『山から出てきた一つの小石 パート2』

2016年8月21日(日)
新城教会主任牧師 滝元順
ダニエル書2章41節~45節

『あなたがご覧になった足と足の指は、その一部が陶器師の粘土、一部が鉄でしたが、それは分裂した国のことです。その国には鉄の強さがあるでしょうが、あなたがご覧になったように、その鉄はどろどろの粘土と混じり合っているのです。その足の指が一部は鉄、一部は粘土であったように、その国は一部は強く、一部はもろいでしょう。鉄とどろどろの粘土が混じり合っているのをあなたがご覧になったように、それらは人間の種によって、互いに混じり合うでしょう。しかし鉄が粘土と混じり合わないように、それらが互いに団結することはありません。この王たちの時代に、天の神は一つの国を起こされます。その国は永遠に滅ぼされることがなく、その国は他の民に渡されず、かえってこれらの国々をことごとく打ち砕いて、絶滅してしまいます。しかし、この国は永遠に立ち続けます。あなたがご覧になったとおり、一つの石が人手によらずに山から切り出され、その石が鉄と青銅と粘土と銀と金を打ち砕いたのは、大いなる神が、これから後に起こることを王に知らされたのです。その夢は正夢で、その解き明かしも確かです。」』

 ハレルヤ!ヘブンリー・キングダムの賛美、すばらしかったですね。よく練習しただろうなぁ、と感心しました。あれだけ合わせるのには、相当大変だと思うのですが、彼らは一生懸命練習していて、二十二日のコンサートのために備えています。

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是非とも協力してあげていただきたいと思います。良い伝道の機会になります。友達を連れて行かれたら良いのではないかと思います。
 何年か前にも豊橋でコンサートがありました。すばらしいコンサートでした。今回も、マニング先生ご夫妻が、ロサンジェルスから来てくださいます。そして、本格的なゴスペルを歌ってくださいます。是非、みなさん、予定に入れておいて下さい。
 彼らの衣装、何気なく普段着でしたが、一つになっていました。みんなバラバラだなと思うのですが、遠くから見ると一致していました。これが教会の姿です。いろいろな人たちが居ますが、遠くから見ると、麗しいなぁ!と。素晴らしいハーモニーを聞かせていただきました。ワークショップなどにも行って、一緒に歌ってみるのも一つではないかと思います。

 今日は八月二十一日です。あっという間に時が過ぎていきます。学生の方々も、あっという間に夏休みが終わってしまって残念ですね。休暇の方々もお休みも終わり、これからは現実の世界に入らなければならないですね。
 私も、この八月、怒濤のようなスケジュールがありました。それに加えて母の調子が悪くて、いつ召されるのか分からない状況がありました。母も、九十四才になるところでした。母を見ていて、よくぞここまで命を使い切ったもんだ!と感動しました。
時々、歯磨きのチューブで中身が出なくなって、思いっきり丸めて丸めて、先っぽを押すと、ちょろっと出る時があります。まさに母もそんな感じで、命を絞りきったような人生でした。だからいつ召されてもいいと私は考えて祈っていました。だから私は真剣に祈りました。「主よ、私のスケジュールから言って、八月九日か、十日くらいが一番いいと思います。」するとそのとおりになりました。主は、すべて時にかなって美しくして下さいました。心から感謝します。

 人生って、ある意味、分かりません。滝元家も、順番で行けば、父、母、そして今度は俺かな?という感じですが、やはり、備えておかなければいけないなと思います。
 これは、去年の五月の教会の遠足の写真です。

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 この時は二人とも元気でした。しかし、親父はこの三ヵ月後に死んでいきました。母親のほうが先かなと思って、私は葬式用に写真を撮っておいたのですが、分からないものです。地上の役割を終えたら、誰でも地上から出ていく日が来るのです。
 私たちクリスチャンには望みがあります。人生は地上だけで終わるのではなく、その後も続いていきますから。地上での別れも、ちょっとの我慢です。やがて会うことができるわけですから。その事を考えたら、希望を持って生きることが出来ます。

 去年の八月、父が召された時、ヨシュア記一章一節~六節のみ言葉が与えられました。何度も紹介させていただきましたが、ヨシュア記一章一節~六節、

『さて、主のしもべモーセが死んで後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに告げて仰せられた。「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。あなたがたの領土は、この荒野とあのレバノンから、大河ユーフラテス、ヘテ人の全土および日の入るほうの大海に至るまでである。あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。強くあれ。雄々しくあれ。わたしが彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ。』

 モーセという人物は、ヘブル民族をエジプトから引き出し、カナンの地まで連れて行く重要な役割を持った人物でした。主から、「あなたがカナンの地まで連れて行くんだ!」と言われたのですが、なんと、カナンの地に入る直前、それもカナンの地が見える丘の上で、彼は息を引き取ったわけです。何故なら、カナンの地まで連れて行くという計画は、モーセが立てた計画ではなく、神が立てた計画であったからです。
 モーセはリーダーシップがあり、カリスマ性のある人物でした。彼が死んでも、神の計画は、次の世代、ヨシュアという人物に引き継がれ、新しい世代がカナンの地に入りました。

 出エジプトからカナンの地に入るというストーリーは、聖書全体に対応した重要なストーリーです。
聖書って、「一、なになに。二、なになに。三、なになに。」と箇条書きで書いてありませんから、なかなか理解が難しいです。この分厚い書物の中から情報を正しく抽出するのは、なかなかたいへんです。それも何千年も前に書かれた書物です。
 しかし、近頃、聖書の研究がかなり進み、聖書全体が言いたいことが何か、よく分かってきたのです。
 この書物は、究極的には何を語りたいのか?ということが、詳しい研究の結果、分かってきたのです。
 それが何か。聖書は創世記が最初ですが、『はじめに神が天と地を創造した。』という箇所から始まっています。私たちは、それですべてが完成と、思ってしまうのですが、『はじめに神が天と地を創造した。』というのは、始まりに過ぎないのです。最終的な結論は、天と地が新たに、「新しい天と新しい地」となり、そこを天国として、主を信じる者たちが永遠に生きる、そこに結論があることが、はっきりと分かってきたわけです。
 聖書全体で言いたいことは何か?「天地創造から、新しい天と新しい地の創造」です。
 そして、各時代の登場人物は、神の壮大なストーリーの各パートを担う役者のような存在であったのです。そして、まさに私たちも、神の壮大なストーリー、天地創造から、新しい天と新しい地の創造というドラマを担う為に、神から特別選ばれた存在なのです。

 ヨハネの福音書十五章十六節の所に、こんな言葉があります。これは大変すばらしい言葉です。

『あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。』

 この言葉は、私にも、あなたにも、主が語っておられる言葉です。
 教会には、偶然が偶然を呼んだ形で来たように思いますが、そうではないのです。主が私たちを選んでくださったのです。神の壮大なドラマの配役として、キャスティングされたのです。すごいことじゃないですか!神様が一番やりたい、新しい天と新しい地の創造という、壮大なストーリー実現の為に、あなたを選んで下さったのです。

 今日は、感謝なことに、三名の方々が洗礼を受けます。いろんな理由があって教会に来られたかもしれませんが、やがて、地が改まった時に気づくのです。「私はすごい役割として選ばれたんだ!」と、事実を知る日が来るわけです。
 でも、後になってからより、今から役割を知っておくべきです。今日、ここにおられる方々の中で、役割から漏れている人は、誰一人いません。

 私の両親も、神から選ばれました。父は、北設楽郡津具村という、ど田舎から選ばれました。津具村って、知っていますか?私もそこで生まれたのですが、ここから一時間くらい山奥に入った場所です。

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 戦後、父は東京に勉強に行き、クリスチャンになって、母と出会って結婚し帰って来て、教会を始めました。それで六十五年も経ったら、こんなに大きく広がりました。これは個人的な仕事ではないのです。神様が一人の人物を選んで、神の壮大なストーリーの中、「この役割を与えよう!」と、役割が与えられたわけです。しかし、彼らの仕事が終わったので、幕が降りたのです。

 本当の天国は、死後の世界ではありません。この地上が天国となるのです。この地上は、ゴミ捨て場ではないのです。神が、やがてこの地を新しい地に変えて、この地が天国となって、永遠に主と共に過ごすというのですから、すごいです。死も一時的なことです。クリスチャンは、やがて地上によみがえってくるわけですから。
 その全体的なストーリーが、出エジプトから、カナンの地への入国に描かれているというわけです。

 今日はまた、献児式があります。それもダブル献児式です。菊池卓央・さやか夫妻と、岡本出・則子夫妻に与えられた赤ちゃんの献児式があります。
 二人の赤ちゃんの名前を見て、「これは預言的な名前だ」と思いました。菊池家の赤ちゃんの名前は、朝が来るちゃん。朝来(あさき)ちゃんです。
 岡本出家もふるっています。「出」ではなくて、「入」ちゃんです。出るのではなく、入るという名前です。いや~、うまいことつけたな~と感心しました。いづるという名前は、誰が付けたかというと、私の父がつけました。父が私に「信弘先生から、今度生まれる赤ちゃんの名前を頼まれた。」と言いました。「何という名前を考えたの?」と聞いたら、「いづる」と言いました。私は、「ちょっと響き悪いな~!」と思って、正直、信弘先生がその名前を採用するとは思わなかったです。しかし、先生は先見の目がありましたね。いづるという名前を息子に付けたわけです。出エジプトです。そして、今度、生まれてきた孫の名前が、「入(いり)」君ですから。
 朝来ちゃん、朝が来るという、イエス様の再臨を現しています。まさに、新しい天と新しい地の創造です。そして、入君、いいですね。新しい地に入る。彼らの世代に、主が帰って来られるのかもしれないな~と思います。それぞれの世代に、それぞれの役割があるのです。

 毎日、教会では、スタッフたちが集まって働きを始める前に、順番で、ショートメッセージがあります。先週、私が朝礼に出た時、伊藤あい子スタッフがメッセージを語りました。私はそのメッセージに感動しました。どこから語ったのかというと、ヘブル人への手紙十一章三十二節~四十節から語りました。

『これ以上、何を言いましょうか。もし、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、またダビデ、サムエル、預言者たちについても話すならば、時が足りないでしょう。彼らは、信仰によって、国々を征服し、正しいことを行い、約束のものを得、獅子の口をふさぎ、火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました。女たちは、死んだ者をよみがえらせていただきました。またほかの人たちは、さらにすぐれたよみがえりを得るために、釈放されることを願わないで拷問を受けました。また、ほかの人たちは、あざけられ、むちで打たれ、さらに鎖につながれ、牢に入れられるめに会い、また、石で打たれ、試みを受け、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊ややぎの皮を着て歩き回り、乏しくなり、悩まされ、苦しめられ、──この世は彼らにふさわしい所ではありませんでした──荒野と山とほら穴と地の穴とをさまよいました。この人々はみな、その信仰によってあかしされましたが、約束されたものは得ませんでした。神は私たちのために、さらにすぐれたものをあらかじめ用意しておられたので、彼らが私たちと別に全うされるということはなかったのです。』

イエス・キリストを信じると、すべてハッピーになる場合もありますし、ならない場合もあります。しかし、「クリスチャンになったらハッピーになりますよ!」と言う言葉は、間違いではありません。最終的にはなるのですから。でも、クリスチャン生活の中身はいろいろです。
最初に述べられていた、ギデオン、バラク、サムソン・・・、という人たちは、信仰によって、国々を征服し、正しいことを行い、約束のものを得、獅子の口をふさいだという、勝利を勝ち取った人たちがリストアップされています。

 しかし、その後に出て来ている人たちは、どういう人生であったのかというと、あざけられ、むちで打たれ、鎖につながれ、牢に入れられ、石で打たれ、試みを受け、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊ややぎの皮を着て歩き回った、「この世は彼らにとってふさわしい所ではなかった」というのです。
 信仰生活は、両面を押さえておかなければいけないのです。すべてハッピー!といく場合もありますが、聖書の中には、苦しみを受けながら信仰を持ち続けた人たちがいるからです。彼らにとって、この地は、喜ばしいところではない、ふさわしい所ではなかったと言うのです。その人たちも、時が来て、この地上から出ていったわけです。
続けて、ヘブル書十二章につながるわけですが、ヘブル人への手紙十二章一節~三節、

『こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。』

 時々、いろんな問題があったりして、疲れ果てることがあります。クリスチャンになったけれど、あんまりいいことないなぁ~。一生懸命祈ったけど、なかなか祈りは聞かれないじゃないか!って。いつも順先生は華々しいことを語るけど、現実は違うって感じることがあると思います。本当にあるのです。そういうの。私にだってあります。疲れちゃって、信仰も、もういいかなって思ってしまうような時があるかも知れません。しかし、疲れ果ててはいけないのです。
 十二章一節に、『こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いている』とあります。多くの証人たち、雲のような大群衆が私たちを取り巻いているというのですが、誰のことを指しているのか、それは、十一章でリストアップされていた人たちのことです。
 ギデオン、バラク、サムソン、ダビデ、サムエルとか、大勝利をおさめた人たちだけでなく、信仰をもったゆえに迫害され、苦しめられ、殺されて、殺され方ものこぎりで引かれたなんて、ひどい話です。
 そんな苦しくて、悲しくて、どうにもならない人生を送った信仰者たちもいます。その人たちは、死後の世界で何をしているのでしょうか。彼らは、私たちを取り巻いて、声援を送っているのです。
 どういう声援かというと、最後のゴール、新しい天と新しい地の創造を願って、それぞれの役割を精一杯、全うするように、応援しているのです。ある人たちのパートは、大変かもしれないけれど、「俺たちも同じ役割だった、がんばってくれよ!」と、苦しい時代を生き抜いた聖徒たちは、今、苦しみにあっている人たちを真剣に応援しているのです。また、勝利の時代を生きた人たちも、真剣に応援しているのです。
 私たち一人一人が、どういう立場にあるかどうかは、はっきり分からないけれど、天からの応援軍団が、ゴールを目指して、「ゴールを勝ち取るためにがんばってくれ!」と、日々、叫び、神の前に祈っていることを、知らなければいけないですね。

 人生、様々な状況があるかもしれないけれど、結論は、主が帰って来られて、この地を新しくし、この地を天国にする、そこにゴールがあるのです。クリスチャンの人生は、その道を用意する役割です。

 私の父母は、この教会においては初代でしたから大変でした。私は長男として生まれましたから、ある程度は知っています。津具村から新城市に出て来て伝道を始めたのですが、なかなか教会に人は来ませんでした。「神様、どうしたらいいですか?」と祈ったら、「来なかったら、二人でがんばって産んで増やしたらどう?」というアイディアをもらって、八人子どもを産み、子だくさんで広げました。
 お隣の見城さんは、十二人も産んでくれました。岡本さんが五人、伊藤さんが六人、四軒だけで四十数人という、日本のキリスト教会の平均以上の教会が出来ました。そんなへんてこな所から教会は始まりましたが、初代は大変だったのです。
 この教会の初期、誰が牧会したかと言えば、親父は巡回伝道でよそに出ていたので、日頃、新城教会を牧会していたのは母でした。
 私が小さい頃、教会に刑務所から出て来た人が訪ねて来て、「腹が減ったから飯を食わせてくれ。」と言う人が、結構いたのです。ただでさえ、食糧難なのに、母がそのような人たちにご飯を出している姿を、何回も見ました。「なんで断らないんだ!」といつも思っていました。この頃は、そういうことはなくなりましたが。
 また、クリスチャンにはならないのに食事時になると現れる、という人もいました。食事時になると、「滝元先生!」とか来て、何気なく食卓に入って来るのです。昔はサンマが安く、食卓によく出ました。家族が多いので、サンマもぶつ切りです。私はサンマって、どのくらい長い魚かなって思っていました。丸ごとのサンマを見たことがなかったので。
誰かが来ると、ただでさえ短いサンマが更に短くなるのです。「教会って大変だな~」って、いつも思っていました。
 そんな姿を見て、「教会なんてやるもんじゃないな。損だ!」って思ったことがありました。でも、あれは、あの時の役割でした。大変でも、それに耐えたから、今があるわけです。今なんか、食事作って、「食べに来てください!」と言ったってなかなか来ないです。それぞれの時代の役割です。
 今を生かされていることは、今の役割があるのです。ヘブル書十一章から十二章は、出エジプトからカナンの地に入る中身を、具体的に現しているのではないかと感動しました。

父と母は一年前まで、夏は、よく中庭に座っていました。

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でも、去って行きました。

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 良い写真でしょう。誰でも去って行く日があるのです。しかし、すべて神の計画の中、役割が終わったら、次の世代にバトンタッチされるのです。モーセの世代から、ヨシュアの世代にバトンタッチされたようにです。決して個人にバトンタッチされるのではないのです。集団にバトンタッチされるのです。モーセとは、ただの代表的な人で、そこには多くの集団が共に働いていたのです。それで、多くの事が出来たわけです。
 続いては、ヨシュアという集団にバトンタッチされ、カナンの地を勝ち取りました。

 聖書を見ますと、神の働きは、都会から始まるのではなく、辺境な山の中から始まるのではないかと思います。
 イエス様もベツレヘムという田舎でお生まれになりました。ベツレヘムは、エルサレムから八キロくらい離れた谷間の村でした。そして、イエス様はナザレという村で育ちました。ナザレと聞くと、うどんが食べたくなります。吉橋さん、作ってよ!と頼みたくなりますが、ナザレは、山肌にくっついたような寂しい村でした。その後、イエス様はガリラヤ地方で宣教を開始されました。
 ナザレから、ガリラヤから、良いものが出るはずがない!とみんな思っていたのです。そんな辺境な地から、神の働きは始まったのです。やはりその原則は、新城教会でも同じだなぁと思います。先ほども話しましたように、津具村と言う普通では考えられないような、山の中から働きが始まりました。
案外、私たちは、華やかな場所に目を留めやすいです。もっと目立って、華やかな所で働きたいなぁ!と思うことが多いです。しかし、主の働きは華やかな、全てが整った場所から出るのではなく、何もない、誰も目を留めない場所から現れるのではないかと思います。

先週も、弟の開が話していましたが、八月、私たちはネパールに行きました。彼もネパールの山を登りながら、「俺は一体、何をしているのかなぁと思った。」と言っていましたが、「それは俺の台詞だ!」と思いました。これ、見てください。

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 「はぁ!もう駄目だ!」というおじさんの写真です。こんな苦労をしたのです。見てください。右側の背の高いおじさん、余裕しゃくしゃくです。左側のパク先生は、毎週、登っているもんだから、なんともない感じです。一番、すげぇなと思うのは、私たちの後ろに写っている、現地のおばちゃんです。買い物のついでに、山に登っているような感じです。こうなるとすぐれものです。
ネパールの山の中で、「なんのために俺、こんな所に来ているのかなぁ・・・」って、本当に思いました。開先生が「ある意味、命がけだ!」と先週語っていましたが、命をかけていたわけではなかったのですが、でも、大変でした。
 私はネパールに行く前に祈りました。「神様!私の役割として、『この八月はネパール!』って、初めから、あなたが予定表に入れておられるなら、行ってもいいですが、違ったら、やめさせてください!」って祈っていました。

 私は、ネパールに行く前に、足が痛くなりました。体のあちこちがいたくなって、「しめた!」と思いました。これで大義名分がついて、「俺は足が痛くてネパールにいけない!」と言えるなと思いました。それで、思いっきり弱気な雰囲気を周辺に出しておきました。みんな「順先生は、ネパールに行けるかどうか分からない・・・」と感じていたみたいです。これも一種のマスコミ、情報操作みたいな所がありますが。
 しかし、行く前になったら、直ってしまったのです。それで予定どおり行くことになり、全然、山登りのトレーニングをしなかったのに、みんなと一緒に登りました。神様の書いた台本の中に、「滝元順、二〇一六年七月の終わり~八月、ネパールの山を登る。これが新しい天と新しい地の創造のための重要な役割!」と書いてあったら登るしかない、と思ったけれど、やっぱそうだったんだな~と今は感謝しています。
 でも、普通から考えると、「なんで、あんな所まで行くのか~」って思うじゃないですか。
 私は今回で、ネパールは五回目でした。この山、五回登っているんです。すごいでしょう。

 先週、私は韓国に行きました。何故、行ったのかと言うと、韓国のある祈りのチームが、真剣にアジアのリバイバルのために祈っていたそうです。そうしたら、主からの声を聞いたというのです。「アジアにリバイバルが欲しかったら、ネパールに関心を持って、ネパールのためにとりなして祈れ!」と、主から語られたというのです。
 でも、「ネパール?何を祈ればいいの?」と思ったそうです。そうしたら、ある人が、「ネパールの専門家がいるよ!」と話したそうです。「ネパールに毎年行っている、専門家がいる!それは韓国人ではなく、日本人だ!」と。それが誰かと言ったら、私のことだったのです。
 それで先週、私は韓国まで行って、ネパール・セミナーをさせて頂きました。

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なんとセミナーにはネパール人も来ていました。ネパール人に、ネパール・セミナーとは、これいかにという感じでしたが、四回のセミナーをやりました。済州島という美しい島で行われました。しかし、観光は全くできませんでした。韓国料理もあまり食べることができませんでした。超忙しくて、適当な物を食べながら終わってしまいました。あまりにも残念だったので、帰って来てから、家内と近くのサムギョプサル店に食べに行きました。

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 セミナーには、ネパールからパク先生たちも来られていました。そんなに大きな集会じゃなかったけど、何しろ、この祈りのグループの人たちは、「ネパールのために祈れ」と主から語られ、このセミナーを計画したそうです。最後にみんなでネパール人の為に手を置いて真剣に祈りました。

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 私は、ネパールの専門家になってしまったようです。しかし実は、私はネパール五回目で初めて、「ネパールって、本当に、大事な場所なんだ!」と気づかされたのです。申し訳ないですけど。「この場所は主が帰られる道を備えるために、とてつもなく重要な場所かもしれない!」と、気づかされたのです。だから、俺はこういう苦しみにもあっているのかもしれない!と意識したのです。「俺は何をしてんだろう。介護保険証をもらう歳になったというのに、こんな所で山登りなんかして…。」って文句言っていましたが、神様って、我々が持っている考えとは、全く違った概念を持っておられると思うのです。神の国の働き、主が帰って来られる道を備えるには、私たちが考えるような働きからではなく、全く、予想だにしていない働きによって、主は帰って来られるのではないかと思います。

 今回、私たちがお邪魔した場所は、カトマンズは、ネパールの首都なのですが、そこから八時間くらい、超悪い道を走って行くと、チトワンという町に着きます。

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 「ロイヤルチトワン国立公園」って名前はいいですが、何も手が付けられていない野生の王国です。
チトワンに行ったら、この町のクリスチャンたちが歓迎してくれました。ここで聖会があったのですが、いっぱいでした。

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 三年前、新城教会が行くようになって、この聖会は始まりました。今では、自分たちでTシャツなんか作って、盛り上がっているのです。ちょっと盛り上がり過ぎたかなと思うくらい盛り上がっているのです。
 今、ネパールのクリスチャンは大変です。国家から迫害を受けるのです。このような集会をやっていると、警察の手入れがあったりします。警察が突然入って来て、逮捕されるかもしれない!って。しかも、ネパールで最もクリスチャンが迫害されている場所が、どこかというと、なんとチトワンなのです。そこで、大々的な集会はないだろう!ってね。剛君と一緒にケニアに行った時のことが、ちらっと頭に浮かんで真剣に祈りました。

 そして、パク先生に言いました。「先生、門に立っていてね。あなたが集会の主催者だから。」と、冗談で言ったのですが、迫害のただ中にあるネパールのクリスチャン達、真剣に賛美して、主の前に躍りまくっていました。

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 これは新城教会の賛美チームが、奉仕をしている写真です。今回の聖会のテーマは「主の道を備えよ」でした。なにか預言的だなぁと感じたのですが、メッセージを取り次がせて頂きました。人の手に寄らずに、主の働きが山の中で進んでいるのです。

 二年前はタイでリバイバルミッションを開催させていただきました。チェンマイという都市でもやったのですが、中心的には、山の中でやったのです。
 タイの北のほうに行きますと、山岳民族が多く住んでいます。カレン族という人たちがいて、可憐な人たちですが、そこでリバイバルミッションを開催しました。私たちから見たら、ある意味、原始的な生活様式を保っている人たちです。

 昨年はナガランドで開催しました。インドの東の北のほうですが、ナガランドとは、「ナガ族の人たちの土地」という意味です。そこにも山岳民族が多く住んでいます。そこでは、リバイバルが起こっています。
 ちょっと話は変わりますが、九月に、ナガランドからチームが、新城教会に来られ一緒に礼拝するときが持たれます。彼らは、歌がうまいです。すごくいい人たちです。顔も日本人と同じ顔をしています。

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 Prepare the way of the Lord.「主の道を備えろ!」
このところ、山岳民族の中で、いろんな活動をさせていただいて来ました。しかし、今回、初めて、「いや~、山地族の人たちって、世界で最も重要なカギを持っている人たちかも・・・」と思いました。あまり注目されていない人たちかも知れませんが、実はこの人たち、重要な人たちだ!と意識したのです。

 この事に関しては、午後からセミナーでやりますから、是非、来てくださいね。今日のセミナーは、二つテーマがあります。一つは、雅也先生が講師で、「近代資本主義とキリスト教」という、ちょっと難しいテーマです。私は、「山岳民族への宣教」みたいなテーマですが、関係ないことないのです。つながっているのです。

 ちょっとだけ最後にお話したいと思います。山地の人たちが、山から人手によらずに切り出された、石になるのではないかと思いました。

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 ここで星印をつけたのは、カレン族にしても、ナガ族にしても、他にもこの近所は多くの部族があるのですが、かつて日本軍が攻め込んだ場所です。その結果、多大な被害を山地の人たちに与えたわけです。私たちは、和解の集会を現地で行ったのですが、今回、お邪魔したネパールのチトワンは、戦争の被害を受けたことのない場所です。そこにも多くの部族が住んでいますが、その中で、チェパン族という人たちの所に行きました。「I’m from Japan. You are Chepang。」となんか似ています。チェパン!ジャパン!俺たちのルーツかな?という感じです。特に、チェパン族の村、「パレワコ村」に行きました。
 「パレワコ村」というのは、「鳩の村」という意味です。「チトワン」とは、「ネパールのハート」という意味です。鳩の村。ハートの町、そういう場所で奉仕をさせていただきました。

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 ところで、この中に、人がいるのですが、分かりますか?

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 森の中から突然出て来ると、結構ショックを受けるのですが、登っていくと、こういう綺麗な場所もあります。

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 彼らの家はこんな感じです。

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 子どもたち、結構多いです。
 前回もお見せしましたが、こういう形で子どもたちが迎えてくれます。
 これは、大げさではありません。

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おばちゃんが、子どもをおぶって出て来るのです。
 実は、子どもの帯方で、ルーツが分かるというのです。日本人って、どういう帯方をするか。近頃、私の娘は、前に抱いていますが、あれは本来の日本の抱き方ではありません。日本人は、背負うものなのです。
 民俗学では、子どもを後ろに背負う人たちは、ルーツが同じだと言われます。アメリカインディアン、ペルーのインディオも、子どもを背負うのです。

 これ見てください。

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 二千年前の縄文人の住居と、チェパン族の現代の住居と、全く同じです。二千年間、全く進歩してないじゃん!という感じです。
 さて、みなさん。これは、どういうことでしょうか。
 実は、ネパールには六十くらいの部族がいるのですが、ネパールに現存する六十以上の部族の中で、一九六〇年頃まで、完全な自給自足生活を行い、世界最古の生活様式を保ってきた人々。それがチェパン族なのです。
 図らずも、私たちが毎回行かせていただいた場所は、なんと、世界最古の生活様式を保ってきた人たちの村に行っていたのです。これは、どういうことでしょうか。

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 バベルの塔から東に散らされ、最初の文明が「インダス文明」です。このバベルの塔から渡ってきたある集団が、ヒマラヤの山の中に閉じ込められ、何千年に渡って隔離されてきた人たち、それがチェパン族だと思われます。この人たちは生活そのものが霊的行為であり、現実と霊的世界が表裏一体です。
 パレワコ村からは、晴れると目の前にヒマラヤの山々が見えて、彼らは、常に悪霊を呼ぶような生活をしているわけです。この人たちは、ある意味、世界最古の人たちの直系だと思われます。世界最古の、バベルの塔から散らされた人たちの子孫だと思われます。

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 ダニエルが解き明かした大きな像、金の頭は、新バビロニア帝国ですが、古代バビロニア帝国の影響で出来た国です。古代バビロニア帝国は、世界最古の国であり、バビロンは、世界最古の都市です。その時代の生活様式が今でも保たれているとしたら、どこにあるのか。もしかしたら、それがチェパン族ではないかと思います。
 家だって、二千年前の縄文人と同じということは、山に閉じ込められて、他の世界から隔離され、ずっと同じことを繰り返してきたと思います。

 ネパール以外の山岳民族の人たちは、戦争の影響で、現代の資本主義が入って来ました。でも、ネパールのチェパン族は、あまりにも山が深くて、誰も入れなかったのです。誰も手つかずでした。多分、バベルの塔からあの近所に閉じ込められて、霊的なことだけをずっと続けて来た、まさに金の頭のような存在だと思うのです。
 いい意味においても、悪い意味においても、彼らによって、世界は変わるかもしれないのです。バベルの塔の子孫のような人たちの所に行って、福音を伝え、彼らがイエス様を信じて、世界のために、リバイバルのため、さらには主の再臨を祈るようになったら、もしかしたら、イエス様がお帰りになるんじゃないかって、思いました。

 今回、韓国でそのような視点でセミナーを持たせていただいたのですが、十年近くネパールで働いているパク先生が、セミナーを聞いてくださり、すごく感動して、「私は、何の意味があって、毎月山に登っているのかと思っていたけれど、今回、その意味が分かりました!」と言って、喜んでくださいました。
そりゃぁそうだろうなと思います。大勢で一年に一回、登るならいいけれど、毎月、一人であの山を登って、チェパン族の所に行くというのは、大変だなぁと思うのです。
誰も目を留めないような、山地の人たちに目を留めて、祈り、宣教することは、決してヒューマニズム的な働きではないのです。全く違うのです。やがてこの人たちを通して、人手に寄らずに切り出される石がはじき出されるのではないでしょうか?
今は金の頭として、世界の悪魔の組織に力を送っているのかも知れません。しかし、彼らがイエス様を主と信じて、祈り始めたら、世界が変わる。そのようなカギを持った人たちではないかと思います。

 今回は、プロのカメラマンの方が素晴らしい写真を撮ってくれました。いい写真ですよ。

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 このスァーガという少年、山から下ろしたらやばい男になるだろうなと思いますが、この頃、本当に変わりました。

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 このおじいさんは、酋長です。
 この人、イエス様を信じました。

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 山の悪霊どもに、「み言葉の剣を投げつけます!」という祈りの場面です。

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 一番右にいる少年も、現地人みたいです。

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 この子の父親ですか?いいえ。でも、山の少年たちは、短い青春を過ごします。男の子はだいたい、十三、十四で結婚します。女の子も同じです。それで平均七、八人子どもを産むのです。だから、山に閉じ込められていても人口が減らなかったのです。普通じゃいなくなります。

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 卵を持って来てくれました。

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 薪を探して来て!と頼んだら、あっと言う間に森に飛び込んで薪を持ってきてくれました。本当に良い子たちです。

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 案外、私たちは上から目線で彼らを見てしまうのですが、それは大きな間違いです。この子たちが重要である事を、今回、強く知らされました。今日の午後から、詳しくお話しさせていただきたいと思います。山から切り出された一つの石が、大バビロンと呼ばれる足首を叩いて、神の国が現れる日が来ることを、真剣に祈らなければいけないと思います。みなさん是非とも、チェパン族の人たちのために祈って下さい。

 普通では考えられないような働きを、主は私たちに仰せつけてくださったのではないかと、今回のツアーで、今までになく、強く教えられた次第です。

 最後にお祈りして、終わりにしたいと思います。人生には神の目的があります。その目的を果たすことができるように祈りたいと思います。
 一言お祈りさせていただいて、聖餐式に入りたいと思います。

 ハレルヤ。父なる神様。感謝いたします。新しい天と新しい地の創造のために、働けます事を、心から感謝します。私たちの役割が、華々しい役割なのか、様々な苦しみの中で働かなければならないのか分かりませんが、聖書の登場人物たちも、主の前で、私たちを雲のように取り巻いて祈っていることを今日学びました。どうか一人一人が、備えられた役割を、果たすことができますように。
 私たちに、ネパールの働きを委ねてくださったことを、心から感謝いたします。この働きは、私たちが考える以上に、とてつもなく大きな主の働きなのかもしれないことを教えられ、心から感謝します。どうか、私たちの教会に課せられた働きを実現させてください。また、一人一人に課せられている働きも、全うすることができますように。
 今日は決断の時として、聖餐式を持ちます。この聖餐式の時を祝福してください。イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。