『信仰を活性化させよう!』

2016年10月16(日)
新城教会牧師 公畑フェルナンド
マルコによる福音書5章25節〜34節

『ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と考えていたからである。すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか」と言われた。そこで弟子たちはイエスに言った。「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれがわたしにさわったのか』とおっしゃるのですか。」イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」』

 ハレルヤ!感謝します。いつも、私のために、インターナショナルのために祈ってくださり、本当に心から感謝します。五ヶ月ぶりにこの礼拝でメッセージをできること、感謝します。毎週土曜のインターナショナル浜松礼拝と日曜のインターナショナル礼拝、また今日はこちらの礼拝でメッセーできることを、感謝します。ではスペイン語でお話して、家内に通訳してもらいます。

 みなさん、インターナショナル部会がどういった活動をしているか、午前の礼拝の方ではあまり発表する機会がないので、今少し時間を作って、最近の出来事を紹介していきたいと思います。

 八月は、洗礼式がありました。

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 六人のティーンエイジャーたちが洗礼を受けました。今までも多くの方々がバプテスマを受けたのですが、毎年、一年のうちに、イエス様を信じた人が何人かいるのですが、みな八月を待って、洗礼式を一緒に行うということをしています。今年は新城の川で行いました。その洗礼式の後で、みなさんと一緒にバーベキューをして交わりをしました。

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 これがサンデースクールに集まっている子どもたちです。豊橋の動物園に遠足に行きました。毎週日曜日には四つのクラスに分かれて、サンデースクールを行っています。三歳から中学生まで行っています。スペイン語とポルトガル語でしていますが、数年前から、中学生と高校生のために、日本語でクラスを行うようになりました。なぜかというと、日本で育っているので、少しずつ母国語を理解するのが難しくなってきている現状があり、中学生と高校生のためには、日本語でもするようになりました。
 そして、礼拝も日本語の通訳が準備してあります。インターナショナル礼拝に来てくだされば、今は日本語の通訳がラジオで聴けますので、みなさんもお越しください。

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 また、二ヶ月に一回、伝道集会をしています。いつもテーマを一つ決めて集会をしています。四ヶ月前には、パステルパーティーというのをしました。写真右上の揚げてあるブラジルのパステルという食べ物、左側がペルーのエンパナーダというお菓子です。これのテーマで伝道集会を行いまして、大勢の人が来てくださいました。

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 八月には、アイスクリームパーティーという、伝道集会をしました。いろいろな兄弟姉妹たちによる出し物もありました。またイエス様を信じる方も与えられました。そして、集会の最後に、いっぱいアイスクリームを食べました。

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 今月の終わりには、インターナショナル部会にとっては一年で一番力を入れている伝道集会があります。カフェコンサートといいます。興味がある方は、ぜひいらしてください。二九日土曜日の午後八時から行われます。
 そして、ぜひお祈りしていただきたいのですが、この集会に多くの新しい方が来て、救われるように、お祈りして支えてください。

 さて、この中に、人生に奇跡が欲しいい方はいらっしゃいますか?もし、人生に奇跡が欲しいなら信仰を活性化させる必要があります!例えば、ヨハネ五章二節〜八節を読みたいと思います。

『さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。その中に大ぜいの病人、盲人、足のなえた者、やせ衰えた者たちが伏せっていた。そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」』

 このベテスダの病人は、そこに三十八年間座り、ただ奇跡を待っていたのです。人々が信じていたのは、時々天使が来て水をかき回し、最初にその池の中に入った人が癒されるということでした。歴史学者の何人かは、その池は間欠泉であったと言います。この男は三十八年間、天使が水をかき回すのを待って、その水が少しでも自分にかかり、癒されるのを待っていました。しかし実際はそうなりませんでした。
 この箇所で注目していただきたい事は、イエス様は、彼のために祈らなかったことです。癒されるようには、祈らなかったのです。イエス様は彼に手を置いて祈られなかったのです。そうではなく逆に彼に注意しました。「ここで横になって何をしているのか?」と。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」と言われました。他の言葉で言い換えるなら、私たちには、何らかの行動をする必要があるということです。私たちは残りの人生、神様の奇跡を、ただ寝て待っていてはいけないのです。信仰の一歩を踏みださなければなりません。寝床から起き上がらなければなりません。そしてまだ、現実にはまだ起きてはないことを信じなければいけません。神様は神様側のなすべきことをなさり、あなたはあなた側をしなければなりません。

 今日は私たちの信仰を活性化する三つのことについて、お話ししたいと思います。最初にお読みしたマルコ五章の所ですけれども、最後の三十四節を読みたいと思います。     

『そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」』

 あなたは何がこの女をいやしたのかと思うかもしれません。イエス様だったのでしょうか?それとも、彼女の信仰だったのでしょうか?もちろん、その二つです。神様は聖霊の力によって彼女に働き、そして彼女も自分のすべきことをしました。これが私たちが見習うべき事なのです。病気の男のように、ずっと待っていてはだめです。
 それでは、この女は何をしたのでしょうか?まず、第一番目に、イエス様についての、うわさを聞きました。彼女が奇蹟をおこなう一人の人について聞いたと推測します。その男は預言者のようだと。またメシヤではないかと言う人もいたでしょう。そして、どの様に足なえの男をいやしたか、目の見えない人を見えるようにしたか、口がきけない人をきけるようにしたかということを聞きました。彼女はそれを聞き、信仰を持ちました。
 聖書にこう書いてあります。『信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。』(ローマ十章十七節)これは、キリストについての良い知らせを聞くという意味です。何でも聞けばいいのではなく、良い知らせを聞く必要があります。御言葉の信仰のメッセージを聞く必要があります。信仰は聞くことから始まるのです!

 一度、ある兄弟のことを聞きました。彼は聖書を大きな声で読むそうです。それを聞いて考えました。とても疲れることであるし、時間がかかることではないかな、と。しかし彼はこう言いました。私がこうするのは、私が聖書を読む時、同時に御言葉を告白していることになるし、耳でそれを聞くことにもなるからです、と。
 それで私は皆さんにお勧めします。聖書を読んでいるときに、もし好きな御言葉や、神様が自分に語っていると思った御言葉があったら、大きな声に出して読んでみてください。なぜでしょう?なぜなら信仰は聞くことから始まるからです。

 第二番目にこの女がしたことは、奇跡を想像したことです。彼女は信仰の目で奇跡を見たのです。奇跡が起こる前に、すでに思い描いていたのです。なぜでしょうか?なぜなら、想像するということは、神から与えられたプレゼントで、信仰を活性化するためのものです。想像力という賜物を働かせて、あなたの信仰を活性化しなければなりません。
 私が想像するのですが、この女は、することを頭の中のビデオで見ていたのです。この女は想像して、見て、イエス様のところに行きました。そして、イエス様の着物を触り、奇跡的に癒されたのでした。
 でも、ちょっと注意してください。でも、先生、そんなこと聖書に書いてないじゃないかと言われるかもしれません。なぜなら、この出来事の前には、聖書の中に、「着物にさわったら癒やされる」ということは書いていないのです。しかし神様は私たちの信仰を褒められる方であって、私たちの神学を褒める方ではないのです。ですからこの奇跡が起こった後には、これが神学となったのです。もし私が信じるなら、私がイエス様の着物に触れたら、癒されるということなのです!ヘブル人への手紙十一章一節に書いてあります。

『信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。』

もし信仰の目で見ることができて、その想像したことが心に完全に植え付けられているなら、あなたには信仰があると言えます。また聖書はこういっています。信仰がなくては神に喜ばれません、と。信仰をもって働かなければなりません。

 三つ目に彼女がしたことは、奇跡を宣言する、または告白することでした。マルコによる福音書五章二十八節、

『お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と考えていたからである。』

 ここで書いてあることは、「想像した」ということが書いてあります。または、さわることができれば治ると思い描いたのでした。聖書の原本であるギリシャ語は「レゴ」という言葉が使われています。これは、「考えた」と取ることができます。同時に「告白した」と取ることができます。ですから次のように理解することができます。彼女は考え、考えたことを宣言した、と。お着物にさわることができれば、病気は治ると宣言した、と言えます。
 なぜ私たちの口の告白が、これほど重要なのでしょうか?私たちが奇跡を口で言い表すとき、私たちの耳がそれを聞くからです。耳でそれを聞くときに、想像力が働いて、頭の中で見るようになります。頭の中でそれを見るようになると、それを宣言するようになります。また宣言するとき、耳がまたそれを聞くようになります。その様に何度も繰り返えされていきます。
 これは私がしていることですが、私が奇跡を必要とするときには、その奇跡を思いながら、考えながら寝るのです。そして今の現実とは異なることを見始めるのです。その夢を見始めるのです。次の日、起きる時には、それを宣言して起きます。私の夢の中で見たものを、口で告白します。その口で私が告白したことを、それを私の耳が聞きます。耳がそれを聞くとさらに大きなことを見ることができます。それがもっと可能に見えます。奇跡がさらに近づくのを見るのです。そうすると、もっと大きな信仰で宣言し、前に進めるのです。

 時々こういう方が私の所に来ます。「でもあなたはとても夢想家ではないですか。そうなると信じているのですか?」と言ってくる人がいます。夢を壊す人です。こういう人はいます。ではどうすれば良いのでしょう?夢を壊す人が私の所に来た時には、私はもう一度夢を見ることにしています。夢を見るように努めるのです。しかし、それが神からの夢ではないのなら、時が来ると消えていきます。しかし、神からの夢であれば、私はその夢を見、また耳で聞き、口で告白します。また夢を見、耳で聞き、告白します。それが実現するまで続けます。

 この女の話に戻りますと、この女はとても必死でした。聖書には十二年間の間、病気を患っていたと書いてあり、彼女自身、病気に疲れ切っていたと思います。時に神様は、私たちの試練の時間が長くなることを許されます。それは私たちが必死になるためです。なぜかというと、私たちの中には、必死になって祈らない人がいるからです。「ああ主よ。もしよろしければ・・。」のように。
 しかしこの女は必死でした。なぜなら、病気であることのほかに、多くの医者によって悩まされていたからです。彼女の病気というのは、医者に治療してもらうには、あまりいい思いをするところではなかったからです。彼女にとっては、煩わしいものであったし、またすべてのお金を医者に使ってしまったと書いてあります。聖書には、何も良くなるどころか、かえって悪くなったとあります。別の言葉で言うなら、この女の人生は哀れなものでした。
 しかし、彼女はイエス様のことを聞きました。そして何をするか想像しました。口で告白しました。しかし、その時すでにイエス様は別の場所へ立ち去るところでした。それは女にとって最後のチャンスでした。もし今日をのがしたら、二度とその夢をつかめない!と思ったのです。
イエス様は群衆の中にいました。そこにたどり着くには、すべての障害を通り抜けていかなくてはなりませんでした。

 あなたに質問したいのですが、あなたの人生の中で、何が奇跡への障害になっているでしょうか?それを通り抜けてください!この女がしたように。殻を破ってください!人を押し分けてください。侮辱に耐えてください。なぜでしょう?なぜならあなたには目的があるからです。あなたが必死になること、それは神様が待っておられることです。この女は、神に触れて欲しいと待ってはいませんでした。そうではなくて、女がイエス様に触れに行ったのです。
 しかし残念ながら、多くの人はただ待っています。「もし神の御心なら、こうなるのだけど…。」と。「神の御心なら私を呼んでください…。」そうではなく、あなたが呼ばなければならないのです。例えば、あなたが仕事を探すとき、こう言われませんか。「なにかあれば連絡いたします。」と。もっと悪いときには、「こちらに連絡する必要はないです。私の方から連絡しますので!」と。そう言われたら、その意味は、もう連絡がないとわかります。もし何もしないのなら、覚えてください、連絡はないのです!
 この女はイエス様が触れてくださるのを待ってはいませんでした。彼女は自分からイエス様に触れに行ったのです。例えば、あなたにお金が必要なら、聖書には神様が天の窓を開いてくださると書いてあります。イエス様は祝福を約束されました。そしてイエス様は、呪いを打ち砕くために死んでくださいました。また、私たちのために貧しくもなられました。それは私たちが豊かになるためでした。それは、イエス様がしてくださったことです。
 そして、今、私たちも、それを受けるためには、私たち側からも何かしなくてはならないのです。それは例えば、準備すること、勉強すること、良い働き人になること、神の国を第一に求めること、十分の一献金をすることです。もしあなたがあなたのなすべき事をするなら、神様も、神様側のことをしてくださいます。

 しかし、一つ注意していただきたいのですが、救いに関してですが、それについて人間は何もする必要がありません。すべて神様がして完成してくださったのです!ローマ書五章八節、

『しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。』

 神様が主導してくださいます。イエス様もご自分のなすべきことをされました。犠牲になり、天から下り、この地上に来て、私たちの中に住まわれ、十字架上で死んでくださりました。侮辱に耐え、蔑み(さげすみ)に耐えてくださいました。それらをすべて、私たちの罪の為にしてくださいました。そして、聖霊様もご自分のなすべきことをしてくださっています。聖霊様は私たちを神様に近づける働きをしてくださっています。なぜなら、私たちは誰も自発的には神を求める性質がないからです。
 今日、ここにあなたがいるということは、それは聖霊様がその願いをあなたに入れてくださったからです。あなたがそう感じるようにしてくださったからです。私たちの肉の思いは、家に残ってテレビを見ていたいとか、どこかに出かけたいという思いなのです。しかし聖霊様はあなたがここに来るようにしてくださいました。

 次に、ローマ人への手紙十章十三節〜十四節、

『「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。』

 人々がイエス様を知るためには、イエス様について聞く必要があります。では、だれがイエス様について語るのでしょうか?私たちです!もし私たちがイエス様について証ししないなら、だれも伝える人がいません。もちろん、私たちが誰かにイエス様のことを話そうとするときに、だいたいこう言われます。「あなたの信じているイエスのことなんか聞きたくない。」と。しかし、私はあなたにあえてこう言います。脅しに負けないでください。黙っていないでください。神様のことを伝えましょう!なぜですか?なぜなら、その方の人生にとっては、あなたは唯一、真の神を伝えることができる人かもしれないからです。
 エゼキエル書にこう書いてあります。神様がある人に語るように私たちを遣わすとき、それをしないなら、彼らの血の責任を私たちが負うと書いてあります。ですから機会を逃さないようにしましょう。

 それでは、私たちは、神の臨在の中にどのように住むことができるでしょうか?どうしたらその臨在の中に、入ることができるのでしょうか?どのように神様を体験することができるのでしょうか?聖書には、神はその民の賛美の中に住まわれると書いてあります。一つのみ言葉がこう言っています。私たちが神様を賛美する時、神様はそれを楽しむと聖書にあります。ゼパニヤ書三章十七節、 

『あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。』

 私たちが恵みの御座に近づくとき、神様の取り扱いを受けます。しかし、それを私たちは信じなくてはいけません。例えば、ここに礼拝に来て、信じないで賛美するということは、主に喜ばれることではありません。あなたは信じながら賛美をしなければなりません。賛美の時間、あなたは信じなくてはなりません。もし、歌詞をご存じなら、目を閉じて、自分が今、歌っていることを想像してください。それを信仰の目で見るのです!そして、まだ、現実ではまだ起こってないことを口で言わなければなりません。あなたは、神様がここにいると宣言しなければなりません。そして、その宣言していることを自分の耳で聞かなくてはなりません。それを思い描かなくてはなりません。神はここにいらっしゃるのです。

 またあなたは、もう一つ、宣言しなければならないことがあります。「聖なる方に今日は出会う!」と、言わなければなりません。「この礼拝後には私は癒されて帰ります!」と宣言しなくてはなりません。信じなくてはいけません。
 へブル人への手紙にこう書いてあります。神は神を誠実に求めるものには報いてくださる方であると。あなたが恵の御座に近づくとき、報いがあるということを信じなくてはならないのです。つまり、あなたが教会に来る時には、神様から何かをいただけると信じて、教会に来なくてはならないのです。もしあなたが病気なら、癒やされることを信じて教会に来なければなりません。落ち込んでいるのなら、家にいるのではなくて、喜びをもらえると信じて教会に来なければなりません。もし心配事があるなら、教会に来ることで、その解決が与えられる!と信じなければなりません。何かを期待するべきなのです!賛美や礼拝の時間には、私たちは、もっと霊的にならなければなりません。私たちの持っている最大限の信仰を働かす時としましょう!なぜなら、信仰がなければ神を喜ばすことができないからです。

 では、このような中で神様は何をしてくださるでしょう?神は、神を誠実に求める者には報いを与えてくださると書いてあります。その報いというのは、神は私たちの中に臨在を置いてくださるということです。また神は私たちの人生をも変えてくださるのです!私たちの病をいやされるのです!また神はあなたの戦いを戦ってくださいます!神はあなたを取り扱われます。しかし、あなたは目を閉じなければいけません。そして、信仰によってそれを見る必要があります。宣言する必要があります!

 それでは、お祈りしたいと思います。どうぞ、目を閉じてください。そしてあなたのために、イエス様が十字架上でしてくださったことを思い描いてください。またあなたのために死んでくださったことを思い描いてください。もうイエス様は私の罪を全て負ってくださいました。地獄に行く必要がなくなりました。なぜなら私の名が命の書に書かれているからです。神様は私を子どもとして選んでくださったからです。私は今日、救いの確信があります。すべての罪が許された確信があります。キリスト・イエスにある人たちには、どんな咎めもありません!あなたは罪に定められません。あなたは恵まれた人です。あなたは聖いのです。あなたは神の子どもです。それを感謝しましょう!

 主よ、あなたに感謝します。私はもう罪の奴隷ではありません。私の全ての高ぶりや、怒り、性的罪、悪習慣、タバコ、酒、ケンカを取り去ってください。そのつながれた鎖をキリスト・イエスの御名によって断ち切ってください。
 しかし十字架上で、私の病も負ってくださったことも感謝します。あなたの打たれた傷によって癒されたと聖書に書いてあります。今日、イエス様がしてくださったことによって私は癒されたと宣言します。それを信じ、また信仰の目で、それを見ます!それによって、病は私の体から出ていきます。イエス様が私の病のために死んでくださったからです。
 また私の痛みのために苦しんで下さり感謝します。人から拒絶された痛みや、孤独、不名誉、悲しみ、悪用された痛みや、不貞の痛みなどを主よ、取ってください。そして、あなたが十字架上でしてくださったことを見ることができるよう助け、私が癒され、自由になることができますように!
 今日、私の中にイエス様の力があると宣言します。キリストの血潮があると宣言します!聖霊様、私の感情のうちに働いてください。そして救いの喜びと、真実の愛を体験することができるようにしてください。かたくなな心を打ち砕いてください。私の欲を打ち砕いてください。イエス様の名前によってお祈りします。

 そして、神様感謝します。なぜなら今日、あなたは私に新しい賛美を与えてくださるからです。希望を与えてくださるからです。生きる理由を与えてくださるからです。私の悲しみをいやしてくださり、私の病をいやしてくださることを感謝します。イエス様の名前によって祈ります。アーメン。