『あなたは「残りの者」です! パート2』

2016年11月6(日)
新城教会主任牧師 滝元順
ミカ書5章7節〜9節

『そのとき、ヤコブの残りの者は、多くの国々の民のただ中で、主から降りる露、青草に降り注ぐ夕立のようだ。彼らは人に望みをおかず、人の子らに期待をかけない。ヤコブの残りの者は異邦の民の中、多くの国々の民のただ中で、森の獣の中の獅子、羊の群れの中の若い獅子のようだ。通り過ぎては踏みにじり、引き裂いては、一つも、のがさない。あなたの手を仇に向けて上げると、あなたの敵はみな、断ち滅ぼされる。』

 ハレルヤ!みなさん、おはようございます。聖歌隊の賛美、すばらしいですね。主の臨在溢れる礼拝を献げることができ、心から感謝します。
 今日は、インターナショナル部会のために、毎年、来てくださっている、ベネディッチ先生ご夫妻が礼拝に参加して下さっています。紹介したいと思います。先生ご夫妻、お立ちいただけますか?

 毎年、アルゼンチンから、インターナショナル部会の為に来てくださっています。一度くらい、日本人の礼拝でもお話ししてほしいのですが、私たちの教会は、日本語からスペイン語、ポルトガル語の通訳は、超うまい人たちがいるのですが、逆はなかなか難しいみたいです。ひかるさんも、ご主人のスペイン語は分かるというのですが、他の人のはなかなか難しいというのです。やはり、夫婦愛ですね。このように、海外からも共に礼拝を守ることができ、本当にすばらしいです。
 はじめ地球には、人種はありませんでした。みんな肌の色も言葉も同じでした。バベルの塔の事件後に、変わったのです。

 今週は、大きなことがあります。何がありますか?十一月八日は、アメリカ大統領選挙があります。是非とも、祈っていただきたいと思います。

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 でも、大統領選挙に先立って、十一月七日にも大きなことがあります。それは何でしょうか?私の結婚記念日です。四十周年です。まぁ、それは関係ないですが、大統領選挙のためには祈ってください。
 先週もお話ししましたが、ほぼ、クリントンに決まるでしょうが、かなりトランプが追い上げています。どちらになってもどっちだな、と思いますが、個人的には、トランプになるのもおもしろいと思っています。彼の一つ良い所は、同性婚に反対しているところです。聖書を見ると、ホモセクシャルの時代が来たら、世は終わりになります。現代は、大変危険な時代です。
 どちらがリーダーになっても、大変な時代であることは間違いありません。しかし、ヒラリーは、オバマ政権を引き継いで、ごく一部の人たちの利益のために政治をするでしょう。日本も、大統領選挙に先立って、TPPを承認して、世界に先駆けようとしています。これらの背景をも、経済という視点でしっかりと見極めないといけません。

 今日、読んでいただきました聖書の箇所は、先週お話しさせていただいた、「あなたは残りの者です!」の続編です。もう一度、みなさんで、ミカ書の五章七節から九節を、読んでみたいと思います。
 「残りの者」とは、現代においては、クリスチャンであり、教会です。残りの者として用いられる存在です。ですから、この「残りの者」という所を、自分自身、また、教会であると意識し、読んでいただきたいと思います。ミカ書五章七節〜九節、

『そのとき、ヤコブの残りの者は、多くの国々の民のただ中で、主から降りる露、青草に降り注ぐ夕立のようだ。彼らは人に望みをおかず、人の子らに期待をかけない。ヤコブの残りの者は異邦の民の中、多くの国々の民のただ中で、森の獣の中の獅子、羊の群れの中の若い獅子のようだ。通り過ぎては踏みにじり、引き裂いては、一つも、のがさない。あなたの手を仇に向けて上げると、あなたの敵はみな、断ち滅ぼされる。』

 このみ言葉を現代社会とリンクしながら学ぶと、たいへん励まされます。先週もお話ししましたが、聖書は、序論から結論という、全体の枠組みを知ると理解しやすいです。その一つが、「天地創造から、新しい天と新しい地の創造」という枠組みです。
 話は変わりますが、今夜は、ザ・コールという集会があります。そこで、すばらしいバンドが演奏してくれます。

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「Back 2 Eden」というバンドを知ってますか?有名なバンドです。新城教会においては有名です。「Back 2 Eden」とは、すばらしいバンド名をつけたものだと感心します。「エデンの園に帰れ!」という意味ですが、「トゥー」を、「to」じゃなくて「2」にしているところが味噌です。これは第二のエデン、新しいエデンの園に入れという意味ですね。
 彼らはなかなか、神学的に優れた連中です。偶然だったのかもしれませんが、今日は、解散コンサートだというのです。もう二度と、永遠に聴けない、Back 2 Edenの演奏を聴きに、今晩はお越しになっていただきたいと思います。

 聖書は序論から始まって結論は、「Back 2 Eden」です。エデンの園から追い出されて、やがて新しいエデンの園に入ることです。いのちの木の実を食べる権利を喪失したけれど、いのちの木の実を食べる権利の回復と、先週もお話ししました。そして、その中心にイエス様がおられます。

 聖書は、三本の柱で支えられています。一本目の柱は、「いのちの木からの追放」という柱です。そして最後は、いのちの木の実を食べる権利の回復、Back 2 Eden柱です。それを中心で支えているのが、イエス様柱です。
 ヨハネの福音書五章三十九節、

『あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。』

 この言葉も、すごい言葉です。聖書とは、旧約聖書のことです。イエス様の時代から見ても、旧約聖書は、古文書です。「その中に書いてあることは、わたしのことだ!」と語ったわけですから、普通ではありえません。私が、古事記か日本書紀を持ってきて、「ここに書いてあることは、俺のことだよ。」と語ったら、「帰れ」と言われると思います。「あんた、ちょっと大丈夫か」と言われます。

 聖書全体のもう一つの流れが、「蛇と女の戦いから、竜と女の子孫の残りの者との戦い!」と、お話ししました。

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 聖書って、図示すれば、天と地の創造から始まり、新しい天と新しい地を目指し、いのちの木からの追放から始まり、いのちの木の実を食べる権利の回復にたどり着きます。その真ん中に、イエス様がおられ、「霊的戦い」が貫いているのです。
 今の時代は、竜と女、すなわち、悪魔と教会の激しい戦いの時代です。この現実を教会が気づかないと、大変なことになります。案外、世界の教会は、今の時代が、竜と教会との激しい戦いの時代であると理解していないみたいです。多くの教会は、教会とは単に、天国に行くための待合室のように考えています。また、豊かに生きるためのHow toを教える場所かのように考えていますが、決してそうではありません。世の終わりに向かって、竜が激しく教会に立ち向かっているのです。
 黙示録十二章十七節〜十八節、

『すると、竜は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たちと戦おうとして出て行った。そして、彼は海べの砂の上に立った。』

 蛇と女の戦いから始まって、最後は、竜と女の戦いです。この女は、『すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たち』です。これは、クリスチャンであり、教会です。
 「彼」とは、「竜」です。「彼は海辺の砂の上に立った」とあります。「海」とは、悪魔の世界を表しています。「砂の上」とは、生ける者の世界です。教会と戦うために、竜が、敵前上陸をしたようなものです。

 けれども、クリスチャンが残りの者で、教会が、「竜と戦う最前線」であると気づけば、森の獣の中のライオンのような存在になるのです。森には様々な猛獣が潜んでいるかもしれないけれど、その中で最も強い、百獣の王ライオンのように振る舞うことができるのです。
 そして、私が好きな箇所についてもお話ししました。それは、「羊の群れの中の若い獅子」だというのです。ライオンにとって、羊なんか目じゃありません。全く、敵ではありません。私たちが残りの者として位置付けられるならば、なんと、羊の群れの中の、腹を減らした若い獅子となるのです。最高に強い存在になるのです。
 教会が、残りの者として、戦いの最前線にあることを理解したら、獅子になります。しかし、それが理解できないなら、ポジションが逆転します。教会が羊になり、ライオンに喰われてしまうのです。
 今、世界の多くの教会が、ライオンにならないで、羊になっています。しかし主が今、教会に対し、「羊の群れの中に送られた、腹を減らした獅子になれ!」と語っておられるように思います。

 実は、ミカ書が、どのような位置づけで書かれているかと言うと、ミカ書二章一節〜三節、

『ああ。悪巧みを計り、寝床の上で悪を行う者。朝の光とともに、彼らはこれを実行する。自分たちの手に力があるからだ。彼らは畑を欲しがって、これをかすめ、家々をも取り上げる。彼らは人とその持ち家を、人とその相続地をゆすり取る。それゆえ、主はこう仰せられる。「見よ。わたしは、こういうやからに、わざわいを下そうと考えている。あなたがたは首をもたげることも、いばって歩くこともできなくなる。それはわざわいの時だからだ。」』

 これは何を意味しているのでしょうか。聖書の預言は、当時の読者に対しての預言でもあるのですが、それだけに終わらず、「新しい天と新しい地」に向かっての流れがあります。ミカ書をその視点で読んでいきますと、まさに、新天新地を目指して語られた事が分かります。ここで神が裁きをくだそうとされるのが、『悪巧みを計り、寝床の上で悪を行う者。朝の光とともに、彼らはこれを実行する。自分たちの手に力があるからだ。』というのです。これは、富裕層であり、権力者に対しての言葉です。

 ミカ書は、「ユダの民が神の民でありながら、その土台である神の教えを無視して、富裕層や支配者階級が、貧しい者たちを圧迫している」という現実に関して、「こういう輩を裁こうとしている!」と語られているわけです。
 このテーマを合わせて見ますと、ミカが預言した通りの時代になっているのではないかと思われます。

 今週は、アメリカ大統領選挙がありますが、トランプは、暴言をはいたりして、フィリピンのドゥテルテ大統領とよく似ている感じで、あんな人物がアメリカの大統領になって大丈夫か?って言われます。しかし、あのような人物達が、世界ではうけている理由があるのです。
 それは今の時代、現代資本主義の終焉期で、富がごく一部に集中して、ほとんどの人たちが貧困層になってしまったからです。
 アメリカはかつて、アメリカンドリームといって、誰でも努力したら報われる国として評判でした。それがいつしか、富裕層と貧困層しかいなくなって、社会の中心にいた中流階級が、いなくなってしまったと言われます。そして、社会の格差はどんどん広がっているのです。

 日本も同じです。前にもお話ししましたが、今日本は、子どもの貧困が大きな問題となっています。六人に一人の子どもが貧困を体験していると言われます。給食一食しか食べることができない子どもたちが増えていると、昨日もテレビでやっていました。そして東京の足立区では、四人に一人の子どもが貧困だというのです。東京といえば、経済活動の中心地です。それが、四人に一人の子どもが、お腹を減らしている現実があるのです。どうしてかと言えば、資本主義経済が破綻する寸前に来ているからです。富が権力者に集中して、国民は貧困層になってしまったのです。

 たった六十二人の資産と、三十五億人の資産が同じだと話しましたが、

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 先々週は、NHKでもこの事を取り上げていて、下位三十六億人がもっている資産と、上位六十二人が持っている資産が同じだとしていました。これから、この格差は、さらに広がります。富が富裕層に集中するのです。それが資本主義経済活動なのです。
 アメリカ社会もそのような社会になってしまった為に、ヒラリーのような、超富裕層とつながっている人物を大統領に選んではいけない!というわけです。それが草の根運動で広がり、アメリカンドリームを実現した男、トランプが上がって来たわけです。
 今週はよく祈ってください。大統領がどちらになっても問題はなくなりませんが、なんらかの変化が起きるためには、変わることも必要かもしれません。

 また今、韓国も大変です。パク・クネ大統領の問題が出て来て、あれも、ヒラリーが大統領になりそうな時に、タイミングを合わせて出て来ていますから、なんらかの意図があるような気がします。人類は今まで体験したことがない領域に入ったことは、間違いなさそうです。それは確かだと思います。
 そのような中で、大きな責任が任されているのが、政治家ではなく、クリスチャンであり、教会です。クリスチャンと教会が、今の時代を霊的にしっかりととらえて、経済という森の中の獅子となり、とりなし、祈る存在にならなければなりません。そうしたら、主が世界に、なんらかの変化をもたらせてくださると思います。

 特にミカ書二章に、「こういう輩に災いをもたらしたい!」と、主は語られています。今のような不均衡な時代を変えることができるのは、主の力以外にないのです。そのカギを握っているのが、「残りの者」と呼ばれている者たちです。主は残りの者たちに権限を手渡されるということを、知らなければなりません。

 ミカ書の預言は、黙示録十八章の、大バビロンと呼ばれる、多くの商品を商いする帝国とつながっています。まさに現代は、大バビロンの時代かのようです。しかし、このような時代の中でも、主は残りの者を守ります!と約束しています。ミカ書五章七節、

『そのとき、ヤコブの残りの者は、多くの国々の民のただ中で、主から降りる露、青草に降り注ぐ夕立のようだ。』

 先週もお話ししましたが、イスラエルは、春と秋の二回しか雨季がありません。その間、水分が全く補給されないのです。ただ、朝の露と、突然降る夕立が、唯一の頼みです。
 しかし露も、夕立も、降る所もあれば、降らない場所もあります。残りの民のためには、あなたの所には露と夕立を降らせてあげますよ!と約束しているのです。砂漠のような時代が来たとしても、人に望みをおかず、人の子らに期待をかけない、主にのみに期待する者たちには、露と夕立が降ります!と、約束しているわけです。
 私たちは人に望みや期待をおくのではなく、主にのみ、期待したいです。

 先週は、どうでしたでしょうか。様々な、主を選ぶのか?人を選ぶのか?という場面に直面したかもしれませんが、主を選ぶ時に、勝利を与えて下さったと信じます。

 さて、クリスチャンが、教会が、「残りの者」なのですが、地球上には、「残りの者」として位置付けられ、その人たちが救いを得、勝ち取られると、世界が変わるような、特別な使命をもらった人たちが存在します。
 しかし、そのような人たちは、あまり人から評価を受けなかったり、また、隠された存在ではないかと思われます。

 バベルの塔では、同じ言葉が語られていました。昔は一つの言語だったのです。これはすでに、言語学者によって実証されています。言語学者たちが、世界に無数ある言葉を分析した結果、言葉は最初は一つだったと言う結論に達したのです。一つの言葉から、多くの言語へと分離していったわけです。

 最初の言葉って、どんな言葉だったのかな?と推測しますが、言葉は、元々、ものすごくパワフルなものだったと思われます。なぜなら、神は言葉を使って、天も地も創造したからです。言葉の中に力があるわけです。今でもそうです。だいたい心傷つくのは、人の語った言葉でしょう。言葉って、使いようによっては、人を癒やし、解放することもできるけれど、悪く使えば、人の心をえぐります。そして一生、その傷は治らない場合だってあるわけです。という事は、相当、言葉にはパワーがあるのです。
 最初の人類の言葉って、神が人間を創造した直後に、ご自分が使っていた言語の一部を、ちょいと分けてくれたわけですから、そりゃぁもう、ものすごいパワフルだったと思われます。しかし、その言葉を使って、人はバベルの塔を建て、塔の上に神殿を建て、悪霊を呼んだわけですから、神様も、大変焦ったわけです。神が与えた強力な言語が、悪魔・悪霊どもとリンクしたら、世界は大変なことになります。ゆえに、人々の言語を弱めて、人類を世界に散らしたわけです。

 そういう中で、メソポタミア文明、エジプト文明、そして、インダス文明と、西に東に広がって行きました。バビロンから東に移って、すぐに山の中に押し込められ、何千年も同じ生活スタイルの人たちがいます。その一つが、ネパールのチェパン族の人たちであると思われます。

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 彼らは、一九六〇年頃まで、完全な自給自足生活をしていて、世界最古の生活様式を保ってきた人々だと言われます。期せずして、私たちは、すごい所に行かされたわけです。
 私たちが毎年伺っている、チェパン族の人たちって、近代資本主義に全く毒されていないのです。これは今年撮ってきた写真です。

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 普通じゃ、ありえないです。バベルの塔から山の中に押し込められ、冷凍保存されていたような人たちではないかと思われます。これは私が撮った写真ですが、結構いい写真でしょう。
 人って、生まれる場所で、全然、生活が変わります。大バビロンに対抗出来る人たちは、大バビロンの影響を受けていない人でなければ、戦うことができないはずです。
 黙示録にこんな言葉があります。黙示録十八章四節、

『それから、私は、天からのもう一つの声がこう言うのを聞いた。「わが民よ。この女から離れなさい。その罪にあずからないため、また、その災害を受けないためです。』

 十八章全体をよく読んでいただければ分かりますが、大バビロンって、資本主義経済の連合体みたいです。
 そんな中で、「この女から離れろ!」と命じられています。「災害を受けないため」だと。
 しかし、日本人なんか、どうしようもないです。資本主義経済にどっぷり浸かって、脱出不能です。
 しかし、チェパン族の人たちって、今まで資本主義経済なんか、知らなかったわけです。私たちが持ち込んだから、こういう服を着て、現代化しています。こういう人たちがイエス様を信じて、大バビロンに立ち向かうなら、世界が変わると思います。
 これからの世界宣教には、戦略が必要だと思います。主が、「この民の所に行って、伝道しなさい!」という場所に行って、福音を伝えなければいけないです。
 不思議と、知らないうちに大事な所に導かれたんだなぁと、なんか身震いする感じです。ぜひ、ネパールのために祈っていただきたいと思います。

 来年のネパール宣教がだいたい決まりました。八月は雨季で避けてほしいということで、三月の終わりにしたいと願っています。そうしたら雨季じゃないですから、足で登らなくても、山にトラクターで登ることができます。三月の終わりから、四月にかけて、学生たちが休みの期間に検討しています。そのうちに発表があると思います。今度は、この人たちに霊的アイデンティティーを持たせる、残りの民としての働きに集中したいと思います。

 さらに、世界の残りの民で最も注目しなければならないのが、やはり、イスラエルです。
 イスラエルは、本当に小さな国ですが、世界を揺るがしています。あの国から、救い主イエス様もお生まれになりました。ということは、イスラエルは、世界の残りの民の中心地です。

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 今週はイスラエルに行きます。週報の中に、四十七都道府県の祈りと、もう一つ、イスラエル旅行の情報があります。三十名の方々が行かれます。是非とも、効果的な旅となるよう、この事を通して、多くの霊的な領域を勝ち取ることができるよう祈っていただきたいと思います。

 イエス様って、アブラハム、イサク、ヤコブの末ですから、白人ではないはずです。アラブ人のような顔つきをしていたと思われます。
 聖書には、いろんな預言があるわけですが、イスラエルの祝福を祈ると、祈った人たちが祝福されるという、原則が示されています。民数記六章二十二節〜二十七節、

『ついで主はモーセに告げて仰せられた。「アロンとその子らに告げて言え。あなたがたはイスラエル人をこのように祝福して言いなさい。『主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。』彼らがわたしの名でイスラエル人のために祈るなら、わたしは彼らを祝福しよう。」』

 『彼らがわたしの名でイスラエル人のために祈るなら、わたしは彼らを祝福しよう。」』というのです。イスラエル人の祝福を祈ると、祈った人が祝福されるというわけです。
 多くの世界の教会は、このみ言葉を知っていますから、イスラエルのために一生懸命祈っています。
 しかし、「イスラエル人とは何か?」が大へん曖昧です。イスラエル人とは誰かをしっかりと特定せずに、やみくもに祈っても、祝福は来ないと思います。イスラエル人とは何か?は、分かっているようで、実は、分かっていないのです。
 六章は、主がモーセに告げて語られたのですが、『アロンとその子らに告げて言え。』と命じられています。アロンとその子らが祝福の言葉を、イスラエルに対して宣言すると、「アロンとその子らも祝福される」という構図です。この言葉は、アロンとその子らに対しての命令です。
 現代において、アロンとその子らの役割が、クリスチャンと教会です。第一ペテロ二章九節、

『しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。』

 私たちクリスチャンは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民だと言われています。クリスチャンは、「祭司」というポジションをいただいています。

 古代イスラエルにおいては、祭司は、「レビの家系」に与えられたものでした。

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 イスラエルには十二の部族があると言われますが、十二の部族の表を見ると、ヤコブがイスラエルとなり、十二人の子どもが生まれるのですが、ヨセフがエジプトに売られ、マナセとエフライムという二人の子どもができました。足しますと、十三部族になるわけです。
 しかし、レビ族は特別な部族で、十二部族からは除外され、レビ族の人たちが、残りの十二部族を祝福すると、なんと、イスラエル全体が祝福されるばかりか、レビ族も祝福されるという構図です。民数記六章はその事を告げています。

『「アロンとその子らに告げて言え。あなたがたはイスラエル人をこのように祝福して言いなさい。『主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。』』

 この祈りのことばを、レビ族の人たちが、残りの十二部族のために告げると、イスラエル全体が祝福され、レビの人たちも祝福されるというわけです。おもしろい構図です。

 今の時代、十二部族もバラバラになって、誰が誰なのか、分からなくなってしまいました。すでにイエス様の時代さえ、祭司とか、レビ人が、倒れた旅人を助けもせずに逃げてしまったくらいですから、彼らの役割が薄れていたのです。
 しかし、この役割がクリスチャンたちに与えられたのです。クリスチャンが、十二部族を祝福したら、イスラエルは祝福されます。そして、「あなたも祝福されます」ということです。だから教会は、イスラエルのために祝福を祈らなくてはいけないのです。
 けれども肝心な、「イスラエルとは何か」が、実は、はっきりしていないのです。

 紀元七十年に、イスラエルという国はなくなりました。

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 ローマ帝国に滅ぼされたのです。ローマに行きますと、「ティトゥスの凱旋門」が残されています。これは紀元七十年にローマ帝国が、イスラエルを滅ぼした記念碑です。この写真は私が撮ったのですが、見てください。

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 イスラエルのメノラーと呼ばれる燭台が、宝物として奪われ、ローマに渡った様子が刻まれています。

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 そして、歴史を見ると、オスマン帝国が、十三世紀から、二十世紀初頭まで、パレスチナの地域を支配したわけです。近年、になってイスラエルが出来たのですが、何百年も国がなかったらどうでしょうか。そこにいる人たちは、バラバラになります。

 国境線が変われば、中の人たちは、みんなごちゃまぜになります。洗濯機みたいなものです。イスラエルの十二部族を特定しようたって、そう簡単ではありません。
 近年になって、ユダヤ人と呼ばれる人たちがパレスチナに入植し、住んでいます。この人たちは、主に、ヨーロッパから入って来た人たちです。本当にユダヤ人十二部族の血筋を継いでいるかどうかは、別問題です。現代のユダヤ人は、民族集団ではなく、宗教集団だからです。今のイスラエルの祝福を祈っても、なんとなく、ぴったりこないというのが、イスラエルをとりなし、祈っている人たちの抱えているジレンマです。

  しかしです。イスラエルは、全く消えたように見えますが、「残りの者たち」がいるのです。元々は「シェケム」と呼ばれていた場所に住んでいます。アブラハムが入って、最初に拠点を築いたところです。
 ここからイスラエルが始まりました。アブラハムが来た時、創世記の十二章を見ると、すでにカナン人がいたとあります。

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この二つの山の手前。これは、世界最古の町で、カナン人たちが造った町です。この二つの山が、ゲリジム山とエバル山です。左側がゲリジム山ですが、この山はどういう山かといいますと、特別な山です。ここで古代から現代まで、ずっと礼拝してきた人たちがいるのです。それが「サマリヤ教団」の人たちです。

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 シェケムは、元々逃れの町で、ここに大勢の人たちが、流れ込んだと思われます。地形的にも、イスラエル十二部族の区割の真ん中にあって、イエス様時代は、「スカル」と呼ばれていました。今は、「ナブラス」という名前で呼ばれています。そこに、「サマリヤ人」という人たちがいます。

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 この人たちは二十世紀初頭に発見された時、たったの百数十人だったそうです。百数十人でも、イスラエルの血を絶やさないように、ゲリジム山で礼拝を続けていた人たちでした。
 今、この人たちは、イスラエル政府によって、保護され、だいぶ人数が増えて来ました。だいたい、八百人近くに増えて来たと言われます。この人たちが使っている聖書は、ヘブル語ですが、ヘブル語の原型となった象形文字です。

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 この人たちって、もしかしたら、もしかして、「残りの民」ではないかと私は思います。

 昨年、この人たちと交わりをしたのですが、平和を愛する人たちで、アラブ人たちと一緒に住んでいます。
 旧約時代は、生け贄を捧げて主を礼拝していました。しかし今のユダヤ教はやっていません。けれども、サマリヤ教団の人たちは、今でも、なんと、動物の生け贄を捧げています。頑なに、モーセの五書だけを聖典として、ゲルジム山で礼拝している人たちがいるのです。でも、彼らは、イエス様を主と信じているわけではありません。
 私は去年、彼らにイエス様のことを話しました。「私はクリスチャンで、牧師です。」と話したら、サマリヤ人がこう言いました。「イエス様は、俺たちのことを良い人と言ってくれたんだ。知っているか?」と言うのです。「当たり前ですよ!」と。イエス様が語られた、良きサマリヤ人の例えを知っているのです。イエス様はサマリヤ人達を高く評価したわけです。

 あの人たちがクリスチャンになって、自分たちが残りの民だと気づいて祈り始めたら、世界は変わるんじゃないかと思い、今回、私はヘブル語の新約聖書を買いました。でも、どこに良きサマリヤ人について書かれているか分からないので、山崎先生にでも、その場所を特定してもらって、しおりでも挟んで持っていこうと思います。彼らは近代資本主義とは、無縁のイスラエル人です。彼らがイエス様を信じたら、世界は変わりそうです。この人たちは、いまだに生け贄の儀式をやっています。

 ちょっと時間があるので、サマリヤ教団が現在、やっている儀式のYouTube映像がありますので、見ていただきたいと思います。簡単な英語です。英語が分からなくても、だいたい画像で分かります。



彼らは、小さなグループです。顔も白人系ではなくて、アラブ系の顔をしています。彼らの歴史を調査をした研究本は、何冊もあります。この人たちは、もしかしたら、イスラエルの血を受け継いでいる人たちかもしれないです。

 私たちクリスチャンも残りの者たちですけれど、さらに、鍵を持った残りの民が世界にはいるはずです。彼らに福音を伝えたら、主が帰って来られる道が用意されると信じます。そのような人たちに出会わせていただけるよう、戦略的に福音を宣べ伝えることができるよう、祈り続けたいと思います。
 今週、私たちは、残りの民として歩むことができるよう、もう一度、ミカ書五章を読ませていただきたいと思います。
 ミカ書五章七節〜九節、

『そのとき、ヤコブの残りの者は、多くの国々の民のただ中で、主から降りる露、青草に降り注ぐ夕立のようだ。彼らは人に望みをおかず、人の子らに期待をかけない。ヤコブの残りの者は異邦の民の中、多くの国々の民のただ中で、森の獣の中の獅子、羊の群れの中の若い獅子のようだ。通り過ぎては踏みにじり、引き裂いては、一つも、のがさない。あなたの手を仇に向けて上げると、あなたの敵はみな、断ち滅ぼされる。』

 今週も、一人一人が残りの者として、敵に打ち勝つ存在となりますように。残りの民と呼ばれる人たちを見つけだし、その人たちを祝福することができるよう、祈り続けていきたいと思います。最後に一言お祈りします。


 ハレルヤ。天の父なる神様、御名をあがめて、心から感謝をいたします。今日は、このようにして、礼拝を持つことができ、心から感謝します。私たちは残りの者として、主が帰って来られるまで続けなさいと言われた、聖餐式を持つことができることを感謝します。今からの聖餐のひとときを、祝福してください。私たちが残りの者としての役割を果たすことが出来ますように。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。