「純粋なリバイバルの火を燃やそう」

2017年2月5(日)
新城教会牧師 四元雅也
テモテへの手紙 第二 1章5節

『私はあなたの純粋な信仰を思い起こしています。そのような信仰は、最初あなたの祖母ロイスと、あなたの母ユニケのうちに宿ったものですが、それがあなたのうちにも宿っていることを、私は確信しています。』

 ハレルヤ!感謝します。こうして皆さんの前に出てお話しすることができて感謝します。今日は、順先生も奉仕がなくていらっしゃるので、大変緊張しています。あまりこういうことはなかったのですが、なぜか今回、行け!と言われて、出ております。

 二〇一七年も早一月過ぎましたね。なんか新年気分も抜けて、このまま一年どーっと過ぎてしまうのかなと思います。
今はまだ寒い中にありますが、もうすぐ春が来るのではないかというこの頃ですので、インフルエンザなど流行っていますが、お互いに体調などに気をつけながら信仰生活を歩んでいければと思います。

 昨年末、十二月三十一日に行われた、カウントダウン・ワーシップで、私は二〇一七年に対するみことばとして、ダニエル書の二章二十節から二十三節のみことばからお話しさせていただきました。

『ダニエルはこう言った。「神の御名はとこしえからとこしえまでほむべきかな。知恵と力は神のもの。神は季節と時を変え、王を廃し、王を立て、知者には知恵を、理性のある者には知識を授けられる。神は、深くて測り知れないことも、隠されていることもあらわし、暗黒にあるものを知り、ご自身に光を宿す。私の先祖の神。私はあなたに感謝し、あなたを賛美します。あなたは私に知恵と力とを賜い、今、私たちがあなたに請いねがったことを私に知らせ、王のことを私たちに知らせてくださいました。」』

 この箇所から大きく二つのメッセージをさせていただきまして、一つ目は、この新城教会では滝元明牧師が天に凱旋されて以来、「ヨシュアの世代」という言葉が使われるようになり、次世代の若者たちがリバイバルを担って前進していくために用いられる!と言われるようになったのですが、このみ言葉の中にあったダニエルも、まさにそういった時代の中にあった人物でした。
 ダニエルが生まれ育ったのは、ユダの王ヨシヤの治世の中で、王の貴族として、王様の実行していた働きを傍らで見つめることができるような中に、ダニエルはいました。
 そして彼が、バビロニアに捕らえ移されて、そこで活躍して、バビロニアの時代からペルシャの時代まで、実に七十年の長きにわたって、王様に重用されて、大臣のような役割も担っていくわけです。しかし、彼がバビロニアに行った時には、決して高貴な立場にあったわけではなくて、ある意味で、捕囚の身であり、王様の心一つで殺されるかもしれない、そういった状況に置かれていました。
 実際に、彼は、王様から何度か殺されそうになります。しかし、その度ごとに彼は神様に祈り、主に信頼して、そして主からの力や守り、また答えをいただいて、王様の要求、また権力に対して、決して負けることがありませんでした。
 そして、このみ言葉の中でも、神様がダニエルに油を注いで、ネブカデネザルが見た幻を解き明かす力を与えられたのです。
 そのように、二〇一七年は、若者たちが現代のダニエル、あるいはダニエルと一緒に働いていたシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴ、さらにはエレミヤ、エゼキエルとなって、神様の業を世界に現す年となることを信じます、ということをお話しさせていただきました。本当にこの二〇一七年、主に期待していきたいと思います。

 少し話がずれるのですが、先月みなさんにご案内したのですが、ミュージックスクールを毎月一回やっていまして、今年で七年経ちます。それで、ミュージックスクールの形も先月から少し変えて、ワンコインレッスンということで、今までは一レッスン二千円だったのを、なんと五百円にして、すごい値下げでありますが、心機一転始まりました。まだまだ手探り状態ということもあるのですが、なんでそういうことができるようになったかというと、今まで東京から堅志君とか、頌君、寛太君とか来ていただいて、毎月指導していただいたわけですが、七年が経ち、そこでずっと育ってきた人たちが、先生になれるくらいの腕になったということなのです。素晴らしいことだと思います。今、この新城教会の賛美の働きも、彼らが担ってくれています。
 先ほど礼拝の前にも、プレイズタイムで子どもプレイズというのをやっていましたが、そこで演奏していた人たちを見たらほぼ、というか全員、そのミュージックスクールで育ってきた人なのです。素晴らしいことです。
先ほど祈りの課題で、ザワメキがアメリカに行ってレコーディングしているという話をしていましたが、なんと、この子どもたちもレコーディングするらしいです。
 みなさんも前に礼拝で見られたと思うのですが、去年のクリスマス、十二月十一日くらいだったと思いますが、子どもの演奏によるゴスペルの特別賛美がありました。その賛美を、瀧川充彦スタッフが中心となって呼びかけたら、ちょっと無謀かもしれませんが、やろう!やろう!ということになったみたいで、今度三月の頭に一日かけて何曲かレコーディングをして、CDを作るみたいです。CDを作ったらみんなにも売ってくれるか分かりませんが、楽しみにしていきたいと思います。
でもそのくらいうまくなったなぁと思います。七年前からずっとやっている子たちが、そうやって成長して、中核を担ってくれるようになってきているということなのです。
 手前味噌ながら、うちの息子も小学校三年からは、ベースを習わせていただくようになりまして、最初は嫌がって、どうやっておだてて続けさせようかと思ったりしていましたが、今は月に一回は子どもプレイズでベースを演奏してくれるようになって、これもミュージックスクールで教えていただいたおかげだと感謝しています。
そのように若者たちが長い年月をかけて、教会の中で信仰生活を守られて育って来ている。そういう中で、本当に神様にあって燃やされて、そしてリバイバルを担っていってほしいなと思っています。

 もう一つ、先週は金曜日に、この新城教会の青年たちが自分たちで企画をして、教会は直接関わらず、名古屋近郊に住んでいるような、新城になかなか連れて来られないような人たちに、これも名古屋近郊に住んでいる青年たちが、イエス様のことを伝えたいという思いから、自分たちで伝道集会を企画して、名古屋のある場所で夕食を持ち寄って、コンサートをやって、伝道集会をしました。伝道に対する熱い思いと共に若者たちの行動力というのが実行させた働きではないかと思いますが、若者たちがそのように用いられていることを感謝しつつ、これからも祈りで支えていけたらと思っています。

 そしてもう一つ、そのダニエル書のみ言葉の中からお話しさせていただいたのは、この二〇一七年は、ダニエルに与えられた「時代の秘密を解き明かす」油注ぎが与えられる年になるというメッセージをさせていただきました。

 このみことばの舞台となったダニエル書二章では、ネブカデネザルがある日夢を見て、その夢が気になって気になってしょうがなくて、広大な面積を有していたバビロニア帝国中の呪術師・呪法師・占い師やら知恵者たちを呼び集めて、自分の夢を解き明かせと言いました。
彼らが、「大王、その夢とは何ですか?」と言ったら、「夢も言い当てろ!そして、解き明かしもしろ!」と言います。王様というのは恐ろしい気まぐれで困ったものでありますが、彼らはそんな無茶ぶりをされて、「そんなこと、とても無理です!」と言ったら、「分からないならおまえら全員殺すぞ!」となったわけです。
 ダニエルも、殺される者の中に入っていたので、宦官が彼を殺しにやってきました。ところがダニエルは、「ちょっと待ってください。私が主の前に出て祈ってみますので。」と、大勢のバビロニア人の命も背負って、彼は主の前に出て祈りました。
最悪の、絶体絶命の危機の中で、主ご自身が彼にその夢の解き明かしを与えられたのです。ダニエルは、見事に夢とその解き明かしを、バビロンの王ネブカデネザルに話しました。
 そして、命も救われたし、「ダニエルが信じた神はすごいもんだ!」と、王様にも認められたのです。
 
ネブカデネザルが見た幻とは、将来についての幻でありました。それもバビロニア帝国のことだけにとどまらず、後のメド・ペルシャ、そしてギリシャ、果てはローマに至るまでの壮大な事柄についてであり、それをダニエルが主の霊によって情報に変えていったのです。
 現代を生きる私たちクリスチャンも、ダニエルと同じように、クリスチャンとして世間で肩身の狭い思いをしたり、迫害にあったり、そういうことがあるかもしれない。でも、そんな時にも決して、置かれた立場を苦にする必要はない。主が共にいてくださって、主が私たちの味方であるならば、例え敵が強くても、大国が、あるいは世界が敵になったとしても、神様は私たちクリスチャンを守り、またその中で大きく用いることがおできになるとお話させていただきました。

 第一コリントの十二章八節から十節を見ますと、新約の時代になって、教会を建て上げていくための、「御霊の賜物の現れ」が列挙して紹介されているのですが、

『ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、、、、』

と続いていくわけですが、ここで始めに述べられているのが、知恵のことば、そして知識のことばと、挙げられています。先ほどお読みしたみ言葉の中で、ダニエルが祈った祈りにも同じように、

『神の御名はとこしえからとこしえまでほむべきかな。知恵と力は神のもの。神は季節と時を変え、王を廃し、王を立て、知者には知恵を、理性のある者には知識を授けられる。』

というふうに、「知恵」、「知識」が与えられると、共通するものが示されているのです。知恵のことば、知識のことばとはどういうものかというと、ダニエルが夢の解き明かしをした時に、それが未来についての預言であったように、今日の混沌とした、様々な情報が真実も偽りもごちゃ混ぜになったような時代に、その情報をどうやって生かしていくかによって、私たちの生活も大きく左右していく。成功と失敗の分かれ道も、情報をどう受け取って、生かしていくかに大きく左右されるような時代に生きている。そういう時代の中で、私たちは、知恵の賜物、知識の賜物を神様に求めて歩んでいく必要があるのです。
二〇一七年は、そのような油注ぎが、この教会の上に与えられる年であると、お話しさせていただきました。一人一人が聖霊様を求めて歩んでいけたらと思わされております。

 特に先月は順先生を通して、「良いものを与えてくださる主」というテーマで、「良いもの」とは何か。それは聖霊であると、何度かに渡って伺うことができました。そして、私たちはそのように聖霊様を求めて、燃やされて、また県民の森にも行って祈っているわけですが、二〇一七年をそのように歩んでいきたいと思っています。

 話は変わるのですが、二〇一七年は、キリスト教にとって、重要な節目になるとされる年です。それは、キリスト教の歴史の中で、宗教改革がなされた記念の年です。
一五一七年十月三十一日、マルチン・ルターが、今でいうとドイツになりますが、ヴィッテンベルクの聖堂の扉に、カトリックを批判する『九五ヶ条の論題』というものを貼り出したのです。その日が『宗教改革記念日』と言われるようになりました。
 今年、宗教改革五百周年を迎えるということで、プロテスタント教会、特にルター派と呼ばれるグループがあるのですが、彼らは息巻いて、記念のイベントをいろいろ企画しているようです。

 宗教改革は、どんな活動だったかというと、後に社会構造を覆すような大きな活動になったのです。近代社会の礎を築いたとも言われています。そこから現代に至る社会に大きな影響を与えました。どんな影響かというと、立憲主義国家という、この日本もそうですが、世界のほとんどの国がとっている、憲法を中心として国家の運営がなされていく。そういったことも、このプロテスタントの運動の中から、結果として現されてきます。基本的人権も、そこから生み出されてきます。あるいは自由主義とか、民主主義とか、ちょっと間接的ですが、共産主義なんかも、恐らくプロテスタント運動が起こったから、この社会に現れたと思います。また資本主義経済、あるいは産業革命、学問、科学の革命、そういったものも、このプロテスタントの運動の中から結果として出て来たものであります。
 その他、メディアの幕開けというものもあります。当時の、中世までのメディアというのは絵でした。中世の教会なんかを訪ねたりしますと、その中に聖画といわれる絵が、壁とか天井とかに描かれ、あるいは彫刻が設置されたりしていますが、当時は人々は字が読めなかったので、絵を通して、キリスト教の神学や教理が伝えられていました。
 ルターは、聖書をドイツ語に翻訳して、一般の大衆が読めるようにしました。それに伴って、社会の構造変革も起こって来て、学問の領域が庶民に開かれていったことで、識字率が上がり、聖書を学ぶことがキリスト教の中心となったことを通して、皆が「活字」を読むようになった。
 活版印刷技術も同時期に開かれた、ということもあるのですが、「絵」から「活字」へと、社会が開かれました。現代、私たちは、普通に新聞や本を読んだり、勉強でも、文字を読むことが基本にありますが、それが開かれたのが、宗教改革からなのです。だから本当に近代から現代にかけての、社会の大きな変化は、宗教改革が発端となって起こった。それくらい宗教の枠にとどまらないような、大きな改革運動になったわけです。

 なぜこのような宗教改革が起こったかというと、当時、そのヨーロッパ全土に様々な不安がありました。相次ぐ戦争による政情の不安があり、ペストの世界的大流行はそれに拍車をかけたと言われています。ある町では、町ごと消えてしまうような大きな被害がもたらされました。そういう中で経済も乱れ、貧富の差も激しくなった。その上、それまで強大な権力を有していた、カトリックも霊的に堕落していた。宗教的に柱となるものが皆の中から失われているような状況にあって、宗教改革が起こったのです。ちょっとスライドを見てもらいたいと思います。

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 これは、あるカトリック教会に出されている聖画と呼ばれるものだと思いますが、真ん中にいるのはマリアで、抱っこされているのが赤子のイエスだと思います。この絵の下のほうに、火の燃える池の中で何人か苦しんでいて、救い出されて天使に携え上げられて天国に昇って行くのをイメージしたような絵だと思います。この火の池で苦しんでいるのは、実はクリスチャンだそうです。
 これはカトリックにある一つの教理ですが、火の池は「煉獄」というものです。煉獄とは、クリスチャンが罪を犯した場合、死後に天国に入ることができずに、一端煉獄に落ちて苦しまなければならない、という教えです。だから、カトリックでは、クリスチャンであっても、「功徳を積む」(積善説)、それは、良い行いをするとか、世の欲から身を聖く離す、そういう修業をすること、それから、お布施、金銭を神に捧げることを通して、煉獄で受けるであろう「苦しみの期間」が短くされると言われています。
煉獄での苦しみは、最も長くてイエス様が再び帰って来る時まで続く、とカトリックでは教えていますが、プロテスタントではそういった教えはありません。
煉獄の苦しみから逃れるために、あるカトリックの方たちは、真剣に修業をします。ある人は修道僧になって、世間から隔離され城壁で囲まれた中で自給自足の禁欲生活を送ったりします。そんな中で、中世に出て来たものが「贖宥状(免罪符)」です。
 カトリックは煉獄の教理を拡大解釈して、神の赦しをお金で買うことができるというふうにしたわけです。お金で贖宥状を買えば罪が許され、煉獄の苦しみから逃れることができますよ、と触れ込んだわけです。不安な社会情勢の中、人々は生きるために必死になっていたので、自分の死後の行く先について確信を持つことができない、宗教的にも不安な状況の中にありましたので、煉獄の苦しみを逃れたい一心で、みんな贖宥状に手を伸ばしたわけです。

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 これはご存じローマにある聖ペテロ大聖堂です。教皇がここに住んでいるわけですが、巨大なものです。実は当時、ローマ・カトリック総本山のこの聖ペテロ大聖堂の改修工事も行われて、そのために財源が乏しいカトリックに、財源をもたらそうということで免罪符というものが作られたようです。

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これが、免罪符が販売されている様子を絵で表したものです。
 免罪符を発行するようになった背景に、経済的な事情があって、当時、このヨーロッパ全体を牛耳っている大富豪のフッガー家というのがあったそうです。フッガー家はローマ・カトリック教会に多額の融資をしていました。カトリック教会はそれも返さなくてはいけないということで、免罪符の発行をフッガー家に委ねた。そして、フッガー家は免罪符発行で莫大な利益を得ていくわけです。

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 そういう中で、この写真の人、ルターが誕生しました。この人も元々カトリックの修道僧で、煉獄からの救いを求めて、日々神様の前に仕える生活をしていたのですが、伝説によると、彼自身が命の危険を感じる出来事に遭遇しました。その時に、死と一歩しか隔てがない状況に置かれて、その時はっと気づいたというのです。「あっ!自分はこれだけ神様の前に真剣に真心を持って仕えているつもりだったけど、救われている確信がなかった。自分が死んだら天国に行けるという確信が持てない。」と愕然としたというのです。それから彼は聖書を調べまくって、ガラテヤ人への手紙のみ言葉に出会いました。ガラテヤ書二章十六節、

『しかし、人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行いによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。』

 彼はこのみ言葉に出会った時に、「あっ!自分は今まで、この苦しみから逃れて天国に入るためには、自分が良い行いをする。自分が欲から離れる。自分が神の前に捧げていく。」という自己鍛錬が必要だと思っていたけど、人間の努力、行いは、「救われる」ことに関して、何も付け加えることはないのだ!」ということを、ここから発見したわけです。

同じくガラテヤ書三章十一節には、こう書いてあります。

『ところが、律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる」のだからです。』

このみ言葉が、彼が宗教改革するに至った一大根拠となったみ言葉だと言われていますが、律法を行うことによっては、神様の前には義と認められることはできない。人の努力は何もそれに付け加えることはできない、ということですね。義人は信仰によって、ただイエス・キリストを信じることを通してのみ救われることができる、生かされていくことができる、ということを彼は発見したわけです。そして、宗教改革に進んでいったわけです。信じるところに従って、そのカトリックの間違いを批判したのです。

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 写真は、「九五ヶ条の論題」の写しです。
ルターの前にも宗教改革を唱えた人がましたが、フスという人や、ウィクリフという人が現れて活動しました。

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これはウィクリフがカトリックによる異端審問の裁判を受けている絵ですが、このような裁判で異端の烙印を押され、ウィクリフは火あぶりの刑になったそうです。
カトリックは異端の烙印を押すスペシャリストで、自分たちは正統的で普遍的な信仰を持っているという、強力な自負を持っていました。それに反対する人はことごとく処刑されていったわけです。
ルターにとっても、カトリックを批判していくのは、まさに命がけだったのですが、彼は時代の流れにも後押しされ、殺されることなく勢力を拡大し、賛同者もヨーロッパ全土に増加していったのです。そして彼は聖書の翻訳をして、後には宗教改革はヨーロッパ全土に広がり、世界中に広がって現代に至っています。

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 ルターと同時期に活躍したのが、カルヴァンという人です。

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この人は、「キリスト教綱要」という本を書きました。これはプロテスタント信仰の骨格をなすような、聖書信仰を体系立てたものです。ルターは、信仰による、恵みによる救いを強調しましたし、カルヴァンは、み言葉による信仰を強調しました。それが、私たちが信じる、プロテスタントの信仰の大きな柱となっています。

 話は変わりますが、聖書には、地は悪い者たちの支配下にあると書かれています。先週順先生がお話しされたメッセージの中で、今日みなさんの手元に渡っていますが、新城教会ニュースの巻頭言に書かれた、「様々な不安」を述べておられました。

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 その中で、この写真にもあるように、オックスファム(Oxfam)という団体が発表した、「世界人口の総資産の下位五〇%に値する資産を、世界の超富裕層八人が所有している」ということがありました。実に三六億人分の資産です。つい去年までは、上位六二人と下位五〇%の関係だったのが、今年になったら一気に八人になってしまった。
 フランスの経済学者ピケティは、資本主義の行く末に未来はない、ということを、過去の膨大なデータに基づいて発表しました。このままいくと、一人の人物によって、世界が奴隷のように支配される日が来てしまうかもしれない、のだそうです。

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 この人も連日世間を賑わしていますが、彼のやっていることも経済最優先。日本でもアベノミクスとか言って、経済政策に苦心していますが、どうもこの路線の未来は明るくないみたいです。

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 昨年、アルファゴという囲碁の人工知能(AI)が、人間の世界最高の棋士に勝利しました。
囲碁は初手から終局までの手数が多く、AIは計算が追いつかず勝てなかった。今後まだ十年は勝てないだろうと言われていましたが、驚異的な早さで学習し、昨年ついに、世界最高の人間を打ち負かす所まで来た。
 先月、またAIで話題となったのはトランプ、大統領じゃなくて、ポーカーというゲームです。ポーカーもプロがいるらしいのです。それでポーカーのある試合をAIと四名のトッププロが対戦したそうです。二十日間で十二万回に渡る戦いでは、AIがこれまでの常識を覆す戦術で人間を圧倒し、大差で勝利したそうです。実は、二〇一五年にも同様の試合があって、そのときは人間側が大勝したそうです。二年で形勢が逆転したわけです。AIは人間の予想を超えるスピードで進歩しています。

 これからの世界は「AI産業革命」の時代になると言われます。僕もあるテレビで、ニューヨークの有名な大学教授が話しているのを見たのですが、これからあらゆるものがAIを搭載するようになるというのです。みなさんが座っている椅子とか、この講壇とか、壁とか、そういった中にもAIが搭載されるようになるというのです。人工知能のチップが小さくなり、値段も一個一セントくらいに安くなってしまうというのです。そんな大量にAIが作られるようになって、私たちの身のまわりがAIだらけになる。それがまたIoTという技術で全部つながって、世界中のAIがつながるようになる。膨大なデータを共有し、私たちの生活の中に入ってくるというのです。

 人間を凌駕したと言われるAIなのですが、凌駕したと言っても、一つの事柄、囲碁だったら囲碁専用、ポーカーだったらポーカー専用のAIということですが、人間は全体に幅広く能力を持っているわけですので、人間のほうが当然優れている。当然、AIは人間が造ったものですので、人間のほうが優れているのは間違いないわけですが、それだけのものを人間が造れるとしたら、この人間は誰が造ったか。人間よりもすばらしい神様がいるに違いないですよね。
こんなに感情が豊かで、知性もある。信条を持ち、自分から意志を持って行動する。また創造力を持っていろんなものを造っていくなど、複雑な人間が自然に、偶然にできたというのは大きな間違いです。人間の精神とか、魂とか、そういった確かに存在しているものは、これを造られた、素晴らしい神様がおられることを現しているのです。

話が逸れたのですが、AIが人間の生活に便利な道具として用いられる時代になってきたわけです。様々な便利な社会を提供するその一方で、AIが普及することを通して、懸念されていることがあります。
私たちの生活の基盤である「職業」が奪われるのではないかということが心配されています。実際に、今後、AIとかロボットが普及することを通して、多くの受付業務とか、事務作業とか、製造の業務とか、あるいはドライバー、そういったものがAI、あるいはロボットに置き換えられる、そういう時代がもうすぐそこまで来ているのです。機械に取って代わられる時代が来ていると言われています。ですから、これから将来を担う若者たちはAIができるような「仕事」はどんどん「職」がなくなっていく。
仕事が取られるんじゃないかという不安に対して、そんなことないですよ!とよく言われます。日本は人口が減少し、若者たちも絶対数が減少するからAIがやればちょうどいいんです!と言われたりするのですが、それでも不安がささやかれている、そういう時代なのです。
 機械がやる仕事は、人間は機械に勝つことができない。機械のほうが優れた仕事ができるようになっていくわけです。

 また、自然災害のことも書かれていました。地震が多くなっていく。また病気も、日本は癌で多くの方が亡くなっている。また薬も多くの消費がなされている、ということが言われていました。そういう不安の多い時代に、私たちは生きているわけですが、その中で私たちクリスチャンは、どうやって生きていけばいいのか?

 先ほどからお話ししているプロテスタントですけれども、プロテスタントの意味は、「抗議する」「反抗する」という意味です。カトリックの権威に対して抗った者たちに付けられた「あだ名」であるわけです。

 初代の宗教改革者たちがそうであったように、悪によって支配されたような時代の中で、真実の神様からのメッセージを握って世の中で輝く、というのがプロテスタントの信仰なのです。これは実はイエス様が十字架のあがないを成し遂げられて、教会が世界に誕生して、それ以来、現代に至るまでずっと、変わることなく継続されていることなのです。この世の中の悪に対して神から真実を受け取って立ち向かっていくことなのです。これは、新城教会の歴史を見てもずっとそうです。私たちの個人的な信仰のレベルでも、日々罪に引き戻そうとする誘惑の力があるわけで、ともすると、そういう中で私たちも妥協して、純粋な信仰、その鎧を削り取られて純粋さが失われていって、そして悪魔の罠にはまって、おとしめられてしまう、そういう可能性があるわけです。
 だから日々私たちの個人的なレベルでも、宗教改革がされ続けていかなければならないのです。

 ザワメキのレコーディングが今ロサンゼルスで行われています。急に出て来た話だったみたいですが、本当に素晴らしいことだと思います。
 開先生は、よくメッセージの中でもお話しされていますが、賛美を上から「受け取る、降って来る」という表現をされます。開先生は音楽の勉強は専門にはされていないです。独学です。なので専門的な知識もあって、作詞作曲している、というわけではないです。お話しした聖霊による「知恵と知識」で「降ってくる」わけです。それで、いまやCD十四枚目です。
ザワメキは、なんと言いましょうか単純で親しみやすい、ボクもよくわかりませんが、たぶん世の価値観で言ったら音楽的に深みはないのかもしれません。しかし、神様が与えられた曲。神様の導きの中で、ザワメキの働きは確実に続けられているのです。
 昨年は、この礼拝の中でも、ブラジルでオーケストラ演奏によるザワメキの曲が歌われるYouTubeが紹介されました。今年は新たな形で、全国縦断ミッションの中でも、開先生ご夫妻がゲストとして福音の賛美を歌われる。今回のレコーディングは、そのための準備として行われる意味もあるみたいですが、着実に前進している。また、実が結ばれている。
こういう歩みを見ると、神様が共に働かれているなぁ!と思います。ひたすら主の前に純粋に賛美をし続ける、という姿勢に感動します。

 冒頭にお読みしたみ言葉は、『あなたの純粋な信仰を思い起こしています。』ということばから始まっていますが、『そのような信仰は、最初あなたの祖母ロイスと、あなたの母ユニケのうちに宿ったものですが、それがあなたのうちにも宿っていることを、私は確信しています。』とあります。
 先週は、新城教会に三度の油注ぎがあった歴史について順先生を通して教えられましたが、そのような油注ぎの中で、私たちも救われて、また信仰生活もはぐくまれて、今日まで来ているわけです。同じ第二テモテの一章七節と十四節を見ますと、このように書かれています。

『神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。』
『そして、あなたにゆだねられた良いものを、私たちのうちに宿る聖霊によって、守りなさい。』

 悪に立ち向かい、与えられた純粋な信仰を保ち続けていくのが、クリスチャンの歩みであります。そして、この歩みをしていくために私たちが心から、また純粋に祈り求めていくことが必要であると思います。

 この中には、結婚されている方も、まだの方もいらっしゃると思いますが、結婚するということは、これまで他人だった人が、人生を共にするパートナーとなる。
聖書を見ると、結婚について「一心同体となる」という言葉がありますが、単に生物学的な「子孫を作り種として繁栄していかなければいけない」そういったレベルとは一線を画した、深い真理があるわけです。
 神様と私たち人間の関係も結婚と同様だと聖書の中では教えています。私たちは神様を認めずに生きることもできますが、人間は、誰でも神様を必要としており、祈りたいという欲求もあります。多くの日本人が神様に対して持っているイメージのように、困った時だけちょっとお願いしておいて、一年に一回くらいちょっとご挨拶だけして、あとは知らんぷりで済ませてしまえるような、他人行儀な、手を貸して欲しい時だけ手貸してね!というような、そういうインスタントな、そういう神様との関係では駄目なのです。人間にとって神様とは、一生のパートナーのように、人格的な交わりが必要であり、そういう関係の中で、純粋な信仰を育まなくてはいけないのです。

 教会では、毎週賛美を捧げて、また聖書のみ言葉からメッセージを語られて、そして神様の前に祈る時を持つわけですが、そういう行為は、不安な地上で生きる私たちにとっては、かけがえのない、最も大切なことを与えてくれる、そういう場所であると思います。
 お金を儲けること、健康、幸せな生活、また良い仕事だとか、充実した私生活、そういったものを私たちは求めます。それらも重要なものですが、神様について知るということは、最上の、一番大事なものであります。それを教会では学んでいる。これは大きな財産です。

 最後にマタイの福音書の六章十九節〜二〇節を読んで終わりたいと思います。

『自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。』

 天の宝をぜひ、ここにおられますお一人お一人が、ご自分のものとして、大切に受け取っていきたいと思います。この宝は、イエス様を信じること、そして、救われた者として神様の前で賛美し、み言葉をいただき、祈っていく。純粋な信仰をはぐくみ、悪魔によってそれを削り取られて失っていくのではなく、ますますこの世にあって純粋さを保って、光をこの地に放っていく。与えられた良きものを聖霊によって守りなさい!と語られていますが、そのような信仰を私たちがお互いに持っていきたいと思います。

 私のメッセージをこれで終わらせていただきたいと思いますが、最後にみなさんでお祈りしたいと思います。

 今日は第二テモテの手紙の中から、純粋な信仰について学びました。そして、神が与えてくださったものは、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊であると。そしてそのあなたに与えられた良きものを聖霊によって守りなさいと、そのようなみ言葉の中から学びました。
 キリスト教の歴史は、この世の悪しき支配や罪の堕落の力に抗い、反抗していく歴史であると学びました。私たちの心の中に、今もう一度、純粋な信仰のゆえに、この地にある敵の力、悪魔の力に対して立ち向かっていく信仰が与えられるようにお祈りしたいと思います。
 そして、この不安な世の中にあって、肩身の狭い思いをし、弱い立場で暮らすのではなく、ダニエルがそうであったように、私たちもこの地にあって光を放ち続けていくことができるように、敵の力に対して脅かされることなく打ち勝っていくことができるように、主に求め、祈っていきましょう。神様は祈り求めて行く時に、良いものを拒まれないと先週までも学んでおりますが、そのみ言葉を信じて、まずお一人お一人、神様の前に祈りをもって進み出ていきたいと思います。
 一言お祈りさせていただきます。

 ハレルヤ。イエス様。自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。あなたの宝を天にたくわえなさい、とあなたはおっしゃいましたが、ここにおられますお一人お一人が、あなたと共にこの不安な、混沌とした世の中にあっても、決して流されたり、惑わされたりすることなく、守られて祝福されていくことができますように、そのために、純粋な信仰が与えられますように。地上にあって、あらゆる悪魔の力に対して立ち向かうことができるように、どうか上からの油そそぎを与えてくださいますように。知恵の賜物、知識の賜物を与えてくださいますように、心からお願いいたします。
 そして、教会を通して、あなたがリバイバルの業を進めて、今日まで導いてくださったことを心から感謝します。二〇一七年は、新しい扉が教会の中にも開かれて、主の栄光が教会を通して全地に現されていくのを見ることができますように。私たちをあなたが送られる場所に遣わし、あなたのために用いてくださいますように。すべてのことを御手におゆだねし、イエス様の御名によって感謝して祈ります。アーメン。