『ここは天の門だ!パート4』

2016年12月11(日)
新城教会主任牧師 滝元順
創世記28章16節〜19節

『ヤコブは眠りからさめて、「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった」と言った。彼は恐れおののいて、また言った。「この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ。」翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを石の柱として立て、その上に油をそそいだ。そして、その場所の名をベテルと呼んだ。しかし、その町の名は、以前はルズであった。』

 ハレルヤ!聖歌隊の賛美、本当にすばらしかったですね。もう一度、聖歌隊のみなさんに大きな拍手を!また、偉大な主に大きな拍手をいたしましょう。
 聖歌隊もすばらしいのですが、いくら素材が良くても、指導してくださる人がいなかったらできないです。指揮者と、ピアニストと、聖歌隊、みんな一つとなって、あのようなすばらしい賛美が生まれるわけです。
 イエス様の降誕をみなさんでお祝いできることを、感謝しています。

 すでに、昨日から、クリスマス集会が始まりました。これから、どんどん行われますので、ぜひ、祈っていただきたいと思います。
 今年のクリスマス集会は、「子どもクリスマス」から始まりました。

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 昨日は、すごかったです。一般の方々だけでも、二百七十八名参加されました。スタッフたちを入れたら三百名以上でした。
 その中ですごく感動した事がありました。それは子どもバンドでした。この教会で、一ヶ月に一度、ミュージックスクールが開かれていますが、そこでトレーニングを受けている子どもたち中心のバンドが演奏しました。あまりにもすごかったので、礼拝でもお願いしました。
 では、準備してくれますか。メンバーには元子どもたちもいますが、中心は三名の子どもたちです。ドラマー、ベーシスト、そして、シンガーは小学生たちです。
 ところで先ほどの聖歌隊、何語で歌われたのでしょうか?ラテン語ですか?すごい!なにしろ、映像の字幕も途中であきらめたほどです。イエス様は世界中であがめられています。さて、大きな拍手で子どもたちのバンドをお迎えしましょう。



 いや〜、すばらしかった!本当に、You are good!ですね。習い事ってすごいですね。小さな積み重ねが、これだけになるわけですから。毎月、ミュージックスクールに出て、ここまで成長したわけです。いや〜、すごいものだなぁと感動しました。
 来週の日曜日は、ジョンさんが来て、コンサートを持ってくれます。バンド付きの、すばらしい歌声を聴かせてくださいます。是非、この機会に新しい方々をお誘い下さい。これからいろんな集会が続きますが、楽しみにして、多くの方々に福音を伝えたいと願っています。

 さて、今日のメッセージは、「ここは天の門だ!パート四」です。パート三までやりましたが、今日はパート四です。
 聖書の中でも、創世記から黙示録まで、同じ視点、同じ思想が貫かれているものは重要です。それは、信仰生活の中で、深く心に留めるべき事柄であると思います。

 実はヤコブが体験したことは、旧約聖書、創世記から新約聖書、黙示録までを貫く重要な啓示であると思われます。またこれは、クリスマスの中心的出来ごとでもあります。

 前後のことはすでにご理解いただいていると思いますが、新城教会のホームページで「ここは天の門だ!」というタイトルで出ていますので、読んでみて下さい。一と二は、数年前に語ったメッセージです。
 創世記二十八章十六節〜十九節を読んでみたいと思います。

『ヤコブは眠りからさめて、「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった」と言った。彼は恐れおののいて、また言った。「この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ。」翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを石の柱として立て、その上に油をそそいだ。そして、その場所の名をベテルと呼んだ。しかし、その町の名は、以前はルズであった。』

 イスラエルの根源に、アブラハムという人物がいます。そこからアブラハム、イサク、ヤコブと家系が続きイスラエルが出来ました。前回もお話ししましたように、ヤコブは家でトラブルを起こし、母親の兄が住んでいるハランに旅をしなければならないはめになりました。
 アブラハム一族が住んでいたのは、ベエル・シェバという場所だったのですが、ハランはかなり遠いです。今のトルコ領内になります。本当に長い旅をしなければならなかったのです。
 現代の旅は楽しいです。旅をサポートする体制が、社会に揃っていますから、なんの問題もありません。しかし、昔の旅は、命がけでした。
 パレスチナの地域を旅するのは、特に過酷で、命がけでした。ホテルもありませんし、現代のようにコンビニなんかありません。ハランまで旅をしようとしたら、相当な準備が必要でしたし、毎日、毎晩が戦いであったはずです。
 毎晩、砂漠の真ん中で石を枕にして眠ったのです。お先真っ暗という感じだったと思われます。故郷には帰ることはできないし、見た事もないハランまで、いつ着くか分からない、果てしない旅路をしていたわけです。
 そんなただ中でヤコブは、不思議な夢を見たのです。その事が、創世記二十八章十節〜十五節に記されていますので、もう一度、読んでみたいと思います。

『ヤコブはベエル・シェバを立って、ハランへと旅立った。ある所に着いたとき、ちょうど日が沈んだので、そこで一夜を明かすことにした。彼はその所の石の一つを取り、それを枕にして、その場所で横になった。そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。そして、見よ。主が彼のかたわらに立っておられた。そして仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」』

 前回もお話しさせていただきましたが、主が触れてくださる時は、すべてが整った状況というよりも、荒野で途方にくれるような中で、訪れてくださるということです。
 「願いをきいてほしい!」というような時は、断食して真剣に祈ったり、根をつめたら祈りが届くように考えるのですが、聖書の基本は、「天から地にはしごがかかる」ということです。
 気力もなく、これからどうしていいのか、途方にくれるようなただ中に、天が開き、天からのはしごが下りてくるという、「天から地」へのベクトルです。

 実は、ヤコブが体験した事が、それから二千年近く経った時、ベテルの近くのベツレヘムの野で起こっています。それも夢ではなく、現実として起こったのです。その出来ごとがクリスマスのきっかけとなりました。
 ルカの福音書二章八節〜十四節、

『さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現れて、神を賛美して言った。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」』

 この体験をしたのは、他でもなく「羊飼いたち」でした。
 話は変わりますが、イスラエルに行きますと、悲しい現実があります。ユダヤ人の住んでいる地域と、アラブ人が住んでいる地域の間に、こんな壁があります。人間は本当に悲しい存在です。アラブ人居住区に行きますと、このような人達が住んでいます。このような顔つきを見たら、どうでしょうか。私たちには、刷り込みがあって、テロリストのように感じてしまう傾向があります。しかしそれは本当に悪い事だと思います。
 一般的にイエス様は、白人の美青年のようなイメージを持つのですが、以前にもお話ししましたが、一世紀頃のイスラエルに住んでいた男性の標準的な顔を、イギリスのBBCが再現しました。それが、どんな顔つきであったかというと、この顔です。

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 イエス様のお顔は、こちらに近かったわけです。なぜなら、イエス様はアブラハム、イサク、ヤコブの子孫ですから、現在、ウエスト・バンクに住んでいるような方々と人種的には、同じだったと思われます。
 しかし一般に聖画などに出て来るイエス様は、こんな感じです。

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 このようなイエス様が、「平安があなたがたにあるように。」と出てこられたら、すぐに平安になっちゃうと思います。けれども、もしもこういう顔つきのイエス様が出てきたら、ちょっと引いてしまうかもしれません。でも実際は、こちらのお顔だったと思われます。

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 イエス様は、肌の色の黒い、強い日射しの中で、日に焼けた方だったと思われます。

 誰に救い主誕生の知らせが、最初に届いたかというと、羊飼いたちだったのです。今でもイスラエルに行きますと、羊飼いたちがいます。
 その人たちは、二千年来、ライフスタイルを全く変えていません。彼らを「ベドウィン」と呼ぶのですが、ベドウィンの人たちほど、立場がない、身分が保障されていない人たちはいません。ユダヤ人、アラブ人にはアイデンティティがあるのですが、羊飼いたちは、遊牧民たちです。古くから、砂漠を、季節に合わせて、牧草を求めて、遊牧していた人たちです。大国が攻め込んで地域の支配者が変われば、すぐに居住地を失います。まさしく、彼らの枕は石だったのです。

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 イエス様の時代、古代のヤコブと同じ環境で、羊飼いたちは暮らしていたのです。しかしある日突然、光があたりを照らし、天使たちが現れて、イエス様のお生まれが告げ知らされたのです。

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 羊飼いたちは一生懸命、祈っていたわけではなく、通常の業務の最中でした。その中で天が開かれ、天からはしごが下りて来たことが分かります。
 天からのはしごというイメージを持って、聖書全体を読むと、まさしく、聖書は、天からはしごが下りて来るという視点で記されていることが分かります。

 イエス様が十字架についた時、大変不思議な事が起こりました。イエス様が大声で叫んで息を引き取られたことが、マタイの二十七章五十節〜五十三節に記されています。

『そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。また、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った。そして、イエスの復活の後に墓から出て来て、聖都に入って多くの人に現れた。』

 実はこの事は、マタイの福音書にしか記されていないのです。イエス様の十字架という、最もインパクトの強いストーリーに埋もれて、本来はすごい事なのにも関わらず、あまり意識されていないみたいです。マタイだけが、これをレポートしてるのも、その為かも知れません。
 イエス様が息を引き取った瞬間、神殿の幕が破れたのです。人が幕を破るなら、下から上に破るのではないかと思うのですが、上から下に裂けたのです。同時に、墓の中から死人たちが生き返って、飛び出して来たというのです。そして、イエス様がよみがえられた後、都に入って来たというのです。これが事実なら、すごい事です。
 聖書注解者たちも、この記事はあまり信じられないみたいです。どんな注解があるかというと、地震で墓が壊れて、死人たちが墓から放り出されて、死後硬直した死人が立ち上がったのだと言う説もあります。しかしイエス様の復活後に、都に入って来たというのですから、死んでいたら入ることはできません。
 イエス様の十字架と共に、上から下に幕が破れて、突然、奇蹟が起こったのも、一方的な出来事でした。

 また有名なのが、イエス様がよみがえられ、昇天後、弟子たちが祈っていた時、聖霊が下った事が記されています。使徒の働きの二章一節〜四節まで、

『五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。』

 この時も、天が開かれて、炎のような舌が天から下って来て、一人ひとりにとどまり、皆が聖霊に満たされた、これも、天から地という方向性です。

 そして新約聖書の最後、黙示録二十一章一節から見ますと、

『また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」また言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。』

 聖書全体を見ますと、創世記から黙示録まで、突然、「天が開かれ」「天から地にはしごがかかる」テーマが一貫しています。
 聖書の基本は、主が天から下りて来てくださるということです。案外、私たちは、地上から天にはしごをかけなければいけないというイメージがあるのですが、そうではなく、聖書の神は、人類に一方的に天からはしごを降ろし、助けてくださるお方です。
 黙示録をみると、新しい天と新しい地が下りて来た!と記されていますが、その時、何が起こったかと言うと、二十一章四節、

『彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。』

と、あります。ということは、それまでは、「涙、死、悲しみ、叫び、もがいていた人類」の姿を現しています。
 主は、悲しんでいる人たち、苦しんでいる人たちを決して見放さないで、天から下りて来て下さるのです。

 クリスマスは、人類のために一方的に天が開かれ、神のみ子が来てくださった日です。しかし、その影に、真剣に、長い間、祈っていた老人たちの姿も描かれています。隠れた所で、主の訪れを待ち望んでいた人たちもいました。

 クリスマスの季節になると、いつも不思議に思うのですが、出て来るのは、赤ちゃんのイエス様です。みなさん、どうでしょうか。誕生日に、毎回、生まれたての裸の写真を持ち出してきて、「あんたはこんなベイビーだったんだよ。」と言われたら、あんまり気分はよくないですよね。
 イエス様の誕生日に、いつもベイビー・ジーザスを持ち出すのは、これいかにです。誕生祝いとは、目の前に生きている、よく育った存在の為です。イエス様も同じです。今も生きておられるイエス様を、お祝いしなければならないのです。踏んだら死んでしまいそうな、赤ちゃんイエス様ではなく、今も生きておられ、神の右の座についていて、やがて来てくださるイエス様を、心から礼拝しなければいけないです。クリスマスの時期は、主が再び来られるのを待ち望む時期です。十二月二十五日に向けて、イエス様のお生まれを待ち望む季節ですけれど、赤ちゃんのイエス様が来られるのではなく、後に来られるイエス様、地上にもう一度帰って来られるイエス様を、待ち望む季節にしなければならないのです。

 前回もお話ししましたが、人は、生まれた場所の文化とか習慣の影響を強く受けて育ちます。それで偶像礼拝的な文化・習慣から、なかなか脱却できないのです。
 しかし、救いは、悪魔が教えた文化や習慣を越えて与えられると話しました。ヤコブが、石の枕を立てたのは、どういう意味があるのかについても、前回、お話しさせていただきました。それは今回のイスラエル旅行で教えてもらったのですが、世界最古の偶像礼拝は何かというと、「石を立てる」ことから始まったというのです。古代人は何に一番、関心を持っていたのかと言うと、見えない世界にアクセスして、目に見えない世界に存在する力を引き出す方法に、最も強い関心を持っていたのです。
 古代人がある日、手軽に見えない世界にアクセスする方法を見つけたのです。それが、横になっている石を立て、その場でいけにえを捧げたりすると、見えない存在が下りて来るという方法でした。この技術はたいへんシンプルですが、たいへん有効でした。
 「寝転がっている石を立ててみろ!その周りに、生け贄を捧げてひれ伏してみろ!目に見えない霊的存在が下りて来るぞ!」と。多くの人たちが実際にやっていました。
 しかしそれは、本物の神を招くのではなく、神のふりをした悪霊を招く行為でした。シャーマニズムと呼ばれる行為がなされたわけです。この古代の技術が、世界中に広がり今日に至っています。

 日本の拝み場も、石が立っています。墓石も同じです。石を立てるのは、霊のアクセス・ポイントです。
 ヨセフも不思議な夢を見て、すぐに石を立てる行為をしたけれど、聖別しました。悪しき習慣を越えて、主がヤコブの所に来てくださったのです。

 また、信仰告白の原点についてもお話ししました。イエス様は言われました。「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれに打ち勝つことはできない。」

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 当時の人々はギリシャ神話の神々を拝んでいたのですが、それ以前は、大きな岩を拝んでいました。
 日本でも、大きな岩を拝みますが、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」とあるように、教会とは、悪魔が教えた、悪しき文化を勝ち取り、イエス様が救いの岩であることを宣言する事から始まります。
 天と地を結ぶために必要なのは、唯一、「イエス・キリスト」です。天と地を結んでくださる、唯一の方を知らなければならないのです。

 実は、イエス様ご自身が、ヤコブの体験を引用して語っておられます。それがヨハネの福音書一章四十八節〜五十一節にあります。

『ナタナエルはイエスに言った。「どうして私をご存じなのですか。」イエスは言われた。「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」ナタナエルは答えた。「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」イエスは答えて言われた。「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったので、あなたは信じるのですか。あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになります。」そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」』

 ナタナエルに語った言葉ですが、最後には、「あなたがた」とありますから、周りにいた弟子たち全員に語られた言葉です。
 実はナタナエルという人物は、真実な人でした。ナタナエルがイエス様と出会ったきっかけが、アンデレでした。
 アンデレは、自分の親戚、のちにペテロと改名されるシモンを導き、周りのピリポに福音が伝えられ、やがてナタナエルという重要な人物が引き出されたのです。

 クリスマスの季節、私たちはアンデレにならなければいけないと思います。アンデレからペテロが導かれ、ピリポが救われ、ナタナエルが救われ、ヤコブが体験した出来ごとを目撃したのです。一人の救いは重要です。
 誰かが救われたことによって、私たちにも福音が伝えられ、今日があります。
 クリスマスは、福音を伝える絶好のチャンスです。皆がアンデレのようにならなければなりません。誰かが救われて、偉大なことが起こる可能性があるわけです。
 神の働きは、もちろん天が開かれる領域もあるわけですが、同時に、天が開かれた者たちは、出て行って福音を伝える使命があります。

 今週、いろんなクリスマス会があります。シャロームという施設をプレイズ出版がやっていますが、そこでクリスマス会があります。
 また土曜日は、親子クリスマスがあります。親子で来てくださいという催しで、今回のプログラムは、すごいですよ。是非楽しみにしてください。アルプスの少女ハイジです。ハイジのストーリーをピアノと朗読に合わせてやってくださるのです。先週は豊川市民病院で、大好評だったそうです。特におじいちゃんおばあちゃんと一緒に来てください!と案内がなされています。
 そして十八日は、クリスマスコンサートです。クリスマスコンサートは、音楽的にも高く、み言葉もばっちり語ります。多くの方を連れて来やすい、アンデレとなるチャンスです。ぜひ、周りのイエス様を知らない方たちに、チケットをプレゼントしたり、誘っていただきたいと思います。私も、今週は案内のプランを立てていますが、みなさんも是非、アンデレとなり、ナタナエルのような人物が引き出されるきっかけとなって下さい。

 イエス様はナタナエルたちに言いました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」と。
 「人の子の上」を上り下りする・・・。この表現は、ご自分をヤコブと重ねておられると共に、イエス様を通してでなければ、創造主につながることはできませんよ!ということです。
 イエス様を信じたら、天からはしごが下りて来て、天使たちが上り下りして、主が横に立ってくださるという、神の家、ベテルとなるのです。その構図さえできれば、幸せに生きることができるはずです。

 ある意味、古代の人たちは、いい線まで行っていたのです。石を立て、霊を下ろし、頭上にはしごを作るという、ここまではいい線まで行っていたのです。日本人もある意味、同じです。石を立てて霊を下ろすという、目に見えない世界にアクセスするという、いい線まで行っています。しかし、イエス様ではなく、他の神々の名を使っています。そうすると、神ならぬ、悪霊どもが下りてくるのです。
 イエス・キリストによってのみ、真の神につながるのです。石なんて立てなくても、犠牲を捧げることもなく、主が私たちと共にいてくださるベテルが出来るのです。

 クリスマスと、ヤコブのストーリーは大変関わりが深い、と話しましたが、石を立てる当時の文化の中で、石はどこに向けて立てられていたかというと、「星」です。
 マタイ二章一節から、こんなストーリーが出ています。新共同訳聖書で読んだほうが分かりやすいので、新共同訳で読ませていただきます。
 マタイの福音書二章一節〜八節(新共同訳)、

『イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。』

 ここに占星術者と書いてあります。新改訳だと、「博士」となっています。当時、最も智恵のある人とは、占星術師を意味していました。星占い師だったのです。
 バビロンのほうで占星術師たちが星を観測していた時、偉大な人物が生まれたという情報を、占星術によって受け取ったのです。その為、博士たちは二年くらいかけて、エルサレムまで来て、その後、イエス様が滞在していたベツレヘム村に行き、家まで特定して、イエス様に会い、黄金、乳香、没薬などを捧げています。遠い国に住んでいた占星術者たちが、こんな芸当をやり遂げているのです。すごいじゃないですか。

 今、世界で一番流行っている呪術、シャーマニズムは何かというと、星占いです。
 みなさんも時々、星占いを耳にしたりすることがあるかもしれません。十二月になると、星がきれいに見えて、星がいっぱい出て来ます。その背後に、占星術が関わっています。星占いって、不思議に無茶苦茶当たるのです。

 昔は天文学と占星術は同じでした。しかし15世紀に、コペルニクスによって、コペルニクス的転換、占星術と天文学が袂を分かったのです。プトレマイオスが、宇宙の真ん中に地球があって、太陽も星も全て地球を中心にして回っていると唱え、皆それを信じていました。地球から天を見れば、全て、周って見えますから、地球が中心だと信じ込んでいたわけです。
 しかし、コペルニクスは、「太陽が中心だ!」と気づいて、計算をし直したら、すべてがうまくはまったのです。
 この時から、占星術と天文学が分かれていくわけですが、実は、コペルニクスも占星術者でした。占星術は、地球を中心とする、全く、非科学的な考え方をベースにしているのです。だから、全くの偽り、でたらめです。嘘を信じてやっているのです。

 地球を中心として、太陽がどう回るかを見て、十二等分して、自分の星座を見つけるというのですが、根源がすべて間違っていますから、本来、当たるわけがないのです。
 しかしです。実際にやってみると、当たる!というのです。
 実は、ガリレオにしても、コペルニクスにしても、彼らは占星術者でした。彼らは、占星術者であるのにも関わらず、地動説を唱えたのです。矛盾しているのです。
 ある人が「なぜ、占星術をやりながら、地動説を唱えるのですか?」と聞くと、「それは占星術をやったことない人の意見だ。やったら分かる。占星術は本当に当たる。」と答えたそうです。

 占星術は本当に当たるらしいです。じゃぁ、やろうかな?絶対にやっちゃいけないです!
 イエス様がお生まれになった時、なんとイエス様のお生まれを、バビロンのほうで探知し、家まで特定したくらいですから、相当なパワーです。天体には、人間には明かされていない、神秘的なものがあるのです。しかし、うかつに手を出し、暗闇の世界から情報を受け取り、「当たった!」と一時は喜んでも、結果が悪いのです。

 博士たちがベツレヘムに来た後、何が起こったのか知っていますか?ベツレヘム近辺の二歳以下の子どもたち、全員が殺されたのです。本当に悲惨なことが起こりました。占星術師たちが来なければ、二歳以下の子どもたちは殺されなかったはずです。
 イエス様を殺そうとして、二歳以下の子どもたちを皆殺しにしたわけですから、イエス様も殺される寸前だったわけです。イエス様はエジプトに逃げて助かったと書かれています。

 石を立てるという、偶像礼拝を日本で多く見かけますが、本来は星を意識しているのです。
 近頃、星占いがカジュアルになって、朝のテレビ番組で「この星座の人は気をつけてください・・・」とか言っていますが、それらに心を捕らえられてはいけないのです。
 クリスマスは、占星術の力が頭をもたげる季節だと思います。是非とりなし、祈っていただきたいです。

 「私は占星術なんかやったことがないよ!」という人も多いかもしれません。しかし、自分の干支を知っている人、スイッチオン!日本人ならほとんどだと思います。
 西洋に行きますと、占星術は星座ですが、東洋は動物に変わるだけの話です。干支を意識していること自体、すでに、占星術を受け入れていることになります。
 周りには、石を立て悪魔の世界にアクセスするシステムが多く存在する日本ですが、悪魔が下りてくるのではなく、天使たちが下りて来て、「ここは天の門だ!」と呼ばれる人生を歩みたいです。

 クリスマスは、神の世界から人の世界に神の御子が来て下さった時です。苦しんでいる人たち、悲しんでいる人たちの所に、主が訪れて下さる日です。クリスマスの背後にある、創世記から黙示録に至る、壮大なストーリーを理解し、主の再臨を意識しながらお祝いするなら、例年とは違った、すばらしいクリスマスになると信じます。

 最後にみなさんでお祈りして、聖餐式にあずかりたいと思います。聖餐式は重要です。イエス様が私たちのために、初めで最後の生け贄となってくださった事を記念しています。昔は動物の生け贄だったり、子どもを生け贄にした時期が続いていたのが終わったのです。毎週、聖餐式を行っていますが、天からのはしごを意識して、聖餐にあずかりたいと思います。

 先週、ブラジル人の教会に奉仕に行きました。「先生のメッセージの後に、聖餐式がありますがいいですか?参加してくれますか?」と聞かれましたので、「いいですよ。」と答えました。集会が二回あって、朝の十時からと夕方の五時からでした。集会が終わったのが八時過ぎでした。その後の聖餐式は十分くらいで終わるかと思っていたのですが、なんと聖餐式だけで一時間くらいかかりました。ブラジル人の方々は感情豊かで、イエス様の十字架を心から感謝して行っていました。私は早く終わってほしい!と思いましたが、本来は、一時間くらいかけてもいいことなのです。なぜなら、イエス様は私たちのために、命を捨ててくださったのですから。
 心から感謝をして、聖餐式を行いたいと思います。


 ハレルヤ。父なる神様。御名をあがめて、心から感謝をいたします。ここは天の門です!主が共におられることを体験できて心から感謝します。この場所に、主がおられることを感謝します。あなたが十字架のあがないを成し遂げてくださったことによって、天の門が開かれたことを感謝します。
 十字架の勝利を心から感謝します。あなたの裂かれた肉、流された血潮を感謝して、やがて主が帰ってくださる日を待ち望んでいます。天のエルサレムがいち早く、地上に降りて来ますように。
 今日、お一人お一人に、天からのはしごをかけてください。問題を抱えて苦しんでいる方や、悲しんでいる方、途方にくれている方がおられたら、一方的に主が下りて来てくださいますように。
 今日の聖餐式は、天からのはしごがかかる時となりますように。主の御名によって祈ります。アーメン。