「2017年あなたは良いもので満たされます! パート29
 〜最大の恐れから最高の喜びに〜」

2017年12月3(日)
新城教会主任牧師 滝元順
ルカの福音書2章8節〜11節

『さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。』

ハレルヤ!おはようございます。ついに十二月となりました。クリスマスの季節になりました。クリスマス。巷ではX’masなんて呼びますから、Xは未知数ですから、何を祝っているのか分からないですが、Xはキリストの頭文字で、クリスマスはイエス様の誕生日です。決してサンタクロースの誕生日ではありません。

私は毎年、クリスマスに疑問に感じることがあります。それは、クリスマスになると、いつも赤ちゃんのイエス様が出て来ることです。
どうでしょうか。みなさんの誕生会に、毎回、産まれた時の裸の写真を持って来て、「あんたは生まれた時、こんなだったよ。」と見せられたら、あまり良い気分ではないと思います。「今の俺を見てくれ!」と言うはずです。
イエス様も同じです。毎年出て来るイエス様は、赤ちゃんのイエス様であったり、十字架上のむごたらしいイエス様のどちらかです。しかし、イエス様は死を打ち破ってよみがえられたお方です。今年は墓からよみがえられたイエス様を、心から礼拝するクリスマスにしたいと願います。
もちろんイエス様がお生まれになられたことは強調しますが、よみがえって、今も共におられる、イエス様を伝えたいです。
クリスマス集会、今週から始まります。大変良い機会です。教会に来られたことがない方をお連れしていただけたら幸いです。

今日、新城教会ニュースをお届けしましたが、いつも教会ニュースの巻頭言を依頼されるのですが、何を書いていいのか迷います。教会ニュースは、五万部くらい配られています。新城、豊川、豊橋の一部に、新聞折込で入っています。結構、多くの方が読んでくださっています。
もう、何号になりますでしょうか。三十年以上やっています。以前、第一号からずっとファイリングして大切にしてくださっている方とお会いしましたが、結構、読んでくださっています。新聞広告って、安売りのチラシとかが多くて、読み物は少ないですから、案外、読んでくださるのです。
今回は、「クリスマスの日には叫ぼう」というタイトルの記事を書かせていただきました。祈っていただきたいのですが、記事を読んだ方々が、ここに述べられていることを実行するよう、是非とも祈っていただきたいのです。ちょっと長いですが、読ませていただきます。


「クリスマスの日には叫ぼう!!」

詩篇一四八篇
ハレルヤ。天において主をほめたたえよ。いと高き所で主をほめたたえよ。
主をほめたたえよ。すべての御使いよ。主をほめたたえよ。主の万軍よ。
主をほめたたえよ。日よ。月よ。主をほめたたえよ。すべての輝く星よ。
主をほめたたえよ。天の天よ。天の上にある水よ。
彼らに主の名をほめたたえさせよ。主が命じて、彼らが造られた。
主は彼らを、世々限りなく立てられた。主は過ぎ去ることのない定めを置かれた。
地において主をほめたたえよ。海の巨獣よ。すべての淵よ。
火よ。雹よ。雪よ。煙よ。みことばを行うあらしよ。
山々よ。すべての丘よ。実のなる木よ。すべての杉よ。
獣よ。すべての家畜よ。はうものよ。翼のある鳥よ。
地の王たちよ。すべての国民よ。君主たちよ。地のすべてのさばきづかさよ。
若い男よ。若い女よ。年老いた者と幼い者よ。
彼らに主の名をほめたたえさせよ。主の御名だけがあがめられ、その威光は地と天の上にあるからだ。
主は、その民の角を上げられた。主のすべての聖徒たち、主の近くにいる民、イスラエルの子らの賛美を。ハレルヤ

クリスマスの季節になると、毎年、ちまたにはイエス•キリストをほめ賛える賛美歌が流れます。聖書の中で「賛美歌」の意味について述べているのは、上記に掲げた旧約聖書の中にある有名な詩です。
それを読むと、大きく二つの部分に分かれているのがわかります。それは「天において」と「地において」の賛美です。
この中で作者は読み手に対し、『彼らに主の名をほめたたえさせよ。』と、二度にわたって命じています。この箇所より、人類がどのような役割として、神により創造されたのかがわかります。それは、あなたと私の役割でもあります。私たちは、すべての被造物に対して「主の名をほめたたえさせる」役割なのです。

クリスマスに必ず登場する天使たち。それは目に見えない存在ですが、あなたの人生と、深い深い関係があります。あなたが天使たちに対して、「イエス・キリストをほめたたえなさい!」と命じると、彼らは歓声をあげます。

次に天に向かい、『日よ。月よ。主をほめたたえよ。すべての輝く星よ。主をほめたたえよ。』と命じると、宇宙の隅々にまで、賛美の振動が響き渡ります。

続いて、『地において主をほめたたえよ。』と述べられています。地に存在する、人間以外のすべての植物、鳥たち、魚たち、動物たち、微生物にまで、「イエス・キリストを賛美しなさい!」と命じると、この地は彼らの歌声で満たされます。
オーケストラは指揮者によって調和し、美しいハーモニーを奏でます。自然界オーケストラの指揮者は、あなたであり、私です。そして、聴衆はクリスマスにお生まれになった「イエス・キリストさま」です。

聖書は、『地の王たちよ。すべての国民よ。君主たちよ。地のすべてのさばきづかさよ。若い男よ。若い女よ。年老いた者と幼い者よ。』と全人類が賛美の輪に加わるように勧めています。
クリスマスに向けて、街まちで合唱団が、年代を超えて募集されるのも、その為です。

さて、詩篇一四八編にはたいへん興味深い記述があります。それは、『地において主をほめたたえよ。海の巨獣よ。』と命じられている事です。海の巨獣とは一体なんでしょうか。詩篇七四篇には、『あなたは、御力をもって海を分け、海の巨獣の頭を砕かれました。あなたは、レビヤタンの頭を打ち砕き、荒野の民のえじきとされました。』とあります。
海の巨獣は「竜」とも呼ばれ、「レビヤタン」とも呼ばれる人類の敵である「サタン」です。人類には本来、究極の敵であるサタンに対しても、主を賛美するように命じる権限が与えられているのです。

新約聖書に、イエスさまがゲラサという街に行かれた時、レギオンと呼ばれる悪霊どもに完全支配された男が、地にひれ伏し「主を拝した」とレポートされています。
有名なクリスマスソングに「諸人こぞりて」という曲があります。二番の歌詞はイエス・キリスト誕生の意味を歌っています。

二. 悪魔のひとやを うちくだきて
 とりこをはなつと 主は来ませり
 主はきませり 主は 主は きませり

「ひとや」とは人屋、「牢獄」を意味します。あなたも私も、イエスさまの誕生によって、悪魔の牢獄から解放され、天使たちにも、宇宙にも、植物にも、動物たちにも、さらには、人類の究極的な敵であるサタンに対しても、「主をほめたたえなさい!!」と命じることができるのです。


クリスマス、それは、あなたがすべての被造物に対して「イエス・キリストを、ほめたたえよ!!」と宣言する日なのです。
クリスマスの日、是非とも、試してみてください。あなたの人生に不思議なことが「必ず」起こります!!

『主の御名だけがあがめられ、その威光は地と天の上にあるからだ。 詩篇一四八編』

■クリスマスの日、できれば外に出て、次のように叫んで見て下さい。

「天使たちよ。主をほめたたえよ!」
「日よ、月よ、星々よ、主をほめたたえよ!」
「すべての自然界よ、鳥も、魚も、動物たちも、主を賛美しなさい!」
「海の巨獣よ!主を賛美せよ!」
「私も主を賛美します。ハレルヤ!!」


東三河の方々は良い方ばかりで、これを実行される人も必ずいると信じます。「試しにやってみようかな・・・。」というのが、日本人には多いと思いますから、聖書のみことばを宣言したら、何かが起こるはずです。私はちょっと策略的に、このような文章を書かせていただきました。
イエス様を信じていなくても、宣言にはみ言葉の成就が伴うはずです。是非、読む方々が感動を覚え、実際に試して、何かが起こるように、新しいことが地域に始まるように、祈っていただきたいです。
またみなさんも、試してください。きっと、すばらしいことが起こるに違いないです。

今日ご一緒に学びたい箇所は、クリスマスの箇所ですが、タイトルとしては、「二〇一七年、あなたは良いもので満たされます! パート二九」
どうでしょうか。良いもので満たされているでしょうか。副題として、「〜最大の恐れから最高の喜びに〜」というタイトルでお話をさせていただきます。クリスマスには、恐れから解放されて、最大の喜びに入れられるというテーマがあります。

イエス様の誕生の知らせは、最初、誰に届いたのかというと、ルカの二章八節にこのように記されています。

『さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。』

「羊飼いたち」は、ユダヤ人ではありませんでした。異邦人たちで、その地域の低所得層、社会的ポジションもなく、将来も保障されていない、ある意味、最も大きな恐れに支配されていた人たちでした。

イスラエルに行きますと、羊飼いたちが住んでいた場所が、どのような場所であるかが分かります。『この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。』というのは、ユダの荒野と呼ばれる、荒涼とした地域でした。彼らは遊牧民たちでした。

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手前のほうに街が見えます。彼らは街には入ることが出来ず、荒野に野宿をしていました。彼らに救い主誕生の知らせが、最初に届いたのです。ここから私たちの神様が、どういうお方であるのかよく分かります。
この人達はベドウィンと呼ばれる、遊牧民たちです。遊牧民は、一カ所に定住するのではなく、羊や山羊を連れ、牧草を求めて広い荒野を旅する人たちです。イスラエルでこういう人たちを、今日でも、よく見かけます。彼らは、らくだも持っています。家もなく、街に住むことはありません。

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今でも、ユダヤ人地区は塀で囲まれています。塀の外には、パレスチナ人たちが住んでいます。最初に救い主が誕生した知らせは、街から放り出され、なんの保障もない、先行き不安な人々に届いたのです。
彼らに突然、主の栄光が照らしたのです。「彼らはひどく恐れた」と記録されていますが当然です。「ひどく」という言葉は、ギリシャ語では「メガス」といいます。時々、「メガバーガー」とかありますが、三河弁では「どでかい」という意味です。本当にびっくりしたわけです。普段の生活のただ中に、主の栄光が現されたのです。
しかしその時、御使いたちは賛美と共に、何を告げたのかというと、

『恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。』

「すばらしい」という言葉も、「メガス」が使われています。「ひどく恐れた」と「すばらしい喜び」が対比されています。どでかい恐れから、どでかい喜びに変えてあげます!というのが、クリスマスのテーマです。
もしも、先行きに不安があると言われる方は、クリスマスは恐れを取り除き、大きな喜びに代えていただけるチャンスです。
イエス様が地上に来てくださったのは、恐れの中に沈んでいる人たちを助けるためです。

「恐れ」という意味を広辞苑で引いてみますと、「良くないことが起こるのではないかという心配」となっていましたが、少なからず、私たちには将来に対する不安と恐れがあります。
先週もある家庭集会に行きましたら、だんだんと歳を取ってくると、友達が死んだとか、病気になったとか、結構、聞くようになると言われていました。
そう言われれば、私もそうだなぁと思います。一昨年、親父が死んで、昨年母が死んで、滝元家は次に誰が死ぬのかなぁと考えると、「あっ!次は俺か!」と、やっぱり不安があります。健康診断でどんな結果が出るのか、不安があると思います。
期待よりも、不安が多い今日この頃です。しかし私たちの主は、不安を取り去って、喜びに変えてくださるお方です。

『恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。』

羊飼いは、「この民全体」の代表者だったわけです。最も先行き不安な人たちを代表として、天使の聖歌隊が賛美し、彼らを励ましたわけです。
聖書に記されている事柄は、「民全体」という前提で、様々なストーリーが展開します。

新約聖書に、最も大きな恐怖を持っていた女性の救いが述べられています。これも民全体の代表者として、述べられていると思います。マルコの福音書五章二十五節〜三十四節を見ますと、十二年間、長血をわずらっていた女の癒やしが記録されています。
クリスチャンの方ならば、この箇所は、すでに読んだことがあると思うのですが、彼女は婦人科の病で、十二年間、血の漏出が止まらず苦しんでいたのです。相当、やせ細って、全く、将来に希望がない女性でした。ちょっと読んでみたいと思います。

『ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と考えていたからである。すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか」と言われた。そこで弟子たちはイエスに言った。「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれがわたしにさわったのか』とおっしゃるのですか。」イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」』

この女性は十二年間に、多くの医者にかかったみたいです。しかし、医者からひどいめにあわされていたのです。精神的にも破滅していたはずです。医者たちから、金をひったくられ、持ち物もなくなり、金も底をついていたことが分かります。
その上、病いは悪くなる一方でした。彼女の目の前に出ていた文字は、日本人ならば、「死」という漢字以外にはなかったと思われます。全く希望がなかったわけです。
しかし、この女性。ある時、噂を聞きました。イエス様という人物が現れて、多くの人たちを癒やしている、もしかすると、旧約聖書で述べられていた救い主、メシアかもしれない、という噂です。すでにイエス様の所には、多くの群衆が集まっていました。彼女はやせ細っていたと思われますから、「ちょっとすいません」と群衆を押し分けて入って行くことはできなかったと思われます。
私の推測では、潜り込める場所を、事前に下見をしたのではないかと思うのです。群衆にうまく紛れ込んで、イエス様の衣をちょっと触ったわけです。
その時、イエス様から力が流れ出て、完全に血の源が枯れて、今までひどい痛みに支配されていたのが、痛みがなくなって、完全に良くなったのです。
イエス様も、自分から力が出て行ったのが分かったので、「誰が触った?誰が触った?」と言われたわけです。弟子たちは、「イエス様、見てください。こんなに大勢の人たちが押し寄せているんですよ。満員電車と同じじゃないですか!」と言ったかどうかはわかりませんが、みんな触っているじゃないか!と言いました。しかし群衆のただ中で、この女性だけは、イエス様に対する関わり方が違ったのです。

群衆たちは、イエス様に物珍しさで近寄ったと思います。しかしこの女性は、「信仰」という二文字で、イエス様に近づき、衣に触れたのです。その時、癒やしが起こったのです。
私たちもイエス様に接近する時、群衆のようではなく、この女性のようでありたいです。群衆は、いくらイエス様の衣に触れても、何も起こりませんでした。しかし、この女性は、信じ、期待して、イエス様の衣に触れたのです。ここからイエス様に向かう態度を教えられます。

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この女性は、十二年間、医者にもかかっていたみたいです。しかし、多くの医者からひどい目に遭わされて、自分の持ち物を使い果たしてしまったと記されています。医療も、注意深く選ばないといけないと思います。けれども、ここで一つ、注意しなければならない点があります。
聖書を読む時、案外、こういう箇所を読むと、即、現代に適用してしまいやすい点です。しかしこれは今から二千年前の話です。「医者たちにひどい目に遭わされた」なんて読むと、「先週行った医者、態度悪かったな・・・」とか、「私はクリスチャンだから、医者に行くのをやめて信仰で行く!イエス様にかける!」と捉える人もいるからです。けれども、このような考え方は極端です。

そもそも医学が発展し続けているのは、医学を用いて神は人に癒やしを与えようとされている証拠です。神が人類の病気の原因や、直し方を教えているわけです。
ところで、二千年前の医者とは、どのような存在だったのでしょうか。それは、現代の医者とは、全く、違った存在だったということも、ちゃんと押さえなくてはいけません。医学史を勉強された方もこの中にはおられると思いますが、医学の原点は、古代エジプトにあると思われます。エジプトで外科手術とかが始まったわけです。その後、ギリシャ時代には、結構、医学は発達しました。イエス様の時代は、次のローマ時代に当たります。

ローマ時代、医者とは、どういう存在であったのかというと、私が調べた所によると、「ローマには医師の資格を定める法律はなかった。医師を職業とする法的な壁はなく、ただ生計を支える手段として、医療行為がなされていた。」とありました。
さらに、「ローマの医療において、最も重要だったのは神頼みであった。古代ローマにおいての神頼みは、立派な医療行為。日本でも、平安時代に加持祈祷によってもののけを退治する医療行為が行われたのと同じ」とありました。
結局、二千年前の医者とは「魔術師」でした。今でも、その名残があります。

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これを知っていますか?近ごろの救急車には、ほとんどこのマークが使われています。これはギリシャ神話の治癒神アスクレピオスを表します。
ギリシャ時代、各病気には、それに対応する神々が決まっていて、アスクレピオスがその頂点でした。
けれどもローマ時代に入ると医療界は混沌とし、医療行為を行っていたのは奴隷たちや、奴隷から解放された貧しい人たちであったと言われます。彼らの医療行為とは、悪霊と結びつけるオカルト行為そのものでした。その目的は金目当てでした。

長血をわずらっていた女が、どうにもならない所まで追い込まれた背景に、「多くの医者たちにひどい目に遭わされた」という記述に鍵があるのではないかと思われます。それは、多くの霊能者、魔術師の所に行った結果として、どうにもならなくなり、持っていた金も使い果たしてしまったと考えられます。
「医者からひどい目に遭わされた」というのを、現代の医療と結びつけないでいただきたいです。「今まで病院に行っていたけれど、信仰によってイエス様の衣をさわるんだ!」と極端に走ってはいけません。神は癒やしの方法を、いくつも持っておられます。まずは自分の身体に備えられた、自然治癒力です。薬も、医学の発展も癒やしの機能です。そして、クリスチャンには超自然的癒やしも備えられています。私たちにはいくつもオプションがあるわけです。
しかし聖書の時代は現代とは違い、医療行為は、ほとんどオカルトしかなかった時代でした。この女性に癒やしが起こった背景に、悪霊に寄り頼んでいたのをやめて、イエス様に頼った所に信仰が表現されているわけです。
悪霊的な力から解放されて、イエス様に向かうことは、癒やしのために最も重要なことと言えます。
しかしこの女性の持っていた信仰は、学ぶべきものが多くあります。現代は、いろんな方法で癒やしに到達できる時代ですが、根幹は信仰でありたいものです。
彼女は、イエス様に触れた時、瞬間的に癒やされたのです。

五章三十四節で、イエス様が、彼女にこう言われました。『娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。』、「娘よ。」と呼びかけておられます。十二年間、出血が止まらなかった女性は、年は若かったかもしれないけれど、娘には見えなかったと思われます。相当しわくちゃで、やせ細って、見かけはひどかったと思われます。
しかしイエス様に癒やしていただいて後、「娘よ。」と呼ばれています。おばちゃんとか、おばあちゃんとは呼ばれていません。瞬間的に姿も回復したのではないでしょうか。娘は娘でありたいです。おばちゃんはおばちゃんでありたいし、おばあちゃんはおばあちゃんでありたいですね。年相応に見られたい、できれば少しは若く見られたいですが、年相応にイエス様は女性を回復されたということです。イエス様の癒やしは、パーフェクトだなぁと感動します。

次にかけられた言葉は、さらにすばらしいです。今まで「死」という文字しかぶらさがっていなかった女に、『安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。』と語りかけられたのです。この女にとっては最高の言葉であったと思われます。現実的に癒やしをもらい、継続して病気にかからず、すこやかにいなさいとは、将来も保証していただいたのです。
私は口語訳聖書の訳が大好きです。マルコ五章三十四節(口語訳)、

『イエスはその女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい」。』

すばらしいじゃないですか。「すっかりなおって、達者でいなさい」って。これがイエス様が女にかけられた言葉でした。この女性は本当に嬉しかったと思います。私たちも一途に信仰を持って、イエス様に近づいていきたいものです。

クリスマスには、このようなどん底の女性が解放され、癒やされるという大きなプレゼントも含んでいるはずです。現代の医療に期待を寄せても、どうにもならない病気も多くあります。イエス様に期待して、イエス様に一途に従っていくことは、現代においても重要です。

先週、すばらしい証しを聞きました。私は八月に韓国に行きました。その時、韓国人の男性と、日本人の女性のカップルがおられて、結婚して間もないのに、奥さんには子宮にコブがあって、もしかしたら、子宮を切除しなければならないので祈って下さいと言われました。「新城教会で以前、そのような病の癒やしが起こったと聞いていますから、祈ってください。」と言われました。「はい、わかりました!」と答えたものの、多分、無理だろうな・・・と思いながら、祈らせていただきました。
それで終わりかと思ったら、「病気の方の為に、とりなしの祈りに行きます!」と言うのです。韓国は祖先崇拝が強いから、「祖先崇拝によって働いている悪霊を打ち破る祈りをするために、家系の根源に行ってとりなします。祈ってください!」と言われました。「はい、わかりました。」と答えたのですが、治らなかったらまずいな・・・と、正直思いました。特に、チェ先生の奧さんが、その方の為に重荷を持って悪霊とのつながりが断ち切られるように祈りました。
韓国にはムダンと呼ばれる霊能者が多いです。そこで先祖の霊とかを呼び出すのですが、それは先祖ではない、オレオレ先祖です。悪霊とつながっていたら、婦人科の病になることもありえます。悪霊との契約が打ち砕かれるように祈りました。私も心合わせて祈らせていただきました。でも、同じ柳の木の下には、二匹目のどじょうはいないと言うからな・・・というような感じで、あまり期待していませんでした。

しかし、何が起こったと思います?何も起こらなかったら、こんな話をするわけがないです。その後、病院に行ったら、すっかり治っていたのです。やった!じゃないですか。ハレルヤ!
しかし、先週は、そのご夫妻に子どもが与えられたというものでした。それも問題なく、順調に育っているというのです。ご夫妻は泣きながら、そのことを教会で証ししたそうです。十二年間、長血をわずらっていた人と同じような奇跡を、彼女は体験したのです。これは私の信仰じゃないです。特に、チェ先生の奧さんが友人の為に、信仰を持って祈ったからです。また、その女性も追い込まれていましたから、イエス様の衣を掴むしかない!と信仰を持ったのです。悪霊的な力からの解放を宣言して、イエス様に近づき、衣を掴んだ結果、現代においてもいやしが起きたのです。
イエス様は、死の力を打ち破ってくださったとあります。最も大きな不安とは、死に直結する事柄です。ヘブル人への手紙二章十四節〜十五節、

『そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。』

イエス様が人間と同じ肉体を持ってくださったのは、人間は肉体を持っていますから、どうしても死の力に支配されます。しかしイエス様はこの地上に来て、ご自分も死を体験し、よみがえり、死の力を持つ悪魔を打ち砕いてくださったのです。そして、一生涯死の恐怖に捕らわれている人たちを、解放されたのです。
イエス様が与えてくださる救いは、永遠のいのちです。この地上から出て終わりではありません。死後の世界は天国ではなく、やがてこの地上が新しい地に再創造された時、イエス様がよみがえったように、私たちも、よみがえるのです。死後の世界で終わりなら、本当の救いではありません。なぜなら、肉体は滅びることになるからです。一度死んでも、再びこの地上によみがえってこそ、肉体を束縛している死の力が勝ち取られた証拠となります。イエス様のよみがえりも、実に、肉体と共によみがえられたのです。ゆえに完全勝利なのです。
歳を取って、この地から例え出て行ったとしても、やがてこの地上によみがえる、それが永遠のいのちです。それを与えるために、イエス様はこの地上に、クリスマスの時に来てくださったのです。
イエス様の行動と共に記されている奇跡は、民全体のためです。十二年間、長血をわずらった女の記事を見る時、私たちの人生にも適用できるのです。

旧約聖書には、イエス様が誕生されるという預言が三百回くらいあると言われます。私は数えたことがありませんが、誰かが数えたのでしょう。イエス様は私たちの誕生とは違うのです。神の計画通りに、この地上に来てくださったお方なのです。
そんな中で、イエス様による救いを、イスラエルの救いとだぶらせて預言されている箇所があります。私が好きな箇所なのですが、ゼパニヤ書三章十四節〜十七節を読んでみたいと思います。
先週も、イエス様の十字架によって、ユダヤ人と異邦人の壁が取り払われ和解して、世界中が聖なる場所であり、主を信じる者たちは、エルサレムの住人であり、またユダヤ人と同じ祝福を共有できると話しました。
そんな視点で、この箇所を読んでみたいと思います。ゼパニヤ書三章十四節〜十七節、

『シオンの娘よ。喜び歌え。イスラエルよ。喜び叫べ。エルサレムの娘よ。心の底から、喜び勝ち誇れ。主はあなたへの宣告を取り除き、あなたの敵を追い払われた。イスラエルの王、主は、あなたのただ中におられる。あなたはもう、わざわいを恐れない。その日、エルサレムはこう言われる。シオンよ。恐れるな。気力を失うな。あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。』

この言葉が主を信じる者たちに与えられている言葉だとしたら、すばらしいです。このみ言葉は十二年間、長血をわずらった女にも実現したことですが、今日、私たちにも語って下さっている言葉です。

『心の底から、喜び勝ち誇れ。主はあなたへの宣告を取り除き、あなたの敵を追い払われた。』

ヨブという信仰者は、知らないうちに、目に見えない世界で宣告を受けていました。悪魔に訴えられたのです。すると、それが地上に実行されてしまったのです。しかし今、イエス様の十字架と復活によって、私たちを訴える宣告は、破棄されるのです。

宣告とは、人類の間においても重いものです。
私は何度も刑務所に行ったことがあります。捕まって行ったのではなくて、面会に行ったのですが、今から十年くらい前でしょうか。豊川で一人の子どもが誘拐され、殺された事件がありました。八ヶ月後、犯人として一人の男が捕まりました。事件現場で、車の中で寝ていたということで捕まりました。彼は犯人だということで、裁判にかけられて、全国的に有名になりました。二歳の子どもを、ゲームセンターから誘拐して、海にたたき込んで殺して、自分は事件現場に戻って寝ていたという設定でした。ワイドショーにも、すべて紹介され、その事件について知らない人はいないと思います。
しかし、いろいろと調べてみたら、証拠がないということで、第一審では無罪となり釈放されました。
釈放された翌日、豊橋の駅でしょんぼり座っている彼を見かけた新城教会に来られている一人の女性が、「あっ!昨日テレビで記者会見をしていた人だ!」と気づいて、彼を教会に連れて来ました。そして彼は、イエス様を信じました。
でもすぐに検察は上告して高等裁判所に上がりました。その時、メディアは絶対にえん罪だと報道しました。私も彼と何度もお話ししましたが、大変いい人で、私の家にも招いて食事を出してあげても、ソファにちゃんと座らないのです。おしりを端っこにちょっとだけかけて座るのです。「リラックスして座って」と言うのですが、「いえ、いいんです。」という感じです。えん罪のようだけど、無罪になって良かったねということで、彼の霊的な解放の祈りをするために、私は彼と一緒に、事件が起こったくらいの時刻に、調書通りに彼と一緒に辿ってみました。そして、ここから子どもを投げ捨てたと警察が言う現場にも行って、彼と一緒に祈りしました。
どう考えても、二歳の子どもを海に投げられっこない場所でした。それも事件当日は引き潮で、絶対に無理だろうと思いましたが、調書には海に投げ込み、子どもは溺れ死んだとなっていました。
一審で無罪だったから、第二審でも無罪になるかと思ったら、高等裁判所で逆転有罪となり、十七年の刑です。現在、九州の刑務所に収監されています。是非ともみなさん、祈っていただきたいです。田邊まさきさんと言います。
今、再審請求がなされるかもしれないところまで来ています。私も何年か前、刑務所に面会に行きました。しかし一度刑を宣告されると、大変なものだと思いました。私も彼を助ける会に入って、名前を連ねていますから、刑務所に面会に行っても会わせてくれないのです。「たぶん順先生が行ったら駄目って言われるよ。」と言われたので、事前に弁護士事務所から、面会法をコピーしてもらい、持参していきました。面会できないと言われたので、刑務官に「この法律を見てくれ。ちょっと読むよ!」と言って、面会法を読み上げました。でも駄目だと言うのです。喧嘩して、やっと面会させてもらいました。そして彼と一緒にお祈りしました。
一度、宣告がなされると、大変だと強い印象を持ちました。えん罪の方々、結構、多くおられると思います。私たちは司法に関しても、祈らなければなりません。

地上での宣告がこれだけきついものならば、目に見えない世界で宣告がなされたら、どのくらい大変なのかと思います。
しかし、主は私たちに対する宣告を、取り除いて下さいました!もっともっと私たちは、主に感謝しなければならないと思います。
家に帰ったら、ゼパニヤ書の三章を読んで下さい。三章十六節から、

『その日、エルサレムはこう言われる。シオンよ。恐れるな。気力を失うな。』
とあります。今日気力を失っておられる方がいたなら、「気力を失うな!」と主は言われます。これを直訳すると、「両手をだらんと下ろす」となるそうです。戦意喪失というものです。戦うことができている間はいいですが、気力を失って、戦意喪失したら終わりです。でも、主は言われます。「気力を失うな!ファイティングポーズを取れ!」。

『主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。』

そして、最後の言葉はすばらしいです。『主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。』

私たちは被造物オーケストラのメンバーで、聴衆はイエス様です。私たちが主をほめたたえ賛美するのです。しかしそれは一方通行ではないのです。主も、私たちのために歌って下さるというのです。
不安のどん底にいた、羊飼いたちの目の前に天の軍勢が現れて、賛美したのです。誰のために賛美しましたか。それは羊飼いの為でした。
ゼパニヤ書では、主が私たちのために賛美してくださると告げています。本当に励まされます。
主は、あなたの賛美を要求されるだけでなく、あなたの面前であなたの為に歌います。これは、意外じゃないですか。

先週私は、コンサートに行きました。先週は火曜日まで、霊的戦い専門課程があって忙しかったから、終わった日はゆっくりしようと思ったら、息子から、「今晩、名古屋でコンサートがあるけど来たいか?」とLINEが来ました。「来たいか?」って、行きたくないわ!と思いましたが、彼が「来たいか?」という時は、「来てくれ」という意味なのです。
たまには仕事場にも行ってやるか、と思って誰も知らないと思いますが、E-girlsのドリームアミという女の子のコンサートに行きました。バンドメンバー四名中、三名クリスチャンでした。頌と堅志とマリちゃん、だから来てくれと言うわけです。ちょうど、我が家に一人の牧師が来ていたので、彼は名古屋から帰るので、一緒に行く事になりました。
名古屋駅の近くのゼップ名古屋が会場でした。行ったら人が溢れていました。私は宝くじかなんか買いに来ている人たちかと思いました。それも二十代後半から三十代の男性たちが六割くらいなのです。まさかコンサートに来ている連中だとは思いませんでした。しかしその群衆は、全員そうでした。会場は立ち見で、千何百人も入ります。びっくり!もう一人の先生も、「すごい世界ですね!」とびっくりしていました。
入場料は八千五百円です。コンサートが始まると、全員スタンディングで、ほとんど男の声で、「あ・み・ちゃん!」とか言って、すごいんですよ。びっくりしました。
でも、なぜ、このコンサートに人々は来るのかと分析したら、その歌手が、「今夜は君のために歌うよ!」と言うと、「イェーイ!」と歓声をあげるわけです。
「君のために歌う」というこの一語で、この人たち来てるのか!と気づきました。君のために歌うなんて言うけれど、実際は金のために歌っていると思います。でも、そう言われるだけで、疲れている男性達は励まされて、八千五百円も出して、二時間以上スタンディングでやっているわけです。

人間でもそうならば、天地宇宙を造った神様が、私たちの所に来て、「君の為に歌います」って、これは嘘じゃないですから、どれだけ励まされることでしょうか。
先週、そんなコンサートに行き、「あなたのために喜び歌いますよ!」とまで言って下さる主に感動しました。
あの真っ暗で、希望のない羊飼いの所に、天の群勢が現れて歌ったように、大きな恐れから救われて、大きな希望に入れて下さる日、それがクリスマスです。
今日、主が私たちの目の前に来て歌ってくださる。私たちは被造物として、主をほめたたえる存在ですが、主もまた、私たちの為に賛美してくださるクリスマスを、共に過ごしていきたいです。
今から聖餐式を行います。私たちのために、イエス様は死んだばかりではなく、よみがえって、今も生きてくださっている、この祝福を聖餐式を持って確認していきたいと願っています。一言お祈りさせていただきます。

ハレルヤ。天の父なる神様、御名をあがめて心から感謝します。あなたは私たちを愛して、この地上に来てくださいました。また被造物全体を愛して、地上に来てくださいました。私たちがあなたに賛美しなければいけないのに、あなたが私たちのために喜んで歌ってくださる事を感謝します。今日、希望を失って悲しんでいる方がおられたら、目の前にイエス様が立ってくださり、励ましの歌を歌ってください。
今から聖餐式を持たせていただきますが、聖餐式の中で主の臨在にふれさせてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。