『賜物を用いて、互いに仕え合いなさい』

2016年9月18(日)
新城教会牧師 上條実
第一ペテロの手紙四章十節

『それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。』

 ハレルヤ!今日みなさんとともにみことばを学ぶ事ができます事を感謝します。今賛美して下さったヘブンリーキングダムの賛美素晴らしかったですね.。ご案内されていますように今週の二十二日の午後二時から、コンサートが豊川市の小坂井にあるフロイデンホールで行われます。今毎日のように練習されています。やはり練習されている為、いつもの賛美よりも違う、素晴らしい賛美でした。特別コンサートの為にお祈りして下さい。また犠牲をもってご参加下さい。素晴らしい伝道のチャンスだと思います。
 また四十七都道府県巡回リバイバルミッションが先週の金曜日から始まりました。滝元順先生と、サックス奏者の安武玄晃さん。そして音響スタッフとして伊藤義也さんが奉仕して下さっています。今日で三日目になりますが、今回は四国・関西地区を十日間で巡回します。始めは高知県高知市にある高知ペンテコステ教会という教会で行われました。七十名ほどの方々が集って下さったそうです。そして昨日は、徳島県鳴門市にある鳴門ホープチャベルという教会で行われ、三十名程の方が来会されたそうです。それぞれ本当に素晴らしい集会であり、新しい方が来られ、イエス様を救い主として受け入れ、悔い改める方が起こされたと報告を受けています。今日は、香川県にて、善通寺バプテスト教会とキリスト丸の内教会と言うところで行われます。是非お祈り下さい。今日の週報に挟みましたが、集会の開催教会と開始時間が掲載してあります。是非お祈り下さい。特別木曜日の和歌山県からは毎日二箇所で開催します。移動距離もありますので、交通渋滞や事故から守られるようにお祈り下さい。
 今週は台風がこちらに向かってきています。お一人お一人が健康で、事故もないようにお互いの為にお祈りしていきたいと思います。
 また私の家族のために、いつもお祈り下さり心から感謝します。家内は今、自宅にて療養しております。完全な癒しがあるようにお祈り下さい。またこの頃週報にも載せて頂きましたが、三男の所に子どもが与えられ、二月の後半に出産予定となります。今度産まれたら、なんと六人の孫ができるということになります。本当に感謝します。

 それでは、先ほど読んでいただきました第一ペテロ四章十節から、学んで行きたいと思います。今日のメッセージタイトルは、「賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。」というタイトルです。先ほどは新改訳聖書でお読み頂いたのですが、今からは同じ箇所をリビングバイブルで読ませていただきます。第一ペテロ四章十節(リビングバイブル)、

『神様はあなたがた一人一人に、何らかの特別な能力を授けておられます。その能力によって、互いに助け合い、神様からのあふれる祝福をひとり占めにはせず、他の人と分かち合いなさい。』

 賜物をリビングバイブルでは特別な能力と訳しています。私は今、ある賜物、特別な能力を求めて祈っています。それは「いやしの賜物」が与えられるように祈っています。それは何故かと言うと、やはり家内が療養しているところを見ると、1日も早くいやされたらどんなに感謝かと思い、生きて今も働いておられる主に期待し、いやしを求めています。 また、今テレビでパラリンピックが行われています。日本がどれだけメダルを取るかと言う事も気になりますが、あの方々も主によっていやされれば素晴らしいのになぁと思い、祈っています。また私たちの周りでも多くの方々が、病を持ち、苦しんでおられます。そのことを考えると、どうしても癒やしの賜物が欲しいなと思い、求めています。賜物、特別な能力を与えてくださるのは、神様の側にありますから、私は頂けなくても、どなたでも良いので、この教会にいやしの賜物が与えられたら、なんと素晴らしいのになと思います。

 今から三十数年前になると思いますが、東京のとあるホールにおいて、お隣の国、韓国から有名な先生が来られて、集会がありました。その当時私はカセットテープを録音する仕事もしていましたので、その集会を舞台袖で録音をしながら参加していました。その時のメッセージは全く覚えていません。しかし最後の招きの時の事を強烈に覚えています。それは講師の先生が、祈りの中で、癒しのことについて祈り始めました。そして途中で祈りを止め、突然宣言し始めました。「今、腰の痛い人がいます。その人が今癒されました!」とか、「癌の人が癒されました!」とか、「今、寝たきりの人が立ち上がって、歩き始めます!」と様々な事を宣言し始めました。その後、「癒された方は、その場で立って、舞台に出て来て、お証ください。」と言われました。すると、私がその会場に入る為に、エレベーターで一緒に上がって来られた方が前に出てこられました。その方は娘さんが、寝たきりのお母さんをベットで連れて来たのです。私はその方を見て「どうやって連れて来たんだろう?たいへんだなぁ」と思った事を覚えています。講師の先生がいやされた人は前の舞台に出てきなさいと言われたのに寝たままで出てこられました。講師の先生はその人を見て、その方の為に祈り始めました。祈り終えて手を持って起こすと、ベッドに腰を下ろす状態となり、その後講師の先生が、その方の手を持って立ち上がらせようとしました。すると今まで立ち上がることができなかった方が立ち上がったのです。そして、その後会衆の前で、舞台の袖から袖まで歩いて見せたのです。もう会場が大きな拍手で満たされました。本人はもとより看病されていた娘さんも、涙して、顔をぐしゃぐしゃにしながら喜んでいる姿を見て、すごい事が起きるものだと思いました。またその後、聾唖者の方々の為に祈る時がありました。聾唖者の方々を舞台に並ばせて、祈り始めました。十人くらいの方が並んでおられました。一人一人の為に祈った後「は・れ・る・や」と、ゆっくり一人一人の後ろに立って言いました。すると聾唖者の方が、今まで聞こえなかった方々が、ビックリされていました。いやされたのです。私はその光景を見て、主の力の偉大さにビックリしました。
 また別の集会では、ある歯並びが悪かった方が、集会に出ているだけで、いやされたり、銀歯が入ったとか、金歯が入ったとかいやしを見ました。また、全日本リバイバル甲子園ミッションの時は、集会の奉仕者の方が、やけどをしていて、大会が終わったら、移植手術をしなければいけないと病院で診察を受けたそうです。その方が完全に癒されて、病院に行った時には、医師から「どうされたんですか?」と驚かれたほど、素晴らしい神様のみ業を見ることができたのです。そんな事を実際に見たり、聖書を読んで、いやしの記事を読んだ時、この教会に癒やしの賜物が与えられたらなんと素晴らしいんだろう。私にも「いやしの賜物」を頂きたいと思わされました。先ほどは四章十節のみことばをお読みしましたが、少し前の節、第一ペテロ四章七節にはこのように書かれています。

『万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。』

 七節です。そしてその後の十節には

『それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。』

と語っています。この頃の礼拝で、滝元順牧師がシリーズで、「山から出て来た一つの小石」というタイトルで、あのダニエル書の二章から語っておられます。山から切り出された一つの石が、突然、転がり出て、巨大な像を粉々に打ち砕き、小さな石が、地球全体に広がるというメッセージをされました。山から人手によらずに切り出された石とはイエス様です。今から二千年前、イエス様は処女マリアから人手によらずにお生まれになったのは、まさに、山から切り出された小石でした。

 ですから、教会とクリスチャンのゴールは、この石が切り出されて、巨大な像、すなわち悪魔が支配している地を、神の国にする為の準備です。このゴールを目指して、私たちは歩んで行かなければいけないわけです。山から人手によらずに切り出された石とはイエス様です。今から二千年前、イエス様が処女マリアから人手によらずにお生まれになったのは、まさに、山から切り出された小石でした。しかし終末の時、教会とクリスチャンのゴールは、この石が切り出されて、巨大な像、すなわち悪魔が支配している地を、神の国にする為の準備です。このゴールを目指して、私たちは歩んで行かなければいけないと学びました。今日学んでいる第一ペテロ四章七節には『万物の終わりが近づきました。』と書かれています。私たちは、今、世の終わりの時、終末の時に生かされています。もう一度、第一ペテロ四章十節を読んでみましょう。

『それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。』

 リビングバイブルだと、もっと分かりが良いのですが、第一ペテロ四章十節(リビングバイブル)、

『神様はあなたがた一人一人に、何らかの特別な能力を授けておられます。その能力によって、互いに助け合い、神様からのあふれる祝福をひとり占めにはせず、他の人と分かち合いなさい。』

と書いてあります。この世の終わりに、『神様はあなたがた一人一人に、何らかの特別な能力を授けておられます。』とあります。クリスチャンである、すべての方には、既に神さまからの特別な能力が与えられているとあります。既に神さまは、信じようと信じまいと、すべてのクリスチャン、あなたに、神さまからの何らかの特別な能力を与えていると聖書は言っています。「いや、私なんか何もできませんよ。何もないですよ。」と、思ったとしても、聖書は、神さまからの特別な能力があるということです。滝元順牧師が前回のメッセージの中で歯車の図を見せていましたが、小さな働きかもしれませんが、あなたが一つ賜物を既にいただいていて、神の備わった力によって、私たちの役割を行う時、歯車が回ります。それが次の歯車に伝わり、やがては大きな力を生み出すことができるのです。賜物ということで、第一コリント十二章四節~十一節を、読んでみたいと思います。

『さて、御霊の賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です。働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現われが与えられているのです。ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、ある人には奇蹟を行なう力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。』

ここでは、賜物として九つ出ています。知恵のことば、知識のことば、信仰、癒し、奇蹟を行う力、預言、霊を見分ける力、異言、異言を解き明かす力。この九つです。他のローマ人への手紙などに多くの賜物が記載されています。神さまからあなたに「この賜物を用いなさい!」と既に与えて下さっています。ですから今日はそれぞれ賜物が与えられているのだから、第一コリント十二章三十一節

『あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。』

あなたが熱心に賜物を求める時、歯車が動き始めます。動き始めると教会に更なる道を示して頂き、山から切り出された一つの石が、突然、転がり出て、巨大な像を粉々に打ち砕き、小さな石が、地球全体に広がっていくようになるのです。何もない、何が賜物かが分からなくても、神さまは一人一人に下さっているわけですから、その賜物を生かしてください。私のように、家内が病気だから癒しの賜物を頂きたいと、自分中心で求めることもいいかもしれません。「求めなさい。そうすれば、与えられます。」とありますから、あなたが「この賜物が欲しい!」と願ったら、神さまはみ心ならば与えて下さいます。しかし別の賜物を下さっているならば、あなたしかできない働きを賜物として、私に与えて下さいます。第一コリント十二章十二節から十四節に、からだの事が書いてありますが、

『ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。』

とあります。教会は、神が頭であり、私たちクリスチャンは各器官だとあります。私たちは、家族でも別々の賜物を与えてくださっています。また、仲の良いお友達であっても別々の賜物を与えてくださっています。なにか、牧師やスタッフたちが、主のために働いているので、そのような方にのみ賜物を与えて下さっているのではなく、すべての神の子どもに与えて下さっています。教会全体で賜物を熱心に求める時、歯車が動き、大きな神の働きができます。私たちは「リバイバルをください!リバイバルをください!」と祈る事はしてきました。そして更にリバイバルを求めていきましょう。しかしこの頃、祈る中でリバイバルとともに、賜物を求める祈りをしなくてはいけないと教えられています。各器官が動き出すように祈りましょう。今日は「賜物を与えてください!神の力、神の不思議な力、能力を私に与えてください!」と皆さんで祈りたいと思います。私たちクリスチャンが、ただイエス様によって救われた。これも素晴らしい事ですが、この世の終わりの時に、賜物を求めて、賜物を使って生活していく事がどんなに素晴らしい事かを知らなければいけません。賜物を知らなければクリスチャン人生は片手落ちのような状態です。ただ生まれたから、何となく生きているのではない。世の中の仕事に終始するだけでなく、霊的能力が生活の中で動くとき、それはお互いに大きな祝福をもたらします。からだは各器官が機能することによって支えられています。心臓があるので、全身に血液が流れます。また脳があるから、指令が送られ、胃があるので食事がこなされ、腸があるので排泄されます。それぞれは、互いにサポートし合っています。私たちが、今、願って、求めて、そして、あながた動き始めたら、聖霊の賜物をいただき、あなたが動き始めたら、このからだ、教会が動き始め、大きな大きな大きな力を現すことができるということを知らなくてはいけません。自分は何もできなくても、神さまは特別な能力を授けておられます。その能力によって、互いに助け合い、神様からのあふれる祝福をひとり占めにはせず、他の人と分かち合う事が大切です。今日、ここにいらっしゃる方、全員が賜物を求めて、祈り始めた時に、大きく祝福されて、その癒しや奇蹟や様々な賜物を見て、世の中の人たちが、「私もその力に触れていただきたい。イエス様を信じたい。」と思うようになるでしょう。
 
 一九九二年、新城教会に大きな賜物を主が与えて下さいました。それは「霊的戦い」です。一九九二年前までは、霊的戦いと言う事を全く知りませんでした。しかし聖霊さまが臨んでくださり、教会の賜物である霊的戦いを教えてくださいました。私たちには神の権威があり、イエスキリストの名と、みことばの剣によって、勝利を、様々な所で見させて下さいました。しかし賜物を頂いた時に、悪魔も必死に働いて来ました。一九九三年阪神甲子園球場を会場として、「全日本リバイバル甲子園ミッション」という大会をしました。日本のリバイバルを求めて、日本の教会が一致して祈ろうと旗を揚げて、祈り始めました。一致して祈ろう。働こうとしました。甲子園ミッションの準備の中で、どうなったかというと、新城教会に分裂が起きてしまいました。愛し合い、共に教会を築いて来た兄姉と別れ別れになってしまいました。しかし霊的戦いはストップしませんでした。更に加速して必死になって戦いました。賜物を生かして、宣言し、悪しき力が打ち破られるように祈りました。感謝な事に全日本リバイバル甲子園ミッションは大勝利を頂く事ができました。甲子園球場の真ん中に大きな十字架の舞台を作ったのですが、そこに多くの方々が決心者として出て来た時の感動は今も忘れません。あのとき教会に与えられた賜物である霊的戦いを熱心に進めた為勝利を頂きました。ヤコブ四章七節に、こういうみことばがあります。

『ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。』

 有名なみ言葉です。悪魔に立ち向かいなさいと言っています。霊的戦い、いろんな問題に対して、悪魔に立ち向かう事が大切です。そして今回、特別に教えられたのは黙示録十二章十一節から十二節、

『兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。それゆえ、天とその中に住む者たち。喜びなさい。しかし、地と海とには、わざわいが来る。悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒って、そこに下ったからである。』

とあります。リビングバイブルでは

『クリスチャンは、小羊の血と自らの証言によって、打ち勝った。 いのちを惜しまず、小羊のために投げ出したのである。天よ、喜べ。天に住む者よ、喜べ。しかし、地上の人々には災いがのぞむ。悪魔が、自分の時の残り少ないことを知って、怒りに燃え、あなたがたのところに下って行ったからだ。」』

ここに、『悪魔が、自分の時の残り少ないことを知って、怒りに燃え、あなたがたのところに下って行ったからだ。』

 私たちは今終わりの時だと意識はしていますか?悪魔は、今自分たちが働けるのが残りわずかだと知っていて、総攻撃で私たちに戦って来ます。だから私たちの一番痛いところ、主の働きが動けなくなる、急所を狙ってきます。だから教会が動けないように、教会が苦しむように戦って来ます。各器官がバラバラになるように仕向けてきます。歯車は一つ一つの歯車が動いて、大きな力を表します。しかし歯車の一つに障害物を挟むと、全体が動かなくなってしまいます。各器官である私たちの中に、悪魔は障害物を入れてきます。夫婦関係。親子関係。親族問題。病。仕事上のトラブル。経済的問題などなど様々な障害物を入れてきます。
あの、一九九二年、全日本リバイバル甲子園ミッションを控えた年、新城教会に霊的戦いが開かれた事は、悪魔の陣営にとって致命傷だと分かっていたのです。なんとかしてその霊的戦いを止めさせるようにと、総攻撃を教会に仕掛けてきました。その時仕掛けてきた攻撃は、分裂でした。

 教会は体であり、イエスキリストが頭で、私たちは各器官です。その器官に障害物を入れてきました。自分に任せられている本来の使命を忘れさせ、人を見させ、「あの人が、こんなことを言った。」「こんな行動をした。」などお互いを傷つけあう様にしてきます。
 
 旧約聖書の創世記に箱舟で有名なノアがいました。彼にはセム、ハム、ヤペテと言う三人の息子がいました。ノアは、箱船から出た後、ぶどう畑を作る農夫になったとあります。ある時ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていたとあります。すると息子のハムは、父の裸を見て、他のふたりの兄弟にノアの状態を知らせました。するとセムとヤペテは着物を取って、うしろ向きに歩いてノアの裸を覆ったとあります。その後ノアは酔いからさめた時、セムとヤペテを祝福し、ハムには、兄弟たちのしもべらのしもべとなれ。とまで言いました。ここで分かる事はお互いの器官が、苦しんだり、傷ついていたら、愛を持って隠してあげる。優しく包んであげる事が必要です。ハムのように言いふらすような分裂ではなく、愛で隠して包んであげなければいけません。悪魔は各器官に分裂を入れてきます。しかし第一ペテロ四章十節(リビングバイブル)、

『神様はあなたがた一人一人に、何らかの特別な能力を授けておられます。その能力によって、互いに助け合い、神様からのあふれる祝福をひとり占めにはせず、他の人と分かち合いなさい。』

 悪魔の罠は分裂させ、兄姉の中に愛がなくなり、批判、不平、怒りなどを与えてきます。しかしみことばは、賜物、特別な能力を頂き、互いに助け合い、神様からのあふれる祝福をひとり占めにはせず、他の人と分かち合いなさい。とあります。兄姉が愛し合い、主の働き、この地に主が帰って来られるまで一つとなって働いていくことが大事だということです。そして悪魔の策略に対して、立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けることが必要だと聖書は教えています。先ほども、ゴスペルクワイヤーの方々が、コンサートの動員が今ひとつ伸びませんのでよろしくお願いします。と言っていました。私たちは自分は行けない。自分はその時間、他のことをやらなければいけない。当然、そういう人もいるかも分かりませんが、それに対して、何にもしないで良いのでしょうか?ある器官ががんばっているのに、私は無関係と言う事はありません。コンサートの為に祈っていますか?何か自分のできる事をしなくてはいけないと思います。自己中心ではいけません。自分の事ならば、時間も惜しんで動き回るし、できなければ助け人を探して協力してもらいます。各器官です。あなたのできるところで動きましょう。コンサートに行かないから関係ないではなく、できる事をしましょう。それが各器官です。手に傷を負った時、体全体が痛みを感じます。私たちは、各器官だと意識して、自分の為だけでなく、今神さまの為に何ができるかを考え一致して行きましょう。分裂、批判、怒りは悪魔の策略です。
今日私たちの持っている問題、病などは主が必ずよくして下さると信じて、神にまかせましょう。私たちは今日賜物を熱く求める。特別な能力を求め、その能力によって、互いに助け合い、神様からのあふれる祝福をひとり占めにはせず、他の人と分かち合う器官となりましょう。
賜物、神さまからの特別な能力は既に与えられています。その能力を神の働きにいかしていきましょう。

 最後に、ホセア六章三節、

『私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現われ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。』

 ここに、雨のことが書いてありますが、これは聖霊様の働きのことを意味しています。しかし注目しなければいけないのは、ホセア書の六章三節の最初に注目していただきたいのです。『私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。』とあります。ある方は、賜物だけを注目して、賜物を求めます。しかし賜物ばかりを求めていたら、片手落ちだと思います。聖書は「主を知ることを切に求めなさい。」とあります。だから、私たちは、今から聖餐をいただきますが、もう一度、私のために、イエス・キリストが十字架にかかり、葬られ、三日目によみがえってくださった事を心から感謝し、主をまず愛しましょう。

『私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現われ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。』

まずイエスさまを知り、イエスさまを心から愛しましょう。その時聖霊が働きます。イエス・キリストを信じて、愛して、その中で私たちが賜物を求めていく時に、大きな大きな祝福があることを信じます。この世の終わりの時に、教会に賜物が顕著に表れて、助け合って、仕えあっていく、そんな教会になったら素晴らしいなと思います。そのためにも、私たちは主が来られる道備えをする器となるためにも、あなた一人が、イエス・キリストをしっかりと求め、愛して行きましょう。そして賜物をください!と、今日祈り、っていきたいと思います。最後にお祈りして、聖餐をいただきたいと思います。

 イエス様の十字架を心から感謝しましょう。イエス・キリストの十字架をしっかりと信じて、「私のためなんだ!」という事をもう一回認識したいと思います。どんなに私のために罰を受けてくださったか、心から感謝し、そして、一生涯、私たちは死の苦しみの中で本当に埋もれるのではなくて、死から勝利して、私たちは圧倒的な勝利者となることができることを、今日、イエス・キリストはあの十字架で救いを完成してくださったことを感謝しましょう。
 それと同時に、今日、今から、聖餐をいただきますが、本当に賜物をください!と、賜物を働かさせてください!と、私に与えてくださっている賜物を、今日、働かさせてください!と、祈りたいと思います。そして特別な能力によって、互いに助け合い、一致して、この世の終わりの時代、主が帰って来られる道を備えていきましょう。主を愛し、一致し、賜物を働かせていきましょう。お祈りします。


<祈り>
 愛する天のお父様。あなたを心から愛します。感謝します。まずは、私のために十字架にかかり、葬られ、三日目によみがえってくださった、このイエス様を心からお迎えします。あなたは私の救い主です。私の神です。
 そして、今も生きて働き、私たち一人一人に、賜物を備えてくださっている神に期待して聖霊を求めます。お一人お一人が賜物を働かせて、この世の終わりの時、働く事が出来ますように。今一人一人に、聖霊の油注ぎをいただき、賜物を働かせて行く事ができますように。またお互いを助け合い。一致していく事も出来ますように。今日各器官が特別な能力の中で動きますように。今からのこの聖餐式を祝福してください。主イエスキリストのみ名によってお祈りします。アーメン。