恵みを返済する使命」

2017年7月9(日)
新城教会牧師 岡本信弘
ローマ人への手紙1章14節

『私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。』

 ハレルヤ! 主の御名を心から賛美します。こうして皆さんと共に、主を賛美し、主を崇めることができることを、本当に心から感謝します。
早いもので、二〇一七年も半年が過ぎてしまいました。この間、皆さんは主から多くの恵みをいただいたと思いますが、私もたくさんの恵みをいただきました。
 なかなか報告できませんでしたが、三月には、娘の泉が沖縄で結婚式を挙げることができました。皆さんにお祈りいただき、祝福されたことを心から感謝いたします。沖縄ということで、こちらからは親族と、友達が何人か行ってくださり、向こうの親族と合わせて四十名くらいの結婚式でした。私は慌ただしく前の日に行って少し準備をし、当日の結婚式を終えて、夜中に帰ってきました。「もう少しゆっくりして来ればいいのに」と周りには言われたりしましたが・・・。
帰って来てから、「結婚式で、先生は泣いた?」と何人かの人に聞かれました(笑)。結婚式で娘が両親に宛てた手紙を読むというシチュエーションがありますよね。もし、手紙を読まれていたら、きっと泣いただろうなと思いましたが、そんな場面がなかったので大丈夫でした。一方娘も、「手紙は書いたけど、自分もたぶん結婚式でそれを読もうとしたら泣けて読めないだろうから」ということで、結局、「帰ってから読んでね」と、帰る間際に手紙を渡されました。
夜中、家に着いて私がそれを読もうとしたら家内に、「今からそれを読むの?」と言われ、「今日の感動は、今日読まないと!」と言って二、三行読み出しただけで声が詰まってしまいました。家内に、「私はあなたが読んだ後に読むから、一人で読んできて」と言われ、部屋でぼろぼろ涙を流して読みました(笑)。やっと花嫁の父になった気がしました。
 ひとつ報告しておくと、「泉さんは今、沖縄に住んでいるの? 四日市に住んでいるの?」と聞かれるのですが、実は我が家のすぐ前のアパートに二人で楽しく暮らしています。ウイークデーは、プレイズ出版の仕事をしたり、実家で始めた事業の手伝いをしたりしています。また日曜日は、主人が四日市の教会の伝道師をしていますので、そちらに一緒に朝早く出かけていくという生活で、日曜日しか新城に来られない方とは、なかなか会うことができません。といった事情で、新城に住んでいますので、誤解のないようお伝えしておきます。また二人のためにお祈りいただけたら感謝です。
 そして、皆さんにもかわいがっていただいている孫は、一歳になりました。最近歩き始めたので、ますます目が離せなくなってきますが、少しずつできることやわかることが増えてきて、見ていてもおもしろくなってきました。これからの成長を楽しみにしています。
 また、皆さんにはプレイズ出版の数々の事業のために祈っていただき、心より感謝いたします。事業を拡大すると、「どんどん新しい事業をやって、プレイズ出版は、お金があるんだな?」と思われるかもしれませんが、それは大きな勘違いです。私も以前は、新しく事業展開している会社を見ると、「儲かっているんだろうなぁ」と思っていましたが、いざ私がその立場になると、そうとばかりはいえないことがわかりました。実情は少し、いや、私の会社においては、かなり違うなと思っています。
 お金があって新しい事業を進めたわけではなく、新しい雇用を生み出し、社会にも貢献し、何より主の栄光を現わしたいと思い、多くの借入れをしてリスクを抱えて始めました。それでも、皆さんのお祈りにより、何とか二年を乗り切ることができました。今、プレイズ出版全体では四十名ほどの人々がそれぞれの持ち場において、主のために働いてくださっていることを感謝します。このプレイズの様々な働きのために、ぜひ続けてお祈りください。

 さて今日は、『あなたには恵みを返済する使命がある』というテーマで御言葉を語らせていただきます。

 パウロは、「私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています」と言っています。
 パウロは、なぜこのところで、負債を負っていると語っているのでしょうか。負債とは、辞書で引くと、「他から金品を借り受けて、返済の義務を負うこと。その借りた金品。借金」と書かれていました。皆さんの中でも、家を建てるために銀行からお金を借りて毎月のローンを払っている人もいるでしょう。また、お金以外でも負債を抱えている人もいるかと思います。
 当然、借りたお金は返す義務があります。私も会社で多くの借入れがありますので、「今月は返済ができるか?」は、頭から離れることはありませんが、主の恵みの中で、返済が滞ることがなく守られていることを感謝します。

 さて、「新約聖書に出てくる偉大な人物は?」と問われたら、パウロの名を思い浮かべる人が多くいるでしょう。パウロは、異邦人伝道の先駆者であり、リバイバルのために伝道者として多くの功績を残した人でもあります。
 しかし、そんなパウロも、神に仕える者となる前はどうであったかというと、反キリストの指導者としてクリスチャン迫害に命を燃やした一人でありました。そんなことが使徒の働き九章一〜五節に書いてあります。

『さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、大祭司のところに行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼んだ。それは、この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞いた。彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」』

 そんなクリスチャンを迫害して迫害して多くの人を投獄したような者が、ある時、突然神様に出会い、救われて神の人となったことがこの後に書かれています。
 ここにいる皆さんお一人おひとりも同じく、神の一方的なあわれみを受け、恵みによって救われ、今ここに座っているわけです。

 では、恵みとは何でしょう。「恵み」という言葉は、聖書の中に三百六十九回出てくるそうですが、「人に対して情けをかける」という意味があります。私たちが受けた恵みとは、取るに足りない罪だらけの私たちに神様が情けをかけてくださり、その罪を贖ってくださり、救われたということです。
 これほどの大きな恵みを受けながら、いつも感謝が足りないと思わされます。いいことばかりではなく、時には大変なこともあります。疲れることもありますが、充実した生活を送ることができるというのは感謝なことだと思っています。皆さんも日々の生活の中では、苦しいことや困難なことがあると思いますが、ぜひ神から受けた恵みを忘れないでください。

 話は少し変わりますが、私の母は岡本キヨといって、丁度十年前に召されましたが、時々に母の言葉を思い出します。私はほとんど母にほめられたことがありませんでしたが、よく言われた言葉があります。「あんたは、何不自由なく育ってきた。これからは、聖書の御言葉に『受けるより与えるほうが幸いである』とあるから、与える人になりなさい」。これは母のモットーであったと思います。そして、「受けた恩や恵みは決して忘れてはならない」ということ、もう一つ、「お前は頭が悪いからいつも神様に祈って、どこまでも謙遜に明先生を見習って、明先生に従って生きていきなさい」とよく言われました。
その言葉を心に留め生きてきたつもりですが、その師と仰ぐ明先生が召され、もうじき二年近くになります。時々先生のことを思い出しては「なぜ明先生がこれほどまでに多くの人に愛され尊敬されたのか」と考えたりします。答えはいくつもありますが、心の底から神を愛し、魂の救いのために命がけで働き、恵み豊かな人であったということは、皆さん誰もが認めるところであると思います。そして、いつも謙遜で多くの人に夢を与える人であったと思います。私も明先生の下にいなかったら、甲子園や武道館を夢見ることも、プレイズ出版を夢見ることもなかったことでしょう。
 私は時々明先生と二人で出かける機会がありました。よく助手席の人は居眠りをしたりするものですが、明先生は車に乗った瞬間から降りる時まで、ずっとしゃべり続けてくれました。歳をとってからは「先回も言ったよね?」ということが何度もありましたが、毎回楽しく聞かせていただいていました。
そんな中、明先生がある時、「あなたにもたくさん助けてもらい、苦労をかけたな」とねぎらいの言葉をかけてくれました。私はそれを聞いて、今までの苦労も吹き飛んだ気がして、その言葉だけで十分だなと思わされました。

私がプレイズ出版を始めてからもう二十七年になります。初期の頃、仕事がなく、多くの人に仕事が与えられるように祈っていただきました。様々な業者ともかかわり、今も何人かの人とはずっと関係が続いているのですが、時々そんな業者の人と昔話をします。「このプレイズ出版がこんなふうになるとは、まるで考えられなかったですよ」とよく言われます。ビジネスにおいても多くの人に助けられ、助言をいただいてここまでこられたことを心から感謝しています。思い返すと、一番大変だった時が一番多くの恵みをいただいた時ではなったかと思います。私たちは、日々、多くの人に助けられ、神様に生かされていることを忘れてはなりません。

 今日お読みした御言葉にあるように、イエス様に対してどのくらいの負債を負っているか、ちょっと考えてみたいと思います。
皆さんの中には、「頼みもしないのに、イエス様が勝手に私の身代わりとなって死んでくれたから永遠のいのちをもらったけど、私が負債を負っているわけではない」と思っている人はおられないと思います。
 仮に皆さんがイエス様に出会わなかったら、今ごろどんな人生を送っていたでしょう。私も時々考えます。もし私がクリスチャンホームに生まれていなかったら、酒やたばこにおぼれていたかもしれません。すでに自殺してこの世にいなかったかもしれませんし、家庭が崩壊して夢も希望もない、という人生をたどっていたかもしれません。実際、そんな人生を歩んでこられ、恵みによって救われて今があるという人も多くいるのではないかと思います。
私たちはイエス様からいただいた数えきれないほどの恵みをいただいています。それをぜひ忘れず、今日のピアノ独奏のタイトルにあったように、『主に感謝します』という日々を送ってまいりたいと思います。
 クリスチャンにとっての最大の恵みは、神様が、ひとり子イエス・キリストを与えてくださるほどに、私たちを愛してくださって、永遠のいのちをくださったことです。

『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』(ヨハネの福音書三章十六節)

聖書の中心的な、有名な御言葉です。

そして、ただ恵みによって、私たちを義としてくださっています。
『ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。』(ローマ人への手紙三章二十四節)

 また、御言葉に
『人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。』(ヨハネの福音書十五章十三節)

とありますが、誰かのために犠牲になることはなかなかできることではありません。ましてや命を投げ出すことは、到底できることではありません。自分の子に命の危険が迫っている時、命を投げ出してでも我が子を救いたいと親ならば思うかもしれません。しかし、実際我が子であっても、家族であってもましてや友だち、他人のために命を投げ出すことができるでしょうか。それは簡単なことではありません。

 ネットに感動的な実話が掲載されていました。
ある裁判官が一人の重罪人を裁くため、裁判台に立った時、そこで見た罪人は、なんと自分の双子の弟であったのです。弟は、心から赦されることを懇願しました。ところが、裁判官である彼は、厳しく罪を裁き、すぐに彼を投獄するように命じ、翌朝には死刑にすることになったのです。罪に定められた弟は、獄中で悶々とした眠れぬ夜を過ごしていました。すると、夜中に裁判官である兄が官服のままで獄中にやって来て、その重罪人である弟に驚くべきことを言ったのです。「私は裁判官である以上、法律に違反することはできないので、お前を罪に定めた。今、私がここに来たのは、兄としてお前を救うためだ。急いで、お前の服と私の服とを取り換えてここから出て行きなさい。今後、心を入れ替えて新しい生活をしなさい。二度とこのような罪を犯してはいけないよ。さあ、早く行きなさい!」と弟を送り出しました。そして、裁判官である兄は、翌朝、弟の身代わりになって処刑されたそうです。二日後、このことが全市に知れ渡り、人々に大きな感動を呼んだそうです。

普通は、兄弟であっても、命を投げ出すことは、なかなかできません。しかし、この記事から、愛する神様が、御子イエス・キリストをこの地上に遣わし、私たちに愛を示してくださったその愛を垣間見ることができるのではないでしょうか。また、神様がそのひとり子をお与えになったのは、罪のない正しい方が犠牲的な愛をもって、罪だらけの永遠の滅びに向かっている私たち一人ひとり、全人類を救おうとされたということを知ることができるかと思います。

『自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう。』(マルコの福音書八章三十七節)

 パウロは、神様から受けた多くの恵みを少しでも返したいと願っていました。そしてその思いを、「どうしても返さなければならない負債」と表現しています。
私も、何とか神様から受けた恵みを少しでも返したいと願っていますが、私たちが神様に恵みを返すためには何をしたらよいでしょう。何を差し出すことができるでしょう。神様に対しての負債、そして返すべき使命とは何かということを少し学んでみたいと思います。
まず、神様があなたに課せられた個人的な使命があることを知ってください。
 私は、恵みによってクリスチャンホームに生まれたことにより、幼い時からイエス様を信じることができ、永遠のいのちをいただきました。将来、主のために働きたいと願い、実際に直接的な主の奉仕に携わることができ、プレイズ出版や様々な働きをさせていただいています。それはすべて神の恵みであることを感謝していますが、恵まれたことを喜んでいるだけでは不十分だと考えます。
 時々、「先生はいつも忙しいですね。何でもできるから。でも、私は何もできないから・・・」と言われる方がいますが、それは大きな間違いです。

『それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。』(第一ペテロの手紙四章十節)
とあるように、神様は、私たち人間を地球の管理者として立ててくださいました。そして、神が与えた賜物を使って、主のために働いてほしいと願っておられると思います。
 私たちは主の御前に様々なことを祈ります。神様は、私たちの願いに応えてくださいます。しかし、私たちは、自分の願いを神様にかなえていただくだけではいけません。神は、私たちが成長し、自分のためだけでなく、あなたが受けた恵みを誰かのために使うことを願っておられます。

ローマ人への手紙十二章五節には、
『大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。』
とあり、神があなたを選び、私たち一人ひとりは、キリストの体の器官だと言っています。器官の一つとして皆さんを選んだ最大の目的は、あなたが受けた恵みを一人でも多くの人に伝え、同じように、神につく、神の恵みを受ける仲間を増やすことです。先に救われた私たちは、与えられた賜物で魂を獲得る使命を受けているのです。
 そのために、私たちにできることは何か、考えてみてください。
 経済的に恵まれている人は、めいっぱい主のために献げてください、体力のある人は、教会にも様々な奉仕がありますから、積極的に自分の時間や体を使って奉仕をしてください。話すことの得意な人は、人のうわさ話をするのではなく、個人伝道してみてください。私には得意なものは何もない、ささげるものが何もない、何もできないと思っている人もいるかもしれません。しかし、祈ることは、いつでも、誰でも、どこでもできます。

 以前一度話したことがありますが、もうずいぶん前のことですのでお話しします。
ある日曜日のこと、礼拝の始まる前に、長年、新城教会に通って来られている一人の年輩の姉妹が私のところに来て、「先生、先週は申し訳なかったね」と言われました。私は、驚いて「姉妹、何かあったの?」と尋ねると、その方はこう言いました。「私は、祈ることぐらいしかできないから、毎朝早く起きて先生方のために、教会のために祈っているだよ。先週もずっと祈っていたんだけど、信弘先生はいつも元気で、ほとんど風邪を引いたことがないという話を聞いて、先生の健康のためには祈らなかったんだよ。そうしたら、先生が風邪をひいて寝込んだと聞いて、先生の健康のために祈らなったことを神様に悔い改めたけど、先生にもすまんことをしたね」と言われたのです。私は、それを聞いて本当に胸が熱くなりました。この方のように、いつも私たちのことを覚えてくださっている兄姉が祈ってくださるからこそ守られて、こうして元気で主の働きができているということを、あらためて知り、感謝しました。これも、恵みだなぁと思いました。

 教会は、神の家族であり、一人ひとりはキリストのからだの各器官です。時に皆さんも弱さを覚えたり足りなさを覚えることがあるでしょう。一人暮らしをされている方もおられるし、家族の中で一人だけクリスチャンの方もいますね。しかし、皆さんは一人じゃありません。神の家族としてあなたのために祈ってくれている人がいます。反対に、あなたが誰かのために祈るその時に、主の働きが前進し、主の恵みがさらに増し加わっていくのではないかと、思います。そしてそのような祈りが積まれていくことによって、リバイバルが前進すると心から信じています。他の人のために祈る、これが私たち個人に与えられている使命の一つです。 
パウロは、第一コリント人への手紙十五章十節においてこう語っています。

『ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。』

 神の恵みを無駄にすることなく、できることをする。これも神様からの恵みです。
そして、神様があなたに個人的な使命を託していると同時に、新城教会という教会全体として託されている使命があります。
 最近、順先生もよく話されていますが、クリスチャンになった私たちは、何もしなくても人生が終わった時に天国に行くことはできます。サタンは、皆さん一人ひとりが天国に行くことを、そんなに怖がっているわけではありません。この日本のクリスチャン人口からすればほんの数パーセントの中の一人ですから、たいしたことはない、とたかをくくっているところがあると思います。しかし、ひとたび皆さんが神のしもべとして、戦いを意識して動き出した時、サタンは脅威を感じることを覚えてください。

 先ほど司会の方も言われましたが、今日は、奇しくも二十五年前、霊的戦いが始まった日でもあります。明先生が津具から東京へ勉強に行き、イエス様を信じ、郷里への伝道に目覚め津具に帰り、そこから新城に導かれ六十年以上になります。神様が導いてくださったからこそ新城の伝道が始まりました。神様の導きにより滝元明先生が選ばれ、この地に教会が建てられ、私たちが救われ、リバイバルを願い祈り働いています。しかし、神様のご計画は、私たちの思いをはるかに超えたところにあり、単にこの地の伝道のためだけではなく、ここにいるクリスチャンたちに霊的戦いを教え、この教会が霊的戦いのための軍事基地となるための使命を与えてくださったのだと思います。
 歴史上では、今から四百数十年前の今日、織田と武田の戦いで一日に一万六千人が犠牲となり多くの血が流され、この辺りは、呪われた町と呼ばれていました。その怨念を鎮めるために多くの偶像が祭られています。そして今も多くの人が恐れを感じています。そんな新城という場所に、主が目を留められ、この地を選ばれたのではないかと思います。
 霊的戦いが始まり、今日までの戦いを振り返る時、私たちの教会の負っている役割、担っている使命がいかに大きいかということを知ることができます。そして、この教会の一員であるあなたにも、多くのものが託されていることを覚えてください。
 ここにおられる方の中でも、当時のことを知る人は少なくなったと思います。霊的戦いが始まった時は、それまでの私のクリスチャン人生の中で、聞いたことのないような、考えもつかなかったようなことが次々と起こり、「これはいったい何事だ!」という感じでした。それは、一九九二年のこと。アットホームな、ある意味一般的な教会が一変したのです。
次の年に計画されていた甲子園リバイバルミッションのために、兵庫県の西宮市に事務所が開設されました。それとほぼ同時期の二月十三日に、聖霊様がこの教会に激しく訪れました。甲子園ミッションに向けても、「さあ、これから伝道して魂の獲得に励もう」と皆が心を一つにして前進していこうとしていた矢先のことであり、また、三月にはこの教会の隣にある教育館が完成した、まさにこれから、という時に起きたのが霊的戦いでした。それは、未知の世界へ突入する始まりでした。

 この霊的戦いを受け止められず、共に礼拝していた多くの方々が教会から出て行き、教団からも見離されました。私にも「新城教会を出たほうがいいぞ」と何人かの方からお誘いがありましたが・・・。
当時、プレイズ出版が始まって数年でしたし、甲子園ミッションが始まり、何の知識もない私が財務運営を任せられ、私は多忙をきわめていました。週に何度も甲子園に行かねばならず、甲子園の事務所で仕事をして帰って来てから夜中にミッションニュースやチラシ、トラクトなどを印刷し、朝にまた甲子園に出かけて行くような、そんな、仕事に追われるような毎日の中で、この働きが進んでいきました。
私はまだ若かったのですが、帰りの新幹線で乗った途端に寝てしまい、目を開けたら降りるべき豊橋駅をすでに出発していて、乗り過ごしてしまったこともしばしばありました。
今は誰でも使っている携帯電話ですが、その当時はまだ多くの方は持っていませんでした。しかし、どうしても必要だということで持たせてもらいました。携帯電話がはしりの時で、通話料だけで毎月十万円ほど支払っていましたが、それがなかったら仕事にならなかったのです。
 霊的戦いが始まってから、いろいろなところへ兄姉が(子どもたちも含めて)祈りに出掛けていました。ある時は、忙しさの中で寸暇を惜しんで印刷している私のところに子どもたちが来て、「イエス様が、信弘先生も一緒に祈りに連れて行きなさいと言っている」と言われ、印刷を途中で止めて、子どもたちと一緒に祈りに行きました。本当に体がいくつあっても足りないような忙しさで疲れはありましたが、こんな者でも主の働きの一端を担わせていただいているという充実感が私の中にありました。

 霊的戦いという大きな使命を与えられた私たちの教会。今、こうして新城教会に来られている皆さんは、意識していてもいなくても、お一人おひとり、この戦いのために神様が必要だとしてここに導かれているということを覚えてください。それは紛れもなく神様の計画です。ぜひ主のために、共に働いてまいりましょう。

 そしてもう一つ、私たちが住むこの日本という国に課せられた負債、使命があります。
現在、日本の経済的負債がいくらあるか知っていますか? 一千四十四兆円、一人当たり八百三十二万円あるそうです。この中に、経済に関心がある人はどのくらいいますか? しかし、関心があってもなくても、最後はギリシヤの経済が崩壊したように、国民一人ひとりにこのつけが回ってくる可能性がないわけではないのです。当然借りたものはどこかに返さなくてはいけないのです。私が借りた借金ではないから知らない、とはならないのです。
 これも先週、順先生が話しておられましたが、かつて日本が多くの国々を侵略して偶像礼拝を強要し、多くの罪を犯してきたことは、紛れもない事実であり、今も多くの人々がそのことのゆえに苦しんでいます。昔の人がやったことだから関係ない、と言い逃れすることはできません。
 お隣の韓国やアジアの国々に対して霊的償いができるのは、私たちクリスチャンの使命だと思います。偏見を捨てて、アジア諸国のために祈る者とならなければなりません。
 クリスチャン人口が一%にも満たない、〇・二~〇・三%と言われるような日本の現状を見る時、この日本が世界のリバイバルをリードするのは難しいと思われています。二〇三〇年には教会が半減してしまうと言われ、劣勢に立たされているような日本の教会。しかし、終戦直後、何もない焼け野原からここまで経済成長することを誰も想像しなかったように、望みのないこんな状況からでも、神様はリバイバルを起こすとこができるのです。人間の常識、人間の思い、人間の力ではない、神の力が働いたらそこにリバイバルが現されるということを信じてください。

『私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。』(第二コリント人への手紙六章一節)

 今日の御言葉においてあなたに知ってほしいとことは、私たちには、多くの神様に対する負債があります。そして、それを返済する使命があることを覚え、そしてここに語られているように、神様からの恵みを無駄に受けないようにしてください。あなたが個人的に何をなすべきかをよく知り、あなたに与えられている賜物を生かして、主の働きを前進させてください。そして、さらに主が願っておられるように、自分のためだけでなく、誰かのために一歩踏み出してください。
 また、この新城教会が何をすべきか。教会にはそれぞれの役割がありますが、新城教会には、この教会にしかできない働きがあり、使命があることを覚えてください。見えない敵を打ち破り、そして日本をサタンの手から奪い返す、霊的戦いを進める教会の一員として、今後も主の勇士として共に戦っていきたいと思います。
 同時に自分の国のためだけでなく世界に目を向け、特にかつて日本が罪を犯してきたアジア諸国のためにとりなし祈りましょう。

 『神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。』(第二コリント人への手紙六章二節)

 皆さん個人個人が今、主の前に何を返すべきか、そして私たちはこの教会の一人として、この教会に与えられた使命を、役割をはっきりと示していただき、それを果たすことができるように、共にお祈りしたいと思います。そして、日本のリバイバルのみならず、世界のリバイバル、特にアジアの諸国のために共に祈ってまいりたいと思います。みなさんお一人おひとり、教えられたことを、主の前に出てお祈りしましょう。

お祈りします。
 愛する父なる神様、御名をあがめます。今日こうしてこの小さき者が御言葉を語らせていただきました。私たちは神様から多くの恵みをいただき、祝福をいただき、返さなければならない負債を負っています。まだまだ返しきれていない私たちをお赦しください。もう一度、主の前に再献身をします。私のなすべきこと、またこの教会のなすべきことを一人ひとりに示してくださり、喜んで主に仕え、また主の御心を現すことができるように、新しい油注ぎ、新しい力を与えて導いてください。
 今から聖餐にあずかります。イエス様が私のために十字架にかかり死んでくださり、よみがえられ、今も生きておられる方であることを心から感謝し、またこのことを告げ知らせる者として、聖餐にあずかります。主の御名によって信仰を持ってお祈りいたします。アーメン。