「2017年あなたは良いもので満たされます—パート21—
 ~なんという幸せ、なんという楽しさ~」

2017年9月10(日)
新城教会主任牧師 滝元順
詩篇133篇1節~3節

『見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。』

  ハレルヤ!今日の礼拝は、韓国語の通訳付きで語りたいと思います。
 まずは、韓国から来てくださった方々を、ご紹介したいと思います。七名の方々が来てくださいました。大きな拍手をしてください〜!ありがとうございます。カムサハムニダ!
 韓国のリバイバル、日本のリバイバルを真剣に祈っておられる、熱い方々ばかりです。心を一つにして礼拝出来ることは、たいへんすばらしいと思います。チェ先生夫妻の賛美、良かったでしょう。CDもありますから、ぜひお買い求めください。再来週は、先生はもう一度、新城に来てくださいます。日本のチェ先生と呼ばれている、Yくんの結婚式のために来て、歌ってくださいます。また、アコースティックナイトではコンサートもしてくれます。是非とも、新しい方々を多く連れて来てくださいね。韓国と日本が一つとなることは、大変重要です。そして、今日のみ言葉は、すばらしいみ言葉です。

『見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。』と記されています。
 「共に住む」という言葉は、「共に座る」とも訳すことができる言葉です。これはイスラエルにおいて主を礼拝するために、全国から人々が集まって共に座り、主を賛美する姿に、詩編の作者が感動して、詠まれた詩です。まさに今日の光景のようです。一致して主イエス様を礼拝することは、最もすばらしいことです。

 詩編の記者ダビデは、その光景を見て、「なんという幸せ、なんという楽しさよ。」と表現したわけです。一つになって共に座り、主を礼拝するのは、最高の幸せだと言っています。

 今日みなさんは、幸せを感じていますか?アーメン!良かったですね。韓国ならもっと大きな声で「アーメン!!」と叫ぶと思われますが、日本人は表現が難しいところがあります。しかし、内には燃えています。
 今日は、日本人だけでなく、韓国の方々も、また、他の国の方々も一緒に座っています。これは主の前には、たいへんすばらしいことです。
 その時、アロンのひげに油が流れるようだと書かれています。アロンとは「大祭司」といって、主を礼拝する最高責任者でした。その任命式に注がれる油が、一つとなって礼拝する時に注がれるのです。

 この詩が詠まれたのは、大まかに言うと、紀元前千年くらいの事です。統一イスラエル王国で詩編は詠われました。
 さて、聖書の理解は、時代を経て、歴史がどのように変化したかを見ると、最初に語られた言葉が、さらに味わい深くなります。
 詩篇百三十三篇では、兄弟たちが一つとなって、共に主をほめたたえるすばらしさについて、感動を持って語られています。
 しかしその後、イスラエルは二つの国に分裂したのです。詩篇が詠われた頃は一つの王国だったのですが、その後、南ユダと、北イスラエルという二つに分裂してしまったのです。元々は同じ神を礼拝していた国民だったのですが、それが二つの国に分断したのです。

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 その後、二つの国は、それぞれの歴史を刻むようになり、イエス様の時代にはユダヤ、サマリヤ、ガリラヤという、三つの地域に分かれていました。

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 イエス様は、このように土地が分割されたただ中に、お生まれになり、活動されたたわけです。
 ある時、律法の専門家が、「イエス様、律法の中で一番大切な戒めはなんですか?」と質問しました。それがマタイの福音書二十二章三十四節~四十節にあります。

『しかし、パリサイ人たちは、イエスがサドカイ人たちを黙らせたと聞いて、いっしょに集まった。そして、彼らのうちのひとりの律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた。「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」』

 旧約聖書の教えの中、最も大切な教えはなんですか?という質問だったわけです。その時イエス様は、重要な事柄が二つあると言われました。一つは神を愛することだと語られました。そして、神を愛するのと「同じよう」に大切なことが、隣人を愛する事だと語られました。
 私たちが意識しなければいけないのは、神を愛することと「同じように、隣人を愛する」ことです。
 その時に律法の専門家は、「隣人を愛するとは、具体的にどういうことですか?」と質問しました。すると、イエス様は、良きサマリヤ人の例えを話されたわけです。それが、ルカの福音書十章三十節~三十七節に記されています。ここは読まなくても、すでに、みなさんよく知っている箇所だと思います。

『イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」』

 エルサレムからエリコへ下る道で、旅人が強盗に出会いました。旅人は、ユダヤ人であったと思われます。強盗によって、瀕死の重傷を負わされたのです。エルサレムからエリコに下る道は、私も通ったことがありますが、昔は相当、危険な道だっただろうと思いました。それは険しい道で、よく強盗が出没したみたいです。
 そこに旅人の同胞たちが通りかかりました。それも、神に仕える祭司とレビ人が、傷ついた旅人の横を通りました。しかし、この宗教家たちは、見て見ぬふりをして、通り過ぎて行きました。
 次に通りかかったのが、サマリヤ人でした。このサマリヤ人は、倒れているユダヤ人旅人を、徹底的に助けたというストーリーです。そして、「あなたもこのようにして、隣人を愛しなさい」とイエス様は語られたのです。このストーリーから、倒れた人を見過ごしにしないで、助けることが大切だと教えられます。
 時々、問題を持って倒れている人を見て、「関わるとちょっと面倒になりそうだ・・」と思う時があります。見て見ないふりをするのです。
 電車に乗った時に、目の前におじいちゃんや、おばあちゃんが来ても、眠ったふりをして席をあげない事が、私も昔はありました。しかし今は、逆に無視されたり、譲ってもらう立場になりました。いずれにしても、面倒にかかわると、自分の時間が取られますから、側を通り過ぎる心境はある意味、理解できます。
 しかし、このサマリヤ人は、自分の仕事がありながら、それを横に置いて、旅人を助ける事に全力を尽くしたのです。そのように行動しましょう!という教えを受けることができます。できる限りの愛を表すことが大切ではないでしょうか。

 しかしこのストーリーは、さらに大きなテーマを含んでいます。ここにユダヤ人とサマリヤ人が出て来ますが、この二つの民族の背景を知る時、このストーリーの真の重要性が浮かび上がってきます。
 先ほど、詩篇百三十三篇が、統一イスラエル時代に詠まれたと語りましたが、その後、イスラエルは北イスラエルと南ユダに分かれてしまったと、お話ししました。イエス様の時代は、ユダヤ、サマリヤ、ガリラヤという地域に分かれていたことも、お話ししました。

 実は、サマリヤ地方は、元々は北イスラエルに属する地域でした。紀元十世紀頃に分かれてからも、二つの国は共存してきた歴史があります。南ユダは、バビロニア帝国に捕囚にされたり、北イスラエルはアッシリアの捕虜となったりしましたが、それは、全体ではなくて一部の人たちでした。ほとんどの住民たちは、この地域で暮らしていたのです。
 二つの民族、二つの国は、同じ神を礼拝したまま、二つに分かれてしまいました。それで、礼拝する場所は二つになってしまったのです。北イスラエルの人たちは、ゲリジム山で礼拝するようになり、南ユダの人たちは、エルサレムで礼拝するようになりました。しかし礼拝の対象は、同じ神でした。

 私は去年、北イスラエル地方に行って来ました。北イスラエルは、現在は、「ヨルダン川西岸地区」と呼ばれ、アラブ人たちの自治区となっています。この地域とイスラエルとの間には、このような壁があるのです。

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 簡単には入っていくことができないのです。しかしここに至るまで、三千年くらいの歴史があり、分断の壁の歴史は今もなお、続いているのです。

 イエス様の時代も、サマリヤ人たちは、ユダヤ人のすぐ隣に住んでいたのですが、当時、コンクリート壁はなくても、民族的な壁はすでに存在していました。ゲリジム山には、唯一の神を礼拝する為の、立派な神殿が建っていました。また、エルサレムには、ユダヤ人たちが神殿を築き、サマリヤ人が礼拝しているのと同じ神を礼拝していました。元々、政治的対立から二つの国に分かれてしまいましたが、宗教的には同じでした。

 イエス様がお生まれになる、百二十年くらい前、二つの国の間に、大きな事件が起きました。ヨハネ・ヒルカノスという、ユダヤの祭司王がサマリヤに攻め上り、ゲリジム山にある、サマリヤ人たちの神殿を破壊し、サマリヤ人を大勢殺したのです。
 ヒルカノスは、元々一つであった宗教をユダヤ教で統一しようとして、武力を用いたのです。
 しかし人の心は、力づくでは絶対に変えることはできません。ヒルカノスによって、サマリヤ人たちは大勢殺され、神殿は破壊されましたが、残ったサマリヤの人たちは壊された神殿廃墟の上で、礼拝を続け、今日にまで至っています。
 私は去年、そこに行ったのですが、これはヒルカノスによって壊された、神殿です。

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 良きサマリヤ人のストーリーは、ユダヤ人によるサマリヤ神殿破壊、約百五十年後に語られたストーリーです。イエス様の時代、ユダヤ人とサマリヤ人の民族的感情はどういうものであったのか、だいたい推測がつきます。サマリヤ人はユダヤ人を本当に憎んでいたでしょうし、ユダヤ人もサマリヤ人を軽蔑していて、大きな対立があったことは、容易に推測できます。
 当時の百五十年間は、今の百五十年とはちがって、ゆったりしていましたから、ヒルカノスの蛮行は、後世に強く語り継がれ、人々の記憶に鮮明に残っていたはずです。
 実はこの対立の構造は、今でも残っています。ゲリジム山では、サマリヤ教団の人たちが、熱心に、生け贄まで捧げて主を礼拝しています。これが、サマリヤ教徒たちの集まりです。

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 そして、南ユダの人たちは、ユダヤ教です。

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 私は去年、サマリヤ教団にお邪魔して、いろいろと話を聞かせてもらいました。サマリヤ教団の人たちは、自分たちが正当なユダヤ教の原点だ!と主張していました。この人はサマリヤ教団の長老ですが、厳格にモーセ五書の律法を守っています。

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 サマリヤ教団の祭司にも会い、「新約聖書の中に、あなたたちのことが出ていますから読んでください。」と言って、ヘブル語の新約聖書を贈呈しました。彼は喜んで受け取ってくださいました。今頃、読んでいるかな・・・、と思いますが、また一度チェックに伺いたいと思うのですが。

 聖書に記されている事柄は、神話じゃないです。三千年も前のことが、今でも息づいています。現在もサマリヤ人とユダヤ人は対立していて、行き来が出来ません。サマリヤ人たちは、アラブ人のように扱われています。サマリヤ教団の人たちは、アラブ人のただ中に住んでいます。そこには、エルサレムとは全く違った町並みがあります。現代でも対立が続いているのですから、ヨハネ・ヒルカノスに神殿を壊された百五十年後は、どのくらい大きな対立があったのでしょうか。

 そのような時代的背景で、イエス様は良きサマリヤ人のストーリーを語られたのです。ルカ十章の良きサマリヤ人のストーリーを読んでみると、イエス様はユダヤ人なのに、「この人ってサマリヤ人じゃないの?」と思うくらい、軸足は、サマリヤ人寄りです。ユダヤ人なのに、ユダヤ人を悪者にして、サマリヤ人を良い人としたわけです。
 そしてユダヤ人に対して、「あんたもこのサマリヤ人と同じように行動しろ」と告げたわけですから、相当、このストーリーを聞いた律法学者たちは腹が立ったと思われます。なぜなら、ユダヤ教の教師たちを愛のない悪者とし、国粋主義者である律法の専門家たちに、サマリヤ人が行ったように、良き隣人になることを教えられたからです。

 良きサマリヤ人のストーリーは、個人的に仲の悪い人を愛しましょう、という側面も含まれますが、それ以上に民族問題を扱っているのです。
 良きサマリヤ人のたとえを語られた時、イエス様の頭の中は、詩篇百三十三篇が回っていたのではないかと、私は思っています。
 遠い昔、イスラエルはユダヤ人もサマリヤ人もなく、統一された王国で、同じ主を、同じ場所で喜んで共に座り、賛美し、礼拝していたという記事を知っておられたはずです。その時、最もすばらしい祝福の油が注がれたことも知っておられたはずです。それが、「なんという幸せ、なんという楽しさ」ということも、知っておられたはずです。

 良きサマリヤ人のストーリーは、詩篇百三十三篇に戻るために語られたのではないかと思います。
 人類の中で最もややこしい問題は、民族問題ではないでしょうか。日本人は、「俺たちは大和民族だ!」と言うし、韓国は韓国で、「俺たちは韓民族だ!」と言うし、中国人たちは、「俺たちはなんとか族だ!」と言います。中国には、五十以上の部族があって、それぞれ自分の部族のアイデンティティーを持っています。
 しかし部族、民族のアイデンティティーを持っている限り、神の祝福は流れないのです。本当の幸せ、本当の楽しさを体験する為には、民族とか、部族とか、国のアイデンティティーを越えないといけないのです。
 なぜなら主を信じたら、私たちは、神の国の国民だからです。今日、自分の国籍のある国を越えていきたいと思います。先ほど、「国を越え、言葉を越え」と歌ったじゃないですか。

 国を越え、言葉を越えて一つとなる時、本当の自由と、幸せ、喜びがやってきます。アーメンですか!?韓国の方々のほうが声が大きかったですね。日本人も大きな声で、アーメンと言ってくださいね。

 実は韓国と日本の間には、悲しいことに、「近くて遠い国」という言葉があります。日本では、正しい歴史教育がされていないと私は思います。日本人に、「日本はなぜ、できたのですか?」と聞いても、あまり分かっていないです。「そりゃぁ、太古の昔から日本はあったんじゃないの?」と言うでしょう。「日本人ってどこから来たの?」と聞くと、「この土地から生えてきた」と答える人が多いです。世界に、そんな人は、アダム以外誰一人いません。みなバベルの塔から散らされて、日本に、韓国に、中国に来たからです。
 最初に日本に来た人たちは、海流に乗って海から入って来た人たちだと言われます。こんな舟に乗って来たのでしょうか。

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 DNAを調べると、遠い先祖がどこから来たのか分かります。私は、調べてみました。私は、韓国のほうから来たのではないかと思いました。私の母はなんとなく、目が細くて、弥生人のような顔をしていましたから。
 日本人には大きくわけて、二つのタイプの顔があるそうです。それは、弥生顔と縄文顔です。

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 母は左側の顔をしていましたから、それを証明するために、テストしてみました。すると、意外なことに母は、縄文人の子孫でした。遠い昔、舟に乗って海を越えて来た、という結果が出てびっくりしました。日本は昔は縄文人の国でした。
 しかし四世紀に、日本の歴史に大きな変化が起きます。それは、日本全国に大きな墳墓が数多く出現したからです。
 この近所は、古墳が多いです。昔は古墳ではなくて、これが普通の墓だったのですが、現在、全国に今残っているだけでも十五万基から二十万基くらい残っていると言われます。
 突然四世紀くらいから出現するわけです。この写真は、豊橋にある古墳です。

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 ここを掘ってみると、中から出て来るのが、こんな副葬品です。

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 豊橋の古墳から出て来たものです。これらは、馬具だったり武具だったりするわけです。
 当時、四世紀くらいは、日本で鉄を精製する技術はありませんでした。しかしすべての古墳から、こういうものが出て来るわけです。なぜ、こんなものが出て来るのですか?考古学者に聞くと、自分の国に立ちますから、彼らの答えは、「たぶんどこかの国から、日本にプレゼントされた。」と言うのです。
 しかし二十万も三十万もあるような古墳から、同じものが出て来るのは、プレゼントにしては数と量が多すぎでしょう。

 歴史的な調査をすると、日本は朝鮮半島から騎馬民族が入って来て、平定された国ではないかと言われます。
 紀元一世紀頃、韓半島の南に、「伽耶」という国がありました。ここには強力な騎馬民族がいて、九州に入って来たというのです。

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 そして、九州を平定し、九州王朝を作り、勢力を北に拡大し、やがて近畿地方に大和王朝を作りました。大和王朝がどこに成立したかというと、奈良に作られました。ナラという言葉を、韓国の人たちにその意味を聞いてみてください。韓国語でナラとは、「国」という意味です。
 「日本は朝鮮半島から来た、渡来人たちによって作られた国です」と言うと、日本人はショックを受けるかもしれないです。しかし、本当です。
 日本列島は初め、縄文人がいた島でしたが、伽耶のほうから騎馬民族が襲って来て、縄文人たちは伽耶の鉄の武器の前には無力でした。
 しかし伽耶が日本に来ている内に、伽耶は隣の新羅に攻められるのです。伽耶は百済と一緒になって、新羅と戦うのですが形勢が悪くなるのです。その時、日本は、多くの軍隊を戦いの為に遣わしたのです。日本が独立した国なら、こんなことはしないはずです。白村江の戦いと言って、その戦いでどちらが勝ったかというと、新羅が勝ち、加耶と百済は朝鮮半島に国を失ったのです。
 その結果、百済の人たちの多くが、日本に逃げて来たのです。そして、日本に最初の文化が花開きました。これは百済文化でした。韓国人と日本人は、ルーツ的にはほぼ同じなのです。

 でも長い歴史で、日本が韓国を侵略したりして、歴史的摩擦があったものだから、高い壁ができて、サマリヤ人とユダヤ人のような関係になったのです。クリスチャンでさえ、一緒に座って礼拝できなくなってしまったのです。
 しかし今、回復が来ています。今日は韓国の方も、日本人も、一緒に座って礼拝しているじゃないですか。イエス様によって、一つにされています。

 エペソ人への手紙二章十四節に、「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわしてくださる」とありますが、私たちの主は、隔ての壁を壊して、一つにして、本当の祝福をあげたいと願っているのです。
 やがてイエス様が帰って来られた時には、どこの国とか、どこの民族とか、関係ないのです。皆、神の国の国民であり、子どもたちです。
 本当の祝福を受けるためには、自分の国のアイデンティティーとか、民族のアイデンティティーを越えないと、本当の祝福をいただくことはできないと思います。
 今日は特に、韓国と日本が一つとなって礼拝しています。これは、本当にすばらしいです。詩篇百三十三篇が実現しているのです。

 何年か前、韓国から中高生たちが来て、この教会の中高生たちと一緒にキャンプを行いました。その頃の韓国の中高生たちは、今、どうしていますか?と先日に聞いたら、今はみんな軍隊に行っていると聞きました。当時の日本の中高生のみなさん、韓国なら、あなたは軍隊に行く年代です。
 昨日、その頃の資料を見ていたら、キャンプに参加したチャン・スンジェ君が書いた作文がでてきました。
 これを読んで、感動しました。ちょっと読んでみます。当時、この子は中学三年生で、素直な感想文を残してくれました。「日本の中高生キャンプ・参加の証しー日本見聞録」となっています。マルコポーロのような方ですけれど、こんな感想を残してくれました。


 『私とハミン、そして韓国の他の教会の中高生の一行は日本の新城教会の中高生とのキャンプに出席するために八月四日から九日まで、日本へ行った。私は行く前にこんなことを思った。「日本の人たちは僕たちを喜んで迎えるだろうか?日本人はまだ帝国主義に染まっているのではないのだろうか?」しかし、それは僕の無駄な考えに過ぎなかった。
 新城教会に入った時、その場所も主香(チュヒャン)教会と同じ、父なる神様の家だということがすぐにわかった。もっと感動したことは、日本の人たちが韓国人ととても似ているということだった。また、心をこめて配慮をする彼らの姿が本当に良く見えた。
 また、もうひとつ感動した事は、彼らと共にイエス様を賛美した時の「一つになる」という感情だった。私たちは言葉も文化も住む場所も、また抱えている歴史も違う、言うならば「敵」という単語がよく似合う背景を持っているのに、神様を賛美する時に、私たちは明らかに一つだった。「本当の意味で一つになる感情というのは、こういうものなんだな!」という感動が押し寄せて、どきどきしたりもした。
 日本には教会がほとんどないと言う。それは、新城でも同じことのようだ。しかし、新城教会の中高生と私たちが過ごした中高生キャンプの日程を通して、私たちはあたかも、日本と韓国を繋ぐ火を灯すホタルになったようだった。
 日本の新城教会での中高生キャンプの間、嬉しいことがあった。私は、私を含む何人かの韓国人たちは日本語もできないから、会話もできないと思っていた。でも、予想外の現象が目の前で繰り広げられた。逆に、日本の人たちが韓国語を習って、私たちとコミュニケーションを試みたことだった。彼らの韓国語の実力がたとえ下手でどもりがちな発音であっても、韓国語で賛美を習う努力をした彼らの情熱は本当に素晴らしく見えた。
 そのように新城教会の同じ年頃の友達と一緒に過ごす中で、毎日、どんどん一つになり、近くなっていくことを感じた。だからだろうか?日本に対する反日感情さえもほとんどなくなったようだ。
 そんな素晴らしい日程を全て終えて日本を去る時には本当に悲しかった。何よりも、最後まで「ムク」という少年が私たちを見送ってくれたことが嬉しかった。
 私のこんな考えや感情すべてを彼らに言葉で表現することはできなかったが、本当に素晴らしい恵みあふれる宣教旅行だった。こんな機会を与えてくださった神様と両親に本当に感謝します。』


 まさに詩篇百三十三篇の実現ではないでしょうか。中高生は別に、無理をするわけではないし、言葉もできないし、文化も違うけれど、イエス様によって集まった時に一つとなったという、素直な感想です。これぞ、真の日本見聞録だと思います。ムクが用いられたのですね。彼には弱さもあり、病気もあるけれど、彼が一番、韓国の人たちに強い印象を与えたようです。一人一人に神の計画と目的があるということです。

 今日、詩篇百三十三篇が実現するためには、国を越え、言葉を越えて、イエス様によって一つになることです。今日は自分の国籍は天にある!天国は地上に降りて来るものですが、そこに国籍があるものとして、本当の幸せ、本当の喜びを体験していきたいと願っています。
 最後に、詩篇百三十三篇のみ言葉を心に留めながら、イエス様の十字架を思い、聖餐式を行いたいと思います。一言お祈りして、聖餐式に移っていきたいと思います。

『見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。』

 主よ、心から感謝します。私たちは国を越え、言葉を越えて、神の国の国民として礼拝に出席できることを、心から感謝いたします。今からの聖餐式を祝福してください。今ここにある、パンとぶどうのジュースを祝福し、イエス様によって一つにしてください。今日は、本当の幸せ、喜び、楽しさを体験させてください。イエス様の御名によって聖餐式を始めます。アーメン。