「義の太陽、イエス・キリスト」
〜そこにはいやしがある〜

2016年12月25(日)
新城教会主任牧師 滝元順
マラキ書 4章1節〜3節

『見よ。その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行う者は、わらとなる。来ようとしているその日は、彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。‐‐万軍の主は仰せられる‐‐しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、いやしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。あなたがたはまた、悪者どもを踏みつける。彼らは、わたしが事を行う日に、あなたがたの足の下で灰となるからだ。‐‐万軍の主は仰せられる‐‐』

 ハレルヤ!ゴスペル・クワイヤーは、本当にすばらしい賛美を聞かせてくださいました。もう一度、私たちのために生まれてくださったイエス様と、ゴスペル・クワイヤーの方々にも感謝して、拍手を送りましょう!
 今日は、クリスマス特別礼拝です。もう一つ、特別なプログラムがあります。それは「子ども聖歌隊」です。
 昨日はクリスマス・フェスティバルがあったのですが、大勢の方々が来てくださいました。私たちが予想していた以上に集まってくださいました。
 また、子どもクリスマス会には三百名も来てくださいました。その時にも歌われた、「Happy Birthday, Jesus!」を歌ってくれます。では、大きな拍手でお迎えください!

<子ども聖歌隊>

 素晴らしい歌でしたね。多少歌詞を忘れちゃったところもありましたが、可愛かったですね。子どもたちから、おじいちゃんおばあちゃんにまで、イエス様は世界中で誉め称えられています。今日は、特に、十二月二十五日です。世界中で、イエス様が賛美されています。イエス・キリストという人物は、ただの人ではないです。神が人となってくださったお方です。クリスマスを共にお祝いできることは、すばらしいです。

 イエス様は、決して、偶然にお生まれになったのではありません。旧約聖書の中で預言されていて、生まれるべくしてお生まれになった方、それがイエス様です。
 今日読んでいただきました聖書の箇所は、マラキ書です。マラキ書は、旧約聖書最後の書です。旧約聖書から新約聖書は、私たちが持っている聖書なら、紙一枚ですが、マラキ書からイエス様のお生まれまでは、四百年のギャップがあります。聖書はマラキ書を最後にして、四百年間、沈黙します。そしてイエス様がお生まれになるわけです。ゆえにマラキ書は、未来に向けて、大きな預言的要素を含んでいるわけです。
 今読んでいただきました四章一節には、『見よ。その日が来る。』と宣言されています。この表現は、確実にその日が来ることを強調しています。やがてイエス様がこの地に再び来られて、この地の悪をすべて一掃し、世界の王となるという、新天新地を預言している箇所でもあります。

 今、世界を見るならば、多くの悪がはびこっています。人間の手では、どうにも解決できない問題ばかりです。クリスマスは、赤ちゃんのイエス様を待ち望むのではなく、やがて来られるイエス様、王としてこの地に帰って来られる、よみがえりのイエス様を待ち望む日にしなければなりません。
 歴史の延長線上に、もう一度、イエス様は姿を現されます。誰の目にも見えるように、主は帰って来られ、世界の王となり、すべての悪を一掃し、この地を治めてくださるのです。

 同時に、イエス様がどのような目的で、初め、この地上に来られたのかが、この預言から分かります。ここで「義の太陽」という言葉が使われていますが、聖書中、ただ一箇所だけ、イエス様のことを義の太陽と表現しています。もう一度、マラキ四章一節から読んでみたいと思います。

『見よ。その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行う者は、わらとなる。来ようとしているその日は、彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。‐‐万軍の主は仰せられる‐‐しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、いやしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。あなたがたはまた、悪者どもを踏みつける。彼らは、わたしが事を行う日に、あなたがたの足の下で灰となるからだ。‐‐万軍の主は仰せられる‐‐』

 二節に、『わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、いやしがある。』とあります。
 実は、イエス様がお生まれになったのは、「十二月二十五日ではない」です。聖書は、イエス様の誕生日が何月何日だとは記録していません。しかし一年、三百六十五日中、どこかがイエス様の誕生日ですから、記録されていないのなら、十二月二十五日をイエス様の誕生日としても、悪いことではないと思います。
 では、どうして十二月二十五日と、決められたのかというと、四世紀くらいに決められたというのですが、ローマ帝国がキリスト教を国教とした事と重なります。
 当時、アジアに強力な騎馬民族がいました。それは、後にモンゴル帝国を形成したフン族という騎馬民族です。彼らがゲルマン人たちを西のほうに追って行ったわけです。その結果、ゲルマン人たちはローマ帝国に逃げ込みました。
 当時、ゲルマン人の宗教はミトラ教といい、太陽を神として拝んでいる人たちでした。どこかの国と、よく似ています。日本は国旗が日の丸で、アマテラスという太陽神を拝んでいます。これは日本だけでなく、ヨーロッパ、特に寒い地方では太陽を拝む宗教が流行っていました。ゲルマン人たちはローマに来ても、太陽を拝むことを真剣にしていたわけです。
 そんな中、ローマ帝国が、キリスト教を国教と定め、権力でゲルマン人達を改宗させようしたわけです。力ずくで改宗させると、いろんな問題が起こります。それでローマ帝国は、ミトラ教の人たちは十二月二十五日を、太陽再生の祭りの日として大切にしていたので、この日をキリストの誕生日と重ねたわけです。
 冬至までは日照時間が短くて、このまま昼間がなくなってしまうのではないかと思うのですが、冬至から徐々に日が長くなります。それで太陽再生の記念日として、ゲルマン人たちは十二月二十五日に太陽を拝んでいたわけです。
 そんな人たちに対して、「十二月二十五日をイエス・キリストの誕生日としなさい!」と強制的に、キリストの誕生日としたようです。それが定着して、今日に至るわけです。
 太陽礼拝は間違いです。太陽は神ではありません。太陽を造られた創造主がおられるのです。太陽を神として拝む日を、義の太陽、イエス様の誕生日として置き換えたのは、政治的な策略があったにせよ、結果的に、偶像礼拝を勝ち取ったという意味合いもあると思います。
 私たちがクリスチャンになる為には、日本のアマテラスのような太陽礼拝を乗り越えて、義の太陽、イエス様を信じる必要があります。十二月二十五日がイエス様の誕生日とされたのは、結構、意味深と思います。

 どの国の宗教も、権力が関わって国教となります。ローマ帝国も皇帝とローマ・カトリック教会が関わって、キリスト教が国教となりました。しかしキリスト教の凄いのは、原点においては、ベツレヘムという貧しい村に生まれ、ナザレという村で育ったイエス様が、三十年間はほとんど人前に出ず、最後の三年間だけで今や、世界を変えた事です。クリスマスは世界中で祝われています。日本なんか、仏教国ですから、なぜクリスマスをお祝いするのかと思いますが、釈迦の誕生日なんかよりもずっと、イエス様の誕生日のほうが有名です。これって、すごいことです。

 世界宗教は、なんといっても、キリスト教です(近頃はイスラムもかなり勢力を伸ばしていますが)。私はキリスト教を宗教と表現したくないです。なぜなら、本物の神がおられ、その方を信じるのは、宗教ではなく当然のことですから、宗教と言いたくないのです。しかしあえて、宗教というジャンルで表現するなら、キリスト教は世界宗教です。
 キリスト教は、権力によらず、能力によらず、聖霊によって拡大したのです。

 イエス様がお生まれになったのは、今から二千十六年前になるわけですが、西暦の原点が少しずれているとも言われますが、当時、イスラエルに、どんな支配があったかというと、世界史を勉強した方ならおわかりのように、ローマ帝国が地域を支配していました。イスラエルはローマ帝国の植民地でした。
 十一月にイスラエルに行って、イエス様時代の歴史について、いろいろと学ばせていただきました。ローマはイスラエルを三分割して、それぞれに支配者を置いて、統治していたことを学びました。世界帝国の歴史は、バビロニア帝国から始まり、メド・ペルシャ、ギリシャ、次にローマ帝国が当時の世界を支配したわけです。

 マラキ書は、イエス様がお生まれになる、四百年前に記された書物であると話しましたが、旧約聖書が書き終えられ、新約聖書に入るまでの四百年の空白の時代は、「ギリシャ帝国」がイスラエルを支配していました。
 聞いたことがあると思いますが、アレキサンダーという、ギリシャの王が出て、東西の文化を融合させ、世界をギリシャ文化で支配しようとしたのです。その時代のことを、「ヘレニズム時代」などとも呼びます。ギリシャ的な町が、世界中に出来たのもこの時代です。
 日本に仏教が伝わりましたが、最初の仏像はギリシャ人の顔をしています。ということは、インドにまで、ヘレニズムの勢力が及んでいたことを意味します。その時代はギリシャ神話の神々の最盛期でした。御多忙に漏れず、イスラエルも、ギリシャ神話の神々に乗っ取られていた時代でした。当時のイスラエルがユダヤ教だったと単純に考えるのですが、支配者の持ち込んだ神々は強いですから、ローマ神話は、ギリシャ神話をそっくり使ったもので、ギリシャ神話の神々がパレスチナに満ちていました。
 もちろん、イスラエルには、ユダヤ教に熱心なパリサイ派とか、サドカイ派というような人たちもいたのですが、一般民衆は支配者の持ち込んだ宗教に傾倒していたわけです。イエス様は、ギリシャ神話の神々が満ちているただ中にお生まれになり、育たれたということです。
 新約聖書には、そういう情報はあまり含まれていないのですが、当時のことをよく調べますと、イスラエルにも多くの偶像があったことが分かります。

 当時、民衆の心を捕らえていたギリシャ神話の神がありました。それが何かというと、いやしをもたらすという触れ込みの神で、その名を「アスクレピオス」と言いました。

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一般民衆は病気になると、アスクレピオスにいやしを求めました。
 「アスクレピオスなんて初めて聞いた。知らないぞ!」と言うかもしれませんが、アスクレピオスは、現代の日本にも大きな影響をもたらしています。
 救急車に乗ったことがありますか?

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 救急車のマークは以前、赤十字だったのですが、この頃、なにやら変なマークに変わっています。 杖に蛇が巻き付いているマークです。アメリカの救急車も同じマークです。これはアスクレピオス神です。日本医師会のバッジも蛇が巻き付いたアスクレピオスです。現代医療もアスクレピオスを基礎にして成り立っているところがあるので、とりなして祈らなければなりません。

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 なぜ、このマークが現代でも採用されているのかと言えば、そのくらい、当時、アスクレピオスが猛威をふるっていて、人々は病気になれば、皆、アスクレピオスにいやしを求めたからです。

 実は、新約聖書の中にも、その情報があります。イエス様がエルサレムに上られた時の話ですが、ヨハネの福音書五章一節〜九節、

『その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。その中に大勢の病人、盲人、足のなえた者、やせ衰えた者たちが伏せっていた。そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。』

 イエス様がベテスダの池に行かれた記事があります。この写真はイエス様の時代のエルサレムの街の模型です。

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 左側に見える大きな建物は、ユダヤ教の神殿です。その右側に五つの回廊がある建物がありました。そこがベテスダの池であり、アスクレピオスを祀る神殿でした。イエス様は、異教の神々の神殿のただ中にも入っていかれたのです。

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 現在、ベテスダの池が発掘されて、廃墟が残っています。病人が飛び込むと治ると信じられていた、ギリシャ神話と民間宗教が重なった神話があったみたいです。今、この場所に行ってみますと、およそ飛び込みたくない汚い池です。ここからも分かるように、聖書は、神話ではなく、歴史的事実の上に成り立っているのです。
 イエス様は、この場所で、三十八年間も床について動けない男をいやされました。

 先ほども話しましたが、宗教がすべての国民に受け入れられるためには、第一に権力者が関わらないと無理です。当時、ギリシャ神話の神々が満ちていたのは、ローマ帝国という権力のゆえでした。
 しかしイエス様は、田舎から出て来た、政治的権力を全く有しない男でしたが、アスクレピオスに行く人々の心を一瞬で塗り替え、救い主として信じさせたのです。そして今や、世界宗教にまでなったのです。これは何が言えるのか?それはイエス様を通して、当時、すさまじいいやしや奇蹟が起こったことを意味します。そのようなことがない限り、絶対に人々の心を変えるのは不可能です。
 当時の権力者が持ち込んだ宗教さえも、一瞬で塗り替えてしまうほどの、すごいいやしや奇蹟をイエス様はおこなわれたのです。まさしく、それはマラキの預言の成就でした。イエス様は、義の太陽のように現れ、その翼にはいやしがあったのです。人々は実際に、イエス様の行われたいやしや奇跡に接して、権力者が持ち込んだ神々を捨てて、イエス様の所に行ったことを意味します。
 イエス様はいやし主です。昨日も今日も変わらないイエス様は、今日もこの場所で、いやすことができるお方です。

 マタイ、マルコ、ルカの福音書は共観福音書と呼ばれています。同じような視点からイエス様の生涯を描いているのですが、そのストーリー中、五十話はいやしのストーリーだそうです。そして、弟子たちが行った奇蹟や、並行記事を含めると、なんと、百五話に及ぶいやしのストーリーがあるというのです。
 イエス様が地上におられた時の仕事は、「病人をいやす!」働きでした。

 イエス様はこの地上に、いやし主として来てくださったのです。今日、もしもいやしを必要としている方がおられたら、イエス様はいやすために来て下さったことを、堅く信じようではありませんか。
 先週もイザヤ書六十一章を読ませていただきましたが、イザヤ書六十一章一節〜三節、

『神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現す主の植木と呼ばれよう。』

 イエス様がこの地上に来てくださった第一の目的に、『心の傷ついた者をいやすために、』とあります。心の傷のいやしも、病のいやしと深くつながっています。

 イエス様がベテスダの池に行かれた時、三十八年間、床についていた男をいやされました。
 ベテスダの池には、一つの伝説がありました。時々、池の水がかき回される時がある、それは、天使が下りて来て、水をかき混ぜているから、最初に飛び込んだ病人は治るという伝説でした。五つの回廊には、聖書が記録しているように、大勢の病人、盲人、足のなえた者、やせ衰えた者たちが伏せっていたというわけです。いつ水が動くのか、いつ水が動くのかと、その瞬間を待ちながら、病人たちのたまり場となっていたのです。
 しかし、ベテスダの池を調べてみると、なぜ水が動いたのかその理由が分かります。ここは、ガイザーと呼ばれる、「間欠泉」が吹き出す場所だったのです。

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 昔は、そんなことは分かりませんから、天使が水をかき混ぜていると考えたわけです。下からガスが吹き出して、水が泡だった時、「それ!飛びこめ!天使が来たぞ!」と人々はやっていたわけです。本当に治ったのかどうかは知りませんが、みんなその現象が起こると、我先にと飛び込んでいたようです。たぶんこんな感じではなかったかと思われます。

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 この場所に来て、すでに三十八年も経った男がいたのです。イエス様は、その男に、「よくなりたいか?」と質問されています。よくなりたくなかったら、ここにいるはずがないです。三十八年です。三十八年前って、何をされていましたか?私の三十八年前は、二十代です。
 この男は、いやしを待ちわびて、待ちわびて、アスクレピオスの神殿で過ごしていたわけです。「よくなりたい!」という、強い願望がなかったら、この場所にいるはずがないです。そんな彼に、イエス様はあえて、「よくなりたいか?」と質問されているのです。
 しかしこの男は、素直に、「よくなりたい」とは答えませんでした。

『病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」』

 ここは病人でごった返していましたから、最初に水が泡立った時に飛び込むことができる病人なんて、「病人の中でも一番健康な人」だったと思われます。元気じゃなかったら、こんな池に一番に入ることはできません。
 一方、この男は、病人たちの集団の中で、最もあわれな、名物男だったかもしれません。三十八年も、みんなが飛び込んで行く姿を見ていた、最も弱い男であったと思われます。なんとイエス様はその男に近づいて、「よくなりたいか?」と聞かれたのです。これ、すごいじゃないですか。

 聖書って、宗教的な読み方をしなくても、本当に価値観、世界観がいいです。普通はどうですか。人間って、自己中心ですから、自分が病気ならば、最初に池に飛び込みたいと思うのが普通だと思います。「我先に!」という考えです。
 世の中の宗教は、我先に神々から祝福をもらおう!という考えです。また祈りを受け取る神々らも、その考えを肯定していて、最もお金を積んだ者、大きな犠牲を払った者、最初に飛び込んだ者はいやしてやる!という宗教ばかりです。

 しかし、イエス様は、なんと、最もみじめな、希望のない、よくなりたいか?と聞かれても、よくなりたいとさえ答えることができない男の所に来られたのです。私たちが信じる神様は、愛なるお方であることがよく分かります。
 私たちが信じ、礼拝している神様は、決して努力や犠牲、生け贄を要求される方ではありません。最も傷ついて、倒れて、他人はいやされていくけれど、私だけ、全然いやされない、省みられないという人の所に来て下さるのです。

 今、高校受験とか、大学受験でがんばっている人が多くおられますが、学校は、よくできる人から入学させてくれます。私はそれはおかしいと思います。勉強ができない人を、できるようにしてあげるのが教育です。できない人達から入学させる学校を作りたいです。
 でも世界はそうではないです。できる人にはちゃんとした教育を施すけれど、できない人は、自分で生きていってね!と見捨てられるような社会です。
 しかし、イエス様は違うのです。できないほうから採用してくださるお方です。今日、みなさんの中で、「私は駄目だ!夢も希望もない。ビリかもしれない!」そんな人がいたら、あなたの所にイエス様は来て、「よくなりたいか?」と聞いてくださるのです。

 この男は、三十八年間、アスクレピオスの宮に床を布いていました。イエス様が、「床を取り上げて歩きなさい!」と言われましたが、この「床」とは、言い換えれば、「彼の人生そのもの」であったわけです。「床を取り上げる」とは、彼の人生が全く変わってしまうことです。イエス様の権威ある言葉を通して、なんと、男が床を取り上げ、歩き始めたのです。すごいです。
 しかしこれは、すでに、マラキが預言していた事でした。「義の太陽が上る時には、その翼にいやしがあって、あなた方は外に出て、牛舎の仔牛のように跳ね回るようになる!」と、預言していた通りのことが、なんと、偶像の神殿のただ中で起こったのです。

 日本も、病気になったら偶像の所に行って、いやしを求める人が多くいます。本当の神様が分からなければ、しょうがないです。それしか神はいないと思っていますから。
 でも、イエス様は、「あんたは偶像を拝んでいるから、いやしてあげないよ!」とは言われません。「もっと努力したらいやしてあげますよ!」とも、言われません。一番しんがりとなっているような人の所に来て、よくなりたいか?と聞き、よくなりたいとも答えられない人を癒やされるお方です。イエス様のいやしは、どんな場所でも、完璧に行われるいやしです。

 福音書の中に、イエス様が行われたいやしの奇蹟は、五十話にも上ると話しました。並行記事なども含めると、百五話にも上るというのです。
 イエス様が行われた奇蹟を、病名で分析すると、百五話中、四十八話が、「汚れた霊からの解放」という、病の背後に、暗闇の力が関わっていた事を意味しています。悪しき力からの解放がいやしにつながっているのです。

 イエス様が地上に来てくださった目的は、「囚われ人を解放し、囚人には釈放を告げるため。」と預言されています。
 マラキは、「牛舎の仔牛が飛び跳ねるようになる。」と預言しています。「牛舎」とは、牛たちを押し込め、閉じ込めておく牢獄のようなものです。牛舎の中に閉じ込められた牛は、周りを囲われていますから、飛び跳ねたくたってできないです。でも、牛舎が壊れたら、外に出て、飛び跳ねることができるのです。

 まさしく病の中に閉じ込める牛舎があるのです。三十八年間、アスクレピオスの背後に働く悪霊どもに囚われていた男が、牢獄から解き放たれて、外に出て飛び跳ねることができたのです。いやしが、霊的戦いと共にあるということを、聖書は教えており、偶像の背後に暗闇が関わっていることも教えています。三十八年間、病に伏せていて、どこにも希望がない、どうにもならない最後の列に着いていた人の所に来て、いやされた箇所から、神の愛を知ることができます。

 ご一緒に、祈りの時を持ちたいと思います。今日、病の方がおられたら、いやしの翼が覆ってくださるように。病が家族を覆っていたら、いやされるように、祈りの時を持ちましょう。
 最後に、もう一度、み言葉を宣言したいと思います。

『しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、いやしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。あなたがたはまた、悪者どもを踏みつける。』

 ハレルヤ。天の父なる神様。御名をあがめて心から感謝します。今日は、いやしの日であることを、心から感謝します。あなたが、ベテスダの池に来てくださり、男を解き放たれたように、日本に主が来てくださり、解き放ってください。特に、長い間、病で苦しんでいる方々がいやされ、解放されて、義の太陽と、いやしの翼が現れるクリスマスにしてください。今日は、天を開いてください。病からいやされて、健康で長生きしますように。
 ここは、あなたの水が動く場所であることを宣言します。ベテスダの池のような、悪しき水が動く場所でないことを宣言します。すべての病をいやし、奇蹟を起こしてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン