、いや、神様のなさることは、すべて時にかなって美しいなと、本当に思いました。伝道者の書三章十一節にあるみ言葉ですが、

『神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。』

 神様のなさることは、時にかなって美しいけれども、永遠の最初から最後まで、私たちは見ることができないのですが、でも、私たちの人生が神様の手の中にある時、時にかなって美しいなぁということをすごく、昨年感じました。

 そして、もう一つ感じたのは、第一コリント人への手紙十五章五十四節、

『しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた」としるされている、みことばが実現します。』

 「死は勝利にのまれた。」これは、父が癌宣告を受けて、最初に言った言葉が、「すばらしいなぁ!」という言葉で、さらに「クリスチャンって、すばらしい!永遠のいのちを持っているってすばらしい!」という言葉を残し、様々な戦いを経て天に帰って行きましたが、死そのものが敗北の瞬間ではなくて、勝利の瞬間だったというのをしっかり見ました。

 また、マタイの福音書十章二十九節には、途中からお読みしますが、

『そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。』

と書かれています。雀一羽が地に落ちるのも、天の父の許しなしに落ちないのにも関わらず、私たち、神の子とされた者たちの命が、父の許しなしに落ちるわけがないのです。
 だから、昨年のことをいろいろ思い返して、父が、ちょうどチトワンのホテルに着いた時に、天に帰って行きましたが、あの一連が、ネパールの悪魔にやられちゃったという思いはゼロなんですね。イエス様の支配の中で、すべてを美しくする主ご自身が、しかも雀一羽さえその命を握っておられる神様が、天の父なる神様の御手の中で、父は天に帰って行ったなということを見たものですから、母がそのような状況の中で、今年また再びネパールに行く時、なんか昨年とは違いました。すごく大きな平安がありました。すごく大変な中にあるんだろうなと思いましたが、神様はすべて最善をなさるから、必ず神様の御手の中での勝利がある!と、すごく感謝しました。

 行く前に、娘が集会の中で、泣きながら、こう言っていました。「本当は、こんな事が二年も続いて、ネパールなんかなければいい!と思った。ネパールツアーなんかやるから、こういう事になっちゃうのよ!」って、ちょっとだけ思ったそうです。でも、神様がみ言葉をくださって、これも本当に神様が導いてくださることだ。神様が完全に良くしてくださる!最善にしてくださる!と、そう言っていました。
 私自身も、そんな声を聞きながらネパールに行きましたが、やはり神様はすばらしいお方で、すべての事を勝利に導いてくださるお方でした。そんな母の死を前にして、今回、伝道者の書七章一節が、心に響いていました。

『死の日は生まれる日にまさる。』

死ぬ日が、生まれる日にまさるのです。生まれるその瞬間というのは、一つの命が誕生して、すごく美しい、すばらしい瞬間だと思うのですが、神様の御手の中にある私たちの人生というのは、死ぬ日が、生まれる日よりもすばらしいものだ!というみ言葉が与えられて、いや〜、今回どんな神様の御業をなしてくださるのかなと思って、じっとその時を過ごしました。

 ネパールから帰って、すぐに母に会いに行って、「おっかさん!帰って来たよ!」と言ったら、「うんうん!」と言って、最初、喜んでくれました。たった四日間で天に帰ったのですが、ただ昨年は、父が天に帰る時、その父の枕元にいなくて、携帯越しで、遠い異国で、その寂しさはひとしおでした。
 今回、母が天に帰る前の一週間、二十四時間体制で、また孫たちが朝も昼も夜も夜中もずっと付いていました。そんな中で、火曜日が教会スタッフは休みなものですから、月曜日の山の祈祷会から帰って、そしてその日の夜、私は母の所に付きました。夜中の十二時、家内たちと交代して、朝まで、私の娘の暁起と一緒に、母をずっと見守っていました。前半は私がちょっと休んで、夜中三時に交代しました。三時に交代したら、そこまでずっと母は、安らかな寝息だったのですが、私に交代した途端、ちょっと苦しそうになりました。はっ!大丈夫かな?と思って、真夜中の三時。これも戦いだなと思って、一生懸命祈りました。悪しき力が一歩も触れることがないように!と、真剣に祈って、背中をさすったり、寝ているむきを変えたり、いろんな事をしました。そうしたら、一時間経ったら、またすっと楽になって、楽に息をし始めました。
 その日の日の出は五時六分でした。だから、五時六分になったら窓を開けようかなと思って、じっと朝を待っていました。そして、五時過ぎ、突然、母に異変を感じたので、私はすぐに、こうやって母を抱きかかえて、「おっかさん!大丈夫!?大丈夫!?」と言いました。そうしたら、さっきまで普通にしていたのが、ちょっとごほごほってなったかなと思ったら、そうこうしているうちに、すっと天に帰って行きました。本当に一瞬の出来事でした。
 「死の日は生まれる日にまさる」と書かれていますが、イエス様ってすばらしいな!人に命をお与えになられ、そして人の命を召される。いや〜、すばらしい瞬間だなと本当に思いました。なんかその時、母がいたその部屋が、私の中のイメージでは、エルサレムの園の墓みたいな、そんなイメージがありました。「イエス様はよみがえられました。ここにはおられません。」と、あそには書かれていますが、なんかよみがえられたイエス様のすがすがしさと、イエスさまの力が、その部屋にあるのです。「あ〜!おっかさん、行っちゃった!」という悲しみの叫びではなくて、「やっぱり勝利だった!」という、大きな勝利の中の朝を迎えて、母が天に帰って行く姿を見ることができて、すごく感謝でした。
 ですから、昨年、ネパールの地でそこにいられなかったのが、今回は、今回といっても次回はないですが、母を看取ることを許されて、個人的にはラッキー賞だったな!と思っているのですが、主がそのような所においてくださったことを、心から感謝しています。

 神様ご自身のなさる業、この新城教会に対して、主が成してくださっている一つ一つの働きというのは、すごく大きな働きで、この日本のリバイバルというビジョンが与えられて、父がイエス様を信じて、東京のあの武蔵野の林の中で祈っていて、イエス様!日本にリバイバルを!と、祈り始めたら、どうしてか分からないけど、ただただ涙が出て、それからその情熱というのは消えなかったと、父の書いた本の中に書かれていますが、そのような使命が与えられた二人がこの地に来て、福音の働きが始まって、リバイバルを求める働きが始まり、そしてこの日本のリバイバル!という中で、戦い始めた中で、さらに始まったことが霊的戦いで、この地の祝福をとどめるサタンの力が打ち破られるためにはこれしかない!ということで、神様がはじめてくださった霊的戦い。
 そして、その働きが、この日本のみならず、アジアに、世界に、と広がっているこの中で、父が一年前、そして母が今年、天に帰ったという中に、すごく大きな神さまのご計画の中のスケジュールが進んでいると信じています。神様のなさることは、全て時にかなって美しく、そして神様がこれからしようとしておられること、それは、神様がこの新城教会に対して、私たち一人一人に対して、もっておられる計画というのは、すごく大きな計画だと思うのです。
 私たちが思う以上の大きな計画ではないかと思うのですが、それをヨシュアの世代として、本当の意味で、これから、「さぁ!戦うべき時だ!」「今日も明日も次の日も戦い続けなさい!」と、神様がおっしゃっておられるな!と強く感じています。

 どうしてネパールに行くの?と、思われる方もいらっしゃるかもしれないですが、やっぱりこの日本のリバイバル、世界のリバイバルを見て行く時に、やっぱりその悪しき流れの源流に対する戦いというのがどうしても必要だなと思うのです。普通、川というのは、川の源流は清らかで、だんだん汚されていくわけですが、この霊的な流れの源流は、すごく汚れきっています。
 今回もネパールに行かせていただいて、本当にこの日本の偶像礼拝の根源に働く悪しきものの策略というのはあまりにも大きいな!そこで私たちが祈って賛美して勝利を掲げること!これがどんなに大きなことかな!ということを、すごく強く感じさせられております。

 毎回、ネパールに行く人は、行く前にそれぞれいろんな物を用意し準備します。リュックサック買ったり、寝袋買ったり、いろんな物を準備するのですが、そんな準備のために、私は二回ほど、私はこの新城の街に行きました。
 一回目、一つのお店に行って、準備のために行きました。そして、そこのご主人といろいろ話していて、「やっぱり山に上がるためには…。」と、ぽろっと言ったら、『登山されるんですか?』と言われるのです。「いや、登山というほどではないんですが。」『どこに行くんですか?』と、また言われて、「ネパールに行きます。」と言いました。ネパールに行くと言うと、やっぱり、ヒマラヤを目指すすごい人たちを思うので、「ネパールに!?」と驚かれるのです。「ネパールの山に、山岳民族の所に、私は教会の牧師で、うちの若者と一緒に上がるんですよ。昨年も、一昨年も、登山には七時間かかりました。」という話をしました。
 そうしたら、そこのご主人、すごく興味を示してくださって、『えっ!何のために行くんですか?』と言うのです。何のために?子どもたちに元気になってもらうためなんて、そんな当り障りないことを言うのは嫌だったので、「日本の源流が清められるために行きます。」と、ついつい言っちゃったのです。『なんですか?それは?』と言うので、「日本にある神社仏閣、いろいろありますけど、あそこの神々は神々と言っていますが、本当の神様と偽物の神様がいて、偽物の神というのがいて、その神々というもののルーツはヒンズー教で、そのヒンズー教のルーツがネパールにあるので、そこの神じゃない神々の悪魔の力が砕かれるために行きます。」と、はっきり言いました。そうしたら、その方は、この新城の中心的な神社の近くの人なのですが、『ということは、あそこの神社も悪魔ですか?』と言うのです。「はい、悪魔です!」と言いました。すると、『あそこは牛頭天皇っていますよね?』「牛頭天皇、牛頭天皇というのはスサノオですけど、スサノオの化けの皮を剥がすとシヴァ神なんですよ。破壊神。だから、あれは破壊神。だからまずいんですね。あそこを拝んでいると良いことありません。」と言ったら、『そうですか!分かりました!』と言うのです。そして最後、そのお店を出る時、そのご主人、『がんばってください!』って、頭、九十度ですよ。こう下げてくださり、私は、「はい!がんばります!」と言って帰って来ました。いや〜、新城市民にこんなに応援されるとは思わなかったなと思いました。

 そして、もう一つのお店に、またその隣の神社の近くのお店に行きました。その時は、ギターのソフトケースを縫うための、たこ糸を買いに行きました。「たこ糸、たこ糸…。」と探していたら、その時はお店の奧さんだったのですが、奧さんともう一人のお客さんがいました。「たこ糸あるかな…。」『ありますよ〜!』とか言ってたんですが、『何を縫うんですか?』と言うので、「ギターのケースをちょっと縫いたいんですね〜。」と言ったら、もう一方のお客さんが、『ギター弾かれるの?』と言うのです。「はい、弾きます。」『えっ?どこで弾くの?』「山の上で弾くんです!」と言いました。『えっ!山!どこの山で弾くんですか?』と、また聞くのです。私は別にそんなこと聞いて欲しいわけでもないのに、そう聞いてくださるのです。「ネパールです。」『ネパール!!!??』やっぱりあのヒマラヤをみんな想像されるのです。『いや〜、すごいですね。がんばってちょうだいね!』そうしたら、今度は二人のおばちゃんが、『気をつけてがんばっていってらっしゃい!』と、まぁ、新城市民にこんなに励まされて押し出されるネパールツアーになろうとは思いませんでした。
 そして、後からすごく考えました。なんでこんなことがあったのかな?これ、新城市民の叫びだなぁと思いました。新城の人たち、イエス様を知らずに、まだ偶像礼拝の中で苦しみの中にあるのですが、そんな中で、この新城教会、何やってんだろう、あの教会、本当にそんな所に多くの人たちを連れて行って、危険な所で何をしているんだ?と思うかもしれないのですが、その源流に働くサタンの力が打ち破られるために、若者が行ってそこで賛美して祈って、そして主の業をなす。これはすごく大きな働きなんだ!ということを、新城のみなさん感じているか感じていないか分からないですが、計三名の方々の叫び声を通して、これは新城の叫びだ!と、私は本当にそんなことをすごく強く感じて、今回は行って参りました。

 ネパールのカトマンズに着いて、最初に行ったのは、みなさん、何度も写真で見ているパシュパティナートという火葬場でした。そこに行って、みんなで、「すべてが生きる!世界が生きる!」と歌いました。写真があると思いますが、それが源流ですね。パシュパティナートというのは、そのシヴァ神の中心的な寺院なのです。ですから、その源流が清められるように!ということで、みんなで心から賛美しました。

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 なんかこの日は、特別、国民の休日的な日だったので、特に火葬はされていなかったのですが、ここでみなさんと一緒に賛美して祈りました。この時、すごく雨が降っていたのですが、個人的にはすごく恵まれました。すべてが生きる、大声ではなかったのですが、でも本当に心から、すべてが生きる!世界が生きる!と歌いました。

 みんなが去った後、実は私はこっそりあの川の中に手を入れました。そして「イエス様!この川が清められますように!癒されますように!」と、代表して手を入れて祈って来ました。普段、死体が焼かれて、その焼かれた破片と灰が川に流され、輪廻という思想の中で、この源流が汚され、そして、そこがガンジス川の支流なので、ここからインドに流れて、世界に流れるという、霊的な図式がありますが、そこで賛美することの意味というのは、どんなに大きなことかと思うのです。
 ある意味この戦いというのは、サタンに対し、王手をかけるというか、その心臓部にガンッ!と行くというか、すごく大きな働きを、神様が、私たちの教会に対して与えてくださっている働きだなと思います。

 もう一つ、スワヤンブナートという、ネパールが一望できる写真があるのですが、そこでもみんなで賛美しました。勝利の宣言を賛美して、心から、大声には出さずに賛美しました。
 ただ今、政治がすごく不安定な中にあって、特にクリスチャンに対しての迫害というのがあって、あまり派手なことができないので、皆が心を熱くして、一生懸命、ここで歌って賛美して、ちょっとだけ躍りました。
 この寺院から下りて来て、途中で、あのおじさんが私に声をかけて来ました。ギターを持っていたので、「あんた、ギター弾くのかい?」と、なんと日本語で話しかけて来てくれました。「おじちゃん、なんで日本語できるの?」と言ったら、「僕は岡山に五年間いたんだ。」と、そういったおじさんでした。「おじちゃん、何してるの?」と言ったら、ミュージシャンだと言うのです。ミュージシャンで打楽器をやっているというのです。
 今回、私たちの願いの中で、賛美を通して、サタンの力が打ち破られるように!ということと、そもそも、神様が与えてくださっているリズムとメロディーとハーモニーを奪回しなければいけない!という、そんな思いがあって行ったのですが、そして、その寺院でのとりなしを終えて、寺院から下って来たら、このおじちゃんが、「ギターを弾いてくれ!」と言うのです。それで、「分かりました!」って言って、Dancingを弾き始めました。そうしたら、彼が喜んで、いいねいいね!と喜び、一緒にリズム取るのです。やっぱりパーカッションをやっている方なので、ほっぺをパーカッションにして、加わってくるのです。そして喜んで一緒に賛美したのですが、本当に神様が、この地の奪われたものを勝ち取るための働きというのは、大声で賛美できないような中でも、その地の人から、歌ってくれ!躍ってくれ!と言ってくれて、こういった賛美の時が与えられたことを見て、本当に感謝しました。

 そしてさらに、チトワンでの聖会も祝福されましたし、特にまた、チトワンでの聖会で、地元の方々が、ザワメキをネパール語にしてくださっているのです。ネパール語でいっぱい歌ってくださっているのです。他の外国で、ここまでザワメキを自分たちの国の言葉で歌ってくださっている国はないのです。しかも結構、しっかり歌ってくださって、また向こうの人たち、耳がいいのです。すべてが生きるパート2、今回もネパール語で歌ったのですが、ネパール語でみんなで会衆に少しずつ教えると、みんなすぐに覚えるのです。そして、子どもたちから大人まで、ネパール語で、「すべてが生きる!世界が生きる!」と、大声で賛美してくださって、すごく感動的でした。

 そして、その次の日、山の上に上がったのですが、山の上での、今回した新たな働きが、とりなしプレイズでした。みんながペンキを塗ったり、医療の働きをしたり、食事を作ったりという、そういうミッションの前に、まずこの周りを賛美してとりなしをしよう!ということになって、とりなしをしました。賛美の中に力があるから、その地域のサタンの力が砕かれるように賛美していこう!ということで、行きました。
 行って、何をしたかといったら、次の写真。

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 こんな感じで、これは人んちのお庭です。突然入って行って、こうしてみんなで歌うのです。日本人が三人と、ハワイの冬木先生の息子さんと、あと地元の子たちが四、五人来て、一緒に歌って、ずっと賛美するのです。突然、お庭に入って行って、歌っていいですか?と、一応聞くのです。歌っていい?と聞くと、先週から言われていますように、こうやって横に首をふるのです。ただなんかちょっと優しい感じなのです。そして、こりゃいいな!ということで、歌うのです。
 そうすると、すごく喜んでくださって、歌を一緒に歌って、躍って、それからまた「お祈りしていいですか?何か問題ありますか?」と言ったら、それぞれの問題を語ってくださって、一緒にお祈りする時を持ちました。

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 この一人のおじちゃんは、「病気ですか?」と言ったら、病気だというのです。目に涙を溜めながら、「どうしてか分からないけど、どんどん痩せちゃうんだ。」と言うのです。そこで一緒にお祈りをして、その場を去りました。
 そして、次は、ずっとこの村を巡って、教会の上にあるんですが、ヒンズーの寺院で、みんなで賛美しました。

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 本当に神様が、そういった中にも、大きな祝福と勝利を現してくださって、主の大きな恵みを、主が注いでくださるひとときであったことを、心から感謝しています。

 実は、昨年から、私たちがそこで寝泊まりをする場所で、寝ていると、真夜中に、太鼓の音がするのです。ドンドンドドドンみたいなですね。いかにも偶像礼拝をしていますという音が、真夜中中、響くのです。そしてどんどんヒートアップしていって、明け方、これかなり、悪魔の感動を受けてやっているな!という音が、ずっと鳴り響くのです。そして、私たちが行く前の先発隊も、毎晩そうだったんですって。
 そして私たちは、そんなことを知っていたものですから、ぐるっと回って、そういった所をとりなしたい!と言って、地元の子たちと一生懸命歌って踊って行きました。そうしたら、今回、二日間いる間、その太鼓の音が一つも聞きませんでした。地元の人たちも言っていました。「これは祈りの勝利だ!」と言っていましたが、すごく大きな勝利でした。

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 そして、次の写真ですが、ここはその寺院から下りて来た所に、そこの祈祷師のおじちゃんの家だと思うのですが、そのおじちゃんの家で、先週ご覧いただいた鶏を買いました。それで、鶏を彼らが手にして何をしたかといったら、おじちゃんの、その祈祷師の家で躍りました。
 普通、ネパールの山の上の家は、シンプルな家なのですが、ここの家だけ、なんか偶像の張り紙がしっかりと貼られていて、いかにもヒンズーに仕えていますという家だったのですが、この青年たちが、元々、山の子たちなのですが、すごく燃やされて、みんな鶏を両手に持って、「Singing!Dancing!」と躍ったのです。その鶏付きの映像はないんですが、本当に神様がすばらしい恵みを与えてくださって、大きな勝利を、今回与えてくださったことを見て、本当に心から感謝しました。

 とりなしを通して、そういった悪しき叫びを消し去る御業を、主は成してくださっていると、本当に信じています。ですから、このネパール宣教、何のために、どうしていくのかな?と思わないわけでもなかった中で、こういった一つ一つの働きを通して、この日本のリバイバルのみならず、世界と、このアジアのリバイバルのために、どうしても必要な働きの一つだ!と、主は今回導いてくださったことを覚えて、本当に心から感謝します。

 あと、一つ、一人の少年が、二年前、一番最初に行った時から、ひときわ偉才を放つ小さな少年がいました。

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 これは、一昨年の写真です。躍っている写真です。この真ん中の赤いシャツの男の子。この子が、この時も激しく躍っていました。これは何というか、まぁ主に触れられてなのか、どっちなのかなと思ったのですが、昨年の写真は、これなんです。

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 順先生から祈られて、ぶっ倒れているんですね。彼は聖霊の力をいただいて。

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 彼が本当に成長していまして、次の写真。すごくたくさんの木を持っているのが彼ですが、彼が先発隊の時から、ずっと顔を出して、ずっと助けてくれた少年なのです。彼は一緒にとりなしにも行ったのですが、行くと一緒に歌うは躍るは、そして祈るとなると、カーッ!と祈るのです。リバイバル!って、祈るのです。これも人手じゃないのです。

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 そして、彼がこんなに立派になりました。なんと、これはネパールのTシャツと、冬木先生が持って来てくださったジーンズを手にして喜びました。
 そして、このツアーの最後に、その朝、順先生が、呼び寄せて祈りました。

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 最後、これから山を下りるという時に、彼を前にして、順先生が何と言ったかと言ったら、「この少年が、この教会の牧師になるように!」という祈りをしました。神様ご自身が、毎年投げ込み続けていた火というのは、決して無駄ではなく、そこで燃え続けているという姿を今回も見させていただいて、いや〜、神様の働きってすばらしいな!そして、今はまだわかんないかもしれないけど、必ず、その悪しき源流が清められて、変えられていく時に、必ずこの地に勝利が現される!日本に、全世界に、大きな勝利が現される!と、そのことを本当に強く強く感じて、帰って参りました。

 ルカの福音書十二章三十二節、これもカトマンズのホテルで与えられた御言葉なのですが、

『小さな群れよ。恐れることはありません。あなたがたの父である神は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。』

 小さな群れよ。恐れることはありません。全世界のリバイバル!その観点から見たら、私たちはあまりにも小さな群れかもしれませんが、恐れることはない!この御国を喜んで与える!と、イエス様はおっしゃっているので、そのイエス様が喜んで、「おまえたちに与える!」と、イエス様を喜ばせるために、さらに戦い続けていきたいなと思っています。

 私、この年に与えられたみ言葉が、最近、この礼拝でよく開かれているみ言葉で、黙示録の黙示録三章八節、

『わたしは、あなたの行いを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。』

 このみ言葉が、この二〇一六年、与えられたみ言葉であったのですが、主は、この福音宣教、世界宣教という、この扉を大きく今開いてくださって、誰も閉じることのできない門が開かれているので、私たち、様々な戦いの中で、時にはリスクを恐れて、これ以上進むのはちょっとどうしようかなと思うような中にもありますが、しかし主ご自身が語ってくださるのは、最初にお読みしましたルカの十三章三十三節。もう一度お読みします。

『だが、わたしは、きょうもあすも次の日も進んで行かなければなりません。なぜなら、預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはありえないからです。』

 イエス様が死ぬ場所というのは、エルサレムと定められていました。そこに向かってまっすぐ行かれて、ご自分が苦しみを受けて十字架にかかるという、それがはっきりご存じであったにも関わらず、そこに今日も明日も苦しくても進むしかない!と、イエス様は進んでくださったわけですが、この全世界のリバイバルという、主が託してくださった私たちの教会に対して託されているこの計画をしっかりと受け止めて、今日も明日も次の日も戦い続けていく時に、必ず神様は喜んで御国をお与えくださる業を起こしてくださると信じています。

 是非また、本当にこの教会での働き、また全日本での働き、祈り続けていきたいと思っています。
 今週は、東北の被災地を巡ります。そんな中で、仮設住宅でのコンサートであったり、また普通ではなかなか行かないような教会に被災地では行きます。今回、一つの教会が、日本キリスト教団という教会で、ある意味、リバイバルとか、霊的戦いとか、そういう言葉さえ聞かない教会なのです。ですから、そういう情報さえ入らないので、良いも悪いもないのです。
私たちが行くということで受け入れてくださって、そこの礼拝で来週はその岩手県の教会で奉仕をするのですが、先週、そこの牧師先生とお話をしました。そういった教会ですので、極力ソフトに誰にでも届きやすいような形のプログラムを準備したらいいかなぁと思って、お電話して、「先生。来週は、よろしくお願いします!」って、お電話しました。
 そうしたら、その先生から、ちょっと耳を疑う言葉を聞きました。「あの、来週の礼拝ですが、」と言うから、何か難しいことをおっしゃるのかなぁと思ったら、「なんとか、新城教会の礼拝を体験できないものですかね?」と言うのです。えっ?新城教会の礼拝を体験する?「はい。体験したことのない、そういう礼拝を体験してみたい!と、信徒がそう言っているものですから、次回はいつも通りやってください。」と言うのです。だから是非、来週、お祈りいただきたいと思います。
 本当に、誰も閉じることのできない門の一つが、そういった中にも主は開いておられるんだな。今まで、聖霊のせの字も聞かないような、だからその先生、何年か前に、被災地の仮設住宅で一緒だったのですが、「それでは先生、最後にお祈りください。」と言ったら、「はっ!祈りですか。ちょっと待ってくださいよ。」と言って、何をするかと思ったら、ポケットからカラーを取り出して、首にカラーをつけて、「それじゃぁお祈りします。全能なる父なる神様…。」と祈り出しました。ひたすら形なのです。でも、そこに聖霊様が働こうとしておられて、同じことを体験したい!聖霊様ご自身が、今この日本に臨みたいと思っておられるんだなということを、すごく強く感じています。
 これからのリバイバルの働き、とどまることはできません。今日も明日も次の日も、戦い続けていく時に、神様の大きな勝利、御国が現されることを信じています。一言、お祈りさせていただきます。

 ハレルヤ。愛する天のお父様。あなたのすばらしい御名をあがめて、心から感謝します。今日、こうして私たちはあなたに賛美を捧げ、あなたを礼拝する、この大きな恵みの中に入れていただいていることを、心から感謝します。今日も、明日も、次の日も進んでいかなければならないと、イエス様がエルサレムを目指して語ってくださったことを心から感謝します。私たちも、主よ、真のエルサレムがこの地上に現されるために歌い続けることができるように、戦い続けることができるように、力を与えてください。
 この新城教会の歩み、あなたが一歩一歩、ここまで導いて支えてくださったことを心から感謝します。あなたは今も、私たちを支えてくださっていることを心から感謝します。明牧師が天に帰り、また清子牧師が天に帰りました。残された私たち一人一人、あなたが託してくださっているこのリバイバルという、しかもこの世界のリバイバル、この根源からくつがえすリバイバルという使命を、私たちに与えてくださっていることを心から感謝します。そのために戦い抜くことができるように、戦い続けることができるように、そのような力を与えてください。油そそぎを与えてください。勇気を与えてください。そして、主のために私たちが生き続けることができるように支えてください。今日のこの時を心から感謝します。すべての栄光を主にお返しして、尊き主イエス・キリストの御名によって、この祈りを父なる神様の御前におささげいたします。
アーメン。