「2017年あなたは良いもので満たされます!パート14
~聖霊が臨まれるとき~」

2017年6月4(日)
新城教会主任牧師 滝元順
使徒の働き1章6節~8節

『そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」』

 ハレルヤ!おはようございます。聖歌隊の賛美、凝ったアレンジですばらしいですね。聖歌隊にはいつも拍手をしていませんが、今日は拍手をしましょうか。本当にありがとうございました。一生懸命練習してくださって、私たちに主を賛美する楽しさを教えて下さっています。

 早いもので、六月になってしまいました。先日、新年聖会をやったばかりだと思っていたのですが、すでに一年の半分が終わってしまった感じです。人生本当に早いものだと思うのですが、六月は梅雨になります。これから過ごしにくいかもしれません。
 先日、スペインに行きましたら、スペインは年間三百日、カンカン照りだそうです。雨が少ないです。すごくドライな感じでしたが、日本に着いたら途端に、湿った感じになりました。しかし、水が豊富な国は本当に感謝です。
 フェルナンド先生夫妻も、先週はスペインから無事に帰って来ました。チーム新城で奉仕をさせていただき、すべての働きを終えて帰ることができたこと、お祈りを心から感謝します。

 今日は、先ほども案内がありましたが、「ペンテコステの日」という記念日です。いわば教会の誕生日です。
 イエス様の十字架と復活、昇天、そして、聖霊降臨は、すべてユダヤ教の祭りに韻を踏んで起こっています。ユダヤ教といっても、元々は荒野でヘブル民族が神と出会った記録を体系化したものです。そんな中、ペンテコステは、イエス様がよみがえられて五十日目にあたります。イエス様が昇天後、十日目に起こった出来事でした。
 七週の祭り、五十日目の収穫の日に、突如として聖霊が注がれたのです。これには大きな意味があります。

 前にもお話ししたことがあるのですが、聖書中「七」という数字は大変重要です。そして、最終的に七の七倍の次の数字、五十が重要です。
 なぜならば、それは「ヨベルの年」と言う概念につながるからです。やがてイエス様がこの地に再び帰って来られて、世界の王となる日を表します。そしてペンテコステは、神の支配の始まりを意味します。今の時代は、聖霊が支配しておられる時代です。

 私たちが信じている神は、三位一体の神です。ちょっと難しい概念ですが、三位一体とは時々、政治の世界でも使われますが、マタイの福音書二十八章十九節~二十節に、

『それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、』

とあるのですが、日本語は単数と複数が分かりにくいですが、英語で見るとよく分かります。

“in the name of the Father and of the Son and of the Holy Spirit,” 

 この「the name」は単数です。その後、「of the Father」、「the Son」、「the Holy Spirit」と一つずつ、the nameにかかっています。これは三位一体を表しているのです。

 聖書辞典では、『聖書において「名」は実体的意味を持ち,帯名者の存在と一体的である。この聖書箇所における「御名」は単数であり、帯名者が唯一の存在であることを示している。
 さらに,父,子,聖霊がそれぞれ「と」という接続詞で結び付けられ、しかもそれぞれの前に定冠詞が付けられている。それは,父と子と聖霊が区別された独自な主体であることを表している。また,父,子,聖霊が同列に置かれている。』と説明されています。

 キリスト教会の歴史で有名な教父であり、神学者であるアウグスティヌスが、こんなことを語っています。

“三位一体でなければ、神のうちに交わりも愛もありえない。というのは、神の三一性は、世界と人間の創造を離れても、神の完全性の永遠の行使と表現とが見いだされる相関関係を含んでいるからである。”

 「神は愛です。」と聖書は言います。私たちは神によって愛されているのは、神の中に愛があるからです。愛とは、コミュニケーションなくして成り立ちません。神がただ一人で、スタンド・アローンならば、コミュニケーションの対象はどこにもないですから、愛という概念は生まれないはずです。
 しかし神の中に、三位一体という、三つにして一つの人格があるゆえに、コミュニケーションが成り立ち、その間に愛が生まれるのです。私たちの神は愛によって成り立っている方であり、その愛を私たちは受け取ることができるのです。
 このような中、聖霊様は、神ご自身であり、同時に、役割があるのです。父なる神様は、天地宇宙を創造し、統治されている方です。子なるイエス様は、この地上に来られて私たちを救ってくださった救い主です。そして聖霊様は、「助け主」です。

 イエス様が復活後、この地上にずっと留まっていて下さったら、本当に都合がいいのにと時々思います。せっかくよみがえられたのですから、そのままイスラエルかどこかに事務所を構えて、過ごしてくれていたら、伝道集会なんかやる時は、エルサレムに電話をして、イエス様を講師に頼んだら、すべての病は癒やされるし、食糧だってちょっと用意すれば、五つのパンと二匹の魚で五千人くらい食べさせることが出来るはずです。イエス様、ちょっと、新城まで来てくれませんか?と。
 でも、イエス様お一人だったら、世界中から招きがありますから、なかなか対応できないと思います。「そうですね。行ってあげたいですが、日本に行けるのは、あと三百年後です。」とかになっちゃいます。それではどうにもなりません。
 しかし、今、聖霊様が来てくださって、すべての人に臨んで、一人一人を助けてくださるとしたら、そんなすばらしいことはありません。今日ここにおられるすべてのイエス・キリストを信じる者達と共に、聖霊がおられるのです。

 今日は聖霊様が地上に訪れてくださった、記念の日です。今日は六月四日ですが、キリスト教会には、いろいろと派がありまして、西方教会という、カトリックとか、プロテスタントは西側に属するのですが、東方教会というのもあります。それぞれ暦を持っていて、記念日がちょっとずつ違うのです。
 しかし今年、六月四日は、西も東も、すべての教会が、ペンテコステを祝っている特別な年です。世界中で聖霊について多方面から意識される、重要な日です。聖霊様は毎日働かれていますが、意識することによって、さらに強く働いてくださいます。今日は世界的に聖霊様が働いてくださる日だと意識したらいいですね。
 今日の賛美も、大変祝福されましたが、聖霊の強い臨在を感じました。今、世界中で礼拝を献げていますから、同時に働くことができるのは、聖霊様の働き以外、なにものでもないです。

 今日読んでいただきました聖書の箇所は、よみがえられたイエス様に、弟子たちが、「今こそイスラエルのために、国を再興してくださるのですか?」と尋ねました。
 弟子たちの一番の関心事は、自分たちの国の未来についてでした。案外、私たち、今日のキリスト教会は、自分の国の未来について、あまり関心がないのですが、初代教会は、当時の社会情勢とガチンコ勝負する、神の国の集団でした。
 イエス様がよみがえられましたから、弟子達は興奮しました。ついにイエス様がイスラエルの王になって下さるに違いない!と考えて、「今こそイエス様!イスラエルを再興してくださるのですか?」と尋ねたわけです。
 当時、イスラエルはローマ帝国に支配されていましたから、彼らの関心は自分たちの国でした。その時のイエス様の答えは、「いつとかどんな時かは、あなたがたは知らなくてもよい。」という答えでした。「それは父なる神がお定めになっている。」と言いました。
 弟子たちの考えと、イエス様のお考えには違いがあったわけです。イエス様は神の国の到来をもくろんでおられたわけです。そして、その前提として、

『聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」』

と語られました。
 イエス様が地上に帰って来られるために、主が王となるために必要なのは、エルサレムから始まって、ユダヤ、サマリヤ、そして世界中に福音が告げ知らされること、弟子達が証人になることが重要だと言われました。

 先日、「福音とは何か?」について、みなさんで考えましたが、福音とは、人が救われるだけではなく、すべての被造物に対するものです。
 神は、人を自然界の管理人として創造されたのですが、その権限を悪魔に取られたわけです。しかし、もう一度それを取り戻して、神の国が実現する為に聖霊は訪れられたのです。

 聖霊が臨まれるとき、何が起こるのか。それは、「力を受けます!」と、言われました。聖霊が来られる時に、「力を受ける」のです。
 いろいろな領域で、私たちは力を必要としています。しかし聖霊が来られる時には、力がともなうのです。

 今日はペンテコステの日ですから、世界中の教会が、さまざまな側面で聖霊様の働きについて語っていると思います。
 聖霊様が来られる時、力を受けるとありますから、特に、聖霊の働きを重んずる教会では、「あなたは力を受けます!」というメッセージがなされているかもしれません。
 しかし、聖霊の賜物を強調する教会では、賜物を強調するかもしれないし、聖霊が来られる時に実を結ぶという、聖霊の実を強調する教会もあるでしょう。
 しかし、今日私が学びたいのは、「なぜ力が必要なのか」に焦点をあててみたいと思います。

 この頃、ローマ書八章から、「聖霊はうめく方」というお話しさせていただいているのですが、聖霊が降臨した背景を見る時、「うめき」があったことが分かります。
 人々がうめいていたのです。そんなうめきを解消するために、力を持って聖霊が訪れたということです。
 弟子たちは、「いつになったらイスラエルは再興されるのだろうか?」という、国に対するうめきがありました。
 実際、今の日本の状況を見たら、うめかざるを得ないです。「これからの日本、大丈夫か?」といううめきがあります。特に教会にとっては、これから試練の時代が来るかもしれないです。「共謀罪」などが成立したら、国に反する思想を持った人たちは逮捕されます。今の政府、誰が見たって、嘘をついているのが分かります。嘘がまかりとおる国になっています。偽りは悪魔の領域に属しますから、このまま日本を放っておいたら、どこにいくのでしょうか。
 アジア情勢を見てみても、世界情勢を見てみても、世界の国々を直視したら、うめかざるを得ない状況があります。
 ある方はそのような事柄に関して、うめいていると思うのですが、私もその一人です。それを助けるために、聖霊様は来てくださるのです。

 また、他の所を見れば、迫害であったり、宣教の困難であったり、人生の困難であったり、家族の問題であったり、人間関係の問題であったりと、それぞれの領域でうめきがありますが、弱さのあるところに、助け主、聖霊様は来てくださるのです。
 今日、お一人一人、それぞれテーマは違うかもしれないけれど、うめきがあると思います。私にもあります。そのうめきに答える働きをしてくださるのが、聖霊様です。なぜなら、聖霊自らが、うめいてとりなしてくださるお方であるからです。
 今日、自分の胸のうちを覗いてみて、うめきがあるなら、そこに助け主聖霊様が来られて、力を与えてくださると信じます。

 聖書の中で最もうめきが大きかった人物は誰でしょう。先週は、ヨブについてお話をさせていただきましたが、ヨブは個人的に、本当にうめきの大きな人物でした。
 しかし大集団を扱って、苦労してうめいたのは、他でもないモーセだったと思われます。モーセは、華々しいストーリーの影で、大変だったと思います。エジプトから同胞たちを解放して、二百万人くらいとも言われます。それを一人でカナンの地まで、四十年かかって連れて行ったのですから、神の奇蹟も大きかったけれど、彼自身のうめきは、相当なものだったと思われます。
 出エジプト記などを読んでみますと、その一端を知ることができます。ヘブル民族は、神の幕屋を中心として、四十年間、荒野をさまよったのですが、これは国の移動みたいなものです。モーセは王のような、また市長のような存在であったはずです。彼の所に寄せられた苦情や問題は、山ほどあったはずです。

 出エジプトを果たして二ヶ月後、彼にはまだまだエネルギーがありました。彼は先頭を切って、二百万の民を率いていたわけです。そんな時、親戚のイテロが、陣中見舞いに来ました。するとモーセは、高い所に立って、民たちから寄せられるさまざまな問題に対して采配をふるっていました。
 しかしイテロは、先見の目がある人で、「今はいいけど、このままやっていたらモーセは倒れるぞ!」と思ったわけです。
 それで一つの忠告をしているのです。その忠告の言葉が、出エジプト記十八章二十一節~二十二節、

『あなたはまた、民全体の中から、神を恐れる、力のある人々、不正の利を憎む誠実な人々を見つけ出し、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長として、民の上に立てなければなりません。いつもは彼らが民をさばくのです。大きい事件はすべてあなたのところに持って来、小さい事件はみな、彼らがさばかなければなりません。あなたの重荷を軽くしなさい。彼らはあなたとともに重荷をになうのです。』

 イテロの忠告をモーセは受け入れました。モーセは一人で重荷を負っていたのですが、それを分散しました。民の中から神を恐れる人、力のある人々、そして不正の利を憎む誠実な人々を見つけ出しました。今の安倍政権に言ってやりたいですが、そういう人たちをモーセは選んで、千人の長、百人の長、五十人、十人の長を任命して、組織を作りました。組織ができたことにより、二百万の民は、順調に荒野を旅することができました。
 私たちも同じです。一人で重荷を負うと潰れてしまいますが、それを分散させると軽くなるわけです。教会の働きも実にそういう面があると思います。教会の働きは、最初は問題解決から始まります。一週間様々な問題が寄せられて、それをなんとか主の御名によって解決していただく働きであるわけですが、私一人ではどうにもなりませんが、多くのスタッフや、兄弟・姉妹が協力してくださって、解決に向かいます。組織は大切だということが分かります。

 組織ができたのは、出エジプトを果たして二ヶ月後のことだったのですが、二年経ったらどうなったかも記されています。民数記十一章十一節で、こんなふうにモーセは言っています。

『モーセは主に申し上げた。「なぜ、あなたはしもべを苦しめられるのでしょう。なぜ、私はあなたのご厚意をいただけないのでしょう。なぜ、このすべての民の重荷を私に負わされるのでしょう。』

 出エジプトして、二ヶ月目に組織が出来て、問題解決する機能的な組織ができたはずなのに、二年経ったら、元に戻ったというか、組織は機能していたかもしれませんが、それ以上の問題が起こっていたのです。二百万人が、荒野で二年間一緒に過ごしたら、二ヶ月後と二年後では全く違うはずです。相当、不平不満があったのでしょう。モーセは、「なんでこんな辛いめにあわなくてはいけないんだ!」と、神様に文句を言っているわけです。

 しかしその時に、主が何をされたかというと、民数記十一章十六節~十七節を読んでみます、

『主はモーセに仰せられた。「イスラエルの長老たちのうちから、あなたがよく知っている民の長老で、そのつかさである者七十人をわたしのために集め、彼らを会見の天幕に連れて来て、そこであなたのそばに立たせよ。わたしは降りて行って、その所であなたと語り、あなたの上にある霊のいくらかを取って彼らの上に置こう。それで彼らも民の重荷をあなたとともに負い、あなたはただひとりで負うことがないようになろう。』

 会見の天幕に七十人連れて来いと言いました。そうしたら、神様が、モーセに注がれていた神の霊を、七十人に分けてやると言ったわけです。七十人がモーセと同じ霊的な力をもらって、問題解決にあたることを語られました。
 組織だけではなく、問題解決のために聖霊の力が重要だ!ということがわかります。この時にも、大きなうめきがあったのです。そこに聖霊様が来てくださったのです。
 実際に七十人を集めて、主の前に立った時、聖霊が七十人に激しく注がれました。そして彼らも預言しはじめて、主の霊が七十人の上に臨んだ光景を、側近のヨシュアは目の当たりにしたのです。そのときヨシュアは、民数記十一章二十八節~二十九節を見ますと、こんなふうに語っています。

『若いときからモーセの従者であったヌンの子ヨシュアも答えて言った。「わが主、モーセよ。彼らをやめさせてください。」しかしモーセは彼に言った。「あなたは私のためを思ってねたみを起こしているのか。主の民がみな、預言者となればよいのに。主が彼らの上にご自分の霊を与えられるとよいのに。」』

 ヨシュアは、モーセの側近でしたから、モーセに神の霊が宿っていることをよく知っていました。それが他の七十人に注がれたわけです。それで「これはちょっとまずいぞ!」と思ったわけです。モーセが親分だったのが、七十人に広がったら、自分の立場はどうなるのか?という心配もあったのではないでしょうか。だから、「やめさせてください!」と言ったわけですが、モーセはここで、結構、本音を語っています。
 「あなたは私のためを思ってねたみを起こしているのか。主の民がみな、預言者となればよいのに。主が彼らの上にご自分の霊を与えられるとよいのに。」と語っています。
 これはやがて来たるべき、ペンテコステの日を預言的に指したものであると私は思います。

 ペンテコステの日は、主を信じる民、全員に、聖霊の注がれる、はじまりであったわけです。
 旧約の時代は、特別、神から選ばれた預言者であったり、主から任命された王であったり、特殊な人しか聖霊を受けられませんでした。一般の民には油注ぎはなかったわけです。ですから皆、考えが人間的で、問題だらけだったわけです。それをモーセは知っていました。自分に聖霊が臨んで、物事がうまくいっていることを、体験的に知っていたのでしょう。だから七十人に注がれた時、「これでいい。いや、できることなら、全員に注がれたらいいのに!」と、本心を語ったわけです。
 これは今日の教会にも共通することです。全員が神の霊に満たされたら、教会は変わり、国も変わるのです。全員に、主の霊がくだったら、問題もなくなるし、主の霊によって人生は導かれるのです。
 しかしその背後に、やはり大きなうめきがともなっていたのです。

 案外、私たちは聖霊の働きを、「ファイト一発!」というような、スタミナドリンクみたいなのりで求めることが多いのですが、それではいけないのです。なんらかの大きなうめきというテーマがあって、そこに助け主が来られるということです。
 弟子たちが持っていた国の未来に対しての憂慮、うめきに主が答えて聖霊をくださったのです。
 現代社会を見るならば、本当にうめきの多い時代ですが、今こそ、主が帰って来て王となってくださる必要があります。そのために必要なことは、まずは、主を信じる者たちが、神の霊に満たされることであり、それは、私たちの内なるうめきにシンクロされ、主の霊は働かれるということです。

 私が聖霊様に触れていただいたのは、よく話しますが、一九九二年のことでした。あの時、甲子園ミッションという大きな働きが目の前にあって、初めはうまくいくと思っていましたが、だんだんと問題が多くなって、全員、死ななくてはいけないのではないかくらい、問題が山積みでした。どうなっちゃうだろうか、と追い詰められたとき、祈るしかない!ということで、愛知県民の森の中に入って祈り始めました。あの祈りは、楽しくて祈っていたのではなくて、うめきの祈りでした。主よ、どうにかしてください!どうにかしてください!という、うめきに主が答えてくださったと信じます。

 これは、さまざまな領域に適用されると思います。国の未来。リバイバル。家庭の中の問題。病。人間関係。その他、すべてのうめきに、主は答えてくださるお方です。うめきと共に、主が働いてくださることを、堅く信じて、主の前に出る必要があります。
 イザヤ書十章二十七節にこんな言葉があります。

『その日になると、彼の重荷はあなたの肩から、彼のくびきはあなたの首から除かれる。くびきはあなたの肩からもぎ取られる。」』

 この箇所をNew King Jamesバージョン聖書で見ると、「油注ぎによって重荷は砕かれる」となっています。
 聖霊の油注ぎによって、くびきは砕かれるんだ!と教えています。さまざまなうめき、くびきは、聖霊の油注ぎによって砕かれます。
 第三位格の聖霊様は、求めないといけないのです。イエス様と出会うためには、心に信じて義と認められ、口で告白したら救われます。ただ心に受け入れるだけで救われるのですが、聖霊様は、求めることが必要です。求めて、探して、叩け!とありますが、その時、助け主聖霊様が、私たちの所に来て下さいます。

 最近、私たちは、うめきというテーマで学んでいますが、ローマ書八章から、さまざまな事を教えられています。ローマ人への手紙八章二十六節、

『御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。』

 「弱い私たちを助けてくださいます。」とあります。
 時々、いろいろな問題で押しつぶされそうになって、どう祈っていいのか分からない時があります。出て来るのは、ため息とうめきだけ、という時があります。しかし、その根源には、聖霊様のうめきがあることを認めなさい!というのです。
 みなさんの中にうめきを持って、今日ここに来られた方もおられると思います。しかし、あなたのうめき以上に、聖霊様は深くうめいてくださって、とりなしてくださっています。

 外国に行きますと、言葉ができない代わりに、うめきが出てきます。先日もスペインに行きましたが、私なんか、スペイン語は全くできませんから、ぐーの音も出ませんでしたが、多少できたりすると困るのです。英語も、多少できたりすると、自分の言いたいことを表現できずに、うーーーっ!とうめきになるわけです。心の中には大きな概念があるけれど、自分の英語力は中学校一年生並だから、小さくしか表現できない。心の中はうめきだらけ、ってよくあるじゃないですか。
 祈りにも、そういう状況が多いと思います。祈りたいけれど、何を祈ったらいいの?言葉がうまく出てこない!ということが、よくあります。しかし、このできない領域を、聖霊様がカバーしてくれますよ!と。その聖霊のうめきによって、とりなしによって、解放されるのです。

 ローマ人への手紙八章十八節~二十二節までは、先日も学びましたが、うめきがただ人間だけでなく、被造物もうめいていることに気づけ!と教えているわけです。
 ローマ人への手紙八章十八節~二十二節、

『今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。』

 二十二節の言葉って、大変重要だと思われます。特に、「ともに」というキーワードが、大変重要です。「ともにうめきともに」となっているので、「ともに」が埋もれて見落としてしまうのですが、被造物全体が今に至るまで、「ともに」うめき、「ともに」産みの苦しみをしているとあります。ここで教えていることは、人間のうめき苦しみとともに、被造物もシンクロしているというわけです。
 この頃、私は主から教えられているところですが、案外、私たちは問題があると、自分の問題として、神の前に出るのですが、うめきは共同体と共にあるのです。それも人間だけの共同体ではなくて、神が造られた被造物全体とともに、うめきは存在しているのです。

 聖霊のうめきは、人のうめきと、被造物のうめきにシンクロしているのです。
 案外、私たちは聖霊のうめきと、人のうめきはシンクロさせますが、被造物のうめきというところまでは、私は、考えてもみなかったです。福音が、被造物全体に及ぶものだとするならば、聖霊様は、被造物全体のうめきに耳を傾けておられるはずです。
 私たちも被造物の一員として、謙虚さを持って、このうめきの輪に入らなければいけないことを教えられます。

 そして、うめきとは、「産みの苦しみ」だというのです。産みの苦しみって、苦しいけれど、その後、大きな喜びと変わるのです。私たちクリスチャンの中にはさまざまなうめきがあるかもしれないけれど、それは、産みの苦しみとして表現されています。
 今日は嬉しいことがあるのですが、佐野満君と結実さんの家庭に、真実ちゃんが誕生して、献児式があるからです。あとから聞いてみたいと思いますが、やっぱりお産は大変だったと思います。子どもを産む時はたいへんです。お母さん方は体験したと思いますが、つるっと産む人も中にはいますが、普通は産みの苦しみがあるわけです。
 以前にも話しましたが、家内が長男を産む時は大変でした。それを見て恐怖になりました。だから二人目の長女の時には、病院に行くのが怖かったです。すると病院から電話がかかってきて、「奧さん苦しんでいますから、早く来てください。」ということで、急いで行ったら、着いた時には生まれていたので良かったです。家内が「本当に辛かった!」と言っていました。産みの苦しみって、辛いですけれど、希望があります。なぜなら、新しい命が生まれるからです。
 クリスチャンも時には、苦しみがありますが、苦しんで終わりではありません。産みの苦しみだというのです。

 人類の苦しみと、被造物の苦しみがシンクロして、何を生み出すかと言ったら、「新しい天と新しい地」を生み出すのです。それはヨベルの年の実現です。主が帰って来られて、世界の王となって、すべてを新しくされる為の産みの苦しみです。その苦しみのただ中に、クリスチャンは身を置いているのです。
 個人のうめきとともに、被造物のうめきをシンクロさせ、聖霊のうめきに直結するならば、すべてが相働いて益となり、やがて圧倒的な勝利につながるというのが、ローマ人への手紙8章のメッセージです。
 しかしリンクが切れているのが、「被造物のうめき」ではないか、と感じています。一番、私にとって無関心な領域で、考えてもみない領域でした。何度も話していますが、私は植物とか、動物に興味がなく、花より団子でした。しかし、考えてみれば、神が命あるすべてを造られたわけですから、先週もこのグラフをお見せしましたが、現在知られている生物の総数は、いろんな分け方があるようですが、私が調べた資料によると、百五十万種類近くですが、神が造られた被造物の中で、最も、種類が多いのは昆虫です。

0003.jpg

 虫好きな人いますか?私は虫が好きだという人、スイッチオン!子どもたちは手を挙げていますが、大人は挙げていませんよね。普通はどうですか。虫は本当に嫌でしょう。これから、どんどん虫がでてきます。でもこうして見ると、人間よりも、神様は虫好きです。

 先週、私は大変なことがありました。それはムカデに噛まれて、すごく痛かったからです。みなさんも気をつけましょうね。超痛い。私はすぐに家内に、「ムカデに噛まれた!」と言ったら、家内がびっくりして、子どもたちと一緒にLINEグループを組んでいるのですが、間違えて、「じいじがマムシに噛まれた。」と書いたもんだから、もう大変な騒ぎとなりました。息子からはあんまり連絡ないのに、「すぐに病院に行け!」とか言ってですね。私は、「マムシじゃないよ。ムカデだよ。」とLINEしました。ムカデは大したことありませんでした。二時間くらい痛かったですが。でもちょっとムカデは愛することはできません。しかし神様がムカデを造ったわけで、複雑です。神様って結構、昆虫マニアです。人間はどうでしょうか。動物類の一種です。しかし、人間は、「俺たちがすべてだ!」と考えています。
 生態系全体が、主が帰って来られる日を待っているのです。ムカデだって、そのときは人に噛みつくことはなくなるはずです。ライオンだって、マムシだって、コブラだって、子どもと遊べるようになります。しかし、今はうめいています。

 先週、霊的戦い専門課程がありまして、そんなことをお話しさせていただいて、とりなしの祈りに、動物園に行きました。浜松動物園・植物園に行きました。先生方、教会のリーダーの方々と一緒に、とりなしの祈りに行きました。
 今まで、動物は楽しませてくれる存在と思っていましたが、自分が動物園に入れられて、猿たちが見に来たなら、相当うめくだろうと思いました。動物たちの身になったら、相当うめいているのだろう?と思いました。少し、動物たちのうめきに耳を傾けるという意味で、遊びじゃなくて、動物たちも、神が造られた命ですから、ローマ書八章を実行する意味で行きました。
 やはり動物園の動物たちは元気ないです。

0004.jpg

 私が撮った写真ではないですが、動物たち元気ないというか、落ち込んでいますね。

0005.jpg

 また、そのような目で動物たちを見てください。夢も希望もない感じですね。中にはこういうのもおります。

0007.jpg

 主よ!助けてください!と祈っているような動物もおります。

0008.jpg

 もうどうでもいいや!というのもいます。

0009.jpg

 動物たちは、相当うめいているのではないかと思います。
 でも人間って、全く、そういうことに関しては、関心がないわけです。
 しかし私たちがすべてのうめきに心を向けていく時、主が私たちに聖霊を注いでくださると信じます。なぜならば、聖霊様は神のみ心を実現するために、働かれる方であるからです。ヨブのように人間主義的に求めても、やっぱり限界があります。それで、いろんな問題が起きてしまうのだと思います。
 しかし、神様のみ心にシンクロしてたら、主が新しいことをしてくださるのではないかと期待しています。

 多くの植物や生物がないと、私たちは生きることができないのです。地球上の生物たちは、私たちの生命が続くことを可能にするサービスを、無償で提供しているのです。この虫嫌い!とか、この植物嫌い!と、いろいろとありますが、私たちの周りにある植物や動物たちは、人間が生きるためのサービスをタダで提供してくれているのです。

 まずは地球環境の気体構成の維持です。植物は二酸化炭素を吸い込んで、酸素を供給してくれます。また、水の循環を通して、新鮮な水を供給しています。川の流れには浄化作用があるわけですね。廃棄物の解毒処理もします。人間はいろんな悪いものを垂れ流しますが、それを分解してくれるのも、微生物だったりするわけです。土地の活性化のための、硝酸処理といった栄養物の循環や、有害物や、疫病のコントロールとか、穀物や野生動物の授・受粉だったり、将来の農作物、医療、産業資材のための遺伝図書館の維持も彼らの役割です。人の子どもが生まれるのは、必ず人間が生まれます。お母さんが猿や犬を産んだ事はありません。みんな同じ人間を生んで行きます。遺伝図書館がちゃんと維持されていて、子孫が残っていくわけです。だれが維持しているのか。究極的には神様ですが、生態系、遺伝子、種から、すべてが絡み合って、人間の生命を維持しているわけです。
 そのような中に生かされているのにもかかわらず、私たち現代人は、大切なものを失っている現実があります。

 この頃、絶滅危惧種が多くあります。神の被造物が人間によって失われているのです。これは、大きな罪じゃないでしょうか。本来は、人間が管理しなければいけない対象が、なんと、人によって失わされているのです。これは、大きな罪だと思います。

 三月にネパールのチェパン族の所に行きましたが、チェパン族の人たちって、私たちの目から見たら、遅れているように見えますが、そうではないです。生態系の中にうまく組み込まれて、自然と共生しているわけです。あのような人たちが本当の人間だろうな!と思います。彼らがイエス様を信じて、人間とは元々管理人として造られたと、自分たちのアイデンティティーをしっかりと理解したら、世界は変わるだろうと思いました。

 今、人間も絶滅危惧人種がいるそうです。特に、ブラジルのアマゾンで生活している、アワ族の人たちは絶滅危惧人種です。彼らは、狩りをして、子どもの動物は家につれて来て、家族の一員として育てるというのです。小動物には、自分の乳を飲ませて育てるというのです。すると、完全に人間と動物は協力関係になって、リスなんか高い所に登って、木の実を取ってくれたり、固い物を割ってくれたりするというのです。

0013.jpg0010.jpg

 引っ越しする時は、動物も連れて行くわけです。こういう人たちが絶滅しているわけです。

0011.jpg

0012.jpg

彼らのうめきもちゃんと聞いて、聖霊のうめきに繋いであげることが必要ではないかと思います。

 世界でもう一種、絶滅危惧種がいるのですが、なんと日本人です。日本人は人口減少で絶滅の危惧に瀕している五つの民族の筆頭だというのです。
 二〇五〇年には、人口は二十五パーセント減少して、一億二千三百万人くらいが、九千五百万人くらいになるそうです。日本人って、絶滅危惧種なのです。日本人って大事な民族なのかもしれません。神の手に握られたらですけれど、このままだと、どこに向かっているのか、聖霊様のうめきを知って、自然界のうめきと結んでいくならば、自然界にあるさまざまな問題も、克服されていく事でしょう。

 今日、問題が解決するためには、聖霊のうめきを自分のうめきにつなげて、それとともに、私たちが被造物の一員であることを意識して、被造物の叫びに耳をかたむける時、聖霊の油が注がれて、世界は変わっていくと信じます。ペンテコステの本当の意味である、ヨベルの年が実現すると信じます。

 今から聖餐式を持ちたいと思いますが、イエス様の十字架の血潮は、被造物全体との和解であった!とあります。私たちに和解をもたらし、被造物に和解をもたらしてくださった主の十字架を、心から感謝して、助け主が来てくださったことを感謝して聖餐にあずかりたいと思います。


 ハレルヤ。天の父なる神様、御名をあがめて心から感謝します。今日は聖霊様が地上に来てくださった記念の日です。ありがとうございます。今日は、ここにおられるすべての兄弟姉妹のうめきと、聖霊様のうめきが結ばれ、解放されますように。同時に、自然界全体がともに産みの苦しみをしていると学びました。どうか、そこにも結んでください。生命を維持するために、自然環境を備えてくださったことを心から感謝します。そのことを無視してきた罪を赦してください。
 今日はあなたのうめきに同期して、イエス様の十字架の血潮を感謝することができますように。今からの聖餐式を特別、主の臨在の中で導いてください。イエス様の御名を通して祈ります。アーメン。