『You are the light of the world
〜あなたがたは、世界の光です〜』

2016年9月11日(日)
メロー・ウェプレ牧師
マタイの福音書5章14節〜16節

『あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。』

 主の御名を賛美します。最初に、すべての賛美と栄光を神様にお返しします。そして、神様が、私たちとみなさんと共にすばらしい交わりの時を与えてくださっていることを感謝します。このチームを代表して、滝元順先生、そしてみなさんに、今回の旅を可能にしていただいて感謝します。「ありがとうございます。」

 私たちナガ族は、みなさん日本人のことを第二次世界大戦の時から、存じ上げてきました。私たちはみなさんを良い意味でも存知あげてきましたし、また同時に戦争の時に起こった不幸な出来事によっても知ってきたということです。
 でも、今日私たちが来て、みなさんと交わりを持つことができる、このようなすばらしい時を持つことができるのは、すべてイエス・キリストが私たちの罪のために十字架で死んでくださったためであることを感謝します。

 私たちナガ族についてみなさんに詳しく説明する必要はないと思います。と言いますのは、先生や、去年の和解のプログラムに来てくださった方々が、みなさんにお分かちしてくださったと思いますし、みなさんも私たちのために祈ってくださったと思うからです。
 昨年持たれた和解のプログラムは本当にすばらしいものでした。もう一度お礼を申し上げます。

 前回、みなさんが私たちの所に来て、許しを求めてくださいました。今朝、私は、私の部族を代表して、この場所に立っています。イエス様の御名によって、許しを求めたいと思います。私たちの部族が、日本の方々に対して戦争中に行ったすべての悪事に対して、どうぞイエス様の御名によって許してください。

 昨日順先生は、私たちナガ族と日本人の間に、いろんな共通点があることについて教えてくださいました。食べ物や住まいなどです。けれども、私たちが分かち合っている一番大切なもの、それはイエス・キリストだと思います。

 ナガランドはとても小さな場所です。でも、神様は私たちをそのような小さな所に、世の光として働くように置いてくださっていると思います。私たちの隣はミャンマーですが、そこの大多数の人たちは仏教徒です。西の方にはインド本土がありますが、そこの大多数の人たちは、ヒンドゥー教徒です。南の方にはバングラデシュがあり、そこの大多数の人たちはイスラム教徒です。北の方に行きますと、中国があります。そこでは、道教とか儒教とか仏教が盛んです。中国では、キリスト教も盛んになって来ていますが。
 そして私は、神様はみなさんも世の光として選んでくださったと思います。みなさんの国は科学技術によってよく知られています。「Made in Japan」のしるしが付いているどんなものでも、そのことを証しています。そのような技術を持って、みなさんは福音を世界に伝えていくことができると思います。
 私たちもあなたがたも、なすべき務めが与えられています。けれども、私たちは、弱さを感じることもあります。私たちは、その務めを果たすことができないこともあります。こんな少数の人数で、どうしてそんなことができるんだろうか?と思うことがあります。
 今朝、みなさんにお分かちしたい御言葉は、イエス様が、「あなたがたは世界の光です」と言ってくださった箇所です。マタイの福音書五章十四節〜十六節です。

『あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。』

 お祈りをさせていただきます。
 恵み深い天の父なる神様。このすばらしい一時を感謝します。私たちがそのために集まっている、イエス様のために感謝します。このすばらしい人々のために感謝します。私たちがあなたの御言葉に聞き入る時、私たちの人生をあなたにお捧げします。あなたに心を開きます。来て、私たちの心にお住まいください。そして、私たちのすべてをあなたが支配してください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。

 私たちの信じている神様は、王の王なる方、主の主なる方、神々の神である方、そして何よりも生きておられる神様です。神様は全能の神様で、何でもできる方なので、もしすべてのことをご自分でなさろうと思うならば、私たちは必要ありません。
 けれども聖書を見ていく時に、神様が何かをなさろうとする時には、人々を用いるということが分かります。神様は、「こんな人は使われないだろう!」と思うような、意外な方々を使われたりします。
 アブラハムは本当に年を取っていて、イサクが与えられた時には、もう百歳になっていました。人にはできないことを神様はなさいます。
 モーセは性格的には非常に短気な人でした。彼は人殺しさえしたことがあったのですが、そんな人物を神様は使って、民を解放されたのです。
 ダビデは若かったし、いろいろな失敗もしましたけれども、彼が悔い改めた時に、神様は、彼を用いました。そして、聖書を読むと、ダビデは神様の心にかなった者であると書かれています。
 テモテは胃潰瘍でした。
 ヤコブは嘘つきで、人を騙すような男でした。でも、神様はそういう人たちを用いました。
 ラザロは、死んでしまったけれども、神様は彼を生き返らせて、ご自身の栄光を現されました。
 ナオミは、未亡人でしたが、そういう方も、神様は用いました。
 パウロは人殺しで、教会を迫害したような男でしたけれども、でも彼がダマスコへの途上で神様と出会った時に、神様は彼を用いました。
 ヨナは神様から逃げていきましたけれども、神様は彼を用いました。
 エレミヤは鬱的で、死にたいと思っていたような人ですし、エリヤは燃え尽きてしまったこともありますが、そういう人々も神様は用いました。
 ノアは酔っ払いでしたし、ラハブは売春婦でした。
 聖書に出て来るいろんな人たちを見ていくと、彼らは私たちが思うような良い人たちではないということが分かります。けれども、それにもかかわらず、彼らが悔い改めて、人生を神様に捧げた時に、神様は彼らを用いられたのです。
 そして、神様は、その一人一人を、その時に応じて、すばらしい方法で用いられました。

 今日、みなさんに申し上げたいことは、自分は弱いと思わないでくださいということです。「私にはそんなことはできない」と思わないでください。みなさんにその思いさえあれば、神様はみなさんを用いてくださる。なぜなら、私たちすべては、神様の御前では特別な存在だからです。詩篇一三九篇十四節には、

『私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。』

とあります。
 創世記一章二十六節〜二十七節には、神様は、私たち人間を、ご自身のかたちに似せて造ってくださったとあります。そのような所を読むと、私たちは神様の御前に特別な存在であることが分かります。
 そして同じように、イエス様は、「あなたがたは世界の光です。」とおっしゃってくださっているのです。

 けれども、イエス様が私たちに求めておられることを考えていくと、それは容易ではありません。なぜなら、今のこの時代にあって、世界の光になるということは不可能だと思いやすいからです。周りを見回してみると、献身的なクリスチャンは多くなくて、ノンクリスチャンのほうがずっと多い状況です。ですから私たちは、こんな小さな光が世界にどんな影響を与えることができるだろうかと思ってしまいます。けれども、イエス様は、私たちが希望を失わないように、二つほど例をあげてくださっています。

 マタイの福音書十三章三十三節には、パン種のたとえが出て来ます。そこでは、小さなパン種が粉の全体をふくらませることについて語られています。そさらにイエス様は、山の上にある町は隠れることができないというふうに言っています。みなさんもご存じのように、小さな光でも、それを点ければ、暗闇は去っていきます。真っ暗闇の中で、一本のマッチをすっただけで、二十マイルも先から、それを見ることができます。私たちはクリスチャンとして、神の子どもとして、そのようになるべきです。
 私たちは少数派かもしれません。私たちは自分たちは小さくて、重要ではないと思うかもしれません。けれども、私たちは、世界の中で、大きな力強い影響力を持つことができるし、またそうなるべきです。そして、それは神様にとっては可能なことなのです。

 パウロは、ピリピ人への手紙の四章十三節でこう言っています。

『私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。』

 みなさんが、世界の光です。みなさんは、輝くべき存在です。もし、みなさんが明かりを点けなければ、またその明かりを枡の下に隠してしまうならば、その光は無駄になってしまいます。
 考えてみてください。もし、その光が輝かないとしたら、それは闇があるからではないのです。闇は光を消すことはできません。闇が濃くなっていって、真っ暗闇になったとしても、それでも光を消し去ることはできないのです。闇を濃くしていくことによって、光を消すことはできません。そうではなくて、闇が濃くなるのは、光がなくなっていく時です。闇が濃くなるのは、私たちが自分に与えられている光を枡の下に隠してしまう時です。イエス様が、「あなたがたは世界の光です。」とおっしゃった時、私たちは、この闇とは違う存在にならなければいけないということです。光が働くことができるのは闇とは区別されている時だけです。明るい太陽が照っている所で、明かりをつけても何もできません。光は、闇がある所で、その働きをすることができるのです。

 イエス様が、「あなたがたは世界の光だ。」と言われた時に意味しているのは、私たちは光を反射する者だということです。宝石やプリズムが太陽の光を反射するように、私たちはイエス様の光を反射する者です。ですから、私たちがしなければならない事は、イエス様の光を私たちの中に、また私たちを通して輝かせていただくことです。
 みなさんは、その光をお持ちでしょうか。それともみなさんは、そのランプを枡の下に隠してしまっているでしょうか。
 先ほども言いましたように、最も小さな光であっても、闇を追い払うのには十分なのです。闇は光が耐えられません。闇が濃くなるのは、光がなくなる時です。闇が闇であるのは、みなさんが光を枡の下に隠してしまう時です。

 みなさん、この世の中に闇が満ちて、罪が満ちていたとしても、私たちの光を消すことはできません。私たちが光をなくしてしまう時に、闇が勝利してしまうのです。今日、神様は、用いるべき器を探しておられます。神様は、みなさん一人一人が、世界の光となることを、望んでおられます。多くの時に、神様の御業を行うのは、神様に選ばれた器です。私たちの中の何人がそのために用いられたいと願うでしょうか。
 神様は、からし種のような信仰ということについて語られました。人間の目から見たら、みなさんは小さな存在かもしれません。けれども、みなさんに、その思いさえあれば、神様はみなさんを用いることができます。みなさんの人生を通して、すばらしいことを成してくださいます。けれども問題は、あなたがそれを願っているかどうか、ということです。

 最後に一つの例話を話したいと思います。
 ここにドラムセットがありますが、このペダルを踏んだ時、大きな音がします。けれども、そのドラムの内側は何もない、空っぽなのです。悲しいことに、今日見られる現実は、多くの「自分は神の子だ」と言うクリスチャンはそういう存在だと思います。外側は、私たちはハンサムで美しい人だと見えているかもしれない。けれども、内側には何もない。みなさんは、どうでしょうか。
 パウロが悔い改めて、神様の御前に出て、「主よ、ここにおります。」と言った時に、神様は彼を用いられました。そして、ダビデが罪を悔い改めて、神様の御前に出て行った時に、神様は力強く彼を用いられました。
 そして、私は神様が、今日みなさんを用いようとしておられると信じています。そして、神様は、みなさんを、世界のこの地域を変えるために用いてくださると信じます。
 けれども、問題は、みなさんにその願いがあるか、ということです。みなさんは、世界の光です。

 最後にみなさんとご一緒にお祈りをさせていただきたいと思います。ナガランドから来た若者のチームがみなさんのためにお祈りをさせていただきたいと思います。私たちは、神様が日本を祝福したいと願っておられると信じています。そして、神様はみなさんを用いたいと願っておられると思います。

 キリストにあって愛されている人々よ。みなさんはクリスチャンになってから何年も経っているかもしれません。けれども、その光を枡の下に置いてしまっているかもしれません。私たちの光を世界に輝かせましょう。イエス様にあって、その事は可能です。なぜなら、イエス様は「わたしが道であり、真理であり、いのちです。」と言われたからです。
 今、みなさんとご一緒にお祈りしたいと思います。ハレルヤ!と三回叫んで、ご一緒にお祈りをしたいと思います。そして、私たちはみなさんが今日、神様に人生をお捧げすることをお勧めします。お祈りしましょう。ジェホバセ!ジェホバセ!ジェホバセ!

<祈り>

 日本のリバイバルのためにお祈りしましょう。この地には偉大なリバイバルが起こります!私たちが、このメッセージにあったように、神様の御前に身を低くするならば、リバイバルが起こります。そして、その事を、私は見て来ました。ある日私たちは集まって祈っていました。そして、神様の御前に罪を悔い改めて告白しました。私たちは、叫びました。そして、泣いて、神様に「ごめんなさい。」と言いました。「あなたの御前に悪いことを行いました。私は罪人です。あなたの御前にへりくだります。」そうしたら、神様の御霊が、私たちに下りました。そして、私たちに触れてくださいました。そして、私たちの人生に働いてくださいました。同じ御霊が、聖い御霊と呼ばれます。そして、その聖いお方が私たちに触れてくださいます。そして、同じ聖霊様が、今朝、皆様に触れてくださいます。そして、主はあなたに触れてくださりたいと思っています。これから、「大いなる目覚め」という歌を歌います。この歌を歌う時に、御霊によって歌ってください。心で歌ってください。主よ、御霊を注いでください。この地に。

<祈り>

 神様に対して、悔い改めのある方は、どうぞそのようになさってください。神様に対して、感謝したいことがあれば、そのようになさってください。主よ、あなたがこの地にリバイバルをもたらそうとしておられる事を感謝します。神様は、私たちの地にリバイバルを与えてくださいました。私たちはそのために感謝します。同じリバイバルが日本にも起こります。なぜなら、神様はあなた方を愛しておられるからです。神様は、ナガ族の神様と同じ方です。同じ神様があなた方を愛しておられます。神様は、みなさんの心に訪れたいのです。今日、みなさんを力づけたいのです。そして、その事をすることができます。今日、心を開きましょう。そして、イエス様をお迎えしましょう。しばらく、お祈りしましょう。

<祈り>

 愛に満ちたすばらしい天のお父様。このすべてを感謝します。あなたが私たちを愛してくださって感謝します。私たちが世界の光となるように選んでくださって感謝します。確かに、私たちは、弱さがあります。限界があります。主よ、あなたはそれをご存じです。けれども、私たちはただありのままで、主の御前に出て行きます。どうぞ、お用いください。私たちはそのことを願っています。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。