『賜物と一致』

2016年10月2(日)
新城教会牧師 四元雅也
使徒の働き20章34節〜35節

『あなたがた自身が知っているとおり、この両手は、私の必要のためにも、私とともにいる人たちのためにも、働いて来ました。このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。』

 ハレルヤ!感謝します。こうしてみなさんのお祈りに支えられて、今日もメッセージの奉仕をさせていただけますことを心から感謝します。

 今日から、十月最初の礼拝ということですので、気分一新、衣替えして、スーツにネクタイ姿でみなさんの前に出ておりますけど、まだ暑いです。でも、がんばって、お話したいと思います。がんばるところが違うぞ、という感じですが。

 今、ヘブンリーキングダムが賛美してくださいましたが、先々週のコンサートは、みなさんにお祈りしていただきまして、無事に終えることができまして、本当に感謝しています。参加してくださった方々も、また背後で祈ってくださったり、奉仕をしてくださった方々に対して、高い所ではありますが、お礼を申し上げたいと思います。大丈夫か心配されておりましたが、祝福されて感謝しています。
 いろいろな反応をコンサート後に伺ったのですが、ある姉妹は、お父様が来られました。そして、帰ってから感想を聞いたら、「クリスチャンは、本当に明るいものだねぇ!教会という場所のイメージが変わった!俺もクリスチャンになりたいくらいだよ!」と言ってくださったみたいです。すごく大きな前進です。今まで教会には来たことがなかったと思いますが、教会に対するイメージが、がらっと変わったのです。
 また、授産所のみなさんが教会に毎週来ておられますが、その中で辻森君と神藤さんがコンサートに来てくださいました。僕は先週木曜日に、授産所に行きましたら神藤さんが嬉しそうに「雅也先生に会いたかった!あの時の感動を伝えたくて待っていた!」と言って、ずっと待ち構えてくださっていたらしく、「もうあの日は感動して、夜も興奮して眠れなかった!」と、おっしゃってくださいました。私もすごく嬉しく思いまして、やって良かったな、と励まされました。
 私も、ステージに上って歌ったのですが、みなさんの顔がよく見えるのです。それで、どれだけ励みになったか分からないです。新城教会からも多くの方々が来てくださって感謝します。

 先週も、写真が紹介されていましたが、今日も紹介してみたいと思います。
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 これは最初の曲だと思います。

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 今回は長女と並んで歌いました。お断りしておきますと、この写真は僕が選んでお見せしているのではありませんよ。リーダーの石塚さんに、「みんなが喜んで歌っている全体写真をください。」と言ったら、なぜかこれが送られて来まして、これ以外の写真がなかったので、仕方なく紹介しているのです。でも、やはり親子で共演できるのは嬉しいですね。

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 これは、バンドの皆さんです。今回、ゲストでピアノコウジさんがキーボードを演奏してくださって、彼が日本中で指導している日本語のゴスペルを今回はフィーチャーして、多くの曲を歌わせていただきました。彼はゴスペルに対して熱い情熱を持っています。私たちも大変勉強になりました。

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 ロサンゼルスからはるばるゲストで参加してくださった、カーウィン・マニング師率いるパサディナチャーチの皆さんです。かっこいいですね、この写真。ローアングルからビシッと、ちょうどマニング先生の頭の所から光が出るように撮っている。素晴らしいです。本当に、ザ・ブラックゴスペル!という感じで、ラップの入った歌、私たちとはひと味もふた味も違うような、ハイクオリティーな賛美を披露してくださいました。

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 これが、ワークショップクワイヤーを加えて総勢五十四名で歌った最後のパートです。教会外の一般の方も数多く出演してくださいましたが、こうしてみるとみんな、一生懸命、力強く賛美しているのが見てとれます。

 ようやくコンサートが終わって、私自身はほっとして、重荷が肩から下りたような気分です。今日歌ったクワイヤーのみなさんも、前回とはちょっと違って、悲壮感が消えているというか、やはり新城教会で歌うのは、ホームです。ここが我が家!と思いながら、歌われていたのではないかと思います。
今回は、コンサートを通して、また一歩、クワイヤー全員が成長する時になったのではないかと思います。今日は、私は観衆として見ながら「上手くなったなぁ」と感じたわけです。
準備期間は、戦いをいろんな面で感じた期間でありました。
 選曲が決まり、チラシが刷り上がって、具体的に準備に取りかかり活動が始まったのは、二ヶ月前で、今まで行われてきたクワイヤーのコンサートの中では、一番短い期間でした。結構、スケジュール的にタイトな練習日程で、個人練習も気合いを入れてしなければならず、日々重圧を感じながら、準備していました。
 やはり、大きなコンサートをやると、クワイヤーのレベルも上がっていかないと、みなさんの前で立つことができない!と、メンバーも思っていて、みんなにも喜んでもらえるような賛美を捧げたいと思いますので、重圧がかかります。
また考えると、新城教会で行われるいろいろなコンサート、伝道活動がありますが、ヘブンリーキングダムのコンサートは、ユニークというか、独特なものだなぁと感じました。
 ヘブンリーキングダムは、新城教会の中で、ある意味で同好会みたいな活動で、自主的にやりたい人が集まる、そういう形態を持っています。だから、メンバーは月謝を払って練習をして、その月謝が活動経費に回されていくわけです。
 そして、コンサートは毎年ではなく、三年とか二年に一回行われるのですが、なぜ毎年行われないかというと、自主的に行うコンサートなので、自分たちの活動費の中から必要経費を捻出しなければいけない、それで、月謝も積立のようにして、外に奉仕に行った報酬とかも貯めて、ある程度力が蓄えられますと、コンサートに進み出るという形です。
 新城教会でやる伝道集会では、みなさんが献金してくださった中から、伝道費が支出されて、ゲストなり、また食べ物とか、かかる経費はその中から賄うわけですが、ヘブンリーキングダムが行うコンサートは違います。
一般的にも、なにかの同好会が活動するには、よくある形だと思うのですが、基本的に外部(教会)には財政負担をかけないで行うわけです。ヘブンリーキングダムが教会を巻き込んで行う活動ということです。もちろんみなさんにも祈っていただき、協力していただき、教会の伝道活動の一環としてやるのですが。
あれだけの大きなコンサートを、教会側としてはお金をかけずに開催できるというのは、考えてみればとても感謝なことだと思います。たくさんの方が導かれる伝道集会をヘブンリーキングダムが中心となってやってくれる!すばらしいことだなぁと、牧師の立場としては思うのです。
 それだけではないです。メンバーは、一人十枚、委託チケットというのを購入するわけです。それで、そのチケットを売ってもいいし、あげてもいいのですが、ある意味では自腹を切るような形で、十枚だったら十人、なんとかして連れて来なければいけないと、ノルマが課せられるわけであります。
 今回我が家は娘と二人で出たので、二十枚のところをディスカウントしてもらって、十五枚でした。それで、なんとか十五人連れて行こうと、コンサートの練習の重圧と、連れて行く重圧をダブルで担いながら、準備を進めていったわけです。
 また、衣装とか、練習や本番の前後の食事などの経費、そういったものも自分で出しながらやるわけです。ある意味では、ダブル、トリプルな重荷がのしかかってくるということで、眉間にしわも寄るのだと思うのですが、そういった活動をさせていただきました。

 当初、動員が伸びずに心配されたのですが、みなさんに祈っていただいて、当日は、参加したスタッフ、出演者も含めて、三百六十名くらい集められました。その中で、クワイヤーが導いた方は百五十名くらいだったと思います。会場に来ていた方たちの約半分が、クワイヤーの者たちが連れて来た求道者だったということになります。
 当日を迎えて、舞台の上から、そうやって集まられた方の姿を見ながら歌うことのできた瞬間は、最高の気分でした。それまでのすべての苦労が報われた瞬間といいますか、「あぁ良かったなぁ、がんばってきて!」という、そういう思いです。振り返ってみると、苦しい準備期間だったのですが、同時に良い準備期間だったなぁ、と思わされています。

 なぜこんなに苦労してまでやるの?と考えてみますと、純粋に賛美が好き、というのもあると思うのですが、それだけではありません。やはり、ここまで来ると、それ以上に、主を賛美していくことに使命感を持つというか、賛美を通して、この教会に仕えていく。主の栄光を現す者として働いていきたい。また、賛美を通して福音の光を放っていきたいという、そういう気持ちですよね。使命感がなかったらできない働きではないかなぁ、と思わされます。先ほどお読みいただいた、使徒の働き二十章三十三節〜三十五節、

『私は、人の金銀や衣服をむさぼったことはありません。あなたがた自身が知っているとおり、この両手は、私の必要のためにも、私とともにいる人たちのためにも、働いて来ました。このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」』

 そして、第一テサロニケ二章九節も読んでみたいと思います。

『兄弟たち。あなたがたは、私たちの労苦と苦闘を覚えているでしょう。私たちはあなたがたのだれにも負担をかけまいとして、昼も夜も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えました。』

 これは、どちらも聖書の中でパウロが告白している言葉です。パウロは、ご存じの通り、使徒として偉大な働きをしたわけですが、その一方で、彼は、テント職人として働き、生活の糧を自分がしている伝道の働きの中では得ようとせず、働いて稼ぎながら伝道していたのです。
 そして、伝道した人たちからの献金を通して食べていく、ということをせずに、二足のわらじを履くように、働きながら伝道した、そういう人でありました。大げさな言い方ではありますが、今回のヘブンリーキングダムも、そういう働きだったのかもしれません。

 現代社会に生きる私たちは、経済活動の中で生活してきているので、何をするのにも、「これをするといくらかかるかなぁ?」「資金があるかなぁ?」と、そういったことにとらわれながら決断する、そういう時代ですよね。何をしていくにもお金がかかる。
 私たちが行動を起こす動機にも、お金勘定が関わってくることを自然だと思って、それが当然のような社会の中で、私たちは生きているわけです。
 でも、初代教会では、ある意味、お金勘定というものを度外視したような形で、主の働きをしていたように、やはり、お金の価値とは別のところに価値を置いて、真剣に働く場所を持つということは、現代に生きる私たちには必要なことではないかと思います。
 ネパール宣教がこの三年ほど行われていますが、まさにそういう働きですよね。手弁当で、海外に出て行って、なんの報酬も支払えない人々のために仕えることです。
 また、リバイバルミッションの働きも、海外ミッションももちろんそうですし、47都道府県巡回リバイバルミッションでも、地域の開催教会に対しては、経済的負担をかけないように、席上献金のみで活動がされ、足りない分はリバイバルミッションの財布から持ち出しているのです。そういう、お金勘定というものを度外視した働きをし続けていくのは、教会にとって大切なことであり、その中に私たちも身を置くことは必要であると思わされます。

 教会の運営でも、毎週行われています礼拝の中で、みなさんにいろいろな形で奉仕をお願いしています。受付、聖餐式、警備とか。また子ども礼拝での奉仕、映像とか昼食接待、掃除とか、また音楽の奉仕。聖歌隊や、バンドのみなさんの活動とか、みんなそうです。損得勘定でできる働きではなくて、神様のために働きたい!という、自分の中から沸き上がってくる使命感が元にあるわけです。実は、神様の働きとは、すべてそういった中で前進することができるのだと思います。

 また、ちょっと話が変わりますが、今日、みなさんにもチラシが配られたかと思いますが、一ヶ月後、The Call Autumn Fes. Vol.1という集会が計画されています。

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これは、青年会が企画、実行しようとしている集まりです。Back 2 Edenに賛美の奉仕をしていただくことになっています。第一青年会が主催するのですが、対象はどなたでも結構です。「ザコール」という名前だと、青年だけかなぁと思われるかもしれませんが、誰でも来ていただいて結構という集会になっていますので、みなさん、まずは祈って、この集会のために何かできるかなぁ、と神様に伺っていただきたいと思います。

 話はまた変わるのですが、去る八月二十一日に、「近代資本主義とキリスト教」というテーマから、私が講義させていただきました。資本主義というと、この礼拝の中でもたびたび出て来るキーワードになっており、私たちが戦っていく「霊的戦いのフィールド」という意味合いを持った言葉になってきています。
 その歴史を紐解いていくと、いろいろ興味深いことが分かってきます。今日は、時間の都合もあって、詳しくお話しすることができないですが、興味がある方は、ビデオが撮られていると思いますので、スタッフに問い合わせていただければと思います。
実は、資本主義は、古代から存在はしていますが、世界の歴史が中世から近代、そして現代へと移り変わっていく中で、一つのターニングポイントになった時があるのです。それは、十五から十六世紀のことになるのですが、資本主義の価値観が、古典的なものから近代、そして現代につながる新しい価値観に変換されていった、そういう時期があるのです。

 実は、調べていくと、その中心にあるのが、「宗教改革」だということがわかります。宗教改革というと、みなさんも学校で学んだと思いますが、カトリックが支配していた当時の社会の中で、ルターやカルヴァンらが声を出して起こされた、キリスト教の改革運動です。
 宗教改革は、当時の社会構造をも覆して、現代的な社会の仕組みを生み出す転換期にもなったというのです。単なる宗教的な改革のみにとどまらず、当時の社会構造をひっくり返すような大きな出来事になったということなのです。
 その一つが、先のセミナーでもお話しさせていただいたのですが、全体主義から個人主義への転換です。具体的に大きな三つの事柄が起きました。

 一つ目は、政治的な権力と結びついて、宗教的に堕落していたカトリック教会への批判が起き、国家と教会との結びつきが破れた。それは、現代社会にも通じる政教一体から政教分離という価値観に転換したことです。政治と信仰とを別として考えていくという価値観ですよね。今でも、世界の多くの国々は、この価値観を取っているわけです。
 二つ目は、教会を中心としていた社会制度が崩れた。当時は、カトリックが絶大な権力を持って、社会の中に君臨して、民衆を教会に結びつけることを通しコントロールしていた。その社会制度が崩れた。そして、個人の自立・自由・自主性というものに重きが置かれるような社会に移って行った。これは、社会において全体主義から個人主義への移行がなされたのです。
 現代のように、個人の人権が尊重され、個人の言論の自由、犯罪以外の行動の自由が許される時代は、宗教改革を通して、カトリックや、当時の封建的な社会が個人に対して抑制していたものを個人に取り返していった結果なのです。
そしてそれが、今の社会のベースになっている価値観なのです。
 そして三つ目は、人権的な尊卑が解消された。いわゆる階級制度、支配者とか貴族とか、平民とか商人とか、奴隷などの階級制度が解消された。自分の職業を自分の意志で努力して選び取ることができる、そういった社会が産まれたのです。
 そして、その中から「職業」という概念が生まれました。階級制度の中、生まれつき与えられている環境の中で生きていくというのではなく、自分の能力を最大限に発揮して、その能力を、社会に売るというような、階級によってではなく、契約によって個人に社会の役割が与えられて行くという制度への移行が、宗教改革を通してもたらされていったのです。
 このような構造の変革を図で分かりやすく示したものです。

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 右側が、中世的な社会構造です。国家・教会という中に彫り込まれるように「浮彫的人間」と書かれていますが、個人と社会が一枚岩になって、個々が自由に動き回れない社会。これを「コルプス・クリスチアヌム」と呼ぶそうですが、これはラテン語で、「キリストのからだ」という意味を持ちます。あまり良い意味での「キリストのからだ」ではないと思います。個人の自由が権力により制限されている状況です。それが、宗教改革後には、教会の権威、そして、当時の封建的な社会制度が砕かれることで、個人々々が立体的に独立し、社会の中で契約(法律)を通して働いていく、契約を通して社会へ貢献していく、そういう社会へと変革されていったということなのです。
 今までは、教会が一枚岩のように、個人の人格にも影響し、精神的な土台、柱になっていた部分から、個々が分離していく過程を通して、個人の倫理観、何が正しいか、生きる上で必要な価値観、どうして自分は生きていったらいいのかという哲学、そういったものを個々が確立していく必要が生じてくるのです。
 そういう時代の要求に応えたのが、プロテスタントでした。ルターは、聖書を、当時、上流階級であった聖職者階層しか読むことのできなかったラテン語から、一般庶民も読むことができるドイツ語に翻訳したのです。一般人が聖書を読めるようになったことにで、個人が精神的な柱を、カトリック教会を介してではなく、聖書のみ言葉から直接受け取ることができるようになったのです。そこから、宗教改革が世界に拡がっていくことになるのです。
 そして、この後に起こる市民革命、名誉革命などの人権運動、民主化運動へとつながり、あるいは、個々の能力が生かされる社会になることによって、産業革命が起き、倫理観、哲学が個々の人生で求められるようになることによって、学問の啓蒙、科学の発展、そういったものが近代にかけて大きく開かれていったわけです。その影に、プロテスタント宗教改革の功績が大きくあるのです。

 そのような中から、近代の資本主義社会というものも誕生します。それが現代の資本主義へとつながっているわけですね。そして、資本主義社会が、世界を席巻して、また世界をリードするような強い国家が、そういった中から誕生してくるわけです。
 現代社会は、資本主義によって支配されている、そういう世界になっています。この教会の中でもよく語られているように、世界の資本主義は、今は悪魔に取られて、一方で富の集中とか、貧富の格差、テロの問題などの問題を生み出して、我々庶民にとっては、先行きが分からない、何か知らないけど不安がいつもつきまとうような世界を作り上げています。
 地球に七十億という人が生きているのですが、資本主義社会は、もしかしたら世界を滅びへと向かわせるかもしれない、巨大で怪しい怪物のようになってしまっている、というのが現実ではないかと思います。
 でも、元々はカトリックと封建的な階級制度の中で、一枚岩であった社会構造を打ち破り、自由を打ち立てた「宗教改革」があるということです。だから、クリスチャンである我々、プロテスタント教会にある我々は、世界でリーダーシップを取り、全人類、全世界の人々が平等に暮らすことのできる社会を作るために、働いていかなければいけないと思います。

 また話が変わるのですが、これも礼拝の中で言われる話ですが、現在、憲法改正が活発に論じられていますよね。日本に住んでいる私たちにとって、未来を方向付けるような、大きな論題です。祈っていかなければいけないです。特に、言われているように、自民党が打ち出している改正草案は、危険な思想が込められています。
 それは、国家の下で、個人の人権を制限する。そして、全体を一枚岩として統制することを意図された文言が、草案の中に取り入れられているのです。
 図を見ていただきたいと思います。

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 憲法とは、「国」が守るべきルールだ。「国」とは「国家と公務員」のことで、国を統治する権力を持つ者を指す。国家公務員、また国を統治する権力を持つ者。そういったものということです。
 そして、憲法は、国家が国民の権利を侵し、権力を乱用することを抑止するため、個人の人権を守るためにある法だということです。
 実は国民は、憲法を守る義務は負わず、政府、統治機構、公務員というものが憲法を遵守しなければならないのです。
 ところが、自民党の改正草案は、あたかも国民が国家のために、人権を放棄して仕えることが正しいことであるかのように憲法の原則を無視して変更されているのです。
 それは、現行憲法の十章九十七条を、自民党草案は削除していることに象徴されます。紹介したいと思います。

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この左側が現行憲法です。そして、右側が自民党草案です。
 九十七条には何が書いてあるかというと、国民の基本的人権を国家が保障し、保護することが謳われています。
 現行憲法を読んでみると、「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲 得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」これを、まるっと自民党草案では削除するわけです。
 憲法が、国民の基本的人権、これは歴史を通じて、長年に渡って民衆が獲得してきた特権であるにも関わらず、国家がそれを侵すことのできないものとして信託するということを放棄したということなのです。
 そして、次のページを見ると、これも新たに自民党草案で書き加えられたものなのですが、

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「全て国民は、この憲法を尊重しなければならない。」とあります。
 憲法というものは、国が守るべき法律であり、法律の中の最高の法律であるわけですが、「国民は、憲法を尊重しなければならない。」と、国民に憲法を守るということを要求することを、自民党草案の中では書き加えているわけです。

 そして、こういった中で、日本の伝統文化というものを尊重するような考え方とか、宗教の自由を謳いながら、宗教の上に国家の意図を置くというような価値観を植える文言も盛られております。

 こういった草案は、ある専門家に言わせると、「全く憲法として評価するに値しない」と、評価をされたりしています。
国家主義の露骨な表れが、自民党の新憲法草案の精神なのです。そして、この精神はどこから影響して出て来ているかというと、多くの政府要人が名を連ねている日本会議とか、神道政治連盟という民間団体です。この団体は、危険な思想を持っていて、過去に日本を世界の中心として、国家神道の下に、アジアを侵略した、当時の日本を支えていた思想を復興させよう!これを日本人精神のスタンダードとして植え付けていこう!という、全体主義的な思想の再構築を目指しています。
 戦前の日本では、天皇を中心とした国家神道の下に、国民が統制されていたような時代でありました。彼らはこの全体主義が、現代、世界に誇れる日本人の美徳だと考えるのです。そして、世界の未来をリードする価値観、理想的な社会像を提供するものだと、そういうふうに考えているのです。

 お話ししたように、十七世紀に、ヨーロッパでは、民主化運動が起こって、民衆が封建的な政治を打ち倒し、個人の自由主義が生まれて、現代では、我々の人権のベースになっているわけですが、現代社会は、個人主義とか自由主義が、見ようによっては行き過ぎているような節もあるのかもしれません。個人の自由を声高に謳いすぎて、バラバラになってしまっている、社会を分断する「悪」になってしまっている節もあるわけです。
 そんな中、「古き良き人のつながりこそが大切だ!」と言う人もいますよね。それは、日本的な「お互い様」精神の中に見られ、そこには先祖崇拝や、地域の地元の祭りだとか、そういった宗教的な伝統行事も含まれると、そういうまことしやかな主張があるんです。
 この全体主義を、個人の権利よりも上に持って行こうというのが、新憲法草案の目的なのです。そこにはもしかしたら、近代から現代の社会をリードしてきたプロテスタント・キリスト教に対する反抗心もあるかもしれないと思うのです。だとすれば、そこには教会が戦っていかなくてはいけない霊的な戦いの戦場もあるのではないかと思います。

 聖書はどういっているかというと、聖書は、私たちが救われるために、個人として、イエス・キリストが神の子であり、人々を罪から救い出して永遠のいのちを与えるために、この地上を人として歩まれ、十字架に架かって、死んで葬られ、三日目によみがえって、天に上げられたということを信じる。そして、バプテスマを受けるということを、救いの一つの条件としています。
 ローマ人への手紙十章九節〜十節を見ますと、

『なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。』

と書いてあります。
 このように救いというのは、個人としてイエス様を「自分の神」として信じることが大事であるわけですが、聖書は多くの場合、クリスチャンが神の前に歩む人生は、共同体の中で営まれるのです。父なる神様を中心とした共同体です。
 家族単位でもたらされる救いというのも描かれています。使徒の働き十六章三十一節、

『「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」』

 また、神の国を地上にもたらすための戦いが、教会という共同体を通して現されて行くということを教えている聖書の言葉もあります。エペソ人への手紙三章十節、

『これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、』

 また、クリスチャンが、個として存在していくだけではなく、共同体として存在していくことが現されている聖書のみ言葉もあります。第一コリント人への手紙十二章二十七節、

『あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。』

イエス・キリストにあるクリスチャンの一致は、大きな意味を持つものだと聖書は言っています。我々の救いが家族に及ぶことです。そして神の業が現されていく器官としての「教会」です。
 そして、その中に属する我々ひとりひとりは、その器官を構成しています。そういう共同体の中で、私たちクリスチャンの営みはなされていくということなのです。

 コンサートにゲスト出演してくださったピアノコウジさんこと、粟野こうじさんが話された中で、印象に残る言葉がありました。彼は、日本のゴスペル界において長く活動されている、草分け的な方です。日本にゴスペルが流行り始めるずっと前から、彼はアメリカのゴスペルに影響されて、日本において活動を続けておられます。彼はこんな事を言いました。「ゴスペルは、一致を楽しみ、また違いを楽しむのです。」一見、矛盾するような言葉です。「一致を楽しみ、また違いを楽しむ。」
 考えてみると、音楽というものも共同体のなせるわざです。特に、ゴスペルというのは、大勢で歌う時に、歌う者たちは互いを意識します。そして、思いやりとか、声を聞き合うとか、体の動きとか、心も一致させよう、そういうふうに考えながら歌っているのです。それは大事なことで、またバンドも同様で、よく「一つになって歌う」と、今日もクワイヤーで歌われていましたように意識するのです。

 さて、ここでみなさんに問題を出したいと思いますが、大勢で歌う時に、音の長さや高さ、声の大きさ、息継ぎのタイミング、細かなニュアンス、発音の仕方など、全員が一糸乱れぬように完全に同期すると、聞く側にはどういうふうに聞こえるのか分かりますか?大勢でも、完全に一致して歌うことができたとしたら、どう聞こえるか?
 実は、聞く側には一人が歌っているように聞こえるというのです。何人いても、一人に聞こえるというのです。ゴスペルの場合は、ソプラノ、アルト、テナーと、三パートありますので、完全に一致すると、三人に聞こえるということなのです。
 さて、みなさん、今日も、ゴスペルが歌いましたが、果たして何人に聞こえましたか?三人でしたか?三人だったという人は誰もいないですね。六人ですか?十人ですかね?もっと大勢に聞こえましたかね。ヘブキンもまだまだですね、ということであります、でも実は、いくら突き詰めても、人間業ではできないのです。絶対に無理なのです。
 そして、粟野さんが言ったことは、実は、そのような一致しようという中での違いこそが、ゴスペルの醍醐味だというのです。それが、太くて豊かな迫力のある音声を届けるというのです。
 今回のコンサートが終わった後に、一人の方に感想を伺ったところ、「良かったよ、大勢で歌っているのに、誰かの声が飛び出るということがなくて、なんかうまく解け合ったハーモニーが奏でられてたよ!」と言ってくださいました。お世辞もあるかもしれませんが、それがゴスペルが目指すハーモニーなのです。
 これには音を調整していただいた音響さんの努力も大きいと思うのですが、本当にいろんな力に支えられて、一つのものが完成していくわけですね。多様な賜物の一致ということです。共同体ということですね。
 楽器もそうらしいです。完全に同期させると、たくさんの楽器が音を出しても、一つの音に聞こえるそうです。
 レコーディングの中で、「打ち込み」というものがあります。「打ち込み」は何かというと、コンピューターの中に楽器の音が入っていて、その音をコンピューターの中で組み合わせて、あたかもバンドが演奏しているかのように、演奏させることができるのです。ライブやレコーディングの時に使われるわけです。コンピューターというのは機械ですので、各楽器を完全に同期させることができるのです。でもそうすると、良い音楽にならないのです。ある楽器を、リズムに対して完全に同期させずに、ほんのちょっと前にずらすとか、逆に後ろにずらすとか、そういったことをすると、美しい音楽に聞こえるというのです。おもしろいですよね。そうしないと、ちゃんとした音楽になってくれない。機械仕掛けではダメで、人間くささが必要ということですね。
完全にシンクロさせると各楽器の音が打ち消し合っちゃって、聞こえなくなってしまうので、コンピューターで音楽を作る際も、「あえてずらす」ということをする。そのわずかなずれの妙が、音楽の豊かさを醸し出していくのです。一見、矛盾するようなことですが、「ずれが調和を生む」、おもしろいですよね。それを粟野さんは、「一致を楽しみ、違いを楽しむ」というふうに言われたのです。

 話が戻って、今、政府が推し進めている憲法改正のポイントが、日本の宗教的な土台の上に構築されていく全体主義だとしたら、それは、近現代に渡って社会の根幹をなしてきた、個人自由主義、それは宗教改革に端を発してでてきた価値観ですが、それに対しての反発だ、ということをお話ししました。
彼らが作ろうとしている全体主義は、国家の下に民衆を統制することを目的とした危険な思想だと思うのですが、その一方で、行きすぎた個人主義とか、自由主義も、社会を荒廃させていく悪になるという意見も、あながち正しいかもしれない、というところがあるわけです。個人がそれぞれ勝手に自分のことを考えて、自分の損得勘定だけで行動がなされていったら、社会も危険な方向に向かっていってしまうのではないかと思います。そんなことが、世界で注目され始めています。
 だから日本政府は、そんな全体主義だったら、戦前の日本人がみんな持っていたじゃないか、と考えるのです。
 戦後入って来たキリスト教国の個人自由主義は、結局日本を悪くするんだ、という極端な考えです。

 しかし、さきにお話したセミナーでお話ししたのですが、近代資本主義の発展の、そもそもの元になった出来事は、プロテスタントが誕生して、そこから生まれ出た職業感というのがあるのです。神様によって、それぞれ仕事が与えられている!という考え方です。
 それは、聖書がいう、私たちひとりひとりが天から与えられている「使命」です。そして、その基に何があるかというと、「隣人愛」です。隣人のために益となることをしていくところにあるのです。
 日本的に言ったら、お互い様の精神ということなのですが、聖書的な共同体の精神、神と共同体のための自分、そういった価値観です。自分の賜物を通して、周りが生きていくという精神です。実にそれこそ、現代社会で見直されなければならない一つの価値観ではないかと思います。
 教会が、共同体として、そのような一致を社会に提示して模範を示すことが、今の時代にこそ必要なことだと思います。
ITが普及して、多様性が高まって、ますますまとまりにくくなるような社会の中で、どうやって互いを受け入れ合い、社会を成り立たせていくか、ということが問われています。
 そのような時代の流れの中で、教会は、聖書的な共同体の価値観というものを示して、そして実際に行動して、違いの中で一つとなれる場所として機能していくということが求められているのです。
 教会が未来の社会に向けて、存在感を示していくことが必要です。このコンサートを通して、僕自身が改めて教えられたことです。

 今日は、「賜物と一致」というテーマで、ここまでお話しさせていただきました。これは、今、世界が求めている「共同体」の姿であると思います。ここにいらっしゃる、みなさんお一人お一人が、先ほどお読みしたみことばでも語られていたように、大切な、キリストのからだの各器官です。そして、神様からそれぞれユニークな役割を担っているわけです。みなさんも理解されていることだと思います。それがまさに、これからの社会に、求められている価値観であり、カギだということです。
 私たちは、教会を通して、この価値観を発信する使命があると思います。「一致を楽しみ、違いを楽しむ」とお話しましたが、そのようにして、教会が一つの「歌声」を世界に発していくような、そういう存在になっていくことができるように、お互いに祈り合いながら、また働いていきたいと、そんなふうに思わされています。

最後に、今日お話ししたことを振り返りながら、自分自身が、キリストのからだである共同体の中に属しながら、世界の中で生かされているという意味を、今日のみ言葉の中から思い巡らせ、そして、神様の前に自分自身を捧げる祈りをしたいと思います。お祈りいたしましょう。

 ハレルヤ。イエス様、教会が今の世界の中で成していかなければならない役割、その中で、個人がキリストにある「共同体」に属する者として、賜物を発揮し、主のために働いていくことができますように。主よ、今日ここにおられるお一人お一人、誰も不必要な人はおられません。あなたの前に、恵みの中で選ばれた素晴らしい方たちです。主よ、どうかそれがキリストのからだとして、それぞれが各器官を担い、社会における役割を果たし、この地に神の国の到来をもたらす、そのような存在となっていくことができますように。主よ、あなたが、新城教会を通してなされている、様々な宣教の働き、またリバイバルのための働き、祈りが、これからも、主のみ心の中で前進し続け、この地に神の国を現す存在となることができるように助けてください。一人一人に聖霊の豊かな油注ぎがありますように。イエス・キリストのみ名によって、お祈りいたします。アーメン。