「なぜ苦しみを受けるのでしょう?」 

2017年4月9(日)
新城教会牧師 公畑フェルナンド
創世記45章16節〜28節

『ヨセフの兄弟たちが来たという知らせが、パロの家に伝えられると、パロもその家臣たちも喜んだ。パロはヨセフに言った。「あなたの兄弟たちに言いなさい。『こうしなさい。あなたがたの家畜に荷を積んで、すぐカナンの地へ行き、あなたがたの父と家族とを連れて、私のもとへ来なさい。私はあなたがたにエジプトの最良の地を与え、地の最も良い物を食べさせる。』あなたは命じなさい。『こうしなさい。子どもたちと妻たちのために、エジプトの地から車を持って行き、あなたがたの父を乗せて来なさい。家財に未練を残してはならない。エジプト全土の最良の物は、あなたがたのものだから』と。」イスラエルの子らは、そのようにした。ヨセフはパロの命により、彼らに車を与え、また道中のための食糧をも与えた。彼らすべてにめいめい晴れ着を与えたが、ベニヤミンには銀三百枚と晴れ着五枚とを与えた。父には次のような物を贈った。エジプトの最良の物を積んだ十頭のろば、それと穀物とパンと父の道中の食糧とを積んだ十頭の雌ろばであった。こうしてヨセフは兄弟たちを送り出し、彼らが出発するとき、彼らに言った。「途中で言い争わないでください。」彼らはこうしてエジプトから上って、カナンの地に入り、彼らの父ヤコブのもとへ行った。彼らは父に告げて言った。「ヨセフはまだ生きています。しかもエジプト全土を支配しているのは彼です。」しかし父はぼんやりしていた。彼らを信じることができなかったからである。彼らはヨセフが話したことを残らず話して聞かせ、彼はヨセフが自分を乗せるために送ってくれた車を見た。すると彼らの父ヤコブは元気づいた。イスラエルは言った。「それで十分だ。私の子ヨセフがまだ生きているとは。私は死なないうちに彼に会いに行こう。」』


 ハレルヤ!おはようございます。いつも私たちのために、インターナショナル部会のために祈ってくださり、本当に感謝します。

 最近何ヶ月かに、インターナショナル部会では、様々な出来事がありました。それで今からインターナショナルの写真を、少しですがお見せしたいと思います。

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 まずは最初の写真ですが、二月にバプテスマがありました。ジョアナさんと言います。いつも私たちはなるべく兄弟姉妹たちが八月にバプテスマを受けるようにします。なぜかというと、川で洗礼式をするのですが、終わった後にバーベキューをして楽しむからです。しかし、この姉妹は八月まで待てないということで、少し寒かったですが、二月に行いました。

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 これは先月の最後の日曜日ですが、サンデースクールの修了式の写真です。サンデースクールには、四つか五つくらいのクラスがあります。年齢によって分けていますが、学校と同じように四月からクラスが変わります。この子たちは、自分たちのクラスを修了して、修了証をもらったところです。いつもはこんな恰好をしては来ないのですが、特別に修了式ということで、綺麗な恰好をしてきました。

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 最後ですが、この最後の何ヶ月間か、たくさんの子どもが生まれました。浜松と新城の教会で生まれました。二週間前ですが、このイサク君の献児式を行いました。本当にこれは奇蹟でした。なぜかというと、この姉妹は一回赤ちゃんを失っていて、もう妊娠できないかもしれないと言われていたからです。しかし神様は憐れみによって赤ちゃんを授けてくださり、この献児式ができました。

 どうぞみなさん、続けてインターナショナルのために祈ってください。
 それでは、メッセージにいきたいと思います。

 信弘先生が今日のメッセージの中心である聖書箇所を読んでくださいました。読んだ箇所から、またもう少し前の箇所を調べると、それが困難な時代であったことがわかります。世界はききんに直面していました。エジプトはパロの夢の通り、またヨセフの解き明かしの通りに、エジプトに七年間の印象的な大豊作の時代がありました。しかしその後、全世界にききんが訪れました。それはとてもひどいききんで、億万長者で繫栄していたヤコブも自分の全ての財産が影響を受けているのを目にしました。食料がつきかけ、資源も枯渇し、緊急の事態に陥っていました。
 その世界的なききんが、ヤコブの家族にも訪れていました。ですので、ヤコブは息子たちに穀物を買わせるため、エジプトに送りました。ところがそこで息子たちはスパイだと責められます。ヤコブにとっては事態が悪い方向へ動き始めました。なぜなら、彼の息子たちはスパイの疑いを掛けられ、エジプトで息子の一人、シメオンは拘束され、監禁されました。それがヤコブの悲しみを増しました。自分の息子が囚われたのです。以前は、最愛の息子であったヨセフが、二十二前のできごとでしたが、猛獣に引き裂かれて亡くなったと信じていましたから。そして今、エジプトの支配者が、ヤコブに、唯一穀物を売る方法として、自分の右腕でもあるベニヤミンを含めた息子全員を行かせることを要求しました。

 これを思うと、ヤコブは泣き出しました。苦しみました。「全ての状況が私に立ちはだかっているようだ。」と。おそらく彼は、昔の罪を思い出していたかもしれません。兄エサウをだましたこと、彼に悪いことをしたこと、父親をだまして、兄のふりをして祝福を奪ったことを考えていたかもしれません。そして彼は、これは私の罪の結果で、それがすべて私に来ていると考えました。家族にききんが襲い、私の息子たちは捕らえられ、一人の息子は死に、もう一人愛する息子を差し出さなければならない。そして家族がまるでスパイかのように疑いをかけられている。全ての状況が私に対して立ちはだかっている!このようにヤコブは考えていました。

 しかしヤコブは、その時神のみこころが成就しようとしていることを知りませんでした。神の計画はその時、制作中だったのです。そして良い知らせが届きます。彼の息子たちが急いで戻ってきてこう言いました。「お父さん、ヨセフが生きていた!そしてエジプトを支配しているのは彼です!」
 ヤコブは信じられませんでした。二十二年間、彼の死んでいた思い出がよみがえりました。苦しい、忘れたかった過去が、今、ヨセフは生きているという知らせが来たのです。信じられませんでした。しかし息子たちが新しい晴着を着ているのを見たり、贈り物でいっぱいになったカバンを見たり、エジプトの車を見たり、穀物や食物、エジプトの最良のものが十頭のロバと十頭の雌ロバに積んであるのを見て彼は叫びました。「それで十分だ。私の子は生きている!私の子は生きている!」 

 ヤコブが知らなかったこと、彼の最後の二十二年間というのは、神はご自分のご計画を準備されていた期間ということです。神様はご自身のみこころを全うされるために必要なすべての条件を造り出しておられたのです。それは神のみこころが成就するためでした。そして、ききんの二年目に、神の一押しがありました。そのききんによってヤコブがエジプトを頼っていくようにされたのです。神は、ヤコブには父イサクのようには言いませんでした。「エジプトへは下るな。ペリシテ人の地に滞在しなさい。この地で耕しなさい。」とは言いませんでした。なぜなら神様は別の計画を持っておられたのです。別の使命があったのです。

 そして、エジプトに穀物を買いに行かせたこと、シメオンが捕らえられたこと、息子たちがスパイという疑いを掛けられたこと、それら全てに目的がありました。神様はヤコブの背中を押したかったのです。
 その理由は、1)息子ヨセフに会い、死んだ夢をヤコブに取り戻させること。2)彼の全ての財産を守ること。なぜなら、もう今からは自分の財産を使うことなく、エジプトの豊かな富を使って生きていくからです。3)ヤコブに豊かに与えるため。エジプトのパロは、「来なさい。エジプトの全ての最良のものはあなたがたのものだから。」と言いました。4)エジプトに連れて行くのは、イスラエルの家族はただの家族ではなくて、目的をもった国民となるためでした。

 ですから、今日あなたに伝えたいことがあります。それは神の計画があなたの中で胎児のように育っていることです。あなたは神の計画を今まさに、生み出そうとしているのです。
 ヤコブの苦しみは終わりました。食糧を得るための努力は終わりました。なぜなら、エジプトの豊かさが彼のものになったからです。名誉も手に入れました。エジプトでヤコブは、普通のエジプト人のようには生きませんでした。むしろ族長のように生き、パロとも顔をあわせて会い、願いを聞いてもらうためではなく、族長としてパロを祝福しました。大きな者が小さな者を祝福するのです。そして十七年間エジプトで生きました。家族が増えたのを見てから死にました。エジプトの民は彼を愛したので、マクペラの洞穴に葬る前に、七十日間悲しみました。エジプト人たちはとても泣いたので、その地はエジプトの嘆きと呼ばれるようになりました。苦しみが終わり、栄誉が与えられました。

 兄弟姉妹、神は必ず神のみこころをあなたの中に成し遂げようとしておられます。神の計画はあなたの中で宿っているのです。私たちは、日々、政府の残念なニュースを耳にします。大統領や、総理大臣の悲しいニュースを耳にします。会社の悪いニュース、経済の悪いニュース、様々な場所から悪いニュースを耳にします。
 しかし、私はこう言いたいのです。私たちは神の民であって、神のご計画は私たちの中に宿っている!と。

 ヤコブのストーリーを見ると、ヤコブが自分の兄を装って祝福を奪った時に、イサクは目が見えていませんでした。私はなぜこの族長は目が見えなかったのか、と疑問に思いました。それは神の計画が成就するためでした。何も偶然には起こりません。私たちクリスチャンにとって、偶然というものはありません。
 聖書の中に、『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる。』と書いてあります。
 私は疑問がありました。なぜイサクは目が見えなかったのか?と。イサクには二人の息子がいました。エサウとヤコブです。イサクはエサウを愛していましたが、しかしエサウは神に選ばれた人ではありませんでした。エサウは不信心な者でした。また信仰のないカナン人の女性を妻としていました。それが親であるイサクとリベカを苦しめていました。エサウは神の祝福をないがしろにし、侮って、それを豆の煮ものと交換しました。その価値に気をかけませんでした。
 老年になって百歳を過ぎた頃、イサクは盲目になっており、エサウを祝福しようとしていましたが、その時、祝福は神に選ばれたヤコブに与えられました。それは神が、あなたや私を選んでくださったのと同じです。なぜなら聖書の中に、『あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選んだのです。』と書いてある通りです。
 ヤコブは神に選ばれた者でした。しかし、イサクはヤコブを祝福しないので、神はイサクの目を見えなくさせました。それで、知らないうちにイサクはヤコブを祝福しました。それは、神の計画を完成するためでした。

 そして、私にはもう一つ疑問が湧きました。「主よ、ヤコブはどうして逃げなくてはならなかったのでしょうか?お金も持たず、どうして殺されそうになって隠れなければならなかったのですか?」と。すると、主はこう答えられました。それは私の計画が成就するためであると。
 ヤコブはカランの地まで行かなくてはなりませんでした。そこはイサクとリベカの親類がいるところでした。なぜでしょう。
 1)それはカランへの道の途中で神に出会うためでした。彼の持っていた苦しみによって神と和解することができるためでした。苦しみによって自分の人生を神に捧げるようになるためでした。また、その苦しみによって神に誓願を立てるためでした。神が背中を押されたのです。神様はヤコブと共にいて、そして彼が神ご自身と顔と顔を合わせて出会うようにされたのです。
 2)ヤコブが神の民から妻をめとるためでした。
 3)カランの地で豊かになるためでした。それは、父からの遺産を受け継いだから豊かになったと言われないためでした。そうではなくて、天の神から受けた財産で豊かになったのだと言われるためでした。

 家に帰ったら、もう一度この創世記二十八、二十九、三十章を読んでください。多くの神のご計画を見ることができます。
 例えば、ヤコブはラケルに激しく恋をしていましたが、彼のしゅうとは結婚式の夜に天幕に姉妹のレアを入れました。ヤコブは、「主よ、なぜですか。」と聞いたかもしれません。「私はあなたと誓願を立てたじゃないですか。あなたが私の神となり、守ってくださるようにと契約をしたではありませんか。私の全ての道を守ってくださると言ったではありませんか。なぜ私は騙され、愛してもいない女性を与えられたのですか?」と。そしてもう一人のためにも働かなくてはならなくなり、そして妻が二人となったのです。
 神様がなさったことをよく見てください。彼が愛していない妻から、子を一人与えました。また二人目、三人目と与え、そして四人の子を与えてくださいました。
 そして彼が愛していた妻は自分が子を産んでないのを見て、夫に泣きつき、「私に子どもをください。」と言いました。「私は命を与える神なのか。」とヤコブはラケルに言いました。するとラケルは女奴隷をとり、私の女奴隷と子供を作りなさいと言ったので、一人生まれ、そして二人の子どもを持つようになりました。
 レアは自分が子を産まなくなったのを見て、彼女もまた自分の女奴隷をヤコブに与えました。そして、子どもが生まれました。二人目も生まれました。
 神はその後、レアにまた子を与えました。そしてやっと神はラケルに子供を与えました。二人与えました。それがヨセフとベニヤミンなのです。

 このすべての二人の女性の中のいさかいは何のためだったでしょう?私は、きっとヤコブは祈り場所へ行き、神に尋ねたと思います。なぜ今、私の妻たちは敵対しあうのか、と。これは神のみこころが成就するためでした。彼は、もはや一人ではなく、家族となりました。神様は彼が増えることを望まれていたのです。神の計画は、ただ一人の人を祝福するのではなく、一つの国民をご自分の民として選ぶことでした。そしてカランの地で、彼は増えたのです!

 私たちが、天が閉ざされていると感じる時、私たちは多くの疑問を持ちます。しかし覚えてください、神のご計画はあなたの中に胎児のように育っているのです。多くの兄弟姉妹たちが、あかしをしています。悲しみや、問題や、迫害などの苦しみを通った経験のあかしをしています。
 しかし、そのどんな時にも、神様のみこころがあり、今彼らは祝福を楽しむことができています。

 しかしそのような痛みと苦しみの時、神に思わずこう聞いているのではないでしょうか。「主よ。どうしてですか。なぜこんな痛みがあるのですか。」と。すると、あなたは神がこう語るのを聞くでしょう。「神の計画があなたの中で育っている。私はあなたを祝福へ、救いへと押し出しているのだ。私の守りと祝福はあなたに与えられる。」と神様は言われます。
 たぶん今あなたは失望という井戸の中に落ちているかもしれません。出口がないと感じているかもしれません。悪いことが起きている、それも最悪のことが人生に起こっていると感じているかもしれません。あなたのために天が閉ざされているような感じがして、全てが悪い方向に動いていると感じているかもしれません。そして、あなたの痛みには終わりがないと思っているかもしれません。また、悪魔があなたの欠点について苦しめていて、過去に犯した罪を思い起こさせているかもしれません。日々責められているかもしれません。あなたは黙るしかなく、自分の痛みを人に言えないでいるかもしれません。ヤコブと同じように、あなたは言うかもしれません。「全ての状況が私に立ちはだかっている!神様は私に罪を思い出させている!」と言っているかもしれません。
 しかしそうではありません。それは、神の計画があなたの中で始まっているからなのです。痛みが強ければ強いほど、産む瞬間は近くなるのです。痛みが大きくなれば、祝福も大きくなるのです。おそらく今あなたは妊娠最終週にある妊婦のように歩んでいるかもしれません。ああ、もう歩けない。寝ることができない。全身痛い。全てが不快であると。
 それはあなたが今まさに、神の祝福を生み出すところにいるからです。しかしときどき私たちにはそれがわかりません。

 私はある話を読みました。一人の男の子が船を作りました。この男の子は時間をかけて船に色を付けました。いろいろなものを取り付け、船を美しく仕上げました。そして川に浮かべました。それを見ながら、川辺に沿って船を追いかけていました。そのうちどのようにしてかはわかりませんが、船は一つの流れにのり、ヒューッと流され始めました。男の子は心配で走り始めましたが、船はどんどん流されていきました。そして男の子は、叫び始めます。「誰か助けて。僕の船が、僕の船が!」と。
 すると石が船のすぐ横に落ちました。ドボンと落ちて、船が沈みそうになりました。そしてまたもう一つ石がドボンと落ち、また沈みそうになりました。見ると、その男の子の親友が船に向かって石を投げていました。なぜ親友が僕の船に石を投げるんだ?男の子は怒ってその友達を見ましたが、その子は石を投げ続けていました。じきに男の子は理解しました。船の近くに落ちる石の衝撃によって、水が船を別の流れに押し流していっているんだ!ということを。その友達がしていたことは、船を沈めるためではなく、船を救出するためだったのです。

 兄弟姉妹、神は私たちが別の流れに乗るようにされたいのです。たぶんあなたは人生の嵐に会っていると思います。そして、その不意の衝撃の中で生きていて、ドボン、ドボンと石を投げ込まれているかのようです。自分の友達がいかにも自分に敵対して攻撃しているかのように思えているかもしれません。全てが私に立ちはだかっている!と思っているかもしれません。

 しかし、そうではありません。神の計画があなたの人生の中で完成するためなのです。聖書の中で、ヨブがすべてを失ったときに何と言ったかご存知ですか?ヨブ記一章二十二節をお読みしたいと思います。

『ヨブはこのようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった。』

 目的があるのです。あなたには、痛みがありますか?神様の目的があるのです。そして、神様のみこころ、目的というのは、悪いものではありません。エレミヤ書二十九章十一節に書いてあります。

『わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。‐‐主の御告げ‐‐それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。』

 神様のみこころは良いものです。あなたに将来と希望を与えるものです。

 しかし、あなたは神様に信頼しなければなりません。そして、神様の時を、待たなくてはなりません。ダビデは詩篇四十篇一節〜二節で、こう言っています。

『私は切なる思いで主を待ち望んだ。主は私のほうに身を傾け、私の叫びを聞き、私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた。』

 この「切なる思いで主を待ち望む」とは、「さて、何が起こるか様子を見よう。」と言って腕を組んで待っているという表現ではありません。彼は、切なる思いで待っている間、彼はうめき、「主よ、解放してください。」と、叫んでいました。「この失望の井戸の中から引き上げてください。」と叫びました。ダビデは待ってはいましたが、同時に叫んでいたのです。
 全てが暗闇であると思える時、すぐに夜明けが訪れます。あなたの人生に祝福の朝が来ます。イスラエルの民が主に叫んだ時、何が起こったでしょうか。出エジプト記二章二十三節〜二十五節、

『それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。イスラエル人は労役にうめき、わめいた。彼らの労役の叫びは神に届いた。神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエル人をご覧になった。神はみこころを留められた。』

 この後、神様はモーセを送りました。その民を解放しました。神のみこころはすでに成就していました。イスラエルは、すでに一つの国民となっていました。「さあ、今、イスラエルよ、あなたに約束した地があります。」と主は言われました。
 ですから、もう一度、あなたに言いたいです。あなたの苦しみに出口が現れます。あなたのエジプトからの出口が与えられます。あなたの痛みに終わりが来ます。
 今日あなたが感じている事は、赤ん坊がおなかを蹴る様子のようで、出産の痛みなのです。なぜ痛いのでしょう?なぜならあなたは神の計画を生み出す時にあるからです。もしあなたがしるしを見始めるなら、ヤコブが穀物や、車を見た時のように、神をほめたたえて、宣言しましょう。「私の祝福が来た、私の祝福が来た。」と。

 今日、お聞きしたいのですが、何人の方が今、生みの苦しみを感じているでしょうか?何人の方がなぜこのような人生かと疑問に思っているでしょうか?何人の方が今日、私に起こっている事柄は私に向かって立ちはだかっていると言っているでしょうか。
 あなたに言います。あなたはまさに出産しようとしているのです。神の祝福を生み出そうとしているのです。
それでは、お祈りしたいと思います。

 主よ、今日、朝のみ言葉を感謝します。ここにいる新城教会の一人一人のためにお願いします。また、インターネットで見ている方々のためにもお祈りします。イエス様の名前によって、どうぞ主よ、平安を与えてください。そして来ようとしている良いものを確信できますように。一番人生の中で良いものが来るという確信を持つことができますように。
 あなたの祝福を生み出そうとしています。その痛みが強いかもしれません。しかし、一人一人のために今お祈りします。苦悩の中に生きている人たちに、苦しみの中に生きている人たちに、メッセージの中で語ったように、神の計画が今まさに成就しようとしていることを信じます。
 そして、あなたの思いは平安であり、あなたの思いは繁栄であり、あなたの思いは豊かさであります。そしてここにいる皆が最良のもので満たされるようにと祈ります。あなたの祝福を見ることができますように。主よ、祝福してください。私たちのために戦ってください。すぐに私たちがあなたの祝福を見ることができますように。そしてこの苦しみが、この苦悩が、これが一時的なものであるということが理解できますように。それがあなたのご計画の内であるということが分かりますように。あなたが私たちに大いなることを準備されていることを信じます。
 イエス様の名前によって祈ります。あなたに感謝します。私たちの人生に大いなる事が起こることを信じます。あなたの良いみこころを感謝します。それが私たちの人生の中に完成します。イエス様の名前によってお祈りします。アーメン。