「-2017年- あなたは良いもので満たされます!」

2017年1月1(日)
新城教会主任牧師 滝元順
詩篇103章1節〜5節

『わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、鷲のように、新しくなる。』

 ハレルヤ!新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。
 聖歌隊の賛美、本当に恵まれました。主の御名をほめたたえ、主に拍手を捧げたいと思います。主よ感謝します!アーメン。
 聖歌隊の方々は、この一曲を仕上げるために、半年ぐらい前からずっと練習されていました。いつも賛美してくださっている、聖歌隊の皆様に感謝して、拍手をしましょう。また続けて、よろしくお願いします。

 「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」と、あります。そうすると、『あなたの一生を良いもので満たされる。』とあります。「一生」とは、「一回生きる」と書きます。一回だけの人生を良いもので満たす秘訣は、「主が良くしてくださったことを忘れないで感謝する」ことです。
 それと共に、『主をほめたたえよ。』とあります。心から、主をほめたたえ、主が良くしてくださったことを感謝する時、結果として、一生は良いもので満たされるのです。

 二〇一六年、主が良いことをして下さいました。「数えてみよ、主の恵み。」とありますが、人間って、悪いことはよく覚えています。悪いことは、百年くらい前のことでも覚えています。人間が千年生きる動物であったら、たぶん、千年前の悪いことも覚えていると思います。しかし良いことは、三日くらいで忘れてしまうことが多いのです。
 そういう中で、あえて、主に感謝することが、良いもので満たされる秘訣です。

 昨晩も、ここで、カウントダウンワーシップがありましたが、大変恵まれました。その中で、二〇一六年に、新城教会で行われた様々な集会や、働きのダイジェストの映像を見させていただきました。それを見ながら、本当によくやったものだと思いました。心から、主に感謝の時を持ちました。今からみなさんに、もう一度その映像をお見せします。主が良くしてくださったことを思い出しながら、ご覧になっていただきたいと思います。それでは、よろしくお願い致します。

<2016年のダイジェスト映像>

 ありがとうございました!主に大きな感謝の拍手をしましょう!昨夜の写真まで入っていましたね。一年間、教会におきましても、いろいろな活動がなされましたが、すべて守られ、祝福されたことを心から感謝します。主が良くしてくださったことを、よく記憶して、心にとめ、感謝することは、幸せに生きる秘訣です。今年も主が良くしてくださったことを忘れないで、生きていきたいと思います。

 昨晩は、一緒に働いている五名の牧師先生方が、メッセージを語りました。
誰も未来のことは分かりません。神様しか分かりません。なぜなら、神が人間の未来を隠しておられるからです。分かったら、気が気ではありませんよね。今日、何が起こるのか、明日、何が起こるのか分かったらたいへんです。「明日死ぬよ!」とか、わかっていたら、人生は楽しくないです。だから、神は未来を隠しておられるのです。
 しかし聖書は、みことばは、ともしびであり、道の光だと告げています。夜道を歩く時、フラッシュライトを使うと思います。フラッシュライトは、十キロ先までは照らすことは出来ません。せいぜい百メートルくらいでしょうか。でも普通は、足下を照らすのです。それだけで夜道を歩くのには十分です。次の一歩先を確実に照らせば、安全に歩むことができます。
 教会とは、次の一歩をどの方向に出したらいいのかを、主から教えていただく場所です。なぜなら、毎週、聖書のみ言葉から学んでいるからです。

 同時に、聖書は、人類の歴史の全体像をも提示しています。いつも話していますが、聖書は、「天地創造から、新しい天と新しい地の創造」を目指しています。私たちは、神の壮大な物語の一コマとして、主の夢を実現するために、地上に置かれています。そんな大きな枠組みを知りながら、ゴールを目指して、一歩一歩、確実に足を進めて行くならば、安全に歩むことが出来るはずです。

 そんな中、今年、主がどのような導きを、私たちに対して持っておられるのか、五人の先生が語ってくれました。私は最初の礼拝の時に、それをまとめる役割をしています。
 昨夜、最初にメッセージを語ってくれたのは、滝元開先生でした。

 私が今から話すことは、語られたメッセージのダイジェストのダイジェストですから、後日、先生方が語ったメッセージがまとめられますから、それをよく読んで、ご自分でも趣旨をまとめていただきたいと思います。彼はルカの福音書十二章三十五節〜三十六節から語りました。

『腰に帯を締め、あかりをともしていなさい。主人が婚礼から帰って来て戸をたたいたら、すぐに戸をあけようと、その帰りを待ち受けている人たちのようでありなさい。』

 これはイスラエルの結婚式と関連ある場面ですが、同時に、「主人が帰って来る」というテーマは、やがてこの地上にイエス様が帰って来られる日を預言的に述べています。
 ここで要求されていることは、「主人が婚礼から帰って来て戸をたたいたら、すぐに戸をあける為に、準備しろ!」と告げています。主人とは、「イエス様」ご自身です。そして、戸をあける、しもべの役割が「教会」です。やがてイエス様が帰って来られますが、その時、教会が眠りこんでいたり、クリスチャンたちが眠り込んでいたら、戸を開けることはできません。主がお帰りになる鍵は、内側にあるのです。倉庫などの鍵は外側からかけますが、家は、内側から鍵をかけます。イエス様のお帰りは、内側、すなわち、「クリスチャンと教会」が、鍵を開ける役割であるということです。
 現代は、イエス様が帰って来られる寸前だと思われます。なぜなら、人類は行き詰まっているからです。世界に起こっている事実を知ったら、夜も眠れなくなってしまうくらいだと思います。そのくらい危機が人類に迫っています。残念ながら、人類の問題を解決出来る人間は存在しません。地球を造った神が、「もう人類は終わり!」と、リセットしてもらうしかないです。それがイエス様のお帰りです。
 「腰に帯を締め」とあります。それは仕事の服装です。夜寝る時は、帯をほどき、着替えて眠ります。仕事の時は、現代風に言ったらベルトを締めて働きます。夜であっても、仕事ができる体制にしておきなさい!ということです。

 今年、イエス様が帰って来られても、すぐに戸を開けることができるよう、準備をしなければならないことを感じます。

 次にメッセージを語ってくださったのが、岡本信弘先生でした。
 エペソ人への手紙一章十一節〜十二節から語ってくれました。

『この方にあって私たちは御国を受け継ぐ者ともなりました。みこころによりご計画のままをみな行う方の目的に従って、私たちはあらかじめこのように定められていたのです。それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえるためです。』

 私たちクリスチャンは、「御国を受け継ぐ存在」だというのです。神様の子どもとして神の国を相続するのです。そのために、私たちは選ばれたのです。すごい立場じゃないですか。
 私たちは、どこに属している者なのか、それは、日本国に属しているのではなくて、国籍は天にあるのです。

 人生は、自分のためのように思いますが、そうではなく、私たちは、神が持っておられる計画を実現する、実行部隊なのです。
 以前、天野先生がここに来て下さった時、「イエス様がこの教会に語られていることがありますよ。」と、預言的な言葉を語ってくれました。それは、「わたしの夢を叶える教会になってほしい。」と語られました。本当にそうだと思います。私たちは自分の夢を叶えるのではなく、イエス様の持っておられる夢を実現するために、存在しているのです。
 教会に来られている方々の職業は幅広いです。年代も、子どもたちからご老人まで、仕事も、社会のほとんどの職業が教会の中にあるように思います。しかし、それぞれの働きは、主が帰って来られる道を用意する、主の夢を叶える実行部隊として存在しているのです。それがすなわち、「主の御名をあがめる」ことにつながるのです。

 続いてメッセージを語ってくださったのは、四元雅也先生です。ダニエル書二章二十節〜二十三節から語りました。

『ダニエルはこう言った。「神の御名はとこしえからとこしえまでほむべきかな。知恵と力は神のもの。神は季節と時を変え、王を廃し、王を立て、知者には知恵を、理性のある者には知識を授けられる。神は、深くて測り知れないことも、隠されていることもあらわし、暗黒にあるものを知り、ご自身に光を宿す。私の先祖の神。私はあなたに感謝し、あなたを賛美します。あなたは私に知恵と力とを賜い、今、私たちがあなたに請いねがったことを私に知らせ、王のことを私たちに知らせてくださいました。」』

 ダニエルという人物は、ユダヤ人でした。しかし若き日に、バビロニア帝国に捕虜として連れて行かれました。
 けれども当時の世界大国、バビロニア帝国を変えるほどの働きをしたのです。
 ダニエルの時代的背景は、ユダ王国にヨシヤという王様がいましたが、この王の時代に幼少時代を過ごしたのです。ユダの王、ヨシヤは、偶像礼拝が続いていた国を改革して、リバイバル運動を行った王様でした。国から偶像を排除し、国を聖めて、国を神の元に導いた偉大な王様でした。その時代に、エレミヤだとか、エゼキエルのような預言者も一緒に活動しました。そんな時代的背景で、ダニエルは幼少期を過ごしたというのです。
 そんなダニエルを、神は後にバビロニア帝国で、偉大な者として用いたのです。

 新城教会も、リバイバル運動から始まりました。特に一九七〇年から、父と田中先生がリバイバル運動を始めて、そこで私も育ちました。以来、リバイバル運動は継続され、現在の若者たちも育っています。そして神は、リバイバル運動の中で育てられた若い世代を用いるというのです。
 私は今年、六十六歳です。先はそう長くないと思うのですが、これから新城教会で用いられるのは、若い世代です。また、若い世代が主のために仕え、用いられなければならないのです。
 私はクリスチャン二世で、牧師二代目ですが、父が始めた仕事を曲がりなりにも受け継いで、ここまでやってきました。でも、次の世代がそれを受け取らないといけないのです。先ほど司会をしてくださった信弘先生とか、皆、二代目の世代です。
 二代目もだんだん歳を取って来ました。今度は、さらに若い人たちを使われるのです。
 ダニエルは、何をしたかというと、当時の大国の王、ネブカデネザルが見た夢を解き明かしたのです。ネブカデネザルが見た夢とは、金の頭から鉄と粘土の混じった足首の巨大な像に小石が飛んで来て、像が粉々に砕け散る夢でした。王様は、全く夢の意味が分かりませんでした。しかしユダ王国から連れて来られた、ダニエルが、その意味を正しく解き明かしたのです。
 そのことによって、夢が、単なる夢ではなく、将来を指し示す「情報」に変えられたというのです。すごいことですよね。
 神はダニエルに、「知恵と知識の賜物」を与えたのです。彼はその賜物を用いて、夢を解き明かしたゆえに、単なる夢が、人類にとって重要な情報となり、永遠を指す、大きな預言となったわけです。
 特に、リバイバル運動の中で生まれ育った若者たちには、その使命があります。日本のリバイバルや、主が帰って来る道を備えることが、単なる夢のようであったかもしれないけれど、夢で終わらせてはいけないのです。知恵と知識の賜物によって、リバイバルを実現しなければいけないと語られました。大変すばらしいメッセージでした。
 コリント人への手紙第一、十二章に、賜物の事が述べられていますが、最初に述べられている賜物が、「知恵と知識の賜物」だというのです。これは、ダニエルに主が知恵と知識の賜物を授けたところに通じます。
 今年は主から知恵と知識の賜物をいただき、主が持っておられる夢を実現するために働いていきたいと強く思わされます。

 続いて、メッセージを語ってくださったのが、公畑フェルナンド先生でした。
 彼が引用したのが、ヨハネの黙示録二十一章五節でした。

『すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」』

 このみ言葉の中から、「書きしるせ。」という言葉をキーワードとして、主が与えてくださった夢を実現するために、具体的に目標を設定して、それに向かって歩む必要性について語られました。
 今年は、一人一人が成熟、成長し、人格的にも霊的にも、すべての面において成長しようと熱く語ってくれました。
 神様が全部やってくれるから、放っておけばいい!のではなく、知恵と知識の賜物をもらって、実現しなければならない事柄を具体的に受け取り、目標を設定して歩まなければならないのです。
 新城教会には六十五年以上の歴史があります。しかし振り返れば、主がその時代、その時代に、目標を与えて下さっていた事が分かります。その目標は、人間的には実現が難しい、大きなものばかりでした。自分でなんとかできる物は神様から来た目標ではないとも語られました。神様は私たち一人一人に、「挑戦するのは大変だな・・・」というような目標を与えられるのかもしれません。それを聖霊によって受け取り、チャレンジしなければいけないのです。私たちはチャレンジャーにならなければならないのです。

 時代が過ぎると、だんだんチャレンジ精神が失われる傾向があります。初代の人たちは、何もありませんから、やることはすべてチャレンジしかありません。私の両親の時代、何もない所から教会を始めましたから、やることすべてが挑戦でした。小さな目標ではどうにもなりませんから、大きな目標を掲げて、できるかできないか分からないけれど、信仰によってチャレンジする精神で教会は始まったのです。それは、どこでも同じだと思います。
 しかし、二代目とか、三代目、四代目になると、だんだんと環境が整いますから、別に努力しなくても大丈夫です。「どうってことないよ!すべてうまく行くよ!」と考えます。それは環境が整っているからです。しかし、新しい世代がどのくらいチャレンジするかで、将来は変わるのです。
 今日、私たちはすばらしい会堂で礼拝していますが、この会堂は一九八〇年に建ちました。ということは、今年で三十七年目です。三十七年も経った古い建物なのですが、今でも新会堂と呼んでいます。すばらしい会堂です。
 三十七年前にこの会堂を建てるのは、相当大きなチャレンジでした。当時、教会に集まっていた人数も少なかったし、教会も発展していない中で、将来を見越してこの会堂を建築するのは、相当なチャレンジでした。でも、あの時、チャレンジしなかったら、今日はないのです。
 しかし今は会堂建築なんて必要ありません。別にそのために一生懸命献げることも、祈ることも、別に必要ないのです。なぜならば、すべて整っていますから。これ以上、何が欲しいの?という感じです。
 今では、印刷所も、神学校も、老人ホームから、デイサービスから、レストランまで、何から何まであります。これ以上、あなたたち、何が欲しい?と言われるでしょう。
 しかし、このように整った環境の中で、主から目標をもらってチャレンジできるか否かが、未来を決めるのです。それは人間的にではなく、聖霊によって目標をいただかなければいけないのです。
 今年は主からの幻をいただいて、それを実現するために、歩んでいきたいと願っています。

 最後にメッセージを語ってくださったのは、上條実先生でした。ローマ人への手紙九章九節。

『約束のみことばはこうです。「私は来年の今ごろ来ます。そして、サラは男の子を産みます。」』

 毎日の聖書通読の中で、この短い言葉が、ひらめきとして主から与えられたというのです。
 み言葉を主からいただいた経験はありますか?聖書って、本当に不思議な書物です。二千年も前に書き終えられた古文書です。日本の古文書といったら、古事記とか日本書紀です。あれらはそんなに古くないですが、ああいう書を読んでいて、「古事記が私に語りかけた!」なんていうことはあり得ません。また、毎週発行される週刊誌を読んで、「週刊誌が私に語りかけて来た!」なんてことがあったら、病院に行ったほうがいいかもしれません。
 しかし聖書ってすごいです。読むと、なんと個人的に、語りかけて来ます。そんな経験がクリスチャンならあると思います。
 「主よ、私に、み言葉から語ってください。」と祈りながら聖書を読んでみてください。生きた言葉として、主が私たちに語りかけるのです。
 そのようにして、上條先生はこの言葉をもらったというわけです。

 それで、アブラハムの一生について学んでみたというのです。アブラハムは、七十五歳の時に、定住していたハランの地で、神の声を聞くのです。「あなたを祝福します。あなたから将来、海辺の砂くらいの人たちが生まれ出ます。あなたが祝福の基となる。」と聞いたわけです。
 しかし、アブラハム、当時はアブラムと呼ばれ、奧さんの名はサライでした。二人の間には、子どもがいませんでした。子どもがいないのに、多くの国民となるなんて、そんなのありえない!ということです。すでに七十五歳でした。
 彼はそのような言葉を主から受けたのです。それでハランから旅立って、今のカナンの地に入って来たわけです。シェケムに来て、ベエル・シェバに住んで、彼は行動を開始するわけです。
 しかし、待てど暮らせど、神様が語った言葉は実現しませんでした。奧さんはどんどん年を取って子どもが生まれる可能性なんでありえない!という感じでした。
 彼が八十六歳になった時、しびれをきらせて、「神は約束されたけれど、何も起きない!」と。そこで彼らには、ハガルという奴隷の女がいたわけですが、奴隷の女に子どもを産ませました。これは人間的な行動でした。そこで生まれたのが「イシュマエル」でした。
 けれども神は、「あなたに約束したことは、必ず実現しますよ!」と語り続けたのです。しかし、実際には、そう簡単には実現しなかったのです。あきらめてイシュマエルが跡継ぎになるのかもしれないと思っていたら、なんと、アブラハムが九十九歳の時に、奧さんが妊娠して、アブラハムが百歳の時に、彼は初めての正式な夫婦の間に出来た子どもイサクを抱くことになったのです。なんとこの間、「二十五年」という歳月が経っていたのです。

 神が、「約束を実現しますよ!」と語ったとしても、すぐには実現しないことって、結構多いと思います。私も牧師という仕事をさせていただいていますが、時々、神様に文句を言いたくなる時があります。「神様、こんなに一生懸命祈っているじゃないですか!ずっと祈っていますよ!でも、なんで答えが来ないんですか!」とね。祈って祈って祈りまくって、祈り疲れたということが、多々あります。
 どうも、神様の時間の流れと、私たち人間の時間の流れとは違うのです。長いこと待つ中で、神様は私たちを聖め、練って、忍耐を学ばせ、人格的にも成長させ、スイッチをオンにしてくださるのです。
 アブラハムに対する約束が実現したのは、二十五年後だったと語られました。

 私は昨日のメッセージを聞きながら、二十五年後かと思って、一九九二年に聖霊が注がれた時のことを思い出しました。あの時、主が確実に、「あなた方にリバイバルを与えてあげますよ!」と語られました。そして、霊的戦いを始められたのです。霊的戦いは私たちが始めたわけではないです。イエス様が始められたのです。主が立ち上がられたのです。私は、「主が立ち上がられた日」という本を書きましたから、是非読んでいただきたいと思います。「霊的戦いというのがあるみたいだよ。やってみようか・・・」では、全くなかったです。突然、主が訪れられて、戦いが始まりました。それは私たちの世界観にはなかった出来事でした。その時、「この延長線上にリバイバルがある!」と語ってくださいました。

 しかし、それから結構長い年月と時間が経ちました。私はメッセージをメモっていたのですが、メモ用紙の端っこで、引き算をしました。今年は二〇一七年です。聖霊が注がれて霊的戦いが始まったのが一九九二年ですから、二十五年じゃないか!と思ったのです。
 計算の答えが出た時、上條先生が言いました。今回、祈っている時に、「二〇一七年は、アブラハムに約束が実現した二十五年と重なる年だ!だから、今年、あなた方は信仰を持って、わたしの前に出なさい!」と、主が語ってくださった!と。だからローマ書九章のみ言葉が稲妻のように来て、数日間頭の中をぐるぐる回って離れなかったのだと最後に語りました。
 私はそれを聞いて、厳粛な思いになりました。時に、約束が実現しないことでがっかりすることがあります。しかし絶対に、がっかりしてはいけないです。私たちの主は真実なお方です。約束したことを、必ず、神様のタイミングで、ベストな時に実現してくださるのです。
 二〇一七年、教会はアブラハムと重なる二十五年目を迎えました。主が何かを計画されているのではないか?と心が躍りました。

 今年に期待してください。期待する中で、主と出会うことができることを聖書から学ぶことができます。いつ主人が帰って来るのか、待ち構えていなければいけないのです。毎日、帯を締めて、主のお帰りを待ち望む者でなければならないと教えられました。

 私自身に与えられたみ言葉の一つは、先にお読みした、詩篇百三章一節〜五節です。

『わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、鷲のように、新しくなる。』

 特に五節の『あなたの一生を良いもので満たされる。』という箇所が心に響いています。「二〇一七年、あなたは良いもので満たされますよ!」という印象を与えられています。
 最初私は、このみ言葉を受け入れることができませんでした。なぜならば、二〇一七年、考えてみれば、良いもので満たされるなんて、人間的には期待できないからです。
 どうでしょうか。「今年あなたは良いもので満たされますよ!」と言われても、高度成長時代ならまだしも、このご時世では、「でまかせを言うな!」と怒られてしまいそうです。

 現実を見ると、二〇一七年って、否定的な、大変な一年になるのではないかと思われます。まず、日本で危惧されるのは、「地震」だと私は思います。年末にこんな報道がなされていました。三・一一以後、地震の回数は減ったのですが、二〇一六年は、震度五弱以上の地震が「三十三回」あったというのです。

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 地震が起きたら、私たちの生活はその瞬間、一変します。直後から、全く生活は変わるのです。だから真剣に守りを祈らなければなりません。道路は寸断し、流通は全てストップします。家は破壊され、自宅に住むこともできなくなります。日本のどこで巨大地震が起ってもおかしくない状況です。
 昨年、震度五弱以上の地震が起こらなかった地域は、もしかしたら本州では中部地方くらいではないでしょうか。どうして中部地方だけ守られたのでしょうか。守られているのではなく、最も巨大な地震が控えているのかもしれません。最後の最後に、この辺に巨大地震が起こる可能性もあります。地震は、私たちの生活を一変させます。

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 昨年、私は熊本に行きました。本当に悲惨です。すべてを失って、避難所で生活しなければならない方々も多くおられました。二〇一七年、日本が守られるように、真剣に祈らなければならないと思います。
 そのような中で、二年ほど前、熱心に語らされていたみ言葉が、よみがえってきたのです。創世記一章二十七節〜二十八節、

『神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」』

 人間とは、どのような目的で創造されたのか。それは「地を従える、地球の管理人」として造られたのです。地球は、台風があったり、雨が降ったり、嵐があったり、地震があって、正常に機能するように、神が「自然界の法則」と共に造られた星です。
 神が定められた法則の中で、最も支配力が強いのは、何と言っても「自然界の法則」です。「神よ、なぜ、あんな大きな地震や津波を非情にも起こされたのですか!」とは言えないのです。なぜなら、自然界の法則の中に、神は人間を置かれたからです。
 しかし、誰も寄せ付けないような自然界の法則の真ん中に、人間を造り、地の管理人として任命されたのです。
 私たち、教会が、クリスチャンが、最も強い法則のただ中で、超自然的な法則を行使するならば、地球はうまく運行されるはずです。
 「もう一度、あなた方は、地の管理人であることを覚えなさい!」と、主が語られているような気がします。何年か前は地震が起きないように、よく祈りましたが、ちょっと忘れかけているのではないでしょうか。日本全体が守られるように、祈るしかないです。祈りたくなかったら、他の国に移住したほうがいいです。いくらでも地震が起こらない国ってありますから。日本に住んでいたら、地震はつきものです。そのように神は地球を造られたからです。ここに住む以上、私たちは霊的に管理するしか選択肢はないのです。
 私たちが地の管理人として働く時、二〇一七年は「良いもので満たされます!」と信じます。

 詩篇百三篇三節、四節を見ると、『主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶせてくださる。』とあります。
 今年一年間、すべての危険から守られるように祈る必要があります。地の管理人として、生活環境全体が正しく管理されるよう祈らなければなりません。
 誰一人として、病気で倒れる人がいないように祈らないといけないです。人間には、寿命があります。細胞はどんどん老化します。私も衰えてきたなぁと、悲しく思います。どこまで衰えるのだろうか…と、それでもネパールに行けっていうのか!と思います。
 そんな老いの中にあっても、主は私たちを死の穴から救い出し、病を癒やしてくださるお方なのです。マルコの福音書十六章十七節〜十八節、

『信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。』

 管理人として、病をも癒やす権限をいただいているのですが、『また、病人に手を置けば病人はいやされます。』に到達する前に、やらなければならないことが述べられています。『わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、』とあります。それは、「霊的戦い」です。
 先週も語りましたが、病の背後に、医学的な原因と共に、霊的な原因が多々存在するのです。ですから、霊的戦いがなされないと、病の癒やしに繋がらないと思います。
 そして、今回、私の心にとまったのが、『たとい毒を飲んでも決して害を受けず、』の部分です。病気の癒やしとは、現象が消えるようにという願いです。その点については、私たちは真剣に祈りますが、人間には「インプットとアウトプット」の両面があります。インプットとは、入って来るものです。そして、アウトプットは症状の現れです。
 例えば、風邪を引く時、インプットはウイルスとか、バイ菌です。それらがインプットされると、熱が出たり、咳が出たり、鼻水がアウトプットされるわけです。
 私たちは、アウトプットが一生懸命収まるようにとは祈るけれど、インプットに関しては結構、無防備です。今年は、その両面を抑えておかないといけないと思います。

 二・三年前に、主から教えられたことは、「食べ物に注意しろ!」ということでした。日本は世界の国々と比較して、食品添加物が多いです。

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 日本は食品添加物王国です。イギリスは二十一品目しか認められていないけれど、日本は「三百五十一品目」も許可されています。食べ物が相当悪いです。以前にもお見せましたが、コンビニのおにぎり、好きな人もいるかもしれませんが、いろんな添加物が入っているわけです。

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 私は実験してみました。コンビニのおにぎりを一ヶ月間、暑い日の教会バスのダッシュボードに入れて、一ヶ月熟成させてみました。一ヶ月後の姿がこれです。

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一ヶ月後でも、「さぁお食べ!」という感じです。怖いですよね。

 インプットに気をつけないと、アウトプットのために一生懸命祈ってみても、難しい面があります。主から知恵をいただいて、身体に入れて良い物と悪い物を、知恵と知識の賜物でコントロールするしかない時代です。
 今日は詳しくお話しすることができませんが、病の癒やしと共に入って来る物も注意すべきです。

 主が語ってくださっているもう一つの言葉を持ってメッセージを締めくくりたいと思います。ミカ書五章七節〜九節、これはもう何回も語らせていただいた箇所なので、覚えておられると思いますが、

『そのとき、ヤコブの残りの者は、多くの国々の民のただ中で、主から降りる露、青草に降り注ぐ夕立のようだ。彼らは人に望みをおかず、人の子らに期待をかけない。ヤコブの残りの者は異邦の民の中、多くの国々の民のただ中で、森の獣の中の獅子、羊の群れの中の若い獅子のようだ。通り過ぎては踏みにじり、引き裂いては、一つも、のがさない。あなたの手を仇に向けて上げると、あなたの敵はみな、断ち滅ぼされる。』

 二〇一七年、どんな世界になったとしても、あなたが「地の管理人」として、また、「残りの者」として歩む時、森の獣の中の獅子にしてあげますよ!羊の群れの中の若いライオンのようにしてあげますよ!と。あなたが手を上げるだけで、敵はみな、断ち滅ぼされます!と、大勝利を与えてくださるはずです。
 ゆえに、二〇一七年、「あなたは良いもので満たされる!」であると信じます。


 ハレルヤ。天の父なる神様。御名をあがめて、心から感謝します。今日、新しい年が始まりました。み言葉を語らせていただきました。宣言させていただきました。主よ、み言葉の通りになりますように。国が変えられますように。ダニエルがバビロニア帝国のただ中で国を変えるほどの鍵が与えられたように、主よ、何の力もない、取るに足らないような私たちにも、鍵を預けておられると信じ、心から感謝します。
 今から、その原点である十字架を感謝して、聖餐式を行います。ここに用意されたパンとぶどうのジュースを祝福してください。これが、聖霊の食べ物、聖霊の飲み物として、よみがえりのイエス様と一つとなる時となりますように。
 あなたが帰って来られて、あなたと顔と顔とを合わせて、礼拝したいと願っています。その日を心から待ち望みます。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。