「へりくだる者には恵みを授ける」

2017年10月8(日)
新城教会牧師 上條実
箴言3章33節~35節

『悪者の家には、主ののろいがある。正しい人の住まいは、主が祝福される。あざける者を主はあざけり、へりくだる者には恵みを授ける。知恵のある者は誉れを受け継ぎ、愚かな者は恥を得る。』

 ハレルヤ!主の聖なる名前を心から賛美致します。先週は朝グッと冷え込み、秋が深まったなぁと感じる気温でした。しかし今日はまた暖かい日となり、体調を崩しやすい時期になっております。お互いの健康が守られるようにお祈りしていきたいと思います。

 今日滝元順牧師夫妻はハワイの教会に招かれて「霊的戦いセミナー」を行っています。是非覚えてお祈り下さい。また滝元開先生を始めざわめきの皆さんは東京都練馬区にあります「大泉セントラルチャペル」という所にお招きを頂いてご奉仕をしております。その教会の牧師先生はリバイバル聖書神学校を卒業された方が牧会されておられる教会です。良き奉仕が出来ますようにお祈り下さい。
 
さてそれでは今お読み頂いた箴言三章三十三節から三十五節のみ言葉から、「へりくだる者には恵みを授ける」というタイトルで学んでいきたいと思います。私は今、旧約聖書を通読しているのですが、先週神様から鮮やかに教えて頂いたみ言葉があります。それは、エゼキエル書三十六章二十節から二十三節のみ言葉です。

『彼らは、その行く先の国々に行っても、わたしの聖なる名を汚した。人々は彼らについて、『この人々は主の民であるのに、主の国から出されたのだ。』と言ったのだ。わたしは、イスラエルの家がその行った諸国の民の間で汚したわたしの聖なる名を惜しんだ。それゆえ、イスラエルの家に言え。神である主はこう仰せられる。イスラエルの家よ。わたしが事を行なうのは、あなたがたのためではなく、あなたがたが行った諸国の民の間であなたがたが汚した、わたしの聖なる名のためである。わたしは、諸国の民の間で汚され、あなたがたが彼らの間で汚したわたしの偉大な名の聖なることを示す。わたしが彼らの目の前であなたがたのうちにわたしの聖なることを示すとき、諸国の民は、わたしが主であることを知ろう。――神である主の御告げ。――』

 特にこの所で「聖なる名」ということがあります。その「聖なる名を汚した。」とあります。この所をリビングバイブルで読みますと、この「聖なる名を汚した。」という所が、「わたしの聖なる名に泥を塗った。」という表現で書かれています。この箇所を読んだとき、自分はどうだろう?新城教会はどうなんだろう?と神様との関係を深く考えさせられました。もし「わたしの聖なる名に泥を塗った。」ということをしてしまっているならば、本当に申し訳ないこと。と言うことで祈りの中でゆっくり自分を見つめ直すときが与えられました。
 私たちは今の仕事、経済、地位、家族、健康などは、すべて神がすべて与えてくださっています。しかし知らない間に、自己中心的な、自我が出てしまい、いかにも、「自分が今の地位を築いた」「自分が頑張ったから」と高ぶった思いがあるのではと思います。今日この新城市の中心部では地域の偶像礼拝、祭礼が行われています。私たちはこの地域のために、家族のために祈っていますが、まだいっこうとして、福音宣教が進んでいない。この地域が福音化されることを求めているが、山車や御輿を担いで、人が変わった様で祭りに参加している姿を見る時、主の聖名に泥が塗られている。神の聖名が汚されていると思います。先週金曜日のお昼頃、新城の街中を車で走るときがありました。ある交差点で信号待ちをした時、すぐ横に祭礼の詰所がありました。そこに青年団の人たちが、今から祭りが始まると言う事で、大声で叫びながら、大きなカップを持ってみんなに酒を注ぎ、一気飲みしていました。一気で飲み干す人もいれば、飲めない人には、皆がはやし立てて、飲め飲めとあおり、必死に飲んでいました。誰か急性アルコール中毒で倒れるんじゃないかと心配したほどです。その姿を見てものすごく哀れに見えました。そしてその場所で地域の人々の為に祈りました。この街を祝福してください、この街を癒やして下さいと祈りました。そのような場面に出会うと、この街を癒やしてくださいと真剣に求め祈ります。
しかし毎日祈るわけではなく、日々の祈りでは自分の問題、病など自分中心の祈り。日本や地域のためには祈らないときが多くあります。自分に問題があるとそれで心一杯になり、自己中心的な祈りになってしまいます。神が私たちを守り、助け、必ず答えて下さるとみことばにあるにも関わらず、心配してしまいます。そして自分の力でどうにかしなくてはと、もがき苦しみ、自分の思いで自分の考えで行動してしまいます。そういうことが主の名を汚してしまっているのではないかということをすごく思います。

 さきほどのエゼキエル書の三十六章二十節から二十一節をリビングバイブルを読んでみましょう。

『だが、国々の間に散らされた時、彼らはまたも、わたしの聖なる名に泥を塗った。行った先の国々で、『この連中は神の国民だというが、その神が、どうして彼らを災いから守ることができないのだ』とあざけられているからだ。彼らのせいで、わたしの評判が世界的に落ちていることを、わたしは気にしている。』

 地域の人たちにキリスト教だと言うと、「キリストね。」と何か見下すように言われるときがあります。神社費のことで支払いを断ると「キリスト教は地域の交わりも出来ないのか?」とか、すごく偏見で見られ、西洋の神を信じている特殊な人間に見られる時があります。「彼らのせいで、わたしの評判が世界的に落ちていることを、わたしは気にしている。」とありますが、まだまだ先にイエスキリストを信じた者として、更に地域をとりなし、全ての人々が「イエスキリストこそ主です」と告白する様に真剣に戦って、祈る必要があると思います。「クリスチャンなのにそんなことやっていいの?」と言われることもあります。また家族に、「牧師なのに」と言われることもあります。クリスチャンでありながら自己中心的な生活、祈り、信仰を送ってしまっています。自分ではこのぐらい信仰生活をしていれば大丈夫と判断してしまっています。神はどのように判断されているだろうと思います。自分で天のみ国に入ることはできません。しかし私たちは神によって生かされており、神の基準で、神が判断する事です。

 マタイ十五章二十八節にこんな言葉があります。

『そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。』

とあります。これはどういう時かというと、これはカナンの女に対してイエス様が語ったことばです。マタイ十五章二十二節から二十七節、

『すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。そこで、弟子たちはみもとに来て、「あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです。」と言ってイエスに願った。しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。」と言われた。しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください。」と言った。すると、イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」と言われた。しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」』

 カナン人の女の娘が、ひどく悪霊に取りつかれていました。そのためイエス様に解放して頂きたい一心で、必死に頼んだのです。しかしカナン人であったため、イエスは「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。」とその願いを突っぱねたのです。それでもその女はイエスの前にまで来て「主よ。私をお助けください。」と懇願しました。しかし屈辱的なことば「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」を言いました。しかしその女は引き下がらず、「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」と自分が卑しい犬。それも更に卑しい子犬でも、主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。と言いました。
 するとイエス様はそのカナン人の信仰を賞賛し、「あなたの信仰はりっぱです。」と言い、その女の子どもは解放されました。私たちはイエス様に「あなたの信仰は立派です」と言われるでしょうか?私たちは真剣に魂を愛し、特に自分のことであれば、精一杯に真剣に願い戦って祈りますが、全く関係のない人には、ここまでの必死さ、信仰、愛があるでしょうか?もしかしたら主の聖名を泥で塗ってしまっていないでしょうか?

 毎週日曜日礼拝に出席している。献金をしている。そして祈っている。周りの人にも自分はクリスチャンだと言っている。これでたぶん天国に行けるだろうと判断していませんか?しかし、私たちは、神が評判されます。もし神を傷つけ、泥を塗ってしまっているところがあるならば改めなくてはなりません。イエス様にカナンの女のように「あなたの信仰は立派です」といわれるでしょうか?
 クリスチャンだと言いながら、高慢になり、自分の力で勝ち取ったと誤解していないでしょうか?もう一度点検し、深くへりくだる必要があります。

 私たちは、イエス様の十字架によって救われました。詩篇三十二篇五節にこういうみ言葉があります。

『私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。』

イエス様が私のために十字架にかかり、葬られ、三日目によみがえられた。そして、イエス・キリストが十字架で流して下さった血潮によって、私たちの罪は赦されると聖書にあります。まず私たちが、クリスチャンとなるために何をしたかというと、罪に対しての悔い改めです。
自分を吟味し、自分が犯してきた罪を、主の前に告白したとき、罪は赦さるとあります。そうです。私たちがクリスチャンとなる時、まず最初にしたことは、イエス・キリストを認め、イエス様に悔い改めたのです。罪を持ち続けていればさばきにあう。そのことを理解し、救って頂くために、神の前にへりくだって、「この罪を赦してください、あなたの十字架を信じます。」と、私たちは信じる祈りをささげたのです。恵み。すばらしい恵みをいただいたわけですが、その恵みを軽く考えてしまい、知らない間に高ぶってしまっているところがあると思います。

 話は少し変わりますが、十月二十二日衆議院選挙の投票日です。ぜひ日本のために祈って下さい。政治の中に神のみ手が伸ばされるように。また新城市ではその次の日曜日、十月二十九日には新城市長とか市会議員を選ぶ選挙があります。新城市のためにも祈って下さい。
 今テレビなどを見ると、国会議員など政治家が様々なスキャンダルを起こし、そのことが報道されています。そして記者会見や国会答弁などで釈明している時があります。普通報道等を見聞きして、誰から見てもこの件は黒、もしくはグレーだと分かる時が多くあります。しかし多くはやっていない、知らない、覚えがないなど、見え見えの嘘をついて、自分の立場を守ろうとしています。素直に悔い改める人はほとんどいません。みなさんの中にも様々な思いがあるかもしれませんが、いとも簡単に、自分を保身するために嘘をつく。そして新たな証拠が出てきてと、けなし合いと時間の無駄遣いをしています。それを国民が関心を持って見ています。大人から小さな子どもたちにいたるまで見ています。そしてそこで、都合が悪ければ嘘をつく事を学び、また次の世代が同じ事をします。「許してください。」と、上に立つ人たちがへりくだって、素直に悔い改めたら好感度がアップするんじゃないか?とさえ思ってしまいます。

 また、選挙に立候補する時は、深々と頭を下げ、「よろしくお願いします。」と言います。しかしいざ自分が当選したら、その地位を誇り、偉そうな態度を取る方もいます。もっと日本の上に立つ人のために祈らなくてはいけません。政治を批判することは簡単ですが、清い政治が出来るように。また主が今この日本に望んでおられる政治をする。主を中心とした政治が出来るように祈らなくてはなりません。私たちはあの人が悪いと指を指すことは良くします。よく言われるのですが、あの人が悪い!と人を指す時人差し指は相手に向けます。しかし、中指・薬指・小指は自分の方向を見ています。そして親指は中指の上に乗っかっています。あの人と指をさすが、指三本「おまえはどうだ?」と自分を指している。そしてその自分を指す三本の上神がへりくだりなさいと押さえていると言われます。神は、人のことを言うより、自分を吟味し、へりくだれと言っています。今回の選挙も神のみ手があるように祈りましょう。選挙事務所には神棚が祭られ、悪しき力に対して心を開き、選挙を戦います。是非選挙・政治の中に悪しき力が働かないように祈りましょう。そして謙遜を身につけましょう。

 聖書の中で謙遜ということを絵に描いたような人物がいます。それは民数記十二章三節

『さて、モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。』

と書いてあります。出エジプトを導いた指導者モーセです。民数記十一章二十一節に、

『しかしモーセは申し上げた。「私といっしょにいる民は徒歩の男子だけで六十万です。しかもあなたは、彼らに肉を与え、一月の間食べさせる、と言われます。』

とありますが、徒歩の男子だけ六十万、女性、子どもなど合わせると二百万人くらいではないかと言う人もいます。そんな多くの人たちを導いたモーセです。彼は常に神の声を聞いて判断した男でした。だからこそ神がモーセは、地上の誰よりも勝って謙遜だと賞賛しました。

 この新城教会の創設者である滝元明牧師が二年前の八月に亡くなりました。

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 滝元明牧師は一九九三年十一月にあの阪神甲子園球場にて開催された今世紀最大の集会である「全日本リバイバル甲子園ミッション」のメイン講師でした。

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 グランドに大きな十字架の舞台を設置し、この十字架の手前の白い服を着た人たちはステージのクワイヤーの皆さん。そして前に講壇がありメッセージや賛美がなされていました。三日間で十二万四千人ほどの方々が集い、本当にすばらしい第伝道集会を持つことが出来ました。

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 そして、決心者を招いた時に、舞台となった十字架に多くの方々が上がって祝福の祈りを受けました。滝元明牧師は三日間、そのメイン講師として、メッセージを語りました。

みなさんは滝元明牧師に対してどんな印象、思い出をお持ちでしょうか?私の印象はとにかく「単純」でした。イエス様から教えられたことはそのまま信仰生活に受け入れて行く信仰に対して単純でした。あの全日本リバイバル甲子園ミッションも、一麦西宮教会の牧師である下條末紀子先生が、「私が伝道牧会している町、西宮市には高校野球で有名な甲子園球場がある。あの球場で、日本人の手によって、日本人の講師によって伝道集会をしたいと、ある集会でお証しました。そのことばを受けて、自分も日本人だ。日本の滅び行く人々の救いのために、私を使って下さいと立ち上がって始まった集会でした。祈って、何が必要か、どれだけ費用がかかるのかなどは、イエス様が全て備えて下さる。信仰を持って行こうと考えて始まった大伝道集会でした。とにかくイエス様に対して単純でした。

そしてもう一つは「謙遜」でした。へりくだった人でした。甲子園球場での大集会を始め、東京や様々な都市で行われた集会の為に、全国の教会に依頼して決起大会を開催しました。賛美チームと共に音響機材を持参して、荷物を運ぶワゴン車に乗って出かけました。普通、先に賛美チームが音響機材を、会場となる教会に数時間前に到着し、音響機材を搬入し、セッティングをし、また会場を整え、リハーサルをして、集会に望んでいました。メッセンジャーは、集会直前まで特別な仕事はありません。しかし滝元明牧師は、いつも機材車に乗って出かけました。年になっても荷物車で移動し、一緒に荷物を搬入し、会場のイスを並べたりしていました。そして全力でメッセージをして、集会が終了してから片付けも手伝い、遠い道のりを一緒に新城まで帰ってきていました。賛美チームは運転手以外みんな寝ていましたが、彼は運転手の為にいつも到着するまで起きていて、運転手に話しかけていました。私も時々一緒に出かけましたが、夜到着したときは、疲れてしまい、次の日に疲れを引きずっていたことを思い出します。滝元明牧師は普通だったら、もっと楽にして移動すればと思うのですが、尊い献金で行っている働きだからと、へりくだっていつもスタッフと一緒だったのです。今日のみ言葉、箴言三十三章三十四節に、

『へりくだる者には恵みを授ける。』

とありますが、彼がへりくだっていたから、神からの祝福をみ頂いていたんだと、みことばをそのまま実行するとき、確かに神はそのみことばを成就して下さると、彼の生活を見て教えられました。しかし自分はどうかというと、知らない間に主を忘れ、自分の力を過信し、自分中心の生活を送ってしまう時があります。

 今、この新城地区の祭礼では、朝六時に花火が上がり、なんでこんな朝早くに、花火をあげるんだと憤りを覚えます。祭りの予定表を見ますと、「号砲」と書いてありました。今から始まるという合図だそうですが、そんなことをしなくても、みんな分かっていると思います。朝早くあげられると、うるさいと憤りを覚えます。町中では爆竹を鳴らし、酒を飲み、偶像礼拝をしているのを見ると、同時に哀れさを思います。第二歴代誌七章十三節から十四節には、

『もし、わたしが天を閉ざしたため雨が降らなくなった場合、また、いなごに命じてこの地を食い尽くさせた場合、また、もし、わたしの民に対して疫病を送った場合、わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。』

とあります。ここでこの地をいやすために、「わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり」とあります。私の名を呼び求めているわたしの民とは、私たちクリスチャンの事です。そのクリスチャンがみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。とあります。まずはへりくだることです。それが主の第一条件だと言います。へりくだって、祈り、主を仰ぎ見て悔い改めるなら、この地をいやして下さるとあります。まずはへりくだれと言っています。

 私たちは主から霊的戦いを教えられ、霊的戦いの祈りをささげます。しかし高ぶったままで私たちが祈っても全く意味のない事。いや逆にイエス様の顔に泥を塗っているようなものだと教えられます。エペソ五章一節には

『ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。』

とあります。私たちクリスチャンは神にならう者となりなさいとあります。イエス・キリストのみことばに従う者にならなくてはいけません。そのイエスキリストは、わたし、またあなたのために、ピリピ二章六節から八節

『キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。』
 
 神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないでとあります。わたし、またあなたのために自分を無にして、この地上に来てくださった。そして主は更にへりくだって下さり、わたしの罪のために身代わりとなって、死刑台である十字架にかかってくださいました。そしてマタイ二十七章四十六節、

『三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。』

 イエスはわたしのために、あなたのために、苦しんで下さり、苦しみの叫びをあげました。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」とわたしのために、あなたのために苦しみ、見捨てられたのです。またマタイ八章二十節には、

『すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」』

これをリビングバイブルで読むと、

『しかし、イエスは言われました。「きつねにも穴があり、鳥にも巣があります。しかし、メシヤ(救い主)のわたしには自分の家はおろか、横になる所もありません。」』

とあります。自分は財産もない。家も寝るところもないと語っています。私たちはどうにかして快適な暮らしをしたいと考え、努力します。自分の欲のために働き、暮らしの自慢のために努力します。しかしイエス様は、私のために、一人一人のために、イエス・キリストはもうなんにも持っていない、自分は寝るところがない、そんな状況の中で、私たちのために過ごしてくださった方です。第一ヨハネ二章一五節から一六節

『世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。』

 イエス様は世にあるあるもの、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢とは全く関係のない生活を送られてきました。

 教会の土台はイエス・キリストです。そのイエスキリストにならう者となりなさいとエペソ五章一節にあります。ということは教会の土台はへりくだりだと言うこともできます。イエス・キリストは偽りや罪のない方でした。そしてへりくだった方でした。私たちはイエスキリストにならう者となりましょう。
 しかし私たちは高ぶり、私は特にそうですが、人から欠点や間違いを指摘されると、素直に謝れません。それどころか怒ってしまったり、言い訳をしたりしてしまいます。

またルカ十八章九節から十四節

『自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」』

 私たちは見かけで人を判断してしまいます。見かけで人を低く見てしまいます。第一サムエル一六章七節

『しかし主はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。』

 人はうわべを見るが、主は心を見るとあります。今日私たちはうわべを見ずに、へりくだり、心を見られる神を愛していきましょう。ピリピ二章三節には、

『何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。』

 神にならう者になりなさい。へりくだってすべての人を自分よりもすぐれた者と思いなさいとも教えています。またヤコブ四章六節、

『神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。』

とあります。「へりくだる者に恵みをお授けになる。」このヤコブの四章六節、その後の七節には何が書いてあるか、みなさんご存じですか?この七節にはこのように書かれています。

『ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。』

とあります。六節にへりくだれとあります。そして七節悪魔に立ち向かえ。戦え。そうしたら悪魔は逃げ去ります。ということは霊的戦いの前にへりくだることを教えています。いかにも自分が勝ち取ったような間違えをしてはいけません。またなにか新城教会が特別に選ばれたと言うのでもありません。霊的戦いは聖書が教えていることです。神様が私たち新城教会に与えてくださった一つの賜物だと思います。しかし霊的戦いを知らない教会、牧師などを裁いてしまうことがあります。まず私たちはへりくだることです。そして悪魔に立ち向かいなさいとあるように、戦いましょう。へりくだる者に恵みをお授けになる。へりくだって戦うとき勝利を頂く事ができます。

 私は先週、このメッセージをしようと教えられた次の日、いつも継続して読んでいる聖書箇所ダニエル書十章を開いて読み始めました。そして十二節まで来たときに

『彼は私に言った。「恐れるな。ダニエル。あなたが心を定めて悟ろうとし、あなたの神の前でへりくだろうと決めたその初めの日から、あなたのことばは聞かれているからだ。私が来たのは、あなたのことばのためだ。』

 主がこのみことばを与えて下さいました。

「あなたが心を定めて悟ろうとし、あなたの神の前でへりくだろうと決めたその初めの日から、あなたのことばは聞かれているからだ。」

ダニエル書の十章十二節を読んだ時に、確かに今週この私に、この教会に語りなさいと言われたみことばだと思いました。

今日もこの後、聖餐式を行うわけですが、十字架を覚えて、へりくだって、へりくだって、聖餐をいただきたいと思います。へりくだろうと決めたその初めの日から、あなたのことばは聞かれている。へりくだったとき祈りは聞かれます。今年霊的戦いを主が教えて下さり、戦い始めて二十五年間になると昨年のカウントダウンの聖会で語らせて頂きました。来年の今ごろ、男の子を与えると語られて、今年始めました。今年は祝福の年。「二〇一七年あなたは良いもので満たされますと毎週メッセージを聞いています。しかし問題は解決しない。扉が開かれない様に見えます。今日「あなたが心を定めて悟ろうとし、あなたの神の前でへりくだろうと決めたその初めの日から、あなたのことばは聞かれているからだ。」とありますから、今日イエス様を信じてへりくだりましょう。第二歴代誌七章十四節(リビングバイブル)、

『もし、わたしの国民が、謙そんになって祈り、悪い道から離れてわたしに立ち返るなら、天からその祈りを聞き、彼らの罪を赦し、この地を元どおりにしよう。』

 この地を天地創造の時に、元通りにして頂きましょう。人々も救いを受け、すべての被造物も主を賛美する様に変えて頂きましょう。十字架にかかって葬られて、三日目によみがえってくださったイエスキリストを信じましょう。

 へりくだると言っても、身を低くして、口先だけでへりくだる事がないようにしましょう。へりくだるということは神にならうことです。聖さです。神に従うことです。へりくだって、へりくだって、へりくだって、その上で私たちが祈ること、戦う時圧倒的な勝利を頂く事ができると信じます。今、主の前に静まりましょう。神があなたの心の扉をノックしていると思います。今日、神の声を聞きたいと思います。そして神にならう者として頂きましょう。へりくだって主の前に出て行きたいと思います。一言お祈りします。

 愛する天の父なる神さま、今私に触れてください。お一人お一人に触れてください。心の扉をノックしてください。へりくだらせてください。悔い改めなければいけない罪があるならば示して下さい。まだしっかりと断ち切られていない罪があったならば、それを今日悔い改めることができますように。まずは自分がへりくだって、悔い改める時を持たせてください。その為にも、聖餐式を豊かに祝福してください。聖霊様、この聖餐式にのぞんで下さい。一人一人に触れてください。イエス様の聖なる名によってお祈りします。アーメン。