「聖書は物語る」

2018年5月13(日)
創世記1章1節〜3節

『初めに、神が天と地を創造した。地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。』

 ハレルヤ!おはようございます。今日、みなさんの前でみ言葉を取り次ぐ恵みの機会を与えられたことを感謝します。
 ゴールデンウィークが終わりまして、一週間が経ちました。これからは八月の夏休みまで突っ走る感じになりますが、日曜日の礼拝に来て、みなさんの心がリフレッシュして、また一週間お互いに頑張って働いていけたらと思います。

 私は礼拝のメッセージで、「前置きの雅也」と言われるくらいに前置きが長かったりするのですが、今日は早速本題に入っていきたいと思います。

 今日は学びのメッセージになるのですが、タイトルをつけますと、「聖書は物語る」です。今、上條先生にお読みいただきました創世記一章一節〜三節を含む創世記一章から二章全部、創造物語がメインテーマになります。

例えばみなさんが、誰かと知り合いになるとき、また就職試験などで、面接に行く時には、自分のプロフィールを書いて、相手に自分のことを知ってもらおうとします。

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 しかし、誰かのことを知ろうとするとき、その方のプロフィール、生年月日や出身地、今までの経歴、学歴、職歴、性別などをリストにして並べて、それを見たとしても、その人のことを本当の意味で知ったことにはならないのです。就職活動でもプロフィールだけで採用したりはしません。必ず面接試験があり、面接官は顔を合わせて、相手の話を聞いて、その人が考えていること、その会社に望むことなどを聞いて、できるだけその人の人格を読み取ろうとするわけです。
 それ以上に、個人的にある人と知り合いになって、その交わりを深めていこうとしたら、その人がどのような人生を歩んで、どういう価値観を持っているのかを聞き、自分自身で確認しないと、その人のことを知ったということにはならないと思います。

 聖書も同じです。聖書は開いてみると、創世記一章一節からずっとそうですが、さまざまなエピソードが綴られています。神様が中心となった物語が展開されていく。
 聖書は、「あれをしてください。」「これをしてはいけません。」というような「箇条書きに記された道徳規定」でもなく、「神様というのは義なるお方。」「神様というのは愛なるお方。」そういう「神様のプロフィール」というか、「神様の履歴書」という形で、聖書が書かれているわけでもありません。
 聖書の中には、ずっと歴史の中でイスラエルの民の中に、実際に起きた出来事が、物語の形で綴られています。そして、私たちはこの物語を見て、そこに働かれる神様を見て「神様というお方はこういうお方なのか!」と、より身近に感じることができるのです。だから、聖書は物語という形で書かれているのです。抽象的な概念ではなく、歴史の中で起きたエピソードを記しています。

 聖書は、さまざまな本の集まりです。約四十人の記者が千年以上にわたって書き記した六十六巻の書が含まれます。書かれた言語も、大きく分けると、旧約聖書はヘブル語、新約聖書はギリシャ語と分かれています。またいろいろなタイプの文書を含んでいます。歴史書だったり、預言書だったり、また詩書だったり。
 聖書というのは、このように多くの人によって長い期間にわたって書かれた多種多様な文書を含んでいます。ところが、これは神様にしかできないと思うのですが、そういうバラバラの本が集まったのに、そこには不思議と統一性があります。
 聖書を具体的に知れば知るほど、そこには基本的に、ただひとりの著者が見えてくるのです。ただひとりの著者によって書かれた一冊の本。六十六冊ではなくて「一冊の本」だと理解できるのです。

 旧新約聖書全巻を貫く「大きな物語」を専門的な言葉で「グランドナラティヴ」と言ったりします。「グランドナラティヴ」とは、この講壇からもいろんな先生を通して語られているのですが、今申し上げた、聖書の個々の物語やエピソードを貫いて、一貫する背景のような、土台のような、ひとつの大きな聖書全体を包括する「大きな物語」ということができます。

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 旧約聖書と新約聖書に分かれているのですが、「救い主・メシア」が来られるという神様の約束を、旧約聖書のテーマとして、全体を通して見ることができます。
 そして新約聖書になると、今度はイエスさまが世界に現れ、このイエスさまによって、旧約聖書に書かれている約束をどのようにして成就されていったか、ということが基本的に書かれているわけです。
 将来、イエスさまが来られるということを約束した旧約聖書、そしてイエスさまが来られて約束を成就されたということを記した新約聖書、これが一体になっているのが聖書全体の大きな流れであります。

 例えば、福音書などの新約聖書に、イエスさまのことを「神の子羊」と言ったり、「過越の小羊」と言ったり、あるいは「ぶどうの木」と言ったり、また「良き羊飼い」と言ったり、あるいは、「アブラハムの子・ダビデの子」と言ったり、そういうイエスさまについての表現が新約聖書の中には出て来ますよね。これらの表現は、新約聖書自体には具体的な説明がされていないことが多いのですが、答えはどこにあるかというと、全部旧約聖書に書かれています。旧約聖書を読むと、イエスさまについて表現しているこれらの箇所の意味はこういうことなんだ、と納得することができます。
 だから、聖書全体を通してイエスさまのことを指し示すのですが、図のように旧約聖書ではその約束、新約聖書ではその成就となります。

これらを見ていくと、聖書は、神ご自身の手によって書かれて、イエス・キリストによる私たちの救済。ということにメインテーマが置かれた、「ただひとつの物語」というふうに理解することができます。そういった概念を、私たちが聖書を読む時に念頭に置く必要があります。

 誰でもある本を読もうとする時には、無意識のうちに、その本がどういった形態、どういったジャンルで書かれているか、ということを念頭において読みます。
 例えば小説だったら、それを読む場合に百科事典を読むように読む人はいないはずです。あるいは電話帳と同じように読んだりもしません。百科事典や電話帳とは、何か語句や番号を探すために開く本でありますが、小説を読むのにそういった読み方をする人は誰もいません。
 同様に、聖書が一冊の本であるという前提を持つことは、私たちがこの書をどういった姿勢で読むのかということに大きく影響してきます。
 みなさんの中にはこういう人がいないと思いますが、聖書を読むときに「神様の言う通り!えいや!」とか言って、「今日は列王記第二の四章か!」などと言って聖書を読み始める、そういう人はまず間違いなく、聖書の読み方として誤った理解をしてしまいます。
 というのは、それぞれの章とか節というのは、その前後の関係、そこにある文脈、小さなエピソード、ナラティヴによって、そこに書かれている本当の言葉の意味が理解されなければならないのです。
 それぞれの節は、その前後の章にも影響するし、一冊の書巻なら書巻により、もっと大きなことを言えば聖書全体のグランドナラティヴによって捉えられなければならないわけであります。
 聖書のどんな部分でも、私たちが正しく、適切に理解したいと思ったら、私たちは読んでいるその部分が神様の「グランドナラティヴ」、その計画の中のどの部分に位置付けられているのか、ということをまず理解する必要があります。

 ところで「ナラティヴ」という言葉は、日本語に訳すと「物語」ですけれども、英語の「ストーリー」も「物語」と訳されます。その違いは、「ストーリー」は物語の場面設定として閉ざされているもので、私たち個人の人生とは無関係です。例えば、桃太郎とか浦島太郎とか、そのストーリーの中に私たちが絡む余地はありません。「ナラティヴ」は、その点開かれていて、私たちがその中に入り込んでいく余地があります。

 礼拝メッセージの中でよく順先生が語られますが、旧約聖書ダニエル書の中で、ネブカデネザルが見た金の頭の巨大な像の夢、よくイラスト付きで紹介されますが、像の一番下の足の部分は、鉄と粘土が混ざった状態でした。あの部分は、現代に至るまでの世界の情勢を表していると解釈され、メッセージで取り上げられています。私たちが生きている現代の世界の情勢が、鉄と粘土が混ざり合った足の部分に当てはまり、解釈することができます。ということは、聖書の世界が、今の私たちの生きている世界にも投影されているということです。
 あるいは、使徒の働きでは世界で初めての教会が現れて、神様のみ業の中宣教が進められていきます。そして最後に使徒パウロが投獄されて終わりますけれども、イエスキリストの福音宣教は終わることなく続けられて現在に至ります。また、黙示録の最後になると、イエスさまが再び帰って来られる時まで、クリスチャンの伝道、教会の時代は続いていく、ということを私たちは見ることができるのですが、そこには現代も含まれています。
 私たちが生きているこの時代にも聖書のナラティヴは継続し、個々の人生の中にそれを適用して活かすことができる、ナラティヴとは、いわばそういう参加型の物語であるわけです。

 話は変わるのですが、私は第一青年会を担当して、兄姉らと一緒に活動させていただいているのですが、第一青年では、この四月から月に一回集まって、聖書の勉強会を始めました。もともとは第一青年のある方が、「雅也先生、聖書の勉強会やってください!」と言われたのがきっかけでして、僕もそれからどういうふうに勉強していったらいいかなと考えました。そして、思い至ったのが、今申し上げた、ナラティブ(Narrative:物語)を聖書全体を通してくみ取っていこう、そういったことを目的とした学びです。
 この四月から十二回シリーズで、ナラティヴとして聖書を理解する学びの時を持っています。六十六冊の聖書を、これがただ一つの一冊の本であって、ナラティヴを持っている、それをこのような十二のテーマで分類する、そういった学びです。第一「天地創造」から始まって、最後に第十二「終わりのことがら」と、だいたい歴史の流れに沿って進んで行きます。小説のように最初から最後までをナラティヴとして聖書を理解していこうという試みです。

区分 テーマ
第1 天地創造
第2 アダムとその妻
第3 族長たちの物語
第4 出エジプトと十戒
第5 王と神殿
第6 預言者の叫び
第7 来たるべきメシア
第8 詩歌と知恵文学
第9 キリストの誕生
第10 十字架と復活
第11 教会の誕生
第12 終わりのことがら

 一回につき三十分。三十分×十二で全体が六時間ですね。六時間で聖書全部網羅しようとしているちょっと無謀とも取れる試みで、相当におおざっぱな学びになりそうな気もしないでもないです。
四月に第一回目をやりました。「天地創造」がテーマですが、ここで扱ったのは、創世記の一章と二章だけです。十二回で聖書を一冊学ばないといけないのに、聖書の一章と二章だけで一テーマ終わってしまいました。

今日はそこで学んだ内容をみなさんと一緒にお分かちしたいと思っております。

 聖書はどんなふうに書かれているかというと、次のスライドを見ていただきたいと思います。

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 これは銀行のATMですが、銀行のATMには防犯カメラがあります。聖書は、防犯カメラのように書かれたものではないです。防犯カメラはどういうものかというと、ATMが設置された一つの部屋の中で起きる出来事を、つぶさに四六時中、余すことなく記録していくものです。誰かが入って来てから出て行くまでの全ての行動がそこに記録されるわけです。でも聖書はそんなふうに書かれてはいません。
 例えば、四元雅也という人物の伝記を書こうとしたら、「彼が毎日朝○時に起きました。起きてから○章聖書を読みました。朝ご飯は〇○を食べました。○時○分にトイレに行って〇〇をしました。」そういったことをいちいちつぶさに書きしるしたりはしません。そういうことを書いたら、なんの変哲もない毎日の様子がだらだらと綴られていくだけで、そんな本はむやみにぶ厚いだけで何のおもしろみもないわけです。私という人生の中の、クライマックスにあたる部分を記録していくのが、「物語」を書くためには重要ですよね。どうでもいいことはできるだけ省いていく。著者が、その人の人生でハイライトを当てるのはここだ!と明確な意思を持って、物語を書いていくと思います。
 聖書もそうです。聖書はAという人物によって書かれたり、次にはBという人物によって書かれたり、同じ場面でも違った人が書いたりします。福音書はそんなふうに書かれていますが、そんなふうに書かれていくと、なんだこれは、矛盾があるんじゃないの?というふうに受け取られる箇所も出てきたりします。

 ある時は物事の順番が大胆に変わったりします。そういった矛盾とも取れるような箇所が聖書の中には出てくるのですが、それは書く人にとって物語に当てるべきハイライトの場所が違う、背景にある主題が違うから変わるだけのことであって、矛盾を含んでいるわけではないのです。私たちはその物語の中にあるメッセージをくみ取って読んでいくことが大事なのです。

 そういった意味で、今日みなさんとお分かちしたい「天地創造」の箇所は、良い例になる所です。
天地創造というと、まず頭に思い浮かぶのは、創世記一章だと思います。でも、創世記の中に、もう一つ別の天地創造があることをご存じでしょうか。
 もちろんご存じの方も多いと思うのですが、創世記の二章には、全く別の創造物語が書かれています。そして両者には明らかに矛盾と思われるような違いがあるというのです。創造の順序が全くと言っていいくらい違って書かれています。スライドをご覧いただきたいと思います。

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 創世記一章を見ますと、神様が六日間で天地を造られた物語です。
 まず「光」の創造があり、その後で、第二日目「大空/天」の創造。第三日目「草木(植物)」の創造。第四日目が「太陽」「月」「星」の創造。第五日目が「水中の生き物」と「鳥」の創造。第六日目が「陸上生物」「人間」の創造。そして第七日目が「休み」です。
 図の右側は創世記二章の創造物語の概要ですが、ここに描かれているように、四節に、「地と天の創造」、そしてそれに次いで七節に「男の創造」、そして九節には「果樹・いのちの木」「善悪の知識の木の創造」、十九節には「野の獣と空の鳥の創造」、二十二節に「人のパートナー(女)の創造」というふうに、第一章と比べて順序がバラバラになっているわけです。

 創世記二章四節〜七節を読みますと、

『これは天と地が創造されたときの経緯である。神である主が地と天を造られたとき、地には、まだ一本の野の灌木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していなかった。それは、神である主が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからである。ただ、水が地から湧き出て、土地の全面を潤していた。神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。』

ということで、神様は創造のはじめの業として、男を造られます。創世記一章との間にこういった矛盾があるのです。

キリスト教会の中には、聖書の創造物語を科学的に見て理解しようとするグループが存在します。「創造科学」といいますが、この理論では聖書が絶対に正しくて、文字通りに時代の中で起きた出来事である、という前提を置きます。創世記の一章には、神様が六日間で世界を造ったと書いてあるんだから、文字通りに六日間で全世界を造られたと断定するのです。
 その後アダムから始まった人類の歴史を見ても、聖書に書かれていることを文字通りに受け取って、世界の歴史は六千年くらい、宇宙の歴史も一万年以内だと考えます。
 そういった主張をする方々にとって、聖書の記述だけが唯一真実を語っているのであって、自然科学で発見なり説明なりされている事柄は、聖書の正しさを認めるものであればいいが、聖書と相容れないような主張をする学説は、全く間違っており否定されるべきもの、信じる必要のないものだと位置づける、これが創造科学の考え方です。
 でも創造科学の考え方の中にも矛盾点が見いだされています。時間の都合もあって詳しくはお話しできないのですが、一つ写真を見ていただきたいと思います。

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 これは日本の福井県にある水月湖という湖です。ここには年稿と呼ばれるものが湖底の泥の中に刻まれています。写真の右側に目盛りがありますが、その横で黒くて見えにくいかもしれませんが、細かい横すじが入っているのが年稿です。これは一年ごとに刻まれる湖底の泥の層で、木の年輪みたいに毎年積み重なっています。
 このすじを一本一本数えていくと、7万年分くらい数えることができるそうです。これは世界的にも水月湖にしかない珍しい現象で、幾つかの条件が重ならないと、このように綺麗な年稿は発生しないのですが、何万年にも渡って、この湖にはその環境が保たれているからこそ、確認することができるのです。
これを見ると、過去七万年に遡る地球の気候変動などの歴史を読み解くことができるそうです。
これだけを見ても、地球の年齢は少なくとも七万年以上あり一万年未満という創造科学の主張と相対することになるのです。

 聖書の天地創造を見てみると、科学で説明されている事柄と、聖書の記述とに明らかに違うところが出てきますので、これをどう受けとめていったらいいのだろうかと、クリスチャンは皆考えると思います。
 みなさんがクリスチャンになられた時には、神様が天地を造られたということを「信じます」と受け入れられたと思うのですが、ではどのように?と考えると、曖昧な部分が残っているのではないでしょうか?私たちが確認できない過去の出来事でもあります。それに対してはっきりした結論を見ることができないと思います。聖書の中だけを見ても、創世記一章と二章を見ると、逆の順番が書いてあります。これをどういうふうに受けとめたらいいのかということになるわけです。

 そもそも創造物語は、自然科学と同じ枠組みで比較できるのでしょうか?私たち現代に生きているクリスチャンは、創世記一章を見て、そこに神によって天地宇宙が造られた奥義として、私たちが知ることのできない事実が述べられているのであろうと考えます。聖書は神のことばだから、その時に本当に起きたことがそこに描かれているのだろうと期待します。そういう啓示があってこそ、聖書が聖書たるものであるのだ、と考えるわけですが、それは見当違いだと思います。

 そもそも旧約聖書が書かれたのは、ご存じのように紀元前何世紀という古代です。そこに登場する人物も、創世記を書き記した著者も、当時生きていた人です。聖書は、そういった人々の手を通して世に送り出された神のことばであるのです。
それはまた「神のことば」であると同時に「人間の言葉」でもあるのです。さきほど聖書は、大きくいうと神様お一人によって書かれたと申し上げましたが、それぞれの書巻はそれぞれ人の手によって書かれています。そのとき、著者の人間が持っている世界観、その人が持っている概念、その人が持っている文才とか、ボキャブラリーだとか、その人のキャラクターを無視して、神様が聖書を書かれたわけではないのです。

 ちょうど神の子、イエス・キリストが神から送られてきたひとり子であって、百パーセント神の子であると同時に、百パーセント人間でもあった。百パーセント神、百パーセント人間というのが、同じひとりのイエス・キリストというお方の中に存在している。それと同じように、聖書のことばも百パーセント神のことばなのですが、百パーセント人間の言葉でもあるわけです。
 他の宗教、例えばイスラム教だと、マホメッドが洞窟の中で修業をしていたら、大天使に出会って、その天使の言葉をマホメッドが記録した。それは彼の意志とは別に記述したわけですよね。新興宗教と呼ばれるものの中には、自動筆記といって、その人の意志とは関係なく筆が勝手に動いたといって、そんな得体の知れないものが教典になる、そういった宗教があったりします。でも、私たちが信じている神様、また私たちが神のことばとして読んでいる聖書は、人間によって書かれている、百パーセント人間によって書かれた、百パーセント神のことばであるというわけです。
 ということは、神様が聖書をこの世に与える時に、当時の歴史とか、その時代背景の中にある人々の心の中の世界観だったり、文化だったり、そういったものを無視されることはなかったのです。その人が持っている限界をも神様は飛び越えることはされなかったのです。

 二週間前にジョー先生がここでメッセージされました。ヨシュア記の中で、イスラエルの民がヨルダン川を渡ってカナンの地に入るとき、レビ人が神の箱を担いでヨルダン川に一歩足を踏み入れた時、川の水が分かれ、レビ人が川の真ん中にいる間にイスラエルの民が川底を歩いて渡って、全員反対側に行くことができたと書かれています。ジョー先生はそのみ言葉の中から、「神様はどうしてレビ人を使ったのか?」とおっしゃいました。レビ人を使わなければ御業が起こせなかったのではないです。神様はご自身の力で、川を分けて、さぁここを通れ!と、通らせることができたのですが、あえてレビ人に主の箱をかつがせ、川に一歩踏み出させて、そして川の真ん中で水をせき止める役割を担わせたわけですよね。
 レビ人は聖人でもなんでもなく、私たちと同じように罪を持つ、限界のある人間だった。神様は人間を通して御業を現されることを良しとされた、とおっしゃっていました。同じように神様は聖書を書き記すために、人の意志とか、世界観、人の存在を飛び越えて文字を書き記されるということを望まれず、人の手を「通して」神のことばを書かれたのです。

 古代の中近東に住んでいた著者、どういった世界観を持っていたのでしょうか。
現代人である私たちが学校で習うような科学・学問、そういった概念を彼らが持っていたわけではありませんでした。現代の学問は、十七世紀以降に発達してきた、啓蒙主義とか批判的思考、物事を分析してそこにある法則を究明していく、そういった手法や学問形態は古代にはありませんでした。
 彼らの持っている世界観、宇宙のはじまりがどのようであったかも、現代の学問とは違った理解であったのです。そういったことを神様は無理矢理に飛び越えて押し通して、現代的な文字で、現代的な科学的な文章で書かせるということはされなかったのです。

 自然科学とか学問の分野は、物事を見きわめていく、物事に対して問いをかける時に、それが「どのように」成り立ってきたかを見きわめていく学問だといいます。英語でいうと、「How(どのように/いかにして)」例えば、宇宙のはじまりはどのように起こったか、どんな原子がどんな反応で、何万年くらいにこうなり、何億年後くらいにこういうふうになって、という過程を究明していくというのが自然科学的なアプローチです。
 それに対して聖書のアプローチは「Why(なぜ)」です。私たちが存在するのはなぜなのか、世界はなぜ存在しているのか、そこにどんな根元的なものがあるのか。その「意味」を知ろうとするのが、聖書の問いであるわけです。

 創世記の創造物語を読む時、本当はそうあってはいけないのですが、私たちは自然に自然科学的なアプローチで創世記一章を読んでしまって、書かれているこの順番で起こったのか?こういうふうに起こったのか?と受けとめてしまうことがあるわけですが、そうではなくて、神を中心として世界がどんな世界として「成り立った」のか、神様が世界を「なぜ」造られたのか?ということを読んでいく必要があるわけです。

 そういった意味で、創世記の一章に見られる特徴をいくつか挙げたいと思います。

 一つ目は、多くのキリスト者が創世記一章の出来事を自然科学的な見方で、歴史的にそのまま起こった事実だろうと考えるが、そうではない。そのような前提に立つと、様々な矛盾点が発生して混乱してくるわけです。「宇宙」の創造ではなくて、「世界」が神様にあってどのように造られたのかということを述べているのが創世記の一章です。

 第二番目に、創世記の一章は、現代生きる私たちにというよりは、むしろ古代その時代に生きていたパレスチナの人たちに分かりやすいように書かれているということです。当時の中近東の文化の中で、また神様の信仰に立つ上で重要なポイントを、創世記の中からくみ取ることができるように書かれた。一連の創造物語の中で当時の文化・世界観が明らかに神様のご性質と反対するところは採用されませんでしたが、そうでない場合は、当時の中近東の文化がそのまま文章作成のために用いられたわけです。

 第三番目には、安息日という神学に基づいて書かれた。出エジプト記には六日働き七日目に休むことが守るべき戒めとして書かれていますが、一連のサイクルに合うようにこの創造物語が造られて、神様も六日間働いて七日間休まれたという形が取られたわけです。

 そして四つ目は、ユダヤ的な表現方法が巧みに活用されたのです。平行法、三連詩、言葉遊び、キアスムス構文などの文学的な技法がふんだんに使われています。キアスムス構文を図でお見せしたいと思いますが、このような形で文章が作られることです。

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 これを見ると、A-B-C-X-C’-B’-A’というふうに、真ん中のXを中心にぺたんと折り曲げられるような対の形に文章がなっている。鏡のこちら側と向こう側というように文章を作る技法です。この図は山崎ランサム先生が「舟の右側」という冊子に載せられた論文の中に記されている図を引っ張ってきたのですが、こういう形の文章を当時のユダヤ人は好んで使った。こういういろんな技法を使って、ユダヤ人たちが創造物語を読んだ時に、あぁ楽しいな!ぴたっと来る、そういった形で創世記第一章は書かれているというわけです。

 そして、いよいよこの天地創造の物語が示すテーマを考えてみたいと思います。

一つ目は、【神の被造物としての世界】です。
神が創造者であって、造られたすべてのものが被造物である、という関係を聖書の最初に書き記したのです。はじめに神が天と地を創造した。創造者があって被造物がある。創造者が志されたから世界が創造しているという、創造者と被造物の基本的な関係が宣言されています。
 言い換えると、この世界は、勝手にできたとか、自然に偶然が重なってできたとか、あるいは世界がなにか自己完結した自立したものであるとか、そういうものではありません。神があって世界がある。神がなければ世界もない。そういうことをはっきりと宣言しているわけです。
 すべての被造物、私もみなさんも含めたすべての被造物は、神様に依存して存在している。そして、私たち人間は、創造者である神様から抜け出て、自分勝手に「神なんか関係ない!」といって生きても、何も良いことはないということを、創世記一章を見る時に知ることができます。造りの親がいらっしゃって、その神様と一緒にいることこそ、私たちが生きるために絶対に必要なものであります。人間の本来の姿として、「神様と共に生きる」ことが重要だということを、創世記の一章からメッセージとして受け取ることができます。

 二つ目は、神様が造られたこの世界が、【秩序ある世界】ということです。
 一章を見ますと、神様が六日間かけて、混沌とした状態から秩序あるものへと世界を造り上げていったことが記されています。

 ここで神様は一日目に光を造られ「光」を「昼」、「闇」を「夜」と名付けられました。
 二日目には、「大空/天」を造り、「上の水」と「下の水」を分けられました。
 三日目には、「地」を造り、「地」と「水」を分けられました。また「草木(植物)」を造られました。
 四日目には、「二つの大きな光るもの(太陽と月)」と「星」を造り、天に置きました。
 五日目には、水中の「生き物」と「鳥」を造られました。
 そして六日目には、「家畜、はうもの、地の獣」、そして最後に「人」を造られました。
 こういった一連の創造の御業には、日ごとに、だいたい決まったパターンを見ることができます。パターンに基づいて、創造の業が行われました。
 最初に、神様はことばを発せられて、ことばによって、ことばどおりのことが起き、創造された被造物が存在するようになる。そういったパターンが繰り返される積み重ねによって、段階的に世界が造られていきました、ということが書かれています。

 別の見方から創造のみ業を考えると次のような三つの段階を見ることができます。

 第一に「新しい被造物の創造」、そして第二に「すでに存在しているものと新しいものとの区別・分離」、第三に「新しいモノを世界の中に位置づけ・機能させる」というふうに続いていきます。
 創世記一章の二節を見ると、『地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。』と書いてありますが、最初混沌とした闇があって、そこに漠然と大水があって、水の上を神の霊が動いている状態があります。そんな中から神様が「光があれ!」と言って光ができ、この「光」と、もともと混沌とした中にあった「闇」とが対となり「昼と夜」になった。
 神様は二日目に、大空、天を造られるのですが、元々の「地が形もなくて何もなくて大水があった」という中に、大空ができたことで天が分けられ、大空の上の水と下の水が分けられる、ということが起こる。三日目に今度は地が造られて、渇いた土地と海が造られる、という形で、混沌としていた中にあった闇とか水が少しずつ秩序あるものに変わっていく様子を、一章の中に見ることができます。このように、混沌としていたものが、段々と秩序立てられていく物語が進んでいきます。神様が、被造物を秩序立てたものとして造ろうとされる強い意志を見ることができます。
 私たちが住んでいるこの世界は、神様が造られた法則によって支えられています。法則を支えるパラメータの数値がほんのちょっと変るだけで、この宇宙は私たちが住んでいるような宇宙として成り立たないことが科学の中で言われています。神様が造られた精密な計画、その秩序の中でこの世界が成り立っているということです。

 一つ目は、【神の被造物としての世界】、二つ目は、【秩序ある世界】、そして三つ目は、【良いものとしての世界】です。
 天地創造では、一日終わるごとに神様が創造され、「神はこれを見て良しとされた」と締められます。六日目に神様は造られたすべてのものをご覧になり「それは非常に良かった!」と書いてあります。このようにすべての被造物を「良いもの」として造られました。
 これは神様が造ったものを全部ひっくるめて肯定され「変なものができてしまった!」というようなものは一つもない、そう神様が宣言された、その宣言であります。
 だから被造物は神様が「良し」とされ、また祝福された中にあるというのです。世界は良いものであって、私たちが生きていく上でふさわしい場所だというわけです。

 これが創世記一章の中から私たちがくみ取ることのできるポイントです。では二章の創造物語はどうでしょうか。一章と違った物語がそこにあるのです。矛盾する物語ではなく、お互いに違ったテーマが置かれています。だからこそ内容が違ったものになるのです。この二章でメインになる主題は、「愛」であります。
 創世記二章では冒頭に、宇宙からズームインして人に焦点が合わせられるような視点の移動が見られます。そして、愛のために造られた人間「アダム」へと視点がフォーカスされます。そして、神様とアダムとの関係が二章の違った創造物語の中で記されるのです。だからこそ、最初にアダムが造られる、ということが起こるのです。

 一章では、神様は一方的に「何日目に神が何々を造りました。これがどんなふうになりました。良しとされました。翌日神様が何を造られました。‥‥」と主人公である神様のみが活動する物語、他の存在が関わりを持たないような物語が進んでいくのです。しかし、二章は、そこに新たに人間が加わります。神様は人間と共に行動をされていきます。
 アダムが、まだ地に何もないところに造られ、神様がアダムを連れて、エデンの園というものを造られ、そこに二本の木を生えさせる。その木はいのちの木と善悪の木です。この二本の木には、どういった意味があるのかというと、神様と人間との愛の関係の象徴であります。
 神様はそこに一つのルールを造られました。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からだけは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」と。このルールを造る意味はどういうことかというと、神様が人間の行動を制約し自由を奪って奴隷のように支配してやろう、ということではなくて、神様はまず人間に自由を与えられて、エデンの園の中でいのちを楽しむことを良しとされた。その自由の中で、人間は神に従うか、あるいは神に従わないかということさえ、選ぶ権利を与えられたのです。人間は望むなら神に従わないこともできる自由が与えられました。
 それは神様と人間との関係が、奴隷と主人の関係ではなく、愛の関係、神様が人間を愛されて、人間が自由に喜んで生きることを許されたことを象徴する、それが「善悪の木」なのです。
 アダムはその木を見て「神様が「食べちゃ駄目」と言われたのだから食べるのはやめよう」としていました。そうやって神に従う意志を行動によって現すことで、神との関係の中に愛が成立したのです。
 自分が望めば、従わないこともできたけど、神様に従うんだと。そういう人間の愛の応答を見ることができる。両者の中にある愛のゆえの善悪の木です。

 二章後半に、神様は今度は、人間にふさわしいパートナーを探そうとされ、被造物である動物たちが現れて人間の前に連れて来られます。これも愛の現れです。最終的には動物の中にはふさわしいものがいなかった。動物が造られて人間の前に連れて来られたけど、どうも人間にふさわしいものがいないということで、神様は人間を深い眠りにおとされて、あばら骨からエバを造ったのです。人間が目覚めた時、「これぞ私の骨からの骨。肉からの肉だ。女と名付けよう。」と喜んで、神様が初めての結婚式を司式して二人が夫婦となったということが記されています。

 お互いにかけがえのない愛の関係として神と人、男と女という形を造られた物語が二章なのです。だから一章とは全然違う、もう一つの創造物語であります。
このような二つの創造物語が聖書の一番はじめに描かれているわけです。神様は男と女の関係を祝福されたということは、男性と女性の性的な交わりも含めた一切の営みとが良いものである、ということを認められたのです。世の中では肉を悪として霊を善とする、霊が上で肉が下というような価値観があります。これは聖書の価値観とは違って、聖書は肉体も良いものだと、創世記の物語の中で述べているのです。

 まとめると、創世記一章は「宇宙の創造」ではなく、「世界の創造」に関する啓示であった。創世記の天地創造の物語を、自然科学に照らし合わせた前提で読むのではなく、神を中心として世界がどのような関係性を持っているものであるのかを書き記した物語だという観点で読むことが、この創世記を理解する上でとても大切なことです。
 そして、人間がどのような存在として造られたか。人間がどのような意志で神によって造られたか。神様は人間を造られたときに「我々に似るように人を造ろう!そして造ったものを支配させよう!」とおっしゃられたのですが、そういう特別な存在として人間を造られて、そして神に似せて造られて、また愛の対象として、愛がその関係の中に表される、そのために人間が造られたというわけであります。
 さらに、秩序だったものとして世界が造られ、良いものとして、私が生きる上でふさわしい場所として造られたということが、創造物語の中で私たちが受け取らなければいけないテーマであると思います。

 そのような視点で、またこれが後に続いていく聖書のナラティヴにも関連していくわけです。そのようなことは非常に大切なことだということを今日は皆で確認し、またこれからの信仰生活の中で聖書を学びつつ歩んでいけたらなと思っております。

お祈りします。ここにおられますおひとりおひとり、誰も神様の目から見て無駄な人もいなければ、必要のない人もいません。すべての方が神に愛される平等の立場の中に置かれています。私たちが神によって造られ、神によって生かされ、神によって成り立っているということを確認し、神様に従って生きる決心をお祈りする時をもっていきたいと思います。「神様、私を造ってくださって感謝します。また神様、あなたに従って生きることができますように。」と祈りを持って、神様の前に出て行きましょう。