「-2017年- あなたは良いもので満たされます!パート12
~巡り歩いて良いわざをなす~」

2017年5月14(日)
新城教会主任牧師 滝元順
使徒の働き10章36節~38節

『神はイエス・キリストによって、平和を宣べ伝え、イスラエルの子孫にみことばをお送りになりました。このイエス・キリストはすべての人の主です。あなたがたは、ヨハネが宣べ伝えたバプテスマの後、ガリラヤから始まって、ユダヤ全土に起こった事がらを、よくご存じです。それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。』

 ハレルヤ!本当に恵まれたゴスペルクワイヤーの賛美を聴かせていただき感謝します。感動的な主の十字架の賛美でした。みなさんと週に一度、このように集まり、心から主を賛美できることは特権です。

 今日は何の日かご存じですか?今日は母の日です。ここには多くのお母さん方がおられます。父の日というのもありますが、母の日があるから、仕方なく父の日を作ったと思いますが、やはり母親は偉大です。
 是非とも、子どもたちはお母さんをねぎらってあげてくださいね。少しはお手伝いしてあげたらいいのではないかと思います。
 すでにこの地上に母親がおられなかったら、もう一度思い出して、主に心から感謝する時を持ったらいいのではないかと思います。
 私も昨年、母がなくなりました。九十三年間も生きてくれたわけですが、やっぱり有難いですよね。母がいなかったら、この地上に生まれませんでしたから。

 先週は、「ミスター昔話」こと、岡本正広さんと交わりをしたのですが、彼は母の名言百話集というのを持っていまして、母が語ってくれた名言を忘れていません。いろいろとお母さんから受けた教えを話してくれました。最も感動的な言葉は何?と聞いたら、「正広、いいか。物事は損得で考えるな。善悪で考えろ。」と教えられた事だというのです。なかなかの名言だと思いました。物事って、すぐに損得で考えやすいですが、クリスチャンは善悪で考えないといけないですね。やはりお母さんはクリスチャンでしたから、そのような名言を残すことが出来たのです。まだまだ、たくさんあるそうです。聞きたい方は個人的に聞いてください。でも今晩帰れなくなりますから、それは覚悟しておいて下さいね。
 今日は母の日を感謝したいと思います。

 私はこの礼拝が終わったら、東京で東京集会があり、その足で明日からはスペインに行くことになっています。是非とも祈っていただきたいと思います。スペインってどこかご存じですか?ここにあります。

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 ここにあると言っても、よく分からないかもしれませんが、スペインは遠い国のように思いますが、もしもスペインがなかったら、私たちは存在していないかもしれません。世界の歴史は全く変わったと思われます。
 なぜなら、紀元七世紀頃、ムハンマドという男が中東に生まれて、イスラムができました。それは瞬く間に、二十年くらいで、当時の世界に広がったわけです。それはすぐにヨーロッパ大陸に入りました。アフリカの先端、ジブラルタル海峡を渡って、スペインがイスラム化しました。

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 この勢いで行けば、遠からずして、ヨーロッパ全体がイスラム化する寸前だったのですが、スペインの人たちがレコンキスタと言って、八百年間、イスラム勢力と粘り強く戦ったのです。そしてついには、イスラムをイベリア半島から追い出したのです。
 その結果、スペインとポルトガルは、イスラムから羅針盤の技術を奪い、大航海時代を迎えて七つの海に出て行ったのです。それで世界の歴史を変えたのです。そこには、いろんな評価があるわけですが、スペインがなかったら、日本の歴史も大きく変わったはずです。アメリカ合衆国は生まれなかっただろうし、世界も、日本も今頃どうなっていたのかと思います。私は多分、生まれなかったと思われます。歴史はちょっとしたきっかけで、大きく方向が変わるのです。
 ですから、スペインでの働きは、重要だと思うのです。ぜひ祈っていただきたいと思います。

 今週の金・土は、マドリードで霊的戦いセミナーが行われます。

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 私とフェルナンド先生、もう一人の先生、この方は知りませんが、三人でやることになっています。ラジオ番組があったり、テレビ放送もあります。

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 テレビ放送は結構サービスエリアが広いのです。スペインだけでなく、ヨーロッパ全土、アフリカにも流れます。私は霊的戦いのことをテレビで話すつもりです。ぜひ祈っていただきたいと思います。

 なぜ、私たちがスペインに行くようになったのかというと、これも不思議な神の計画としかいいようがないのです。何度もここで話しているのですが、新城市から一時間ほど奥地に入って行きますと、東栄町があります。そこにかつて、中村一夫という方が教会を建て、牧師をしていました。

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 東栄町は、こんな山の中で、人が住むような所じゃないなんて言っては申し訳ないのですが、教会にとっては大変な所です。二十年以上伝道したけれど、ほとんど誰も教会に来ませんでした。彼は山に上って、町を眺めて、この町から去ろう考えたそうです。しかしそこで祈っていると神様が、「もしもあなたがこの町を去ったら、二度とこの町に伝道者は入って来ないだろうね・・・。」と語りかけを受けたというのです。そんな声を聞いたので、彼は町を去るのをやめて、踏みとどまって伝道を続けました。
 そうしたら、一人の精神的に病んでいた男性が教会に来て、クリスチャンになりいやされました。その方はやがて新城教会で活躍してくれたのですが、内藤さんという方です。
 彼は町の農協に働いていたのですが、元気になったので、東栄町にはなんの産業もないので、東栄チキンという会社を誘致して、鶏を飼うようになりました。
 そうしたらある日、そこにペルー人カップルが働きに来たわけです。東栄町は寂しい所で、町を歩いていたら、教会があったというのです。それが、中村牧師の教会だったわけです。ペルー人カップルは「この教会で礼拝したいです。」と言うと、「スペイン語できないから、新城教会に行って下さい」と、新城教会が紹介され、来られるようになったのです。彼らは喜んで来ていました。
 しばらく来られていたのですが、ある日、彼らは消えてしまいました。あれどこかに行っちゃった。国に帰ったのかな~?と、結構インターナショナルの方々は出入りが多いので、あまり気にかけていませんでしたが、数年経ったある日、彼はなんとスペインで牧師になり、新城に帰って来たのです。

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 彼は東栄町から、県民の森の祈祷会に来て、私たちと一緒に祈っていたのですが、霊的戦いのことを学んだのです。スペインに行ってからも、「スペインでも霊的戦いは大切だ!」と、私たちをスペインに招き、エンラセというクリスチャン・テレビ局にも紹介してくれたのです。
彼は今、恵まれた教会をマドリッドで牧会しています。カサ・デ・ディオスという教会です。今回もここに行くのですが、彼がペルーからスペインに行った理由は、とても悲しい理由があったのです。

 彼らには帰国後生まれた、アロン君と言う末っ子がいます。

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 彼には大きな障害があります。ペルーでは治療ができないということで、政府によってスペインに送られたのです。それで彼らはスペインの国籍を取ることが出来、今では牧師になって、スペイン宣教が広がったのです。いや~、本当に主の計画はすごいなぁと思いませんか?

 中村先生が頑張ってくれなかったら、私はスペインに行けませんでした。一人の役割って、本当に大きいものです。
 しかし、このストーリーには、また違った背景もあるのです。中村先生は若い時に肺病で苦しんでいました。ある日、暗い顔をして、新城教会の近くの床屋さんに行きました。昔は私も、その床屋さんでお世話になっていたのですが、この頃は行きたくても行けない悲しさがあるのですが、今日もここに菅谷さんが来られていますが、九十三歳です。当時菅谷さんのご主人が床屋で頑張っておられました。
 ご主人はクリスチャンではなかったけれど、暗い顔つきの中村さんを見て、「あんた暗い顔をしているねぇ。教会にでも行きなさい」と勧めたのです。
当時、新城教会では、若い人たちが多くクリスチャンになって、人生が変えられ喜んでいたのです。その噂を聞いていたのです。「あんたそんな暗い顔をしていたら、人生棒に振っちゃうよ。教会にでも行ってごらんよ。みんな喜んでいるよ。」ということで、新城教会に来られたのです。それで中村さんは救われ、熱い聖霊の火を受けたのです。
 ある日彼は、神からの声を聞きました。「東栄町に行って伝道しなさい!」
なぜ、主が人のあまり住んでいない「田舎に行け」と言われたのか、不思議に思いますが、そこに神の偉大な計画があったのです。

 私たちは案外、近視眼的に考えますが、主は世代を越えて大きな計画をお持ちです。まさかその選択がスペインに繋がるなんて、どう考えても出て来ません。神の国の働きって、そういうものだと思います。

 今日、選ばせていただきました聖書の箇所は、使徒の働き十章三十六節~三十八節ですが、イエス様は神の子であり、神ご自身ですが、ここではイエスさまが主であると同時に、人として紹介されています。イエスさまが私たちと同じ人となって下さり、何をされたかが記されています。

『神はイエス・キリストによって、平和を宣べ伝え、イスラエルの子孫にみことばをお送りになりました。このイエス・キリストはすべての人の主です。』

 このようにイエス様の神性にも触れていますが、三十七節、

『あなたがたは、ヨハネが宣べ伝えたバプテスマの後、ガリラヤから始まって、ユダヤ全土に起こった事がらを、よくご存じです。それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。』

 イエス様のことを「ナザレのイエス」と呼んでいます。「イエス」という名前は当時、結構一般的であったそうです。だからイエスを特定するのに、平たく言えば、「豊橋のイエス」とか、「新城のイエス」とか、「豊川のイエス」と言うような感じで、イエス様はナザレという村で過ごしておられましたから、「ナザレのイエス」と呼ばれていたのです。
これは私たちにも共通します。私たちもいろんな場所で過ごしていますが、神によって、イエスさまと同じ働きをすることができるわけです。

 なぜかと言ったら、私たちはイエス様の弟子であるからです。弟子というのは、師匠と同じことをする者です。
 何かの弟子入りをした経験があるかもしれません。例えば、お茶とかお花の先生の弟子として入るならばどうですか。そこで何を習うのでしょうか。カレーライスの作り方を習って帰って来たということはありません。お茶とお花の先生ならば、お茶とお花を教えてもらうのです。
 相撲部屋に入ったら、相撲をとことん習うわけです。他のスポーツはやらないわけです。師匠の持っている技術を、そのまま身につけるのが弟子たちです。

 さてイエス様が、弟子たちを集めた時、何を教えられたのかが、マルコの福音書三章十三節~十五節に記されています。

『さて、イエスは山に登り、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た。そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。』

 イエス様は十二人の弟子をとったのですが、彼らに何を教えたのかということです。私たちは、イエス様の弟子だ!と、自称しながら、イエス様が十二弟子に教えられたこととは違った考えを持っているのかもしれません。イエス様が弟子を取った時、教えたことは、二つでした。弟子たちを身近において、「福音を宣べさせる」ことと、「悪霊を追い出す権威を持たせる」、この二つでした。
 福音って、なんでしょうか?福音とは「良い知らせの宣言」です。そして福音とは、人だけでなくて、「すべての被造物に対して」宣言されるものです。生けるものすべてに対して、良い知らせを宣言すること、これが福音です。
 その手法が、「悪霊どもを追い出す!」ことに尽きるのです。被造物全体に覆いをかけて、人々を、被造物を、苦しめている悪霊どもを追い出す事が全被造物に対する良い知らせでした。そのための権威を、弟子たちに教えなければならなかったのです。
 師匠のイエス様も巡り歩いて福音を語り、悪霊を追い出しておられましたが、やがて弟子たちも同じことを行いました。
 ということは、現代を生きるキリストの弟子たちも、この二つの事柄に尽きるわけです。被造物全体に対して、良い知らせを宣言し、悪魔・悪霊どもに対して立ち向かう働きです!
 明日から、スペインに行きますが、この事をしっかりと心に据えて行かせていただきたいと思います。

 私たちは見える世界に住んでいるので、見えない世界が私たちに関わっていることに関して、あまり理解がありません。しかし現実は、目に見えない世界と共に、私たちは過ごしているのです。
 前にもお話ししましたが、はじめに神は天と地を創造したという、「天」は複数形で、「諸天」です。目に見える世界に重なるかのように、高次元の生き物たちがうごめいているのです。
 その中で、地球に対する権威を持っているのは誰かです。それは政治家とか権力者ではなく、目に見えない悪魔とその一味、悪霊どもなのです。今も、昔も、その構図は変わらないのです。
 私たちは悪魔・悪霊どもがうごめく、ただ中で過ごしているのです。
しかしイエス・キリストを信じると、ポジションが変えられ、すべての被造物を管理し、勝ち取る使命が与えられると毎週のように語っています。そして、見えない世界の構図がどんなになっているのか、聖書は断片的に情報提供をしています。

さて、世界の歴史の中で最も不幸な人は、誰でしょう。「俺だよ。」「私だよ。」と、言うかもしれませんが、そうではないです。

 聖書に出てくる最も不幸な人は、ヨブという人物です。もしも今日、ヨブさんを呼ぶことができて、彼の証しを聞くことができたら、「俺はまだマシだな。」と思うでしょう。本当にヨブは大変な目に遭いました。彼は正しい人で、多くの財産を持っていました。ヨブ記一章を見ますと、一節~二節に、次のように記されています。

『ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。彼には七人の息子と三人の娘が生まれた。』

 「この人は潔白で正しく、神を恐れていた。」と聖書に記されるくらいですから、相当な人だと思われます。
私も人生を終えてから、どんな記録が残るかと時々考えます。「滝元順は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。」と記されたら、人生は成功です。なかなかここまで言われる人は少ないと思います。彼は本当に正しい人だったわけです。神の前にも、人の前にも、欠点がないというか、聖い人だったわけです。
 彼は、男七人、女三人という、子だくさんでした。聖書の時代は、子だくさんは神の祝福と捉えられていました。私が育った頃は、「貧乏の子だくさん」とか言われて、あまり良いイメージではなかったです。私なんて七人兄妹で、今までどうやって生きてきたのか、分からないようなところがあります。しかしヨブは全てに恵まれていた人でした。
このヨブが、全く知らないうちに、ある日のこと、目に見えない世界、高次元で話題になったのです。天で一つの会議が開かれたようです。それが一章六節~七節に記されているのですが、

『ある日、神の子らが主の前に来て立ったとき、サタンも来てその中にいた。主はサタンに仰せられた。「おまえはどこから来たのか。」サタンは主に答えて言った。「地を行き巡り、そこを歩き回って来ました。」』

 なんと、ヨブの全く知らないところで、神と、天使たちと悪魔が話し合ったというのです。
 「おまえはどこから来たのか。」と悪魔に聞くと、「私は地を行き巡って来ました。」と答えました。
悪魔はどこかの高い山の上に座しているのではなくて、地を行き巡っている存在みたいです。もしかしたら昨晩、私たちが寝ている間に、私たちの側を通り抜けたのかもしれません。どうも、ヨブの側を通り過ぎたみたいです。
 そうしたら神様が、ヨブのことをサタンに自慢したみたいです。「おまえは、ヨブを見かけたか?あの男ほどすばらしい人物はいない!」と、ヨブが知らない所で天で話題となったのです。
 そうしたらなんと、サタンが神の前にヨブを訴えたのです。目に見えない世界でヨブはサタンに訴えられて、サタンはヨブに関わる許可証を天で手にしてしまったのです。

 その後、ヨブに何が起こったかといったら、ヨブ記一章二章を読んでいただけると分かりますが、信じられない不幸が起こりました。使用人たちも全員死んでしまい、娘、息子、十人が一日のうちに死んだというのです。ヨブ夫妻の悲しみは、計り知れません。
 私の両親も一人、子ども亡くしました。私が小学校の時でした。やっぱり悲しかったです。一人失っても悲しいのに、十人、一日のうちに亡くなってしまうなんて信じられません。彼はどん底に陥りました。

 不幸はそれで終わるかと思ったら、なんとサタンは、目に見えない世界で神の所に行って、執拗にヨブを訴えて、ヨブ自身に対して手を出す許可証を得たのです。二章七節、八節に、こんなことが記されています。

『サタンは主の前から出て行き、ヨブの足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物で彼を打った。ヨブは土器のかけらを取って自分の身をかき、また灰の中にすわった。』

 最初の試練は、自分の財産とか、子どもたちに対するものでした。これでも、どうにもならない大きな試練だったのですが、第二弾はヨブ自身に対するものでした。頭の先から足の先まで、悪性の腫物ができたというのです。踏んだり蹴ったりとは、実にこういうことではないでしょうか。

 インターネットでヨブの予想画を見つけました。あまり気持ち良くないですが、こんな感じだったようです。

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 こんなになったら、どうしますか?子どもは死ぬは、使用人は死ぬは、財産は失うは、そして、健康さえも失ったわけです。

 その原因が何かというと、目に見えない世界で、サタンが神からヨブに関わる許可証を受け取った結果として起こったのです。
どうも人生は、目に見える世界だけで物事が起きるのではないようです。見えない世界で勝利するか、敗北するかが地上での生活を決定づけるようです。

 彼にはすばらしい友人たちがいました。すぐに三人の友人たちが来て彼を慰めるのですが、慰めようがなかったみたいです。だんだんと、「こんな目に遭うということは、ヨブには相当、罪があるんじゃないか。」とヨブを責め始めました。
ヨブ記一章、二章で様々な事が起こって、その後、三十七章までずっと、どうしてこんな事が起こったのかと議論されるわけです。

 時々、私たちも、人生の中で様々な試練に出会ったりして、どうしてこんな事が起きるのか理解できない事態に陥ることがあります。人生は長いですから、いろんなことがあるわけです。
あるヨブ記の注解書を読んだら、ヨブの悲劇という項目がありました。それによると、「ヨブにしても、登場人物にしてみても、誰一人、問題の真犯人について気づかなかった所に最大の悲劇がある。その事に気づくことができるのは、ただ読者のみである。」と結んでいました。やるな~!と思ったのですが、天で悪魔の訴えがあったのですが、地上では全くそのことが分からなかったのです。
 三人の友人たち、さらには神様さえも、真犯人について教えてくれなかったというわけです。ヨブ記の読者だけが、真犯人をつきとめることができるというのです。

人生は、見える世界だけでなくて、見えない世界が関わっていて、見えない世界で悪い決定がなされると、地上になんらかの悪い事象が起きることを示唆しています。
イエス様が行われた働き、その中心的な働きが、悪霊どもを追い出すというのは、私たちが考える以上に、大切な働きであるのです。

 しかし気づかなかった、ヨブも友人たちも、「どうしてだろう?」という、自分が悪いのか?人が悪いのか?神が悪いんじゃないのだろうか?という葛藤と、様々な論議がくり返されたわけです。
 しかし、その間、神は沈黙していて答えてくれなかったのです。二章の後半から三十七章くらいまで、ずっと議論は続くのですが、ヨブの主張は、「自分は無実だ。なぜ苦しめられなければならないのか?神の正義は一体どこにあるのか?」という主張でした。
ヨブという人は、純粋な人で、正しく聖い人だったから、彼には自負心があったのでしょう。「私は神の前に罪を犯した覚えがない。なぜに、こんな事になるの?」ってね。しかし、周りの友人たちは、「何かあるはずだ。」と責めていたわけです。お互い、全く論議がかみ合わなかったわけです。

 そもそも、ヨブの試練は、シェバ人とか、カルデヤ人が襲って来て殺されたとか、神の火がくだったというものです。神の火とは、雷のことであると思われます。昔は雷の原因が分からなかったので、「神の火」と言ったみたいです。雷に打たれて死んだ、大風が吹いて家が倒れて死んだのです。これは、「犯罪」と「自然災害」です。
 ヨブには本当にひどい事が起こった、特別だ、と思いますが、私たちも、ヨブほどではならないにしても、社会を見るなら、犯罪はいくらでも起こっているし、自然災害だって多く起こっています。雷に打たれて死んだことも時々聞くし、台風で家が倒れ、人が下敷きになった、地震や津波など、様々な自然災害が日本にはあります。私たちが日常的に見聞きしている事柄です。
 しかし、なんとヨブ記では、その背後に、目に見えない敵が関わっていたと告げているわけです。

 目に見えない世界は、私たちにあまり影響を与えていないと考えますが、もしかしたら、かなり大きな、強い影響を与えているのかも知れません。

 しかしクリスチャンは、目に見えない世界で私たちに苦しみを与える、悪魔・悪霊どもの権威の上に立つことができるのです。霊的世界も含めて管理人となるのです。イエス様は、元々人類がしなければならない働きを、自ら示して下さったのです。
 今、私たちクリスチャンが何をしなければならないのか。私たちは、イエス様の弟子ですから、人類全体に苦しみを与え、犯罪を起こさせたり、自然災害で人を苦しめる、目に見えない悪霊どもに対して、立ち向うことが良い行いです!

 イエス様を主として信じているお一人一人が、ポジションを回復された者として、目に見えない世界に権威を行使するならば、暗闇の訴えは取り下げられ、世界は良くなります!
ヨブと友人たちが長い間、論議をくり返すのですが、神様は全く答えておられないのです。
しかし三十八章になると、今まで沈黙されていた神が、突然、口を開かれるのです。
 先ほども話しましたが、ヨブの問いとは、「自分は無実だ。なぜ苦しまなければならないんだ。神の正義は一体どこにあるんだ!」という問いかけですが、それに対する神の答えは、ヨブ記三十八章一節~四節、

『主はあらしの中からヨブに答えて仰せられた。知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。あなたに悟ることができるなら、告げてみよ。』

 三十八章、三十九章、四十章と続けて読んでいただくと分かりますが、まとめると「俺は悪いことしていないのに、なぜこんな不当な試練を受けなければならないのか!」という問いに対して、神は、自然界の偉大さについて語るわけです。地球がどうして造られたか知っているかとか、さらには、動物の習性などについても語るわけです。なんか全く、答えになっていないんじゃないかと思うほどです。
しかし、この中に、神からヨブへの回答を見いだすことが出来るのです。

 「私は正しい。何の罪も犯したことはない。私がこんな試練を受けるのは不当だ!」と訴えているヨブに対して、神は何を戒められたのかというと、「ヨブの見方は、あまりにも人間中心主義的であって、自然界のこととか、人間以外の動物の命とか、生態に関して、関心を持っていない。あなたが考えているのは、自分のことだけだ」と語られているのです。
 彼はその事を神から蕩々と語られ、今度はヨブが沈黙するわけです。
ヨブ記三十八章の三十三節、

『あなたは天の法令を知っているか。地にその法則を立てることができるか。』

 神は、宇宙を天の法令と法則によって支配されていると告げています。何を語っているかといったら、私たちが見かける自然界の法則も、神の被造物の一つなわけです。

 二〇一一年に東北で大きな地震があって、多くの人たちが亡くなりました。人々は、「何故、こんな事が起きるのか、神は何をしているんだ!」と叫ぶのですが、宇宙も、地球も、天地創造をされた時に神が立てられたた法則、法令によって、動いていると教えているのです。

 海にしてみても、神が最初に「水はここまで来てもいい!ここまで来るんじゃない。」と境界線を法則の中で決められているというのです。
ヨブ記三十八章八節~十一節。

『海がふき出て、胎内から流れ出たとき、だれが戸でこれを閉じ込めたか。そのとき、わたしは雲をその着物とし、黒雲をそのむつきとした。わたしは、これをくぎって境を定め、かんぬきと戸を設けて、言った。「ここまでは来てもよい。しかし、これ以上はいけない。あなたの高ぶる波はここでとどまれ」と。』

自然界には法則があるわけです。
 案外、私たちは人間中心的に、自分の身に何か起こると、「なぜ、なぜ!」言うけれど、私たちは自然界の中で、多くの生物と共に住み、生きているのです。自然界には法則があるから、その事も考慮しながら生きていけ!ということを告げられているわけです。

 前にもお話ししたことがあるのですが、二〇一一年の地震の後に、こんな新聞記事が出ていました。「先人の石碑 部落を救う。」

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 これは岩手県の宮古市で、かつて起こった津波を先人たちが記録して、石碑を建てたというのです。ここにあるように、「これより下に家を建てるな。」と石碑を建てたわけです。

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姉吉地区には「これより下に家を建てるな。」という石碑が建っていたので、先人たちの勧めを受け入れて集落を石碑より上に建てたのです。そのため、津波の時、誰一人被害を受けなかったというのです。
 しかし、石碑があるのにも関わらず、石碑の下に家を建ててしまった人たちもいるわけです。そこは津波で全滅したのです。

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時々私たちは、自然災害や犯罪に巻き込まれて、「なぜ!」と叫ぶけれど、自然界の法則や、様々な事を考慮しなければいけません、ということです。
 私たちは人間中心ではなくて、謙虚に自然の法則や、動物たちの習性をも考慮にいれなきゃいけないと、主は語っておられるわけです。

 新城市は感謝なことに、標高が高いですから、津波は来ないと思いますが、低い所に住んでおられる方々は、地震が起こってから、「なんでー!」と叫ぶのではなく、日頃から注意しないといけないことを教えているわけです。
 同時に、私たちクリスチャンは自然界の管理人ですから、自然の法則で不具合が起きないように、祈る使命があるのです。

 実は今週の土曜日に、一つのとりなしプログラムがありますので、興味のある方は、ぜひお越しいただきたいと思います。それは何かというと、「中央構造線をとりなし祈る!」というプログラムです。ちょっと遊び的要素も入っていますが、土曜日の朝十時に、希望者は教会にお越しください。中央構造線沿いに豊川が流れていますが、カヌーで下りながら、祈るプログラムがあります。また、歩いて祈るチームもあります。
 自然界の法則は、最も支配力の強い法則ですから、逆らえない面もあるのです。しかし、私たちクリスチャンが祈りを置くならば、なんらかの微調整が効くのかもしれません。イエス様は、大風に、「黙れ静まれ!」と宣言され、とどめましたから、自然界に対しても、なんらかの権限があるはずです。
 同時に、大風が吹いて家が倒れた背後に、悪魔が働いていました。悪霊を追い出す権威と共に、自然界に対してとりなし、祈らなくてはいけないということが教えられるわけです。是非とも、そのテーマで祈っていただきたいと思います。

 「神は人が自然界の管理人であることを、ヨブに伝えるために、全宇宙、地球の偉大さについて語られたというのは、そのような意味である」と、先週、あるヨブ記の注解メッセージを読んだのですが、なるほど~!と納得しました。
「おまえの見方はあまりにも、人間中心主義的ではないか。おまえは自然界のことをよく知っているか!」と神様はヨブに告げているのです。

 その次に神が語られたのが、「動物たち」のことです。「おまえは山羊や牝鹿の出産に立ち会ったことがあるか?」と言うのです。「わたしは立ち会っている」と神は語られます。神様はなんと、ヨブに動物たちに対しても、言及されたわけです。

 三十九章の十六節、おもしろいです。だちょうについて語られています。三十九章十六節~十七節、

『だちょうは自分の子を自分のものでないかのように荒く扱い、その産みの苦しみがむだになることも気にしない。神がこれに知恵を忘れさせ、悟りをこれに授けなかったからだ。』

 だちょうって卵を産んだら、砂の中に埋めて、砂漠の熱で孵化させるそうです。卵を産んだのも忘れちゃうのです。でも、ちゃんと卵は孵化して、だちょうは生きていくじゃないですか。だちょうには知恵を与えていないけれど、神がそのことに関して、配慮されているからというのです。

 ヨブ記を見ますと、いろんな動物が出て来ます。ライオン、鳥類、山羊、牝鹿、野ろば、野牛、だちょう、鷹、鷲というような、様々な動物が出てきます。「これらに関して、おまえは配慮し、考慮したことあるか?自分のことしか考えていないじゃないか?」という指摘です。

 近頃、被造物全体を神は愛しておられ、被造物全体を救うために人を最初に救われた事を学んでいます。また、被造物がうめいていることをお話しさせていただいています。そして、そのうめきに耳を傾ける時、圧倒的な勝利者になると、先週も語らせていただきました。これは、ヨブ記に共通することです。
 ヨブは、「俺は神の前に正しいから、悪いことは起こりっこない!」と考えていた事でしょう。しかし神の答えは、「自然界や人間以外の生物に対して配慮せよ!」と、告げられたわけです。

 霊的戦いって、悪魔・悪霊どもやっつけます!という祈りだけではいけないみたいです。やはり神の心を知る、ということが重要です。特に被造物のうめきを知るのが、大切な要素ではないかと思います。

 先週は神学校があったのですが、神学校で、私は霊的戦いを教えているのですが、毎回、生徒たちに宿題を出します。先月は「被造物のうめき」に関して自分の視点で、レポートしてくださいと言いました。
そうしたら、一人の生徒さんが、なかなか興味深いレポートをくれました。それをみなさんに紹介したいと思います。彼女はちょっとしたマニアで、こんなことを書いてきました。

 四月二十三日の午後、丸山動物園に行ってきました。私は小さい頃から動物園が好きで、この五年くらいは毎年年間パスポートを買っていました。丸山動物園に行ったのも、何度目か分かりません。なので、うめきという話題で動物園があげられた時は少々とまどいました。
 その後、宮平さんとの会話の中で、「動物がかわいそうだから、昔から動物園が嫌いだった」と聞き、驚きました。今まで動物園をそういう視点で見たことはありませんでしたし、動物園の動物たちがうめいているとは考えてみたこともなかったからです。
 また今回、調べている最中、丸山動物園は最近の施設改築に伴って、事故死が多いことで有名だということにショックを受けました。動物にとっての幸せとは、考えることの難しい事柄の一つでしょう。動物は造られた目的に沿い、生態系の一部として生きるのが最も充実した生き方なのでしょうが、創造の目的に沿った生き方と、動物自身が感じる快、不快の感情は全く別物だと思うからです。
 生まれてすぐ食べられる幼獣は、主観的には不本意な死に方であったとしても、生態系全体から見れば有意義な存在です。残酷に思えることが、全体としては理にかなっているという事実は、被造物全体が今に至るまで共にうめき、共に産みの苦しみをしている(ローマ八章二十二節)という、そのものかもしれません。
 動物園にいる動物たちは、生態系に参加していないという意味で、造られた目的に沿って生きているとは言えないでしょう。本来いるべき生息地で自由に暮らすのが、動物たち自身からしても好ましいことであり、檻から出たいとうめいているでしょう。
 しかし、動物たちが檻から出た所で、帰るべき場所としての生息地が破壊されているという現実があります。アムールトラなど一部の動物にいたっては、推定野生生息数と世界の動物園で飼育されている数がほぼ同数となっています。動物園の問題は、ただ動物園やそこを訪れる来園者だけに関わるものではなくて、環境問題や密漁、毛皮、ペットの問題なども深く関わっています。ただ動物園を廃止すればそれで済むという話ではありません。
 しかし、人間が管理者としての役割を果たすことができないからこそ、私たちクリスチャンが地の管理人として立つことの意味があります。私たちが動物園に行く時に、ただ愛らしいとか、物珍しいという感想を持ち、動いたほうが見ていておもしろいから動け!というだけなら、それはうめきを増やすことだけです。
 しかし、今見ている動物たちが、本来あるべき姿から外れていることを知り、そうさせている人間の管理者としての怠惰をとりなしつつ、動物たちの姿や習性に、確かに表れている神様の栄光をほめたたえることができるのなら、それはこの地を取り戻す働きになるのではないでしょうか。神様から地を任された管理者として、どう振る舞うべきか、改めて考えさせられました。

というレポートでした。なかなかの動物園マニアだと思うのですが、みなさんの中で、マニアとかオタクといっちゃいけないですが、そういう方々おられますね。それは、あなたの管理の領域です。この方は年間パスポートを五年間続けて買って、同じ場所に行っているくらい、動物の生態に詳しいですが、まさか、と考えもしなかった領域が、この方のとりなし管理する領域であったのです。

 ヨブも全くその通りです。そこを指摘されたのです。彼には多くの家畜や農地があったのですが、あまりそれらに関しては考慮に入れてなかったのかもしれません。

 そして最後にヨブが、四十一章で、不思議な生き物について神から聞かされるです。それが「レビヤタン」という存在でした。四十一章六節~八節に、こんな言葉があります。

『漁師仲間はこれを売りに出し、商人たちの間でこれを分けるだろうか。あなたはもりでその皮を、やすでその頭を十分に突くことができようか。その上にあなたの手を置いてみよ。その戦いを思い出して、二度と手を出すな。』

 実はレビヤタンというのは、恐ろしい動物で、「二度と手を出すな」とまで言われています。普通、そんな動物いないです。実はこのレビヤタンとは、悪魔・悪霊どものことです。
 神様は、真犯人についてヨブに告げなかったのではなく、四十一章で告げておられるのです。サタンが人類の最大の敵だ、ということを最後に伝えています。

その後、ヨブに何が起こるのかというと、四十二章十節、ヨブを批判した友人たちのために祈った時に、「主はヨブの繁栄を元通りにされた。主はヨブの所有物も全て二倍に増された」という、ハッピーエンドです。
 ヨブ記は、初めは恐ろしいところから始まりますが、最後はハッピーエンドです。そしてその中で最も重要な点は、目に見えない敵が真犯人だという点です。

 しかしその前に、「私には罪がない。何も非がない。」と言っていたヨブに対して、「おまえは人間本意主義的過ぎる!」と、「自然界について考えたことがあるか?動物たちのことについて考えたことがあるか?そのうめきに耳を傾けたことがあるか?」と告げて、目に見えない敵について教え、それから、二倍の回復が来たのです。

 これらを学ぶ時、最近、教えられている「被造物が切実な思いで神の子の現れを待ち望んでいる」ということの大切さがわかります。そして、人間本意にしか世界が見えない、ヨブと同じであってはいけない事がわかるのです。そこを悔い改めるように、主は迫っておられるわけです。

 被造物は他のことに関心を寄せないで、ただ一つのことを待ち望んでいます。それは何か、「被造物自体も滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられること」を待ち望んでいる。この事に対して、気づく時に、圧倒的な勝利者、今まで失っていたものが二倍になって返って来るという、原則が動くのではないでしょうか。
 このような視点を持って、私たちは福音をすべての被造物に対して宣言し、悪霊どもを追い出す権威を行使するなら、イエス様の弟子となるのです。

最後に一言お祈りして、今日の礼拝のメッセージにかえさせていただきます。

 ハレルヤ。天の父なる神様。御名をあがめて心から感謝します。今日、私たちは、人間本位的に生きていた事を悔い改めます。自然界の法則や、主が造られたすべてのいのちあるものに配慮し、そのうめきに耳を傾けながら生きることができますように。そして、目に見えない敵である、サタンとその一味に対しては、一歩も引かずに戦いを挑むことができますように。その中で、私たちに圧倒的な勝利を与え、今まで失ったものが二倍になって返って来ますように。
 今から、私たちは聖餐式を行います。十字架の血潮によって、すべての万物との和解が成立していることを、心から感謝します。神が造られた被造物の中で、人類の立場を謙虚に受け取り、人類のなすべき使命を果たさせて下さい。今ここに備えられた、パンとぶどうのジュースを感謝します。イエス様と一つにして下さい。御名によって、祈りを御前にお捧げします。
アーメン。