「彼らに主の名をほめたたえさせよ!パート11 
〜主を呼び求め、祈り、賛美し、宣言しよう!〜」

2018年6月3(日)
新城教会主任牧師 滝元順
エレミヤ書29章11節〜12節

『わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。‐‐主の御告げ‐‐それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。』

 ハレルヤ!みなさん、おはようございます。六月になりました。六月は「ジューン」と言います。私の月です。いや関係ないですが、六月は雨が降ったり、あまり好きな月ではありませんが、この月も主が守ってくださり、支えてくださることを信じます。

 私たちの戦いは、ある意味、将来に向けての戦いです。将来、どういう道を歩むのかという、「将来をかける戦い」ではないかと思います。
 今日はみなさんと共に、将来をかける戦いというテーマで、エレミヤ書二十九章のみことばを中心に、学んでいきたいと思います。
 これは大変有名なみことばですが、バビロンに捕囚されたユダの人たちが「七十年たったら解放されますよ!」という、将来と希望を主が約束してくださった箇所です。しかしこの箇所を、私たちも、共有できるはずです。
 私たちもかつては、悪魔の領域、バビロンに捕らえられていたような者ですが、そこから解放されて自由になったのです。そのような者には、エレミヤ書二十九章十一節、十二節を、私たちにも語ってくださっていることばとして、受け取ることができるはずです。みなさんでご一緒に読んでみたいと思います。自分に、主が語ってくださっているとして、読んでみましょう。

エレミヤ書29章11節〜12節
『わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。‐‐主の御告げ‐‐それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。』

 素晴らしいことばですね!神が私たちのために立てておられる計画は、「わざわいではない」というのです。「将来と希望の計画」を持っておられる!なんと、希望のある、すばらしいことばではないでしょうか。
 将来と希望を受け取る条件も記されています。それは十二節に、『あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。』となっています。
 祈りとは、神から人類に与えられた、最も優れた武器です。私たちが与えられた「祈り」という武器をどう使うかで、将来が決まるのです。
 『あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、』とありますが、「呼ぶ」という言葉は、ヘブル語では、「proclaim、宣言する」という意味があります。今日は、「主を呼び求め、祈り、賛美し、宣言しよう!」と題を付けさせていただきましたが、私たちが与えられた権威、権限を宣言して歩く、世界をめぐるのは、将来と希望に関わる、大きな働きです。
 それはただ、人間のためだけでなく、神が造られた被造物全体にかかわる福音です。この働きが、私たちに将来と希望を与えるものです。

 前回、お話しさせていただきましたが、詩篇百四十八篇のみことばを見ていただきますと、五節と十三節に、『彼らに主の名をほめたたえさせよ!』と記されています。この働きが、人類に与えられている中心的な働きです。
 私たちには、主の名を、すなわち、被造物全体にほめたたえさせる役割があります。被造物に、「主をほめたたえなさい!」と宣言する時、「主はその民の角を上げられる」と記されています。「その民の角を上げられた」という意味は、「民の回復」とか、「神の計画を成し遂げる人物として期待される」という意味があります。「被造物に主をほめたたえさせることが教会の使命であり、その結果、神の力と回復が与えられる。」と、ある注解書に述べられていました。

 詩篇百四十八篇は、今から三千年くらい前に、ダビデによって詠まれた箇所です。三千年前に、「被造物全体に主をほめたたえさせなさい!」とダビデに語ったわけです。その注解書の最後に、こんなふうに記されていました。

「極めて限られた古代の知識を持って、これほどの感動が述べられているとすれば、今日ほど優れた科学知識を持つものはどれほど深く神をほめたたえなければならないだろうか。」と結んでいました。

 現代は時代が進んで、ダビデの時代から、三千年も経て比べものにならない程、自然界の法則を始めとして、様々なことが明らかになっています。それは人間が探り当てたと言うよりも、神側からの情報開示です。

 聖書の記された時代、ユダヤ的世界観とはこんな感じだというのです。

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 「天」についても限られた知識しかありませんでしたし、「地」いても同様でした。
 しかし、ユダヤ的世界観において「天」とは、「諸天」という理解を持っていました。地下には「下界」があり、地下の水の下に、「インフェルノ」と呼ばれる地獄があると信じられていました。そのような知識で、聖書は記されている事を理解する必要があります。しかし神はその限られた知識の中でも、後世にも適用できるように、新しい情報を入れるスペースをも備えてくださっていました。
 多くの事実が解き明かされた時代において、今を生きるクリスチャンは、神が新しく開示してくださった情報を加えて、さらに主をほめたたえなければなりません。

 二ヶ月に一度、新城教会ニュースを発行しているのですが、結構、いろいろな所で読んでくださっています。新聞折込で、だいたい五万部くらい発行しています。新聞広告の中には、読み物は少ないので、地域の方々は楽しみにしてくださっています。ですから、巻頭言を書かせていただくときは、何がいいのか祈らされます。皆が興味を持つようなテーマを、なんとか見つけなきゃいけないので、祈っています。
 今回、六月、七月号が発行されるのですが、タイトルは、「すべての原因は未来にある?」です。


「すべての原因は未来にある?」
 広大な宇宙を始め、すべての原因が存在するか否かは、私たちの人生にとって重大な命題です。近年、宇宙物理学の発展により、宇宙の法則が明らかにされています。特に、アインシュタインの相対性理論をきっかけとして、今まで不変であると信じられてきた時間と空間が、実は相対的であることが分かってきました。さらに、私たちの住んでいる空間以上の高次元が宇宙には存在する事も、確認されつつあります。我々の感じている時空を遙かに超える空間が存在するのです。目に見えるものがすべてではなく、見えない世界が存在します。このような事実が判明している今日において、進化論は事実上、否定されているのと同じです。すべての物質の原因である、知的存在が天と地の創造に関わったことは明白です。すべての根源である神を認めることは、今や宗教の領域ではなく、私たちにとつて現実の領域です。そして、その神こそ、聖書にご自分を現されている神に他ならないのです。

『はじめに神は天と地とを創造された。創世記1 章1節』

 時間は過去から未来へ、一方通行で流れていると、私たちは信じて疑いません。しかし最近の研究においては、時間は未来から過去へと流れることもあるかも知れないと言うのです。物理学の専門誌「フィジカル・レビュー・レターズ」に掲載された研究によると、ワシントン大学の教授らが、物質の最小単位である量子の状態を測定した後、その結果を隠し、2つの方法でその結果を予想する実験を行ったところ、時間が過去から未来へと流れる前提では5割の的中率であったものが、時間が過去と未来の双方向に流れるという前提で実験を行ったところ、予想率は9割を超えたというのですから驚きです。

 もしも今体験している問題の原因が、過去にではなく、未来にあるとしたらどうしますか。過去を取り戻すことが出来ず、未来も作り出すことの出来ない人類にとって、人生は、わざわい以外の何物でもありません。

『わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。──主の御告げ──それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。エレミヤ書29章11-12節』

 この言葉は神が「あなた」に対して持っている計画を示しています。すべてを創造された神の計画は、未来において初めて実行されるものではありません。時間が神の創造物ならば、あなたの未来は、「すでに創造済み」なのです。私たちが創造者に目を向けるとき、人生はわざわいではなく、平安であり、将来と希望が未来からやってきます。そのとき、未来の原因によってわざわいが起こっていたとしても、その原因は消えるのです。
 過去、現在、未来を貫く創造者なる神の名を、「イエス・キリスト」と言います。そして、その方から未来を手に入れる法則が、「あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう」と告げられているように、「祈り」です。
 人は祈る動物です。祈りは人の本能の中に組み込まれています。それは祈りを受け取り、答えてくださる神が存在する事を現しています。

 ■イエスキリストに祈ってみましょう。
  次の言葉をはっきりと、声に出して、イエス・キリストに祈ってみてください。

『イエスさま。今、私は、あなただけが、すべての創造者であることを認め、宣言します。私の過去と未来を、わざわいではなく、平安に変えてください。私の未来に、いかなるわざわいも存在しないことを宣言します。私の将来には希望があります!イエス・キリストと共に、宣言します。アーメン!』


 人生には様々な問題が起こってきますが、問題は過去に根があると考えるのが普通ですが、もしも未来に原因が置かれていて、その影響を受けているとしたら、恐ろしいことですよね。人間は過去を取り戻すことはできないし、今の瞬間しか、生きることができない生物です。特に、未来はどうにもなりません。
 神が将来と希望を与える計画をお持ちだと言いましたが、それを私たちの時間的感覚では、神がなんらかの計画書を作って、十年とか二十年と経った後に、「この人にこんな計画があったな・・・。じゃぁ、なんとかしなければいけないな!」と、思いつきのように、事を始めるように考えるのですが、時間も空間も神の作品ならば、神がことばを発せられたその瞬間に、将来は完成するはずです。
 ということは、すでに私たちの将来は、「創造済み」ということになります。創造済みの将来を受け取る方法は、「祈り」であり、もう一つは「信仰」です。ヘブル人への手紙十一章一節〜三節に、こんなことばがあります。

『信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。昔の人々はこの信仰によって称賛されました。信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。』

また、『信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。』と十一章六節では伝えます。
 私たちがすでにできあがっている神の計画、将来を受け取るために必要なのは、祈りと共に、「信仰」が必要です。信仰とは何か。その定義がここに記されています。それは「目に見えないものを確信させるものだ」というのです。
 口語訳聖書では、十一章一節が、

『さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。』

となっています。神の計画は、将来起こるであろう事柄であっても、神がことばを発した時点で、時間の外におられる神にとっては「現実の世界」として、出来上がっているわけです。
 ですから私たちは、信仰という領域を使って、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない「事実確認」をするのです。
 エレミヤ書二十九章が、私たちに対して語られていることばだとしたら、私たちの未来はどんなものか。それは、「わざわいではない」のです。将来と希望を与える計画のみが存在しているのです。私たちはそれを信仰によって受け取るのです。
 このように、すでに聖書に情報がありますから十分ですが、なかなか信じ切るのは難しいですよね。信じているのか、いないのかわからないです。

 先ほど新城教会ニュースでご紹介したことは何かといったら、我々にとって、時間は一方通行で、過去から未来に対してのみ流れると考えるのですが、この頃の物理学においては、もしかしたら、時間は逆方向にも流れるかもしれない、と言うのです。

 先日私は、沖縄に行きました。ある教会でメッセージをして、「彼らに主の名をほめたたえさせよ!」と言うテーマで、「沖縄のすばらしい自然のただ中で、出て行って被造物に対して、『主をほめたたえなさい!』と宣言してください!」と語らせていただきました。
 メッセージが終わって帰ろうとしたら、白髪の初老の方が私に近づいてきて、「順先生、今日のメッセージ良かったよ。月とか星とか太陽に、主をほめたたえよ!と命じたら、理解できるんですよ。」と言うわけです。続いて彼がこう言うのです。
 「あのね、地球でハクション!とくしゃみをすると、アンドロメダ星雲の裏側でも同時にハクション!と聞こえるんですよ。」
 変なことを言うな〜と思ったら、その方は、琉球大学の物理学の教授でした。先日亡くなったホーキングと一緒に、学会で発表した事もあるという物理学者でした。
 そして私に、いろんなことを教えてくれました。「本当に聞こえるんですか?」と聞くと、「そうなんです。これをEPR相関といって、量子もつれの領域においては…」と私には訳の分からないことを話されました。私は理解できないので、その事を書き留めておきました。

 そしてネパールに行きました。ネパールで通訳をしてくれたネパール人のアシシュさんに何気なく、そのことを話しました。「アンドロメダ星雲は二百三十万光年向こうですから、光の速度で二百三十万年すっ飛んでいかないと到達出来ない距離です。しかしハクション!とくしゃみをすれば、同時に聞こえるって知ってます?」と彼に聞いてみました。すると彼は、「はい。それ、知ってます!」と、なんとアシシュさんは物理学者だったのです。「EPRですよね?」と、彼は英語で、さらに難しいことを説明し始めました。私は全く、そんなことに関心はなかったのですが、二回も続いたので、びっくりして少し関心を持ちました。物理って、高校の時も、大学の時も嫌いだったなぁと思い出しながら、自分でも勉強してみました。

 勉強してみて、神の創造の業はすごいと感動しました。また、今や三千年前では明らかになっていなかった領域を、主は人類に情報開示されていることに気づかされました。

 人間は体という、固体を持っているのですが、物質を細分化していくと、すべての物質は、素粒子によって構成されているというのです。一番小さな単位は、十のマイナス三十三乗センチメートル分の一くらいの大きさだと言われます。すべての物質は、素粒子という超小さい粒子の集合体だというのです。

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 そこまで微小世界に入り込むと、見える世界の法則とは全く別の法則が、その領域を支配しているというのです。
 霊的領域とは、微小単位の中に存在するのかもしれません。私たちが感じている世界とは全く違った法則が存在するのです。その世界では、時間は過去から未来に流れるだけではないというのです。未来から過去に逆流するようなことも起こりえる、というのです。人は過去から未来に流れる時の中で、毎年、歳を取って死んでいきます。しかし私たちを構成している、最小単位の素粒子レベルにおいては、過去も現在も未来もなく、時間の流れは双方向に流れている可能性も否定できないというのです。

 私たちは三次元空間と時間軸が合わさった中に生きています。三次元とは、図に表せばこんな感じです。

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 XYZ軸の空間内は自由に移動できるわけです。
 孫たちがよく、ドラえもんを見ているのですが、ドラえもんの「どこでもドア」はいいなぁ、といつも思います。どこでもドアさえ開ければ他の場所にも、即、行けます。そんなドアがあったら、ネパールだろうが、ペルーだろうが、どこにでも行ってやる!という感じです。
 しかし私たちは、空間を飛行機に乗って、長時間かけて移動しなくてはなりません。私たちは、結構大変な時空の中に存在しています。

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 どこでもドアは、空想の産物くらいにしか考えていませんが、これは現実に存在するというのです。物理学では、私たちが住んでいる空間を三次元+時間で四次元と表現するらしいです。しかしさらなる高次元の世界も、証明されつつあります。高次元という要素を加えないと、素粒子の理論は成り立たないというのです。
 現代の弦理論では、十一次元まで想定されているようです。十一次元ですよ!どんな空間なのか、想像もつきません。どこでもドアの世界でも、時間と空間を超越していますが、十一次元なんて、人間の頭では推測不可能です。

 私たちの空間のただ中に、高次元は重なって存在するそうです。しかし人間は高次元を正しく認識できないのです。
 こうなってくると、今まで霊的領域として聖書が述べていた事柄は、実に、現実的な世界となるわけです。神さまは次元をも創造されたお方であり、すべての次元の外におられる、永遠のお方です。

 天使とか、悪魔・悪霊どもは、人間よりも高次元に住んでいる存在であると考えられます。ゆえに、彼らは時空を越えて、何らからの影響を人に与えることができるはずです。もしかしたら、私たちの未来に原因を置くことも可能なのかもしれません。
 そういう視点で聖書を読んでいくと、時空を越えた世界を聖書は告げているように感じます。
 物理学者の先生も言っていましたが、「物理が先じゃなくて、聖書が先なんです。すでに聖書に情報があるのです。物理学者はそれを、一生懸命解き明かそうとしているだけです。」と話していました。そういう視点で聖書を読むと、すでに情報があるのがわかります。

 ダニエル書十章十二節〜十四節を見ますと、不思議なことが記されています。先ほどエレミヤ書を読んだのですが、エレミヤ、ダニエル、エゼキエルは、同時代の預言者たちです。互いに絡み合いながら、預言がなされています。ダニエルがこんなことを記しています。神さまから、語られたことですが、

『彼は私に言った。「恐れるな。ダニエル。あなたが心を定めて悟ろうとし、あなたの神の前でへりくだろうと決めたその初めの日から、あなたのことばは聞かれているからだ。私が来たのは、あなたのことばのためだ。ペルシャの国の君が二十一日間、私に向かって立っていたが、そこに、第一の君のひとり、ミカエルが私を助けに来てくれたので、私は彼をペルシャの王たちのところに残しておき、終わりの日にあなたの民に起こることを悟らせるために来たのだ。なお、その日についての幻があるのだが。」』

 ダニエルは自分たちの民族の将来をはかなんで、主の前に決心して祈り始めました。するとダニエルが祈りを始めた初めの日に、祈りは神に届いて、答えもできあがったのです。
 しかし実際、ダニエルの手に答えが届いたのは、二十一日後だったのです。私たちも、Amazonや楽天などで、商品を注文すると、注文した瞬間に、その商品は自分のものになります。しかし、手元に届くには二、三日待たなければなりません。
 祈りも、答えが来るまでには、長い天空の宅急便が必要であるように感じます。しかし本来、祈りとは、祈った瞬間、実態は完成するのです。

 ではなぜ、祈りの答えが遅れたのか?その原因がここに記されています。それは「ペルシャの国の君」が立ちはだかって、祈りの答えが届くのに、三週間かかったというのです。
 「ペルシャの国の君」とは、どういう存在か?多くの聖書学者が、ペルシャの国の君とは、ペルシャ帝国を仕切っていた、悪霊の首領ではないかと考えています。ペルシャの国の君、ギリシャの国の君、それぞれの帝国に、サタンは自分の部下を配備し、その軍団には長が存在したのです。国を牛耳っていた主権的な存在です。それが立ちはだかり、神からの答えがダニエルに届くのを妨害していたのです。
 ということは、悪魔・悪霊どもは、どういう働きをしているのかと言えば、神が即決で物事を決めて下さっているのに、それを「未来に押しやる働き」をしていることになります。
 悪魔・悪霊どもは、人の時空外で働き、未来に障害を置く働きを日夜行っているかもしれないのです。
 しかし見えない世界で戦いが起こり、勝利した結果、二十一日後にダニエルは答えを受け取ることができたわけです。

 神にとって、過去も、現在も、未来も関係なく、あなたの将来には望みがある!と宣言された時点で、私たちの将来は出来上がるのです。しかし、悪魔・悪霊どもは、答えに到達できないように、答えを未来に先送りする働きをしているようです。
 しかし私たちが神からの答えが遅れたとしても、すでに神が計画を実現してくださっていると信じ、戦い、宣言し始めるときに、やがて実態が手元に届くのです。

 このような時空を越える聖書の記述は、いくつもあります。使徒の働き八章を見ますと、ピリポという人物がリバイバルのために用いられた事が記されています。彼がある時、「ガザに行きなさい!」と主から語られて、ガザに行ったら、一人のエチオピア人の宦官がイザヤ書を読んでいました。ピリポはこの男に福音を伝えました。使徒の働き八章三十八節に、こんなふうに記録されています。

『そして馬車を止めさせ、ピリポも宦官も水の中へ降りて行き、ピリポは宦官にバプテスマを授けた。水から上がって来たとき、主の霊がピリポを連れ去られたので、宦官はそれから後彼を見なかったが、喜びながら帰って行った。それからピリポはアゾトに現れ、すべての町々を通って福音を宣べ伝え、カイザリヤに行った。』

 ピリポは宦官に福音を伝えて、バプテスマを授けました。現在、イスラエルのガザでは戦闘がありますが、あの近所でこの出来事は起こったようです。しかしピリポはバプテスマを授けた瞬間、宦官の前から消えたのです。
 その瞬間、ピリポはどこに現れたのかというと、アゾトという場所に現れたのです。彼はその後、町々をめぐって福音を伝えて、カイザリヤまで行ったと記録されています。これは、俗に言う「テレポーテーション」じゃないですか。瞬間移動です。どこでもドアです。ピリポが、ガザからアゾトまで、もしも徒歩で移動したとしたら、三十五キロくらい離れていると言われますから、たぶん一日はかかったと思われます。

 アゾトの人たちは、ガザから瞬間的に移動して来たピリポから福音を聞きました。ということは、アゾトの人たちや、カイザリヤの人たちにとって、ピリポは、現実の人と言うよりも、未来人なのです。通常より一日早く現れた、未来人です。普通では、絶対にありえない事です。ということは、未来からの影響といっても、過言ではないです。神の世界は時空を越えています。

 しかし敵は、将来を見据えた中で、私たちの将来を閉ざすために、日々働いていると考えられます。
 ということは、私たちが将来を閉ざす暗闇の力に立ち向かい、「将来はすでに良いものが備えられている!」と信じ、「悪魔は私たちの将来に原因を置くことはできない!」と宣言しなければならないのです。

 ところでみなさんは、将来に対して、どんなイメージを持っておられますか?「将来か、、たぶん、病気になった自分がいるかなぁ…」とか、「落ち込んでいる自分がいるかも…」とか、「ぼろぼろになった自分がいる…」というような信仰を持ってはいけません。不信仰は、神がすでに与えている計画を、台無しにします。

 イエスさまが、ナザレというご自分の育たれた町に行かれた時、奇蹟をあまり行われなかったというのです。マタイの福音書十三章五十八節、

『そして、イエスは、彼らの不信仰のゆえに、そこでは多くの奇蹟をなさらなかった。』

この記録は、信仰の逆の不信仰の記録です。
 私たちは時々、将来に対して希望を持てないというか、「将来は、きっとひどい目に遭いそうだ・・・」というような、将来に対して否定的な信仰を持つことが多いです。それは、私たちが信仰を持った瞬間に、未来に物事が出現するのと同じように、不信仰を持つ中で、未来は閉ざされていくのかも知れません。
 これは信仰の領域の事柄ですが、時間は双方向に流れるのかもしれないということが分かったら、信仰の領域というより、現実の世界として理解できます。私たちは神の約束を堅く握って、将来に不信仰な土台を置かないようにしなければいけないと思います。

 今日は、「将来、病気になって、倒れている自分はいません!」と宣言してください。「将来、落胆したり、失望している滝元順はいない!」と宣言しなければいけないのです。
 そうするならば、悪魔が未来に悪い原因を置いたとしても、取り払われるはずです。
 
 今日は、エレミヤ書二十九章のみことばを堅く信じて、すでに良いものは創造済みだ!と確信を持って、将来に対して、不信仰を持つべきではないのです。「不信仰によって作り上げた、将来の要塞を全て打ち破ります!」と宣言してください。その宣言は、大きな勝利に結びます。

 けれども、信仰の原則を自己実現のために使ってはいけません。神の夢を実現するために、用いなければいけません。
 ニューエイジャーたちは、このような原則に気づいて、自己実現のために法則を使おうとしています。それは破滅につながります。しかし私たちクリスチャンは、神の国の実現のために、信仰の原則を用いるのです。

 人間とは素粒子によってできているというのが、量子力学によって解明されてきました。しかし最近では、素粒子は球ではなくて、すべての物質は「振動する弦」でできているという理論が注目されています。弦理論とか、超弦理論って聞いたことがあるかもしれません。人間をはじめ、すべての物質は「弦」でできているというのです。振動する弦の振動数によって、質量が決まるというのです。

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 それが理論的に最も注目されています。今まで、物質の最小限は目に見えない粒だと考えられていたのが、そうではなく、紐が振動することによって、物質が成り立っているというのです。

 今注目されているカク・ミチオという日系三世で、アメリカニューヨーク州立大学の教授が超弦理論について語っています。二〇一五年に、NHKで放映された番組を観ると、彼はクリスチャンではないと思いますが、物質の世界を突き詰めていくと、創造主がいるに違いないと気づいたようです。そして、創造主が、どうして宇宙を造ったのかに関して語っています。私はこの動画を観て、びっくりしました。
 すべての物質は振動でできているというのです。宇宙とは何かについて語られていました。創造主は宇宙を造り、すべての振動を調和させて、宇宙全体の音楽を奏でる為だというのです。主をほめたたえる為に、全宇宙は存在しているということです。
 聖書は、すでにそのことを語っています。すべての被造物に対して「主をほめたたえなさい!」と命令しています。そして、被造物に対して、宣言する役割、それが人類なら、こんな光栄ある仕事はないですね。
 すべての物質が弦からできていて、振動数、音楽によってできている。そして振動は、元々は、光だというのです。聖書は「光あれ!」から、物質の創造が始まるわけですが、宇宙全体が創造主を賛美するために、造られていることに他なりません。

 私たちの体も、すべて弦でできているならば、私たちの体の構成要素すべてを使って、主を賛美する、宇宙全体も主をほめたたえる、これが創造主の心ではないかと物理学者は語っていますが、すでに聖書の中から、私たちは情報を得ているわけです。今日、私たちはこのゴールをしっかりと捉えながら、将来に対して、神を賛美させまいとする暗闇の力に、「将来を閉ざすことができない!」と宣言するのです。

 今から聖餐式を持ちたいと思います。イエスさまはなぜ、人類のために命まで捨ててくれたんだろう?と思いますが、人間は本当に大きな役割があるわけです。すべての被造物に、主の名をほめたたえさせるゴールに向かって、私たちは存在しています。
 同時に、未来に障害物を置いてくる敵に、「ノー!」と宣言する役割です。これがイエスさまの十字架によって確立した勝利です。一言祈ります。

 ハレルヤ、父なる神さま。み名をあがめて、心から感謝します。あなたは私たちを地球に造ってくださり、すべての被造物に対して、主の名をほめたたえさせる役割を与えてくださったことを、心から感謝します。主よ、そのために私たちを用いてください。今日、私たちは、宇宙のすべてが主をほめたたえよと、宣言します。
 私たちの未来を閉ざす、暗闇の力に立ち向かいます。私たちの将来に、病はないことを宣言します。様々な問題で苦しんでいる自分は、家族は、いないことを宣言します。新城教会に属する、兄弟姉妹の未来に、何か障害物を置くことは、決してできないことを宣言します!
 イエスさまの十字架の勝利を、聖餐式と共に宣言します。イエスさまのみ名を通して、聖餐式を始めます。アーメン!