『世界を主のものに』

2016年11月13(日)
新城教会牧師 四元雅也
マルコの福音書16章15~20節

『それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」主イエスは、彼らにこう話されて後、天に上げられて神の右の座に着かれた。そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。

ハレルヤ! 感謝します。お祈りしていただいて、皆さんの前に立つことができることを心から感謝します。今巷は紅葉狩りもシーズンですが、先週はぐっと冷え込む日が何日かありまして、秋から冬に向かって気候が変わってきています。我が家でも子どもたちが「寒い寒い」と言い出し、ついにファンヒータが登場したりダウンジャケットも登場したりと、冬支度が整ってきていますが、皆さんいかがお過ごしですか。ここ二、三日は、小春日和になっていますが・・・。

 そんな中で、リバイバルミッションや新城教会でも「戦いは休まじ」という感じで、ざわめきも今日は四国に行っておりますし、四十七都道府県巡回リバイバルミッションは、この一年ずっと続いてまいりましたが、今日が最終日で、沖縄で二つの集会が予定されております。ここまで守られてきたことを感謝します。今日の最後の二回の集会のためにもお祈りをしていきたいと思います。
 また、イスラエル旅行も先週木曜日から始まっておりまして、世界宣教とりなしのグループに入っておられる方には、ラインで逐次報告がされております。
イスラエル旅行に行ったことのある方々には、今回はあまり馴染みのない場所へ行っておられるみたいです。ウエストバンクって今回僕も初めて聞いたのですが、日本語で言うとヨルダン川西岸地区でしょうか。渡航注意地域とされているそうですが、今日まで守られて旅しておられる写真が報告されています。どこへ行きましたというより、どこで食べましたという報告が多いようにも思いますが、楽しく行っておられるようです。

先週は、日曜日の夕方からザ・コール・オータム・フェスを開催し、皆さんに祈っていただき、大変祝福されたことを感謝します。参加人数は百二十一名で、多すぎず、少なすぎずという感じでした。うち求道者は三十四名と多くの方が来てくださいました。青年会が主催をしましたが、皆さんにぜひお越しくださいという形でご案内させていただきました。いわば「青年会主催のゴスペルサパー」という感じでしたけれど、青年たちがとても頑張ってくれて、きれいに季節感を感じるような飾りをしてくださって、壁には紙で切り抜いた葉っぱが貼られていたり、机にもいろいろ置かれていました。

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BBQを食べたり、Back 2 Edenが、先週は順先生が解散コンサートなんておっしゃっていましたが、素晴らしい歌を歌ってくださいました。

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本当に素晴らしい集会を持たれたことを感謝します。青年にとっても教会に仕えるよい機会となって、みんな楽しく午後から夜遅くまで、裏方で奉仕をしてくださっておられました。祝福されたことを皆さんに感謝とともにご報告させていただきます。

先週は、皆さんよくご存じのアメリカ大統領選がありまして、水曜日以降、トランプショックが世界中を駆け巡ったわけです。

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あの結果には、多くの方が驚きを隠せなかったのではないかと思います。下馬評を覆してトランプの逆転劇。元々政治家ではない、素人が大統領に就任するという、これは、歴史上初めてだそうですね。
先週も、ここで順先生が「クリントンが勝利すると思うけど」とおっしゃって、皆さんも「そうだ」と思っておられたと思いますが、逆転しました。

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クリントンが勝つのは、世界で最も裕福な六十二名がクリントンを推すことに決めたからだ、と言われていましたが、なのに蓋を開けたら「えー!?」という感じで、ちょっとびっくりしました。
その後は、株は下がるは、下がったと思ったら次の日は急騰して、為替も乱高下を繰り返し。アメリカでは「彼は我々の大統領ではない!」といったデモが巻き起こったりしまして、先週は、トランプ一色でした。

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「選挙は民主的で公平なものだ」と私たちは考えるのですが、こんな大統領選を見ますと本当にそうなのかなぁ?と素朴な疑問がわき上がります。選挙前には、主要なマスコミはほぼ全てクリントン勝利を予想していました。また間近には「トランプには投票するな」とマスコミが報じたりと、これは異例なことだと言われておりましたけれど。この報道を見ながら、「ここまでマスコミが全てクリントンを推す。トランプに入れるなという報道まで出るのは、あるいはトランプが優勢なのかも」と勘ぐったりしました。

世界の富裕層の上位の六十二名が下位三十五億人分の資産を持つと言われるようになりましたけど、そういう資本の力でマスコミを抱え込んで、クリントン氏を担ぎ上げようとしていたのかもしれないと、そんなことを思いました。そしてこの結果です。これは、経済的下位の人たちが富裕層にかみついて勝ち取った勝利かもしれないと思いました。真相はわかりませんが。

現代、世界中で国家形成のスタンダードとなっているのは「民主主義」という価値観ですが、民主主義は一七~一八世紀にかけて欧州を中心に出てきた考え方です。その最も大きな転機となったのは「宗教改革」です。私が十月二日の礼拝メッセージで、少し宗教改革について触れさせていただきましたが、この宗教改革を通して、社会構造が<全体主義的>なものから、<個人主義的>なものへ。<浮き彫り的人間像>から<立体的人間像>へ移ったと言われています。

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三つの事柄が、宗教改革によって当時の社会に変革を起こしました。

一つ目は、カトリックへの批判が起きることにより、国家と教会との結びつきが破れる。政教一体から政教分離への移行。

二つ目は、教会を中心としていた社会制度が崩れたことで、個人の自立・自由・自主性が重きを持つようになった。全体主義から個人主義への移行。

三つ目は、人権的な尊卑が解消され、「天職」の概念が生まれた。階級制度から契約制度への移行ということです。

このような変化の中で、個人の権利が高められて、職業による差別がなくなって、人間は、どんな職に就いている人も等しい「人権」を持っていて、平等なんだという考え方が生まれていきます。現代では、当然のこととして受け入れられている概念ですが、一六~一七世紀くらいまではこのような考え方は常識ではなく、社会は全体主義的な考え方でした。
宗教改革を通して、社会の制度が根底から揺るがされることが起きたわけですが、それに続いて、プロテスタントのグループのひとつであった「ピューリタン・清教徒」と呼ばれている人々が中心となって民主革命を起こすのです。イギリスでピューリタン革命とか名誉革命とか、フランスでも市民革命とか、そういったものが起こされて、当時の封建的な王政から民主主義の社会へと権威が勝ち取られていくわけです。そして、一七~一八世紀に、有名なマグナカルタやアメリカ独立宣言、そしてフランスの人権宣言が相次いで出されていきます。それが、現在の我々が普通に暮らしている社会の根幹をなす考え方となり、そこから「憲法」が出てきます。

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国家主義、封建主義と呼ばれる社会から、民主主義と呼ばれる社会へと構造が変革していくわけです。そして、現在ほとんどの国が採用している「立憲主義」、憲法によって国が建て上げられていくという制度が誕生していきます。そのときから、国の政治は選挙によって国民の信託を得た代表者たちによる運営に任されることになり、彼らの手に国民の信託により委ねられるようになっていったのです。ですから、現代社会の民主的な構造の中に、聖書的な価値観が入っているのです。今日、私たちは当然のように人権を保証されて暮らしているのですが、これは宗教改革に端を発して聖書的な価値観から生まれた考え方なのです。
少し話がそれますが、十月二日に私が礼拝でお話した中に、自民党が進めようとしている憲法改正草案は、今までの立憲主義の原則を覆そうと企てる危険な思想であると言いました。これが、民主立憲主義国家の模式図です。

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国民が信託によって国家の代表である権力者を選出する。国家は法律によって国を統治するのですが、その権力を制限するために存在するのが憲法です。これが正常な姿ですが、自民党が変えようとしている憲法改正草案の構図が、この右側にあるものです。

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国家権力が、法律だけではなく憲法によっても国民を支配しようとする概念です。こんないかがわしいものは、たとえ国会で承認されても、そのあと国民投票がありますから、私たちは絶対に承認してはいけないのです。

民主主義というのは、意外に歴史が浅くて、ほんの三百~四百年の間に世界に浸透してきました。宗教革命以前は、長い間世襲の王政のような時代でした。
最近は礼拝でも経済についてよく触れられて、「近代の資本主義経済が終焉期を迎えている」と言われています。では民主主義はどうかと考えると、民主主義も元を正していくと宗教改革に端を発していて、資本主義と同じ土壌から生まれてきた制度なのです。私たちは昔から、「資本主義」や「民主主義」は正しいものだと、概念として植え付けられてきているのですが、最近は、どうもそうでもないらしいと感じるようになっています。今回の大統領選挙では、その一端を垣間見るような時だったと感じます。誰が大統領にふさわしいのか、誰に投票するのかということも、最近は、知らずして強い者たちの振りかざす大きな旗に目を奪われて、惑わされて動かされてしまっていたのかもしれません。もしそうであるなら、「民主主義」とは呼べないのです。
ルカの福音書二十三章五十・五十一節を開いてみたいと思います。

『さてここに、ヨセフという、議員のひとりで、りっぱな、正しい人がいた。この人は議員たちの計画や行動には同意しなかった。彼は、アリマタヤというユダヤ人の町の人で、神の国を待ち望んでいた。』

この場面はイエスさまの十字架に関連する一つの出来事です。アリマタヤのヨセフという人は「神の国を待ち望む正しい人」と書かれています。彼はユダヤの最高議会の議員のひとりで、政治家でした。イエスさまがゲッセマネの祈りの後、ユダヤ人たちに捕えられ、連れて来られたのは大祭司の前でした。大祭司は祭司長・律法学者を招集して、イエスさまを裁判にかけました。アリマタヤのヨセフにも招集がかかったものと思われます。そして、その裁判は、最初から仕組まれた、イエスさまを死刑にするための裁判だったと言われます。雇われた証人たちが出てきてイエスさまを訴えました。しかし、最後にはイエスさまご自身が語られた言葉、「わたしはそれだ! わたしは神の子だ」と言ったその一言を聞いて、大祭司が「これでもまだ証人が必要でしょうか。我々は、今ここで、神をけがす言葉をこの耳で聞いたのだから」といって、そこにいた全員が、「こんな者は殺してしまえ!」となったのです。判決が下されたということです。
ユダヤの国は、当時ローマの支配下にあって、彼らの力でイエスさまを死刑に定めることができなかったので、死刑宣告を出してもらうために、ローマから遣わされていた総督ピラトにイエスさまを手渡したのです。「裁判をしてください。この者は神をけがし、ローマに反逆する罪人です。死刑にしてください」と言いました。
初めピラトは、イエスさまを調べて、「死刑にするほどの罪は犯していないから、私は彼を釈放しようと思う」と言っていましたが、ユダヤ人の支配者たちは民衆を扇動して、イエスさまではなくバラバを釈放するように焚きつけたのです。民衆も流されて、「イエスさまではない、バラバだ。バラバを釈放しろ」。「イエスを十字架につけろ!!」とイエスさまを十字架につけるように願ったのです。その声が勝って、ついにピラトは十字架刑の宣告を下したのです。当時の政の中でも、権力者たちが正義を捻じ曲げて、不正な判断を引き出すということがなされていました。
しかし、アリマタヤのヨセフは、「神の国を待ち望み、議員たちの計画や行動には同意しなかった」と書かれています。おそらく彼は、先に開かれたユダヤ人たちの裁判の中で、イエスさまが語った言葉や行動に対して感動を覚えたのではないかと思います。ユダヤ人たちが妬みからイエスさまを引き渡そうとしているのに気づいて、彼は彼らに同意せず、彼らの陰謀に加わることをしなかったのです。「死刑にしろ!」という中に、彼はいませんでした。恐らく彼はそこで反対票を投じたか、この判決に加わらないと棄権をして退席したかの、どちらかではないかと考えられます。彼らの陰謀に加わらなかったわけです。
そして、十字架の後、彼はある程度の力を持つ者であったゆえに、ピラトに願い出て、イエスさまの遺体を引き受ける役割を果たすわけです。イエスさまの遺体は墓に収められました。もし彼が名乗り出なかったら、十字架刑は、はりつけ見せしめの刑ですから、死んでから放置されていた可能性が高いのです。もしそうなっていたならば、イエスさまの遺体は十字架の上で人目にさらされ続けたたのです。その場合、どのようによみがえりがなされたのか、イエスさまのよみがえってからの計画はどうなっていたのかと考えると、アリマタヤのヨセフが墓に収めたのは、大きな神様の摂理があると思われます。彼は神の国を待ち望んで、大勢を成すグループには加わらず、最近礼拝で語られている「残りの民」となったのです。そして、彼に与えられている役割を、彼は自分では意識していなかったかもしれませんが、果たしたのです。それで、イエスさまのよみがえりが、あのようなかたちで成し遂げられたのです。彼は、神の国のために重要な役割を担ったのです。
「残りの者」となることは、勇気のいることかもしれません。大勢を成すグループから距離を置いて、自分が義と信じることに従って行動する。人からどう思われるか、自分の立場がどうなるかわからないということを恐れず、行動するということですね。
私たち、現代に生きるクリスチャンも「残りの者」としての役割を果たすことを神さまの前に求められています。現代社会は、資本主義も民主主義も行き詰まっている世の中です。アメリカでは今回の大統領選に合わせて、いろいろな選挙がなされました。カリフォルニア州で大麻の合法化が決定されたそうです。嗜好品としても、医療用としても大麻の使用が合法化されることになったそうです。これも物議を醸す決定ですが、アメリカではそのほかにも、同性婚の問題とか、聖書の戒めに触れる様々な問題が取りざたされています。今後世界がどう動いていくかを考えていくと、先行き不透明です。私たちクリスチャンにとっては、どんどん悪に進んでいるように見えます。
日本でも神道・仏教という宗教的な行事が、宗教ではなく伝統儀礼という捉えられ方がされるようになって、神道・仏教に日本人として関わることは文化であり、宗教ではないと判断されるようになって来ています。学校であったり、公務員であったり、公的な機関は、本来なら宗教的中立な立場が求められるはずが、神道・仏教は別だと言われるようになっています。私たちはそういったことにも注目して、祈り続けていかなければなりません。

話は変わりますが、今日は午後から神学カフェが行われます。毎月一回行われていますが、山崎ランサム和彦先生が毎回興味深いテーマでお話しくださっています。先生の話は、最新の聖書信仰に基づいて話されるので、安心して聞いていられますし、楽しいです。新しい聖書の世界が開かれるような、信仰の為になる素晴らしい講義です。もし外部の集会でしたら一人数千円支払わないと聞くことのできない、そういう類の講義だと思います。しかもお茶菓子まで用意されるという、至れり尽くせりな、出なきゃ損という集会です。
先月の神学カフェのテーマは「祈り」でした。その中で、「主の祈り」についてお話しくださいました。
マタイ六章九~十三節

『だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕

ここからいろいろなことをお話されたのですが、心に残っている一つのことをお話しさせていただきます。
「主の祈り」の順番に意味があるということです。イエスさまは祈りを私たちに教えてくださったのですが、優先度の高い祈りから順番に、模範を示してくださったということです。私たちはしばしば、「おお主よ。こんなですのでああしてください。こうしてください。悪魔がこんなことしています。悪魔をなんとかしてください」と、「お願いの祈り」をいの一番にささげてしまいがちなのですが、これはイエスさまが教えられた祈りとは逆で、私たちは、多くの場合、「主の祈り」を反対順に祈っているのです。
「主の祈り」は、まず『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。み国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でもなされますように。』となっています。これは、大変重要な祈りです。 「み国が来ますように」と、「みこころが天でなされるように、地でもなされますように」という言葉は、イエスさまと私たち以外のものに対する命令形だというのです。イエスさまにささげる祈りというより、この世の中にある森羅万象、霊的なものに至るまでそのすべてに対して、神のみこころがなされていくようにと命令し、宣言する祈りだということです。イエスさまに「お願いします」という類の祈りではなく、イエスさまの権威が天で現されているように、この地でも現されますように、というより「現れよ」と命令している、そんな文章だということです。そこが大切だと思います。天の法則を地の上に実現するのが、私たちクリスチャンの祈りです。自己実現の祈りも必要ですが、みこころが地上に現されることは最も必要なことです。すべてを包括するような意味を持つ祈りだと思います。悪魔との戦いもそこに基本を置いて戦えば、敗北したり脱線することはなくなるのではないかと思わされました。この世界で起こっている様々な出来事に対しても、私たちはそのように神の権威が現れるようにと祈っていきたいと思います。
大統領選挙においても、私たちは「大変なことになってしまった」と思いがちですが、考えてみると、私たちは「この大統領選は大事だから、ここに神さまの御心が現されるように祈りましょう」とずいぶん前から祈っていました。昨年から祈っています。トランプとヒラリーが選出される以前から祈っていたと思います。そういう祈りがささげられている中で、とりなしの中で、このような結果が現れたというのも、私たちにとって意外であっても、神さまの主権がそこに現されて、これから神様によって正しい方向に導かれることを期待して、祈り続けていくべきではないかと思わされています。

最後に一つお話して、メッセージを締めくくりたいと思います。
使徒の働き十九章十一~二十節をお読みします。
『神はパウロの手によって驚くべき奇蹟を行われた。パウロの身に着けている手ぬぐいや前掛けをはずして病人に当てると、その病気は去り、悪霊は出て行った。ところが、諸国を巡回しているユダヤ人の魔よけ祈祷師の中のある者たちも、ためしに、悪霊につかれている者に向かって主イエスの御名をとなえ、「パウロの宣べ伝えているイエスによって、おまえたちに命じる」と言ってみた。そういうことをしたのは、ユダヤの祭司長スケワという人の七人の息子たちであった。すると悪霊が答えて、「自分はイエスを知っているし、パウロもよく知っている。けれどおまえたちは何者だ」と言った。そして悪霊につかれている人は、彼らに飛びかかり、ふたりの者を押さえつけて、みなを打ち負かしたので、彼らは裸にされ、傷を負ってその家を逃げ出した。このことがエペソに住むユダヤ人とギリシヤ人の全部に知れ渡ったので、みな恐れを感じて、主イエスの御名をあがめるようになったそして、信仰に入った人たちの中から多くの者がやって来て、自分たちのしていることをさらけ出して告白した。また魔術を行っていた多くの者が、その書物をかかえて来て、みなの前で焼き捨てた。その値段を合計してみると、銀貨五万枚になった。こうして、主のことばは驚くほど広まり、ますます力強くなって行った。』

使徒の働きを見ますと、驚くような奇跡としるしによって宣教が拡大していったのを見ることができます。ここでも、主はパウロの手によって驚くべきしるしを起こしておられました。当時パウロの周りには大勢の病気の人、悪霊に縛られた人などがいて相当忙しかったと思います。パウロの同行者のルカやマルコが、周りに集まってくる人たちの交通整理をしたりしていたのではないかと思います。「順番に並んで。あと九十分待ちです」とかいって。
ルカが「パウロさん、こっちに急患が来ています」と言うと「いや、まだこっちが終われいないんだ。どうしよう。ええい、これ持っていって患者に乗せて」と、パウロが手渡したのはハンカチです。ルカはハンカチを受け取り、急患の患者のところに持っていき頭に乗せると、病気が治り、悪霊も出て行った、というのです。すごすぎですね。神さまがパウロの手を通して、そのような業を行ったのです。僕は「神社の魔除け札みたいだなぁ」と思ったりします。玄関に貼ったり身につけると病魔が逃げていくというわけです。でも、悪魔がやることは、神さまのコピーで、まねごとです。ですから、悪魔がやれるようなことを神さまができないはずがないので、こういった緊急事態の中で、神さまがそのような業を成されたのではないかと思います。
神様がやるわざと悪魔がやることは同じようでも結果はだいぶ違います。同じように癒されることが起こるかもしれませんが、神さまのなさることは救いにつながり、悪魔のやることは滅びにつながっていく、方向が大きく変わってくるのです。
パウロは忙しい中でも、これをあてれば病気が治りますようにと、イエスさまの名前によって祈ったと思います。それは聖書には書いていないので想像ですが、「このハンカチを置くときに聖霊さまが働いてください」という願いのもとで渡したと思います。ハンカチにパウロの霊力を込めて、「ハンカチから霊力が発せられる」のではなく、ハンカチを置いたとき、その場所にもおられる聖霊様がその方に働いてくださいますようにという願いだったのです。
パウロがあんまり評判がよく人気高かったものですから、まねをする者が現れました。「パウロの述べ伝えているイエスの名前でおまえたちに命じる」ということをした輩が現れたのです。それはユダヤ人の魔除け祈祷師たちです。彼らは、ユダヤ人だと書かれていますので、天地を造られた神さまは信じていたかもしれないけれど、イエスさまを信じていませんでした。パウロが宣べ伝えていたイエスの名前を、ただまねごとで使ってみたのです。すると悪霊が答えて、「自分はイエスを知っているしパウロもよく知っている。けれどもおまえたちは何者だ」といって飛びかかって二人を裸にし、傷を負わせて彼らは逃げ去った、ということが起こったのです。どこに違いがあったのでしょうか。
パウロがエペソに行ったのは、神の教会を建て上げて、神の会衆である我々クリスチャンを誕生させることが目的でした。単に、病気を癒し、悪霊を追い出すのが最終目的ではありませんでした。そこに教会が打ち立てられて、神の国が現される場所となることを目的としていました。しかし、スケワの息子たちは、ただ人気にあやかって、まねしてみようとしただけで、彼らには「教会」という概念がありませんでした。だから、イエス様の御名を使っても勝つことができなかったのです。
パウロが悪魔に勝つことができたのは、神の国の出先機関である「教会」に根ざしていたからです。私たちも教会に集っているのですが、それはものすごく重要なことです。教会に根ざすことは、「霊的な権威とのつながりを持つ」ということです。神の国の権威の中に、自分が入るということです。私たちが教会の権威のもとにあるなら、悪魔は私たちに手を出すことができなくなる。逆に私たちが悪魔を追い出すことができるようになるということです。教会はその点において、強力な軍隊のような場所です。この世の軍隊が勝つことのできない「霊的な存在」にも、教会は勝つことができます。
エペソ人への手紙三章十節、

『これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためで』

ここで、「天にある支配と権威」と書かれている表現は、パウロがよく用いた、悪魔とその軍団を指し示す表現です。そこに教会を通して神の豊かな知恵が示されるということは、教会に神様の権威が与えられて、この世界に働く悪魔の権威に立ち向かうことを、教会を通して神が成し遂げられるということです。ですから私たちは、この世にある様々な事象に対して、祈りをもって神の権威を行使していくことができるのです。

話は変わりますが、最近我が家では、長男の聖徒が運転免許を取るために練習しています。彼は自動車学校に通わず、免許センターでの一発試験で取得しようとしています。その方が金銭的に安いからです。学科は独学で勉強します。先日、公安の学科の試験をパスしました。実技の方は、先月仮免許を取得して、今は路上試験のために一般道で運転の練習をしています。我が家の車に「仮免許練習中」の張り紙をして、私や家内が助手席に座って、路上教習をしています。

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先月、仮免許を取得して初めて一般道での練習をしたのですが、その時は緊張しました。私の車には助手席に補助ブレーキがありませんから、車の動きは彼に一任するしかありません。彼もものすごく緊張していました。発車前に二人で真剣に祈りました。「危険がこの車から逃げていきますように」と。走り出してバイパスに出ました。彼が「怖い!怖い!」と言いだしました。何が怖いか聞くと、「対向車線に車がいる!」と言いました。「はみ出なければ絶対大丈夫だよ」「わかっているけど怖い!」という状況でした。
一時間ほど近所をぐるぐる回って帰ってきました。初めてなので、車の動きはぎこちなく、何度かヒヤっとすることもありましたが、なんとか守られて無事に帰ってくることができました。駐車場に車を止めて車を降りると彼は叫びました。「疲れたー!」と。ホントになかなかできない貴重な体験をさせていただいて、無事を感謝しました。そんな彼も、二十五日に本免試験があります。祈っていただけると感謝です。一発試験は一回は落とされると聞きますが、一回で合格できたらいいなぁと思います。
合格すればいよいよ免許取得です。免許が取れたら私と立場は同じです。一人でも自由に車を操ることができます。神様の権威も同じだと思います。冒頭にお読みしたマルコの福音書十六章十五~二十節

『それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」主イエスは、彼らにこう話されて後、天に上げられて神の右の座に着かれた。そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。』

主は私たちとともに働いて、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされる。そして、そのしるしを通して、宣教の業が力強く前進していったと書かれています。神様は、クリスチャンが神さまの権威を使うことを許されて、私たちが勝利のうちに信仰生活を歩むことができるように、私たちをサポートしてくださるのです。そのための条件は「信じてバプテスマを受ける」つまりクリスチャンであることです。バプテスマを受けてクリスチャンとなった私たちには神様の権威が授けられます。教会を通して悪魔と戦う権威です。
私たちは、たとえば順先生を見ると、素晴らしい霊的戦いの賜物に惚れ惚れします。「すごいなぁ、彼に祈ってもらったら主は答えてくださる」という感じを持ちますが、本当のところは、主にあるクリスチャンであるならば、与えられた権威は同じなのです。ちょうど運転歴三十年以上の私でも、初心者マークの長男でも、運転することができる、という意味では同じであるのと一緒です。
長男が免許を取得したら、大学までの片道一時間半の道のりを、山を越えて毎日通うことになります。これは親にとってはとても心配で「大丈夫かなぁ」と思います。教習車に乗って、隣に座っているとますます「マジで?いいの?」と思ってしまいます。ある意味リスキーな選択です。しかし、便利で通学の時間も短くなりますし、メリットが多いので任せていこうと考えるわけです。彼の運転技術を信頼し、神様の助けを祈るのです。しばらくはコツンとやったりすることもあるかもしれません。過去には私も何回もやりました。
神様の権威も同様です。使わなければ錆びついてペーパードライバーになってしまうのです。相手が悪魔だから、あるいは目に見える人だからと緊張したり、たじろいで「できるかな、失敗するかも」と恐れを持ってしまうのですが、その恐れを閉め出して実行あるのみなのです。そういうリスクを冒して、神さまの権威に信仰もって立たなければならないのです。
あるときは「失敗した!」と思うときもありますが、神様は助けてくださいます。後のフォローを聖霊さまがしてくださるという信仰のもとに委ねて祈ればいいのです。パウロの後でまねした魔除け祈祷師たちは、悪魔が顔を出して立ち向かってきたのです。しかし、そのことが結果として、さらなる福音宣教の前進をもたらしました。この出来事の後、多くの魔術師たちが魔術の本を持って集まってきて焼き捨てて、神さまに立ち返ったのです。神さまに祈るなら、神さまがどんなことでも良きにしてくださるということだと思わされます。

トランプ氏が勝ったことは世界に大きな衝撃を与えましたが、私たちは神さまに祈り続けてここまできて、これからも祈り続けていくことが大切ですし、人間的には意外な結果に驚いても、信仰によって受け止めていく。また、神の主権の中で最善がなされることをさらに祈っていきたいと思います。
霊的な支配の中では、私たちはこの世を支配する者たちよりも高い権威の中にあります。たとえ大統領であっても、六十二名の富裕層であっても、霊的な世界では私たちのほうが、この世界を治め、また管理する管理者としての権威を主から授けられていると聖書は語っています。その権威を私たちは行使していきたいと思います。ここにいる皆さん全員が、その権威を、自由に喜びとともに、神さまのみこころの中で使えるようになったら、言い方は悪いですがこの会衆全員が順先生状態となったなら、神さまの働きもすごく前進するのではないかと思います。この教会に与えられた権威を主にあって用いさせていただきたいと思います。「世界を神のものとするために」働いていきたいと思ます。
今日の私の御言葉は以上とさせていただきます。

最後に一言お祈りして終わりにいたします。

ハレルヤ! 天のお父さま、あなたの御名を崇めて感謝いたします。イエスさま、あなたは私たち信じる者たちに、素晴らしい権威を授けてくださっています。教会が建て上げられたとき、あなたはこの世にある様々な権威の上に教会を打ち立て、この地を私たちの祈りを通して管理し、また、祈りを通してこの地にある様々な事象に対して、主の権威を、御国を、御心を、宣言することができる者とされていることを感謝します。この法則、原則を私たちがさらに理解し、私たち自らの与えられている信仰の領域の中で、行使して行く者となることができますように。ペーパードライバーのような、権威を持っていてもそれを使うことをためらい、使うことを恐れる者ではなくて、あなたの御心の中で大胆に、この地上にあって残りの者としての役割を果たすことができるよう、お一人おひとりを今日祝福してください。今、この世の中は混とんとしておりますが、私たちがあなたの光を放って、あなたの栄光をこの地に輝かせることができますように祝福してください。主にすべてをお委ねして、イエスさまの御名によって心から感謝して祈ります。アーメン。