『ここは天の門だ!パート5』

2016年12月18(日)
新城教会主任牧師 滝元順
ルカの福音書2章8節〜14節

『さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現れて、神を賛美して言った。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」』

 ハレルヤ!みなさん、どうでしたか?素晴らしい演奏でしたね。今までとは、ひと味違った素晴らしい賛美を聴くことができ、心から感謝します。今夜は、この場所をいっぱいにしたいと思います。

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 昨日は、親子クリスマスがありました。お母さんと幼子たちが集ってくれて、大変温かいクリスマス集会となりました。毎週いろいろなクリスマス会が開かれています。イエス様のことを、全力で伝えていきたいと願っています。今週は、特に、クリスマス集会が密集しています。

 水曜日に、すばらしいプログラムがあります。中村匡さんが来てくださって、コンサートを開催して下さいます。彼はドラマとか、様々な所に音楽を提供しているプロのミュージシャンです。中村裕二先生の息子で、才能豊かな方です。ぜひお越し下さい。

 また、土曜日はクリスマス・フェスティバルです。ヘブンリーキングダムがすばらしい演奏をしてくれます。日曜日はクリスマス礼拝となっています。またインターナショナル・クリスマス集会もあります。この機会を生かしていただきたいと、願っています。

 今日も、シリーズでお話しさせていただいている、「ここは天の門だ!」です。パート五になるのですが、今、読んでいただきました箇所は、有名な、クリスマスのきっかけとなった出来事です。
 羊飼いたちが、野原で夜番をしている時、突然天が開いて、御使いが現れて、救い主のお生まれを告げたのです。
 聖書には、旧約聖書から新約聖書まで、一連の流れがあって、預言と預言の成就があります。特に、ルカ二章は、創世記二十八章に原点があるように思います。
 創世記二十八章十節〜十四節、

『ヤコブはベエル・シェバを立って、ハランへと旅立った。ある所に着いたとき、ちょうど日が沈んだので、そこで一夜を明かすことにした。彼はその所の石の一つを取り、それを枕にして、その場所で横になった。そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。そして、見よ。主が彼のかたわらに立っておられた。そして仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。』

 ヤコブは不思議な夢を見ました。しかし、羊飼いたちは、夢ではなく、ヤコブが見た夢と同じような光景を、実際に体験したのです。突然天が開かれて、天の軍勢が現れて賛美しはじめ、「良い知らせ」が伝えられたのです。
 ヤコブも同様に、夢の中で良い知らせが伝えられました。途方に暮れていたただ中で、『あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。』と語られたのです。
 聖書には、旧約聖書から新約聖書に至って実現した、預言が記されていますが、イエス様の時代から二千年も前の夢が、突如として、ベツレヘムで実現したのです。
 ヤコブが夢を見た場所はベテルでした。ベテルとベツレヘムは地理的にもすぐ近くです。同じ地域で、同じような出来事が、最初は夢でしたが、二度目には現実になったのです。
 神様は時々、私たちに、夢を与えてくださいますが、その夢を実現してくださるのも主です。

 アブラハムという一人の人物を選んで、アブラハム、イサク、ヤコブと続き、イスラエル十二部族が生まれ出て、やがてイスラエルという国家が誕生しました。「地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福されます」と、イスラエルは祝福の原点として選ばれたわけです。
 しかし、救い主がお生まれになったという知らせは、最初、誰に届いたかと言いますと、「羊飼いたち」でした。

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 先週もお話ししましたが、今でもイスラエルに行きますと、その出来事を体験した羊飼いたちの子孫と会うことが出来ます。彼らはユダヤ人ではありません。「ベドウィン」、すなわち、アラビア語で「町の外に住む者たち」と呼ばれる遊牧民族です。彼らは二千年前と同じライフスタイルを、今でも保っています。

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 良い知らせは、ユダヤ人たちにではなく、最初、異邦人に伝えられたのです。ベドウィンたちは、今も国籍がなく、社会的な立場も全くない、砂漠を流浪している民です。牧草の生えている場所を求めて、国境を越えて砂漠を流浪している民の所に、「良い知らせ」が最初に届いたのです。
 アブラハム、イサク、ヤコブ時代の人々は、石を立てて偶像礼拝をしていました。遊牧民たちも同じ宗教形態を持っている人達でした。そんな人々に直接、主が現れてくださったのです。

 次に、福音が届いたのは、遠くバビロンに住んでいた占星術者たちでした。
 彼らは二年くらい旅をして、エルサレムまで来て、イエス様の家まで訪問して、礼拝しました。この人たちも異邦人たちです。
 ユダヤ人は選民ですが、最初に福音が届いたのは、外の人たちでした。それも、創造主を礼拝していた人たちではなく、偶像礼拝をしている人たちに、良い知らせが最初に届いたのです。ここに神の愛を見ることができます。
 その後、ヘロデという権力者に、救い主のお生まれが伝えられ、ユダヤ人宗教家たちにも伝えられたのですが、権力者や宗教家たちは、良い知らせを受け取ろうとはしませんでした。
 良い知らせはイスラエルから始まりましたが、その知らせは最初、異邦人に伝えられ、最終的に選びの民に到達するという、聖書の預言をそこに見ることが出来ます。
 イエス様がこの地に来られた目的は、信じる者たちに「永遠のいのち」が与えられるという事です。すごいことじゃないですか。

 今の時代、「神はいない」と言えない時代です。日本人は、目に見えない霊的存在を結構感じ取る国民ですが、天地宇宙を造られた創造主というと、途端に心を閉じて、「そんな存在いるのか?!」と否定し、進化論を持ち出す人たちが多いです。

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 こんなのがありますが、人は猿から進化して、私なんか、最も進化した存在かも知れません。しかし進化論は事実上、否定されたのと同じです。
 なぜなら、人間の設計図が発見されたからです。この建物も設計図があったから建てられたわけです。設計図があるということは、設計者がいたことに他なりません。現在、設計者をここに見ることがなくても、設計図が残っているとしたら、設計者が存在する事は明らかです。
 人間の設計図が、どこに隠されていたのかと言ったら、洞窟の中に、巻物として格納されていたのです。それは何度も話していますが、「DNA」です。細胞という洞窟の中に、DNAが収められていて、引っ張りだすと、巻物です。たった四つのA・G・C・Tという物質の組み合わせで、すべて構成されています。三十億個くらいの情報が並んでいて、この情報を元に身体もできているし、将来さえもこの情報で左右されるというのです。これは知的存在が関わらなかったら、決して、存在しえない情報です。
 人間には、人間のために書かれた設計図があることが分かったわけです。これは人間以上の知的存在が、大宇宙には存在する証明です。それは創造主です。その方が、ご自分の立場を捨てて、地上に来てくださったのが、クリスマスです。

 創造主が最初に書いた設計図は完璧で、人は死ぬことはなかったのです。不死の存在だったのです。しかし、その後、蛇と出会ってから、人は死ぬ者となってしまったのです。最初の設計図では、死ぬことのない不死の存在だったわけです。ということは、オリジナルの図面を持っておられるイエス・キリストを信じる時、永遠のいのちが与えられることは、おとぎ話でも、なんでもないのです。現代は、永遠のいのちも、科学的に証明されたようなものです。
 クリスチャンになることは、すばらしいです。地上の命がなくなったとしても、永遠のいのちが与えられているからです。死後の世界で全員集合します。
 新城教会からも、すでに百名以上の方々が死後の世界に入って行かれました。やがて私たちはその人たちとも出会い、やがて、地上にイエス様が再び帰って来られ、新しい天と新しい地が創造される時、この地が天国となり、人はよみがえるのです。これが聖書の救いです。
 救いとは、幅広いものです。個人的なものだけでなく、宇宙の更新までも含むトータルなものです。

 救いのプランの中で、イエス様が成し遂げたい!と、願われたことは何かと言いますと、神の国にご自分の民を集めるために、隔ての壁となっていたものを打ち破る事でした。エペソ人への手紙二章十四節から、こうなっています。

『キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。』

 イエス様が地上に来てくださった目的とは何かというと、「隔ての壁を壊すため」でした。
 イスラエルに行きますと、悲しい現実があります。先月、見て来たのですが、現実にこのような壁があります。

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 これは隔ての壁です。ユダヤ人と、彼らが異邦人と呼ぶアラブ人たちの間に築かれた壁です。悲しい現実です。
 先週も、お話ししましたが、人間は、同じ創造主によって造られているのですが、肌の色が違ったり、文化・習慣が違うと、隔ての壁を作ってしまう悲しい存在です。心の中の壁だけならまだしも、現実に壁を作ってしまったら、相当、角が立ちます。
 しかし、イエス様が来てくださったのは、このような壁を壊すためだというのです。キリストによって、壁が壊わされるのです。特にイエス様が、壊したい壁は、「民族意識の壁」です。

 同じ民族同士で集まっている時には、さほど感じないのですが、海外から来られたり、他の民族的背景の方が、グループに入ると、自動的に壁ができたり、シャッターが下りる性質が人にはあるように思います。しかし、これを壊すために、イエス様は来てくださったのです。
 イスラエルを祝福してあげます!と約束されましたが、実際に「良い知らせ、福音」は、最も立場があやふやな、遊牧民に届き、次には、遠く離れたバビロンに伝えられ、そこからイスラエルに福音が伝わったのです。これは何を表すのでしょうか。私たちの主は、民族的な隔ての壁を打ち破るために、イエス様を送られた!ということです。
 主に触れていただかなければならない大きな領域は、「民族的な隔ての壁」です。
 新城教会は、インターナショナルの働きもあり、様々な国から参加してくださり、今日もアメリカから、ジョンさんやニッコーさんが来られて、賛美を聴かせて下さっています。本当に感謝です。もしも民族的な壁があったら、今日のような祝福はないです。
 案外、私たちは、この事を簡単に考えるのですが、福音の中心的目的の一つではないかと思われます。イエス様が地上に来てくださったのは、ユダヤ人と異邦人の間にある、隔ての壁を打ち破るためでした。

 ルカ十章に、大変有名なストーリーがあります。それが、「良きサマリヤ人」のストーリーです。みなさんご存じですから、読むまでもないかもしれませんが、ルカの福音書十章三十節〜三十七節。

『イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」』

 このストーリーを読むと、困った人を助けてあげるという、「隣人愛を教えるストーリー」のように、表面的には捉えます。しかし、当時の状況をよく知ると、このストーリーが、ただ単に、「困った人を助ける」というレベルではなく、民族問題を扱っている事がわかります。
 イエス様の時代、イスラエルは「ユダヤ地方」と、「サマリヤ地方」とに分かれていました。

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 ここに一つの地図があります。下のほうにエルサレム、Jerusalemがありますが、上のほうにMount Gerizimという場所があります。イエス様の時代、ユダヤ人たちは、エルサレムで礼拝をしていました。ユダヤ人とは、ユダ族とベニヤミン族の二部族です。元々、イスラエルは十二部族で構成されていました。イエス様の時代、他の十部族は消えてしまったと、ユダヤ人の間では言われていました。しかし、現実には消えてはいなかったのです。十部族はどこに住んでいたのかと言えば、主に、「サマリヤ地方」に住んでいました。彼らはエルサレムのユダヤ教団に対抗して、サマリヤ教団を作って、ゲリジム山で礼拝を捧げていました。
 それがいつから始まったかというと、イスラエルが北イスラエルと南ユダとに分かれ、それぞれの道を歩み始めた頃から変わったのです。同じヤーウェの神、天地宇宙を造られた主を礼拝し、それぞれメシアを待ち望んでいたわけです。ただ、礼拝場所だけが違っていたわけです。

 サマリヤの女のストーリーは、当時の状況を表しています。両者の政治的、軍事的背景の歴史を知らないと、当時の人々の感情は理解できません。
 イエス様がお生まれになる百二十八年前、「ヨハネ・ヒルカノス」という、ユダ側の祭司王が、軍隊を引き連れて、ゲリジム山のサマリヤ人を襲い、彼らの神殿を破壊してしまいました。そして、大勢のサマリヤ人たちを殺したのです。ユダヤ教で、イスラエル全体を支配する目的でゲルジム山に攻め込んだのです。武力でサマリヤ地方を押さえ込んだわけです。その結果、ゲリジム山周辺の人たちは虐殺され、神殿は破壊され、大変な騒動になりました。その後、サマリヤ人たちは、廃墟で礼拝を続けました。

 その事件から百二十数年後、イエス様はお生まれになったのです。イエス様時代のユダヤ人とサマリヤ人の感情は、相当悪かったと思われます。
 イエス様はユダ族の出身のユダヤ人でした。サマリヤ人を見たら、敵と認識するグループ側に属していたのです。
 サマリヤ人たちにとって、ユダヤ人たちは自分たちの大切な神殿を壊した連中です。また、自分たちの同胞を、大勢殺した敵ですから、相当憎かったはずです。

 しかしイエス様は、サマリヤ人を擁護されたのです。イエス様と、ユダヤ人宗教家の会話は、ユダヤ人同士の会話でした。
 しかし、ユダヤ人であるにも関わらずイエス様は、サマリヤ人側に立ったわけです。ユダヤ人たちが敵視している、サマリヤ人側に立って、サマリヤ人を良い人として、ユダヤ人たちを悪役にしたわけです。このストーリーは、当時のことを考えると、そう簡単に受け入れられる話ではないのです。

 国際関係は近い国同士で、関係が悪いです。地球の反対側にある国とは、関係はあまり悪くなりません。しかし、近い国同士は良くないです。日本はどうでしょうか。関係が悪い国々とは、周辺諸国です。韓国であったり、北朝鮮であったり、中国であったり、先週はロシアからプーチンが来ましたが、周辺で、いろいろなトラブルが起きています。
 日本人同士の会話で、関係の悪い国に軸足を置いて、「あんたも関係の悪い国の人と同じようにやれ!」と言われたら、相当カチン!と来ると思います。

 以前にも、お話しましたが、良きサマリヤ人の話を日本風に置き換えると、よく分かります。イエス様が会話をしていた相手は宗教家ですから、日本的に言えば、極右派というか、日本大好き!という人に置き換えることが出来ます。天皇陛下万歳!安倍政権最高!というような人です。そのような人は、周辺諸国には対立意識を強く持っていると思われます。
 その様な人に向かって、「日本人の旅人が倒れていた。最初は天皇が通りかかったけれど、見過ごして助けなかった。次に、安倍首相が通りかかったけれど、彼も見過ごした。しかし、日本と関係の悪い中国人、韓国人の観光客が倒れている日本人を助けた。あんたも同じようにやれ!」なんて言ったら、むっとするはずです。イエス様は、そのように語ったわけです。これって、ただの隣人愛の話ではなく、民族問題です。

 結構埋もれているのですが、大きなテーマです。福音によって越えることができるのが、「民族同士の対立意識の壁」です。
 クリスマス、イエス様が、地上に来てくださった良い知らせとは何か。それは、イエス・キリストによってのみ、民族的な壁を越える事が出来るという事です。イエス・キリストのみ、隔ての壁を打ち破ってくださる方だ!ということです。

 イエス・キリストを信じたら、隔ての壁を壊さないといけないのです。やがてイエス様がこの地上に帰って来られた時には、何が起こるでしょうか。一つの民、一つの国となります。
 神の国には、民族問題も、隔ての壁も存在しないはずです。神の国が欲しかったら、まずは、「あなたの中にある隔ての壁を壊しなさい!」と言うのが、聖書のメッセージであり、クリスマスは、隔ての壁が壊れ始めた瞬間であったわけです。

 ベドウィンの人たちが最初に福音を聞いて、イエス様が生まれたことを、ユダヤ人たちに伝えました。続いてバビロンのほうの占星術者たちが、ヘロデ王に、ユダヤ人宗教家たちに伝えたのは、民族的な壁を超えなければ受け取ることが出来ませんでした。事実、ユダヤ人たちは良い知らせを受け取る事が出来ませんでした。

 イエス様が地上に来てくださった大きな目的に、民族的壁を越えさせる!という目的があります。民族的な隔ての壁が取り去られるのが、「良い知らせ」として述べられているのです。

 聖書は、旧約聖書から新約聖書に渡り、見事に韻を踏んでいて、一つの軸があります。
 天が開かれ、天が地に接してくる、天からのはしごも、創世記から始まって黙示録まで貫かれている概念です。先週はそのテーマでお話ししました。
 イエス・キリストを信じる時、今まで頭上にかかっていたはしごが変わります。悪しき勢力が上り下りしていたのが、今度は天使たちが上り下りするはしごに変わるのです。天が開かれて、神の国が地上に接して来る、聖書にはそのような大きなテーマがあるわけです。すばらしい喜びの知らせとは、「神の世界が人の世界に下りてくる」ということです。それは神が人と共に住む、新しい天と地の創造にまで進みます。
 「すばらしい喜びの知らせ」が、ルカ二章で知らされましたが、すでにイザヤ書で、イエス様の誕生と、良い知らせが預言されていました。
 イエス様が生まれる七百年前、預言者イザヤが六十一章一節〜三節で、このように告げています。

『神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現す主の植木と呼ばれよう。』

 イエス様が来られて、何が起こるのかを、予めイザヤを通して預言されている箇所です。
 「貧しい者に良い知らせを伝える」とあります。まさしく、良い知らせが最初、羊飼いたち、遊牧民たちに知らされたのは、最も貧しい人たちへの福音です。
 この預言もしっかりと成就しています。続いて、『心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。』とあります。
 羊飼いたちは、国籍もなく、夢も希望も未来もない、最も心傷ついた人たちでした。今でも、ベドウィンたちは、心傷ついている人たちです。イスラエルに行ったら「この人たちは本当にかわいそうですよ。」とガイドが言いました。砂漠に開発プランができると、砂漠にテントを張っている遊牧民たちは、すぐに追いやられてしまうというのです。「どこに追いやられるのですか?」と聞くと、国外に追放されることが多いというのです。ヨルダンのほうに追放されたりすると言うのです。
 今日も、心傷ついている方がおられたら、イエス様の誕生は、心傷ついた者を癒やすためです。

 そして六章二節に、『主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ』と記されています。イエス様が地上に来てくださった目的を、一言で言い表すなら、「主の恵みの年の実現」と言っても過言ではありません。
 「主の恵みの年」とは、以前、何回かに渡ってお話しさせていただきましたが、「ヨベルの年」という、五十年に一度訪れる、特殊な年を意味します。
 イエス様が地上に来てくださったのは、「ヨベルの年の実現」です。

 古代イスラエルでは、ヨベルの年を心待ちにしていました。五十年目に一度、ヨベルの年が訪れるのを、心待ちにしていました。
 安息年が七回で四十九年。その翌年が五十年で、ヨベルの年になったのです。ヨベルの年には、奴隷は解放されるし、先祖から受け継いだ土地を失っても、元の所有者に権利が戻るという、特典付きの年であったのです。
 ヨベルの年を、神はなぜ与えられたのかというと、当時の制度としては、「イスラエルの民と、そこに住む人々の富の再配分をして、富が少数に集中しないようにするための制度」だったというのです。

 私たちの主は配慮のお方ですね。五十年くらい経済活動を継続すると、富が一部に集中して、勝ち組と負け組ができてしまうのです。放っておくと、格差は、どんどん広がるのです。しかし五十年に一度、それらをチャラにして、失敗した人たちも、もう一度、人生をやり直せるための制度が、ヨベルの年でした。
 イエス様が来てくださった目的が、ヨベルの年の実現であることは、一度失敗しても心配ありませんよ!もう一度、やり直すことができます!イエス・キリストを信じるなら、失敗しても立ち上がることができる!という、強力なメッセージです。
 そしてイエス様の誕生が、現代のシステムに対しても、解放と変革をもたらす秘訣なのです。福音には、そのような要素を含んでいるのです。

 現代の聖書学は、昔よりもずいぶん発展し、聖書の理解が深まりました。昔は、救いとは個人の救いであり、永遠のいのちだけだと教会は捉えていました。だから、「人生に大変なことがあっても我慢してね!死んだら天国に行けるから!」というような、理解だったのですが、近年、イエス様が生活された時代的背景などもよく分かって来て、福音とは個人的な永遠の命というレベルだけではなく、社会全体、地球全体、ひいては全宇宙の変革さえも含む、大きなテーマであると、神学の世界でも、盛んに主張されるようになりました。
 現代の社会制度の背後にある暗闇が打ち破られ、イエス様が世界の王となってくださるならば、社会の変革が起こるのです。
 福音は、社会的変革というテーマを含んでいます。ある地域の民族間の壁が打ち破られ、社会制度も変えられるならば、そこは神の国であると言えます。それはヨベルの年の実現です。
 その連続性の中で、イエス様が帰られる道が用意され、やがて主が目に見える形でこの地に帰って来られる日につながるわけです。

 先週、池上彰が、勝ち組と負け組の二極化というテーマで、いろいろと述べていました。アメリカの場合、上位一パーセントの所得はどんどん上がっているのですが、下位九十パーセントの所得は、長年にわたり横ばいだと言うわけです。
 そして、資本主義の社会に、未来はないと話していました。一般の人たちが、一生懸命働いて得られる年間経済成長率は、一〜二パーセントくらいだというのです。
 しかし、上位一パーセントの人たちが、株とか、不動産を運用すると、一年に四〜五パーセント成長するというのです。
 ということは、資本収益率が、経済成長よりも上回っていますから、このまま続いていけば、格差は開くばかりです。金持ちは、さらに裕福になり、貧乏人はさらに貧乏になる社会構造なのです。ピケティというフランスの経済学者が、これを科学的に証明したのです。はっきり言って、私たちの未来に明日はありません。
 ビル・ゲイツという人は、アメリカ一番の富豪です。彼の総資産は、なんと八兆九千百万円です。これがどういう金額なのか、天文学的数字過ぎて想像できないです。株などの運用で一日に何千億も儲ける時もあるというのです。
 世界大戦争があって、全世界が焼け野原になり、ギャートルズの世界に逆戻りしたら、世界は変わるかもしれないけれど、このままでは、どうにもならないのです。

 しかし、イエス様が生まれてくださったのは、ヨベルの年の実現です。今後、私たちの未来に、どんな暗闇が待っているのかしれないけれど、イエス・キリストを信じ従うならば、どんな時代が来ようとも、あなたを「残りの者」として守ってあげますよ!と聖書は告げています。
 どんなに砂漠のような時代が来たとしても、あなたの所に、露を下ろし、夕立を降らし、森の中の獣の中の獅子にしてあげます!と。また羊の群れの中に送り込まれた若いライオンのように、あなたが手を挙げるだけで、敵は倒れるという勝利を、与えてあげます!と約束されています。
 イエス様のお生まれは、このように、深く、広いものです。

 私たちは何気なく、クリスマスをお祝いしていますが、イエス様の誕生は、気まぐれではないのです。地球全体を神の支配に入れるために、主がこの地に大きな計画と目的を持って来てくださったのです。

 最後にみなさんでお祈りしたいと思います。今日は、イエス様がこの地上に来てくださった目的についてお話をさせていただきましたが、まずは、私たちに永遠のいのちを与えて下さった事を感謝し、同時に社会を変える福音であることも理解しましょう。
 私たちの内側に、何か壁があるならば、その壁を取っていただきたいと思います。経済的に苦しみの中にいる方がおられたら、ヨベルの年を与えてください!と祈ろうではありませんか。
 一言、代表して祈らせていただきたいと思います。

 ハレルヤ。天の父なる神様。御名をあがめて、心から感謝をいたします。今日、私たちはここで、イエス様の誕生をお祝いしています。イエス様がこの地上に来てくださり、命を投げ出してくださったのは、私たち個人のためだけではなく、世界を変えようとして、来てくださったことを、心から感謝をいたします。
 隔ての壁が打ち破られますように。神の国が教会のただ中に実現しますように。
 私たちの中に、ヨベルの年を与えてください。今、多くの人々が格差で苦しんでいます。いち早く私たちの所に帰って来て下さい。この世界を変えてください。
 主イエス様の御名によって、聖餐式を祝福します。アーメン。