『山から出てきた一つの小石 パート3』

2016年9月4日(日)
新城教会主任牧師 滝元順
ダニエル書2章41節〜45節

『あなたがご覧になった足と足の指は、その一部が陶器師の粘土、一部が鉄でしたが、それは分裂した国のことです。その国には鉄の強さがあるでしょうが、あなたがご覧になったように、その鉄はどろどろの粘土と混じり合っているのです。その足の指が一部は鉄、一部は粘土であったように、その国は一部は強く、一部はもろいでしょう。鉄とどろどろの粘土が混じり合っているのをあなたがご覧になったように、それらは人間の種によって、互いに混じり合うでしょう。しかし鉄が粘土と混じり合わないように、それらが互いに団結することはありません。この王たちの時代に、天の神は一つの国を起こされます。その国は永遠に滅ぼされることがなく、その国は他の民に渡されず、かえってこれらの国々をことごとく打ち砕いて、絶滅してしまいます。しかし、この国は永遠に立ち続けます。あなたがご覧になったとおり、一つの石が人手によらずに山から切り出され、その石が鉄と青銅と粘土と銀と金を打ち砕いたのは、大いなる神が、これから後に起こることを王に知らされたのです。その夢は正夢で、その解き明かしも確かです。」』

 ハレルヤ!みなさん、おはようございます。九月になりました。本当に早いものです。今朝は、九月になったことを記念して、講壇に花が飾ってあります、というわけではなく、新城教会に花が飾ってある時は、前日に葬式か結婚式があった証拠です。昨日は、大変おめでたい事がありました。藤谷献司君と麻衣さんの結婚式がありました。

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 本人たちは、どこにいますか?ちょっと立ってくださいますか?大きな拍手をしてあげてください。本当にすばらしい結婚式でした。
 これから、葬式ではなくて、結婚式が増えるといいなぁと思っています。若い方々が結婚されて、新しいクリスチャンホームを作られることを主は望んでおられると思います。是非とも祈っていただきたいと思います。

 振り返ってみると、私にとって八月はあっという間に過ぎました。スケジュールもいろいろ忙しく、特に、母が召天したりして、皆様に本当にお世話になりました。もう一度、高い所からですけれど、心からの感謝を申し上げます。
 一年の間に、父も母も天に帰って行きました。私もあっという間に、みなしごハッチになってしまいました。先週は、両親が長い間使わせていただいていました牧師館の片付けと掃除をしました。両親は十年くらい、一階の牧師館に住まわせていただきました。いらない物を、すべて撤去したのですが、今後は修理をさせていただいて、教会に返却し、ゲストルームとして使用する予定です。教会にはゲストの方々が多く来られます。今までは神学校のゲストルームを使わせていただいていたのですが、教会専用のゲストルームができて良かったと思っているのですが、一つの時代が終わって、新しい時代が始まった気がしました。ちょっぴり寂しいですが、このようにして、神の働きは受け継がれていくんだなぁと実感しました。
 今も、「すべてに時がある」という賛美がなされましたが、神はすべて、時を支配されていて、美しく導いてくださいます。

 結婚式は結婚する者たちにとって、一つの時のスタートです。その後、結婚生活があります。これからが大変だとお話しさせていただきました。そして、結婚生活を成功させる秘訣についてお話しさせていただきました。
 私にはそういう話をする権利があると思います。なぜなら、私は今年で、結婚して四十年になるからです。よくやって来たなぁ〜と思います。でも自分たちの結婚式を、昨日のように思い出します。年月が過ぎるのは早いものです。あっという間でした。四十年間、夫婦共々健康で、今は子どもたち、孫たちに囲まれて心から感謝です。
 牧師館の掃除をしながら、「今度は俺の番だなぁ。今住んでいる家を誰かが整理してくれるんだろうなぁ〜」と思いました。だから家内に、「早めに整理したほうがいいよ!いらない物を沢山溜め込んだなと言われるといけないから。」と話をしたのですが、四十年間やってくることができて感謝だと思いました。
 結婚には諸事情ありますから、うまくいく人もいかない人もおられるので、誤解しないで聞いていただきたいと思うのですが、結婚したら、金婚式と呼ばれる五十年は連れ添っていきたいと思います。その可能性のある方々は、「五十年は連れ添うぞ!」と、結婚生活の一つの目標にされたらいいのではないかと思います。

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 五十年の金婚式を迎える秘訣について、昨日、お話しさせていただいたのですが、その原則は聖書の中にあります。
 最初、神が天と地を六日間で作られ、七日目に休まれた事により、神は一週間七日制を作られました。いつも話していますが、聖書は七という数字が基本となり、七日、七週、七年、七の七倍、四十九年。そして、その翌年を五十年目、ヨベルの年と呼んでいます。それは最高に祝福された年です。その年を迎えるためには、小さな歯車が重要です。

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 それは、七日という歯車を、しっかりと人生に組み入れることができるか否かが、結婚生活において、七週間、七年、四十九年、五十年目、金婚式につながる秘訣です。毎週、日曜日、教会に集い、主を礼拝するのは、重要です。
 私は牧師の息子として生まれ、父は、「礼拝にちゃんと出席しろ!」と、結構、高圧的に語っていたのを見て、「あんまりプレッシャーをかけないほうがいい。自然体のほうがいい。教会は一年に一度来ても、自分の教会として帰って来れることが大切なんだ。」と、思っていまし。もちろんそういう側面もあります。
 しかし週の七日目に主を礼拝する歯車は、基本中の基本で、結婚生活において五十年という大きな歯車まで滞ることなく回すための秘訣ではないかと思います。
 しっかり礼拝を守っていくんだ!と、心に決めて、もちろん諸事情があって出られない時はいいのですが、人生において極力、七日目は主を礼拝するという基本形から離れないことは大切です。その軸をしっかりと据えておいたら、結婚生活も、うまく行くとお話しさせていただきました。五十年目の解放の年、最高の祝福年を迎えるためには、大変重要です。

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 ヨベルの年の概念は、最終的に、神の国の実現です。イエス様が帰って来られ、この地にあるすべての支配、権威を、悪魔の手から、神の支配に移される日がヨベルの年のゴールです。
 それが、預言されているのが、ネブカデネザル王が見た夢を、ダニエルが解き明かしたダニエル書二章です。

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 今から、二千数百年も前に、究極的なヨベルの年の預言が、すでになされていた事は驚きです。山から切り出された一つの石が、突然、転がり出て、巨大な像を粉々に打ち砕き、小さな石が、地球全体に広がるというものです。
 『この夢は正夢です。解き明かしも確かです。』と言われましたから、やがて、今の世界が全く造り直され、新しい天と新しい地の到来を、人類は体験するはずです。
 ですから、教会とクリスチャンのゴールは、この石が切り出されて、巨大な像、すなわち悪魔が支配している地を、神の国にする為の準備です。このゴールを目指して、私たちは歩んで行かなければいけないわけです。
 山から人手によらずに切り出された石とはイエス様です。今から二千年前、イエス様は処女マリアから人手によらずにお生まれになったのは、まさに、山から切り出された小石でした。

 しかし最後の時に、もう一度、これが起こるわけです。この石が切り出されるために、教会も、クリスチャンたちも、がんばって働かなければならないのです。
 この夏は、ネパールに行かせていただいて、山岳民族の方々とお交わりさせていただきました。山岳民族の方々って、山から切り出された小石という役割を持っている人々じゃないかと思いました。そのことに関して、過ぐる二回のメッセージの中でも、触れさせていただきました。

 実は今週、昨年の十一月にリバイバルミッションを行ったインドの北東部、ナガランドから、兄弟姉妹が新城教会にやって来ます。
 ナガランドも山岳民族の方々です。ナガランドとは、「ナガ族の人たちの土地」という意味です。そこに行きますと、こんな民族衣装を着た人々が多くおられます。

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 しかし太平洋戦争の時、日本軍がこの山岳地帯に攻め込んで、山の民たちは戦闘に巻き込まれ、イギリスと日本に引き裂かれ、大変な目に遭ったのです。こんな所まで日本軍はよく来たな!と、行ってみるとびっくりします。
 そんな戦争の悲しい歴史を引きずりながらも、主はナガランドにリバイバルを起こしてくださったのです。焼け野が原になった山村に立って、少数のクリスチャンたちが、真剣に祈り始めたというのです。民族の長きにわたる偶像礼拝の罪を悔い改め、神を求めた時、激しく聖霊が注がれて霊的戦いが始まったというのです。森を支配している悪霊どもが追い出され、リバイバルが起こったのです。

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 去年十一月のナガランドでの集会は、こんなに大勢の人たちが集まりました。ナガランドはインドに属していますが、自治政府があります。自治政府の首相や閣僚の方々も来られました。

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 私は、ナガランドのある教会で、日曜日に奉仕させていただきました。すごいでしょう。山の中とは思えない人数です。山肌にある教会です。ぎっしりと人々が集まって主を賛美しているのです。山の中にリバイバルが起こっているのです。
 今週は、この場所の方々が来られるのは、結構、意味深いと思います。

 先々週も話しましたが、インドシナ半島の山中から、インドの山間部、ネパールの山中にかけて、山岳民族の人たちがおられます。その方々は、バベルの塔から、東に移動して来て、山中に押し込められ、数千年の間、同じような生活様式を保ってきた人々であると思われます。彼らは近年まで、近代資本主義経済に全く縁のない生活をして来たのです。
 近代の戦争とは、資本主義経済と深い関わりがあります。戦争があると必ず、資本主義が入って来ます。そのためナガランドは、かなり資本主義経済が支配するようになりました。
 しかし先日訪問したネパールのチェパン族は、一九六〇年代まで、誰も知らなかった民族です。発見された時、全員、裸だったそうです。彼らは完全に自給自足をしていて、現代社会と切り離された生活をしていたのです。私たちは、期せずして、そんな部族の所に導かれていたわけです。

 ネパールのチェパン族の所に行くと、彼らが、現代人とは全く違う世界観を持っているので、びっくりします。
 山の上の子どもの集会で、ある人がメッセージを語りました。子どもたちに、「みんな、友達いるかい?」と聞きました。普通なら、「イェイ!」と、絶対に答えるはずです。新城教会のホサナクラブで、「友達いるかい?」と聞いたら、「もちろんいます!」って、絶対に答えます。
 でも、「友達いるかい?」と聞いても、山の子どもたちは、誰一人として反応しませんでした。全員、キョトンとしていました。始めは言葉が通じていないのかな?と思ったのですが、実は、彼らには、「友達」という概念がないのです。
 そこで過ごしていて、それがなんとなく分かりました。最初の日、私たち三十五名の食事を作ろうとした時、夕食を準備するだけで、十時間くらいかかりました。「おまえはこれやれ。あれをやれ。」と全員が協力して、やっとカレーライスが出来上がりました。
 そもそも、友達という概念には、すでに差別があります。「この子だけは特別」という差別です。しかし毎日、自給自足の生活をしていれば、常に全員が一丸となっていますから、「友達」というような概念は生まれないんだろうな、と感じました。本来、人類はこのような共同体だったのだろうと思いました。
 今でも、人類が原点でもっていた概念が残っているとしたら、山岳民族の人たちの中ではないかと思われます。
 そのような人達によって、主が帰られる道が用意されるのではないかと感じました。

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 ネパールの山岳民族の方々が踊りを踊ってくれました。山岳民族の衣装です。
 山岳民族の衣装、私たちから見れば、ナガランドもチェパンもあまり変わらないと思うのですが、向こうに行きますと、数え切れないくらいの部族があります。

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 チェパン族の人たち本来は裸でしたが、宣教師が行ったり、毎年、私たちが行ってTシャツとか、洋服をあげるものだから、資本主義経済の影響を受けて、今では、こういう恰好になったのです。それが本当に良い事かどうかは、よく分かりません。

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 これは彼らが、森に住む悪霊に立ち向かって、みんなで剣を投げる写真です。真剣に祈って戦っている姿、毎回、感動します。こういう所から、人の手によらない主の働きが始まると信じます。一つの石、イエス様が帰って来られる道が用意されるのではないかと強く感じました。私たちが生きている時代は、イエス様がお帰りになる、最終ラウンドだと思います。
 そもそも、教会は、主が帰られる道を用意する存在として、造られました。教会の真の使命は、主が帰られる道を作る事です。

 昨年、父が召天した後に、ヨシュア記から、主が語ってくださったとお話しさせていただきました。出エジプトをした民たちは、四十年間、荒野をさまよったわけですが、「荒野の四十年は大変なものでした。」と、そのようなメッセージを時々、聞いたりしますが、私は、荒野の四十年は、結構楽しかったのではないかと思っています。
 なぜなら、何の仕事もしなくても、朝と晩にはマナが降り、それを食べれば生活ができたし、喉が渇いたら自動販売機のように、岩から水が出ました。また、ちょっと文句を言えば、肉だってもらえたのです。服も靴もすり切れないで、四十年間歩むことができたからです。
 そして、何より素晴らしかったのは、いつも、主が共におられることが、自分の目で確認できた事です。出エジプト記十三章二十節〜二十二節、

『こうして彼らはスコテから出て行き、荒野の端にあるエタムに宿営した。主は、昼は、途上の彼らを導くため、雲の柱の中に、夜は、彼らを照らすため、火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。昼はこの雲の柱、夜はこの火の柱が民の前から離れなかった。』

 神様がいつも、彼らと共におられたのです。それを目で確認できたのです。そんなすばらしいことはありません。
 時々、私たちは、真剣に祈っても、神様がおられるのか、おられないのか、ちょっと不安になる事があります。「本当にあなたはおられるのですか?」と、不信仰になってしまう時もあります。しかし荒野での四十年間、イスラエルの民たちは、本来は不信仰にならなくても済んだはずです。なぜなら、主が共におられるのが、目で確認できたからです。昼は雲の柱、夜は餃子のノブズじゃなく、火の柱で、神が共におられるのが分かりました。これは一番の安心感ではなかったかと思われます。

 しかし、モーセが死んで後、ヨシュアの世代がカナンの地に入った時、全く様相が変わってしまったのです。その事も、以前、お話させていただきました。
 ヨシュアがエリコの近くにいた時に、ヨシュアの目の前に一人の男が出て来ます。その事が、ヨシュア記五章十三節〜十五節に記されています。去年、学びましたから、思い出していただきたいと思いますが、

『さて、ヨシュアがエリコの近くにいたとき、彼が目を上げて見ると、見よ、ひとりの人が抜き身の剣を手に持って、彼の前方に立っていた。ヨシュアはその人のところへ行って、言った。「あなたは、私たちの味方ですか。それとも私たちの敵なのですか。」すると彼は言った。「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。」そこで、ヨシュアは顔を地につけて伏し拝み、彼に言った。「わが主は、何をそのしもべに告げられるのですか。」』

 カナンの地に入った途端、今まで降っていたマナも全く降らなくなり、雲の柱、火の柱も消えてしまったのです。
 すると知らない一人の男が出て来たわけです。

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 ヨシュアは荒野の四十年を、モーセと共に過ごしましたから、神様がどういう方であるのか、よく分かっていたはずです。しかし、そのヨシュアにも、敵なのか、味方なのか、分からなかったのです。けれども、これが主のお姿だったのです。
 なぜならば、ヨシュアの世代に対して神は、カナンの地を攻め取るという、大きなテーマをお持ちだったからです。そのテーマに沿ったお姿で、主は現れたということです。

 新城教会に、一九九二年に霊的戦いが始まった時、まさに同じ事が起こりました。それ以前も、主をよく賛美したり、教会はそれなりに良かったです。霊的戦いが始まる前、賛美の中で主の臨在を強く感じて、本当に恵まれた時期がありました。
 しかし、霊的戦いが始まった時、主のお姿が全く変わってしまった事を体験しました。当時、新城教会に来られていた方々、「あなたは、味方なのですか?敵なのですか?」と、二つに分かれたのです。味方だと信じる人たちと、敵かもしれないと思った人たちもいました。
 でも、こうして二十数年経つと、あぁ!あれがまさに、主のお姿だった!と分かります。主は、どのようなお姿で、私たちに現れるのか、それは、主がその世代に持っておられるテーマに沿って、ご自分を現されるということです。

 ヨシュアは、戦いの姿をして来られた主に、従う決断をしました。そして、主からの戦法を受け取って、戦いを進めたわけです。

 最初にエリコという町が立ちはだかりました。その時、主は、今までとは全く違った戦法をヨシュアに授けられました。ヨシュア記六章三節〜四節、

『あなたがた戦士はすべて、町のまわりを回れ。町の周囲を一度回り、六日、そのようにせよ。七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って、箱の前を行き、七日目には、七度町を回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らさなければならない。』

 普通の戦争は、武装した軍隊が敵の隙をついて、町に攻め込み勝ち取るというのが一般的です。しかし主は、町を巡って、角笛を吹き鳴らし、最後の日は七回廻って、声をあげよ!と言われたわけです。それも、主に仕え、主を賛美をする祭司とレビ人たちに、戦場に出て行け!と語られたわけです。

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 今まで、祭司とかレビ人は、神の幕屋、天幕の中で、雲の柱の近くで主を礼拝していた、部族の中で最も安全な場所にいた人たちでした。しかし、この人たちが、なんと最前線に出て、兵隊たちと一緒に戦うことを命じられたわけです。

 今の時代、教会は、どこで礼拝しなければならないのか。もちろん、教会で賛美することも重要ですが、敵の面前に出て行って、主を賛美し、勝利を宣言することが大事です。

 今日は午後から、バスに乗って、この近所を回って、賛美し、祈ります。これは、ヨシュアの世代の礼拝スタイルです。
 また九月二十二日には、小坂井のフロイデンホールで、ゴスペル・クワイヤーがコンサートを持ちます。多くの主を知らない方々が住んでいる地域で、賛美の歌声を響かせるのです。これは本当に重要な働きです。ですから、是非とも協力してください。
 クワイヤーにはちょっと焦りがあるみたいです。今日、バック・トゥー・エデンの方々は、自分たちの演奏なんかどっちでもいい!という感じでしたよね。何の話をするかと思ったら、「ゴスペル・クワイヤー、よろしくお願い致します。」って話していました。相当、つまっているんだろう、て感じました。だから、「あれは、ゴスペル・クワイヤーがやっていることだ。だから関係ない。」じゃなくて、今の時代の礼拝とは、敵の面前で礼拝するのが、ヨシュアの世代の教会の姿だと、その事を知って全員で頑張っていただきたいと思います。

 やがてヨシュアから始まった戦いによって、カナンの地は勝ち取られ、イスラエル王国が樹立されました。王制になって、サウル、ダビデ、ソロモンと続いていきました。すると彼らは何をしたかと言うと、ダビデ・ソロモンの時代に、荒野の幕屋を、カナンの地に定着させ、神の宮を作りました。すごい宮が作られたことが、旧約聖書に出ています。
 その奉献式の時には、なんと神の臨在が、目に見える形で現れたのです。宮は主の臨在の雲で満ちたのです。私たちもそんな礼拝をしてみたいですね。新城教会の会堂に雲が満ちて、あぁ〜!主の臨在だ!すばらしい!と思ったら、火災報知器がなって、火事だったではいけません。日本人は、そんな雲が出現したら、「ありがたやー」とかいって煙を体に塗ったりするかもしれませんので危ないかもしれませんが、いずれにしても、神の宮に主の臨在が現されたというわけです。

 しかし、そんな素晴らしい宮ができたのにも関わらず、イスラエル王国はどうなってしまったのか。その後、二つに分裂してしまったのです。北イスラエルと南ユダに分かれてしまったのです。その後、北イスラエルは、アッシリアに滅ぼされました。また南ユダはバビロニア帝国に狙われたわけです。

 ユダの王、ヨシャパテの時代に、周囲の民族が南ユダを狙って、滅ぼそうとして攻めて来た事が記されています。そもそもユダは弱っていましたから、かつての宿敵、周辺の民族に襲われて、絶対絶命!となったわけです。
 その時に、ヨシャパテをはじめとし、子どもから年寄りまで、みんな主の前に出て祈ったのです。「神様!どうしたらいいですか!」と叫び祈りました。すると、どうしたら敵に勝つことができるかという、戦法を主は教えて下さったのです。
 それが、第二歴代誌二十章二十一節〜二十二節に、出ています。

『それから、彼は民と相談し、主に向かって歌う者たち、聖なる飾り物を着けて賛美する者たちを任命した。彼らが武装した者の前に出て行って、こう歌うためであった。「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。」彼らが喜びの声、賛美の声をあげ始めたとき、主は伏兵を設けて、ユダに攻めて来たアモン人、モアブ人、セイル山の人々を襲わせたので、彼らは打ち負かされた。』

 このように記述されています。絶体絶命の時に主は、ヨシャパテ王に、「聖歌隊を組織して、戦場に出て、彼らを先頭に据えて歌わせよ!その後に武装した兵士たちが続け!」と語られたのです。聖歌隊は、丸腰で敵の面前で歌うわけですから、恐ろしかったと思います。でも、どうせ敵に滅ぼされるわけだから、覚悟を決めて、出て行って主を賛美しました。そうしたら、何が起こったのかといったら、主が伏兵、天使たちの軍団を用意して、他民族をやっつけ、勝利したというのです。すごい勝利が現されたのです。

 これは何を物語っているのか。去年もお話しさせていただいたのですが、カナンの地に入った時、主は、レビ人と祭司たちは、戦場に出て行って、敵の面前で賛美しろ!と言われたのです。それがヨシュアの世代の礼拝スタイルだ!と。でもだんだんと土地が勝ち取られ、王国が安定すると、神様の言いつけから外れてきたわけです。
 それで、荒野のイメージを、莫大なお金をかけて、神の宮として作ったのです。奉献式の時に雲が満ちたのは何を意味するのでしょうか。神様の臨在が現れたから、もう俺たちは大丈夫だ!とイスラエルは思っていたかもしれません。

 しかし、雲が現れたのは、昔の雲の柱の時代に戻ってしまった事を意味していると思います。旧体制に戻ったという意味です。
 その結果、何が起こったのでしょうか。荘厳な神の宮が奉献されたのにもかかわらず、彼らは、敗北していったのです。
 けれども、どうにもならない時、ヨシャパテ王の時代に、心の底から主を叫び求めた時、「聖歌隊を前線に出せ!」と言われました。それは、何も、新しい戦法ではありませんでした。カナンの地に入った時、最初に主が命じられたこと、そのものだったのです。「カナンの地に入った時、わたしが告げたことから外れては勝利できない。この世代の基本に戻れ!」ということです。
 敵の面前で賛美する時、主は伏兵を設けて、敵に勝利させてくださったというのは、もう一度、カナンの地に入った時のことを、イスラエルに思い起こさせること以外の、何ものでもなかったのです。

 今、私たち、教会が、何を意識しなければならないのか。教会とは、そもそも、ヨシュアの世代に対応していることを、しっかりと意識しなければならないのです。
 先週も、山崎先生が、前進する教会についてお話ししてくださいました。絶えず前進する教会には、条件があると。
 一つは、「迫害や反対の中でも、キリストのみを主として生きていくこと」と語られていました。フィラデルフィアの教会について、前に学びましたが、主の御名を決し恥じることなく、否定することなく貫いていくことが重要です。
 そして、二番目のポイントは、「悪を離れて、正義を行い、聖い生活をする」これが、教会前進の基本的なことでした。これからどんな時代が来たとしても、迫害や反対の中でも、主のみを認めて、ついていく決断をしなければなりません。悪を離れ、正義を行い、聖い生活を貫いていくことが、教会の重要な使命です。その時、教会は、ヨシュアの世代を勝ち抜くことができるのです。

 パウロが、終わりの時代について、こんな事を語りました。第二テサロニケ二章三節〜四節、

『だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないからです。彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。』

 主が帰られる前って、どのような時代が来るのかについて、「背教が起こり、不法の人、滅びの子が現れる」とパウロは語りました。不法の人が「神の宮の中に自分の座を設ける」というのです。
 悪魔の働きは、常に、終わりの時代に向けて、保身の為に、今、述べられていたような環境を構築するはずです。

 今日は、九月四日ですが、一つのことがまもなくなされます。前にも、ちょっと紹介したのですが、この言葉は誰の言葉か知っていますか。

 「私には神(光)が見えない。五十年間、私は虚しい暗闇を生きてきた。虚しい。孤独だ。私は神の存在を確信できなかった。私の信仰はどこに消えたのか。心の奥底には何もなく、虚しさと闇しか見えない。この得体の知れない痛みがどれだけ辛いか。神が存在しないのなら、魂の存在はありえない。魂が真実でないとすれば、イエス、あなたも真実ではない。」

 ある有名人が晩年、語った言葉です。深い、神に対する不信感が現れています。誰が語った言葉かというと、マザー・テレサです。

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 今日は、マザー・テレサが聖人に列聖される日です。バチカンで、マザー・テレサ列聖セレモニーがあるのです。聖人って、カトリック教会では、どういう意味かというと、「人々から祈りを受け取り、祈りを直接答えることができる存在」です。マザー・テレサ列聖とは、マザー・テレサが天において、イエス様と同列になるということを意味します。
 聖人になる条件は、マザー・テレサに直接祈って、奇跡がバチカンによって確認されたというものです。誰が祈りを聞き、答えたのかという事です。
 祈りを聞き、答える事が出来るのは神のみです。イエス・キリストの名によって、祈る祈りしか、神の前には届きません。もしもそれ以外で、何らかの答えが来たとしたら、この世の神、悪魔が答えたことになります。
 マザー・テレサは、一生涯、このような嘆きの言葉を語っています。彼女は、イエス・キリストとの、個人的な出会いがなかったのです。救いを体験していなかったのです。ですから、いくら、人道的な働きをしたとしても、最後の最後まで葛藤していたわけです。彼女が聖人になったと聞いても、騙されちゃいけないです。
 多くの教会、プロテスタント教会でさえも、「マザー・テレサは、すばらしい!」なんて言っていますが、彼女は個人的な救いを体験していません。だから、大勢の人たちが、死を待つ者の家に連れて来られても、伝道しませんでした。「ヒンズーの人はヒンズーで死んでいくのが幸せだ。仏教の人は仏教で死んでいくのが幸せだ。クリスチャンはそれでいいじゃないか。」と、全く、死にかけた人たちに、福音を伝えることはしなかったのです。
 なぜしなかったのか、それは彼女自身、イエスと出会うことができなかったからです。まずはイエス・キリストとの個人的な出会いが、どうしても必要だということです。個人的な出会いなくして、行いや善行で神に出会おうとしても、無理です。また、人々に永遠の命について伝えなければ、働きにも意味がありません。
 今日のニュースなどで、「マザー・テレサが聖人になりました。」と聞いても、心を開いてはいけないのです。イエス・キリストと同じように、祈りをきくことができるようになった!と、もてはやされるかもしれないけれど、決して、騙されてはいけません。これこそ、背教じゃないですか。神の宮の中に、自分の座を設けているようなものです。
 カトリックは、悪魔が作り出した最高傑作の一つではないかと私は思います。そのような、まやかしに引っかからないようにしなければならないのです。
 そして、どんな時代が来ても、私たちは神のみ言葉に立って、歩む決断が、今こそ必要です。

 みなさんのお祈りに支えられ、アメリカのタコマとヤキマの奉仕に行かせていただいたのですが、JIBCの竹内正臣先生の教会で奉仕をさせていただきました。

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 竹内先生は本当に熱い方で、アメリカの日系人教会の中で、これほど熱い牧師と教会はないのではないかと思うほどです。先生の教会の大切な修養会で奉仕をさせていただきました。私と家内で奉仕させていただき、家内にも奉仕の時間がありました。私よりも良い奉仕をしました。家内のメッセージを聞きたかったのですが、「その時間は解放の祈りをしてください。」と言われたので、家内のメッセージを聞くことができずに残念でした。でも皆、すごく良かったと言っていたので、家内にも一回ぐらい新城教会でメッセージをしてもらったらいいのではないかと思うのですが、こうして、日本人の方々が、アメリカで主を信じて、がんばって戦っておられる姿に感動しました。ご主人がアメリカ人だったりして、特殊な環境で生活しておられるのですが、今、アメリカ社会って、大変です。貧富の差が大きく開いてしまって、アメリカで生活するのは大変だなぁと思いました。

 竹内先生が、一つのお店にとりなしに連れて行って下さいました。

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 今、アメリカで大変有名な、発展しているスーパーマーケット、WHOLE FOODS MARKETに行きました。知っている方もおられるかもしれませんが、入っても、普通のお店に見えます。
 しかし、ここで売っている、肉にしても、野菜にしても、普通のスーパーの二倍から三倍の値段です。牛肉はほぼ三倍の値段です。なぜ、三倍も値段がするのかというと、この店で売っている商品は、「オーガニック、無添加食品」を売りにしているからです。
 ということは逆を言えば、一般の食糧がどれだけ汚染されているかということです。添加物等が入っていない食事をするためには、ものすごいお金を支払わなければいけないのです。来ている人たちも、お金持ち以外は来ていません。私なら、年間一度くらいは来られるかもしれないけれど、毎回は絶対無理です。
 お金持ちの人たちは、ここでしか買わないそうです。今、全米に勢力を伸ばしています。

 大バビロンというのが、悪魔の最終的に造りたい世界です。大バビロンがどんなものか、黙示録に出ています。黙示録十八章十一節〜十三節、これは大バビロンの滅びについて預言されている箇所ですが。

『また、地上の商人たちは彼女のことで泣き悲しみます。もはや彼らの商品を買う者がだれもいないからです。商品とは、金、銀、宝石、真珠、麻布、紫布、絹、緋布、香木、さまざまの象牙細工、高価な木や銅や鉄や大理石で造ったあらゆる種類の器具、また、肉桂、香料、香、香油、乳香、ぶどう酒、オリーブ油、麦粉、麦、牛、羊、それに馬、車、奴隷、また人のいのちです。』

 「彼女」というのが、大バビロンを指しています。『また、地上の商人たちは彼女のことで泣き悲しみます。もはや彼らの商品を買う者がだれもいないからです。』
 以下、「商品とは、」と、ずらっと商品リストが出ています。リストの最後に、『それに馬、車、奴隷、また人のいのちです。』とありますが、大バビロンでは、人のいのちさえも商品としています。それがどういう形で現れるのか、現代社会に対応して考えれば、現代資本主義のなれの果てから現れるのではないかと思われます。
 実際、今や人のいのちさえも、商品となっています。世界で販売されている商品は、よく売れるなら、どんなに健康被害が出てもかまわないという、商品ばかりです。

 「毒を飲んでも決して害を受けず。」というみ言葉を宣言して食事をしないと、どんな健康被害を受けるのか心配です。

 竹内先生が、もう一箇所、祈りに連れて行って下さったのですが、行って見てびっくりしました。ここです。

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 シアトルのある一画です。

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 横断歩道、綺麗でしょう。虹色です。虹色なんですが、よく見ると違うのです。虹は七色だけど、ここは六色です。これは何のシンボルかというと、同性愛者のシンボルで、この一角は同性愛者たちの地域です。同性愛者のシンボルは、神の約束の七色の虹から一色取って、六色のカラーを使っているのです。
 もうここに行きますと、写真のような男女のカップルは珍しいです。同性愛者たちで満ちているのです。男と男、女と女。今や、世界は末です。
 同性愛と性同一性障害とは違います。性同一性障害は、自己のジェンダーについての、アイデンティティの問題ですが、同性愛とは、同性による「性的嗜好そのもの」であり、聖書が、固く禁じている罪です。
 今、日本の茶の間にも、こういうカラーはどんどん出ています。アメリカが同性婚を法制化したので、日本も遠からずして、同じようになります。すでに、そのような動きが、あるじゃないですか。
 そして今や、アメリカの教会の半数くらいが、同性婚に同意しているそうです。なぜならば、社会からの圧力が強いから、聖書は同性婚、同性愛を否定しているけど、受け入れているのです。
 しかし、私たちは、こういう時代にあっても、しっかりと神のみ言葉と真理に立っていかなければいけないのです。

 今、教会が試されている時代だということを、教えられたのですが、最後に、ミカ書に、こんな言葉があります。ミカ書五章七節〜八節、

『そのとき、ヤコブの残りの者は、多くの国々の民のただ中で、主から降りる露、青草に降り注ぐ夕立のようだ。彼らは人に望みをおかず、人の子らに期待をかけない。ヤコブの残りの者は異邦の民の中、多くの国々の民のただ中で、森の獣の中の獅子、羊の群れの中の若い獅子のようだ。通り過ぎては踏みにじり、引き裂いては、一つも、のがさない。』

 聖書の概念の中に、「残りの者」という概念があります。イスラエルという大きなグループの中で、残りの者という、その中で特別、選ばれて、神の使命を果たす人たちが出て来ます。それは、聖書全体を貫いている概念でもあります。大変な環境の中でも、残りの者たちが用意されているのです。
 残りの者たちは、どのような存在か、今、出ていましたよね。

『ヤコブの残りの者は、多くの国々の民のただ中で、主から降りる露、青草に降り注ぐ夕立のようだ。彼らは人に望みをおかず、人の子らに期待をかけない。』

 社会がどんなに神から離れて、背教が起こり、罪にまみれても、人に媚びったり、人を恐れたりしないで、神の御心だけを掴んで戦っていく存在です。そのような残りの者たちに、主は特別、目を向けてくださるのです。

 『多くの国々の民のただ中で、森の獣の中の獅子、羊の群れの中の若い獅子』

 どんな環境でも、最も強い獅子のような存在として、生きることができると約束されているのです。聖書が告げている残りの者にならなければならないと、今回、強く教えられました。アメリカで見たものは、やがて必ず日本に入って来ます。真剣にアメリカの先生方、兄弟姉妹と共に祈りました。
 ジョー先生とも会って、とりなしの祈りに行きました。

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 一つは、グランド・クーリーダムというダムにとりなしに行きました。ここは、一九三〇年代に出来たダムですが、ここで作られた電力は、全て、日本に落とす原爆を製造するために使われました。
 そして、このダムは戦後、日本にどういう影響を与えたかというと、日本の佐久間ダム建設に用いられました。ここの技術とか技術者が、全てが横滑りして、日本の戦後復興のシンボルである、佐久間ダム建設に用いられたのです。このような施設は結局、なんのために存在するのかというと、軍事用であり、経済の発展、大バビロンの発展のために用いられるのです。
 戦後、日本の経済が立ち直ったシンボルが、近くの佐久間ダムの建設から始まっています。その原点、グランド・クーリーダムで、経済の中に働く暗闇の力に立ち向かう祈りをしました。また、ここはインディアンの居住区で、こんなモニュメントが建っていて、そこでも一緒にとりなして祈りました。

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 霊的戦いに気づいて、社会の暗闇を引き裂くために祈る人たちは、もしかしたら少ないかもしれません。しかしその人達を主は用いて、社会は変わっていくと信じます。私たちは、残りの者とならなければいけないのです。一つの石として機能しなければならないのです。その時、主が、生ける石として、大バビロンを砕くためにこの地に来てくださるはずです。その日を目指して、私たちは戦い続けているのです。

 今日はあまり時間がないので、詳しい事を話すことはできませんが、今、私たちが置かれている時代を直視して、雄々しく生きていく決断をしたいと願っています。

 最後に、みなさんとご一緒に聖餐式を行います。この終わりの時代に、「あなたがたは残りの者になりなさい!背教に立ち向かい、汚れに立ち向かい、主を迎えるために、聖くなりなさい!」と、語られていると思います。そんな、決断の時になれたら感謝です。
 一言、お祈りさせていただきます。

 ハレルヤ。天の父なる神様。御名をあがめて、心から感謝します。
 今、私たちは大変な時代に生かされています。どうか、この時代、上からの力に満たされて、あなたの御心を現す、残りの者として用いられますように。今からの聖餐式の時、祝福してください。感謝します。イエス様の御名によって、聖餐式を始めさせていただきます。
アーメン。