「—2017年あなたは良いもので満たされます— パート16 
~あなたを救って祝福とする~

2017年7月2(日)
新城教会主任牧師 滝元順
ゼカリヤ8章9節~13節

『万軍の主はこう仰せられる。「勇気を出せ。あなたがたは、万軍の主の家である神殿を建てるための礎が据えられた日以来、預言者たちの口から、これらのことばを日ごろ聞いているではないか。その日以前は、人がかせいでも報酬がなく、家畜がかせいでも報酬がなかった。出て行く者にも、帰って来る者にも、敵がいるために平安はなかった。わたしがすべての人を互いに争わせたからだ。しかし、今は、わたしはこの民の残りの者に対して、先の日のようではない。‐‐万軍の主の御告げ‐‐それは、平安の種が蒔かれ、ぶどうの木は実を結び、地は産物を出し、天は露を降らすからだ。わたしはこの民の残りの者に、これらすべてを継がせよう。ユダの家よ。イスラエルの家よ。あなたがたは諸国の民の間でのろいとなったが、そのように、わたしはあなたがたを救って、祝福とならせる。恐れるな。勇気を出せ。」』

 ハレルヤ!みなさん、おはようございます。ゴスペル・クワイヤーの力強い賛美を聴き、勇気づけられました。今日のみ言葉の中に、「勇気を出しなさい!」という言葉がありますが、教会に来ると、少し落ち込んでいても元気が出るはずです。なぜなら、主が共におられるからです。今日、お一人一人が上からの力と勇気をいただいて、お帰りになっていただきたいと思います。

 今週私は、北海道で、「全国縦断リバイバルミッション」にて奉仕をさせていただきます。是非とも、お祈りいただきたいのですが、北海道は、明治以前は日本ではありませんでした。しかし明治時代になって、日本に組み入れられた場所で、昔は蝦夷(えぞ)と呼ばれていた場所でした。日本を巡ってみて、ちょっと雰囲気が違うのが、北海道と沖縄です。二つとも明治以前は日本ではなかった場所です。そのような雰囲気も、何らかの霊的なものかと感じるのですが、日本全体に福音を伝えるために、日本縦断リバイバルミッションが継続中ですので、お祈りをいただきたいと思います。

 また今夜、ひさしぶりのゴスペルサパーがあります。今日のゴスペルサパーは、滝元開&典子夫妻の素晴らしいコンサートです。近頃、彼らはCDを出し、のっているところです。是非とも新しい方々を誘って、共に楽しんでいただきたいと思います。美味しいものがたくさん出るはずです。何が出るのか、私はあえて聞きませんでしたが、楽しみにしています。

 私は年間一度か二度、授産所から来られている兄弟姉妹と一緒に食事をします。もちろん支払いは私なのですが、今回は、贄さんがバプテスマを受けたお祝いに、食事に行きました。

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 昨日はラーメンだったのですが、彼らは、「二日連続でご馳走が食べられる!」と言って、興奮していました。「明日のために食べるのを少し、セーブする!」とか言ってましたが、セーブすると言うわりにはたくさん食べていました。ある人は、デザートを二回おかわりしておりました。私の身にもなってください、というような所もあるのですが、次回は寿司に連れて行ってくれと頼まれました。それは信弘先生にふっておきましたから、よろしくお願いします。食べるのは楽しいですね。神様が人に食べる喜びを与えてくださっているのは感謝なことです。

 今夜はゴスペルサパーで、美味しい食事をして、すばらしい音楽を聴いて、メッセージは私が語らせていただきます。またインターナショナルの集会もあります。そちらのほうにも出て頂きたいと思います。

 「二〇一七年、あなたは良いもので満たされるシリーズ」もついに、十六にもなってしまいました。今年はこのままいこうかなとも思いますが、今日は「あなたを救って祝福とする」というタイトルで、祝福の秘訣について学んでいきたいと思います。
 先ほど読んでいただきました八章十三節の中に、

『ユダの家よ。イスラエルの家よ。あなたがたは諸国の民の間でのろいとなったが、そのように、わたしはあなたがたを救って、祝福とならせる。恐れるな。勇気を出せ。」』

 とあります。聖書は、のろいから救われて祝福となるという、基本的テーマがあります。「のろいからの解放」です。クリスチャンになる前は、ある意味、のろいの中にあるのですが、そこから解放されて祝福とされるのは、すばらしいことです。
祈りの中にもありましたが、この近所では今、祭りをやっています。なぜかというと、十六世紀に、この地域で多くの血が流されたからです。設楽原の戦いがあって、一万六千人も死んだので、この近所はのろいがあると人々は信じています。だから、なんとかそののろいを取り去らなければいけないということで、毎年祭りをやっています。しかし人の努力では、のろいはぬぐいさることはできません。イエス・キリストによらなければ無理です。

 私たちがクリスチャンになるとは、まずは創造主なる神と結ばれることです。創造主とチャンネルができないと、のろいから祝福に変わることはできないです。
 そして、私たちが救われるとは、人類の存在の目的が回復されるということです。最初の人間、アダムとエバに神が語った言葉は、全人類に対しての言葉です。
 それは、「エデンの園を耕させ、園を守る」という役割でした。人類は神が造られた被造物を管理する、管理人です。私たちは、神が創造された、数え切れない被造物を管理するために、造られたわけです。
管理人とは、特別、神から任命を受けた者ですから、常に、私たちは神様とのチャンネルがないと、良い管理人として働くことは出来ません。
しかし、このチャンネルが時に、途絶えてしまうのです。途絶えて、圏外になったりすると、主からの情報がなくなりますから、GPSと同じで、迷走するわけです。人類は地球や生態系を管理しようとしていますが、本物の神と結ばれていない為に、うまくいかないわけです。けれども、神との関係が回復したら、正しい情報をいただいて、人生って捨てたもんじゃない!となるのです。

 だからまず、祝福を受けるために必要なのは、神との関係を回復し、主の声を聞く環境を作ることです。スマホもネットにもちゃんと繋がっていたら情報が来るけど、うまく電波が入らないと情報は入りません。携帯電話も電波棒が少なくなると、声が途切れるわけです。
 この頃、Wi-Fiがないと生きていけない時代になりました。私は海外に行くことが多いのですが、昔は海外から日本に電話するのは大変だったけれど、Wi-Fiさえあれば、どこの国に行っても、日本と直結で話すことができます。だからどこに行っても大丈夫です。先日、スペインに行きましたが、家内が隣にいるような錯覚を持ちました。

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 同じように、神様とも、しっかりつながっていたら大丈夫です。減ってくると、切れるのです。まず私たちは、神様との関係を良くしなければいけないです。

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 そうすれば人生は豊かになるわけです。

 今日のテキスト、ゼカリヤ書は、バビロニア帝国に捕虜にされていたユダの人たちが、もう一度エルサレムに帰って来て、神の宮を建て始めた時のことです。七十年くらいバビロンに捕虜となっていました。元々は、エルサレムには神殿があって、そこで主を礼拝していました。

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 神殿は、こんな感じじゃないかと言われるのですが、旧約時代は、特定の場所しか、神は祈りをきいてくれませんでした。宮に神の名が付いていて、ここで祈れば神が祈りを聞いてくださるという、システムだったわけです。それが壊されて、祈りの場所がなくなったわけです。
 七十年くらい経って、ユダの人たちはエルサレムに戻って来て、まず何をしたかというと、すぐに、神との交わりの場所を建て直し始めたのです。けれども、敵が来て中止されて、十数年に渡って工事ができませんでした。
 人間って、いつもやっていたことが途絶えると、初めは違和感があるものですが、しばらくすると、それが普通になります。

みなさんもどうでしょうか。教会に毎週来ている時は、一回でも休んだだけで、「なんか違和感だなぁ・・・」と感じるじゃないですか。でもどうでしょうか。一ヶ月に一回くらいしか来れなくなって、それが定着すると、「こんなもんかな?」という感じになってきます。さらに半年に一度、一年に一度くらいになると、それが定着すると、案外それで通るのです。
 イスラエルの人たちも、そんなところがありました。神殿がなくなって、最終的には圏外みたいになったわけです。

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 その結果、どうなったのかが、ゼカリヤ書八章に出ていました。ハガイ書も合わせて読むとよく分かります。ハガイ書一章七節~十節、

『万軍の主はこう仰せられる。あなたがたの現状をよく考えよ。山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現そう。主は仰せられる。あなたがたは多くを期待したが、見よ、わずかであった。あなたがたが家に持ち帰ったとき、わたしはそれを吹き飛ばした。それはなぜか。‐‐万軍の主の御告げ‐‐それは、廃墟となったわたしの宮のためだ。あなたがたがみな、自分の家のために走り回っていたからだ。それゆえ、天はあなたがたのために露を降らすことをやめ、地は産物を差し止めた。』

 イスラエルの人たちは、神殿において神を一生懸命礼拝していたのですが、神殿が壊されたり、工事を中止させられたりして、礼拝から、だんだん遠ざかったわけです。初めは違和感があったと思われますが、そのうちに、主との交わりがなくなっても普通になったわけです。
 彼らの人生は、自分のために走り回る人生になったのです。そうしたら、今まで注がれていた神からの祝福がとどまったのです。ゼカリヤ書八章やハガイ書を見ると、もう一度勇気を出して、神の宮を建てなさい!とは、もう一度神との関係を築き直しなさい、そうしたらあなたを回復してあげますよ!と語られているわけです。

 先ほども話ましたように、昔、神の支配は、特定の場所にしか下りて来ませんでした。

 旧約時代は、神の宮がないと、礼拝できないし、神の支配を受けることもできませんでした。重要な神の宮自体が壊されたわけですから、「もう一度建て直しなさい」と言われているわけです。
 しかし、新約時代になると、構図は同じなのですが、それが教会になるわけです。今日も教会に集っておりますが、私たちが主を賛美する時に、主の祝福が下りて来るわけですね。今日も共に賛美して、ゴスペルを聴いた時に、鳥肌が立つような、主の臨在がここに満ちていました。
 旧約時代、神の宮を建てるということが、新約時代になると教会に変わっているのが分かるのですが、さらに、新約時代は教会だけでなくて、教会という概念は、人となるのです。それがクリスチャンです。人が神の家となるのです。クリスチャンが神との関係を維持していると、神の支配が下りて来るのです。

 旧約聖書に述べられている実際に起こった歴史的物語から、神との交わりをしっかりつなぐことが大変重要だということが分かります。
 主との関係が遠くなってしまうと、人生は狂い始めます。そうならないようにしなければいけないのです。

 しかし、主との関係が悪くなった場合、「しょうがないなぁ、こいつは!」とは言われないのです。今日読んだゼカリヤ書八章のように、八章十三節、

『ユダの家よ。イスラエルの家よ。あなたがたは諸国の民の間でのろいとなったが、そのように、わたしはあなたがたを救って、祝福とならせる。恐れるな。勇気を出せ。」』

と励まして下さるのです。勇気を出しなさい!と。
 ユダの人たちも、七十年経って故郷に帰って来て、神の宮を建て始めたけれど、敵がやってきて工事を中止させられました。建て上げたくても建てることができない状況があったわけです。しかし、もう一度勇気を出しなさい!と主は、励ましておられるのです。
 今日ここにおられるすべてに、「恐れてはいけません!勇気を出しなさい!」と語られます。

 日本において、主とのつながりをしっかり結んでいこうとする時、迫害があったり、戦いがあったりします。でも勇気を出して前進しなければいけないのです。
 そして、この引き止める力こそ、霊的な力なのです。クリスチャンの上にも悪魔の覆いがあると難しいです。
 この覆いが取られたら、神の支配が及ぶわけです。日本は目に見えない敵が多いです。この敵に立ち向かっていかなければいけないことを教えられます。

 話は変わりますが「勇気を出しなさい!」という言葉がありますが、今朝の礼拝の最初の賛美も「勇気を出して」でした。
 二〇〇七年、私たちは「勇気を出して」というテーマで、ハワイでリバイバルミッションを行いました。ハワイリバイバルミッションが終わって、すでに十年にもなります。

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 カピオラニ公園という所でやったのですが、本当にすばらしい集会でした。これは日本の教会の歴史の中で、初めてだったと思います。日本の教会とアメリカの教会が一つになって、過去に日本とアメリカの間にあった悲しい歴史を、十字架の愛で赦しあい、乗り越えて一つになろう!という働きでした。
 日本は太平洋戦争を始めて、多くの人たちが犠牲になりました。その原点が、ハワイの真珠湾にあるのですが、互いに和解をして、一つになって進んでいきましょう!という働きを始めました。

 実は、私たちが神の宮を建て直すことができない背後に、国が過去に犯した罪が深く関わっていることを知ることができます。
ゼカリヤ書三章一節から五節まで読みますと、こんな言葉があります。

『主は私に、主の使いの前に立っている大祭司ヨシュアと、彼を訴えようとしてその右手に立っているサタンとを見せられた。主はサタンに仰せられた。「サタンよ。主がおまえをとがめている。エルサレムを選んだ主が、おまえをとがめている。これは、火から取り出した燃えさしではないか。」ヨシュアは、よごれた服を着て、御使いの前に立っていた。御使いは、自分の前に立っている者たちに答えてこう言った。「彼のよごれた服を脱がせよ。」そして彼はヨシュアに言った。「見よ。わたしは、あなたの不義を除いた。あなたに礼服を着せよう。」私は言った。「彼の頭に、きよいターバンをかぶらせなければなりません。」すると彼らは、彼の頭にきよいターバンをかぶらせ、彼に服を着せた。そのとき、主の使いはそばに立っていた。』

 聖書は立体的に読まないと理解できないところがあるのですが、ゼカリヤ書の三章と、エズラ記五章を読むと、同じことが書かれています。
 エズラ記五章は、現実の世界で起こった事件について記されています。それは、神の宮を建て直そうとした時、川向こうから敵が来て、「工事をやめろ!誰に断って始めたんだ!」と、妨害する様子が記されているのですが、ゼカリヤ書の三章では、その同時刻に、見えない世界でどんなことが起こっていたのかをレポートしています。エズラ記とゼカリヤ書を並行して読むと、現実の世界で起こることは、目に見えない世界に発生源があることが分かります。

 ゼカリヤ書の三章の中に登場する、大祭司ヨシュアとゼカリヤは、現実の世界で神の宮を建てるために、工事現場で一生懸命努力していた人たちでした。そこに敵が来て、仕事やめろ!と訴えていたわけですが、その時、見えない世界で、以前にも話しましたが、訴えられていたわけです。

 ゼカリヤ書を見ると、主の前に大祭司ヨシュアがいて、告発側ではサタンが訴えていたのです。そして、ゼカリヤも見えない世界では、弁護側にいたのです。また、主の使いもそこにいて、弁護していました。
工事現場には、大祭司ヨシュアとゼカリヤと、人間しかいないように見えるけれど、見えない世界ではサタンがいたり、御使いがいたりして、戦いがあったのです。サタンの訴えが天で通過してしまった時には、工事が中止させられたけれど、訴えが天で退けられた時は、工事がうまくいったのを、ここから見ることができます。

 何週間か前、ヨブ記に関しても学びましたが、私たちは、様々な問題を地上で体験しますが、そのいくつか、すべてとは言いませんが、見えない世界で、天の法廷で訴えられて、地上に問題となって反映される構図があることを聖書は教えているわけです。

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 ユダの人たちが神の宮を建て上げよう!としていた時、天で訴えられたことによって、地上では神の宮を建て直すことができなかったのです。さらには、人々の生活さえも、ままならないという、現実の世界に不具合が生じていたのです。この構図を知る時、まずは見えない世界で勝利を取らないといけないことを知らされます。

 前回もお話ししましたが、見えない世界でヨブは訴えられていたけれど、全然気づかなかったのです。しかし新約時代を生きる私たちは「異議あり!」と反論できると話しました。そして、見えない世界で「勝訴!」出来るのです。見えない世界での戦いに勝ったら、地上もうまくいくとお話しさせていただきました。普段の生活の中で、見えない世界をどのくらい具体的に捉えるかが、勝利のポイントだと思われます。

 そんな中、サタンは何を主の前に訴えていたのか、その理由を知ることが出来ます。
サタンは、大祭司ヨシュアが着ている「着物が汚い!」と訴えていました。祭司は普通、白い衣を着ていたわけですが、それが薄汚れていたらしいのです。大祭司は国を代表する存在であり、衣の汚れとは、国家的な罪を表します。
 それは何を意味するかというと、かつてイスラエルが「国家的に犯した偶像礼拝の罪」でした。サタンは国家的な罪を主の前に訴えることにより、神の宮が建つのを妨害していたのです。

 実は二〇〇七年、ハワイでリバイバルミッションを行なった時、日本になかなかリバイバルが起きないのは、日本がかつて犯した国家的な罪が天で訴えられていることに気づかされました。その大きな理由が、日本が太平洋戦争前後に、お年寄りの方は知っておられると思いますが、国家神道という偶像礼拝と共に、アジアに出て行った罪です。アジア諸国に神社を建て、偶像礼拝を強制し、植民地支配すると言う、国家的な罪を犯したゆえに、日本が祝福を失っていることに気づかされました。
 だから、勇気を出して、国家的な罪を悔い改める集会を開催しなさい!と告げられた気がして、最初にハワイから始めました。ハワイが綺麗な所で、楽しいから始めたのではないのです。そこには意味があったのです。日本が行った戦争の原点ですから、日本人として、アメリカの教会や、被害を受けた人たちの所に行って、クリスチャンとして、その罪を悔い改めて、すばらしい集まりとなりました。
 二年間くらい準備活動をしましたが、なかなか大変でした。私はハワイはリゾート地で、初めはいい所に行けると思いましたが、いろいろ大変なことがあって、ハワイのイメージが悪くなりました。今でも、ハワイにはあまり行きたくないです。ハワイには暗いイメージしかなくて、結構大きな戦いでした。

 すべてが終わってやれやれと思ったのですが、今度は何をしたらいいんですか?と祈っていたら、次の段階が示されました。それは何かと言うと、アジア諸国に対する悔い改めの手始めとして、韓国に行って謝罪をし、韓国の教会と一つとなって和解の集会を開催するという思いが与えられました。それは私一人だけでなく、実行委員全員に与えられた思いでした。勇気を出してというテーマは韓国の為だと、ちょっと緊張しました。

 ご存じのように、韓国はクリスチャンが多いです。日本は先週も話しましたが、現在、教会は八千くらいしかありません。しかし、韓国は何万あるか分かりません。日本は二〇三〇年になったら教会数が半分になると言われますから危機的状況です。一つの教会の礼拝出席人数の平均が、二十数名で、田舎に行ったら十名くらいです。
しかし韓国は、一九七〇年、八〇年代に、聖霊の風が吹いて、人口の二十パーセント、二十五パーセントくらいまでクリスチャンが増えた時期もありました。しかし、日本にはその風が来ないのです。
 雨雲だって、九州のほうとか、韓国のほうにかかると、それが東のほうに移動して、雨を降らせます。雨雲は、必ず、西から東に向かいます。リバイバルの雨雲だって、西から東に来たって良さそうですが、韓国で止まったのはどうしてか不思議に思います。その理由が、日本教会の衣が汚れているというのです。日本教会が神の前に立つ時、「おまえたちが過去に犯した罪があるじゃないか!だから、祝福を受けることができない!」とサタンが訴えているのではと思いました。その結果、日本の教会は祝福を失っていることを知らされました。

 なぜかというと、戦争中、日本の教会は、日本キリスト教団というグループに国家によってまとめられ、牧師たちは迫害を受けました。礼拝を守ることもままなりませんでした。今、私たちは自由に礼拝を守っていますが、戦争前中は、教会の十字架の上に神棚が設置されて、礼拝前に牧師は神棚を拝んで、宮城遙拝といって、天皇の住んでいる皇居のほうに向いて最敬礼して、それから礼拝を始めたのです。下條先生は、幼い頃、その光景を見たと言っていました。「なぜ、こんなことするのかなぁ」と意味がわからなかったと話しておられました。それをしないと警察が来ていて、牧師は逮捕されたのです。一般のクリスチャンは、少し礼拝に遅れて来たというのです。礼拝に遅れて来る文化は、そこから始まって今も継続されているということを聞いたことがあります。
 日本の教会は、迫害を恐れて、戦争協力をしたのです。大祭司ヨシュアのように、神の前に立ったらどうでしょうか?「おまえの衣は汚れている!」と訴えられるのは、当然だと思います。

 だからまずは韓国に行って、その罪を悔い改めなければいけないと思い、韓国の知り合いの先生方にお願いして、集会を計画しました。
 でも、招かれて出向くわけじゃないですから、押しかけみたいな集会は大変です。招かれないのに日本の教会が韓国に行って、「和解に来ました。」なんて言っても、「あんたたち何しに来たの?」という感じです。「みなさんの祝福を祈りに来たのです。」と言っても、「あんたに祈ってもらわなくてもいいよ!韓国は祈りの教会で、いっぱいクリスチャンがいるから。」と言われそうでした。ちょっと大変だと思ったけれど、神様がそういう困難に挑戦する、勇気を与えてあげる!と言われたので、勇気を出して実行しました。

 勇気を出して、自ら壁を壊そうと戦い始めた時、祝福を受けたような気がします。ある意味、一番近くて遠い国と言われる韓国と一つになろう!とがんばりはじめた時から、私たちの教会は、聖霊の臨在が強くなったと感じます。
私は、韓国中を回っていろんな教会に行って、集会を持たせていただきました。ソウルの大きな教会にも行きましたし、南のほうの小さな島の教会にも行きました。いろんな所を見させていただきました。それは大きな特権でした。
 そこで気付かされたのは、世界中のクリスチャンに対する神の法則は同じと言う事でした。

先ほども話ましたが、個人的に神に近くなれば祝福して下さいますが、イスラエルの民と同じように、自ら遠くなると祝福が薄くなるという原則です。携帯電話の電波と同じです。バリバリに立っている時は情報がたくさんありますが、遠くなって圏外!になると、せっかくの祝福が流れて来ないのです。

 韓国の海辺の小さな教会に行ったことがあるのですが、強く印象に残っています。そこの教会の先生が、私を立派なレストランに連れて行って、韓国の家庭料理をごちそうしてくれました。そしたらオーナーのおばあちゃんが来て、自分の証しをし始めました。私は食べるのに忙しかったのですが、いかにして祝福されたかを話してくれました。
 その方、初めは教会に一生懸命通っていたそうです。しかし、しばらくして競争相手のレストランが周りにできて、初めは日曜日をお休みにして礼拝に来ていたのですが、日曜日も店を開けるようにしたというのです。はじめはちょっと罪意識があったけれど、だんだん慣れて、それが普通になったというのです。
 そうしたら初めは良かったけれど、携帯電話やWi-Fiみたいなものです。主とつながっていたのが、だんだん弱くなったのか、ハガイ書の中にも、『あなたがたは多くを期待したが、見よ、わずかであった。あなたがたが家に持ち帰ったとき、わたしはそれを吹き飛ばした。』とあるように、裏目に出て、うまくいかなくなったというのです。
 ある日のこと、教会の牧師がレストランに来て、「おばあちゃんどうだい?この頃?」と聞いたら、「どうもこうもないよ!見た通りだ!全然うまくいっていない!」と、おばあちゃんは牧師に文句を言ったそうです。
「私は長いこと教会に行ったけど、何のいいこともなかった!」と。でも、牧師はこう話したそうです。「おばあちゃん。昔はちゃんと教会に来ていたから、もう一度、どうせ日曜日、お客も来ていないから、教会に来たらどう?」と勧めたというのです。
それで、「そうだな。日曜日に、どうせ客は来ないからな。」と、礼拝に行くようにしたというのです。
 そうしたら、奇蹟が起こったのです。どんな奇蹟かというと、今はちょっと落ち目になりましたが、あのヨン様です。日本の婦人方で今も好きな方がおられると思いますが、ヨン様がその海辺で新しい映画の撮影をすることになったそうです。彼は毎日、ご馳走ばかりを食べていたらしいのです。あれだけ儲けている人ですから、毎日グルメで、美味しいものばかり食べていたそうです。しかし、美味しいものに疲れたというのです。一度疲れてみたいと思うのですが。それで、シンプルな家庭料理が食べたい!と思ったそうです。
 撮影の合間に変装して、町を歩いていたら、寂れた家庭料理店があったというのです。それで帽子を深くかぶって、中に入って、店の隅っこで、おばあちゃんが作った韓国の家庭料理を食べたというのです。結構シンプルなものが美味しいですよね。
 しかし、それがばれたというのです。「ヨン様が来て食べた!」というのがバレて、その店が評判になったというのです。
 そうしたら、何が起こったかというと、その小さな店に、日本からお客がどーっと来て、大繁盛になったというのです。そのおばあちゃん、「ヨン様定食」を売り出したというのです。それがものすごく売れたそうです。ヨン様が食べたものにちょっと高いものを付け加えて、ヨン様定食として売り出したら、バカ売れして、私が行った時には大きなレストランになっていました。「神様を第一にしたら、私は祝福されました!」と熱く証をしてくれました。全世界、神様との関係って、同じだなぁと思いました。

 聖書にこんな言葉がありますよね。「何よりもまず、神の国とその義とを第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」神を第一にすると、人生は変えられます。

 さらに、救われた者たちは、自分のことだけでなくて、国が犯した罪に関しても、しっかりと扱っていかなければならないことを、私はハワイリバイバルミッションで勇気をいただき、韓国リバイバルミッションでさらに、強く教えられました。私たち管理人は、自分のことだけを考えるのではなく、国が過去に犯した罪に関しても、悔い改めることが、神の家を建て上げるための、重要な働きなのです。

 今、教会は、旧約時代のように形のあるものではなく、目に見えないものです。目に見えない教会を建て上げることが、新約時代、最も重要な働きであるわけです。
 そのための必要は何かを、エペソ人への手紙などからわかります。それは「壁を打ち壊すこと」だというのです。壁を取り去ることが、教会の勝利のために、個人としても、国としても、教会は最終的には神の国ですから、神の国が現されるために重要である事を教えられました。
神の国は教会に表されるのですが、最終的には地球全体に神の支配が及ぶ再臨と、イエスキリストによる世界統治につながるのです。
 そのために必要なことは何かというと、「壁を壊す」ことが重要です。

 エペソ人への手紙二章十九節~二十二節、

『こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。』

 教会が目に見えないものであることを、この中に見るのですが、「こういうわけで」という言葉が使われています。「こういうわけで」とは、どういうわけかというと、二章十三節~十七節に、その理由が記されています。

『しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました。』

 ここに書かれていることは何かというと、イエス様がこの地上に来られた目的の一つは、人類の間にある「敵意」を取り去るためだというのです。それは個人的な敵意もあるのですが、ここでは、イスラエルと、異邦人との間にある敵意の壁を崩す時に、教会は完成すると教えています。
 二つのものを一つにして、「新しいひとりの人」にするとは、異邦人とイスラエルが一つになって、神の国が完成するというのです。故に敵意を、私たちの間から葬り去らなければいけないのです。その結果として、聖霊によって、私たちは主に近づくことができると教えています。
最終的には異邦人とイスラエルという大きなテーマを論じているのですが、手始めとして、まず、自国民と他国民の間にある、敵意の壁を打ち破らないと、神の国は広がっていかないのです。
 先ほどもお話ししましたように、国家的な罪とか、憎しみ、敵意が、天で悪魔に訴えられて、それが地上に反映されますから、ハワイリバイバルミッションとか、韓国リバイバルミッションで民族間の壁に立ち向かう勇気を与えられたことが分かります。

 イエス様の十字架は、敵意を葬り去るためでもあったのです。私たちの中に様々な敵意の壁があると、神の国が下りて来ないのです。敵意が覆いとなって、祝福が下りてこないわけです。
 しかし、敵意の覆いを取り去ったら、神の国が下りて来るはずです。

 実は韓国リバイバルミッションが終わった後、日本の社会の中にある壁を崩さなければいけないことを、主から教えられて、自分自身の中にも壁があることに気付かされました。
日本には、日本人だけが住んでいるのではなく、外国の方々も多く住んでおられます。
 どうでしょうか。日本人って、自分たちだけで住んでいる時には結構心地がいいけれど、海外の方々が周りに来ると、ちょっと心にブレーキかかるじゃないですか。それは、文化習慣の壁のようだけど、やがて敵意の壁ができてしまうのです。それを私たちは倒さなければいけないのです。
 なぜなら、やがてイエス様が帰られる時には、どこの国なんて関係ないからです。すべての国民が一つに集められて、一つの国に入るためには、敵意の壁を壊さなければいけないのです。

 そんな中、日本人が持っている最も大きな壁が、今日ここに関係者の方々もおられるので、なかなかセンシティブな所があるのですが、日本には、日本に在住されている韓国系の方々が、多くおられるのをご存じでしょうか?

 実は日本には、戦争以前、アジアに多くの植民地があり領土はかなり広かったのです。

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 赤い所は全て日本でした。現在、北方領土と呼ばれるほうから、台湾、隣の朝鮮半島も、日本として支配していました。
 それで特に韓国の南の地方から、大勢の人たちを軍事工場などで働かせるために連れて来たのです。隣の豊川市には大きな軍事工場があって、大勢の方々が労働者として来ました。一九四四年くらいになると、強制的に徴用したりして、戦争が終わった時には、約二百万人の韓国系の方々が、日本に取り残されました。
 日本は戦争に負けた混乱で、日本人と韓国系の人たちとの間に、悲しい壁ができてしまったのです。
 日本人に敵意があったり、お互いに敵意があったりして、うまくいかないところがあるわけです。
 それは神の前には、「汚れた衣」となっているのです。その罪が人生の祝福をとどめる、悪魔の覆いになり、諸問題を引き起こす原因となっているのです。それを取り去り、倒さなければならないことを教えられて、そのためには、ちょっと勇気が要ったけれど、自ら一歩進んで働きをするようになりました。それから私自身も、変えられたと思いますし、教会もだいぶ変えられたと思います。

 日本人のみなさん、絶対に、韓国系の方々に対して、敵意を持ってはいけません。もしも壁があると、天が下りて来ないのです。祝福されないのです。イエス様の十字架の血潮によって、取り去らないと祝福されないのです。これは日本人だけでなく、お互いにです。
 この壁がなくなったら、相当、日本の教会は祝福されるはずです。

 実は、先週、素晴らしいことがありました。それは何かというと、私は「霊的戦い専門課程」をやっているのですが、毎月、様々なテーマで学んでいるのですが、日本のリバイバルをとどめている、韓国系の方々との壁を倒さないと祝福されないという視点で、私たちのほうからお伺いして、謝罪すると共に、その方々が日本でどのくらの苦難があったのかを、実際に聞かせていただく機会を作っていただきました。
 日本の社会では、韓国系の方々が二つのグループを作っています。「朝鮮総連」という、北朝鮮系の考え方でできているグループと、もう一つは「民団」という大韓民国に属するグループの二つです。日本国内に、朝鮮半島が横たわっている感じです。日本人とは大きな壁があるのです。お互いに行き来していないかもしれないです。私は和解の為の働きをさせていただいていますが、民団の方々とつながりができたらいいなと、祈っていました。そうしたら、ひょんなことから、元民団の団長さんとお友達になりました。そして、「一度、お話を伺う機会を作ってくれませんか?」と頼んだら、「分かりました。」と言って、先週、機会を作ってくださいました。
 豊橋に民団の事務所がありますが、在日韓国人の方々から、日本でどんな差別があったのか、どんな苦しみがあったのかを、聞かせて頂きました。どんなことでもよろしいですから、お話しください!と言って、こちらから牧師たち、教会のリーダー達、二十三名が出かけて行きました。
 民団からは数名、来て下さるのかと思ったのですが、なんと、びっくりしました。三十名以上の方々が来ておられました。新城に住んでおられる方々も何人かおられました。

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日本に残されて、七十年以上に渡り、がんばって来られた方々です。私たちはお話を伺い、感動し、同時にたいへん心が痛みました。こんな苦しみがあったのに、日本人は全然理解していなかったし、心の中に壁があっことを本当に申し訳なく思いました。その罪を悔い改め、和解の時をも持たせて頂き、感動的な時間を持つことができました。
これは、新城教会の兄弟姉妹にも、ぜひ知ってもらいたいと思いました。このような、国家的な罪による壁があると、主が働きたくても働けないと感じました。
 しかし、日本の教会がそのような罪に気づき、悔い改めたら、壁は砕かれ、天が下りてくるに違いないと思いました。
 私たちに気を遣いながら、皆さん、いろいろなことを話してくださり、きっと言い足りないというか、一日や二日で語りつくせない思いであっただろうと推測します。

 これはエペソ人への手紙二章の「敵意は十字架によって葬り去られた」という、み言葉の実現だと思いました。これから、私たちは主に期待したいです。
 今までこの領域においては、神様とつながっていなかったと思われます。今回その壁が、崩されたことによって、少しは深く主につながることができたかなと期待しました。

 祝福を受けるためには、個人的な領域だけでなく、国を代表して、国が犯した罪に関しても悔い改めると共に、内側にある心の壁を倒していかなくてはいけないことを強く教えられました。
 二〇一七年、「あなたは良いもので満たされます!」と主は語られましたが、そのために必要な教科がたくさんあることを感じます。今日は今から聖餐式を行いますが、イエス様の十字架の血潮は、敵意を滅ぼすために流されたものです。
 今日、いろんな敵意があって、壁があったら、打ち破られるように祈っていただきたいです。日本人の方は、海外の方とか、特に、お隣の韓半島の方々に対しての、様々な思いがあったら十字架の血潮で倒します!と宣言して祈ってください。

 この教会には、感謝なことに、在日コリアンと呼ばれる方々が来てくださっています。その方々と一つとなって、礼拝できることは本当に光栄であり、祝福です。
 今日は和解と勝利の時に、させていただきたいと思います。

 一度みなさん立ち上がって、ご一緒にお祈りしましょう。聖餐式を受ける前に、私たちの内側にある、他民族に対する憎しみとか、敵意とかがあったら赦してください!と悔い改め、暗闇が打ち破られるように、ご一緒にしばらくの間お祈りしましょう。

 「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。」


 主よ、感謝します。私たちの内側にある様々な敵意を、今日は取り去ってください。この教会の中に、そのような壁は何一つないことを宣言します。
 そして主よ、私たち日本の教会が、悪魔から訴えられていても、今日は天で勝利して、勝訴して、神の栄光をこの国に満たして下さい。
 主が十字架の血潮で聖めてくださり、聖餐式を祝福してください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。