「-2017年- あなたは良いもので満たされます!パート11 
 〜圧倒的な勝利者となる パート2〜」

2017年5月7(日)
新城教会主任牧師 滝元順
ローマ人への手紙8章35節〜39節

『私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。』

 ハレルヤ!おはようございます。今日はゴールデンウィーク最後の日ですが、明日から学校、仕事が始まると考えると、ちょっと憂鬱になるかもしれませんが、今日は新しい力を受けてお帰りになっていただきたいと思います。

 ゴールデンウィーク、教会は大変忙しい毎日でした。しかし本当に祝福されました。

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 三日、四日は、二十四時間連鎖PPHが開かれました。もう二十五年間続けられているのですが、多くの方が集まってくださり、大変すばらしい集会でした。今回のPPHは、バラエティーに富んでおりまして、聖会があったり、セミナーがあったり、楽器のクリニックもあったり、ウクレレの賛美もあったりしました。そして、スペシャルバンドのコンサートもありました。二十四時間賛美し続けた後は、みんなでバーベキューをして、体力を回復して帰って行きました。天国にいるような、素晴らしい一日となりました。

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 そして翌、五月五日は待ちに待った、新城教会の遠足でした。こんなにも晴れて、最高の地引き網日和でしたのですが…。

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 海に行ってみたら、波が高くて、残念!ということで、来年のお楽しみ!ということになったのですが、またもや、一年先送りになってしまいました。

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ちょっと残念でしたが、海で遊んだり、バーベキューをしたり、すごく楽しかったです。八十人くらいの方々が、楽しい一日を過ごしました。お祈りを感謝します。

 昨日、一人のおばあちゃんが、天に帰って行かれました。九十二歳でした。
 最近は施設に入っておられて、教会にはなかなか来られなかったのですが、実は先週、不思議なことがありました。私は家内と豊橋に行ったのですが、家内が、「ちょっとおばあちゃんの所に、立ち寄ったほうがいいんじゃないの?」ということで、立ち寄って祈りました。具合はあまり良くなかったけれど、一緒にお祈り出来ました。そうしたら、昨晩、亡くなられて、明日は召天式です。主が教えて下さったんだと感謝しました。
 このおばあちゃんが救われた時のことは、忘れることができません。十年くらい前のことですが、おばあちゃんの娘さんがクリスチャンで、ある日、教会に来られました。おばあちゃんは、自分の家から娘の家に遊びに来ていました。
 実はこのおばあちゃん、どこの出身かというと、三重県伊勢市の伊勢神宮の外宮の目の前が自宅でした。地域ぐるみで、伊勢神宮の支配にはまりきっている場所です。娘さんと祈りがあって、おばあちゃんはその間、ヘブンズ・カフェで待っておられました。
 二時間くらい待ってくださったので、私は申し訳ないと思って、終わってからおばあちゃんの所に行って、「おばあちゃん、初めて教会に来たの?」と聞くと、『教会は初めてだ。』と言っておられたので、「じゃぁ一言、祝福のお祈りをしますね!」と言って、おばあちゃんに近づいた途端です。おばあちゃんは、『うぁー!なんだこれ!』と叫び始めました。
 何が起こったのかと言うと、私がおばあちゃんに近づいたら、おばあちゃんの足が突然、ガクガク震え始めて、目の前に、鏡に写るように自分の姿が写し出されたというのです。見ると、体の中に真っ黒い煙と、灰色の煙の二種類が満ちていて、私が、「おばあちゃんが、暗闇の力から解放されますように!アーメン!」と祈った途端、頭から黒と灰色の煙がボーンと出て行き、体じゅうが白い雲で満ちたというのです。
 それでおばあちゃん、家に帰ったら神棚を外して、それからクリスチャンになりました。
 ああいう形で人が救われるといいと思います。普通では、伊勢神宮の目の前に住んでいる人は、自分が拝んでいる対象が神じゃなくて敵だなんて、絶対に分からないです。しかしおばあちゃんは、救われるのに一秒もかかりませんでした。火山のように爆発して、暗闇が出て行ってイエス様が主であると、瞬間的に分かったのです。これからそういうことが頻繁に起きるといいな、と思っています。
 主が訪れられる時、普通では考えられない方法で、人は救われます。

 先週、先ほど賛美リードをした開先生夫妻の新しいCDも出たのですが、もう一つ、その影に隠れて一冊の本が出ました。それは何かというと、これです。

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 「クリスチャンって最高だ! 改訂版」です。これが新しく出ました。私は生まれて気がついたら、牧師の息子でした。最悪の所に産まれたと初めは思いました。しかし、クリスチャンになり、牧師にまでなりました。教会の息子がクリスチャンをやっていて、牧師をやっていたら、キリスト教はほんまもんだと信じていいです。そしてその息子が、「クリスチャンって最高だ!」と言っているんですから、間違いありません。私は「クリスチャンって最高だ!」と気づき、十数年前にこの本を書いたのですが、この度改訂することになりました。
 読み直してみたら、十数年前は簡単に語れていたことが、このご時世では危ないんじゃないか?と、社会の気運が変わっている感じでした。伝道用に良い本だと思いますので、お求めいただきたいと思っています。

 先週は雅也先生がメッセージを語りましたが、すばらしいメッセージでした。私も本当に恵まれました。新城教会には、私以外に、優秀な先生方が多くおられます。今、「うんうん。」と、栄子伝道師さんが頷いておられますが、よく分かっていますね。素晴らしいメッセージを語ってくださいます。私はいなくてもいいんじゃないかと思います。
 主任牧師のメッセージを立てながら、新しい視点を加えてメッセージをされていました。なかなかあのようなメッセージは語れないと思います。
 ハリガネ虫なんて、初めて知りました。昔よくカマキリの解剖をやり、腹の中の長いやつは何かと思っていましたが、初めてハリガネ虫ということが分かりました。人間だけが知者だと思っていたけれど、神は知恵を被造物全体に与えておられるんだということが、よく分かりました。

 それと共に、善悪を知る木の実から、アダムとエバが実を取って食べたのが、知恵の中に、サタンが悪知恵を仕込んだという事が分かりました。
 神様が与えて下さる知恵と知識によって生きるなら、幸せになることができますが、悪魔が入れた悪知恵で生きると、問題は起きるは、不幸にはなるはと、最悪な人生になるわけです。
 悪魔に吹き込まれた悪知恵を取り去って、神の知恵と知識によって生きる。それが教会の目的でもあり、使命です。

 今日は「圧倒的な勝利者パート2」ということでお話しさせていただきたいと思います。

ローマ人への手紙八章三十七節〜三十九節、

『しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。』

 私たちが圧倒的な勝利者となるには、神の知恵と知識で生きることに尽きるのですが、それを総括し、一言で表すならば、「神の愛の中に生きる」ということだと思います。
 ここで、『私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。』とあります。神の愛にしっかりとつなぎ止められ、神の全幅の愛に生きるならば、その中に神の知恵と知識は含まれていますから、幸せになるはずです。
 しかし、人類が最も重要視している愛の中にも、やはり、悪魔はいろんな悪知恵を仕込んでいます。

 三年くらい前に話したことがあるので、思い出していただきたいですが、今日も、誰かと熱烈な恋愛をしている方がいるかもしれません。また過去に、私は熱烈な恋愛をした経験がある!という人はスイッチオン!あれ?手を挙げないですね?私だけですか。
 さて、恋愛感情って一体何なのか?近頃、脳科学が発達して、恋愛感情は、脳中のホルモンの作用だというのです。あの人が好きで好きでたまらない!と言う感情は、脳の中の状態が異常を期している状態だそうです。私が言っているのではなく、脳科学者が言っていることですが、みなさんの中で、誰かのことが好きで好きでたまらん!という方は、脳が異常らしいです。それも、脳中のホルモンのバランスが崩れている結果らしいです。
 しかし人間って、バランスが崩れると、元に戻そうとする作用が働くので、異常なホルモン分泌は、だいたい三年〜四年で元に戻るそうです。「あぁ〜どおりで・・!」と言うかもしれません。大恋愛中の方、今、何年目ですか?二年?あと一年ですよ。そんな感じですが、三年目くらいで離婚する人が多いのも、そのせいだというわけです。「なんだ、愛もホルモンの作用かよ!」というと、なんか夢も希望もなくなりますよね。

 でも、ここに記されている神の愛とは、「いつまでも引き離されることがない愛」を教えていますから、実際の生活の中で体験する愛と、神の愛とは違ったものということになります。神の愛に関して、よく知らないといけないのです。
 案外、イエス様と出会って「最高!イエス様大好き!」と言っても、三年くらいで教会からいなくなる日本人は多いらしいです。日本のクリスチャンの平均信仰寿命は、だいたい三年だそうです。日本って、なかなか教会が成長しないのは、三年くらいで教会を去る人が多いからと言われます。日本のクリスチャンは、神の愛というよりも、感情的な、脳内ホルモンの愛で、イエス様を捕らえているからかも知れません。神の愛と言っても、人間的感情を神の愛としていても、うまくいかないということです。しかし、神の愛に関して知るならば、私たちは圧倒的勝利者になるはずです。

 ある律法の専門家がイエス様に一つの質問をしました。それがマタイの福音書二十二章三十四節〜四十節にあります。

『しかし、パリサイ人たちは、イエスがサドカイ人たちを黙らせたと聞いて、いっしょに集まった。そして、彼らのうちのひとりの律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた。「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」』

 律法の専門家は、「ラビ」と言って、旧約聖書に出て来るモーセの十戒を、ユダヤ教では細分化して、その内容について詳しい人の事です。すべてを知っているような人がイエス様に、「律法の中で最も大切な戒めはどれ?」と、引っかけ問題みたいな質問をしたわけです。
 しかしイエス様のお答えは、見事でした。十戒を、二つに、それも「愛」という紐で、前半を「神を愛する」という紐で結んで、後半を「隣人を愛する」という紐で結んで束にされたのです。
 ということは、人生の中で最も大切なことは何かといったら、やはり愛だということです。

 みなさんの中で、「私は愛という言葉が大嫌い。」という人はいないと思います。キリスト教は愛の宗教だと言われますが、この愛は人間的な愛ではなく、神の愛が中心軸なのです。
 では、神の愛って、どういうものなんだろうか?私たちは神に愛されている、私たちも神を愛するとは、何でしょうか。恋愛のように、目の前に対象があって現実的に、神と親しく交わりが出来るわけではありません。目に見えない方を、どうやって愛したらよいのかです。

 しかし、イエス様は、神の愛を、具体的に、一つの例話を通して明かにされました。それが何かというと、マタイの福音書二十二章と関連する、ルカ十章に述べられている「良いサマリヤ人の例え」を通して教えられました。実際的な行動が、裏返せば、神を愛することにつながると教えられたのです。
 神を愛することと、隣人を愛することは、以前にも話したことがありますが、コインの裏・表のようで、「神を愛する」と表に書いてあったら、裏面は「隣人を愛する」とあり、それは表裏一体です。

 神を愛する具体例が、ルカの福音書十章三十節〜三十七節の、サマリヤ人の話です。みなさんもご存じだと思いますが、一度、読んでみたいと思います。

『イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」』

 このストーリーの中に、神を愛するとは、具体的にはどういうことか、教えられています。この例話は大変分かりやすいですから、読んだら分かります。倒れている人を助ける。それも、とことん助けてあげるのが、隣人愛です。
 しかし、イエス様の時代の背景を知ると、もっと具体的に何をすれば、神の愛を体験できるのかが、分かって来ます。

 良きサマリヤ人のストーリーは、イエス様とラビ、ユダヤ人同士の会話です。登場人物も、祭司とかレビ人、ユダヤ教の教師たちで、ユダヤ人です。しかし倒れていた人を助けたのは、サマリヤ人でした。たぶん倒れていた旅人も、ユダヤ人、同胞であったと思われます。

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 この時代的背景を見ると、イエス様の時代、イスラエルはどんな状況かが理解できます。当時は、ユダとベニヤミン部族が作った「南ユダ王国」の子孫がエルサレム付近には住んでいました。その人たちはユダヤ人と呼ばれていました。
 しかし北のほうには「北イスラエル王国」の子孫が住んでいて、サマリヤ人と呼ばれていました。イエス様の時代、北イスラエルと、南のユダの名残がまだまだ強く残っていました。

 実は去年、私はイスラエルに行きまして、普通、イスラエル旅行は、かつて南ユダだった地域を主にめぐるのですが、私はあえて、北イスラエル地域のほうに行きました。それは現在、パレスチナ自治区と呼ばれています。今でもユダヤ人たちは、サマリヤ人とは仲良くありません。ユダヤ人たちはユダヤ教といって、黒い服を着ているのですが、サマリヤ地方に行きますと、ゲリジム山で礼拝している、サマリヤ教の人たちがいます。服の色も違うし、今でもあまり関係は良くありません。

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 イエス様の時代って、ユダヤ人とサマリヤ人は、どうだったかというと、イエス様が生まれる百年くらい前、ヨハネ・ヒルカノスという南ユダの王が、ユダヤ教とサマリヤ教の宗教的対立を解決するためと言って、ゲリジム山にあったサマリヤ人の神殿を武力で破壊し、多くのサマリヤ人達を殺したのです。

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 このような歴史的な背景の中、ユダヤ人とサマリヤ人がどういう感情を持っていたのか推測に堅くありません。
 百年くらい前の出来事は、現代でも、息づいていますよね。今から二千年前ですから、話題が豊富であったわけではないですから、百年前の事件は、つい昨日のように、民衆の間に覚えられていたはずです。両者には、強い対立があった事が推測されます。
 このような生々しい民族紛争のただ中で、ユダヤ人のイエス様が、ユダヤ教の教師たちに、あたかもサマリヤ人側に立つかのような発言をされたわけです。
 そして、ユダヤ人たちに対して、「サマリヤ人のように振るまえ!」と告げたわけですから、相当、インパクトの強い、現代の我々とは全く違った感情があったはずです。

 神の愛とは、隣人を愛する愛ですが、これは民族間の対立を越えろ!ということです。
 どうでしょうか。人間って、遠い国の人とはあまりもめませんが、近い国の人とは案外もめます。日本人だけが住んでいる時はいいのですが、周囲に、他の国々の人たちが住むようになったり、一緒に生活するようになると、途端に、日本人は日本人魂のスイッチがオンになるのです。
 しかし、民族的な感情意識を捨てて、お隣の民族の人たちを、自分と同じように愛することができるのか、という問いかけでもあったわけです。
 今、日本と、お隣の朝鮮半島情勢が、大変微妙です。感謝なことに、新城教会は日本人の方も、韓国から来られた方も、自分のルーツが朝鮮半島にある方もおられます。しかし、壁なくお交わりができることは、素晴らしいです。
 私たちは、もう一度、微妙な時期にあって、神の愛とは何かを、再確認しなければならないと思います。

 関係者の方もおられるので、なかなか話は難しいですが、今、北朝鮮が日本に対して挑戦的な態度を取っています。そういう時、日本人はどう感じますか?日頃のニュース報道を見たら、必ず、むかつきますよね。
 もしもみなさんが道を歩いていて、北の首領の太った人が倒れていたらどうしますか?助けますか?助けませんか?たぶん、助けないでしょう。
 ユダヤ人とサマリヤ人は、同じような状況でした。その状態から、神の愛は語られているのです。

 教会に、いろんなルーツの方がおられるのは、本当にすばらしいことです。私たちは天国人として、日頃の報道や、マスコミの考えに流されないようにしなければなりません。社会に対立が深まれば深まるほど、神の国の住人は、祝福を祈らなければなりません。一つになることを願わないと、神の愛は実現しないからです。

 私は先日、三日間お休みをもらったので、家内と旅行に行きました。韓国の釜山に行きました。釜山旅行、安かったです。なぜならば、釜山の日本領事館の前に、慰安婦像が設置されて、両国関係が悪くなったから、観光客が行かなくなり、安くなったのです。そのようなときが、賢い旅行のチャンスです。それで私と家内は、釜山に行きました。領事館の前にも行きました。「ここに設置したのか・・・」という感じで、「ここに置いたら関係悪くなるわ」という位の位置関係でした。
 しかしそれを支持しているのは、すべての韓国人ではないわけです。一部です。一部が過激なことをするわけです。でもどうでしょうか。ああなると、日本人は、韓国人すべてが悪いように考えます。それがいけないわけです。
 私たちは、神の愛で、民族や国を越えて、愛し合う存在にならなければなりません。イエス様が帰って来られた時、一つの国、神の国にまとめられます。私たちがある国のアイデンティティーを持っていたり、民族のアイデンティティーを持っていたら、神の国に入ってから問題になります。「あなたはどこから来たんですか?韓国?じゃぁ、一緒に住めません。」
 そうなったら、神の国ではなくなります。神の愛とは、どんな国の人でも、どんな民族でも、どんな歴史的背景があったとしても、等しく、愛して行動しなければいけないのです。

 ですから、今週なにかニュースを見ても、祈って祝福してください。周りの壁を崩していく時、神の愛が実現します。神の愛とは何かを、イエス様が教えられたストーリーから学ぶことが出来ます。

 しかし、私たちが考えている愛は、ある意味、多種多様です。私たちは気楽に「愛」という言葉を口にし、理解しているつもりですが、愛に関して、人は深く知ってはいないのです。
 一般でも「愛とは何か」に関しての研究は、あまりなされていないそうです。愛の指南書みたいな本は数多く出ていても、愛の本質は研究されていないのです。

 三年前にも、お話ししたことがあるのですが、ユダヤ系のドイツ人であるエイリッヒ・フロムという社会心理学者がいるのですが、彼は「愛するということ」という本を書いて、「愛の本質は何か」について研究しました。
 彼はなかなか鋭く社会を分析して、愛について語っています。彼が言うには、愛とはただの感情じゃないというのです。これは技術だというわけです。技術というのは、習得しなければならない、鍛錬が必要だというのです。ゆえに愛は普通の生活からは得ることができないというのです。愛の本質を得るためには、努力しないといけない、というのが彼の論理です。聖書の考え方とは違うところはありますが、案外、的をついている面もあります。

 愛を実現するために必要なことは、彼によると「ナルシシズムからの脱却」だと述べています。ナルシストとかナルシシズムって、聞いたことがあるかもしれませんが、彼の定義は、「自分の事しか関心がない自己愛」です。誰でも、自分のことは好きです。自分が嫌いという人は普通はいないと思います。やっぱり、自分は、好きです。こんなのがありました。

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I love me. I listen to me. I respect me. 自分が中心となっている人が結構多いようです。
 彼は、今の社会問題は、突き詰めれば、ナルシシズムが中心にあるゆえに問題が起きているというわけです。誰でも、自己愛はあるのですが、彼が述べている自己愛は、「自分のことしか関心がない自己愛」として区別されています。そこから抜け出さないと、幸せになれない、というわけです。
 近頃、自己愛性パーソナリティ障害とかよく聞きます。自己愛が強すぎて精神疾患の一つにまでなっています。自己愛が強い人の特徴七つというのが出ていました。

 一番は、「恥をかくことに上手に対応できない。」となっていました。人間って、誰でも恥をかきますが、恥をかくのが特に駄目な人がいます。
 二番目に「見下すことで自尊心を保つ。」
 三番は、「特別扱いされて当たり前。」
 四番は、「優越感を得るために誰かを軽蔑する。」
 五番目は「根拠のない大きな理想。」
 理想だけは、やたらにでかいが、やっていることなんだ?というような人もいます。
 六番は、「共感することができない。」
 誰かに共感しするよりも、すぐに対論を持って来るというか、「でも、でも、でも、」と主張する人もいます。
 七番目に、「他者との境界線がない。」

 これはある心理学者がまとめた自己愛の特徴ですが、自己愛もいろんな種類があって、一概には言えないのですが。
 自己愛の世界観によって、社会ができているから、社会に混乱があるというわけです。
 近頃の人たちは、ほとんど愛を「愛する」というのではなく、「愛される」問題として扱っているというのです。誰かを愛するのではなくて、「愛されるため」にはどういう人間になったらいいのかを考えているというのです。
 男性なら、「どうしたら女性に愛してもらえるのか」で、地位とか名誉とか教育などを身につけ、男を磨くと言います。
 女性なら、「どうしたら男性に愛してもらえるか」を中心に、女子力を磨くというわけです。
 愛すると言うけれど、実際は受け身で愛を捕らえているというわけです。愛されることが人の価値観の中心になっている社会です。その中でも究極的な姿が、ストーカーだそうです。
 ストーカーって怖いですね。ストーカーにつけられたことがある人、いますか?一回くらいつけられてみたいと思いますが、誰もついてこない悲しさもあります。ストーカーとは、自己愛の究極的な姿だそうです。「俺の自己愛の実現のためには、おまえが絶対に必要なんだよ!」という感じです。強制的につきまとうという問題が社会に溢れています。
 「本当にあの人、自己愛が強くて嫌だ!」と言って、「ちょっと距離を取ろう!」と、自己愛性パーソナリティー障害気味の人との付き合い方の本なども出ています。

 でも、フロムが鋭いのは、その原因がどこにあるのかを指摘している点です。それは、「あんたが悪い」というのではなく、その原因が、「経済の中にある」と指摘しています。市場経済の中で、自己愛のキャラクターが作り上げられるというのです。

 会社では、なるべくコストを下げて、価値ある商品を開発しているじゃないですか。そのような社会構造の中で、私たちは日々暮らしています。そうなると、価値観が市場経済によって支配されるというのです。何もかもが商品化されて、物質的成功が最も価値あることとされ、愛情関係さえも、市場経済と同じ原理に従っているというのです。
 自己愛の根源は、我々が毎日身を置いている市場経済の中にあるという指摘です。それは霊的戦いに通じる点だと思います。
 最も強い暗闇の勢力はどこに働いているのか、それは金の領域です。経済の中に、悪魔は最も強い力を行使しています。経済の中にある価値観は、私たちの愛をも変質させ、神の愛から遠く離してしまうのです。市場経済の原則に身を置きながら、良きサマリヤ人の話を聞いても、なかなか本質を理解できません。

 前回もお話しましたが、戦争は、経済が中心軸で起こります。日本で起こった戦争も、過去を見たら分かります。戊辰戦争から日本の近代史が幕開けしたわけですが、それは薩長と幕府の戦いのように見えますが、その背後にトーマス・グラバーという武器商人が関わっていました。彼はロスチャイルド家の代理人で、高性能な武器を薩長に売り渡し、古い武器を幕府に渡して、日本の革命を成し遂げたわけです。

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 その後日本は、日清、日露、日中、太平洋戦争へと突き進みました。近代の歴史の後ろに、武器商人が常に関わっているのです。儲けるためには、どんな事でもやる。人の命だっていとわない。経済の背後で働いている暗闇に立ち向かうことは、神の愛を維持するために重要です。
 北朝鮮との関係も、経済が関わっていて、すでに武器商人が高い武器を売りに来ています。北朝鮮がミサイルを撃ったら、サードというミサイルしか落とせないそうです。そのミサイル・システムは九千億円と言われます。経済の世界は、暗闇の力が支配しており、神の愛から引き離す力が常に働いています。

 話は変わりますが、今日の午後には、「経済と霊的戦い」というセミナーがあります。今日は、「移動体通信と霊的戦い」というタイトルがついています。
 この間も話しましたが、去年まで私は携帯代が、だいたい一ヶ月一万二千円でした。でも、今は二千六百円になりました。スマホを使っていて、料金を下げたい方、午後からのセミナーにお越しくださいませ。ただ安くするということだけでなく、どういうカラクリがあるのかを考えます。誰がこういう料金システムを考えついたのか、ここから抜け出すのは解放です。
 私が講師ではありません。静かに社会の悪を鋭く見抜く男、鈴木陽介スタッフが講師です。霊的戦い専門課程で、彼は二年間、そのようなテーマを扱っています。経済は真の愛の概念を変え、神の愛から遠く離す力の領域です。その事を知る事は大切です。

 神の愛は、何があっても引き裂かれない、完全な愛だ!と、パウロは述べています。先ほど読んだローマ人への手紙の八章には、不思議なテーマが挿入されています。ローマ人への手紙八章は、普通では考えないテーマが挿入されています。

ローマ人への手紙八章十八節〜二十三節、

『今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。』

 ここで、「うめき」という言葉が使われています。人間のうめきは、「あ行」だと言われます。「あぁ〜、いぃ〜、うぅ〜、え〜!?おぉ〜」、という感じです。うめきとは、人間の感情の表現の中で最も深いものではないかと思われます。
 みなさんの中でも、うめき苦しんでいる方がおられると思います。ここでパウロは、「ともに」という言葉を二回使っています。八章二十二節に、『私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしている』と語っているのですが、「ともに」とは、「シンクロしている」という意味です。誰とともに苦しんでいるのかと言うと、被造物と共にです。被造物全体が、人類と共に「あ〜、い〜、う〜、え〜、お〜」と、うなっているのです。

 私たちは、神の愛は、人間だけに注がれていると自己中心的に考えますが、それは間違いです。そうではなく、神はご自分が造られたすべての被造物を愛しておられて、まず人間を救い、その後、人間を使って、神が造られた被造物全体を解放しようとされているのです。被造物全体への神の愛について理解すると、決して離れることがない、強力な、圧倒的な勝利を与える愛が実現するのです。

 愛とは何か。先ほどは隣人を愛するというテーマでお話ししましたが、ここではもう一歩進んで、被造物全体に対する愛です。
 私たちのうめき苦しみと共に、被造物もうめき苦しんでいることに気づくことが、神の愛の実現につながるのです。

 私は人間だけが大切で、他の被造物はどうでもいいというような、自己愛的考え方を長いこと持っていました。しかしこの頃、その考え方が変わりました。神は、ご自分が創造された、命あるすべてを愛しておられ、彼らのうめきに関して、人は耳を傾けなければいけない事に気づかされたのです。それは究極的自己愛からの解放なのかも知れません。
 聖書が語っている救いは、人の幸福や安らぎのみの事柄ではなく、救いの御業はすべての被造物、自然にまで及ぶのです。神様は、ご自分が造られたすべての被造物を回復して、栄光の中に入れようとされています。
 私たちが被造物のうめきや苦しみに対して、耳を傾ける時に、真の神の愛について分かってくるというのが、ローマ書八章のメッセージではないかと思います。

 私たちは万物の管理者ですから、人間だけでなく、それ以外の神の作品に対して、注意深く耳を傾けなければいけないと思います。
 土地と人は関連があると以前、話しました。『わたしが命じておいた木から食べたので土地はあなたのゆえに呪われてしまった。』とありますが、『今やあなたはその土地に呪われている。』とあります。人の罪は土地を呪い、人が殺し合って土地に血を流すと、今度は土地から呪われるという、相互関係があります。

 人類のうめき、苦しみは、自然界のうめき苦しみとシンクロしています。人類の救いと、自然界の救いもシンクロしています。共にうめいていること気づくことが、すなわち、神の愛を知ることにつながるのです。

 そしてうめきは「産みの苦しみ」だというのです。産みの苦しみを体験したことがあるお母さん方が、多くおられると思います。男性でも産みの苦しみを時々経験しますね。何日間も出ない・・・という便秘の苦しみですが。
 私の長男が生まれる時、近くの病院で、家内は初めてのお産でした。「ちょっと痛いから、病院に行ってくるわ。」と出て行きました。私は何気なく、少ししてから家内を見に行ったら、七顛八倒して苦しんでいるのです。死ぬんじゃないかという勢いでした。真剣におなかをさすりました。新しいパジャマなのに、ぼろぼろになるくらいでした。でも翌朝、息子が無事に生まれて、今までの苦しみはなんだったんだ!と、あっという間に喜びに変えられました。

 クリスチャンでも、苦しみの中にいる方がおられるかもしれないけれど、これは「産みの苦しみ」だというのです。クリスチャンの苦しみは、産みの苦しみであり、そこから新しいいのちが産まれるのです。
 そしてここで教えているのは、人だけではなくて、自然界も一緒に産みの苦しみを体験していることを知れ、と言うのです。自然界も共に、同期して、産みの苦しみをしている現実に気づくと、圧倒的な勝利に繋がるわけです。

 この地上においては、様々な、うめきや苦しみがあるかもしれないけれど、自然界も一緒になってうめき苦しみ、やがて新しい命が誕生するのです。それはイエス様が帰って来られて、この地に新しい天と新しい地を創造される、そのためのうめき、苦しみだと言うのです。
 神の愛から誰も引き離すことができないと語っていますが、自然界に対しても、神は愛情を持っておられ、人がそのうめきに耳を傾けると、神の愛が分かって来て、決して、引き離されることがない、大きな愛で包まれるのです。

 イザヤ書五十五章十二節、

『まことに、あなたがたは喜びをもって出て行き、安らかに導かれて行く。山と丘は、あなたがたの前で喜びの歌声をあげ、野の木々もみな、手を打ち鳴らす。』

 自然界全体も、人と一緒に神を誉め称えたいのです。私たちは自然界と共に苦しんでいますが、やがて共に喜ぶ、永遠の命の中に入れられることを知る時に、圧倒的な勝利者になるのです。

 今日は愛についてお話しさせていただきました。自己愛の強い世界の中に生きていますが、しっかりと一線を引いて、神の愛の中に生きていきたいものですね。
 話しをまとめると、一つは、「隣人を愛する事」もちろん、すぐ近くの人たちを愛することも含みますが、民族間の壁を越えることです。これが神の愛を表すことになります。
 そしてもう一つは、神の愛は人間だけではなく、被造物全体に注がれており、人が被造物のうめきに耳を傾ける時、圧倒的な勝利者となり、私たちは全ての被造物とともに、やがて神を賛美する国が地上に現れるのです。

 今日、私たちは圧倒的な勝利者となる秘訣を学びましたが、神の国の価値感を持って歩んでいきたいと思います。最後に一言お祈りして、聖餐式に移っていきたいと思います。祈ります。


 ハレルヤ。天の父なる神様。感謝いたします。今日は神の愛について一緒に考えることができ心から感謝します。あなたご自身が愛であることを、心から感謝します。あなたの持っておられる同じ愛で、私たちを満たして下さい。十字架の愛の中で、私たちを支配してください。イエス様の御名を通して祈ります。アーメン。