『見ずに信じる者は幸いです』

2016年12月4(日)
新城教会牧師 上條実
ヨハネの福音書20章27節~29節

『それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」』

 ハレルヤ!早いもので、もう十二月になってしまいました。本当に人生って早いなと思います。この十二月、イエス様のご降誕を心から感謝しつつ生活して行きたいと願わさせられます。先ほども祈りの課題で言われていましたが、この月はクリスマスの集会がたくさん計画されております。ぜひお祈り下さい。
 先陣を切って、今週の土曜日午後二時から子どもクリスマス会があります。

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 今回の特別ゲストは「三河弁戦士ダイジョバン」が楽しい劇をして下さいます。そして賛美リードもバンドも子どもたちがして下さいます。そして今回はメッセージは滝元順牧師がしてくださることとなっています。また毎年行っているように、はじめ夜店風の屋台やゲームをみんなで楽しみ、最後は大抽選会が行われます。是非お祈りいただければと思います。
 数年前になりますが、設楽町津具に出かけました。滝元明牧師や滝元順牧師が生まれた村ですが、ここでよくお話を聞く事ですが、あの小さな村、津具村にリバイバルが起きました。

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日本のプロテスタント宣教は明治維新前後から始まりました。そして日本にリバイバルが起きました。「日本にリバイバルが起きた!」と初めに海外へ知らされた場所、それが津具村でした。横浜に伝道に来ていたジェームス・バラという宣教師が始めた祈祷会がリバイバル的になったそうです。当時津具村から二人の人が東京に勉強に来ていて、そこでクリスチャンになりました。そして「私たちの故郷にはまだ教会がない」という思いで故郷である津具村に帰りました。彼らが村で福音を伝えたところ、一人の人が救われました。それが村井与三吉という学校の先生でした。やがて彼が津具村で牧師となり、ジェームス・バラ宣教師が津具村に来て宣教し、村にはリバイバルが起こったのです。それでバラは本国に、「日本にリバイバルが起きました」という手紙を書いたと言うのです。 

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 この石碑にはなんと書かれてあるかというと「村井与三吉先生の碑」と書かれています。津具村で伝道した牧師先生の記念碑です。私は石碑の前でそのリバイバルかず起きた火が再び、新城教会に燃え上がるようにと祈る時を持ちました。祈っている時、前の家から一人の九十代のおばあさんが出て来ました。私は当時の事を覚えておられるかなと思い、お声をお掛けしました。「ここに昔、キリスト教会があったの、覚えていますか?」と聞くと、「あぁ、覚えているよ。」と言うのです。そして「私もその教会に小さい時に行き、よく讃美歌も歌ったし、小さな聖書のカードをもらった。」と言うのです。じゃあ讃美歌覚えていますか?と尋ねると「なんだったかなぁ。」と一生懸命思い出していました。私は「主我を愛すは?」と聞き、歌い出すと「知ってる!知ってる!」と言いだし一緒に歌い出しました。小さい時にイエス様のみことばに触れ、たぶん八十数年前かも知れませんが、当時の事を思い出し賛美歌を歌う事ができました。そしてそのおばあさんのためにお祈りして分かれたのですが、種蒔きというのは、すごく大事だなぁと思いました。今回の子どもクリスマス会も、ある面種蒔きかも知れません。すぐに実が出るわけではありません。しかし必ずどこかで芽を出すと信じています。人生の中で問題があったり、クリスマスの時期が来た時など様々な時に、イエスキリストを思い出し、種が蒔かれたところから芽が出て実を結び、収穫をさせてくださると信じています。是非、今週の土曜日の二時からの子どもクリスマスのために覚えて祈っていただきたいと思います。多くの子どもたちが集うことができるように。そして、子どもたちが「イエス・キリストの名前」を告白することができるように、みことばの剣をしっかりと受け取ることができるように祈っていただきたいと思います。

 私は先週、子どもクリスマスの抽選会や景品の品を買うためにスタッフの滝川兄と一緒に、豊橋市にある大きなおもちゃの店へ出かけました。なんとウイークデーにも関わらず、すごい人で賑わっていました。それも若い夫婦とともにおじいさん、おばあさんも一緒になって孫のため、子どものためにプレゼントを買い求めていました。巷はクリスマス商品が溢れ、クリスマス商品を販売するために各商店は必死になっています。私は孫のためのクリスマスプレゼントを贈る事を全く忘れていましたが、すぐ「孫たちにクリスマスプレゼントをあげたいから何が欲しいか聞いて。」とメールしました。世間はクリスマス商戦にのせられて、クリスマス雰囲気になっています。この十二月はとても良い伝道のチャンスだと思います。私たちはこの時を逃さずに、失われていく魂のために、特に主のために励んでいきたいと思います。今日も子どもたちが、教育館の玄関で子どもクリスマス会のためにと献金をお願いしています。掛かる経費全部、献金でまかなおうと考えていますので、心ある方は献金してあげていただければと思います。週報に掲載されていますが、この教会の伝道会は、

12/10(土)子どもクリスマス
12/11(日)東京クリスマス
12/17(土)親子クリスマス
12/18(日)クリスマスコンサート
12/21(水)水曜クリスマス祝会
12/23(金)レッツプレ・クリスマス
12/24(土)クリスマスフェスティバル
12/25(日)クリスマス礼拝
   インターナショナルクリスマス

 これだけのクリスマスの集会が計画されています。是非祈ってください。そして、ご参加下さい。また犠牲を持って、神様のために励んでいただきたいと思います。たとえ今回芽が出なくても、あの九十歳のおばあさんが八十年前くらいのことを、思い出して、イエス様を賛美できる。そして、そのおばあさんのために祈る事ができた、神様はどこで芽を出してくださるか、成長させてくださるか、実を結ぶか分からないのです。今回のクリスマス、悔いの無いように魂の救いのため、イエスさまのためにともに励んでいきたいと思います。

 今、いろんな所で、クリスマス・ソングが流れています。デパートでも、スーパーでも、バックミュージックが流れ、テレビでもクリスマスの事が多く取り上げられています。でも祈らなければいけないなと思わされます。それは何故かと言うと悪しき力にやられてしまい、真の意味を理解せず、商品化され、クリスマス商戦でこのときとばかり様々な商品を売り、また、男女間の淫乱的なイメージがあります。良いレストランで食事をし、良いホテルで宿泊するなど、本当のクリスマスからかけ離れたものにさせられてしまっています。今年はその悪しき力から勝利したいと願います。今日も礼拝後山頂に登って、町を見下ろしながら祈祷会をしようと計画されています。主に期待して、勝利を勝ち取り、大きなリバイバルの業を見せていただけるように期待し、祈っていきたいと思います。 ついでに、そんなことを言いながら申し訳ありませんが、プレイズ出版が経営しています、イタリアンレストラン「雲の柱」が、クリスマスのセールをするそうです。後ろのカウンターにチラシがありますので、ぜひご利用下さい。新しいメニューも紹介されています。よろしければご利用下さい。

 さて今回メッセージを語るにあたって、何を語ったら良いかと祈りました。そして十二月初めの礼拝なのでクリスマスのことをメインに話そうかと、メッセージを考えはじめました。しかし祈って考えはじめましたが、しっくり来ないのです。祈る中でクリスマスとはかけ離れたみことばですが、イエスさまの十字架とよみがえった箇所が強く教えられました。そして先ほど読んでいただきました、ヨハネ二十章二十七節~二十九節のみことばが、心にとどまりました。それはトマスという人物のことが書かれてある箇所です。
 イエスさまが甦った後弟子たちに現れました。しかしその時トマスはいませんでした。他の弟子たちが、「私たちは主を見た。」と言いました。しかしトマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言ったのです。その八日後、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいました。戸が閉じられていましたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われたのです。そしてトマスに「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」そして「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」と言われました。私はここを読み、一週間ずっと、「見ずに信じる者は幸いだ!」という言葉がずっと心を巡り、毎日神さまが私に語り続けて下さいました。今日は私がこの箇所から教えられた事をともに学びたいと願います。
 皆さんはクリスマスに生まれて下さったイエスキリスという方は、どんな方だと理解していますか?ルカ二章十節から十一節に

『 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。』

とあります。天のみ使いが羊飼いに語った言葉は、あなたがたのための救い主がお生まれになったと語っています。クリスマスはこの世の救い主であるイエスキリストが生まれた日です。しかし先ほども語りましたが、本物のクリスマスは消えてしまい、クリスマス商戦にみな乗せられたりして間違ったクリスマスに流されてしまっています。本物のクリスマスを取り戻したいと願います。クリスマスは救い主であるイエスキリストが生まれた日なのです。

 余談になりますが、私の所に、もう一人の孫が二月に生まれます。今回生まれるとなんと六人目です。本当に孫はかわいいです。息子は二月に生まれるのが待ち遠しくて、奥さんが病院に行ってくると必ずメールをくれます。「順調だった!」とか、「もうじき性別がわかる」とか、祈りの課題として送ってくれてはいますが、彼の待ち焦がれた気持ちが文章に表れています。ある時は胎児のエコー写真を送ってきてくれて、「めちゃかわいい!」と言っていました。あの写真を見て可愛いなんて全くわかんないのですが、彼らは喜び楽しみ、待ち望んでいるわけです。ぜひ守られるようにお祈り下されば幸いです。私は一九五七年、昭和三十二年七月五日に生まれました。私は新城中学校の北側に教会があった時に、生まれました。私の母は妊娠後期に、ある教会員の方から、とても美味しいトマトを沢山頂いたとの事です。それが本当に美味しくて、沢山食べ続けたそうです。その為お腹が大きくなりすぎて、最後は立って歩く事が大変で這って移動したそうです。私は助産師に取り上げて頂いたそうですが、体重が「一貫二百」あったそうです。一貫は三キロ七五グラムです。ということは、計算してみましたら、私はなんと四・五キログラムだったらしいです。その当時の写真があまりないのですが、新城教会の三十周年時の記念誌に掲載された写真ですが、この中で、母に抱っこされた赤ちゃんが私です。

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 母は小柄な女性でしたので、大変だったと思います。生まれた時父が、この子の名前は「実」と名付けようと思っていますといったら、助産師が、「本当にこの子は実って産まれてきた」と言ったんだと両親から聞かされました。子どもや孫が産まれる事はとても喜びの時です。しかしダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。とあるように、この世の救い主が産まれるという事は何という喜び、大興奮の出来事です。だからクリスマス商戦や淫乱的な間違ったクリスマスではなく、ぜひ本物のクリスマスを理解して頂きたい。このイエスキリストをのべ伝えて行かなくてはならないと心から思わされます。私を救ってくださるため、いや全ての人のために産まれ、そして十字架にかかり、三日目によみがえってくださった。そして救いを完成して下さった神。イエスキリスト。まことの神さま。本当にこれはすばらしい神です。

 第一コリント三節から五節をお読みしたいと思います。

『私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。』

 最も大切な事として伝えると言っています。聖書の中心とも言える箇所です。イエスキリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたとあります。あなたはこのことを信じていますか?私たちはこの出来事は私のためであったと百パーセント信じています。しかしまだ信じていない人に「三日目によみがえった。」というと、多くの人は甦ったことに不信感を持つと思います。よみがえるなんて普通あるわけないと言われます。しかし私たちは十字架とともに、よみがえりも信じています。新しい命へと復活されたのです。だから、イエスは今も生きておられる。本当の十字架の意味をしっかり知らなくてはいけません。コロサイ人への手紙二章十二節から十五節これは、滝元順牧師がバプテスマ式の時に毎回、読まれている所です。

『あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました』。

ここを見ると、「罪の赦し」と同時に、もう一つ「債務証書が無効になる」とあります。罪を赦すことができるのは、神以外にはありません。人はもちろん罪を犯しても罪を赦すことはできません。また悪魔も赦す事はできません。イエスキリストしか「あなたの罪を赦してあげますよ!」とは言えません。分かり易く言うならば罪の赦しに関しては、神に対して、借金が支払われたことになります。しかしもう一つ、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたとあります。今まで債務証書は敵に渡っていました。しかし債務証書を無効として下さり、キリストによってすべての支配と権威の武装を解除されたとあります。そしてキリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられましたとあります。これは悪魔に対してのことです。
ですから、イエス様の十字架は、神に対する借金だけではなく、悪魔の手に渡った権利を十字架によって、取り戻してくれたことになります。どちらか一方では不十分です。やはり両面必要だと信じます。そして本当の天国は、死後の世界ではありません。この地上が天国となります。神が、やがてこの地を新しい地に変えて、この地が天国となって、永遠に 共に過ごすというのです。イエス様の十字架の勝利は、死の霊であるサタンを打ち破ったことです。みことばには

『最後の敵である死も滅ぼされます』

とあります。イエス様は、十字架に架かって死んだだけでなく、よみがえってくださいました。イエスキリストはクリスマスに生まれてくださり、そして私たちのために十字架にかかり苦しみを受けてくださって、滅んでくださり、そして今まだ墓にずっといる、そんなのではなくて、三日目によみがえってくださった。そして今も生きて働いて下さっているのです。詩篇九十一篇十五節、

『彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは、彼に答えよう。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与えよう。』

とあります。墓で死んだままであれば、答えることはできません。しかし、イエス様は、クリスマスに生まれ、十字架にかかり死んで葬られ、三日目によみがえり。罪を完全に赦して下さっただけでなく、責め立てている債務証書を無効にして下さいました。債務証書は敵に渡っていましたが、その債務証書を無効として下さり、キリストによってすべての支配と権威の武装を解除して下さったのです。完全な勝利を私たちに下さいました。新しく神の子どもとして下さいました。ですから私たちが、イエスを呼び求めれば、イエスは私たちに答えて下さいます。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与えようとあります。いつも祈った祈りは答えられ、祝福された人生を歩む事ができます。私たちは、もう一度、十字架とともによみがえったイエス様をしっかりと意識していただきたいと思います。ありえないけれども、ありえることをしてくださったイエス様です。今まで祈っても駄目だったからとあきらめてしまっている自分がありますが、祈りはきかれます。このよみがえりの権威をもったイエス様ご自身をしっかり信じましょう。そして、エレミヤ十五章二十節に、こういうみ言葉があります。

『わたしはあなたを、この民に対し、堅固な青銅の城壁とする。彼らは、あなたと戦っても、勝てない。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い、あなたを助け出すからだ。――主の御告げ。――』

とあります。様々な問題に直面し、大変な所を通っておられるっている方もいらっしゃると思います。病気、問題、経済的な事、様々な事で、諦めてしまっている時があるかも知れません。しかしこのエレミヤ十五章二十節をリビングバイブルで読んでみると

『彼らは、高い城壁に向かって攻撃をしかける軍隊のようにおまえと戦うが、どうしても勝てない。 わたしが味方につき、おまえを守り、救い出すからだ。』

主は味方です。悪しき力に対して高い城壁で守り、悪に対して戦って下さり、勝利を下さる方です。またローマ十六章二十節を読んでみましょう。、

『平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。どうか、私たちの主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。』

平和の神様が、すぐにでもサタンをあなたがたの足の下に踏み砕いてくださる。そして私たちの主イエス・キリストからの祝福があるように。と語って下さいます。平和の神とは、救いを完成して下さったイエスキリストです。そのイエスキリストはすみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。今日も礼拝後三つの山頂に登り、町を見下ろしながら祈るときがあります。この町、そして私と家族に対して戦ってきている暗やみに、信仰を持ってこのみことばを宣言しましょう。みことばが剣です。みことばを宣言するときすみやかに、圧倒的な勝利をおさめてくださるというのです。
 他にも様々なみ言葉があります。今日イエスキリストが、私のみならず、この民全体のためにすばらしい喜びを知らせに来て下さいました。救い主としてお生まれになってくださいました。そして十字架にかかり、葬られ、三日目に甦られました。イエスキリストは罪を完全に赦して下さっただけでなく、責め立てている債務証書を無効にして下さいました。債務証書は敵に渡っていましたが、その債務証書を無効として下さり、キリストによってすべての支配と権威の武装を解除して下さったのです。完全な勝利を私たちに下さいました。今は見てはいなくても、必ずこの権威を頂いて勝利を見せて頂く事ができるのです。私たちはイエスキリストによって全く自由になりました。責められるところが一切ないのです。
 よみがえりは、最大の奇蹟です。マルコ十六章一節~四節に、

『さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。そして、週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓に着いた。彼女たちは、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか。」とみなで話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった。』

 こういうふうに書かれてあります。これは、イエス様の弟子とともにすごしたマグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメという女性たちが、香油を持って、イエス様の身体に香油を塗ろうと墓に出かけた時に起きた出来事が書かれています。この三人の女性は、弟子たちとともに、いつもイエス様と生活していました。イエスが病人を癒やした事、また奇蹟を起こした事、また様々な奇跡、素晴らしい教えを聞いて付き従った女性たちです。しかしイエスが十字架にかかり、墓に葬られたとき、彼女の手には何がありましたか?それは香油でした。この香油というのは何かというと、イスラエルの地方で、遺体に香油を塗るというのは、埋葬の習慣で、一般的に行われていたそうです。ということは、香油はイエスキリストは死んでしまったと認めてしまっています。奇蹟を見、体験してきた、あの女性たちが、もうあきらめているのです。そしてその前にもう一つの心配がありました。それは墓の前に立てかけられている大きい石を誰がどかしてくれるだろうか?またローマの権威で封印をされている。その墓を開けてもらえるだろうか?そしてその墓の前には番兵までいると、心配しながら墓に向かっていました。様々な目の前にある問題が解決するだろうかと不安であり、心配でした。この女性たち、また弟子たちも、一つの家で閉じこもってしまっていました。彼らも同じ事を言えると思います。知らない間に、あきらめてしまい、香油を持ってしまっている。死体に対して塗る香油を手に持ってしまっています。駄目だという不信仰を持ち、諦め、敵に対して逃げ隠れてしまっています。私たちも同じ事をしていませんか?今日よみがえってくださった主、罪を赦し、債務証書を完全に取り戻してくださった主、無効として下さった主。敵に対して完全勝利を下さったイエスキリストを信じて行きましょう。
 先週、ここで滝元順牧師がすばらしいメッセージを語って下さいました。ヤコブがベエル・シェバを立って、ハランへと旅立ち途中、一夜を明かすことになった。彼はその所の石の一つを取り、それを枕にして眠ったのです。そこでヤコブは夢を見ました。それは、一つのはしごが地に向けて立てられており、その頂は天に届き、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている、夢を見たと言うところから語られていました。イエス・キリストを信じる時、天に続くはしごができるのです。そこを天使が上り下りし、主が横に立っておられる。しかし偶像礼拝や様々な罪があると、そこにはサタンとのはしごができてしまっている。私たちの上に、はしごを下ろしてください。天に続くはしごを降ろして下さい。そして天使たちが上り下りし、その脇に主が立っておられますようにと語られ、祈りました。悪霊を招く偶像礼拝を悔い改め、一切の悪魔のはしごが打ち破られて、イエス様だけにつながりますようにとみんなで祈りました。とても素晴らしいみことばで励まされ、信じて私も祈りました。しかし、私たちはその時は燃えるのですが、現実の生活に戻ると、教会を一歩出ると手に香油を持ってしまっています。よみがえってくださったと信じていながら、手に香油を持って生活してしまっています。しかし、私たちは、今日、ありえないことをしてくださる神様。甦って下さったイエスキリストに目を留めましょう。そして今日持ってしまっている香油の器をイエスキリストの権威によって、割って頂きましょう。
 トマスも、イエス様とずっと一緒に過ごしました。しかしイエスキリストが十字架で死んだ後、弟子たちが甦って下さり、私たちに現れて下さったと話しを聞いても、「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と疑ったのです。しかしあのヨハネの福音書二十章の二十九節ですが、

『イエスは彼らに言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」』

 現状がどうであれ、私たちは、神様の十字架と復活を信じる者として、債務証書を無効としてもらった者として見ずに信じる者になりましょう。
最大の奇蹟は、よみがえりです。第一コリント二章九節に、こんなみ言葉があります。

『まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」』

とあります。目で見たことも、耳で聞いたことも、心に浮かんだこともないような出来事、これは死んだ人が復活するという出来事です。あなたが香油を割り、見ずして信じる者となり進んで行くとき、人生の中に、見たこともない、聞いたこともない、思い浮かんだことのない出来事を神様が私のために、教会、日本の為にしてくださると言うのです。
 今日、よみがえりの権威を信じ、香油の器を割り、見ずして信じる者になりたいと思います。見たことも、聞いたことも、思い浮かんだこともないことを、神様がしてくださるのです。今日、あなたが、本当に香油の器を割り、香油は関係ない!私たちの神は今も生きていると信じていただきたいのです。その時に、神の業が現されることを信じます。

 最後にみなさんで、二つのみ言葉を告白したいと思います。
 一つは、第一コリント十五章三節から五節、もう一つは第一コリント二章九節です。イエス様を信じる権威の中で、悪魔よよく聞け!と宣言しましょう。口で告白したら救われますというみことばを信じて宣言しましょう。まず第一コリント十五章三節から五節

『私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。』

信じますか?アーメン。信じます。続いて第一コリント二章九節、

『まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」』

 このみ言葉も信じますか?アーメン信じます。このみことばはあなたの人生に、現実に起こります。アーメン!私たちは神の子どもです。そのすばらしい祝福をいただくことができる権威を頂いています。『見ずして信じる者は幸いです。』このみ言葉を信じていきたいと願います。最後にお祈りします。

 愛する天のお父様。私たちは、知らない間に、香油の器を持ってしまっています。赦してください。今日、十字架を信じ、またよみがえりの権威を信じます。私のためによみがえってくださったイエス様、今日は債務証書を無効としてくださって、圧倒的な勝利をいただいている事を信じます。今日、このパンとジュースは、御霊によって、イエス様の肉と血であることを宣言します。イエスキリストの救い。十字架、そしてよみがえりを、この聖餐を通して、私のためであった事をもう一度信じます。今日見ずして信じる者とさせてください。み言葉が今週、またこのクリスマスの時、現実の生活の中でおきる体験をさせてください。主が私と共にいてくださることを実感できる聖餐となりますように。この聖餐式を祝福してください。主イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。