「2017年あなたは良いもので満たされます。 —パート23— 
  信じて従う者が倒れるのを黙って見ておられるはずがありません。」

2017年10月1(日)
新城教会主任牧師 滝元順
詩篇55篇22節

『あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。』

 ハレルヤ!みなさん、おはようございます。
 「ハレルヤ!」という言葉は、本来、全被造物に対して、「主をほめたたえなさい!」という宣言の言葉らしいです。しかしそれが、お互いに「主をほめたたえましょう」という個人的なものになってしまったと、ある本で読んだのですが、私たちが、「ハレルヤ!」と叫ぶのは、すべての被造物に対して、「主をほめたたえなさい!」という宣言です。

 今日から十月になり、早いものだなぁと思いますが、本格的に秋になりました。九月のはじめに、「秋が深まってまいりました」という挨拶がありましたが、あの頃はまだ深まっていませんでしたが、本当に深まって来ました。

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 今朝もウォーキングしたら、柿が色づいて、秋は特別な季節というか、被造物の躍動感、冬ごもり前の準備というか、主をほめたたえる新しい段階に入った雰囲気を感じました。
 新城教会ニュースが、二ヶ月に一回発行されるのですが、私はその中で、「しおんちゃん」という漫画を読むのが好きです。青木美由紀さんが毎回、書いてくださっているのですが、これをまとめて本にするといいと思うのですが、今回もなかなか、するどいですよね。メッセージで語られている事柄を、漫画にしてくださっています。

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 「秋の虫の声が聞こえる。神を賛美しているんだね。リーンリーン!」。みなさん、秋の虫の鳴き声を聞いて、そのように聞こえますか?この頃私も、そのように感じるようになりました。
 「実をつけて神を喜んでいるね。神を喜び賛美することばかりを考えなさい。」という、リビングバイブルのみ言葉を引用して、「私は何ができるんだろう。賛美しよう!神に向かって歌おう!ハレルヤ!」と結ばれています。霊的な流れをうまくキャッチして、四コマにまとめてくださっています。

 この頃、私は「彼岸花」に関しても、少し愛が与えられ、「よく咲いてくれましたね!設楽原のただ中で、十字架の血潮の賛美をしてくれているんですね!」と思うようになり、今朝も写真を撮ってきました。

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 さらに赤くなって、もう少しで今年の役割は終わり、という感じですが、実際、この花をよく見ると、「いや〜、うまくできているもんだなぁ」と感動します。あまりにも神の作品として、うまくできあがったものだから、何か悪魔にねたまれて、悪い名前をつけられたような気がしました。
 今朝、歩いたら、「朝早くから四人の人が立っている!」と思ったら、かかしでした。

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 全員、十字架につけられているようでしたが、これでカラスをだませるのかな?と、ちょっと疑問に思いましたが、秋は、心を豊かにしてくれる季節です。美しい自然を主に感謝すると共に、すべての被造物に対して、「主をほめたたえなさい!ハレルヤ!」と宣言したいです。

 今週、私はハワイに行きます。実は、今週はキューバに行くことになっていました。何年も前から、キューバで奉仕をしてくださいと言われていますが、毎年、直前に流れてしまうのです。今回も政情が不安定で、断念しなければならなくなってしまったのですが、いつかキューバで、霊的戦いセミナーを開催したいと考えています。その代わりといってはなんですが、ハワイから是非来てくださいと、以前から言われていたので、十年ぶりになるのですがお邪魔することになりました。
 二〇〇七年、ハワイでリバイバルミッションを開きました。それから、十年も経つのかという感じですが、霊的戦いの必要性を感じていますから来てください!という要請があり、行かせていただきます。

 実はハワイって、楽園のようだと思うかもしれませんが、霊的な目から見ると、結構、重苦しい場所です。あの島は太平洋の真ん中にあって、悪魔もがっちり、島々を抑えているような気がします。
 十八世紀ごろ、宣教師たちが島に入ると、現地の人たちはすっ裸だったそうです。宣教師たちはまず、何をしたかというと、彼らに服を着せたというのです。それから、二つのものを禁止したというのです。

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 それが、「フラとサーフィン」でした。どうでしょうか。フラといったら、優雅な踊りだと思いませんか。サーフィンが好きな人もいるかもしれません。しかし宣教師たちは、この二つを禁止したのです。なぜなら、今では娯楽になっているこの二つは、原住民にとっては、宗教行為であり、シャーマニズム、悪霊どもを呼ぶ儀式だったからです。
 フラは、火山の神ペレに対する生け贄で、踊りと共に若い女性を、火口に投げ込んだりしていたわけです。
 また、サーフィンは、東洋一般に流れている世界観に共通する「陰陽」と関係があります。陰陽とは、暗い所と明るい所が一つになっている世界観です。日本人は案外、この世界観に支配されています。しかしこれは、決して聖書的な世界観ではありません。聖書は、「神にとって暗い所は何一つない!」とありますから、光と闇の組み合わせという考え方は、聖書が教える世界観とは違うのです。私たちの主は、とことん、隅々まで、明るい方です。波乗りは、高い波と低い波にバランス良く乗ります。これは陰陽の世界観を表す、宗教儀式でした。サーファーも、プロになればなるほど、霊的になり、夏は海の波に乗り、冬は山の波に乗るのです。サーフィンとスノーボードの両方やるのです。それで、陰陽バランスを取るという宗教観を持っているプロサーファーが多いです。宣教師は現地の人たちに、まず、その二つをやめさせたのです。
 しかし後、フラを、ゴスペルフラとして再出発させた歴史もありますから、すべてを否定するわけではありません。しかし文化とか習慣の根源に、悪魔がいろいろな仕掛けや、土台を置いていることを、知らなければならないです。

 まもなく衆議院選挙があります。今回の衆議院選挙は、結構重要だと思われます。どの候補者や政党を選べとは言いませんが、クリスチャンの未来を決定付ける事にもつながりますから、国のために、よく祈っていただきたいです。伝統だ、文化だ、という根源に、悪魔の様々な仕掛けがありますから、それらが一掃されて、神の国が地上に降りて来るよう、とりなして祈る必要があります。
 教会の目的に、「主が帰って来られる道を備える」という使命があります。そのために、心から主をほめたたえ、働いていきたいと願っています。

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 ハワイに行きますと、このようなストーンサークルが、やたら多くあります。今日の午後から、霊的戦いセミナーをやりますから、ご出席下さい。テーマは二つあります。
 一つは、「スマホ・ゲーム」です。赤ん坊くらいからはまっています。ゲーム中毒は、楽しさと隣り合わせです。
 どういう策略があるのか、ゲームの内容はもとより、背後に、様々な仕掛けがあるのです。その理論を知って、自分で規制しないと、覚醒剤中毒と同じような物質が脳の中で出るそうですから、気を付けていただきたいと思います。
 またもう一つはこれです。

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 十月は、「ハロウィン」があります。年々、日本でハロウィンのイベントが多くなっています。しかし、ハロウィンの根源に、どのような世界観があるのかは、あまり論じられていません。実は、ハロウィンの根源を知ると、「これはまずい!」と分かります。ハロウィンのイベントの一つに、水中のりんごを取るゲームがあるのですが、どんなルーツがあるのか、今日は動画をお見せして、話しますから、セミナーにもお越し下さい。

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 イギリスには、ストーンサークルがやたら多いです。ハワイにも、多くあるのですが、日本にもあります。人類がバベルの塔から、世界中に散らされた時、悪しき世界観と共に散らされて、同じことをやっているのです。そしてハロウィンと、ストーンサークルはつながっています。それは、死の霊とのつながりです。秋の季節、私たちは霊的に武装して歩む必要があります。

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 先週は楽しかったですね。チェ先生が来てくださって、アコースティック・ナイトがありました。目の不自由なチェさんが来てくださって、演奏して下さいましたが、今まで新城教会に多くのミュージシャンが来てくださいましたが、あれほど、感動の拍手が鳴り止まなかったのは、彼が初めてでした。彼は、ほとんど目が見えないのですが、ハンディがあっても、主が彼に与えた賜物が、目の見える人以上に、感動させました。夜のアコースティック・ナイトには、大勢の方が来てくださいました。

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 また、司会者が初々しかったですね。本当に良かったです。新しい世代だな、と感じました。新城教会も、新しい世代によって、次のリバイバルに向かってほしいな!と思います。そして老兵は消えていきたいと思います。

 先週、結婚式もあったでしょう。先週は、あまり良い写真をお見せできなかったから、良い写真も見せておかないと、怒られちゃうかなぁと思いまして。

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 初々しかったですね。でも義人君、やっぱり出て来た時は、レストランのボーイ風でした。

 今日は、宣伝が多いですが、今、「秋の作品展」をやっています。是非とも、教育館の二階でやっていますから、ご覧下さい。みんなすごいな、と感動しました。隠れた才能をお持ちで、私も、一点くらい出品したいと思ったのですが、そういう才能はなくて、ちょっと残念です。ぜひ、ご覧になっていただきたいと思います。

 今日、みなさんと一緒に学びたいみ言葉は、詩篇五十五篇二十二節です。

『あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。』

 良いみ言葉ですね。これをリビングバイブルで読むと、

『重荷は神様におゆだねしなさい。 神様が背負ってくださいます。 信じて従って来る者が足をすべらせたり、倒れたりするのを、神様が黙って見ておられるはずがありません。』

 今日はタイトルを、リビングバイブルから取らせていただきました。「信じて従う者が倒れるのを、黙って見ておられるはずがありません。」と、題を付けさせていただきました。

 私たちが信頼している神は、陰陽の神ではありません。とことん、光の神なのです。この世の神々は、皆、陰陽の神々です。初めは光のように見せかけますが、やがて闇が出て来るのです。陰陽とは、ぐるぐる回るのです。闇になったり、光になったり変わります。でも私たちの神様は、そうではないのです。常に光の神様ですから、時には助けてくれて、しばらくすると罰が当たるというような神々とは違います。私たちを愛し、とことん助けて下さる神です。私たちが倒れるのを、黙って見過ごしにされるような方では決してないのです。

 みなさんの中で、「私は問題を抱えている」という方、このみ言葉を是非、信じてください。とことん光の神は、あなたが倒れるのを黙って見過ごしにされることは、決してありません。

 聖書全体から、このテーマでみ言葉を拾ってみますと、第一ペテロ五章七節に、

『あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。』

 ペテロは、新約聖書の登場人物です。イエス様の弟子であったペテロが、この言葉を語ったのですが、これは詩篇五十五篇の引用です。旧約聖書で、すでに語られていた神のみ言葉をしっかりと受け継いで語ったわけです。
 ここに「ゆだねる」という言葉が出て来ますが、「ゆだねる」という言葉は、「縫い付ける」という意味があるそうです。服が破れた時、パッチして縫い付けるでしょう。イエス様の衣に、あなたの悩みとか、苦しみを縫い付けちゃえばいいわけです。

 聖書の中に長い間、婦人科の病で苦しんでいた女性のことが出て来ます。その女性は、そっとイエス様に近寄って、衣のふさにちらっと触りました。その瞬間です。今まで苦しんできた病が、瞬間的に癒やされ、元気になったのです。これはゆだねるというか、「縫い付ける」イメージじゃないでしょうか。
 「私の病気を、イエス様に縫い付けます!」という感じで触るなら、力がイエス様から流れて、「治った!」ということです。
 今日も目の前に、イエス様が来られたら、その衣を掴まえて縫い付けて、重荷をすべてゆだねたら解放されます!とここで語っていると思います。

 また詩篇三十七篇五節に、こんな言葉があります。

『あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。』

 また箴言十六章三節、

『あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない。』

 将来を選択する中で、どの道を選んだらいいのかって、迷う時があります。そんな時、自分のアイディアとか、経験に頼るのではなく、『あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。』と言うのです。岐路に立たされた時は必ず立ち止まって、どの道を選んだらいいですか?と祈る必要があります。
 人生って振り返ってみれば、「あの時は岐路だったな・・・。」というのが、幾つも発見できます。歳を取れば取るほど、「あの時にこの道を選んだから、こう来たか・・・。」という事に気づきます。結婚もそうですね。この人と結婚するか、やめようかって、決断して、選んだわけです。
 イエス様を信じて、祈って結婚を決断すると、ほぼ、幸せになります。自分の思いで選んだりしますと、あとから、「プロポーズ あの日に戻って 断りたい」という川柳になります。
 私たちは、すべての分岐点において、一度立ち止まって、主に、祈り求めることが必要です。
 有名な聖書の箇所に、マタイ十一章二十八節〜三十節、

『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」』

 この頃は見かけなくなりましたが、「くびき」とは、二頭の牛、馬をつなぐ木です。イエス様は、私たちの重荷を全て取って、「あんたの重荷、何もなし!」というのではなく、くびきを共に負ってくださるというのです。二頭仕立てで歩むなら、困難な道も楽に歩むことができるのです。二頭仕立てにして、くびきで繋ぐと、普段の四倍くらいの力が出ると聞いたことがあります。普通ならば二頭だから二倍だと思うのですが、四倍とか、それ以上の力が出るというのです。イエス様が私たちの人生に来てくださったら、普段では出ない力が出るはずです。

 ここで、「休ませてあげます。」という言葉が使われていますが、イメージ的には竪琴の弦を緩めるようなイメージだというのです。昔、ダビデは竪琴を弾いていましたが、現代で言ったらギターでしょうか。私も昔ギターを弾いていたことがあったのですが、ギターも弦を張りっぱなしでは、楽器に良くないのです。少し緩めてやると良いわけです。
 人生もそうです。いつも張りつめていると、ぷつんと切れてしまったり、ポキッと折れてしまったりするのですが、イエス様は私たちを緩めてくださるお方です。
 日曜日の礼拝は、日頃の弦が緩められる時ではないかと思います。一週間、現場で真剣に働いて、張り詰めていると思うのですが、日曜日に、全く違った空間に入って、主を礼拝する時、日頃の緊張の弦は緩められます。そこでリフレッシュして、明日から働くサイクルは重要ですね。

 前にもお話ししましたが、一週間七日制を造られたのは神です。神が定めた法則なのです。これはクリスチャンでも、クリスチャンでなくても、一週間七日制を、しっかりと人生の中に組入れるとうまくいくのです。六日間働いたら、七日目は主を礼拝するサイクルです。
 七というサイクルは重要なサイクルだと話しました。七日だけでなくて、七週間とか、七年とか、七の七倍の四十九年というような拡大した概念が聖書の中にはあります。
 特に、聖書の救いは、旧約聖書の七年を七回、次の五十年目をヨベルの年と呼んで、「救い」の概念としています。
 七が七倍、四十九年、そして五十年目は、全ての借金がチャラになり、先祖から受け継いできた土地が誰かの手に渡っても、戻ってくる年がヨベルの年でした。その最小単位、一番小さな歯車が、一週間、六日働いて七日目に主を礼拝するというサイクルです。それはやがて、ヨベルの年につながる概念です。結構大きなことです。

 イスラエルで行われる様々な行事を知ると、聖書の世界も豊かになります。昨日と一昨日、イスラエルにおいて、大きな祭りがありました。それは「ヨム・キプール」と呼ばれる「大贖罪の日」、悔い改めの日です。
 これはユダヤ教の中で最大の祭りで、ユダヤ人は大贖罪の日を強く意識するのです。
 大贖罪の日については、レビ記に記されていますが、元々は二頭のやぎを主に捧げる祭りです。
 二頭のうち、一頭は主への生け贄でした。旧約聖書の時代は、動物が生け贄になったのですが、なぜ、動物が人間の罪の身代わりとなれるのか、ちょっと理解できないところがありましたが、ある本を読んだら、動物の中に流れている命も、人の血の中の命も、根源は、同じ神から来ているとありました。動物も人間も、血の中に流れる命によって、創造主と繋がっているわけです。
 そういう意味において、旧約時代は、動物を生け贄として、人間の罪の身代わりとして捧げていたわけです。しかしイエス様が来られて、十字架によって、このような生け贄も必要なくなったのです。
 そして、もう一頭は、「アザゼルのために」と、祭司たちはもう一頭の山羊の頭の上に、イスラエル全家の罪を告白して、共同体の罪を乗せて崖から落としたり、荒野に追いやりました。
 「アザゼル」が何であるのかというと、当時、悪魔は荒野に住んでいると考えられていて、「アザゼルのために」とは、悪魔に対する生け贄でした。それは、悔い改めには二つの方向性がある事を示しています。罪とは、神に対する罪と、悪魔と結ばれる契約です。
 私たちはその点を見落としています。大贖罪の日は、この両面をカバーしているのです。神に対する悔い改めと、悪魔と結ばれた契約に対して、生け贄が放たれたのは、教会が理解しなければならない点ではないかと思われます。イエス様は荒野に行って悪魔と戦ってくださったのですが、十字架にかかってよみがえり、すべての重荷も、苦しみも、担ってくださった事実を知る時、人は救われるのです。

『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

 このみ言葉は、大変重要な言葉です。「心配する」という言葉は、ギリシャ語においては、「パーツに分ける」という概念があるそうです。私は何かを組み立てるよりも、分解するのが好きです。中がどうなっているのかと、工学部出身で、構造が大好きです。電化製品も分解するのが好きです。しかし家内に、「後から組み立ててよ!」と言われるのですが、組み立てが不得意なのです。「これどうだったかな?」と、分解した後、組み立てると一個ねじが余った・・捨てちゃえ!となって、機能しないことがよくあります。
 心配するとは、「分解する」という意味があり、案外、私たちは、問題が起こる時、問題を分解する傾向があります。ちょっとお腹が痛かっただけで、「もしかしたら癌ではないだろうか・・・。癌なら、どうなるだろうか、抗がん剤でどうのこうの、放射線で・・・」と、果てしなく悪夢が広がっていくわけです。
 心配事があっても、分解しないで、主の手にゆだねるとは、「丸投げしろ!」という意味です。

 詩篇五十五篇の、『あなたの重荷を主にゆだねよ。』とは、英語でいうと、”Cast your burden on the LORD,”となっていて、「Cast」とは、投げる、すなわち、分解しないで丸投げで、問題を主の手にゆだねてください!というのが、聖書の勧めです。
 心配事があっても、分解しないで、主の手にすべて丸投げし、イエス様の衣に縫い付けて下さい。主に従う者たちが、倒れるのを主は見過ごしになさいません。

 聖書を読む時、今のように、良いみ言葉をピックアップして、自分の励みにするのも良いと思います。しかし聖書には、コンテキスト、文脈があります。文脈をしっかり握った上で、どういう状況で語られているのかを知ると、さらに味わい深くなります。また時には、一つの箇所だけ抽出すると、全く違った理解を持ってしまう危険もあるわけです。

 例えば、「すべて重荷を負っている人、わたしの所に来なさい。」という言葉は、マタイの福音書に出て来るわけですが、もう少し幅を広げて、マタイ十一章二十五節〜三十節まで読むと、次のようになっています。

『そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」』

 十一章二十五節の、『そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。』という所を読んで、「あれ?これ他にも書いてあったんじゃないかな・・・」と気づく人は、聖書をよく読んでいる人だと思います。
 ルカ十章二十一節〜二十二節を読みますと、マタイ十一章二十五節と同じことが記されています。

『ちょうどこのとき、イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、子がだれであるかは、父のほかには知る者がありません。また父がだれであるかは、子と、子が父を知らせようと心に定めた人たちのほかは、だれも知る者がありません。」』

 マタイの十一章とルカの十章では、同じことを語っているわけです。

 マタイの十一章とルカの十章を比較して、つなぎ合わせると、『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。』というのが、どういう状況で語られ、根源的に重荷はどういうものかが浮かび上がって来ます。
 ルカ十章をもう少し前から、十七節から読んでみると、こうなっています。ルカ十章十七節〜二十節、

『さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」』

 ルカ十章と、マタイ十一章をドッキングさせて読むとこうなります。

『さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』

 「重荷」とか、「休ませてあげる」が、どういう状況でイエス様が語られたのかというと、七十人の弟子たちが、宣教に出て行って、初めはびくびくしながら出て行ったのですが、「あなたの名前を使うと、悪霊どもが服従した」という、勝利の報告に続いて語られたことが分かります。
 これはすごいことでした。イエス様はこの報告を、大変にお喜びになって、「真理を偉い人たちじゃなくて、神は、幼子たちのような、あまり訳の分からないような人たちに現した」と言われました。
 イエス様には十二弟子がいました。十二弟子は皆、名前が知られているのですが、外郭に七十人の弟子たちがいたみたいです。七十人の弟子たちは、ある意味で二軍のような人たちでした。名前も記されていない人たちです。その人たちが、二人ずつペアにされて、イエス様が行く村に、先に送られたのです。彼らはびくびくで、「自分たちに何ができるのだろうか?」と心配しながら、出て行きました。
 しかし、彼らがイエス様の名前を使ったら、村を支配している悪霊どもが打ち破られたのです。弟子たちは、喜々として勝利のレポートをしたその後に語られたのが、『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』という言葉でした。

 ということは人生の中で、様々な重荷の背後に、目に見えない敵の力が関わっている事を告げています。
 時に、霊的戦いは辛いもので、大変なものだと考える人がいるのですが、実はそうではないのです。
 七〇人の弟子たちも、初めはビクついて出て行きました。しかし大勝利で帰って来たのです。そして、少しは疲れがあっても、それは快い疲れであり、イエス様はそれさえも癒やしてくださり、次の戦いのために備えて下さるのです。この箇所は、霊的戦いにおける重荷について、教えている箇所です。

 時に、私たちも未知の世界に出て行こうとする時、様々な不安があったりします。しかしその背後に、重荷となって押し寄せる、見えない敵が関わっているのです。その事を意識して、悪魔に立ち向かっていきなさい!そうしたら重荷は、結構軽いですよ!と告げています。多少、疲れるところがあっても、霊的戦いの重荷は必ず、癒やしてあげますよ!と、語られていると思います。

 そして、詩篇五十五篇も、実に、単体で機能するのではなく、霊的戦いとドッキングして語られていることを知らないといけないのです。先ほども申し上げましたが、詩篇五十五篇二十二節の、『あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。』という言葉、ペテロはこの箇所を引用しながら、次のように語っています。
 第一ペテロ五章七節〜九節、

『あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。』

 私たちは、「あなたの重荷、思い煩いを主にゆだねよ。神が心配してくださいます。」という箇所だけを握るのですが、ペテロはこれを、「霊的戦いとドッキングしている」のです。
 「すべて重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。」という言葉も、七十人の弟子たちが戦いを終えた時に語られた言葉だということと併せて知る時、人生の問題の背後に、目に見えない敵が関わっていることに気づかされます。

 私たちが悪魔に立ち向かう時に、重荷は軽減され、多少、疲れが残ったとしても、主は、いやし、重荷を取り去ってくださるということです。

 案外、問題が起こると、問題に押しつぶされて、敵の力が働いているなんて気づかないし、覆われてしまうことが多いのですが、聖書が告げている重荷は、見える領域だけでなく、見えない領域が絡んでいて、敵によって重荷が増し加えられるのです。
 けれども私たちが、堅く信仰に立って、悪魔に立ち向かうと、悪魔は逃げ去り、勝利が来ます!主もサポートしてくださいます!多少疲れがあったっても、癒やしてくださいます!と、教えているのです。
 問題が起こった時、重荷がある時、ただ単に、人間の世界から発生したのではなく、見えない敵とのつながりがあることを知って、悪魔に立ち向かうことが必要です。

 霊的戦いには二つの方向性、ベクトルがあります。一つは真理を知って、主に近づく領域です。サタンの偽りを見抜いて、真実を知り、真理を知るなら、悪魔に立ち向かう事になります。同時に、悪魔に立ち向かうという、積極的なベクトルも知らないと、問題に勝利することはできません。
 もちろん基本的には、主にすべて丸投げで、縫い付けてしまえばいいのですが、戦いの領域は、人に任されている領域ですから、その条件を満たしていく時、主の勝利が現され、様々な奇跡も伴っていくのではないかと思います。

 問題が起こったら、押しつぶされるのではなく、悪魔に立ち向かう!というポジションに立たなければならないのです。私は、その事を教えられて実践することにしています。特に、詩篇百四十八篇五節の、『彼らに主の名をほめたたえさせよ。』と学びましたが、詩篇百四十八篇七節、

『地において主をほめたたえよ。海の巨獣よ。すべての淵よ。』

という言葉があって、「海の巨獣」という言葉が、詩篇七十四篇十三節〜十四節、

『あなたは、御力をもって海を分け、海の巨獣の頭を砕かれました。あなたは、レビヤタンの頭を打ち砕き、荒野の民のえじきとされました。 』

とあります。「海の巨獣」とは、主の敵側として、描かれており、頭を砕かれる存在なのです。これは何かというと、悪魔とか悪霊どもを意味するわけです。レビヤタンと並行して記されていることからも、それが分かります。
 悪魔に立ち向かうとは、悪魔を打ち砕くだけでなく、さらに一歩進んで、「海の巨獣よ!主をほめたたえろ!」と、「彼らに主の名をほめたたえさせることができる」ほどの、完全な勝利に進むことができるのです。

 私は今まで、詩篇七十四篇バージョンの霊的戦いをしていました。「海の巨獣の頭を砕きます!」という戦いでした。しかし最近は、百四十八篇バージョンで、一歩進んで、「海の巨獣よ、主をほめたたえろ!」と宣言することにしています。元々、悪魔悪霊どもは、主の前で主を賛美していた連中です。彼らは主を賛美することを、よく知っている存在です。彼らが打ち砕かれ、捕虜となったら、彼らもまた、被造物ですから、彼らに、主の名をほめたたえさせることができるはずです。

 私は先日、北海道の網走に行きました。網走には、大変有名な場所があります。それは網走番外地と呼ばれる。網走刑務所です。私の知り合いが網走刑務所に入っていて、今回は二回目ですが訪問しました。
 刑務所中の東京大学みたいな所です。そこに行き、その人に面会して、お話をさせていただいたのですが、結構時間をくれて、四十分くらい話しました。刑務官から、「牧師ならば、その人が更正するように話してください。世間話だったら途中でうち切りますよ」なんて脅されたのですが、いろいろと話して、最後にお祈りさせていただきました。
 アルゼンチンなどでリバイバルが起き、刑務所の中でもリバイバルが起こったそうです。犯罪人たちがイエス様を信じて、獄中で、ゴスペルクワイヤーを作って、主を賛美している映像を見たことがあります。
 実に、霊的戦いって、悪魔・悪霊どもをやっつけて、倒しておしまいではなくて、彼らを、獄中のゴスペルクワイヤーのように、主をほめたたえさせることができるはずです。
 「主をほめたたえろ!」とは、海の巨獣たちも入っていますから、彼らにも命じることができるのです。主に敵対している者たちも、打ち負かされるならば、賛美を知っている連中ですから、獄中で主をほめたたえるに違いありません。私はそのように命じることにしています。
 詩篇五十五篇、

『あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。』

 ペテロは詩編を引用しながら続けて語りました。

『身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。』

 「ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来た」と述べられているように、同じような問題が、くり返し人生には起こります。あの人に起こったことが、この人にも起こった!私にも起こった!と・・・。
 これが悪魔・悪霊どもと戦うと文脈で語られているのは、どこかの時点で戦いに気づいて悪魔に立ち向かうことがないと、同じような問題が起こりやすい事を意味するのではないでしょうか。

 霊的戦いが始まって、目に見えない敵の力が関わっていることに気づかされて、戦うようになったことは、重荷を主にゆだねるためにも、重要な要素です。その中で主は、すばらしいことをしてくださると、私は信じています。

 先週、誕生日紹介の時、私の娘が歯が癒やされるように祈ってくださいと言って、イニシャルKという少年が、歯が割れてしまったけれど、祈って寝たら朝には癒やされていたという、聞き捨てならない話をしていました。それで私は、先週調査させてもらいました。
 少年Kに起こった奇蹟について聞いてきました。少年Kは高校生です。歯が割れて、一方の歯が飛び出し刺さって、苦しんでいたというのです。それが金曜日の夜で、土・日は歯医者には行けず、月曜日から旅行に行く事になっていたそうです。それで困ったそうです。

 割れた歯が治るなんて、普通は奇跡やいやしの問題ではなく、歯医者の問題だと絶対に思います。私も近頃、年金をはたいて、一本インプラントにしたのです。歯が治るなんていう信仰は、私には全くありません。そんなもん治らないでしょ!割れた皿が元に戻るなんて、あり得ん。「主よ割れた皿を直してください」と祈っても、皿が元どおりに戻ることはない!と思っていました。
 しかし、なんでも祈ってみることですね。その少年、期待はしていなかったらしいですが、「主よ、どうか、旅行に行かなければならないので、癒やしてください。」と祈ったそうです。祈っても、十一時くらいまで、歯が痛くて眠れなかったそうです。

 でも、朝起きたらですよ。あれ?割れた歯が全部つながり、元に戻って、治っていたというのです。私は信じられなかったから、写真を送ってくれと頼みました。
 そうしたら、割れていた歯の写真はないというのです。治るとは思わなかったからですね。それで、彼が昨日送ってきた写真がこれです。

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 全く、つるっとした歯になっちゃいました。壊れていた歯が、治ったのです。
 なぜ、少年Kに奇跡が起こったのでしょうか。彼は、癒やされてもあまり嬉しそうな顔はしてなかったというのです。「あ、治った。」といいながら、起きてきたそうです。
 しかしこれは、一つの希望じゃないですか。歯なんて絶対に治りっこない!と思うのが、祈ってみるものですね。これが霊的戦いと共にあったかどうかは分かりませんが、彼が抱えていた問題としては、切実な問題でした。あんまり期待しないけど祈ってみた、と言うのです。
 聖書にあるように、『重荷は神様におゆだねしなさい。 神様が背負ってくださいます。 信じて従って来る者が足をすべらせたり、倒れたりするのを、神様が黙って見ておられるはずがありません。』
 この言葉って本当だってことを教えられました。
 少年K、この中にいると思いますから、探し出して、聞いていただきたいと思います。どんなことだって主に期待して、問題の背後に霊的な問題があることを知って、立ち向かう!ポジションに立つ時に、大きな勝利が訪れると信じます。
 「彼らに主の名をほめたたえさせよ!」とありますから、レビヤタンを打ち負かすだけでなく、彼らに主の名をほめたたえさせる!勝利を今週は見たいと心から願っています。

 最後にみなさんと共に、祈って終わりたいと思います。重荷があってもあきらめないで、このみことばを、自分のみ言葉として受け取っていただきたいと思います。一言お祈りして、そして聖餐式にさせていただきます。

 ハレルヤ。天の父なる神様。御名をあがめて心から感謝を致します。『あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。』という、み言葉を感謝します。私たちは、悪魔に立ち向かうポジションで、このみ言葉を受け取ります。今、様々な問題で苦しんでいる方々がおられても、私たちはあきらめません。
 あなたに問題をすべて丸投げします!あなたの衣にその問題も縫い付けます。主よ、勝利を与えてください。そして悪魔に立ち向かうポジションで、主に従っていきます。
 少年Kで起こしてくださったような信じられない奇跡を、今日はすべての兄弟姉妹に起こしてください。み言葉と聖霊によって、聖餐式を行います。主の衣に触れることができますように。尊いイエス様の御名を通して、祈りを御前にお捧げいたします。アーメン。