「-2017年- あなたは良いもので満たされます!
パート6 ~あなたは神の奥義の管理者です~」

2017年3月5(日)
新城教会主任牧師 滝元順
詩篇103篇1節〜5節

『わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、鷲のように、新しくなる。』

 ハレルヤ!「ヘブンリーキングダム」の賛美、本当に恵まれましたね。みなさんの顔を見ているだけで、わくわくしてくるような、救いの喜びが溢れていました。この教会に、賛美の賜物が与えていて、主を賛美できることを心から感謝します。
 昨日は小学生以下の子どもたちが、目標を持って練習して、レコーディングをしました。

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 なかなか良い写真がありますよ。

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 おじさんや、お兄さんも手伝って、レコーディングをしたみたいです。「ちょっと聞かせてよ!」と言ったら、まだ編集中だそうですが、ちょっとだけ聞かせてくれるそうです。では、子どもたちの賛美を聞いてください。

♪子どもたちの賛美♪

 なかなか良い曲ですね。誰が作った曲だと思いますか?実はこのおじさんが作った曲です。素直な歌ですが、昔、グロリアシンガーズで歌っていた曲です。子どもたちが受け継いで歌ってくれることは、本当に嬉しいです。世代を越えて主の働きが前進していくことは、本当にすばらしいですね。

 あっという間に三月になってしまい、年度末で大変忙しい中にあると思います。新しく二〇一七年度が始まるわけですが、私はしつこく、「二〇一七年、あなたは良いもので満たされます!」というタイトルとみ言葉で、語っていますが、二〇一七年は、本当に良いもので満たしていただきたい!という、心からの強い願いを持って語らせていただいています。
 今日は、「あなたは神の奥義の管理者です!」という、サブタイトルをつけさせていただきました。

 私たち人間がなぜ存在しているのか、たいへん不思議です。最近、人生の意義を記したような本が売れに売れていて、仏教の坊さんが書いたみたいですが、三百万部近く売れたらしいです。しかし読んでみると、その意味が分からないのです。書評を見ても、何を言いたいのかわからないっていう人が多いです。人生の意味って、最も大きな命題であるにもかかわらず、「意味がわからん。」というのが現実ではないでしょうか。
 しかし、私たちクリスチャンは、意味が分かっています。すばらしいです。なぜなら、私たちを創ってくださった、創造主を知っているからです。主が私たちを創ってくださったならば、必ず、創造の目的があるはずです。
 みなさんが使っているすべての持ち物には、目的があります。目的なしに存在している持ち物は何一つありません。ならば、人間に目的がないはずがないのです。
 人生の目的を発見することは、良いものの根源です。

 聖書の記者たちも、「人生って何なんだろうか?」また、「人間って何者だろうか?」という問いを持っていたみたいです。
 先週もこの箇所を読みましたが、詩篇八篇を見ますと、こんな言葉があります。詩篇八篇三節〜九節、

『あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。すべて、羊も牛も、また、野の獣も、空の鳥、海の魚、海路を通うものも。私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。』

 三節、四節で、「人とは、何者なのでしょう。」と、ダビデは二度もくり返しています。人って何者だろうか?と、私たちも時々、考えてしまいます。
 人生は赤ん坊から始まり、墓に行くのが一生です。人間ほど、ある意味、弱い存在はないのかもしれません。

 この頃、私にも、介護保険を払えと請求がきて驚きました。それは要介護とか要支援の方々を支えるために致し方ないと思うのですが、人は要支援、要介護一、二、三、四、五と進み、人生の最後を迎えます。
 でも、ある人がこんなふうに書いていました。人間は要介護五から始まるというのです。五、四、三、二、一と進み、立ち上がり、支援を受けながら成長し、活動し、やがて要介護一、二、三、四、五へと進み、墓場に行くというのです。

 人間には毛皮もありません。しかし野の獣たちはどうでしょう。冬の寒いただ中にあっても、凍え死んでいる獣を見たことはありません。人間なんか、裸で冬の野外にほうり出されたら、すぐに死んでしまいます。
 人は産まれてすぐに、自分で餌を取れるわけでもないし、世話してもらわなければ生きることはできません。本当に人間として産まれて、幸せかどうか?って、考え物です。
 この頃は犬も座敷に入れてもらって、服を着せてもらい、手厚くされています。そういえば、孫の服を買いに行ったのですが、すごく良いセーターがありました。買おうと思ったら、胴体が長いのです。おかしいなと思ったら、そこはモールの中のペット・ショップでした。犬がああいう物を着せてもらって、喜んでいるか否かは別として、昔は、庭につながれていたわけです。しかし一生涯鎖につながれていても、病んでいる犬はいないですし、のら猫なんか明日のおまんまも保証されていませんが、へっちゃらな顔をしています。魚をかっぱらっても、良心の呵責さえ覚えていないみたいです。
 人間も動物です。動物同士の比較では、人間って本当に幸せなのか疑問です。また、人間だけが結婚式をします。この頃ではやらない人もいますが、普通は、結婚式をします。そして、人間だけが葬式をします。誰かが亡くなったら、盛大に葬式を行い、人の死を悼み悲しむわけです。
 しかし、他の動物たちは、そんなこと全然おかまいなしです。自分の子どもを食べちゃう動物の親もいますし、仲間が死んだって、全く傷ついていません。悲しみを引きずることもありません。本当に、人間って何なんだろうなぁと思います。しかし、今読んだところに、この問いに関する、答えがあります。五節から見ると、

『あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。』

 先週も話しましたが、神は人間をご自分よりも「いくらか劣る存在」として造られたというわけです。「いくらか」という言葉は、「ちょっぴり」という意味だそうです。権威の序列において、神がすべての権威を持っておられます。しかし次に権威を持っているのが、人類だというのです。その他の動物は、人の権威の下に置かれているというのです。
 私たちは神から直接、栄光と誉れの冠をかぶらせていただいた存在です。それはどのようなものかといえば、「すべての生き物を支配する冠」です。

 六節には、『あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。』とあります。「彼」とは、人のことです。創造主は、天の高きところから地の、最も深い所まで、どれだけのアイテムと、生物を創造されたのか分かりません。しかし、その管理人として、人を任命したのです。
 人間とは、毛皮も持たず、牙もない、肉体的には強くないけれども、神から委託された権威、権限があるゆえに、すべての動植物を支配しています。これは、人をご自分に次ぐ、権威ある存在として造られた証拠です。
 ということは、私たちはどういう存在なのか、それは、神から委託された権限に沿って、すべての被造物を支配し、管理する、管理人として造られたということです。

 先週は、「福音とは何でしょう?」というテーマで共に学ばせていただきました。福音とは、「良い知らせ」です。その良い知らせに含まれているのが、神から委託された権限、すなわち、栄光と誉れの冠です。私たちは、神の奥義を管理する管理者です。神の創造物を管理する管理者として任命されているとは、こんなすばらしい知らせと役割はありません。

 しかし、聖書に述べられている福音について、教会はあまり理解していなかったと、先週、お話しさせていただきました。私たちは、福音の全容をよく理解する必要があります。

 日本は福音が効果的に伝わらない、不毛の地だと言われます。先日、韓国から日本に来られた宣教師の方とお話する機会があったのですが、その方が、「韓国では、日本は宣教師の墓場だと言われている。」と言われていました。「世界で最も、宣教が困難な地、それが日本だ!」と言われているそうです。私たちは墓場に住む、ゲラサの男、女みたいです。しかし、主はそこから奇蹟を始められると信じます。

 福音が、なぜ効果的に広がらないのかに関して、様々な角度から検討されているのですが、ある人がこのみ言葉を引用していました。コロサイ人への手紙一章六節、

『この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それをほんとうに理解したとき以来、あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で、実を結び広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです。』

 家に帰ったら、コロサイ人への手紙一章をじっくりと読んでいただきたいと思います。コロサイ人への手紙一章は、「福音とは何か」の全容を解き明かしています。
 最初に『この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それをほんとうに理解したとき以来、あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で、実を結び広がり続けています。』と述べられています。「福音をほんとうに理解したら」どんどん「世界中に広がる」というのです。
 しかし裏を返せば、福音を本当の意味で理解していないなら、広がらないということになります。
 福音とは何か?を本当に理解すると、神の働きは、勢いよく広がっていくのです。先週もお話ししましたが、「福音が矮小化」されて、それが広がらない原因となっているのです。本来の福音がそぎ落とされ、小さくまとめられ、福音のごく一部を、あたかもすべてかのようにしているゆえに、なかなか広がらないというのです。私はこの意見に同感です。
 案外私たちは、「福音?知ってますよ。分かってますよ!」と答えるのですが、福音の全容を理解していないのです。ゆえに、神様も福音を広げたいけれど、広げても、一部しか伝わりませんから、広げたくても広げることができないのが、現実かもしれません。今こそ、私たちが、この福音の矮小化を打ち破り、全容を理解して主の前に出る時ではないかと思います。その時、詰まっていた部分が取り去られて、勢いよく、世界に向けて福音が流れていくのではないかと思います。

 今まで教会が語ってきた福音は、決して間違いではありません。重要なことです。「イエスを信じたら救われる。天国に避難できる。しかし、イエスを信じなかったら、滅びてしまう。これが福音だ。」としていました。もちろんこれは福音です。
 しかし、聖書をしっかり読んでいくと、福音とは、全宇宙、地球、自然、すべての生物、社会制度、すなわち、「被造物全体の回復」です。その中に、「人類の救い」も含まれているのです。
 では、人類の救いがどうして、そんなにも重要かというと、人が救われないと、他の被造物を支配できないからです。人間にはそのような役割が与えられているのです。神は、まず人を回復して、本来のポジションにたたせて、人類を通して被造物を回復しよう!とされているのです。ゆえに人の救いが優先されるのです。
 私たちがただ救われるだけでなく、回復を妨げている悪魔の力を打ち破るならば、すべてが輝いて、新しい天と新しい地の創造につながるのです。
 ゆえに主イエスを信じるとは、「スタートラインに立つ」ことです。これで一丁上がり!ではなく、イエス・キリストを信じることは、人間本来のスタートラインに着いたのです。
 天国に行く切符をもらった!もう、これでよし!ではないのです。これからがお仕事なわけです。

 今までリバイバルミッションも、様々な場所で伝道集会を行って来ましたが、先週もお見せしましたが、大勢の方々が主を信じる決断をされたのを目撃しました。

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 その光景を見ると、「おぉ!よくやった!すばらしい!成功だ!」と考えますが、そうではないのです。これは人がスタートラインに着いたのに過ぎません。

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 スタートラインに着いたクリスチャンたちが、被造物全体の管理人として働き出すなら、本当の意味で、福音を知ったことになります。

 今日、ここにおられるお一人一人、すでにイエス・キリストを信じて救われておられます。すでに主は、あなたを管理人として任命しておられます。
 たとえば、マンションの管理人なら、マンション全体の鍵束を持っています。

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 鍵束を受け取るためには、オーナーとの信頼関係が不可欠です。もしもマンションの管理人が、悪い管理人なら、マンション全体のマスターキーを使って、大変なことになります。やはり管理人をしっかりと人選して、「この人ならば間違いない!」という人に、鍵束を渡すわけです。
 神様も同じです。私たちがイエス・キリストを信じて、主に仕える決断をすることは、人間の目的審査みたいなものです。イエス・キリストを信じるとは、「この人は信頼できる!」と神との信頼関係が築かれることです。その結果、被造物を管理する鍵束を渡されるのです。
 今日、イエス・キリストを信じているならば、あなたに鍵が与えられています。
 今度はその鍵を使って、被造物全体を管理する働きをしなければなりません。
 
 私たちは、神から特別に造られていることは確かです。それは何のためか。それは、神が造られた被造物全体に貢献するためであり、管理するためです。
 そして、私たちと神との間は、信頼関係であり、愛の関係です。

 先ほども人の一生についてお話ししました。

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 人間は、赤ちゃんで産まれ、やがて成長し、だんだんと腰が曲がってくだって行きます。
 顔つきもだんだん変わっていくわけです。本当に悲しいですよね。昔の写真と比べると、いかに変わってしまったことか・・・ということで、ちょっと寂しく思うことがあります。
 人間って、小さな頃は、両親の愛を受けながら育っていくわけです。また人生の最後は周りから介護され、地上から出ていくわけです。しかしその中に貫かれているのも、「愛」です。
 赤ちゃんは何もできないけれど、両親の愛に包まれ育っていきます。乳を飲ませ、おむつを変えて、やがて一人立ちするようになります。
 また年を取れば、周りから支援を受け、介護されて愛の中で死んでいくわけです。このような過程をたどるのは人間だけです。愛というサイクルの中で生きるのは、人間だけです。「人間は愛を受けないと、生きることができない存在だ」ということです。
 ということは、神との関係も同様です。人は神の愛の中で生きる存在なのです。神と人間との間柄は、決して恐怖ではなく、愛です!
 今日ここにおられます、お一人一人、神との関係は、恐怖の関係ではありません。愛の関係で結ばれているのです。こんなすばらしい神様と出会えて、本当に幸せです。
 しかし日本の神々って、愛の関係ではなく、恐怖の関係です。

 話は変わりますが、私は、映画館に行って映画を見るのが、あまり好きではありません。なぜなら昔、「日曜学校の約束」という歌を覚えてしまったからです。
♪日曜学校の約束は、朝夕、神に祈りをし、父と母とに従って、タバコも吸わず、酒飲まず。ダンス、「映画」に遠ざかり、人を愛して喧嘩せず〜♪
 という歌をすり込まれてかどうかは分かりませんが、映画が嫌いです。というよりも、落ち着きがないのです。すぐに嫌になって、映画館から出たくなってしまうからです。
 先週、ある人から、ある人というか家内ですが、「あんたこの映画見ておいたほうがいいよ。近頃、話題になっているし、いろいろと聞かれる機会もあるかもしれないから。」と言われて、しぶしぶ見に行って来ました。それが何という映画かというと、

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 皆さんの中で見た人はいますか?遠藤周作の「沈黙/サイレンス」という映画です。長い映画で、それも字幕です。
 どういう映画かというと、江戸時代初期、キリシタン弾圧下の長崎で起こった物語です。これはフィクションだと思うのですが、実際に、日本では多くのキリシタンと呼ばれる人たちが、何十万人も殺され殉教したのは事実です。
 この映画は宣教師フェレイラが、日本に宣教に出かけたまま行方不明になり、彼の弟子たち、ロドリゴとガルペが危険な日本に密入国して、先輩のフェレイラを探すところから始まります。
 時はキリシタンが幕府から弾圧されている、真っ最中で、身を隠しながら探すわけですが、やがて二人は幕府に捕まってしまい、キリシタンたちが処刑されるただ中に、放り込まれるわけです。
 幕府はこの二人を効果的に利用して、人々を棄教させようとします。二人の目の前で、多くのキリシタンたちを処刑するわけです。むごい方法で処刑していくわけです。キリシタンたちが死んで行く光景を、ロドリゴとガルペは見せつけられ、二人は、「神よ。助けてください!」と真剣に祈るわけです。
 しかしいくら祈っても、全く神からの応答はないのです。沈黙です。だから宣教師たちは、葛藤するわけです。

 時々、こういう時もあるのではないですか?一生懸命、主に祈るけれど、神は全く応答しない。なぜ、聞いてくれないのだろうか?という葛藤もあるわけです。
 この映画を見たら、だんだんと暗くなります。ある牧師が、映画を見た後、感想を書いていました。「これを見ると、神に対する恐れだけが残ってしまう」とありました。本当にそんな感じでした。
 いくら祈っても、涙を流して神に叫んでも、どんどん目の前で殺されていくわけです。

 最後にロドリゴは、代官の井上様の前に引きずり出されて、「おまえもキリスト教をやめてしまえ!」と棄教を迫られます。この代官が、いろんな事を彼に語るのですが、言っていることが結構、的をついているのです。
 代官曰く、「日本にキリスト教が伝わってきたけれど、日本人は、本来のキリスト教を理解してはいない。彼らが信じているのは、本物のキリスト教ではなく、間違ったキリスト教だ。だから、こんなものは拒否したって、かまわない。ただ形だけでいいから、踏み絵を踏め!そうしたら助けてやる」と誘惑するわけです。

 ある意味、代官の意見は事実です。日本人は、ご都合主義のところがあり、いろんな宗教が海外から入って来ても、自分なりに解釈して、自分に都合のよいものに変えています。
 社会学者の小室直樹が指摘しているのですが、「日本人はどんな宗教でも、最終的には日本教に変えてしまう。」と指摘しています。それは本当だと思います。キリシタン迫害の時も、同じでした。幕府は、踏み絵を用意して、正月には必ず村人たちに踏ませました。踏み絵を踏めない者たちは、キリシタンだ!とされ、捕まえられて処刑されたりしたわけです。

 映画の中でも、九州のある村の人たちが、全員引きずり出されて、ロドリゴの目前で踏み絵を踏まされるわけです。キリシタン村の人たちは、どうしても踏み絵を踏めないわけです。踏めない者たちは捕まえられて、十字架につけられたり、火あぶりにされて、殺されるわけです。それを見るロドリゴは、「なんてこった!神よ。なんとかしてくれ!」と泣きながら祈り、叫ぶわけです。その葛藤を描いているわけです。そこには複雑な心境があるのですが、私たちの信じている神って、どういう方だろうか?と考えさせられます。

 踏み絵を踏めなかった人たちは、どうして踏めなかったのかというと、愛ではなく、「恐怖」でした。映画の中でも描かれていたのですが、この人たちは、「踏み絵を踏んだら、パライソ、天国に行くことができない。踏んだら、地獄に落とされる!地獄の火に焼かれたくない!」その恐怖で、踏めないわけです。
 しかし、キチジローという男がいて、彼は要領がいいというか、ふざけているというか、彼は一応キリシタンなのですが、踏み絵を、バンッと踏んでいつも生き延びるのです。しかし、後に後悔して、神父の所に来て、いつもこう言うのです。

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 「俺は罪を犯しました。」と。悔い改めに来るのです。これは遠藤周作が時のキリスト教を皮肉っていると思うのですが、本来のキリスト教の教えは「悔い改めと赦し」ではないか?と。キチジローは何度も踏み絵を踏んで、裏切るけれど、「俺は罪を犯しました。」と悔い改めて、赦されるじゃないか?だから、踏み絵を踏んだって、いいんじゃないかと投げかけているところもあるわけです。
 だから、いろいろと考えさせられる映画だと評されていました。近頃の映画は何も考えずに、ふっと入ってくる映画が多いですが、この映画はよく考えないと理解できないところがあります。
 私もうっかり前半の部分は寝てしまいました。でも一番大切な所はちゃんと見ましたよ。やはり考えないと、分かりません。
 本当に、どちらを選び取るべきかです。踏み絵が目前にあって、踏むのか、それとも踏まないのか。踏んでおいて後から、悔い改めるのか、なかなか難しい問題ですよね。

 ロドリゴは、目の前でキリシタンたちが死ぬのを見せつけられて、毎回、「おまえが転んだら、村人全員助けてやる」と言われるわけです。「転ぶ」とは「棄教」という意味です。「転んだら、ここにいる皆を助けてやる!」というのです。「おまえが踏めばいいだけだ。それで全員助かるんだぞ。どうするんだ?」ってね。初めは、「踏めない。」と抵抗しました。そうすると大勢の村人たちが死ぬわけです。
 それが何回もくり返され、その度に、真剣に祈るけれど、神は全く答えてくれません。「沈黙」です。だんだんと、「神は祈りを聞いてくれないじゃないか!」と、心が揺れてくるわけです。
 そると、行方不明になっていた先輩宣教師フェレイラが目の前に現れるわけです。ロドリゴたちは彼を探しに来たわけですから。「先生!」と大感激です。しかしなんと、このフェレイラ、仏教の僧侶になっているのです。なぜかといえば、彼は棄教したからです。宣教師をやめて、仏僧になったわけです。そして、ロドリゴに「おまえも棄教しろ!」とせまるのです。最も尊敬していたフィレイラが転んでいたのです。もう彼は大ショックです。

 でも、そのような葛藤の中で、最終的には、「いくら祈っても神は祈りを聞いてくれない!」ということで、彼も、踏み絵を踏んで棄教するのです。
 遠藤周作は結論として、何を言いたいのかといえば、「神は沈黙していたんじゃない。ロドリゴが葛藤している時、神も一緒に葛藤し、苦しんでいた。この沈黙こそが、神の答えだ。」という結論です。遠藤周作は、始めにこの結論を考え出して、このような小説を書いたのだろうと思いました。
 しかし、あの映画を見たら、「キリスト教の神は、祈りに答えてくれない神だ」とみんな思っちゃうだろうと思いました。
 そして、当時のキリシタンの信仰の動機付けが、神への愛よりも、恐怖なのです。「ちょっとでも罪を犯したら、地獄に落とされる」「踏み絵なんか踏んだら、地獄に落とされてしまう!」という恐怖心で、命までかけているのです。これは、正しい信仰の姿勢ではないです。

 私たちと神様との間は、愛です。例え失敗があっても、助けてくれる、「俺は罪を犯した」というキチジローのほうが、ある意味、正解です。当時のいろいろな事情があったから、いろんな意見があることも確かです。
 また、はっきりと言えるのは私たちの神は決して、沈黙し続ける神ではないということです。

 もしも、やっている事の前提が間違えば、すべて結果は違ってきます。法則とは、前提がちゃんと整っていて、初めて法則に関わる結果も出て来るのです。私たちの信仰も同じで、福音の前提が間違っていれば、期待する結果は出て来ないのです。
 日本でなかなか福音が広がらないのは、福音の前提が間違っているからかもしれません。
 日本に最初に入って来たキリスト教が、日本化して、都合のいい日本教に変わっていたら、いくらキリスト教風でも、答えは出て来ないのではないでしょうか。神との関係が、愛ではなく、恐怖であったり、また、社会学者の小室直樹が指摘しているのですが、「踏み絵なんていうものは、本当のキリスト教からいえば、偶像だ」というわけです。キリシタンたちが本物のキリスト教を理解していたら、踏み絵なんか踏みつけたはずだと語っているのですが、ある意味、本当です。本質が違えば、ねじれて、ゆがんでいくわけです。

 私たちの神は、私たちに恐怖を与える神ではないのです。愛で支えてくださる神様です。赤ちゃんが生まれた時、両親の愛がなければ、育たないように、神の愛がなければ、生きることは出来ないのです。
 私たちは、恐怖によってつながれている者ではないということです。

 救われるとは、ただ、「地獄に行きたくない!パライソに行きたい!」という、一点だけではないのです。救われたら、スタートラインにたち、神の目的である「被造物すべてを管理する」者にならしていただきたいです。

 コロサイ書一章をよく読んでいきますと、その事が述べられています。時間がないのであまり詳しく語ることはできませんが、コロサイ一章七節、八節で愛について語っています。コロサイ人への手紙一章七節〜八節、

『これはあなたがたが私たちと同じしもべである愛するエパフラスから学んだとおりのものです。彼は私たちに代わって仕えている忠実な、キリストの仕え人であって、私たちに、御霊によるあなたがたの愛を知らせてくれました。』

 『愛を知らせてくれました。』とあります。神は私たちを愛しておられます。また、十三節は、

『神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。』

 救われるとは、「悪魔の支配から神の支配に移される」ことです。これも神の愛のゆえの解放です。そして十九節、二十節は十字架の意味について、先週もお話ししましたが、次のように語られています。

『なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。』

 イエス様の十字架とは、ただ人と神の和解だけではなく、「万物との和解」だったわけです。私たち人間をまず愛して、私たちを救い出し、今度は、万物を解放するために、神は私たちを遣わしてくださるのです。
 私たちが、神の奥義の管理者として、愛の中で働くなら、被造物の解放につながるのです。決して私たちは、恐怖でつながれている者ではないのです。
 沈黙に描かれているような信仰スタイルではなく、神の愛の中、喜んで主の管理人として、働いていくのです。

 三月十一日が今週の土曜日になります。十一日は日本においては悲しい日です。大地震と共に、津波が押し寄せ、一瞬にして日本の模様が変わった日となりました。
 神は自然界も含めて、管理権を人に渡しています。私たちは管理権を使わなければいけないのです。管理権を使うことができるのが、クリスチャンであり、教会です。
 福島の原発のことも先週話しましたが、これを、見てください。

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 水素爆発だと言われましたが、核爆発です。こういうのは日本では報道されていません。
 私は原発なんて広島や長崎に落とされた原爆に比べたら、たいして大きなものではないと思っていたのですが、ところがどっこい、広島に落とされた原爆の何千倍という量のウランが原発では使用されているのです。信じられないです。それが爆発したわけです。
 日本では、こんな黒煙が出ている様子は報道されていないのです。爆発は白い煙でした。また爆発音もカットして報道されていました。しかし海外では、全て報道されているのです。日本では報道が制限されているのです。
 事故後、埼玉県でできたトマトです。

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 なぜ、こんな気持ち悪いトマトができたのか?やはり放射能が原因ではないかと言われます。
 現実を知ったら、日本で生活するのはまずいんじゃないか?ここで子育てするのって、ヤバイんじゃないか?って感じです。
 現実を知らされていないので、案外、安心して暮らしているのですが、管理人は現実を知らないといけないのです。現実を知ることこそ、勝利の鍵なのです。

 みなさんは、いろいろな領域に興味を持っておられると思います。ある方は、原発に興味があると思います。ある人は地震に興味があり、食品を扱っている方ならば、このようなトマトにも興味がある。いろんな趣味とか興味があるじゃないですか。この趣味とか興味は、みなさんに与えられている管理の領域だと思われます。その領域を「神の知恵と知識」によって、明らかにしていただいて、管理人として、とりなし、祈っていかなくてはいけないのです。

 国際情勢も様々なことが起こっています。日本と朝鮮半島の関係も、様々なことが起こっています。金正男が暗殺されて、実際、誰が殺したかはっきりとは分からないけれど、これからどう進んでいくのか?本当に不安な要素がいっぱいです。
 また、大阪の森友学園が問題になっています。日本がどのような目標を持って動かされているのかも、この事件を通してチラッと見えて、心配です。問題だらけでしょう。これを解決するのは、政治家ではできません。軍事力でも無理です。これができるのが、救われた者たち、クリスチャンたちの祈りです。

 ただ単に、私たちは地獄の火から救われるためではなく、管理人として働いていく時、世界は変わっていくのです。その鍵が、あなたに渡されているのです!というのです。
 しかし悪魔は、私たちと神との関係を愛ではなく、恐怖に置き変えたり、福音を矮小化します。ごくごく一部だけを知らせて、福音の全容を知らせないように、真剣に働いてきたと思います。
 今、イエス様が帰られる日が近いのでしょう。世界中の教会に、福音は何であるか?を教えて、人が救われるのは、委託された領域を勝ち取るためであることを主は語っておられます。

 人類に与えられている最も大きな武器は何であるかというと、それは「祈り」です。先週もお話ししましたが。
 祈りとは、人類に与えられている最も強力な武器です。この祈りには二つの方向性があると、お話しさせていただきました。
 一つは、神への願いです。

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 案外、ここまでは理解して祈るのです。「神様助けてください!」という、沈黙の中の祈りもその領域です。「神様、早く助けてください。」
 しかし、祈りは願いだけの領域ではないのです。祈りには、もう一つの方向性があって、「敵に対して神から与えられた権威を行使する」領域です。主の祈りは、「御心よ、なされよ!御国よ、来たれ!」という命令形の祈りです。祈りにはこの二つの領域があることを知らなければいけません。
 神に願い求めて、力を頂き、今度は許可された権限を、敵に対して宣言する時に、状況は変わるのです。

 三・一一の地震後、キリスト教界でいろんなシンポジウムが開かれました。津波によって多くの人たちが死んでいくさ中で、イエス様は何しておられたんだ?と。神は何をされていたんだ?日本人が何万人も死んでいく光景の中で、神は何をしていたんだ?と。
 その結論のほとんどが、「沈黙していた」です。それは遠藤周作と同じ結論です。ある時は、「イエス様はその光景を見て、泣いておられた。」これも遠藤周作と同じ結論です。「泣く暇があったら助けてくれ!」という心境ですよね。

 では神は何をされていたのでしょうか。自然界は、神が人類に委ねられているものですから、本来は、管理しなければいけない領域です。私たちクリスチャンが手をこまねいていると、様々な不具合が、地球に起こってくるし、大きな事件にもつながるのかもしれません。
 神は「あなたたち人類に権限を委ねてあります」「与えられた権限をちゃんと使ってください!」と言われるでしょう。神が助けるというよりも、神から鍵をあずかった者たちが、様々な領域に対して権威を行使していく時、状況は変わって行くはずです。
 そして最終的な結論は、主が再び帰って来られて、この地の王となり、すべてを支配してくださる、「新しい天と新しい地」の創造に繋がるのです。
 神は与えられた権限・権威を使うように、人類に求めておられるのです。そして私たちの神様は、決して黙っておられる方ではありません。私たちを愛してくださる神です。このすばらしい神様に仕えることができることを、心から感謝して、今週、神から委託された領域を、しっかりと聖霊によって管理できますよう、祈りの剣を向けることができるように、ご一緒に祈りたいと願っています。
 最後に一言お祈りさせていただき、終わりにさせていただきます。

 ハレルヤ。天の父なる神様。御名をあがめて心から感謝をいたします。あなたが私たちを愛してくださっていることを、心から感謝をいたします。私たちは、恐怖によってつながれている者ではなく、愛によってつながれている者であるゆえに、心から感謝します。
 私たちに委ねられている権限を、使うことができますように。一人一人に鍵を与えておられます。その鍵が何であるかを教えてください。
 今から聖餐式を行いますが、この聖餐を祝福してください。主が私たちに大きな愛を表してくださったことを感謝して受け取ります。ここに備えられたパンとぶどうのジュース、イエス様と一つとなる時となりますように。イエス・キリストの御名によって、祈りを御前におささげいたします。アーメン。