「神の御手を動かす捧げ物」

2018年1月21(日)
新城教会牧師 四元雅也
ヨハネの黙示録8章1~6節

『小羊が第七の封印を解いたとき、天に半時間ばかり静けさがあった。それから私は、神の御前に立つ七人の御使いを見た。彼らに七つのラッパが与えられた。また、もうひとりの御使いが出て来て、金の香炉を持って祭壇のところに立った。彼にたくさんの香が与えられた。すべての聖徒の祈りとともに、御座の前にある金の祭壇の上にささげるためであった。香の煙は、聖徒たちの祈りとともに、御使いの手から神の御前に立ち上った。それから、御使いは、その香炉を取り、祭壇の火でそれを満たしてから、地に投げつけた。すると、雷鳴と声といなずまと地震が起こった。すると、七つのラッパを持っていた七人の御使いはラッパを吹く用意をした。』

 ハレルヤ!主の御名をほめたたえます。今日もこうしてみなさんと一緒に礼拝を捧げることのできる恵みを心から感謝しています。

 新年明けて、三週が経ったということになりますが、まだまだ二〇一八年始まったばかりだぞ、という感じもします。こんなことをしているうちにどんどん過ぎていくんだろうなと思いますが、最近はちょっと春と思うような天気も続いております。一方、今も上條先生がお祈りしておられましたが、インフルエンザがこの地域でも流行っていまして、気を付けていかなくてはと思うわけです。
 教会は毎週三百名以上の方が礼拝を守っていますので、やっぱり教会の事務所のほうにも、「だれそれがインフルエンザにかかったそうだよ。」と、そういった情報が入りまして、お祈りしたりもするのですが、お互いに祈り合いながら気を付けていきたいものですね。

 いつも家族ネタで申し訳ないのですが、一昨日、我が家の三男が「お父さん、礼拝出なくてもいい?」と聞くものだから、なんで?と聞いたら、「だって、僕、絶対にインフルエンザにかかりたくないもん!」と言うのです。彼はちょっと心配性なところがありまして、ちょっと気になり出すと頭から離れなくなる性分があって、そんなことを言いだしました。それは私、却下したのですが、でも考えてみると、大勢の方たちが集まるこのような場所で礼拝が捧げられるということは、ある意味ですごいことだなぁと思います。

 二週間前、うちの長男もこの場所でもみなさんにお祝いしていただいたのですが、成人式がありました。みなさんにもお祝いの言葉をかけていただいて感謝しております。
彼も新城市の成人式に出ました。二十歳の子ばかりが何百人か集まりまして、いろいろと友達と思い出を語り合いながら、夜遅くまで出歩いていたみたいなのですが、そこで彼はインフルエンザをもらってきて、月曜日の夜から熱っぽくなって、火曜日に病院に行きましたらインフルエンザでありました。それで我が家では彼を隔離して、部屋の中から絶対に出さずに土曜日まで彼は部屋に引きこもっていました。家族には誰も移らなかったので、心から感謝しています。

 大勢が集まるところというのは、そういったリスクがあるのですが、考えてみると、僕の記憶の中で、教会の中で集団インフルエンザ感染なんていことは今までなかったのです。だから、この教会で礼拝を守る時には、神様が天使を遣わして、インフルエンザも荒ぶらないように、またうつらないようにしてくださっているのかなぁと思って心から感謝した次第であります。
だから三男にも「祈って礼拝に出なさい!マスクはして行きなさい」と言いました。
そういった責任もあるので、僕も昨日今日と特にインフルエンザから守られるように真剣にお祈りさせていただいています。

 最近は特に、被造物を管理する、また被造物に主の名をほめたたえさせよといったテーマの中で、順牧師を中心に、特に微生物とかウイルスとか、そういった話題にも触れられていますよね。「あなたはひとりぼっちなんかじゃない!」って。どんなに孤独だと感じている方がいらっしゃったとしても、絶対にひとりではありません!あなたはたくさんの友達に囲まれています!と、それも一人二人じゃない、何十兆、何百兆もいて、それがみなさんお一人お一人の体の中に住んでいる微生物であります。

 ところで、先週日曜日に放映されたNHKスペシャルで「人体」というのをやっていましたが、ご覧になった方、どのくらいいらっしゃいますか?
 最近トレンドな話題ですので、興味を持たれた方もいらっしゃると思います。その番組では「腸」についてレポートされていましたが、僕も見ました。スライドを見ていただきたいと思います。

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 これは実際の写真で、腸に張り巡らされた神経細胞であります。人間の体の中で、腸は脳に次いで神経細胞が多く張り巡らされている、そういった場所だということです。「第二の脳」なんて言われる所以です。
 私たちは意識を全くしていないですが、実は最大限の関心をもって腸に注意を払っているのです。それだけ神経を張り巡らせているわけですから。そして、腸の様子を見守っているということなのです。何を見守っているのかというと、簡単に言えばそこに生きている私たちのお友達、腸内細菌が出す様々なメッセージを見逃さないようにと見張っているわけですね。二十四時間、三百六十五日です。

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 私たちの強い味方、腸内細菌!

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 これはミミズグミです。本物のミミズを出すとグロいのでちょっとまずいかと思って、グミにしました。ミミズは全身が腸みたいな生き物です。腸がそのまま生きているような生き物なのですが、ミミズの場合は腸による体のコントロール機能の方が脳によるよりも複雑・優位であるみたいです。ミミズの脳というのはとても単純で、だいたい食べることくらいしか考えないそうです。でも腸は他のこともいろいろ考えて、脳とも連携を取っているみたいですが、そんなふうにできているみたいです。

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 腸内細菌が免疫細胞と連携し命を守っている。これがNHKスペシャルのメインテーマでありました。腸内細菌が私たちの免疫機能と密接に関わっています。
 私たちは自分の持っている細胞を遙かにしのぐ、何百兆と言われましたが、多くの微生物の協力によって初めて生きることができるのです。

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 これが小腸のイラストです。やはりミミズみたいに見えます。中部がしわしわになっていて、そのしわしわには小さな毛のように絨毛と呼ばれるひだひだが出ています。右側のイラストが絨毛の拡大図です。

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次が絨毛の顕微鏡写真です。血管が絨毛の中を行き巡っています。

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 次はある特殊なフィルターを通して絨毛をとらえた写真ですが、絨毛の中に見える赤いものは、なんと全部免疫細胞だというのです。免疫細胞が腸の中にはぎっしり詰まっているということなのです。

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 次のイラストを見ますと、絨毛の中にはこんなふうに免疫細胞が詰まっていて、実に体内の全免疫細胞の七割が、このように腸に存在しているのです。

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 腸の中は、免疫細胞が訓練される訓練所です。これは絨毛の断面のイメージですが、腸の表面に所々、青い部分があります。そこは穴みたいになっていまして、ここからいろんな腸内細菌が、腸の中に取り込まれていきます。取り込まれると、金平糖のような細胞が取り込まれた細胞を免疫細胞の所まで運んでいきます。

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 ある腸内細菌はこの免疫細胞には仲間だと認識される。

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 しかし、中には害をもたらす細菌も運ばれてきて免疫細胞には敵として学習されていく。こういうふうに、免疫細胞は、何が友達で何が戦わなければならない細菌であるのか、サンプルを受け取って学習していく。そして、学習が完了した免疫細胞は、敵、味方を見分けられるようになって、腸から全身に派遣されていくというわけです。

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 腸の中で先ほどの神経細胞がウォッチングをして、そろそろいいぞ!出て行け!みたいな感じになっていくわけです。

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 これは実際に顕微鏡で撮られた免疫細胞です。体内で働く免疫細胞が緑に光るようにして撮影しています。

もう一つ重要なことは、別の免疫細胞があるというのです。Tレグという免疫細胞です。この二つは元々は同じような免疫細胞訓練生です。

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この女性は番組の中で紹介されていたイギリスの女性です。自己免疫疾患を患っている女性であります。

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 自己免疫疾患というのは、原因がなかなか特定できていなかったのですが、免疫細胞が自分勝手に暴走してしまっているのです。敵だけやっつけてくれたらいいのですが、暴走し始めると敵だけでなくて、敵ではないものや自分の体の細胞なんかもやっつけ始めるのです。それが過剰なアレルギー反応という形で現れるのです。
 この方は、髪の毛、涙、花粉、汗などでも、重篤なアレルギー反応を起こす危険があるということで、食べ物も本当に数少ない種類の食べ物しか食べられず、いつも薬を何十錠も飲んで、なんとか免疫の異常を抑えようとがんばっているのですが、なかなか難しい状況が続いて、今まで何度も死線を通ってきたという方です。

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 免疫細胞が暴走し始めると、興奮している免疫細胞からいろんな興奮物質が出るみたいで、正常な免疫細胞にも、どんどん伝染していっちゃうというのです。そして、敵でないものまで攻撃するとアレルギー反応で命が危険にさらされる。

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 そこで全く違う働きを持つTレグという免疫細胞が働くのです。次の写真を見ますと、異常な興奮をしている免疫細胞に近づいて行って、興奮を静める物質をTレグが放出します。すると興奮が収まる、そういうメカニズムがあるのです。

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 そして、元々は同じ免疫細胞なのですが、免疫細胞をTレグに変化させるのに重要な役割を持っているのが「クロストリジウム菌」という、これがまた腸内細菌だというわけです。

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 クロストリジウム菌は、腸内細菌でして、腸の中で宿主の人間が食べた食物を分解したりしているのですが、分解する時にある物質を出して、それが腸の中にいる免疫細胞に届くのです。

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 『「落ち着いて」物質』というふうに番組では紹介されていました。これを腸の中にいる免疫細胞が受け取ると、「Tレグ」に変貌するということなのです。元々は免疫細胞だったのが、腸の細菌によって訓練されると、敵を攻撃する「免疫細胞」にもなるし、クロストリジウム菌の「落ち着いて」物質を受け取ると、免疫機能の暴走を抑える「Tレグ」になるというわけです。

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 このTレグが、また腸から全身に行き渡って行って、先ほどのように全身の免疫力をコントロールしていると報告されておりました。

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 いや〜、腸内細菌のおかげで我々は病気からも守られる。また免疫細胞というのは、ちょっと神経質なところがあって、常にどこかに敵がいないかと体中を探し回るわけですが、働きが過剰になり過ぎちゃうようなときには、Tレグが抑えこんでくれるのです。

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 この女性の腸内細菌を調べてみますと、クロストリジウム菌が健常者よりも少ないことが分かったそうです。それが発症に深く関わっているのではないかということで、クロストリジウム菌の出す「落ち着いて」物質を医療的に補うことで、病状が改善されていく、ということが最新の医療の中で将来性のある医療方法として注目されているのです。
 腸内細菌が体の中に正常な割合で分布していることを通して、人の体というのは病気から守られている。それがなんらかの原因でバランスが崩れてさまざまな病気が起こる可能性があるということです。

 私たちの友達である体内細菌が一生懸命がんばってくれているということは、我々にとってどれだけ大きなメリットをもたらしているのか、その共生関係が大切なんだということを今回具体的に教えられたわけです。

私たちはよく病気にかかると、それ抗生物質だ!と、原因の細菌を殺しちゃったりするわけですが、見境なく殺したりすると良い菌まで死んでしまうようなこともあるので、考えものだと最近の医療では注目されるようになっています。
もちろん病気の時には原因菌を殺すことも、必要なこともあるのですが、私たちは主の御名によって細菌たちも管理させていただき、そして人間の罪によって、地にもたらされた呪いが解かれるようにと、祈っていかなくてはいけないと教えられた次第であります。

 先週の礼拝では順牧師が散歩道の脇にある榊を栽培している畑についてお話していました。榊というのは、神棚など偶像の前に生けられたりして、偶像礼拝用アイテムになっていますので、以前は、「ちくしょう、この榊め!」と思っていたけど、最近は逆転の発想が与えられたというのです。
 榊が福音を受け取り、偶像の真ん前で主をほめたたえたら、悪魔どもも腰を抜かすくらいびっくりするんじゃないかと。だから、榊に対して「主をほめたたえなさい!おまえたちもがんばれよ!」と励ましている、そんなお話をされていました。
 僕もその話を聞いて、励まされました。なぜかというと、うちは母の実家はみなさんご存じのように石材店をしております。職業を差別するつもりはありませんが、石材店は偶像を作る職業でありますので、そういったことを生業とし、私も母もそんな中で育まれているわけで、クリスチャンとして悲しいというか、嬉しいことではないわけです。

 現在よく見られる日本的な石造りのお墓が建てられるようになったのは、戦後の高度成長期からです。それ以前は死者の埋葬法は土葬で、土葬をしたら石のお墓には納まりませんので、元々はみんな墓石なんか建てませんでした。しかし、高度成長期に墓石をどんどん庶民が建てるようになってくれたおかげで、母の実家は生計を立て、我々もその中で育まれてきているわけであります。
 そんなことで、やっぱり、偶像を作っていると思うと寂しさがあって、有賀先生も実家が石屋だったと聞いてちょっと慰められたりしながら歩んで来ていたのです。
ところが最近、私は「墓石も被造物ではないか!」と気づいたのです。人間によって造形されて偶像として扱われているのですが、墓石にとってみれば、不名誉な役割を負わされているわけです。「墓石」だけに、「意志」はないのですが、墓石に意志があったら、「なんで俺をこんな形にするんだ!俺に手を合わせるなよ!」といって嘆くと思います。
 でも、やっぱり逆転の発想で、悪魔どもでさえ捕虜になったら、主をほめたたえさせることができるなら、被造物だって同じですので、墓石にも人間が与えた不名誉なんか捨てて、被造物として本来の役割である主の栄光のために存在できれば素晴らしいのですから、「主をほめたたえろ!」と命じてもいいんだ、と僕も思っていました。そうしたら、先週、順先生も榊の話をされて、僕も励まされました。
 そのうち、日本中の墓場から主を賛美する大合唱が響くようになったらいいなと思っているのです。きっとみなさんの身近にも墓場がありますので、みなさんの散歩道の脇にでも墓場があったら、「主をほめたたえろ!」と宣言していただけたらと思います。

 今日は昨年末、カウントダウンで私がお話しさせていただきましたそのみ言葉を、もう少し掘り下げ、また復習になるところもあると思いますが、みなさんで学んでいきたいなと思います。

 先ほど上條先生に読んでいただいたヨハネの黙示録のみ言葉ですが、ヨハネの黙示録は、神様のみ子であるイエス・キリストが、旧約聖書の預言にしたがって、この地上に人となってお生まれになり、救い主として、また完全な人として歩まれて、さまざまな奇跡、悪魔からの解放を行ない、そしてみ言葉を宣言されて、そして預言の通りに、私の罪のために十字架を通って救いを成し遂げられ、三日目によみがえられて、天にあげられた。その後、教会の時代が始まって現在まで恵みの時代として続いています。
 そしていつか分からないけれども、この世の終わりの時に、再びイエス様が私たちのところに戻って来られる。この地球に戻って来られる。これを「再臨」といいます。この再臨が、ヨハネの黙示録の最大のテーマなのです。
 黙示録の一番最後、二十二章の二十節を見ると、こう書いてあります。

『これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。』

 このみ言葉をもって、ヨハネの黙示録は締めくくられています。イエスさまが再び来られるのはいつか分からないですが、未来のどこかでイエス様は確実に来られるのです。こういうわけでヨハネの黙示録は未来のことについて記されているということなのです。
 黙示録を読んでいきますと、難解なところもあると思うのですが、教会に対しての叱責があったりとか、また患難時代であったり、この地の裁きについても書かれています。
 そして、再臨が来た時には、私たちもよみがえって神の前に出されて、父なる神の前で最後の審判を受けるということも書かれています。だから、私たちクリスチャンであっても黙示録を読むと、「なんか怖いことが書いてあるな、自分が恐ろしい目に遭うのではないか」と恐怖を受け取る方もおられるかもしれません。
 しかし、それはちょっと違います。黙示録は、死に打ち勝たれて、私たちのために勝利を取ってくださって、この主イエス・キリストが、再び私たちをあがなって、永遠に主と共に生きる、その場所へと、私たちを導きいれてくださる、その再臨を最大のテーマにしているわけです。
 私たちクリスチャンは、再臨の時を心待ちにして、主イエス様!ふたたび帰ってきてください!マラナタ!と、宣言しているわけですので、この黙示録は、私たちに恐怖を与える書ではなくて、私たちに最大の希望を与える書物であるわけです。

 再臨に関わる聖書の記事に対して、歴史を通じてさまざまな解釈がなされています。山﨑ランサム先生がこれを大きく四つに分けて、以前サンデースクールの中で私たちに紹介してくださいました。
 ちょっとスライドを見ていただきたいと思うのですが、再臨を四つに区分されています。

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 その一つが、「1.千年期前再臨説」というものであります。この中に、細かく二つの説が存在しております。
千年王国というものが、この地上に実現して、そしてそれから最期の審判があって、そしてキリストによる永遠の支配というのが起こされていくわけですが、その前に、再臨が二段階にかけて訪れるという説であります。
患難時代というものがありますが、この患難時代の前に携挙があって、患難時代の後に再臨があるというのが、「1a.患難期前携挙説」ということです。
説明の順序が反対になってしまって申し訳ないのですが、一番左にあるのが、イエス様の初臨で、そこで十字架の贖いがなされて、教会による福音宣教の恵みの時代はこの黄色いラインの所です。その後、携挙(空中再臨)が起こります。これは主イエスさまが空中に来られて、主イエスにあるクリスチャンたちが、空中に引き上げられてイエス様と出会い、その後でクリスチャンがいなくなった地上に患難時代が訪れ、その後に再び主が再臨(地上再臨)されて、この地上に千年王国というパラダイスのような状態が実現するというのです。それらの後で最後の審判、キリストによる永遠の支配へと続いていくというのが、「1a.患難期前携挙説」ですね。
 「1b.患難期後携挙説」では、この携挙と再臨とが一度に起こる。二段階の再臨が同時期に起こる。それも患難時代の後に起こるということです。ですから、ここでは患難時代にクリスチャンもその中にいるということになります。その後で、千年王国、最期の審判、キリストによる永遠の支配へと続いていくわけです。

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 そして次に、「2.千年期後再臨説」というのがあります。これは、イエス様が十字架に架かられて、天に昇られて、教会の時代・恵みの時代があるのですが、その時代において福音宣教が実を結び世界が福音化されるということが起こります。福音宣教が世界中で実を結んで、そして世界中でクリスチャンが多数になるということですね。そして、千年王国が「千年」なのか「ある期間」なのか分からないのですが、教会の時代の中に、そのように世界中に福音が満ち溢れる時代が来る。そして、再臨、最期の審判、そして永遠のみ国、と続いていくという説考え方です。

 三番目は、「3.無千年期説」という説です。これはイエス様の十字架があって、教会の時代が来るのですが、その中で千年王国がこの地上での現実的な形でではなく、すなわち世界の福音化という形ではなくて、霊的な象徴として現される。そして、再臨・最期の審判が起こり、キリストの永遠の支配へと続いていく、という説です。

 冒頭に読んでいただきました、黙示録八章一節〜六節のみ言葉なんですが、このみ言葉の後に、先ほどちょっと申しましたが、神様による裁きが起こってくることが記述されています。まずはラッパの裁きから始まって、その後鉢の裁きが起こって、人類の三分の一が死んだとか、魚の三分の一が死んだとか、いろいろな恐ろしい出来事が起こるということが描かれているのですが、これらの裁きが1の千年期後再臨説では再臨の前に起こる大患難時代だと解釈されているのですが、2と3の節では、それぞれ違った意味で過去に起きた出来事、もしくは現在起きている出来事を指していると解釈されています。

 ですから、私たちは、患難期がこれから起こるという考え方に固執しないほうが良いと思います。いずれにしても未来に起こることでありますので、神様がご存じのことでありますので、絶対にこの説だ!他のは違う!という考え方ではなくて、どの説のようであっても、あるいはこれらの説と違う形で現されたとしても、受け止めていくことができるように心がけることが大切である、そんなふうにサンデースクールの中で聞いたと思います。

 疑問に持たれた方は山崎ランサム先生にもっと詳しくお聞きいただければと思いますが、この四つの説で共通している事柄が三つありまして、主イエスは再臨される。これは確実ということですね。また肉体の復活と最期の審判がある、これが二つ目ですね。そして三つ目は、クリスチャンが主イエスとともに永遠に支配する。永遠のみ国が訪れる。これはどの説も同じように起こるとされています。

 今日のメッセージでは、大患難時代といわれるラッパの裁きと、それに続く鉢の裁きがどのようなものであるのかという点については詳しく触れないでお話ししようと思っています。ただこれらの出来事は、神様による地上への直接的な介入がなされて、結果として主が再び地上に立たれる最終的な「再臨」へとつながっていく、そういった期間なのだという、そういった理解で話を進んでいきたいと思います。

 そこで最初にお読みした一節〜六節のみ言葉なのですが、ここで「金の香炉」というものが出て来ます。この金の香炉は、神様に対してかおり高い香をたくためのものです。これは旧約聖書の出エジプト記に出て来るものでありますが、スライドをお見せしたいと思います。

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これがモーセによってエジプトを脱出して、カナンの地に向かう神の民に、神様が神様を礼拝するために作るようにと、モーセに命じられた幕屋であります。
 これ、幕で垣根を作って、中で神様にいけにえを捧げるための祭壇が設けられて、火が燃えているのがそこですね。イスラエルの民が神様の前に礼拝を捧げるために、動物の捧げ物を持って来たりして、この場所で礼拝を捧げておりました。そして、この奥に、テントのようなものが建っておりますが、ここに雲の柱が立っていますが、神様の臨在がそこに表されていますが、これが幕屋であります。

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 平面図が書かれていますが、東側に入口があって、祭壇、そして旋盤、そしてその奥に聖所、至聖所と続いていくわけですが、手前にある聖所の所には、そなえのパンの机と、金の燭台と、香の壇、そしてその奥にある至聖所の中に契約の箱というものが置かれていました。

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 大祭司がこの聖所の所で、神様を礼拝している、そういったところであります。これ、本当は幕屋で、手前の契約の箱とその向こう側と遮られているのですが、イラストでは便宜上取ってあります。ここに香の壇、机、燭台というものが置かれておりました。

 この香の壇で炊かれていた香の煙こそが聖徒の祈りだというわけです。聖徒たちの祈りが煙で象徴されているわけですね。

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 これが香の壇のイメージ図ですが、こんな形をしていたのではないかと言われています。

 この聖徒の祈りを神様の前にとりなすのが、大祭司の務めであったわけです。聖徒たちの祈りとは、私たちが考えているような風邪を引いたので治してくださいとか、こういったものが欲しいので主よ与えてくださいとか、そういった祈りではなくて、神様のご計画に関わって、神の御手を動かす、そういった御心を捉えた祈りだということができます。

 その祈りはどんな祈りなのか?使徒パウロはローマ人への手紙八章二十六節~二十七節で次のように述べています。

『御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。』

 ここで聖徒たちの祈りが、どのように祈ったらいいか分からないんだけど、内にいらっしゃる聖霊様ご自身が、深いうめきで、私たちのためにとりなしをしてくださっていると書かれています。
 そして、聖霊が神のみ心に従って聖徒のためにとりなしの祈りをされるということを通して、私たちの祈りが神様の前に届いていくのです。その祈りは、被造物らと一緒に、切実な思いでうめきながら神の前に捧げられる祈りであるというのです。ローマ人への手紙八章十八節〜二十三節には、このように書いてあります。

『今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。』

と書いてあります。
 人間が罪を犯した時に、神の前から引き離されて、そして堕落の歴史が始まっていったわけですが、人間と同じように、被造物も人間に付き合わされて呪いの元に置かれてしまったわけです。
 それは創世記の三章の所に書いてありますが、被造物は、それ自体によるものではなくて、人間の堕落によって神様から引き離されているので、常にうめきをもって神様の前に立っている。神様と被造物の間には、敵対関係というものはない。人間の悪を被造物が受けて、そしてある意味で人間の罪のゆえに呪いを受けてしまっているけど、贖われることを願ってうめいているというわけです。
 しかし、私たちが和解の使者として、土地に和解を宣言し、被造物のうめきと、私たちのうめきが一緒になり、聖霊様のうめきと共に、神様の前に立ち上ると、本当にみ心にかなった祈りがその中で捧げられていくのです。ローマ人への手紙八章二十八節、

『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』

というみ言葉が実現していくのです。「すべてが益となる」に結びつくためには、この八章十八節〜二十七節が大変重要です。被造物のうめきと、また私たちのうめきと、そして聖霊ご自身がうめいて捧げてくださるとりなしが、すべてつながって、神の前に捧げられていく時に、神様が御手を動かされ、すべてのことを益としてくださるということです。
 黙示録八章四節、五節を見ますと、こうなっています。

『香の煙は、聖徒たちの祈りとともに、御使いの手から神の御前に立ち上った。それから、御使いは、その香炉を取り、祭壇の火でそれを満たしてから、地に投げつけた。すると、雷鳴と声といなずまと地震が起こった。』

ここでは御使いが祭壇の火を取って祈りの香炉に火を付け、それから地に投げつけたとあるのですが、これはどういう意味でしょうか?これは聖徒たちが捧げた祈りの答えが地にもたらされていくということを意味します。

 第一列王記で、有名なバアルの預言者と戦ったエリヤの祈りを思い起こさせます。エリヤが、「すべての民があなたこそ神であることを知らしめてください!主よ、答えてください!」と祈った時に、主は火をもって答えられた。天から火が下って地に注がれて、すべての捧げ物を焼き尽くしたとあります。
それを見た民がひれ伏して、「主こそ神です。主こそ神です」と、主を賛美したと書かれています。
御使いが祭壇から取った火のついた香炉を地に投げつけるというのは、御心にかなった祈りに対しての答えが地にもたらされるということを意味しています。
 そして雷鳴と声といなずまと地震が起こったのは何を意味しているかというと、神ご自身の現れです。神様の顕現すなわち神の臨在の現れです。
出エジプト記では、シナイ山にモーセが登っていき四十日四十夜断食したとき、神がイスラエルの民の前に、シナイ山の上に現れた記事が書かれています。
 その時に、モーセと麓にいるイスラエルの民の前にご自身を現されたことが書かれています。出エジプト記十九章十六節〜十八節、

『三日目の朝になると、山の上に雷といなずまと密雲があり、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がった。モーセは民を、神を迎えるために、宿営から連れ出した。彼らは山のふもとに立った。シナイ山は全山が煙っていた。それは主が火の中にあって、山の上に降りて来られたからである。その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山が激しく震えた。』

 祈りに答えて神様ご自身が現れてくださって、号令を発せられたのです。直後に、いよいよ七つのラッパが吹き鳴らされ、地に裁きがもたらされる、すなわち、神のみ業がその後で始められていくということを意味しています。

 そして、もう一つ大切な要素として、最初にお読みした八章の前、七章の所に、賛美に関する記事が書かれているのですが、賛美も重要な要素として挙げることができます。黙示録七章九節〜十二節、

『その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。彼らは、大声で叫んで言った。「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。」御使いたちはみな、御座と長老たちと四つの生き物との回りに立っていたが、彼らも御座の前にひれ伏し、神を拝して、言った。「アーメン。賛美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢いが、永遠に私たちの神にあるように。アーメン。」』

 ここでは、主に連なり従った先人たち、それが誰にも数えることもできないような大勢の群衆となって神の前に立った。それと共に、神のみ座の周りにいた四つの生き物と二十四人の長老たち等、み座の周りにいた者たちも一体となって、大声をあげて主をほめたたえた、という記事が書かれています。どれほど大きな響きが、天のみ国で起こっていたかと思います。この賛美が捧げられたあとで、御使いが聖徒の祈りの香をみ座の前に捧げた。そして、祭壇の火を取って、香を地に投げつけて、いなずまが起こって、地震が起こって、そしてラッパのさばきとつながっていくわけですね。
 ということは、直前に捧げられた賛美を通して、また次に捧げられた香のかおりを通して、神様のみ業が引き起こされていくのです。
 ということは、その捧げられていた賛美、また香の煙というのは、神のみ手を動かし、神のみ業を地にもたらす舞台を神の前で作り出したということです。賛美と祈りが捧げられた時に初めて神様ご自身が自らみ声を出して、この地にみ業が成し遂げられたということであります。

 その中には、神様のいやしがあるということも書かれています。なぐさめがあり、平和があるということも書かれています。八章のみ言葉と、七章の今読んだみ言葉の間の所に、こんなみ言葉があります。黙示録七章十六節〜十七節、

『彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。 また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。』

 新城教会に多くの兄弟姉妹が集って、甲子園以来、賛美の働きが建てられ、そしてまた、とりなしの祈りや戦いの祈りという領域が開かれて今日まで継続してなされ、さまざまな実がその中で結ばれて来ておりますが、去年から被造物も共に主をほめたたえ、また被造物が贖い出され、神様の前にすべての勝利が宣言されることが起こされてきた中には、これに続く神様の具体的なみ業が起こされるための舞台が整えられて来たのだと、今日受け取ることができます。
 二〇一八年に向けてのみ言葉として、本当にすばらしい、神様の約束として、このみ言葉を受け取った次第であります。

 二〇一八年は、神様がより力強く、具体的な業を通して、私たちの教会の中に働いてくださる。そこには癒やしがある、また慰め、平和があると、黙示録のみ言葉の中から知ることができます。私たちはこの年、さらに被造物も共に和解を受け取りましょう。

冒頭に少し腸内細菌のことを紹介させていただきましたが、私たちの体もそのような中で健やかにされて、そして力をいただいて、そしてまた多くの人々の罪の中にあるその状態から神様の前に解き放たれて、そして大いなるみ業を見させていただくことができるように、被造物も、また私たち一人一人も、また私たち家族、親族も、共々に主の前に心から賛美を捧げ、また祈りを捧げ、神様のみ業を受け取らせていただく、そのような年となることができるように、主の前に皆で期待してお祈りしていきたいと願わされております。

 神様がみ業を現される前、黙示録八章一節を見ると、興味深いことに、

『小羊が第七の封印を解いたとき、天に半時間ばかり静けさがあった。』

と書かれています。黙示録四章を見ると、二十四時間、三百六十五日、絶えることなく、み座の周りにいる獣と長老たちは賛美を捧げ続けていると書いてあります。
 だから、神のみ座の前には、絶えず賛美が響いているのです。しかし、八章一節の所では、それも止んで、静けさがあったと書かれています。その静けさの中で、み使いが香の煙を立ち上らせて、み座に届けたと書かれているのですが、この箇所を、神様ご自身が聖徒の祈りを待っていてくださる、と言った方がおられました。
 神様は、私たちがどんな祈りを捧げるのかなと固唾を飲んで待っていてくださる。その祈りが、聖霊のうめきと共に被造物と共に主に立ち上る煙となって上がって行く時、神様が大いなるみ業を現してくださると、本当に今日そのように信じて、お祈りをしていきたいと思います。

 今日は特に、腸内細菌のことについて紹介しました。最近何回となくこの場所でも語られている中にありますが、み言葉にも主がなされるみ業の中で、私たちが癒やされることも書かれておりましたので、癒やしのために、特別お祈りをしていきたいと思います。
 病は私たちと被造物の間にある敵意がその元になっているのかもしれません。私たちが罪のゆえに神様から離れていた、その生活の中で、またこの地がさまざまな悪しき策略によってねじまげられて、その結果悪い影響を私たちが受けていたとしたら、今日はそこから回復されることができるように、みなさんでご一緒にお祈りの時を持ちましょう。
 その癒やしのみ業が今週の私たち一人ひとりの歩みの中で実となって現されるような一週間となることができるように。そして、すべての被造物が主をほめたたえるようにと祈りましょう。

 ハレルヤ。天のお父様、今私たちは被造物を思い、あなたのみ座を思ってお祈りを捧げました。この祈りをあなたのみ座の前にささげられた香の煙のように受け取ってくださいますように。そして主よ、あなたのみ手を動かす、あなたのみ心にかなった祈りとして受け取ってくださいますように。
 主よ、私たちがあなたを礼拝し、賛美し、祈りを捧げる中で現してくださるそのみ業を、今日私たちが一人一人、この身に体験していくことができますように。主イエス・キリストのみ名により、心から感謝してお祈りいたします。アーメン。