「クリスマス!
〜それは主の恵みの時を知らせる日〜」

2017年12月17(日)
新城教会主任牧師 滝元順
ルカの福音書4章16節〜22節

『それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」イエスは書を巻き、係りの者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」みなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いた。そしてまた、「この人は、ヨセフの子ではないか」と彼らは言った。』

 メリークリスマス!クリスマスおめでとうございます。今の演奏、すごかったですね。オーバーカマーズの歌、なんとも譜面にしがたい節回しでした。そして子どもたちの賛美もすごかった!新しい世代だなぁと感じます。まさかあんなダンスが入って来るとは、だれも思わなかったでしょう。すごい才能を秘めた子どもたちです。このようにして、イエスさまの誕生が、世界中で祝われています。共にクリスマスをお祝いできますことを、心から感謝します。

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 現在、世界にキリスト教徒ってどのくらいいるのか、ご存じでしょうか。世界の人口は七十三億人くらいと言われますが、そのうちの約三割はキリスト教徒だと言われます。その中にはいろいろ入っていますが、いずれにしてもキリスト教徒は二十二億人も存在します。世界で最も多くが信頼している主は、イエスさまです。
 日本人が信じている仏教なんて少ないです。国際化した時代の中にあって、世界は誰を見つめているのか、日本人は知らなければいけないと思います。
 イエスさまは、『わたしが道であり、真理であり、命です。』と語られました。そして、その道を歩んでいる人たちが、世界の三割にも達している現実を知る時、日本人は食わず嫌いで、「伝統的な仏教徒です!」と言いますが、世界的に最も注目されているイエスさまに目を向ける必要があります。

 私は先週、ここで礼拝を終えて、すぐに東京に行きました。東京集会クリスマスがありました。集会が終わったのは夜の九時だったのですが、十時の新幹線で名古屋まで戻って、次の日から韓国に行きました。
 韓国は、日本の隣ですが教会とクリスチャンが多いです。一時は三割以上がクリスチャンになった時期もありました。最近は、ちょっと陰っているところもありますが、今でも多くの教会とクリスチャンがいます。今回私は、春川という街に行きました。

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 春川は、韓国でも北のほうで、それより北は北朝鮮です。結構寒い所ですが、有名なのはこれです。

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 冬のソナタの発祥の地でもあります。着いた時の温度はこんな感じでした。

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 昼間にもかかわらず、マイナス十一度。これは想定内で、防寒具を持って行って良かったです。
 しかし翌朝、ホテルの窓から外を見たら、雪は降っていなかったのですが、本当に寒そうな雰囲気でした。その時の温度がなんと!

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 マイナス二十度でした。マイナス二十度って体験したことありますか?冷凍庫の中にいる感じです。すごい寒さの中で奉仕をさせていただいたのですが、室内は暖かいです。今回、招いていただいた集会のタイトルは、「ジュビリー」でした。この集まりは韓国全土で行われています。

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 ジュビリーとはどういう意味か、それは今読んだ聖書箇所に鍵があります。

 イエスさまが地上に来られた目的は、ルカの四章十九節にすべて含まれているといっても過言ではありません。それは、「主の恵みの年を告げ知らせるために」とありますが、主の恵みの年、すなわちヨベルの年の実現のためにイエスさまは来られたのです。主の恵みの年を、「ジュビリー」と呼びます。
 二、三年前に、この事についてお話をさせていただいたのですが、イエスさまが、地上に来られた目的、その働きは「主の恵みの年の実現」にあります。

 私たちクリスチャンは、天地宇宙を造られた神がおられることを、前提とします。神がおられなかったら、人生はあまり期待しないほうがいいです。日本人は進化論を真理かのように信じています。下等生物から、突然変異によって高等生物まで進化して、ついには人類にまで到達したと信じています。進化とは、全て、突然変異の連続を前提とします。それが事実ならば、人生に起こることすべては偶然です。悪いことがあるかもしれないし、良いこともあるかもしれない、それは予測不可能です。
 しかし、私たちを造ってくださった神がおられるとしたら、偶然はありえません。必ず目的を持ってすべてを造っておられるはずです。
 いつも話すのですが、百円ショップで売られているもの一つにも目的があるのならば、神によって造られた私たちに、どれだけ大きな目的があるでしょうか。ということは、神と出会うことは、最も重要だということです。

 神はまた、幸せに生きる秘訣をも用意してくださっています。聖書の中に、「幸せに生きる秘訣」が記されているのですが、それは「主の恵みの年」に鍵があります。

 聖書の一つの基準は、「六日間働いたら七日目に休む」です。神が天と地を六日かけて造り、七日目には休んだように、人間も六日間働いたら、七日目に休めと告げています。そして、七日目を「安息日」と呼び、それは「神を礼拝する日」なのです。
 今日、私たちは教会に来て、主を礼拝していますが、六日間一生懸命働いて、日曜日には主を礼拝しています。この六日間働いて、七日目に礼拝するサイクルは、七週、七年、四十九年と、七の倍数で拡大していきます。
 四十九年とは、七年を七倍した年ですが、その翌年、五十年目のことを、「ヨベルの年、ジュビリー、主の恵みの年」と呼びます。

 「主の恵みの年」とは、どういう年か、それは「雄羊の角のラッパが全国に響き渡り、それを合図に民は自由を得、奴隷も解放され、おのおのの故郷へと帰って行った。土地はもとの所有者に戻され、また畑の耕作も禁止された。」と説明されていましたが、完全な休息と解放が宣言された日でした。
 また、「それは、世界は主の創造によって造られたことを覚え、すべての労働から解放され、神の創造の御業を思い返し、すべての被造物、奴隷も寄留者も、動物も、植物も、神の御業を感謝し、休む年である」とも説明されていました。それが、ヨベルの年です。

 イエスさまが地上に来られた目的は、「神の国の実現」にあります。イエスさまはやがて、すべての被造物が神と和解し、安らぐ、不幸の何一つない世界を造られます。その準備のために、イエスさまは地上に来てくださったのです。そのために、「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」と宣言されたのです。
 イエスさまの誕生は、旧約聖書中に啓示されていた「ヨベルの日」と対応しながら、来たるべき、完全な、神の国の実現の働きの開始でした。

 イザヤ書六十一章のみ言葉を引用しながら、「この聖書のみ言葉が今この場で実現しました」と、すでに、イエスさまの仕事始めと共に、神の国は実現し、ヨベルの年は実現したのです。
 私たちがイエス・キリストを信じるなら、ヨベルの年に啓示されている祝福と自由を共有できるのです。しかし、ヨベルの年の完全な実現は、イエスさまが再び帰られる日です。けれども、その日を待たずして、私たちはその祝福を共有出来るのです。

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 歯車は小さい歯車から始まって、だんだんと大きな歯車が回る仕組みです。私たちが幸せに生きる最も小さな条件が、六日間働いたら七日目に休んで主を礼拝する歯車です。
 今日みなさんは、その歯車を動かしておられます。六日間一生懸命働かれたと思いますが、七日目に教会に来られているのは、小さな歯車を回転させているのです。すると、いろいろな歯車が回転して、主の恵みの年の原則が動き始めるのです。そうすると、すべてが主の中で安らぐ祝福に、変えられていくというのが聖書の教えです。
 六日間働いたら、日曜日には教会にお越しになってください。だまされたと思って、だましちゃいませんが、お越し下さい。気づかないうちに、歯車が回転して、物事が良い方に向かいます。
 私は、絶対に毎週来いとか言っているのではありません。来られない日があったとしても、人はそのような原則で幸せになるという法則を知って行動すると、人生の歯車はうまく回転するのです。それが欠けて、他のことが優先されるとバランスが崩れて、ヨベルの年の恵みから離れて、不具合が生じて来ます。

 イエスさまがイザヤ書六十一章を引用して、ルカの四章で語られたわけですが、そのオリジナルは、イザヤ書六十一章です。すでによく知られている箇所ですが、イザヤ書六十一章一節〜三節、

『神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現す主の植木と呼ばれよう。』

 「主の恵みの日の実現」とは何か、その中身はどんなものか、大きく分ければ三つあると思われます。
 一つは「心の傷のいやし」です。羊飼いたちの所に、最初に救い主誕生の知らせが届いたのは、当時、最も深く傷ついた人たちの所に福音が届けられた事を意味する、と話しましたが、心のいやしのためにイエスさまは来てくださったのです。
 人間の心がどこにあるのか分かりませんが、心の傷が存在するのは事実です。
 病院に行ってレントゲンやCT、MRIを撮っても、心の傷は写りません。しかしそれは確実にあります。それを治すのは、なかなか難しいことです。しかしイエスさまの所に行くと、心の傷はいやされますというのです。

 実は今回、韓国の春川に行かせていただいたのですが、春川という町は不思議な町だとつくづく思います。
 新城教会も、今はこうして多くの方々が集まっていますが、昔はこんなじゃありませんでした。結構、ひっそりとした教会でした。
 しかし、この教会がだんだんと元気になったのは、一九七〇年代に韓国で起こったリバイバルが関わっています。
 一九七〇年、八〇年代、韓国で大リバイバルが起こりました。ソウルに、元飛行場跡のヨイド広場という場所があったのですが、そこにクリスチャンたちが百万人、二百万人集まって、主を礼拝していた時期がありました。私はそれを見に行ったことがありましたが、本当にすごかったです。

 その頃、韓国全土でリバイバル聖会や伝道会を導いていた、有名な先生方がおられました。その方々が、日本の教会にも来て励まして下さったのです。新城教会も、韓国の有名な先生方がよく来て、励ましを与えて下さいました。
 私たちも、韓国に起こったリバイバルの余波で、だんだんと変えられました。その先生方は、韓国人でしたが、メッセージは流ちょうな日本語で語ってくれました。その頃の写真がないか調べたら、一枚ありました。

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 一番左側の人は、申賢均という韓国のリバイバリストで、本当に有名な先生でした。その右側の髪ふっさふさの男たち、誰か知っていますか?

 右の二人は、今や髪なく、望みなくという感じですが、申先生は百万人の聖会を導いていた人でした。この教会に何度も来て、奉仕をしてくれました。
 先生は日本語が本当にうまかったです。私はその頃、歴史のことなど何も知りませんでしたから、「韓国人ってみんな日本語が話せるんだ・・・」と、大きな勘違いをしていました。しかし後から、なぜ、その先生方が日本語ができたのかの理由が分かって、心が痛かったです。
 日本は一九一〇年から四五年まで、隣国を植民地支配しました。そして、韓国人たちが韓国語を話すことを禁止して、徹底した日本語教育を行いました。また、創氏改名といって、韓国名を取り去り、日本名に変え、徹底的に日本人化しようと教育したのです。この先生は、日本語教育の大洗礼を受けた年代でした。だから日本語がよく出来たのです。

 しかし一九四五年、日本が戦争に負けて、韓国は植民地から解放されました。普通なら、敵国から押しつけられた言語なんか、二度と使いたくなかったと思います。しかし、キリストの愛によって変えられて、なんとこの先生方は、日本に来て、日本語でメッセージをして、我々を励まして下さったわけです。これは福音の力ではないでしょうか。憎しみだけなら、絶対に、日本なんかに来て宣教しなかったと思います。そこにはヨベルの年の実現がありました。敵によって仕込まれた日本語を使って、敵国に乗り込んで福音を伝え、今や、新城教会が田舎であっても人々が集っているのは、心のいやしという、イエスさまによって備えられた、主の恵みの年の実現が関わっているのです。

 私たちも、かつて傷つけた国々に対して、何かしなければいけないと思うようになりました。申牧師たちとの交わりは、私の父親たちの世代でしたから、私たちの世代も、何か、韓国で奉仕をしなければいけないと思いました。この先生方は、年を取って召されたりして、コネクションがなくなって、どうしようかと思っていた時、主は私たちに、「あなた方は隣国のために、まずは、とりなし、祈りなさい」と語られているような気がしました。それで日本のことだけではなく、お隣の国、韓国のためにも祈るようになりました。
 そして現地に、とりなしの祈りに行かなければいけないと思いました。日本が現地に行って傷つけたわけですから、傷をつけたものたちの子孫が、現地に行って祈ることは重要です。
 どこに行こうか、と考え、祈っているうちに、「春川に行ってとりなしの祈りをするように」と教えられました。
 なぜなら、日本はかつて春川に大きな神社を建てたからです。今回、私が泊まったホテルですが、この階段を見て、どう思いますかた?

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 どこかで見たことのある階段でしょう。これは春川にかつて日本が作った神社跡に建てられているホテルです。

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今でも、ホテルの後ろには、神社本殿跡が残っています。そこに、韓国は仏像なんかを建てていますが、後ろの石積を見てください。あの積み方は日本特有のものです。この土台の上に、昔は神社が建っていたわけです。
 「ここに行って、とりなし、祈れ」と主から促されて、誰と一緒に祈りに行ったらいいかと考えて、私の兄弟たちの中で、あまり関係の良くないやつと一緒に行くべきだと思って、私と弟の望の二人で行くことにしました。しかし二人だとちょっと具合が悪いかもしれないので、私の娘と、望の娘を連れて、四人で行きました。そして、このホテルに一泊して、後ろに大きな山がありますが、朝四時くらいに起きて山に登りました。夏で、蚊がいっぱいいて刺されたけれど、春川の街を見ながら祈りました。それが今から十年前の出来事です。
 「主よ!どうかこの街を祝福してください!この街が変えられますように!日本がおいた呪いを解いて、その傷をいやしてください!」と祈りました。その日、春川には誰一人、知り合いはいませんでした。

 しかし後に春川ではリバイバルミッションが開かれましたし、十年後、私が春川のジュビリーという、「主の恵みの年の実現」という集会の講師として招かれたのは、預言的であり、不思議な事だと思います。和解が始まっていくと、自動運転です。主の恵みの年は広がって行くのです。

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 北朝鮮とのボーダーですから、半島が二つに分かれてしまっている現実に対して、韓国の方々は切実に祈っておられました。早く、半島が統一して、一緒に暮らせますようにという祈りがなされていました。
 十年前に、この町に誰も知り合いがなかったのに、今回、この街の為に祈った実を見させていただきました。主はいやしを与えてくださるお方です。

 私たちの使命が、和解にあると言うことを学んでいますが、国を越えて、言葉を越えて、和解の使者として働くときに、不思議なことが起こります。
 隣近所の人たちと対立していても、良いことはありません。和解が心のいやしをもたらし、さらなる大きな扉を開いていくのです。

 イエスさまがこの地上に来てくださった目的は、心のいやしの実現です。今日、みなさんの中に、心に傷がありますという方がおられたら、心をイエスさまにおゆだねして、傷をいやしてください!と祈りましょう。

 また、日本国民は韓国に対して、韓国国民は日本に対して持っている。苦々しい思いを取り去ってしていただきましょう。それらは神の祝福を止めるものです。私たちは、民族主義に陥ってはいけないのです。我々は神の国の国民であることをよく知って、歩んでいく必要があります。

 心のいやしは、体のいやしにもつながっています。イエスさまの働きのテーマをあげるならば、「心のいやし」と共に、「肉体のいやし」があります。
 最近、「福音とは何か」について、主がその理解の領域を拡げてくださっています。福音とは、人間だけでなく、神が造られた被造物全体に及び、主は、すべての被造物の救いを願っておられると言うことです。
 「主の恵みの年」とは、「世界は主の創造によって造られたことを覚え、すべての労働から解放されて、神の創造の御業を思い返し、すべての被造物、奴隷も寄留者も動物も植物も、神の御業を感謝し休む」という目的がありました。このような広い概念と共に、被造物全体のいやし、その中に含まれる人のいやしを扱っていくと、未だ体験したことのない奇跡を見るのではないかと期待します。

 今月のはじめに、ある方の葬式を依頼されました。その方は、この教会に来られている方の親戚ですが、「キリスト教式でやってくれますか?」と依頼されました。私は、「大丈夫ですよ。やってあげますよ」と答えました。
 すると、その人はまだ生きているというのです。「つきましては、亡くなった方と死んでからご対面では葬式もやりにくいでしょうから、一両日中に亡くなりますが、生きているうちに顔を見に来てください」と言われました。それも一時間でも早く来てくれと言われました。そうでないと生きていないかもしれないというのです。
 それであわてて、豊橋の病院に朝早く起きて、家内と一緒に駆けつけて会いに行きました。もしも生きておられたら、イエスさまのことを話す機会もありますから。
こういう時は、牧師という職業はいいと思います。私は見かけはお坊さんに見えるようですが、牧師ですから、死の直前の人の病室にも入ることが出来ます。お坊さんなら、「まだ早い!縁起でもないから来るな!」と言われると思いますが、牧師ですから病室に入って行くと、喜んで迎えてくれました。
 そこには一人のおばあちゃんが伏しておられました。しかし、まだ七十代前半で、死ぬにはちょっと若いなと思いました。けれどもあと一日か二日で、確実に亡くなると医者から告げられていると言うのです。

 病室に入ったら個室で、死ぬ日を待つ雰囲気でした。その横でご主人のおじいちゃんが、本当に悲しそうな顔をして、涙をぽろぽろ流していました。
 そのご夫妻には、お子さんがなくて、お二人で何十年も暮らしてきたみたいです。自分の長年の連れ合いが去って行く姿をこの目で見るのが、耐えられないと言うのです。
 夜は自分の家に帰るけれど、心配と悲しみで眠ることができないと言われました。本当に涙、涙、涙なのです。ご主人は、八十三、四の方でしたが、愛情が深いなぁと感じたし、人は年老いても、悲しみは同じだなと、本当に切なかったです。

 私は、「葬式を担当させていただく牧師です」とは言えませんから、イエスさまのことを話しました。「イエス・キリストを信じるなら、死後の世界も大丈夫」と話しました。そして、「時には、奇跡も起きる!」と話しました。時にはと、少しは期待させながら、死後の世界を中心に話しました。イエスさまを信じたら、やがてこの地上によみがえって、共に暮らすことができると、よみがえりについても話しました。死にかけているおばあさんも、喜んで、聞いてくれました。
 最後に一緒にお祈りしました。「時には奇跡も起きる!」というところに望みをかけて、「おじいちゃん、一緒に祈りますか?」と聞いたら、「もちろんだ!祈ってくれ!」と言うのです。おじいちゃん、今まではずっと仏教徒だったらしいのですが、やっぱり人は追い込まれると、本当に希望のあるところに頼ります。
 みんなで心を合わせて祈りました。「イエスさま、あなたは時には、奇跡を起こしてくださいます。」と。人には寿命がありますから、どうなるか分かりませんが、おじいちゃんが、こんなにも泣いているから、「なんとかして下さい!」と、真剣に祈りました。

 帰りがけに家内が、「おばあちゃんの写真撮るの忘れたじゃん!」というわけです。写真を撮っておかないと、葬式の時に出す写真がないから、「あっ!忘れちゃった。でも写真を撮らない時は、もしかしたら奇跡が起こるかもしれないぞ・・・!」と私は答えました。

 さて、みなさん、何が起こったと思いますか?何も起こっていなかったら、こういう話は絶対にしないです。
 なんと、おばあちゃん、退院だって!医者たちが、「これは奇跡だ。ありえん!」と言っているそうです。年末には退院で、正月は家で過ごせるというのです。信じられないです。葬式前にちょっと顔を見に行っただけの話です。私なんか、信仰がないほうです。いろんなケースを見れば見るほど、信仰って結構、なくなるものです。これは無理だな・・・と思うところがあるのです。しかし、いやしを与えるのは、一方的な主の恵みであり、「主の恵みの年の実現」です。
 いや〜嬉しいですね。家内のところに二度も、「奇跡が起こったんです!」と電話がありました。昨日も電話を受けたのですが、嬉しかったですね。
 何があっても、希望を失っちゃいけないですね。心のいやしもあるし、現代においても、病のいやしはあります。死からいのちに移るテーマは、今も健在です。イエスさまに期待しようじゃありませんか!

 そして次に述べられているのが、『捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ』と記されています。イエスさまがこの地上に来てくださった目的は、「いやし」と共に「解放」です。
 「解放」とはどういう意味かというと、「敵の手からの解放」です。「敵」とは、イエスさまの時代においては、ローマ帝国でした。しかし、このローマ帝国を後ろから操っている霊的力をも、意味していました。解放とは、究極的には悪霊からの解放です。イエスさまがこの地上に来てくださった大きな目的が、悪霊からの解放にありました。

 人間って、みんな幸せを求めているのですが、社会に起こっている事柄は、本当にひどいことばかりです。戦争は絶えないし、テロは絶えないし、年間、どれだけの悲しみのニュースが流れるのか分りません。それだけでなく、兄弟は喧嘩するし、夫婦も喧嘩するし、争いだらけです。

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 そして、「あいつが悪い、こいつが悪い、あの国が悪い、この国が悪い」と対立しながら歴史は進みます。
 しかし、このように対立しているただ中に、このような存在がいたらどうですか。

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 この存在をなんとかしない限り、どうにもなりません。

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 日本は、子どもの問題が、本当に多いと言われます。子どもは、基本的に、人類の中で一番強い存在です。一日中走り回っていますが、疲れません。階段を上がる時、手すりにつかまり、ふーふー言って上がる子どもはいないです。夜、悩みで眠れない子どももいません。喧嘩はするけれど、殺人事件を起こすわけではありません。刑務所に入るのは大人たちばかりです。

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 しかし、子どもたちも、だんだんと弱くなっていくのは、後ろに影が迫るからです。

 この力に対抗できるのは、軍事力でも、政治力でも、経済力でもありません。それらは、全く歯が立たないです。これらに対抗できるのは、イエスさま以外にないのです。

 いつも話していますが、この近所は、設楽原の戦いで、血が流された地域です。お化けが出たり、変な霊現象がいっぱい起こるみたいです。それで拝み事が盛んです。日本人は、八百万の神々を真剣に拝んでいます。しかし神だと思って、自分を助けてくれる存在だと信じて拝んでいるわりには、良い事はないです。

 私は先週、一人の方を訪問しました。まだ六十代の方ですが、普通なら、助からない病の方の所に行きました。その人、クリスチャンじゃないけれど、是非とも祈ってくださいというので、行かせていただきました。男性の方なので、私一人で行かせていただきました。
 その人の家は山の中にあって、信心深い家に育って、拝み事で一年が成り立っているような地域に住んでいます。
 日本人が拝んでいる対象は、神のように勘違いしているけれど、神ではなくて、神のふりをした、悪霊を呼んでいるのです。ゆえに、良かれと思ってやっていることが、裏目に出ることが多いわけです。
 その方も、今まで元気にやっていたのですが、突然、病に犯されて、大変な状況になっていました。今後、どうなるのか分からないので、是非とも祈っていただきたいのですが、そういう霊的な問題って、家系の中に流れているのです。
 その方と話している時に、「この人の家で、悪霊を呼ぶ儀式が多くなされていたんだろうな・・・」と感じました。もっと詳しく知ることができたらいいなぁと思っていたら、突然、その方は養子に行かれた方ですが、部屋におじいさんが入って来ました。田舎だから、地域の人たちは出入り自由かなと思ったら、「私の父です。」と紹介してくれました。それは彼のお父さんでした。養子に行った息子が病気になったことを案じて、父親がわざわざ見舞いに来たのです。「お父さん何歳ですか?」と聞いたら、九十二歳だというのです。でも結構、元気で、自動車も運転しているし、息子の所にも一人で来たのです。
 お父さんが来られたので、いろんなことを聞き出すことができました。

 「お父さん。お宅の家系に、どんな問題が起きていますか?」と聞いたら、こう言うのです。「うちの家系は、本当に早死にが多い。」
 でもお父さんは九十二歳です。しかし全体的には、早死にが多いというのです。
 それである時、拝み屋を頼んだというのです。岡崎のほうの拝み屋に拝んでもらったそうです。
 そこは田舎で、屋敷の前に先祖の墓がずらっと並んでいるのですが、「屋敷の前に先祖の墓が並んでいるのが悪い。そこから祟られている」と言われたそうです。「他の所に墓を移しなさい」と言われ、大枚をはたいて、先祖たちの墓を、他の所に全て移設したというのです。
 そうしたら、今までの早死が、ぴたっと止まったというのです。「やっぱ、墓がいかんかった。」と話していました。
 でも私はおじいさんに、「でも、また起こったじゃないですか。お宅の息子さん、このままいくと早死じゃないですか?」と言うと、「そうだ・・。」と答えました。
 おじいちゃんは、九十二歳でもぼけていなくて、私の話をよく理解しました。私は、「おじいちゃん、普通なら、先祖の墓が家の前にあって、そこに先祖の霊が来ていたら、先祖は喜んでいるんじゃないですか?生きている者たちと一緒に暮らせるんだから。にもかかわらず、なぜ、早死にが起こるんですか?おかしいですよ。おじいさんも、やがて先祖になるけれど、家の前で過ごすのと、山の中で過ごすの、どっちがいいですか?」と聞くと、「家の前。」と言うわけです。「もしも、家の前にあなたが住んでいたら、みんなを助けるでしょう!」と言うと、「そりゃそうだな。」と言うのです。「家の前で悪さするのは、先祖の霊じゃなくて、オレオレ先祖。先祖のふりをした悪霊だよ。拝むと死の霊が入ってくるよ。」と話しました。「今、息子の非常事態だから、伝統的な神々ではなく、イエスさまを信じて一緒に祈りましょう!」と勧めたら、「お願いします!」と言うのです。日本人は変わり身も早いですが、それで息子さんと、お父さんと私と、一緒に祈ることができました。
 この息子がいやされるように、是非とも、祈っていただきたいと思います。

 先祖だと思っていた存在が、先祖のふりをした悪霊なら、みんな苦しい目に遭います。悪魔の手口は、早死にが起こる家族の中に、一人、長寿の人を置くのです。そのおじいちゃん、九十二歳までどれだけ悲しい事を体験したか分からないです。

 「おじいちゃん、このまま死ねるかい?」と聞きました。「今まで、何回も苦しみ、悲しみ、挙げ句の果てに、最愛の息子が目の前でじいちゃんより早く死ぬなんて、考えられないじゃないの!」と言うと、「その通りだ!居ても立ってもいられなくなって、今日、ここに来た!」と言うのです。
 私は、主がおじいさんを送ったんだな、と感じました。おじいちゃんたちと手をつないで、「今日からイエスさまを神とします!」と宣言して、「我が家から悪霊、出て行け!」と祈ると、おじいちゃんも大きい声で、「悪霊、出て行け!出て行け!」と叫んでいました。

 日本人って、勘違いして、本物の神じゃなくて、悪霊を呼んでいます。その結果、悪魔の奴隷となって、永遠に悪魔の支配下に陥ってしまうのです。そんな恐ろしいことはないです。

 しかし、イエスさまを信じるならば、主の恵みの年の実現です。私たちが涙を流しながら過ごしている、この地球さえも造り替え、喜びの地となるのです。
 かつては涙とともに過ごしたこの地球に、家族団らんが回復します!永遠のいのちで過ごすことができますよ!というのが、聖書が告げる「神の恵みの年」なのです。イエスさまは、「それが、今、実現しました!」と宣言されました。ご自分の育ったナザレという村に行って、イザヤ書六十一章を読まれた時に実現したのです。もうすでに、主の恵みの年は実現しています。
 しかしそれが完全に実現する為には、教会がその働きを継続しなければならないのです。

 私たちは、イエスさまが始められたその働きを継続して、やがて来たるべき本格的なジュビリー、ヨベルの年に向かって、働きを前進させなければならないのです。
 イエスさまが私たちの所に来てくださった目的は、「心と体のいやし」、もう一つは、「悪魔・悪霊どもからの解放」、そして最終的な結論は、「主の恵みの年の実現」という三つのテーマの為に、この地に人としてお生まれになったのです。これがクリスマスの意味です。

 私たちは、赤子のイエスさまに目を留めるのではなく、十字架につけられっぱなしのイエスさまに目を留めるのではなくて、よみがえられ、今も働いてくださるイエスさまに目を留めるのです。
 ここにおられるすべての方が、私も含めて、心いやされ、体もいやされ、悪しき力からも解放され、主の恵みの年を体験しながら、生きていただきたいと願っています。

 最後に、私の後について祈っていただきたいと思います。「イエスさま」と言ったら、「イエスさま」と繰り返し、ご一緒に祈ってください。よろしくお願いします。


イエスさま、今私は、あなただけを、私の神とし、主とし、仕えていきます。
心の傷をいやしてください。家族の傷も、国の傷も、すべていやしてください。
自由にしてください。
病のいやしについて祈ります。
私の病、家族の病も、親族の病も、いやしてください。

病や傷の後ろに働く悪魔の力に立ち向かいます。
悪魔よ、よく聞け。家族の中から出て行け!病から手を離せ!

主の恵みの年を体験させてください。
聖霊様来てください。
天の軍勢を配備してください。
イエス・キリストの名前でお祈りします。
アーメン。


 ハレルヤ。天の父なる神様、感謝します。クリスマスの良き日に、あなたは私たちに解放を与えてくださいます事を感謝します。主の恵みの年は実現したとイエスさまは宣言されました。ルカの四章の宣言を、私たちへの宣言として、受け取ります!
今日は私たちの心の傷に、いやしを与えてくださると信じます。人生の中で、また家族の中で受けた、すべての傷をいやしてください。気がついた時には、心の傷が消えて、明るく生きる力が与えられますように。
 また病に対しても、主が触れてくださることを感謝します。私たちは被造物の一員として、あなたが造られた被造物のただ中で、そのうめきとともに、あなたに叫びます。主よ、私たちの病もいやしてください。人間の手ではどうにもできない病がいやされますように。そして主よ、今日ここにおられるすべての方々、家族、親族の様々な問題も、消え去りますように。背後で働いている悪しき力が打ち砕かれ、悪霊どもが打ちのめされるだけでなく、彼らが捕虜として凱旋の行列に引き出され、彼らさえも主をほめたたえる側に加えられますように。
 主の恵みの年を私たちの上に実現してください。ここにおられるお一人一人、インターネットで礼拝を守っておられる方々、その他、すべての方々のために、主は来てくださっていることを感謝します。主の恵みの年を宣言します。ハレルヤ。
 今週は、大きな勝利を見ることができますように。この大きな恵みを、一人でも多くの方々に、すべての被造物に宣言する者として用いてください。
すべての栄光をお返しして、主の御名によって祈ります。アーメン!