「主とともに泣く

2017年9月17(日)
新城教会牧師 四元雅也
エレミヤ31章16節

『主はこう仰せられる。「あなたの泣く声をとどめ、目の涙をとどめよ。あなたの労苦には報いがあるからだ。──主の御告げ── 彼らは敵の国から帰って来る。」』

 ハレルヤ!感謝します。今日はこうしてみ言葉を取り次がせていただく恵みの時を与えられましたことを、心から感謝いたします。
 今も上條先生が祈りの中でおっしゃっていましたが、日本縦断リバイバルミッションが九州地区で行われております。今日、九州地方は台風が上陸していて、集会の時間も急に変更になったりして、大変なようですけれども、みなさんで祝福と守りのためにお祈りしていきましょう。
 昨日までの集会は大変恵まれまして、また台風の影響もなく行うことができたようです。写真が少しあります。

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 これは一日目、十五日の、福岡県大牟田市で行われた集会であります。音楽ゲストは井草聖二さんです。そして、平岡修治先生がメッセンジャーとして立てられております。
 昨日の集会の模様も、リバイバルミッションのLINEグループに入っている方は報告が来ています。昨日は、雨も降らずに祝福された時を持つことができたそうです。今日も二回の集会がありますので、是非覚えて祈っていただきたいと思います。
 また、ザワメキも千葉にいますし、順先生も北海道にいますが、集会が終わって帰って来るその道中を台風が直撃するというか、台風に向かって帰って来ることになりますので、お祈りください。順先生は飛行機が飛ぶかどうか心配されるところですが、最後まで守られるように、覚えて祈っていただきたいと思います。

 早速メッセージに入っていきたいと思います。最近私はエレミヤ書を通読しておりまして、読む中で教えられることがあって、このみことばを選びました。

 エレミヤ書は、みなさんもよくご存じだと思うのですが、全日本リバイバルミッションの集会が計画される時に、テーマのみことばとして選ばれることが多いような気がします。
 全日本リバイバルミッションの始まりの甲子園ミッション、九三年に行われましたが、その際にはエレミヤ書十章十三節のみことば、

『主が声を出すと、水のざわめきが天に起こる。主は地の果てから雲を上らせ、雨のためにいなずまを造り、その倉から風を出される。』

このみことばによって立ち上がって、甲子園ミッションが行われました。
 二〇〇〇年にはスーパーミッションが、東京で四十日間、大阪で四日間行われましたが、その際には、エレミヤ書二十九節の十一節から十三節のみことば、

『わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。──主の御告げ──それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。』

 このみことばに立って行われました。
そして二〇〇九年は、韓国リバイバルミッションが行われました。その時には、三十一章三節〜四節、

『主は遠くから、私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。おとめイスラエルよ。わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。再びあなたはタンバリンで身を飾り、喜び笑う者たちの踊りの輪に出て行こう。』

 このみことばが掲げられました。
さらにザワメキで「天と地を造らなかった神々は、地からも、これらの天の下からも滅びる」というみことばもエレミヤ書十章十一節のみことばです。

 リバイバルミッションの歩みにおいてこのエレミヤ書が結構ピックアップされるのです。
 なぜかというと、日本が置かれている状況と、エレミヤ書が書かれた時代の状況とが、オーバーラップする部分があるのではないかと思うのです。

 エレミヤが活躍した時代とは、どんな時代だったのでしょう。イスラエルの国が南北に分裂して、北イスラエルと南ユダとに分かれました。北イスラエルは最終的にBC.721年アッシリアに捕囚にされてしまいます。南ユダだけが残っていくのですが、その時代は、周りにあった大国の影響の元に国家が揺さぶられて、ユダがどこにつくのか。神に依り頼み、神の側につくのか。それとも人の権力である異教の大国に従うのか。大国におもねり、あっちの国、こっちの国に頼りと、どっちつかずの道を行くのか、ということが試されるような、そういう時代でありました。

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 エレミヤ書一章を見ますと、ヨシヤ王の十三年からエレミヤが活動したと書かれていますが、ヨシヤ王の次に、エホアハズ、エホヤキム、エホヤキン、ゼデキヤ、これらの王様の治世の中でエレミヤは活躍しました。
 ヨシヤ王の時代は、三十一年間あったわけですが、ユダの国はヨシヤの指導の下で宗教改革を経験します。ヨシヤの前の王、マナセとアモンという王様たちが非常に悪い政治をして、神様から離れて民を偶像礼拝に向かわせました。ヨシヤは幼くして王様になったのですが、治世の始めから神様を求め、ユダの国を霊的に再建しようとしました。ヨシヤはその前の王様の誰よりも、民の心を神に向けることに熱心に取り組みました。そして治世十三年目から、神殿の補修に取りかかり、そうしたら神殿の中から律法の書が見つかって、ユダの国がまさに神様の裁きの危機にあるということを悟るのです。
そこでヨシヤは国家的な宗教改革に取り組んでいきます。偶像を取り壊して国の中から排除し、長年顧みられなかった過越の祭りを、王の主催で実施して、民にイスラエルの神「主」を求めるように!というおふれを出していったわけです。
 それにも関わらず、民の心は神様から離れていった、ということが旧約聖書には書かれています。そして、ヨシヤ王の三十一年目に、エジプトと戦った時ヨシヤは戦死してしまいます。ヨシヤは、ユダの王の中で、最も国民に死を悼み嘆かれた王でありました。

 その後で出て来る四人の王様は、どれもユダをまた悪へ引き込む悪い王様でした。エレミヤはこのヨシヤの十三年からバビロン捕囚までの、実に四十年間預言者として活動したわけです。

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 エレミヤは若くして預言者として召されます。エレミヤ書の一章四節〜八節に、

『次のような主のことばが私にあった。「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」そこで、私は言った。「ああ、神、主よ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません。」すると、主は私に仰せられた。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。──主の御告げ──』

 エレミヤはヨシヤの治世十三年から、エホアハズ、エホヤキム、エホヤキン、ゼデキヤの時代を経て、エルサレムがバビロンに攻められて陥落し、バビロンに多くのユダの民が捕らえ移される、その時まで活動しました。
 つまり、ヨシヤの時代は、表面的にはまだ良かったのですが、その中でも、民はどんどん神様から離れて堕落していました。そして、その後の王様の治世も主に立ち返ることをしない、かたくなな国家の中で、エレミヤはユダの国がゆくゆくは滅ぶ。バビロンがやってきて、あなたがたをバビロンへと連れて行く、という警告を言い続けたのです。それも四十年間もずっと。すごいなぁと思います。ヨシヤ王は宗教改革をしたのですが、時すでに遅し。神の裁きは差し迫っている。南ユダ王国の滅亡はもはや避けられないと。
バビロンが攻めて来ようとしている時代に、エレミヤ以外の預言者は、「大丈夫です!大丈夫です!バビロンは決してユダに入って来ることはありません!主が私たちと共におられるのだから、私たちは決してバビロンに屈することはありません!」と、主の名によって語る、そういった、多くの耳には聞こえのいい言葉を語る、いわば偽預言者がたくさんいた中で、ユダの中でほとんどエレミヤだけが、「バビロンが攻めて来る。もうこの敵に打ち勝つことはできません。あなたがたはバビロンに下って生き残る道を選びなさい。」と語るわけです。ユダの民にとっては全く聞こえの悪い、「何を戯言を言っているのだ。おまえは。」と言うことを、エレミヤはひとりで四十年間言い続けるのです。それがために、エレミヤは預言する度に迫害を受けて大変苦しい目に遭うのです。
 ユダの民は、エレミヤの言うことなんかばからしい!と笑い飛ばしました。そして彼を牢屋にぶち込んだり、井戸の中に放り込んだり、大変な苦痛を味あわせました。しかし、エレミヤは絶対に神のことばを曲げることなく言い続けたのです。
 ただ、さすがにエレミヤも幾度となく神様に、「こんな辛い使命はやめたい!」と何度も訴えました。エレミヤ書二十章を見ますと、七節〜九節に、こんな言葉が出て来ます。

『主よ。あなたが私を惑わしたので、私はあなたに惑わされました。あなたは私をつかみ、私を思いのままにしました。私は一日中、物笑いとなり、みなが私をあざけります。私は、語るごとに、わめき、「暴虐だ。暴行だ」と叫ばなければなりません。私への主のみことばが、一日中、そしりとなり、笑いぐさとなるのです。私は、「主のことばを宣べ伝えまい。もう主の名で語るまい」と思いましたが、主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません。』

エレミヤの預言者としての苦悩がここに強く込められているのではないかと思います。本当に彼は苦しかったと思います。苦しかったから神様にまで楯突いて、「あなたが私を惑わし、あなたのことばが私を笑いものにしているんですよ!」と訴えかけているのです。それで「もうやめた!こんな割に合わんことは、もう止めよう!語るの止め!」と、自分で決意するわけですが、そうするとこんどは主のことばが骨の内で火のようになって、しまっておくのに絶えられないというのです。語るも地獄、語らぬも地獄という感じですよね。もう二進も三進も行かない状況があったのです。神様の情熱が、エレミヤが黙るのを赦さなかったというのです。そういう苦悩の中で彼は語り続けた。

 もちろんエレミヤは、ユダの国のこれから起こるであろう惨状も憂いていたと思います。そして、神様の愛のゆえに、彼も神様に従っていたのだと思います。それが証拠に、エレミヤ書の次に哀歌が出て来ます。哀しい歌という、聖書の書巻ですが、これもエレミヤが書いたと言われています。
 哀歌の中には、実際にバビロンが攻めて来て、国が蹂躙され、エルサレムも神殿も城壁も破壊されて、民が多く殺されて、という状況をエレミヤが嘆いて歌った歌が哀歌の中には書かれています。これはバビロン捕囚の時代につくられたものだと言われています。
 このバビロン捕囚時の惨状の中で生き、ユダに預言し続けたエレミヤの心の苦闘とか、国を想う悲しみが、エレミヤ書の中には随所に描かれているわけです。エレミヤは「涙の預言者」と言われていますが、そういった所以であります。

 話は変わりますが、今週の週末、新城教会では二つの大きな教会をあげてのプログラムが持たれます。一つは加瀬川義人君と梨恵さんの結婚式。今度の土曜日の午後十二時半からこの場所で行われますので、ぜひみなさんお祈りしていただいて、またご参加くださればと思います。
 それとセットになっているのが、次の日の、アコースティックナイトです。

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青年手作りのポスターが作られておりますが、これ、二日間セットで行われることになったのですが、なぜイベントが二日間連続して行われるようになったかというと、これはスタッフが考えたのではないのです。スタッフが考えると二日間もイベントをやったら大変だろうといってやらないと思うのですが、このイベントを考案したのは、何を隠そう加瀬川義人君なのです。青年会で何をやろうかと、話し合うミーティングの時があるのですが、その時に彼が、「僕の結婚式が九月二十三日にありますけど、その時には青年の有志たちが僕達のために会場の飾り付けをやってくださるんです。一生懸命何日もかけて飾るものを準備して、そして当日、綺麗に飾ってくれるのですが、せっかく綺麗に飾ってくれて、その披露宴の一時間ちょっとで終わって、また片付けてというのではもったいないので、いっそのことその次の日に伝道集会をやって、結婚式で使ったセットをそのまま次の日にも使ったら手間が省けていいじゃないですか?」ということだったのです。
 スタッフ会にかけたところ、やりましょう!となって、実現することになりました。青年会が主催するのですが、対象は青年だけではなくて、子どもからお年寄りまでみなさん対象となっているので、友達誘わなくて来ても大丈夫ですので、ゴスペルサパーのようなつもりで参加していただければと思います。
 そして、その提案があった時に、ゲストを誰にしようかと考えたところ、「韓国の義人君」に来てもらったらどう?という話がでて、義人君も、「チェ先生が来てくれるなら、そんな嬉しいことはないです!」というわけで、結婚式も伝道になりますし、次の日と二日間伝道の働きのために来ていただけませんか?と言ったら、「喜んで行かせていただきます。」と言って、チェ先生が来てくださるようになったわけです。

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 あとで聞いてみたら、先週もチェ先生来てくださっていたので、この二週間行ったり来たりしていただけることになって、ちょっと大変だったかなと思いましたが、喜んで来てくださるので、みなさん感謝して楽しみにしていただきたいと思います。青年らしい発想だと思います。

 結婚式の準備も、伝道集会の準備も、青年たちが中心となってやりますし、来週のアコースティックナイトは料理もサンドイッチを出そうと、青年たちがいろいろと思考を凝らしています。光太君は自家製生ハムを作りました。自分で燻製して生ハムを作って、サンドイッチに挟んで、みなさんに食べさせてくれることになっています
 昨日はその生ハムの試食会をしました。かたまりになっている生ハムを包丁でそいで食べたのですが、うまかったです。良い香りがついていて、サンドイッチに挟むとちょうどいい塩加減で、美味しくできると思いますので、是非みなさん楽しみにしていただきたいと思います。

 結婚式と伝道集会がセットになるのは、おもしろいなぁと思います。どうしてかというと、もちろん青年達で喜んで奉仕してやりますので、みんなでわいわい準備したり、主に捧げるという、そういう気持ちもありますし、また集会が終われば、あぁうまくいって良かったなぁと達成感もありますし、若い子たちがそうやって集まって何かをするというのはある意味、教会だけに限らず、いろいろと社会の中でも見られることだと思うのですが、青年らしいといえば青年らしいですよね。
 でも、一個世の中の青年の集まりとは違うと思うのは、結婚式は本当に楽しい時、喜びの時でありますが、伝道というのは、もちろん表向き楽しく、来ていただいた方たちにも楽しんでいただければそれでいいのですが、でもその真にあるものというのは、あえて言えば「悲しみ」があるのではないかと思います。

 ちょうどエレミヤが悲しみながら、涙ながらに預言をしていたのと同じように、伝道の働きというのは、その真にあるものは、滅んでしまう、また呪いの元にある人たち、その将来を憂いて、なんとか救われてほしい。なんとか回復されてほしい。そういう思いが伝道という中にはあると思います。だから、うれしさがメインの結婚式と悲しみを真に宿す伝道集会が二つセットになっているというのは、ちょっとユニークだなと僕は感じたわけです。

 パウロの宣教活動もそうですよね。パウロは当時、多くの人々に福音を語って、そして聖書を見ると、様々な神様の御業、奇跡を見ることができます。そんなものを見ると、きっとパウロの宣教は華々しい奇跡に満ちた素晴らしいものだったんじゃないかと、ある意味で勘違いするわけなのですが、実は反対だったと思います。エレミヤと同じように、困難と迫害続きです。同胞からねたまれて、どこに行っても一生懸命真実を語ってもなかなか受け入れられない。救いを受け入れたのは、主にわずかな異邦人だったのです。そして彼自身も牢獄にぶち込まれたり様々な困難を実は味わっているんですよね。

 ローマ人への手紙の九章一節〜三節、

『私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。次のことは、私の良心も、聖霊によってあかししています。私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。』

 伝道というのはこうやってみると、悲しみがつきものなのです。楽しいことばかりではないですよね。

 結婚式の時には、必ず一番中心の所に、『誓約』の時があります。『健やかなるときも、病めるときも・・』と言いますよね。結婚式の中で最も厳粛な、神様の前での約束です。一生この人と、どんなことがあっても添い遂げます!と、こういう神様との約束です。

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 私もこの方と誓約を交わしました。最近結婚されたフレッシュな方の写真出そうかと思ったのですが、、、思いとどまって、まあ自分のを出そうかと。家内は嫌がってましたが、、、牧師の家庭の宿命ですね。
 約二十二年前の写真です。今回のために久しぶりに結婚式のアルバムを引っ張り出して眺めてみました。二十二年も前のことなので、二人とも若々しくて初々しいなと、我ながら思います。やはり男性は結婚式の時の奧さんの顔に衝撃を受けるのです。こんなにも飾り立てられて綺麗になるもんかなぁと思いまして、しばらくその結婚式のウェディングドレスを着た彼女の写真を、家のドレッサーの前にかけて、こういうふうに化粧をするといいんじゃないと、飾っていました。随分前に取られちゃいましたが、、、。この写真にもせっかく出すので見栄えが良いように多少修正が加えてあります。
 私も家内も、今は外観は大分老けてきておりますが、お互いにそうなっていくので問題ないわけです。当時の家内の写真、綺麗だなぁと思いますが、僕は今の顔のほうが好きですね。

 私と家内は甲子園ミッションの前の年、一九九二年、彼女はミッションのほうに、私は教会のほうに献身しまして、そして甲子園ミッションの翌年の九四年から、新城教会では怒濤の結婚ラッシュが数年間続いたのですが、私たちもその波に乗るようにして九五年に結婚に導かれました。
 結婚を決めるときも自分でも怖いくらいとんとん拍子に話が進んでいきましたので、結婚直前には「ホントにこの人で間違いないかな?一生本当にこの人とやっていけるんかいな?」って不安になることもありました・・。みんなそうですかね。僕だけでしょうか。ノリと勢いで結婚しちゃうようなところがあるけど、大丈夫かなぁと。飽きっぽいんで。でも今日まで良く持ちこたえたなって思います。もちろんこれは相手が良くできた方だったからです。

 思えば私がイエスさまを信じてクリスチャンになるときも同じことを考えてました。もう三十四年も前のことになりますが、バプテスマ受けちゃって本当に大丈夫かなぁ?途中で嫌になってやめちゃったりしたら格好悪いしなぁとか、イエスさまは本当に神様だと言うけど、ホントにそうなの?とか、そんなことで迷ったわけなのですが、変わらず信仰を持ち続けることができていることは感謝です。むしろ信仰がもっと深まっているところもあると思います。後悔したことは一度もありません。聖書の神様は真実です。
バプテスマも、結婚式も、神様の前で誓約する時です。一生一緒!一生付いて行きます!一生この人と!と。本当に聖書の神様は素晴らしいなぁと実感するのですが、今バプテスマを迷っているという人は、ぜひ決断していただきたいと思います。また、今週結婚されるお二人も、大丈夫だと思いますが、もし迷いがあったら心配しないで、神様に委ねていっていただきたいと思います。

 結婚生活でも、信仰生活でもそうだと思うのですが、人間には、愛・喜び・平安・楽しみだけではなく、苦しい・哀しい・腹立たしい・憎らしいという感情もあります。これらの一見ネガティブな感情はクリスチャンには不必要な感情なのか?クリスチャンはいつもハレルヤ〜!喜んでますよ〜!百パーセント幸せです!と、言っているのがクリスチャンか?と考えると、やはりそういうクリスチャン人生というのは、表面を取り繕ったいびつなものではないかと思います。悲しいという感情も神様が与えられる感情ですしね。

 エレミヤの涙、心の悲しみは、「主に従う」ことによってもたらされました。主に従っていったら、嬉しくて楽しくてしょうがないのかなと思うのですが、エレミヤは全然違いました。主に従ったことで、悲しみ、困難でいっぱいだったわけです。何よりもエレミヤ本人がユダ王国の行く末を憂いて悲しんでいたと思います。
みんなは耳も貸さない。だけど自分がユダのこれからの将来のことを考えると本当に悲しくて、自分が語ることばを何とか聞き入れて欲しい。ユダに、立ち返ってほしい!主に立ち返ってほしい!へりくだってほしい!と、彼は願いながら、それは主が与えられた思いであったわけですが、その思いを受け止めて、そして語り続けた。
 つまり彼が持っていた悲しみというのは、主の御心に沿った悲しみだったということなのです。そういうものがあるんです。ある意味エレミヤが活動した四十年間はその悲しみで満ちていたというわけです。彼は「主とともに泣いていた」のです。

 また私の家族の話で恐縮なのですが、九月三日の日曜日、その日の一日、礼拝が終わり、インターナショナル礼拝が終わって七時過ぎに帰宅しました。家で食事をして、しばらく経った時、九時くらいだったと思うのですが、家内が「聖徒が帰って来てない」と言い始めました。聖徒はうちの長男で、大学二年生です。自分で車も持っていますし、外に出るのも自分でできます。しかし、その日彼の車は駐車場にあり、どこに行ったか分からないというわけです。彼は夕食がいらない時とか、遅くなるとか、そういうことはいつも連絡してくれます。連絡してくれなくても、こちらからメールで「どうなっているの?」と聞くと、「今何々している、夕飯いらない」とか、返事をしてくれるのですが、その日は九時過ぎになっても連絡もなく、こちらから電話をかけても不通。そしてメールを送っても「既読マーク」もつかないという状況でした。
 そして、家内も心配していました。でも周りの僕とか他の子どもたちは、「そんなの充電が切れたかなんかで連絡するのも忘れとるだら!」と冷たく言ってました。でも時間が過ぎて、十時半になっても、まだ帰って来ない、まだ連絡がつかない。いよいよ家内がパニックし始めたのです。気を紛らわそうとテレビを見たり、あるいは携帯でパズルゲームをやったりして、「はぁ〜」と、何度もため息をつくのです。一分、二分くらいの感覚でため息をつかれると、こちらもなんとかならんかなぁと思いながら、聖徒なにやってるんだ。心配かけやがって!と、ちょっと心配し始めたのですが、それでも大丈夫だろうと思っていました。家内だけがあちこちここぞと思う所に連絡取り始めました。聖徒がよく晩ご飯をご馳走になる家とか、青年会の友達とか、探し始めて、どこにもおらんのです。本当にどうしよう!となってしまったのです。私も絶対大丈夫!と言っているのですが、心配を和らげることができず、彼女は何回もひとりで家を出て歩いて探したりするのです。そんなときにも僕は家にいましたが、、、冷たいですね。
 いよいよ十一時半くらいまで続いて、彼女は頭をぐるぐる回転させて、最後に中学時代の友達の消えてた電話番号をどこかから探し出して、電話をしたらそこがビンゴでした。十一時半過ぎにその友達に直接電話をして、「一緒にいます!」ということで、「聖徒に馬鹿って言っておいてください!」と言って、電話を切っていました。
そんな中で、改めて携帯って便利なものなんだなぁと思いました。携帯のない時代だったら、そんな連絡もつかないし、ただ心配して待つばかりで、帰って来てから雷を落とすくらいだけど、携帯によってリアルタイムに連絡が取れますので、心配しなくてすむ。その恩恵を知らない間に受けているのです。でも今回その便利さが逆にあだとなったわけです。あとで聖徒に聞くとやっぱり充電が切れていたのですが、こちらからの連絡が全く通じなかったことが逆に心配をあおり立てたわけなのです。便利さに慣れてしまっていたので、なくなったときにもっと大きな不安になるのです。
でも、それ以上に感じたのは、やっぱり母親の愛は違うと、ある意味感心したわけです。

 ルカの福音書15章にもなくしたものを探すたとえがあります。百匹の羊を持って、一匹が迷い出た時に、羊飼いが九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで探し歩いた。また、女が銀貨を十枚持っていて、その一枚がなくなってしまった時に、家の中を全部ひっくり返して、見つかるまで決してあきらめなかった。また息子が財産を持って逃げ出して放蕩してしまったのに、どこでのたれ死んでいるかも分からない息子をずっと待ち続けて家の玄関で立っていた父親。そのように、失われたものを探し求める気持ちというものを、家内の姿を見て感じて、こんなふうに神様の前にも歩んでいきたいなぁと思いました。
 また、いつ神様が帰って来るかもわからない、その主イエス様の再び帰って来られる訪れを待つ、ということにも通じるかもしれません。私たちにとっては本当に神様を待ち望む、また失われた魂を探し求めるという気持ちは、本当に失ってはならない大切な気持ちだなぁと、そんなふうに思います。

 メッセージの始めにエレミヤ書のみことばが日本リバイバルミッションのテーマになることが多いと言いました。全日本リバイバルミッションの歩んできた道のりを振り返ると、華々しいことがでてきます。甲子園で三日間で十二万人集まったとか、祈りの勇士が累積三十万時間も祈りを捧げたとか、日本武道館で十日間、東京で四十日間リバイバル集会したとか、ハワイ、韓国、台湾、タイ、ナガランドでミッションしたとか、神学校だザワメキだと、リバイバルに伴って誕生したミニストリーがあり、エトセトラ・・・、一見、華やかに見えますが、でもその真にあるものは、霊的戦い、そしてリバイバルのための挑戦ですよね。なんか余裕があって、やれるからやろうか、ではなくて、本当に日本の将来を憂いて、愛を持って立ち上がって、信仰によって進んでいったという働きですよね。
 このミッションの働きも、思い描いていた通りにうまくいきました!全部予想通りです!すごい成果が出ました!そういった働きって、ないと思います。いろんな困難がある中で立ち向かい続けてきた。

 最初に読みましたエレミヤ書三十一章十六節には、こうありました。

『主はこう仰せられる。「あなたの泣く声をとどめ、目の涙をとどめよ。あなたの労苦には報いがあるからだ。──主の御告げ── 彼らは敵の国から帰って来る。」』

 主のみことばを語っていたのに、受け入れられず、苦しみ続けたエレミヤですが、しかしそのいっぽうで、彼の時代の中で、彼だけが、ユダの将来について正しく知っていました。それは時が満ちたら再建されるという約束です。ユダは一度バビロンによって滅ぼされるのだけど、約束の期間、七十年が満ちた時に、主は再びユダを省みて、元の所に帰らせて、国が再興されるという約束、神様はエレミヤにだけはしっかりと将来のビジョンを見させたのです。だからこそ、エレミヤは信仰を持って語り続けることができたんだと思うのです。彼の時代で誰もそんなことを分かる人はいなかったのです。

 日本の状況が、エレミヤが活動していた当時のユダの王国と似ていると先ほども言いましたが、人々はこの日本においても、将来についてあまり深く考えることをせずに、目の先にある利益とか、楽しみとか、そういったものに心を奪われて、また自分が滅びに向かっているということに気がつかない、そんな状況ではないかと思います。

 テレビやインターネットでも、音楽も、神様を求めさせるということではなくて、この世の経済に土台を据えた豊かさ、そういったものを追い求めさせる。そのために華やかなものを発信し続けているわけですよね。世界は楽しいことで満ちている、ここにも楽しいことありますよ!あっちにもすばらしいものがありますよ!と。暗い方向には目を向けさせたがらないのです。お金があればどんな人生でも可能ですよ!と、神様がいなくても充実した人生を歩くことができます!と、宣言しているのが、この世のテレビとかメディアです。
 そんなことを人々のマインドに絶えず打ち込んでいる。そして本当は神様と交わることでしか味わうことのできない霊の領域の満たしに蓋をして、そこが目覚めることがないように偽りを投げ続け攻撃し続けているのです。この世の支配者である悪魔の使う手です。
そしてともすると、私たちが内に持っているクリスチャン像、クリスチャンというのはこうあるべきだ!というイメージも、そういったものに毒されてねじ曲がってしまっているかもしれないです。クリスチャンは神の祝福に満ちていて、幸せいっぱい、恵みいっぱい、人生バラ色なんだ!って、ネガティブ要素が全くない、何かで盛ってあるような、エンターテイメントなクリスチャン生活、クリスチャン像というのを私たちはすり替えられていつしか持ってしまっているかもしれないです。

 今、政治的に不安定な情勢です。北朝鮮の問題が騒がれています。これはセンシティブな問題でありますので、私たちはむやみに北朝鮮を非難したり裁いたりしてはいけないと思います。メディアが報道しない裏の姿というのもあるかもしれないですし。

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 スライドをちょっと見ていただきたいと思いますが、これはテレビでもよく発信されているマスゲームです。こういう綺麗な派手な衣装で身を包んだ人たちによる、一糸乱れぬダンス、そしてこの後ろでパネルを掲げて国家の繁栄を謳歌する。

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 これもよく先日も出ていましたが、軍事パレードです。これを見ると、北朝鮮は、うちはこんなに豊かですごい力を持った国なのですよと誇示したいようです。
今、世界中から制裁を加えられ、経済的な打撃を受けているわけですが、「我が国はびくともしないさ」といわんばかりで、核実験やミサイル実験が繰り返されている。そこにどういったものがあるのか、真実は分からないですが、なんとか体制を維持していこうと、世界に対する危うい交渉術があるのかもしれません。

 神様との関係にも、祈りの中にも、いつしか私たちはそういう交渉術を使ってしまってないでしょうか?自分に少しでも有利に持って行きたい。ちょっとでも恵みをゲットしたい。「あなたは神なんだから、私に恵みを与えるべきであり、私の道から苦難や困難は排除するべきなんです。みことばにもちゃんと書いてあります。私のためにこんな苦しい人生ではなく、もっと楽な人生を提供しなさい。そうすれば、私はあなたに従い、あなたを礼拝するでしょう。」という感じです。
 自分にメリットを得られるならば神に服従し、神に信頼する。もしそうでないなら、そんなやつは神と呼ぶ価値がない。神様との取引を自分に有利に持って行けないならば交渉は決裂。もはやサヨナラだ、と。こんな信仰生活を歩むことがないようにしなければいけないです。悪魔に騙されてはいけません。

 私たちはエレミヤ書から、このエレミヤの態度に学ぶことができると思います。彼は神様と本気でぶつかり合って、時には神様に文句を言ったりしたわけですが、それでも結局は神様に従って、従い通して、預言者としての彼の人生を全うしたのです。それは悲しみに満ちたものだったのですが、それが神様が彼に与えた人生だったわけです。

 私も今回エレミヤ書を読んで、自分の人生の中でそういうふうに歩んでいきたいものだなぁと思います。そのエレミヤのように悲しみの人生を歩みたいというわけではないですけど、でも神様から与えられた「僕の人生」というのがあるはずですので、それを歩んでいきたいと思います。

 最後にエレミヤ書十八章一節〜六節を読んでみたいと思います。

『主からエレミヤにあったみことばは、こうである。「立って、陶器師の家に下れ。そこで、あなたに、わたしのことばを聞かせよう。」私が陶器師の家に下って行くと、ちょうど、彼はろくろで仕事をしているところだった。陶器師は、粘土で制作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた。それから、私に次のような主のことばがあった。「イスラエルの家よ。この陶器師のように、わたしがあなたがたにすることができないだろうか。──主の御告げ──見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたも、わたしの手の中にある。』

 このみことばのように、私たちは神様の手の中に握られた粘土として、神様の思いの中で、みこころの姿に造りあげていただくものになっていきたいと思います。
どこかにもっとうま味のある人生が転がっていないか?神様、何で僕の人生をこんな風にしているのですか?あなたは何でも持っている全能の神なんだから、ちょっとくらい僕に分けて下さってもいいじゃないですか!そんな風に祈ってはいけないのです。
 神様はちゃんと、私たちが願わなくても、私たちの人生に良い計画、平安を与える計画を持っておられるのです。「将来と希望」の計画です。その前に、私たちを主にささげ、陶器師の手の中にある粘土のように、主の手にすべてを委ねていくということを、私たちこの人生において祈り求めて、主を求めて、またリバイバルのために働くことができるように前進していきたいと思います。

 私の今日のメッセージは以上です。最後にお祈りをして終わりたいと思います。

 ハレルヤ。イエスさま。感謝します。エレミヤが人生を通して、神の預言者として働いた、その中から私たちに必要なメッセージを受け取る機会を与えてくださいましたことを心から感謝します。主よ、私たちはまずあなたによっていのちをいただきました。あなたがまず私たちのために犠牲を払ってくださいました。どうか主よ、私たちは救われた者として、み前に感謝しつつ、一人一人がそれぞれの形で主に仕え、主のために働いていく者となっていくことができますように。また今日までこの教会を守り、あなたが恵みを注いでくださったことのゆえにも感謝します。そして、教会の中にもリバイバルの使命を与えて用い続けてくださっていることを覚えて心から感謝します。これからも私たちの願うところではなく、あなたご自身が持っておられる計画の中で、あなたが与えようとしておられる良い計画、将来と希望を与える計画のために、この働きを用いてください。そして、日本が、世界が、アジアが、主よ、あなたのものとさせていただくことができますように、どうぞお願い致します。イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。