「なぜ病気になるのでしょう?」

2017年8月6(日)
新城教会牧師 公畑フェルナンド
マルコ5章34節

「そこで、イエスは彼女にこう言われた。『娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。案して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。』」

 ハレルヤ!先に後藤姉妹から素晴らしい演奏がありました。本当に心にタッチしました。
 みなさんにお祈りをお願いしたいことがありまして、実は来週の月曜日に、インターナショナル部会で洗礼式があります。予定としては五人ですけれども、その他に二人、まだはっきりと決めていない方がいらっしゃいますので、祈ってください。そして、雨が降らないようにお祈りしていただきたいです。鳳来町の川で行いますし、バーベキューも一緒にやりたいと思っていますので、お祈りください。
 それでは、メッセージに入りたいと思います。

 先ほど申し上げましたように、今日のメッセージのタイトルは、「なぜ病気になるのでしょう?」というものです。ほとんどいつもイエスが病人をいやされるとき、「あなたの信仰が救ったのです。」と言われました。しかし、日本語の聖書では、「あなたの信仰が直したのです。」と書いてあります。しかし原文は、「信仰があなたを救ったのです。」と書いてあります。「あなたの信仰が直した。」とは言われませんでした。しかし、「救う」という言葉を用いられました。
 なぜでしょう?なぜなら、「救う」と言う言葉は、ギリシャ語の「ソーゼイン」と言う言葉からきていますが、これには、ただ「救う」という意味だけではなく、「癒される」、「救助される」という意味があり、「危険から守られる」という意味もあります。ですからこの意味は、私たちの健康が回復され、また「完全な人になる」という意味があります。病人には、必要なことがありますが、イエス様は私たちの癒し主であり、救い主であるという良い知らせがあります。

 まず言っておきたいことは、私たちが病気になることは神様の御心ではないということです。そのことを私たちはよく理解しなければなりません。なぜなら、病気が癒やされない方の中には、自分の病気が癒やされないのは、病気が神の御心であると信じ続けている人がいるからです。
 しかし神が私たちを、母親の胎内で形造ったときには、私たちを病人や欠陥のある人のようには造りませんでした。神様はこの人を盲目にして世に送り出そうとか、この人は胃潰瘍にして一生苦しむようにしようとか、この人はがんで死ぬようにしようとか、そのように神は思いませんでした。病気は神様の御心ではありません。
 逆に神の御心は、私たちが健康であることなのです。ヨハネの手紙第三の一章二節にあります。

『愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。』

 それでは、病気が神様から来ているのではないとしたら、どこから来るのでしょう?
 聖書には、第一番目の原因として罪が挙げられています。イエスが半身不随の病人をいやされた後に言われたことがあります。ヨハネ五章十四節、

『その後、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。「見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。」』

 ですから、罪は病気にさせるのです!多分今こう考える方がいるでしょう。「私は大変な罪人だけど、私は健康だ。」と。それは、「私たちの罪を覆う神様の恵み」であると思うのです。しかし神様の恵みを甘く見てはいけません。今あなたは、あなたのお母さんや、奥さん、または旦那さんの祈りによって守られているかもしれないのです。しかし神の恵みを甘く見てはいけません。なぜならあなたの人生はまだこれから長く、罪は病気の原因になるからです。
 なぜ罪が病気にさせるのでしょうか?
 私たちの内側には、聖霊様が住んでおられますが、私たちが罪を犯すとき、聖書には聖霊様が悲しむと書いてあります。もし私たちが聖霊様を悲しませると、聖霊の働きの一つである癒しを完成することができなくなるからです。
 また罪は、罪を犯すことによって、その人の免疫力を低下させます。例えば、エイズ患者に起きているようなことです。そしてまた罪は、全身に広がる病気をもって病気にします。がんのような病気です。さらに、罪は恐れへの扉を開きます。また敵の声を聞く扉を開けます。悪魔への扉を開けます。
 しかし今私は、あなたの病気の原因が全て罪であると言っているのではありません。しかしもしそうなら、そして私たちの病気の原因を探ろうとするならば、私たちが最初にしなければならない事とは、恵みによって受け取った救いという贈り物を自分の物にするということです。なぜならイエス様が私たちの罪の為に死んでくださったとき、私たちの罪の結果からも解放してくださったからです。
 またもし病気の原因が罪だとしたら、私たちが罪を告白する時に癒されることができます。例えば、詩篇の作者であるダビデは、罪を犯し、その罪を認めようとしませんでした。それにより、病気になりました。癒されたのちに、ダビデはある宣言をしていますので、それを見てください。詩篇三十二篇一節、三節、五節、

『幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。』
『私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。』
『私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。』

 そして次に、私たちが病気になる原因は、聖書によると家系の呪いです。
 弟子たちがイエスにこう聞いています。ヨハネ九章二節、

『弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」』

 これを現代の科学は遺伝による病気と呼んでいます。聖書は多くの病気は先祖の犯した罪によって継承されたものだと言っています。お父さん、おじいさん、ひいおじさんの罪から来ると言っています。しかし良い知らせはイエス様がその家系の呪いを打ち破るためにも死なれたということです。それゆえ私たちは両親、祖父母、曾祖父母が犯した罪を告白する必要があります。
 そのためには、お分かりのように家系を調べる必要があります。その事を実は医者はしているのです!あなたが医者にかかるとき、医者はそれと同じ病気の人が両親やおじいさんや、家族にあったか聞かないでしょうか?私たちも同じことをするべきです。調査して、その後、先祖の罪を告白して祈る必要があるのです。先祖の偶像礼拝や、魔術や、降霊術や、姦淫の罪、暴力、苦み、ねたみ、かげぐち、などです。それらの家系の罪は病へと扉を開くものです。

 しかしそれを告白する以上に、私たちはその家系の呪いを打ち砕く必要があります。病気の悪霊たちに出て行くように命じなければなりません。もし命じないなら、彼らは動きません。そこに留まり続け、あなたを悩ます機会を狙っているのです。あなたが悪霊に権利を与えるようなことを告白しないかどうか待っているのです。あなたが疑いを持つようにさせたり、またこの病気で死ぬのだと信じさせたりするのです。

 マタイによる福音書十八章二十五節、

『しかし、彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部も売って返済するように命じた。』

 ここで神は私たちに、神に全ての罪を赦してもらった一人の男について語っています。この男は払えきれないほどの負債を抱えていました。しかし、この男は全ての負債を許されました。しかしこの男は、負債を許された恵みの場所から出て行った時に、自分に借金をしている人に出会いました。その時、彼はその人を許しませんでした。そのためにこの許さなかった男は牢に入れられることになり、そして聖書には獄吏という、牢の役人たちから拷問を昼も夜も受けるようになったと書いてあります。この牢の役人たちというのは病気の悪霊を指します。許さないという罪によって私たちに働くすべての権利を悪魔が持つことになるのです。

 科学では、苦い思いや、恨みや、ねたみは、私たちの免疫機能に影響を与えると言っています。しかしそれ以上にそれらは、私たちの血圧を上げ、いつも高血圧になったり、それがまた心臓に影響し、また胃に問題を与え、腸の炎症のもととなるのです。慢性的な疲労をもたらし、頭痛や背中の痛みになります。筋肉のけいれん、関節炎などを引き起こします。
 そしてこれらすべての病気の解決策は、ただ許すことにあるのです。私たちを神様が恵みによって赦されたように、私たちも他人を許しなさいと神様は求めておられます。裁くのではなく、恵みを与えることが必要です。たぶんその人は許すのに値しない人ですが、私たちも神から赦されるのに値しない者でした。そこに癒しがあるのです。

 また聖書は、自ら招く病気についても教えています。不平不満、うわさ話、悲観的宣言から来るものです。例えば、「あー全身痛い、きっと病気だ。」と言ったりすることです。また自ら招く病気には、人を操って自分の目的を果たそうとする仮病を使う時に来るものがあります。例えば学生のみなさん、「今日学校行きたくない。何か頭が痛い気がする。」とか言うことです。そうするとお母さんが、「じゃぁいいよ。今日学校に行かなくていいよ。」と言います。そういう事はしないでください。最初はその病気は本当のことではないのですが、後になってそれが現実になるからです。なぜでしょう?そう自分の口で告白したからです。たぶん仮病で他の人の注意を引きたかったかもしれません。大人の方たちは、仮病を使って仕事に行きたくなかったかもしれません。しかしこれが悪魔への扉を開くことになるのです。

 これらの予防策は、信仰による祈りです。ヤコブ五章十五節、

『信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。』

 信仰による祈りは、ただ一回の祈りではなく、生活スタイルなのです。毎日信仰によって「私は健康である」と言うことが必要です。聖書が健康というときに、過去形でこう書いてあります。例えば、「イエス様が私たちの病をすべて持っていかれた。」と過去形で書いてあります。ですから、私たちはそれをいつも宣言しなければなりません。
 しかしそれは、どのようにすれば成し遂げることができるのでしょう?その秘訣が第一テサロニケ五章十六節にあります。そこには、『いつも喜んでいなさい。』とあります。
 どのようにしてでしょう?それは祈ることをやめないことです。祈りは毎日すべきです。

 聖書による、そのほかの病気になる原因は、悪魔と悪霊です。この種類の病気は医学では治すことができません。使徒の働き十章三十八節、

『それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。』

 ここでは、病気が悪魔からの抑圧であることを語っています。イエス様が病人をたくさん癒やした中で、ただ一人の場合だけ、その病気のところに触り、健康を宣言しました。しかし、そのほかの場合には、まず最初にイエス様は病気の悪霊を追い出す必要がありました。病人に直接触って、健康を宣言する前に、悪霊を追い出す必要がありました。ですからもしあなたが癒されないとしたら、もしかしたら、その病気の悪霊を追い出していないからかもしれません。

 そしてまた、聖書による、病気になる原因には、自分の健康に気を使わないことです。神は私たちの体を驚くべき方法で設計され、体が自分で癒すシステムを造られました。もし私たちが自分の体の言うことに従うことができるなら、私たちはいつも健康でいられるでしょう。しかし、私たちは自分の体の言うことに従いません。そればかりか、自分の体の言うことを聞こうともしません。欲求と空腹には大きな違いがあります。人は三日間空腹を覚えずに過ごすことができるそうです。しかし多くの人は、もう二時間たったからお腹がすいたと信じているのです。それは欲求です。それは悪習慣なのです。
 また体が運動をするように求めているとき、それを聞くべきです。また体が水を飲むよう求めているときはそれを聞くべきです。私たちの体は自分で健康を保つようになっているのですが、しかし私たち自身がそれを手助けする必要があります。どのように助けるのでしょうか。それは、良い信仰をもって、良いことを言い続けることです。そのためには、私たちが健康について聖書が何を言っているか聞く必要があるのです。   
 
 しかしそれ以上に、私たちは体のために病気の原因になる毒素を減らす手助けをしなければなりません。それには簡単な方法はありません。それは運動することです。現代科学では毎日二十分歩く人は健康になると言われています。しかし最低二十分、毎日です。しかし現代では、私たちはすぐ角のコンビニまで行くのにも車で行ってしまいます。
 次に水を飲むことです。水です。コーラではありません。炭酸飲料は最低でも大さじ六杯の砂糖が入っています。ダイエットコーラを飲んでいるという方、もっと悪いです。添加物だらけです。水は神の素晴らしい創造物です。これに代わるものはありません。アルコールや、タバコ、ドラッグをやめ、ビタミン剤ではなく野菜をとり、砂糖や油の接種をやめ、健康的な食事をとるなら、私たちは健康になります。

 ベテスダの池のことを思い出してください。イエスがその場所に入られた時、そこには大勢の病人がいました。その中に三十八年の間、病気の男がいました。初めに私が感じたのは、この男は奇跡を受けるに最も悪い場所にいるということでした。なぜでしょう?癒しを受けるのに一番よくない場所とは、周りを病人に囲まれている所です。なぜ一番悪いのでしょう?なぜなら病人たちは自分たちの病気のことしか話題にしないからです。背中が痛いだとか、新しい薬試した?とか、病気については医者よりもよく知っています。しかし病気については知識があっても、解決策については知らないのです。もしあなたが癒されたいなら、信仰がある場所へ行かなくてはなりません。賛美と礼拝のある場所に行かなければなりません。神のことばを語る場所に行かなければなりません。それは教会です。しかし逆に病院は病気の場所であり、病人たちが悲観的な話をするところです。恐れと、死と、バクテリアとウィルスで満ちたところです。ですから、病気になっても教会には来てください。

 次にこの奇跡を待って床に伏せっている男について感じたことですが、ヨハネ五章六節を読みましょう。

『イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」』

 そして、イエス様は何と言われたでしょうか?ヨハネ五章八節〜九節、

『イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。』

 ここで主が私たちに語っていることは、なんでしょう。実は今の現代科学でも言っていることと全く同じです。それは私たちは運動しなければならないということです。病気の人は床に伏せっていました。何もしていませんでした。しかしイエス様は「立ち上がりなさい。起きなさい。」と言われました。

 また生まれつきの盲人をイエス様が癒したのを思い出してください。ヨハネ九章六節〜七節、

『イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。』

 多くの人はシロアムの池で奇跡が起きたと信じていますが、そうではありません。奇跡が起こるには、まず行くこと、そして何かをすることで起こるのです。聖書が言うには、この盲人は、そこに行って目を洗ったと書いてあります。そして、見えるようになって帰って行ったのです。

 また別の盲人をイエス様が癒した時には、その盲人に次のことを聞きました。「私に何をしてほしいのか。」たぶんこの盲人は思ったかもしれません。「見えるようになることに決まっているじゃないか」と。しかし主は、私たちが待ち望む奇跡を告白することを望まれているのです。そして、この盲人はこう答えました。「主よ。目が見えるようになることです。」と。

 あなたはここにイエス様がいることを信じなければなりません。そして、臨在に敏感にならなくてはいけません。そして神様があなたに何を今語っておられるかを聞かなければいけません。私は確信しておりますが、イエス様はあなたの病気の原因について今日語って下さるでしょう。そして奇跡を想像しなくてはなりません。ただ想像するだけではなく、それを信じることが必要です。
 ですからどうぞ皆さんお立ち上がりください。まずここにイエス様がおられると信じましょう。そして神様が私たちに直接語ってくださるということを信じましょう。どうぞその場で目を閉じてお祈りしましょう。

 主よ。ここが癒しの場所であると信じます。あなたの恵みの場所であることを信じます。そしてまたあなたが十字架を通して、その御業を完成してくださったことも信じます。今私たちはあなたの臨在のなかで御前に出ています。あなたの臨在に敏感になります。そして私たちの健康を阻害しているものの原因を教えてください。もし罪が原因でしたら、どうぞその場で神に告白してください。神様に罪の赦しを求めてください。もし自分の悪習慣が原因であるなら、神にその悪習慣についての赦しを求めてください。そしてこのように祈ってください。それが砂糖であったり、油であったり、アルコールであったり、タバコであるなら、私に示してください。しかし今日、癒してください。あなたは新たに創造し、また再生する奇跡を行うことができます。奇跡を信じることができるように助けてください。
 そして、私がいつも自分の病気の事ばかり話していたことを認めます。しかし今日、私はそれをやめます。主よ、私は恨みを持っていたことを認めます。赦したくなかった気持ちがありました。恨みや、妬みや、嫉妬がありました。そしてそれが病気の悪霊に扉を開けることになりました。しかし今、それを打ち砕きます。今イエス様の名前によって、全ての病気の悪霊ども、ここから出て行け!病気の霊よ、出て行け!がんの霊よ、出て行け!糖尿病の霊よ、出て行け!私たちの体に働いているすべての病気の霊ども、イエス様の名前によって今出て行け!
 病気を受け入れません。イエス様が私の病気のためにすでに死んでくださったからです。私の罪の為に死んでくださったからです。病気の悪魔よ、今出て行け!また、イエス様の名前によって祈ります。すべての私の家系の呪いを打ち砕きます。私の先祖の犯した罪を、イエスの名前によって打ち砕きます。イエス様の名前によって健康を宣言します。この朝、私は健康であると宣言します。私は健康です。イエスの名前によって祈ります。感謝します。あなたの名前によって私たちは健康になることができます。イエス様の名前によって祈ります。アーメン。