「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る」

2018年2月18(日)
新城教会牧師 上條実
ヨハネの福音書11章39節~45節

『イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。』

 ハレルヤ!今日皆さまと一緒に生きて働く、主に礼拝ができますことを心から賛美いたします。
 お祈り頂いております「リバイバルミッション二〇一八」は金曜日から中国・四国地区が始まり、今日は岡山市内で礼拝と午後からの二回集会が開催されます。講師が平岡修治先生、音楽ゲストとしてサックス奏者の安武玄晃さんがご奉仕下さっています。是非お祈り下さい。
 また滝元順先生と奥様は「霊的戦いセミナー」を、関西地区の各教会で行っています。今日は大阪市内の教会で礼拝と午後にセミナーが行われますのでお祈り下さい。
 では早速読んでいただきましたみ言葉から学んでいきたいと思います。新約聖書の使徒の働き二章十七節に、こんなみ言葉があります。

『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。』

 今多くの若い兄弟姉妹が教会で活躍してくださっています。賛美の奏楽や特別賛美、また各集会を見ても若い世代の兄姉がご奉仕下さっているのを見て、感謝だと思います。
自分もまだ若いと思っておりましたが、去年で六十才になりました。そして現在六人の孫がいます。確かに「おじいちゃん!」です。長男の所の孫たちは、「おじいちゃん!」と呼んでくれます。次男の所は「みのるじいじ」と呼んでくれます。そして今週の土曜日で一才の誕生日を迎える三男の所の孫は、三男夫婦が彼女に一生懸命教えてくれて、つい最近「じいじ」と言えるようになりました。先ほど読みました使徒の働き二章十七節では「老人は夢を見る」と書かれています。今日のメッセージは夢の中で教えられた事柄を学んで行きたいと思います。
昨年の十二月中旬ごろ、二〇一八年の教会に対して、また私に対してのみことばを求めて祈っておりました。その時先ほど司会者がお読み下さったヨハネの福音書十一章三九節から四五節のみことばが与えられました。しかしこのような「ラザロよ、出て来い。」と宣言した時、死んだラザロが甦ったという奇跡の出来事が目にとまったのは、私の妻が病気だから、自分の思いでこのヨハネの福音書十一章が目にとまったんではと思いました。その為その夜就寝時に、

「自分の心でみ言葉を受け取るのではなくて、神様が新城教会と私に与えてくださるみ言葉を与えてください。もしこのヨハネ十一章が、私たちの教会、また私に必要なみ言葉であるならば、私に分かるように教えてください。もし違う箇所であるならば、私にハッキリ分かるようにお示し下さい」

と、祈って就寝しました。私は普段、夢は見ているとは思いますが、全く覚えていません。
そんな私ですが、その夜から三日間続けて夢を見ました。それも私が読んだ聖書のことばヨハネの福音書十一章からメッセージを作成するために、他のみことばを引用してメッセージを組み立てていました。しかも三日間ちがう角度からのメッセージを組み立てていました。そしていつもなら起床したらすぐに忘れてしまう者なのですが、この三日間は違いました。そんなことがあって確かに、このヨハネの福音書十一章は二〇一八年用として語って下さったみことばだと信じることができました。

『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。』

というみ言葉で老人は夢を見るとありますが、今回主がおじいちゃん。実じぃじ。じぃじとして、老人としてヨハネ十一章一節から六節のみ言葉を語って下さったと信じて、皆さんとともに学んで行きたいと思います。

このヨハネによる福音書十一章にはマルタと、マリヤ。そしてラザロと言う名の兄姉が登場してきます。この兄姉はとてもイエス様に愛されていた人たちでした。しかしこの家族に大きな試練が訪れました。それはラザロという男性が病気にかかり、死んでしまったのです。ヨハネによる福音書十一章三節から六節を見るとよく分かります。

『そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。 』

イエス様はマルタとマリヤの使いによってラザロが病である事は知っていました。しかし
「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」

と語り、二日間ラザロの元に行く事をせずに同じ場所にとどまっておられたのです。そしてラザロの元に出かけた時には、既にラザロは亡くなっており、四日目になっていたということです。ヨハネ十一章十七節には、

『それで、イエスがおいでになってみると、ラザロは墓の中に入れられて四日もたっていた。』

と書かれています。死んだ人の姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」とあるように死臭で臭くなっていますとあるわけです。もう手遅れ。「THEEND」の状態でした。だからマルタは、ヨハネ十一章二十一節で、イエス様にこんなことを言っています。

『マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。』

 また同じ兄弟のマリヤも、ヨハネ十一章三十二節に、

『マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」』

 と言っています。生きている時に来てくれたら癒やされたのに。死んでしまったからもう遅い。死んで四日もなっていて臭くなっている。なんでイエス様は早く来てくれなかったか?イエス様に対して怒りというか、使いを使わせたのになぜ来てくれなかったんだ。もう遅いとあきらめてしまっています。そんな時に、ヨハネ十一章三十八節~四十節、

『そこでイエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてあったイエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」』

 「石を取りのけなさい。」「取りのけたらもう臭くなっている。無理。」と言っています。しかしイエス様は、「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る」とわたしは言ったではありませんか。語っています。そして、イエス様が石を取りのけたわけではなく、マルタ、マリヤ、その関係者で石を取りのけました。すると「ラザロよ。出て来なさい。!」と宣言しました。するとありえないことが起こりました。奇跡が起こりました。死んで臭くなったラザロが生き返って出て来たのです。
 私たちはこのみ言葉を信じましょう。この新城教会に、皆さん一人ひとりに死人が生き返る程の奇跡を見せて頂きましょう。
 また私たちの石の扉で閉じ込めてしまっている問題。触れてほしくない問題。人間関係。病気などの石を扉を取りのけなさいと言っています。どうしても答えて欲しい。しかしもう無理だとあきらめてしまっている出来事を、あなた自身の手で石の扉を開けなさい。そして宣言しなさい。「ラザロよ出てきなさい。」と。イエス・キリストの名前によって、私たちは霊的戦いの中で真剣に宣言し、とりなしていきたいと思います。

 また新城市が始まった原点と言うべき地域について調べると、教会から少し北に行ったところに「大宮」という地域があります。そこが新城地方で初めて人が住んだ所ではないか、と言われています。そこには「石座神社」がありますが、縄文時代から人々が住んでいた形跡があります。そして何らかの偶像礼拝が当時から現在に至るまで継続されていた形跡があります。そこには、縄文遺跡と弥生遺跡もあります。石座神社は古い神社で、数百年の記録があるような場所です。主は、「その地域に行ってとりなして祈りなさい」と私たちに教えて下さいました。主がそこに光を照らしてくださいました。その辺りは「設楽原の戦い」があった地でもあります。その石座神社の周辺には何も良いことがないと教会に来られていますN兄姉も言われています。一生懸命、神道に仕えている所ですが、人々は大きな問題を抱え込んでいます。しかしそのような中に祈りが置かれるときに、福音の光が照り輝くのです。この新城教会の目の前には雁峰山があります。そこに大きな岩があります。それは「額岩」という岩、そして「石座石」という巨石があり、そこで縄文人たちが悪霊を礼拝をしていました。
 やがてこの地域にも仏教が入り、平地に寺を建てていきました。それに対抗する形で、麓に「石座神社」が建て、人々は神社を礼拝するようになりました。昔は山麓から幅一里、約四キロが神域だったと言われています。教会があるところも、昔は石座神社の境内であったと考えられます。そのような歴史を発見するとき、日本のリバイバルを止め、いのちの道を塞いでいる巨石信仰の背後にある敵の力を見抜いて、打ち破らなければなりません。

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これが石座神社です。

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そして、山の中腹にある石座石です。アニミズム的な考えで、これを本当にしめ縄を張って、みんな一生懸命拝んでいます。

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すこし見にくいのですが、額岩です。この額岩の上に立つと新城市を見渡すことができます、ずっと昔から、新城を見下ろしながら悪魔を下ろし、この地は俺達の者だと拝んで来ていました。

この新城教会は神の計画の中で、この地に建てられました。昔は石座神社の境内であったと考えられている、この地に対して詩篇一四四篇一節

『ほむべきかな。わが岩である主。主は、戦いのために私の手を、いくさのために私の指を、鍛えられる。』

また一コリント十章四節

『みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。』


本物の救いの岩はイエスさまだ!!とみことばを宣言していきましょう。偽りの力が打ち破られ、「イエスさまこそ救いの岩であり、真理であり、道であり、いのちです!」と宣言しましょう。 

岩、石というのは私たちの生活の中では絶対になくてはならないものです。この会堂も、みなさんの家もそうですが、石が使われています。コンクリートの中に石が入って、強度が増します。石に対して、巨石信仰。アニミズム的思考を打ち砕き、この頃語られています被造物全てが主を褒めたたえる様に。本来、石、岩が主にあって創造された目的に回復するように回復を祈りましょう。

「石を取り除きなさい。」私たちの心の奥にある問題、病気、家族親族問題、様々な問題に対して妨げとなっている石を取りのぞき、「ラザロよ、出て来なさい」勝ち取る祈りをしましょう。今までありえなかったことがこの教会に起きる。祈り続けてきた問題が解決される。教会にそのような業を見せていただきたいと私は思います。新城教会でも、様々な歴史があり「分裂」など痛い思いでの歴史があります。またみなさん一人一人にも、普通は平静を装っていますが、一番の痛い所に触れられると前に進めなくなり、悲しみに暮れてしまう時ありませんか?どうにかしてほしいイエス様、どうにかこの問題を解決してほしいと思う問題、病気、人間関係など沢山あります。今日私たちは根源の扉を開けたいと思います。私たち自ら戸を開け、問題の根源に触れて頂き、勝利をいただいて、心底から主にハレルヤ!と呼ぶことができるようにして頂きましょう。

 そしてもう一つ教えられたことは、マルコ七章一節~四節のみ言葉でした。

『さて、パリサイ人たちと幾人かの律法学者がエルサレムから来ていて、イエスの回りに集まった。イエスの弟子のうちに、汚れた手で、すなわち洗わない手でパンを食べている者があるのを見て、――パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人たちの言い伝えを堅く守って、手をよく洗わないでは食事をせず、また、市場から帰ったときには、からだをきよめてからでないと食事をしない。まだこのほかにも、杯、水差し、銅器を洗うことなど、堅く守るように伝えられた、しきたりがたくさんある。――』

 最後に、『しきたりがたくさんある。』とあります。私はこの「しきたり」と言う事に目を留めろと語られました。みなさんご存じだと思いますが、しきたりということばを辞書で調べましたら、「昔からの習わし、慣例」、そういう意味があるそうです。「昔からの習わし、習慣を取り除きなさい」と教えられました。私たちは知らないうちに、しきたりを作ってしまいます。過去教会で、賛美についての問題が起こったことがあります。それまで教会音楽はオルガンで聖歌、賛美歌を厳かに賛美するのが礼拝だと思われてきました。そこに今のようなギターなどで主を賛美するスタイルでの礼拝賛美が現れました。それで日本の教会間では、大きな音楽論争にまでなりました。この教会でもギター持って賛美し始めると、ギターは悪魔の道具だと言われ、賛美ではない。世の中の音楽を教会の中に持ち込んで来たと異端視されました。しかし今ではどうでしょう?厳かな賛美がいけないと言っているわけではありませんが、今ではどの教会でもゴスペル賛美が使われています。賛美のしきたりを砕き、自由な形で、ある時はダンスをしながら救い主であられる神を賛美することができています。その中から「ざわめき」が生まれ、霊的戦いの賛美が与えられました。悪魔はしきたりを用いて、イエスキリストを見えなくさせてきます。しきたりは神の領域を小さくし、自分の習わし、慣例で、「信仰というのはこういうものだ」と決め込ませて信仰に対して固定観念を持ってしまうのです。
 
 先ほどの「ラザロよ、出て来い。」と死んで腐くなってしまっている状態の中、イエスさまは宣言し、ラザロは生き返りました。マルタとマリヤはラザロが生きている時に祈って頂いたら癒されたのにという考え。祈りに対してしきたりを持っていたため、あきらめて、泣き悲しんでいました。しかしイエス様はしきたり的な信仰を打ち砕き、神にとって不可能なことはないという信仰を持つことを教えています。先ほど読んだマルコ七章の所は、パリサイ人をはじめユダヤ人は、昔の人たちの言い伝え、しきたりを堅く守って、手をよく洗わないでは食事をせず、また、市場から帰ったときには、からだをきよめてからでないと食事をしない。まだこのほかにも、杯、水差し、銅器を洗うことなど、堅く守るように伝えられた、しきたりがたくさんありました。しかしイエスの弟子のうちに、汚れた手で、すなわち洗わない手でパンを食べている者があるのを見たので非難しました。しかしイエスさまはしきたりを打ち砕くために来て下さいました。
 イエス様の時代までヘブル九章一節~三節

『初めの契約にも礼拝の規定と地上の聖所とがありました。幕屋が設けられ、その前部の所には、燭台と机と供えのパンがありました。聖所と呼ばれる所です。また、第二の垂れ幕のうしろには、至聖所と呼ばれる幕屋が設けられ、』

聖所と至聖所とがある神殿で礼拝していました。ヘブル九章七節前半の所では、

『第二の幕屋には、大祭司だけが年に一度だけ入ります。』

 至聖所には年一度だけ、選ばれた大祭司一人が中に、神にささげ物をささげ、礼拝しました。

 イエス様の十字架の前は、個人的に祈ることは難しかったのです。日に三回、定められた場所に行き、祈るしかありませんでした。特に重要な罪の赦しは、大祭司を通して、年間一度だけ獣の血を携えて至聖所に入らなくては赦されませんでした。祈りが神の元に届くためには、命がけでした。何か至聖所の中で事が起こっては大変だということで、入って行く人の足首にロープを巻き、担当する大祭司の衣には鈴をつけ、音が鳴っていたら、神の前に祈りをささげている。しかしいつまでも鈴の音が鳴らなかったりして倒れていたなら、ロープを引っ張り救出すると聞いたことがあります。

 しかし聖所、至聖所のしきたりを破ってくださいました。イエス様が十字架にかかってくださった時に神殿の幕が真っ二つに裂けました。そのことによって私たちは、堂々と神の前に出る事ができるようになりました。礼拝というしきたりを神が破って下さいました。 幕が真っ二つに裂けたというのですが、私が調べたところによると、その幕の高さは、二十メートルくらいあったそうです。そして幕の厚さは、ある先生のメッセージでは約十センチほどあったそうです。そんなに重たい幕が、上から下まで真っ二つに裂けました。十センチの幕は、両方に馬を繋いで、引っ張り合わせても破れない頑丈な幕だったそうです。イエス様の十字架により至聖所と聖所の間にあった幕が真っ二つに裂け、私たちは堂々と主の前に出ることができるようになりました。

 またイエス様は、マタイによる福音書十八章四節の中で、こんなことを言っています。

『だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。』

 私たちは何か学問があったり、地位があったりして、金があったりすると、すばらしい人だと思うかもしれません。しかしイエス様は、小さな子どもが、天の御国では一番偉い者だと書いてあります。

 そして、マタイ九章十四節を読みますと、
『しかし、イエスは言われた。「子どもたちを許してやりなさい。邪魔をしないでわたしのところに来させなさい。天の御国はこのような者たちの国なのです。」』

 普通、この当時、子どもは数に入りませんでした。そういう子どもに対して、しきたりを破って、「いや、そうではない。子どもたちが天の御国で一番偉い者だ。」と言っています。当時の一般的常識、しきたりを破り、神は目にとまらない、人として数えられない者が偉いと語っています。

また第一コリント十二章十二節には、有名なみ言葉ですが、

『それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。』

 立派に見えるような器官ではなくて、弱っている器官、弱い所、それがなくてはならない。このみ言葉はすごく励まされます。イエス様が目に留めて下さり、なくてはならない存在だと言って下さるのは、弱いと見られる器官。弱さを覚えておられる方がなくてはならないと語って下さいました。

 またヨハネ四章七節には、

『ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください。」と言われた。』

と書いてあります。当時ユダヤ人とサマリヤ人はあまり良い関係ではありませんでした。紀元前八世紀、イスラエルにアッシリアが攻めてきて、住民を捕虜として自分の国に連行しました。それとともにアッシリア人がサマリヤ地方に入り、やがて地域住民と混じり合い、混血児が多く生まれました。その子孫がサマリヤ人です。北イスラエルの宗教であったユダヤ教はアッシリアの偶像礼拝と妥協をし違った形の宗教となりました。そんな歴史的背景があったので、イエス様の時代のユダヤ人は、ユダヤ人の誇りと純粋性を失ったサマリヤ人達を軽蔑し、交際しませんでした。サマリヤ人たちは服装も違い、礼拝する場所も違っていました。そこには大きな溝があり、同じ地域に住んではいても、ほとんど交わらない人たちでした。しかもそのサマリヤ人の中でも罪深い女性に、イエス様の方から声をかけ、水を飲ませてくれと語り、サマリヤ人にも救いが現されたのです。人種的なしきたりをやぶったのです。

 またヨハネ二章には、カナの婚礼のことが書いてあります。そんな中で、六節を見ると、

『さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが 六つ置いてあった。』

と書いてあります。きよめのしきたりのために置かれた、六つの石がめさえも用いて、水を葡萄酒に変える奇跡をおこなって下さいました。しきたりは主を見えなくさせます。第一コリント八章二節

『人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。』

そしてマタイ五章八節

『心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。』

しきたりを取り除くために、主からのきよさを頂いて神を見ることができるようにして頂きたい。しきたりを閉じ込めてしまっている、霊的な心の扉を取り除いて行く必要があります。今日も聖餐式をいただきます。イエス様の十字架で流してくださった血潮と肉を頂きます。十字架の苦しみは、どんな苦しみであったか。もう私たちには想像もできない苦しみであったと思います。今日聖餐式がしきたりになってしまっていませんか?メッセージ終わりの儀式ではありません。イエスの十字架を覚え、感謝する時です。また先ほどささげた賛美も祈りも献金もしきたりになっていませんか?今日しきたりを壊し、今日主に栄光をお返しする真の礼拝者となるように祈っていきたいと思います。

 有名なみことば第一テサロニケの五章十七節に、

『絶えず祈りなさい。』

とあります。私たちはよく祈る時間を決めて祈っています。しかし仕事や家事など毎日忙しく、祈っている時間は神さまとの関係にスイッチを入れます。しかし仕事や学校、家事などの時はオフにしてしまっています。しかし聖書は「絶えず祈りなさい」とあります。伝道者の書三章の所では時について書かれてあります。一節だけお読みしますと、

『天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。』

とあります。「すべてに時がある」と書いてあります。ですから私たちは、イエス様に対して、オン・オフをしてしまいほとんどの時間、神の声やサインが分からないままで生活していると思います。
 神は私たちに神の時に声を出されています。しかし私たちは聞けていないのです。いつも神の声を聞くことのできる霊的扉を開いて頂く必要があります。今日は神の権威を用いて、霊的扉が開かれるように「ラザロよ、出て来い。」と宣言したいと思います。

 先週も岡本先生が一九九三年に行われた「全日本リバイバル甲子園ミッション」について語っておられました。その大会のテーマとなったみことばがエレミヤ十章十三節

『主が声を出すと、水のざわめきが天に起こる。主は地の果てから雲を上らせ、雨のためにいなずまを造り、その倉から風を出される。』

 全日本リバイバル甲子園ミッションと言ってももうご存じのない方ばかりかも知れません。有名な兵庫県西宮市にある高校野球の聖地でもある阪神甲子園球場を貸し切って、三日間、大伝道集会をしました。その時のメイン講師がもう亡くなりましたが、滝元明牧師でした。また滝元順先生や滝元開先生たちが賛美リードをし、様々な日本の先生方や海外から来られた先生方が、日本のリバイバルのために語って下さった、すばらしい大会でした。

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日本のキリスト教界の大きな一ページをになった大会のテーマのみ言葉がエレミヤ十章十三節、

『主が声を出すと、水のざわめきが天に起こる。主は地の果てから雲を上らせ、雨のためにいなずまを造り、その倉から風を出される。』

 です。ここに「主が声を出すと、」とあります。先ほども主の声を聞き逃していると語りましたが、主の声を聞く聞かないでは、大きな霊的勝利を失ってしまいます。リバイバルが起きるか起きないかの大きな出来事だと思います。私たちはしきたりの祈り、信仰ではなく、霊的な扉を開いて頂いて、いつもどんなときでも、主が声を出してくださった時に、その声を聞ける器になりたいと思います。すべてに時があります。出会うにも時があります。話すにも時があります。テレビを見るにも時があります。時があります。その時をキャッチして、主が声を出した時にその声にすぐ応答できるかにかかってきます。


『主が声を出すと、水のざわめきが天に起こる。主は地の果てから雲を上らせ、雨のためにいなずまを造り、その倉から風を出される。』

私たちがキャッチして応答できると「水のざわめきが天に起こる。主は地の果てから雲を上らせ、雨のためにいなずまを造り、その倉から風を出される。」主の声を聞き、実行する時聖霊の大きな力の業が現されます。み言葉が成就します。しかし現状は主が声を出していても、誰も聞いてくれないと、主が嘆いておられるのではと思います。

 私はこのメッセージを準備していながら、大変ショックな出来事がありました。それは朝起床して、家内の寝顔を見ました。その時ふっと「息しているかな?」と思いました。なんでそんなこと思ったのかわかりませんが、ふと思ったのです。当然家内は安らかな寝息の中で寝ていました。そんなことを思いながら祈り、聖書を読み、神と交わりながら、自分で先ほどの事で思いを膨らませていました。「もし家内が息をしていなかったら・・・・」と考え、ネガティブな考えに浸ってしまいました。もし家内が死んだらどうなるかなぁ?と変なストーリーを考え、寂しいだろうなぁとか、いろんなことを考えて、暗え朝を迎えました。
 しかしその数日後、私の知っている方が昨夜までは何ともなく、朝呼吸が止まっている所を発見されて、亡くなった人がいます。その訃報を聞いた時何で亡くなったのか聞いていませんでした。五十四歳の方です。そしてその方の家に電話した時「突然死で亡くなった。朝起きたら呼吸していなかったので、救急搬送してもらったがダメだった。」と聞かされました。それを聞いた時、ショックを受けました。自分が考えたあのネガティブな考えが、知っている方の家庭に起きたのです。何故あんな暗いことを想像するのかと思い、自分は妻や家族の為に祈って終わってしまいました。しかしもしもっと主の声を聞いていたら、全ては神の御手の中にありますが、こんな悲しいことが起きなかったのかも知れないと考えました。自分のこと、自分しか見えていない信仰と祈り。自分と自分の周りが祝福されていれば良いと思っている自分。他の人を自分自身のように愛しなさいとわかっていながら、自分のことしか考えていない信仰に対して悔い改めの時を持ちました。
自分には主から任せられた領域がある。だからあの朝家内が息している?と思わされた。主の声が聞こえていませんでした。
 今日あなたも主から任されている領域があります。教会は頭がキリストであり、私たちは各器官です。任せられている領域、器官を全うできるようにいつも神の声を聞き、神が思っておられる事を理解して生活したいと願わされました。

『主が声を出すと、水のざわめきが天に起こる。主は地の果てから雲を上らせ、雨のためにいなずまを造り、その倉から風を出される。』

主が求めていることを聞き、実行する時聖霊の働きが始まります。あなたに主が声を出しています。その時に私たちはしきたりでかみをもとめていませんか?今日神の声をしっかり聞き、神の業を現すための道具として、用いていただきたいと思います。
 今日神のみ前に出ましょう。神の前に静まって、霊的石の扉を取りのけ、主の働きを実行して下さる様に祈りましょう。お祈りします。

 愛する天のお父様。全てに時があります。この教会に語ってくださったみ言葉であると信じて語りました。今一人ひとりに触れて下さい。そして扉を開いて下さい。今日まずこの新城教会とこの地域。この土地を主イエスキリストによって勝ち取らせて下さい。地域の人々が石・岩などを拝み、偶像礼拝した罪を赦してください。主イエス様の御名によって、この地域を回復させてください。この地域の背後に働くすべての暗闇の力、特に石、岩を使って、この地域を治めていたその暗闇の力を打ち破ってください。私は岩であると言われたイエスキリストの支配でこの地を覆ってください。そして岩や石を回復させてください。全ての被造物までもが主を賛美しますように。また私たちの中にある石の扉を空けてください。腐りきってしまった所を触れてください。触れてください。完全な解放、完全な勝利。完全ないやしを与えて下さい。また霊的洞察力が与えられて、任された領域に対して、そこを悪魔悪霊から勝ち取り、回復することができますように。主の声を聞くことのできる者とさせて下さい。今日新城教会のまだ開いていない石の扉に命じて宣言します。「ラザロよ、出て来い。」ラザロか出てきますように。死んでいた部分が生かされて、生きた教会とさせて頂けますように。主イエスキリストの聖なる名前によってお祈りします。アーメン。