「あがなわれし者の使命」

2018年6月17(日)
新城教会牧師 四元雅也
創世記1章26節〜27節、31節

『神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。』『神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。』

 ハレルヤ!感謝します。こうしてみなさんの前でメッセージを取り次ぐ機会が与えられて感謝します。
 菊池陽子姉妹の特別賛美も心から感謝します。彼女は私たちの生活の身近にありそうな出来事から歌詞を作ることが上手だなぁと思います。歌の始まりでは「この歌希望があるのかなぁ?」と思いましたが、だんだん神さまに目が向かっていって最後には「雨上がりの空に虹がかかる」となって、「いいなぁ」と思いました。
 もう一つ、彼女は今日新しいギターを弾いていましたね。お気づきになりましたか?僕は見つけて「羨ましいなぁ」と思いました。

 順先生は、先週北海道で奉仕をされておりまして、先の日曜日にも写真で紹介されたと思いますが、もう一度写真を見せていただけたらと思います。

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 ティム・ケプラーさんと、こんなふうに大きな会場でも集会を持っておられましたが、金曜日に帰って来られて、昨日一日は教会にいらしたのですが、今日はまた東京で礼拝のご奉仕があり、夜はまた東京集会ということで、相変わらずお忙しい中です。
 ザワメキも今日は群馬で奉仕をしておられて、そんなしわ寄せが私に来て、今日は賛美のリードとメッセージを担当しているわけであります。午後の集会も私がリードさせていただきますので、今日はちょっと大変な一日でありますが、本当に感謝しております。

 それから先週は、世界的に歴史の一ページを残すであろう出来事がありましたね。

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 米朝首脳会談です。北朝鮮ができて以来、初めてアメリカの大統領と首脳会談が持たれました。核を放棄する方向に、また戦争が終結する方向に向いて行きましょうという約束が交わされました。

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 そのサインの様子です。良かった、いや悪かった、いろいろ評価も分かれていますが、ただ歴史的な一ページであったことは確かであります。私たちは先週もこのためにも真剣にお祈りしましたし、今後のためにも続けて祈っていきたいと思います。
 特にクリスチャンとしてこういった世界の様々な情勢に目を向けて、そのために神さまご自身がみ手を動かされ、み心が現されるように祈っていくことは、とても大事であり、今日のメッセージテーマでもある「あがなわれし者の使命」でもあると思います。

 第一テモテ二章一節には、有名なことばですが、このようにあります。

『そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。』

 私たちがあのような権力を握った方たちのために祈ることが必要だと聖書が語っています。
 
聖書を書いたのは、神なのか人なのか。以前にもお話ししましたが、旧約聖書三十九巻、新約聖書二十七巻からなる聖書は、長い時代をかけて多くの人たち、四十人くらい関わったと言われていますが、そういった人たちが様々な国で、言葉も違って書いています。四十人が書いた、六十六冊が一冊にまとまっている「聖書」は、一つ一つバラバラだった書巻が、たまたま一つにまとまっているというのではなく、独立した書巻は一つもない。始めから終わりまでつながりを持った物語のような形で一冊となっています。こんなことを前にも私がこの場所でお話しさせていただきました。聖書六十六巻の中には、完全な調和、また統一性があるわけです。
 そんなことを計画して実行できる人間は誰もいません。そんなに長い期間に渡って、同じような影響力を与えることができる人はいないのです。
 人間の寿命なんてたかだか百年くらいしかありませんので、どんなに人間が計画しても、実現は不可能です。これは神さまご自身によってのみ実現可能です。神さまのみ手によって、聖書の見事な調和、統一性は成し遂げられたのです。

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 二〇世紀の天才考古学者ウィリアム・F・オルブライトという人、この考古学者は、長年に渡ってパレスチナ周辺で発掘活動をしました。そして聖書の中に書かれてある都市だったり、国々だったり、遺跡・遺物を掘り出しました。彼は言いました。「聖書の記述中、問題となっている大きな点は全部歴史的であることが、証明されている」
 聖書を書き記した人々は、実際に起こった出来事を、目で見て、体験し、あるいは耳で聞いて、調査して、正しく書いているのです。
 だから今私たちが読んでいるのは、彼らが経験した、その時代に生きていた人たちの証しなのです。そこには、彼らが神さまに出会って、神さまによってなされた活動、それは様々な預言をし、伝道をしていったわけですが、神さまと自分がどのように出会ったか、どのように神さまに導きだされたか、何を語れと言われたか、そうったことが生々しく記されているわけです。その時代に生きていた、今の時代でいったら私たちクリスチャンですよね。クリスチャンの証しがいっぱい詰まっているのが、聖書のみことばであります。
 この聖書を見ると、その中で神さまがどれほど素晴らしいお方であるのか、また良いお方であるか、私たちが敬い恐れなければならないお方であるか、愛すべきお方であるのか、また、私たちが罪から離れて神さまのみ心に従って生きるということが、どれほど大切で、また祝福につながるのか。それとは逆に、神さまに背を向けて罪の生活を歩むということがどれほど恐ろしいものであるのか、ということを、私たちは聖書の中に生きている人々の記録の中から受け取ることができるわけですよね。

 そして、今生きている私たちも、その歴史の延長線上で、彼らが歩んだのと同じように神さまと向き合って、そして神さまのみ心を行っていくことを心から願って、人生を歩んでいるのです。
 そういう意味で、聖書のみことばとは、聖霊によって書かれた神のことばでありながら、同時に人の言葉でもあるのです。神と人の合作ですね。神百パーセント、同時に人間百パーセント。
 ちょうどイエス・キリストが神のみ子百パーセント、まさに神ご自身であるのと同時に、百パーセント人間であった。百パーセント神で、百パーセント人間が同時に実現しているのがイエスさまで、イエスさまがイエスさまたるゆえんでありますが、同じように聖書も、神さま百パーセント、人間百パーセントということなのです。
 だから、聖書の中で働かれている神さまは、同じように私たちの人生の中にも、同じように働くことができる、導いてくださる、そして祝福を与えてくださると私たちは信じるわけです。
 そういうわけで私たちが聖書のことばを読んでいく、聖書のことばに信頼していく、聖書のことばに拠り所を置いていくことは、大変重要なことであります。「愚かな者は経験に学び、賢い者は歴史に学ぶ」とは、ビスマルクが言った有名な言葉ですが、聖書の中には歴史が綴られていて、その歴史の中で神さまが成された業を私たちは知ることができます。そして神さまの正しさがその中ににじみ出ているのが、みことばであります。
 新約聖書のテモテへの手紙第二 三章十六節を見ると、こうあります。

『聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。』

 このみことばを信じる我々が、先ほど写真に出た世界的な出来事、歴史的一ページであったと言いましたが、このような出来事を通して、世界が正しい方向に導かれ、戦争とか不幸のない世界が造られていくために、神さまの前に祈っていくことは、とても重要なことであります。
 私たちは世界を見て、「どうせだめだろう」ニヒリズムと言いますが、ネガティブな感情、努力しても無駄じゃないかとか、そういう考えを持たずに、神さまに信頼して、昔の預言者たちや伝道者たちがそうであったように、希望を神さまに置いて、将来を与えられる神さまに信頼して世界のため祈っていくことを心がけていきたいと思います。

 メッセージの本題に入っていきたいと思います。先月もここでメッセージをさせていただき、創世記の中から学ぶ時を持たせていただきました。少し復習していきたいと思いますが、聖書の書き始め、創世記の一章には、天地創造が記されています。創世記一章一節には、『はじめに神が天と地を創造された。』と書かれています。
 創世記の一章、聖書の最初から私たちが学ぶことができることについて、三つお話をさせていただきました。

 創世記一章から理解できることの第一番目は、「神が天と地を創造された」です。これが聖書の始めに出てくるというのは、どういうことかというと、神さまがどういうお方で、我々人間がどういうものであるかという、お互いの基本的な位置関係、立場を明確にするところです。
 すなわち、神は創造者、我々は被造物。またすべてのものも、「創造者と被造物」という関係という関係にあるということです。これは聖書の神さまがすべての根源ですよ!ということです。
 逆にいうと、私たち被造物は神さまがいなければ存在することもできないものです。神さまがいて、初めて私たちが存在できる、ということです。神さまがいなかったら、私たちの存在もない。私たちが今生きているのは、百パーセント神さまに依存して生きているというわけです。
 また私たちが住んでいるこの世界も、自然にできたとか、なにか偶然が重なって今のようになったとか、進化したとか、そういうものではない。
時として、人によっては、「自分の力で生きている、自分の力で勉強して今の職について稼いで食べているんだ!何が文句ある!」と考える方がいるかもしれませんが、そうではないと聖書は言っています。神さまがいて、神さまのおかげで私たちは生活することができる。そういう位置関係ですよね。その関係を最初に宣言して、そして聖書は始まっているということですね。
 私たちがなぜ生きているのか、何を目的にするべきなのかということも、神さまがいてはじめて分かるということですね。

 そして第二番目に、神さまはこの世界を造られたときには、「秩序ある世界」として造られたということができます。
創世記一章で神さまが、闇の中茫漠としていて、大いなる水があって神の霊が水の上を動いていた、と創世記一章二節のところに書いてありますが、そこから神さまは、「光よあれ!」と仰せられ、光を造られ、もやもやと存在していた闇と光とを区別して、そして昼と夜の繰り返しという一つの「パターン」を造られたのです。これは神さまが混沌とした中から秩序を造られたということです。
 そして次の日には大空を造られ、混沌としていた水を大空の上の水と下の水とに区別されて、その後土地が造られて、乾いた土地と海(水)とを分けられた、というように、だんだんと私たちが住んでいる「秩序だった世界」が、神さまのことばによって造り上げられていった、ということを見ることができます。神さまはそのように秩序を持ってこの世界を造られたわけです。
最近講壇から、私たちにとって、というより私にとって、なじみにくいというか、今までなじみの薄かった話題が語られています。「物理」というやつです。「物理」は私も高校時代に勉強しました。当時通っていた学校の物理の先生は、銀髪の初老のおじさんだったのですが、本当に声が小さかったのです。黒板に向かってつらつらとミミズの這ったような文字を書きながら、こっちを向くこともなく、ぼそぼそとつぶやくものだから、全然こっちの耳には届かなくて、それで生徒は大半がいつも寝ていました。僕も申し訳ないですが突っ伏して寝ていました。だから理解なんかできるわけがないのです。でも先生は一向に気にすることもなく声を大きくすることもなく、ごくたまにこっちを振り向いて「みなさん寝ていただくのもいいですけど、そのまま成績として結果に表れますので承知しておいてくださいね」なんていう先生でした。だから「物理」は得意ではありませんでした。そんなわけで、物理と神さまが結びつくなんて本当かなぁと、メッセージを聞きながら感じたりするわけです。
私は難しいことは分かりませんが、おもしろいなぁと思うのは、十一次元か何か、紐が振動しているとか何か、そういう考え方で宇宙の法則を物理の数式で表すことができるというのです。何回か前の礼拝の時に紹介された動画で物理学者が説明していました。一インチ(約二・五センチ)程度の短い数式で、鳥がなぜ飛ぶのかとか、光がなぜ早いスピードで走るのかとか、時間がどのように流れているとか、宇宙船がどんなふうに飛んでいくのかとか、ブラックホールの中心がどんなふうになっていてとか、それが全部説明できるというわけです。人間の英知と言われますが、そこまできたかという感じです。宇宙の森羅万象を短い「数式」で表すことができるなんて。
 もちろんこれは「物理学」の中でも「理論物理学」というジャンルですので、実験とか観察で確認されていません。だからあくまで理論であり、証明されたものではありません。ただ次元が十一次元あると仮定すると、宇宙の森羅万象の現象を全く矛盾なく説明することができるということです。
 その理論の正否はともかく、僕はここで数学によって解き明かすことができるように世界が造られている、というとこがすごいなと思うのです。神さまが造られた世界とは、完璧に「数学」で網羅できるくらい、調和のとれた秩序ある世界だというのです。
 実は、今私たちが住んでいる宇宙の物理法則が、ほんのちょっとでも変化して、その計算の変数がほんのちょっと変わるだけでも、今私たちが生きることができるような宇宙は存在しないそうです。宇宙空間を保持できなくて壊れちゃうとか、とんでもないことになっていってしまうようです。我々が生きている宇宙は、本当に絶妙なバランスで保たれている。どのくらいのバランスかというと、十の六十三乗分の一くらいのきわどいバランスで保たれていると言われています。それがほんの少し、十の六十三乗分の「一」から「二」に移っただけで、もう私たちは住めなくなってしまうらしいです。ものすごい確率です。一般的な宝くじの一等が当たる確率は、だいたい数百万分の一、十の六乗分の一くらいです。宇宙の微調整のバランスは、もうあり得ないレベルなのです。偶然で片付けることはもはやできません。誰かが意図を持って微調整して、ここに設定します!としなければそうならないのですが、実にそういうふうに宇宙はなっているというのです。誰かが宇宙をそのように設定したから、今我々が生きる世界というものがあるのです。
 だから宇宙ができたとき、はじめから私たち人間が産まれることは計画されていたのです。計画したお方が神さま、この聖書に書かれている創造主であります。
 このように、秩序ある世界として、この宇宙が造られたわけなのです。

 そして三つ目、「良いもの」として造られました。一章の天地創造物語では、神さまの創造の業が一区切りつく、それを一日目、二日目、三日目と区切って記されていますが、一区切りつくたびに、神さまはお造りになったものをご覧になって「良しとされた」と宣言されて次の日に進んでいきます。
 この「良し」ということば、創世記一章三十一節にも、『神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。』とあります。これは、否定すべきものが何もない、神さまが見てそれを是とされた!ということです。そして被造物を祝福されたと書かれていますが、このように神さまによって、すべての被造物が良いものであるということを宣言されたことであります。我々が生活していくのにふさわしい場所として、神さまは天と地を造られたということを、聖書の一章で、最初に神さまは語られて、それを前提として、この聖書の物語も、また今生きている我々の世界も展開しているのです。

 ところが、そういうふうに言われてしまうと、私もそうですが、ここにいらっしゃる方も、たぶんこう考えるかもしれません。『「すべて良い」なんて言われるけど、本当にそうなのかなぁ?』と。神さまに「こんな世の中が本当にいいんですか!」とつっこみを入れたくなる、そういう気持ちがわき上がってくる人もおられるかもしれません。

 先週は、世間を騒がせた殺人事件が二件ありました。それも、ある意味私たちの身近で、私たちの住んでいる愛知県に関わる人が殺人を犯しました。それも、殺した相手が自分に不利益を与えたので憎んでいたとか、何かの報復のためにとか、そういうことではなくて、誰でも良かったとか、面識がなかったとか、そういう相手を、考えられないような残虐な方法で、鉈を振り下ろし、拉致監禁して、あげくに殺してしまった、そういうことがありました。そういった事件を見ると、心が塞ぎます。また身近な所で起きるとなると、同じ愛知県民としてとても残念です。神さまがいるのであれば、なんでこんな嘆かわしい、悲惨なことが起きるのかなぁと考えてしまいます。

 先週は、米朝首脳会談が行われまして、今後の交渉がどうなっていくか見ていかなければいけないところであります。近々、日朝首脳会談もあるかもしれません。日朝問題で重要なテーマにあげられているのは拉致問題です。これも被害に遭われた方の心情を考えたら本当に悲しい出来事であり、痛みの中にあると察するわけです。なぜこんなことが世界には次々と起きるのでしょうか?
創世紀二章十五節〜十七節

『神である主は人を連れて来て、エデンの園に置き、そこを耕させ、また守らせた。神である主は人に命じられた。「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」』

 続いて創世記三章四節〜七節

『すると、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです。」そこで、女が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。それで、女はその実を取って食べ、ともにいた夫にも与えたので、夫も食べた。こうして、ふたりの目は開かれ、自分たちが裸であることを知った。そこで彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちのために腰の覆いを作った。』

 ここを見ますと、ヘビが登場します。三章になって突然現れて、女を誘惑します。ヘビは、サタンの象徴的な姿として描かれるわけですが、サタンの起源がどのようであるかは、はっきり聖書に記されていません。しかし、創世記三章ではっきりと分かることは、人間を悪へと引っ張ろうとする、そういった力がある、サタンの力が現実のものとしてある、ということです。
 ヘビといったら、これも被造物ですが、神さまが最初にすべてのものをお造りになった時「見よ、非常によかった」という中に、ヘビも含まれていると思います。にも関わらず、人を誘惑したのです。これはある意味で、人間を含めたすべての被造物は、善に傾くこともあるし、悪に傾くこともある、ということです。人間も善に向かうことができるけど、悪に向かう可能性もある。そういうものであるということです。
 人が善に向くのか、悪に向かうのか、それは人間と神さまとの関係にかかっていると思います。人間が神さまとの関係を正しく持っている間は、その行動は善に向かっていく。逆に人間が神さまに背を向けて自分自身に寄り頼んで歩もうとしていくときに、その道は悪の方向に向かっていく、とうことだと思うのです。
 今お読みしたみことばもそうですし、また聖書全体を通しても、そのような原則があるということを、私たちは読み取ることができます。

 神さまは人間を造られたときに、人間に「選択の自由」というものを与えられました。選択の自由の象徴として、「善悪の知識の木」をエデンの園の中央に置かれました。
 神さまは人間が自らの意志でその実を食べないことを、神の意志に従うということを通して、自分から善であることを認識し、これを行っていくことを通して、人間に善悪を分けまえさせようとされたのです。神さまはまた、サタンが彼らを誘惑することを許可されました。神さまが「誘惑するな!」と言えば、人間は誘惑を受けなくて済んだかもしれませんが、誘惑することを許されたのです。それでもなお、人間が良いほうを選択することを神さまは望まれていたと思います。
 神さまが禁じたのは、そのエデンの園の中でたった一つ「善悪の知識の木」の実を食べることだけでした。人間はただ一つの命令、神さまとの約束を我慢できなかったのです。
 人間の心の中には自分よりも上に誰かが立って、自分にあれやこれやと命令することを快く思わない、つい反抗したくなる、そういう心があるみたいです。
 自分が一番、世界でお山の大将になって、誰にも自分に指図をさせない!と考えます。ヘビはそこをついてきたわけです。十七世紀の詩人ハミルトンは創世記の物語をテーマにした叙事詩「失楽園」を書きました。そのなかで、サタンが告白する場面があります。サタンは「天国において奴隷たるよりは、地獄の支配者たる方が、どれほどよいことか」と書きました。

 アダムとエバは結局、自分たちの意志で神さまに背いて禁断の実を食べることを選択しました。サタンは食べなさい!と命じることはしませんでした。「食べたらこうなりますよ」とやんわり誘惑したのですが、人間は見て、「おいしそうだな〜、これ食べたら賢くなりそうだな」と思ったので、取って食べたというのです。
 ヘビに誘惑されたアダムとエバは、取って食べ、そのことを通してサタンが言ったように、ある意味で目が開けて、善悪をわきまえるようになりました。神さまも「人間の目が開かれて、我々と同じようになった」と言いました。
 神さまは神に従うことを通して善悪を人間に教えたかった。けれども悪魔は全く逆の仕方、神に背くことを通して、その目を開いたのです。
 自ら神の戒めを破って、禁じられた木の実を食べることで、「やってはいけないことをしてしまった」という「罪悪感」が芽生えたのです。ちょうど赤ちゃんが成長していく中で、少しずつ自我が芽生えてくると、自分が悪いことをしたかどうか感じるようになります。悪いことをして、親とか周りに、「あー!」と言われると、その声だけで泣きだしたりします。自分が悪いことをしちゃったことに気づくわけです。小さな赤ちゃんも、そうやって少しずつ大きくなっていきます。
 アダムとエバが罪を犯した、その「罪悪感」は、相当ショッキングだったのではないかと思います。それで彼らは自分が裸であるということに気づいて、恥ずかしさを覚えました。罪を犯した結果「恥ずかしい」思いにさいなまれたのです。いままで感じることのなかった「恥」の感覚です。恥ずかしくて腰巻きを作って、しげみの中に隠れて、神さまの前に出ることができないと思ったのです。
 初めての体験に彼らは相当戸惑ったと思います。「罪悪感」「恥」というもの、それまで知らなかったのですが気づいてしまったのです。善悪に彼らは開かれたわけです。
 善悪の知識は神さまによって、彼らに与えられたものであるならば、彼らに神に従う喜びを与えたのですが、神に背く道を選んだときに彼らは困惑したわけです。

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 これは最近みなさんも嫌というほどご覧になったと思いますが、社会的問題となったアメリカンフットボールの悪質タックル問題です。今、日本最大の大学理事長の解任要求にまで大きく膨らむ問題となっています。それはなぜでしょうか?やはりスポーツマンシップを踏みつけたことです。大学の名誉とか、他の大学よりも抜きに出て一番になりたいという欲です。この悪質タックルをした元にあるものは、その欲望のためだったら、相手を傷つけようがルールに反しようが、大したことではないという自分勝手な考え方です。監督も「私の指示でやらせました」なんて、最初のうちは言っていました。
 このような出来事に対して社会がNo!と言ったわけです。この映像がSNSで拡散されて大変な騒ぎになったのですが、これを見た誰しもが、「これはやってはいかん」と感じたわけです。
 ところで、このような善悪をわきまえる判断力は、人間に生まれながらに備わっているというのです。人が社会の中で成長とともに学習していくとか、体験によって会得していくとか、そういう類いのものではなく、産まれながらみんな誰でも持っているものであるというのです。
 しかも、その判断力は全人類が共通して持つというのです。誰に教えられることなく善悪を見分けることができるのです。例えば、人を欺くこと、人の財産を害すること、人の妻・夫を奪うこと、殺人、傲慢であること、わがままであることなどを人は嫌います。そういうことが身近にあったら、嫌だなぁと眉をひそめるわけです。逆に誠実であること、正直であること、謙遜であること、人に対して寛容であること、弱い人をいたわること、夫婦が仲むつまじいことなどを人は尊びます。不正が暴かれると喜んで、正しいものが報われずに放っておかれたりすると悲しいと思うのです。

 善悪を知ることは、ある意味人間が理性で善か悪か判断することです。本来は、自分の判断に増して、神さまは何とおっしゃっておられるのか。神さまのみこころ、神さまの命令は、何であるのか、ということを私たちはより大事にしなければならないのですが、アダムとエバが罪を犯して以来、神の導きよりも自分の判断、自分がどう思うかということが第一になってしまったのです。
 先ほどお読みした三章五節で、「あなたがたが神のようになる」と書かれていました。木の実を食べた時に、人間は本当に神のようになったのです。というのは、神よりも自分を優先するという、そういった生き方が身につくようになってしまった。それを自分で望んで実行した、というのが、アダムとエバの罪の根源で、神学用語では「原罪」といわれます。
 そして彼らの末裔である私たちも、一人ひとり神のようになって、自分の判断を自分の基準として、自分で善悪を判断しようとして生きている状態です。自分が世界の中心になっている。それが生まれつきの私たちの姿であるわけです。ただ、私たちクリスチャンはそうではなくて、自分の考えではなくて、神さまご自身が私たちを導いて促される、そのことに従って生きていこう!と志しているわけですよね。それを実践しようとする、そういった考え方を持っているのが本当に素晴らしいことであります。

 理性、自分の中にある善悪の判断ということは、前にお話したことがあるのですが、十八世紀とか、十九世紀に世界中に影響を与えた啓蒙主義の時代、その時代に理性という考え方が発展しました。
 当時、哲学とか、学問が発展して、学者たちは理性を中心に世界を考えようとしました。それは裏を返すと、神よりも人間、神の教えよりも自分の理性を上に置く、そういった価値観であります。その時代、信仰は否定されるような状況でした。啓蒙(けいもう)主義では理性によって暗いところを開く、人間の知識はますます開かれて、神はそこに介入する余地はありませんでした。

 創世記三章五節に、「善悪の知識の木から食べるとき、あなたがたの目が開け、神のようになり、善悪を知るようになる」と悪魔が言いましたが、それが十八世紀、十九世紀の啓蒙主義では学問の中で実践されました。学問の中から神さまを取り去って、人間が神になって、人間の中にある理性がこの世界を正しい方向に導いていくんだ!と、人間中心になっていったのです。
 その結果、人間が幸福になったのかというと、幸福になりませんでした。二十世紀になりますと、世界大戦が二度ありました。そして現代まで様々な罪が横行する世の中になっています。神のことばよりも善悪について人間の判断力を上に置くと、結果は悲惨なものになっていくわけです。

 アダムとエバの堕落以来、歴史を通じてずっと、悪、罪、苦しみ、病、そして死が、歴史を通じ世界を悩まし続けているのです。人間とはなんなのか、人間はどのような生き物なのか、正しく示すことができるのは聖書に書かれている神さまだけです。
 この神さまの元にあることが、人間が本来の姿を見いだして、生きることができるただ一つの道です。これが、聖書が私たちに教えていることです。そのような状態にあること、人間が神さまと共にあって私たちを導いてくださって、人生の中で自分が世界の主ではなくて、神さまを主として生きていく。そういうことが、私たちが「救われた」状態である、ということができると思います。クリスチャンとして救われた私たちは、そのように神さまを中心にして生きていくことを心がけているわけです。
 でもこの世界の中で、そういった思いを持って生きている方は少なくて、見失われている状態であり、神さまから離れて自分自身を世界の主人として生きているという状態であります。そういった状態のことを、聖書は「罪」というわけです。神と共にある状態というのが救われた状態、神から離れて自分を世界の主として生きる状態、これを聖書は「罪」というのです。

 罪のことをヘブライ語では「ハタース」というのですが、これは「道を誤る、道を逸れる」という意味です。また新約聖書のギリシア語では、罪を表す言葉として一般的に「ハマルティア」を用いるのですが、この言葉の原意は「的外れ」「違う方に行ってしまっている」という、そういった言葉ですが、ヘブライ語の「ハタース」と同じような意味です。
 本当に神さまから離れて自分自身が勝手な方向に向かってしまっている状態、これを罪というわけですよね。

 ところで、神さまがなぜ、善悪の知識の木をエデンの園に生えさせたのか?これさえなければ、人間は誘惑に会うこともなく、罪を犯して堕落することもなかったであろうに、と思うかもしれません。
 神さまがなぜ「善悪の知識の木」をエデンの園に置いたのか。堕落してしまった立場にある人間には、「私たちに罪の誘惑をした木」となるかもしれませんが、本当は神さまが善悪の木をそこに置いたのは、そんな目的ではないのです。人間を誘惑してやろうと思って置いたのではないのです。
 神さまが「善悪の知識の木」を置かれたのは、人間と神さまとの関係が愛の関係であって、神さまの招きに人間が応えて、そして神さまと愛の交わりをすることのために必要な、ひとつの象徴としての善悪の木だったのです。
 善悪の木を見る時に、神さまは「これは食べちゃいかんよ」と言われたのですが、人間は自分で選択をして、これは神さまが駄目だと言われているから自分は食べまいと決めたわけです。そう決めていた時には、神さまとの関係には、愛の関係がありました。それは神さまがなにか人間を思い通りに支配し束縛してやろう、勝手なことをしないように置いたわけでは決してないのです。神さまは人間に自由を与えられて、そして園の木の中から思いのままどれでも食べてもいいよ!とおおせられました。園の真ん中の中央の善悪の木の実だけ置かれて、美味しそうな実をならせ、他に何も実がなる木がなかったら、神さまは意地悪ですが、そうではないですね。どれだけの種類があったのか分かりませんが、たくさんの木がたわわに実をつけて「思いのままどれでも食べていいよ!」と自由を与え「だけどこれだけは気を付けてね。これを食べると死ぬから」と言われました。
 人間はその神さまのことばを真に受けて、疑いもせず、神さまが言ったんだから食べるのをやめましょう、としているときは良かったのです。
 でも悪魔にそそのかされて、人間が木の実を食べると神さまが損をするから、我々が賢くなっちゃったら困るから、意地悪で食べるなって言っているのかな?と疑って、それで見たらとても美味しそうだし、賢くなれたら良いなあ、食べたいなぁと思って食べちゃったということです。
 このように善悪の知識の木というのは、本来は神さまとの信頼関係・愛の交わりを象徴する木でした。

 それは、結婚指輪みたいなものです。結婚指輪というのは、結婚するお二人が結婚式の時にはめて、人にもよりますが、一生はめ続けるものです。この場合、はめるのは嫌ですとは思わないです。結婚指輪は、相手に結ばれたことを指輪自体が物語り、誰でもそれを理解できます。自分の相手人以外には結ばれることはありませんということを、自ら認め、周りの人も認めるというものです。これをはめたといって、「今から私の人生は相手に束縛され不自由な人生を歩まなくちゃいけないのか」と思う人はいません。自分から進んで指輪をはめるわけです。
 たまたま一人でいる時に、周りに独身の異性がいるからといって外しておこうか、と指輪を外すような人だったら、不誠実です。決して外したりしないです。周りの異性が自分に変な感情を持たれては困るので、相手に分かるように指輪をはめておく、正常な人であればそういうものです。
「善悪を知る木の実」は、結婚指輪みたいなものす。その木を見るときに、「この木の実は食べちゃいけないんだ」と確認すること、そして食べないということは、人にとって決して不自由なことではなく、神さまとの愛の関係の故に、自由の意志によって喜んですることでした。神さまは自分にこんなに良くしてくださる、こんな愛の交わりがある、という中で人間は満足していたはずです。その時に善悪の木の実を見ても、人間はなにもそこに不自由や束縛は感じなかったと思います。ただただ神さまに対する信頼がそこにあったということです。それが神さまに対して愛を返すことになったのです。食べないということが。

 「愛する」ということは、よく語られますが、これを強制したりできないのです。神さまが人間を造ったときに、神さまが言ったことに対し百パーセント実行することしか知らないような人間であったら、それはロボットであり、愛の関係にはならないのです。神さまが人間を造ったとき、神に従うこともできる、また本人が望めば神に従わないこともできる、ということを自分で選ぶことのできる自由を、神さまは人間に与えたのです。
 自由を与えたとは裏返していうと、神さまに反抗することを選ぶこともできるということです。神さまは人間を造るときに、あえてそのような機能を、人間に与えて、神に反抗するようになるかもしれない、というリスクを受け止めて、あえて人間をそういうふうに造ったわけです。

 そして人間は罪に堕落してしまったわけでありますが、でも神さまは、罪を犯した人間に対してどうされたかというと、「あ~あ。やっぱり罪を犯しやがったか。こいつ失敗作。」といってバッサリ切り捨てることもできたかもしれないのですが、神さまはそうされませんでした。「もう知らん!おまえなんかどこに行ってのたれ死んでも俺は知らん!」とは神さまはされませんでした。
 神さまは人間に罪のゆえに、仕事をして汗水たらして働くけど地はあなたに産物を実らせないとか、女は男を慕うが男は女を支配するようになるとか、今の世の中でもある飢餓問題とか貧困問題とか、男女差別とか、そういった問題の元になるような呪いは、人間の罪によってこの世界にもたらされたものであります。その後カインとアベルの兄弟間の殺人事件が起きて、その後も様々な呪いが増し加わって罪の歴史が重ねられていくのです。ところで神さまが三章で、ヘビの子孫に対して、『彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。』と言われましたが、これはイエス・キリストについての預言だと言われます。
罪を犯した時に神さまはバサッとせずに、エデンの園からは追い出したのですが、それによって様々な呪いがもたらされるようにはなったんですけど、でも救いの計画も人間に与えられた。ヨハネの福音書三章十六節、有名なことばですが、

『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』

 聖書を学んでいくと、実にこのみことばが中心的なテーマを表していることを知ることができるのですが、創世記のはじめの人間が創造されたその箇所で、すでに救いの計画を、アダムとエバが罪を犯したことに対して、神さまが語られているのです。見捨てるということをせずに、エデンの園から出るときには、皮で衣を作ってあげて送り出したと書かれています。

イエス・キリストを信じた我々は今神の子とされました。神の子とされた、この意味は何か。これを最後にお話しして終わりにしますが、最初にお読みした創世記一章二十六節〜二十七節に、アダムを創造されたときに神さまが、「われわれに似るように、われわれのかたちに人を造ろう」、そして神さまご自身が造られた創造物を「彼らに支配させよう」と言いました。
 その時、造られた世界をご覧になったとき、「非常によかった」と言いました。しかし人間が罪を犯して、神さまから離れたときに、堕落の歴史がはじまって、この世界がある意味で悪に支配されたような世界になったわけですが、私たちがイエスさまを信じて救われたということはどういうことかというと、もう一度神さまの子どもとしての立場が回復された。ということは、神さまがアダムとエバを造られたそのときの状態、アダムが神さまによって創造されたときのそのときの状態その立場に、イエスさまを信じた私たちは今ある、ということなのです。アダムとエバが造られたときに、「われわれの姿に、われわれのかたちに造ろう」と言われて、罪を犯す前の彼らが持っていた状態にイエスさまの十字架によって、私たちは回復させられた。ということはどういうことかというと、被造物を支配していく、それは搾取するとか、上になって牛耳るとかではなくて、被造物を「管理していく」ということです。

 今我々は、この世の中を見るときに、様々な悪いものがあって、こんな世の中に誰がしたと言いたくなるかもしれません。しかし私たちは、その悪い世の中を見て、「悪い悪い」と嘆いているだけでは、神さまがアダムを造られたその目的にかなう歩みをしているとは言えないのです。
 神さまはこの地を支配させようと、アダムに対して言われ、今クリスチャンである我々に言っておられます。二〇一八年が始まってからずっと「彼らに主の名をほめたたえさせよ」というテーマでみことばが語られています。被造物に対して主の権威を宣言することが、この礼拝でも毎週のように勧められて、礼拝の最後にはみんなでそんなことを真剣に祈ったりします。
 私たちそれぞれが遣わされている領域の中に、私たちが管理すべき場所があるのです。特に良いと見られる場所よりも、むしろ悪いと見られる場所です。そういった場所を私たちが見いだしたときに、そこに対する責任を私たちが持って、そこに対して、神の支配によって良いと宣言していく。そういった宣言を通して、祈りを通して、その領域を神さまにおささげしていく。そういうことを通して、世界全体が神さまを迎える世界になっていくのです。
 そのように本当に大きな被造物に対する責任と権威を、アダムは造られたときに与えられていますし、今も私たちは受け継いでいるのです。
 ですから教会として、私たちはクリスチャンとして、そのように世界に対して神さまの義を宣言して、この世界が良いものである!と、宣言していきましょう。そして神さまが帰って来られるときに、迎えるにふさわしい被造物が造られていくことができるように、私たちが本当に目を開いて、神さまによって導いていただく、そのような一人ひとりになることができるように求めて祈っていくことをお勧めして、今日のメッセージとさせていただきたいと思います。お祈りします。

 今日は私たちが創造された目的について、聖書の最初、神さまによる天地創造のわざが記録されている中にも、はっきりと記録されていることを学びました。彼らに主の名をほめたたえさせよ!と、私たちは語られ続けて、今年もう半年が経ちますが、私たちがもう一度神さまの側にある者として、世界の主が私ではなく神であるということ、そして自らすすんで神を愛し、神の命令に従うということを通して、この世に対して神の栄光を現していくものとなることができるように祈り求めていきたいと思います。では、みなさんでご一緒に、そのような神さまへの告白をもって、自分自身を神さまにおささげする祈りを持ちたいと思います。

 一言お祈りします。
 ハレルヤ、イエスさま。今日のみことばの時を心から感謝します。主よ、どうか私たちがこの置かれた場所、その信仰の中で、神と共に歩み、そしてこの世界において、特にその闇に対して、主の勝利を、神の義を宣言し、それを良しとする、そのような働きを担っていることを今日学びました。どうかおひとりおひとりがその使命に生き、神さまと共に歩むことができますように。天が開かれ、お一人お一人に聖霊の豊かな油そそぎと祝福がありますように。感謝をもって、イエスさまの御名によってお祈りいたします。アーメン。