「リバイバルの高嶺を目指して」
2018年7月1日(日)
新城教会牧師 滝元開
イザヤ書40章28節〜31節
『あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。』
感謝します。賛美礼拝はつい先日の開催に続きとても短いスパンとなりました、主が今日という日を備えてくださったと信じています。
七月一日。今日から賛美月間ということで、一ヶ月の賛美集会がこの教会で始まります。主に心から期待して、神さまが何をしてくださるのか、主を待ち望んでいきたいと思います。ぜひみなさんもお時間を作ってご参加いただければと思います。
四月に賛美ウィークというのが行われました。一週間賛美して、主の大きな恵みが注がれました。そして今月は賛美月間。「どうして賛美ウィークから賛美月間になったんだ?」と中高生に言われまれました。ただゴロが悪いので、「賛美マンス」より「賛美月間」のほうが言いやすいかなと思って、賛美月間になりました。
今日から一ヶ月間、夜八時から一時間の賛美が毎晩毎晩行われます。ただ月曜だけは、明日は県民の森、そしてその他の時は雁峰山の上で賛美をささげます。新城を一望できるところで賛美をします。夜の七時に教会からバス出発し、山頂で一時間賛美して帰って来ます。八時から九時、十時くらいにはここに着きますので、ぜひみなさんもご参加いただければと思います。
そして今回、賛美月間に伴って、一生懸命賛美していただくための励みになればということで、賛美月間スタンプラリーというのを用意しました。映像が出るかと思います。
基本毎晩スタジオで行いますので、一日出たらスタンプを押していただいて、二十日間出席したら商品がもられます。カレーチケットが、なんと千円分!いただけるということで、昨日のミーティングで主任牧師が「千円でリバイバルが起こったら安いもんだ」とそういうふうに言っておられましたから、ぜひ、二十日間以上を目指してご参加ください。
そして月曜日の祈祷会もそれに加わりますので、ぜひ三十一日間出られる方はそれを目指して賛美していただければと思いますので、よろしくお願いいたします。
ということで、本題に入っていきたいと思います。
今日は「リバイバルの高嶺を目指して」というタイトルをつけさせていただきました。イザヤ書四十章二十八節〜三十一節をお読みいただきましたが、もう一度お読みします。
『あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。』
私たちは今回の賛美月間を通して、主を待ち望み、みなさんが新しい主の力をいただいて、そして共に主の前に仕えていく者になっていただければと思っています。
お祈りいただきまして、先週は私たちは四国をずっと回りました。火曜日に四国に入り、水曜の朝から四国学院大学のチャペルでのコンサートがありました。本当にいっぱいの人たちが来てくれました。
四国学院の生徒たち八十人くらいが集まってくださり、賛美を聴き、そしてみことばに耳をかたむけてくれました。ほとんどがノンクリスチャンです。昨年の十月頃に私たちはこの場所に行ったものですから、今年は行かなくていいだろうと思っていたら、四国学院の宗教部長からお電話がありました。「ぜひ今年も来てください!」とおっしゃってくださって、「どうしても来てほしいと、生徒たちが祈り出しちゃったんですよ。だからなんとかこの祈りに応えてください。」と言われて、私たち行きましたが本当に祝福されました。
彼らがすごく喜んで、みことばと賛美を受け取ってくださり、さらにチャペルタイムの後に交わりがあったのですが、すごく良い交わりでした。三十人くらいの子たちと一緒に食事をしながらの交わりで、クリスチャンでない子たちがイエスさまに対してすごく心を開いておられ、すばらしい恵みのときが与えられて本当に感謝でした。神さまのなさることってすばらしいなぁと思いました。
ただ今回、四国に行ってすごく思ったことがありました。瀬戸大橋を渡って四国に入りました。四国というと四国八十八ヶ所という霊場があり、すごく偶像が拝まれている場所なので、やはり戦いも多いなとすごく思います。
昨年の秋に行った時には家内が喉を潰しまして声が出ませんでした。「私は今日は森進一バージョンでやります。」なんて言いながらなんとかがんばって乗り切りました。しかも四国に行く前に岡山で車を追突されて、ザワメキ史上初めての交通事故に遭ったりして、そして四国に乗り込んだということで、集会は祝福されたのですが、どちらかというと散々だったなという感じだったのですが、今回瀬戸大橋を渡って四国に上陸してぐるっと回って感じたのは、「あ、インドの勝利が来ているな!」と思いました。これすごく不思議なのですが、インド、ネパール、悪しき根源に主の勝利を打ち立てるという祈りをみなさんでし続けてきましたが、めぐっている中で何かが違うというのをすごく感じました。それは気のせいでしょと言われても、そうではないのです。インド、ネパールの根源の勝利が、この地に現されているんだ!ということをすごく強く感じました。
火曜日に四国に入って、水曜日二回の集会、木曜日も二回集会あり、金曜日は愛媛の松山まで行って、そして土曜日は善通寺という所に来ました。善通寺バプテスト教会、その教会はよくリバイバルミッションの働きを助けてくださっている教会なのですが、そこに行ったら一人の牧師先生が集会前に来てくださいました。そして、来るなり開口一番こうおっしゃいました。「インド、ご苦労さまでした!」と言われました。「お祈りありがとうございました。」と私も言いましたところ、インドの報告のメッセージを読んで、涙が止まらなかったというのです。「自分の感情ではなくて、どうしてか分からないけど、ずっと涙が出て、止まらず、ああ、聖霊さまがインドで勝利を本当に現してくださったんだなと思いました」と言われたのです。そして、さらに「とっても楽になりました。」と、おっしゃっていました。楽になった。いや〜感謝ですね。根源から送られ続けてくる悪しき力が打ち破られることによって“楽になった。“みなさんの中にもそう感じておられる方がいらっしゃるか分からないですが、これからも主のために働く者として、「あ、楽になった!」というような勝利がこれからさらに現されるようにと心から願っています。
そのインドに行った時に、山の上に上りました。標高が二千メートルの所から歩いて上り標高三千メートルの所まで上りました。
これは途中のビュースポットの写真です。私が立っている所、その下は断崖絶壁なのです。すごく危ないところにあえて立って歌いました。そうしたら本当に祝福された賛美の時を持つことができました。
本当にそこでの賛美が祝福されて、聖霊さまが働いてくださり、大自然が歌っているというか、本当に被造物そのものが喜び歌っているなぁと感じました。
そして歌っていたら大きな鷲が現れて、私たちの前を雄大に一緒に賛美しているかのようでした。そして歌い終わったらその鷲が私たちの頭の上を何度も何度も旋回して一緒に歌ったよ!と言ってくれたような、そんな感じでした。その時の鷲の写真があります。目をこらさないと見えませんので見てくださいね。
見えますか?点ですが、見えますでしょうか。これが鷲です。もうちょっとアップにするとこんな感じです。
もっとアップするとこんな感じ。
鷲が一緒に歌った。本当に感動でした。神さまがここまで来て、そこまでの経緯のことを前回お話しさせていただきましたが、みなさんで祈って、その場所に立って歌うというだけでイエスさまの勝利がこの根源に訪れているなということをすごく感じました。
でも鷲が歌ったというのは一つ大きな意味があるなと思いました。
チベット仏教はヒンズー教の違いの一つに、ヒンズー教徒は人が死んでしまうと、遺体を川原で火葬をするのですが、チベット仏教の人たちは「鳥葬」というのをします。人が死んでしまったら、遺体を切り刻んで山に置くのです。そうするとその山に何が来るかというと、鷲が来るのです。鷲たちが来て、その肉を食べてしまう。それが今なお行われているのです。
私たちが行ったインドの北部のこの場所はインドの法律でそれは禁じられているのですが、鷲にしたら鳥葬とか言われてそりゃお腹空いているから来て食べなきゃいけないわけですが、でもその鷲が本当に「わし(鷲)が造られた真の目的はこれじゃあない!」というか、「造られたこの目的、主を賛美する、これがどんなにすばらしいことか!」と思って一緒に歌ってくれたのではないかと思うのですが、「死」に対しても主は大きな勝利をあらわしてくださった、大きな祝福のしるしであったと信じ感謝いたします。
ですから、これからも根源に現された主の勝利が、私たちの生活のただ中に現されることを信じていきたいと思います。
今日のみことばのタイトルは「リバイバルの高嶺を目指して」というタイトルを付けさせていただきましたが、私たち三千メートルのところまで上がって、そこでも賛美して、本当に山が一緒に歌って、この悪しき霊的な霊山と呼ばれるそこに主の勝利が打ち立てられたということをすごく感じました。
私たち山に上って歌っているときは薄曇りで周りの山々は見えませんでした。歌い終わってから食事を小さなテントでして、そしたら雨が降って、雷がなって、よくあるパターンだなと思いながら食事をして、でも食事が終わってふと外に出たら晴れました。晴れ上がってぱっと見たら、なんと私たちの後ろにこの写真です。
後ろに見えるのがヒマラヤです。ヒマラヤがそびえ立っていました。「リバイバルの高嶺をもっと目指しなさい」とイエスさまがおっしゃっているなということを強く感じました。
リバイバルを求めて、この教会がひとつになって二十五年間戦い続けてきました。二十五年間、リバイバル!リバイバル!リバイバル!本当にリバイバル甲子園ミッションから始まって、戦い続けてきました。あの時やはり若かったですね。今は私はギターを抱えて歌っていますが、よく娘に「何をギターに寄っかかったように歌っているのよ」と言われるのですが、あの時はギターを持たずにずっと動いてずっと飛び跳ねて歌っていました。いや若かったなと思うのですが、ただやはり二十五年歌い続ける中で、神さまは確実にリバイバルの働きを進めて来られて、「これからわたしリバイバルの働きをするよ!」というふうにおっしゃっておられるなとすごく強く感じます。
民数記十四章九節に、こんなことばがあります。
『ただ、主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ。彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかし主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」』
と書かれています。
『彼らの守りは、彼らから取り去られている。』悪霊どもの陣営のその悪しき守りというのが取り去られて、私たちは恐れずに戦って恐れずに進んでいく時に必ず主は大きなこと、リバイバルのみわざ、私たちが祈り続けてきた祈りに主は応えてくださると信じます。
ですから、本当にそのことを信じて、この甲子園ミッションから25年の記念の年の後半戦がんばっていきたいなぁと思います。
そんな中で賛美月間ということで毎晩の賛美の時があるので、個人的にはすごく期待と共に本当に喜びでいっぱいです。ぜひ共有していただいて、ともに主を賛美して、そしてカレーチケット千円ゲットしていただければと思います。
うちの教会のスタッフの一人のMという兄弟が家族五人で参加したら五千円!やった!と、喜んでおりますが、できるかどうか分からないですが、主を求めてがんばっていただければと思います。
ということで、今日のみことばにもう一度戻っていきたいと思います。さきほど読んだイザヤ書四十章三十節にこんなことが書かれています。
『若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。』
と書かれています。そして三十一節に、
『しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。』
このみことば、疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。「力を与えるよ、だから主を待ち望みなさい」というみことばなのですが、あえてここに『若者も疲れ、』と書かれています。どうして若者にターゲットを当てているのかなぁ。そしてさらに『若い男もつまずき倒れる。』とあります。
やはりリバイバルに若い力ってすごく必要だと思うのです。だから若いと思っておられる私を含むすべての方々はがんばろう!と思ってほしいと思うのですが、「あとは若い者にがんばってもらえばいい」と思っている人は特に若者のために祈ってほしいと思います。
やっぱり二十五年前、リバイバル甲子園ミッションのときに、若者がわーっと集められて、その彼らの力ってすごかったと思います。みんながリバイバルの火の中に、あっちからこっちから飛びこんでくるような働きで甲子園ミッションという戦いを戦い抜くことができたと思っていますが、あれから二十五年。その時飛び込んだ人たちが、その後、結婚して、次に生まれた世代がだいぶ揃ってきたときだと思います。
何年か前の新年の聖会の中で順先生がメッセージの中で「リバイバルをこのチームで見ましょう。!」と言ったことがあります。覚えておられますでしょうか。「このチームでリバイバルを見させていただいて、このチームでイエスさまを私たちはお迎えしたい!」と。「また次の次の世代ではなくて、この時に、私たちは主を求めていきましょう!」というメッセージがなされたのですが、この二十五年という、この区切りの中で、主はある意味、すごく備えておられるのではないかなと思います。
ですから、本当に若い我ら一同一人ひとりが主のために、もう一度主を待ち望んで新しい力をいただいて、その鷲のように、人の肉を食べるための働きではなくて、主をほめたたえるという、そんな働きをこれからさせていただければ、どんなにすばらしいことかと思います。
ただ今の時代というのはすごく大変な時代だと誰もが感じていると思います。本当に大変な時代になってしまいました。この社会を見ると、これから先、この社会成り立っていくのだろうかと感じてしまう時代のただ中に生かされています。
最近起こってくる世界のニュースもそうですが、日本国内のニュース大変なものばかりです。特に、最近二十代前半の男の子たちが信じられないような行動に出ている姿を見ると日本どうなっちゃったかなぁと誰もが思っていると思います。
やはり人々の心が破壊されて、その残虐な行為に至らせるサタンの後押しがあるゆえにその働きがなされていると思います。
先週すばらしいメッセージがなされて、最後に「三代、四代の呪いを断ち切る!」というメッセージがされました。本当に良かったですね。私たちは先週日曜日、その四国の働きを終えて、家に帰ったら帰った途端に娘がその順先生のメッセージをばーっと「恵まれた!三代、四代だよ!」と言われました。「だからお父さんにとったら、父方だから父が明で、もう一つ上が清三郎、そしてひいじいさんが徳治郎、そしてそのひいひいじいさん、だから三代目と四代目のために祈りなさいと言われた!」と、それで興奮して話してくれたので、四代目は分からないけどと、私たちが家に入ってまだ椅子に座る前に立ったまま祈り始めましたからね。「おおー徳治郎の悪しき呪いが砕かれますように!そして名前は分からないですけど、この四代目の悪しき呪いが打ち砕かれますように!」と言って祈って良かったなぁ、これで本当に主の勝利が現される!というふうになりました。
でも、順先生、滝元家の長男、さすが、すごいですね。先週、LINEが届きました。「ひいひいじいさんの名前、判明」と来ました。なんとわかったのです!今、言っちゃっていいんですかね。順先生本人の口より、一足早く映像を見せますね。順先生、きっと自分の口でおっしゃりたいと思いますが、私はあまりにも感動してしまったので、一足先に。
滝元家の家系。父、明。じいさん、清三郎。ひいじいさん、徳治郎。そして、ひいひいじいさん、こまたろうさんでした。今日は私の父のお兄さんの娘さんが来てくださっているのですが、そのお兄さんの所に順先生ご夫妻が行ってお名前を聞いたらしいです。そうしたら「こまじろう」だと教えてもらったそうなのですが、その後で墓に行ったら、写真では見にくくて分からないと思いますが、
「滝本こまたろうの墓」というのを見つけたというのです。なんか嬉しかったですね。いや〜本当に順先生、ありがとう!というか、さすが長男!やることやってくださったな!というか、なんかすごくすっきりしました。
ぜひ、すばらしいメッセージ聞きましたが、それぞれのご家庭のルーツ、分かるのであれば、そのルーツをピンポイントで三代四代の悪しき力が打ち砕かれるように、この偶像礼拝の呪いが砕かれるように、ぜひみなさんも祈り続けていただければと思います。
それでまたちょっと先ほどの話に戻りますが、今はすごく大変な時代の中にあります。先祖からの悪しき呪いというものとともに、やっぱり今のこの流れの時代の中で、私たち一人ひとりがそれぞれ悪魔に開いてしまう扉ってあると思います。
だからいくら三代、四代を断ち切っても、断ち切られたからと言いつつ悪いことをしていたら、直でサタンの攻撃って遭うので、やっぱりこれからリバイバルのために私たちが備えて主の働きが現されるためには、この時代に開かれた悪しき扉を閉じるかというのがポイントになってくると思います。
私たちの生活の中で、この十年くらいですごく大きく変わったなと思うことがひとつあって、それは何かというと、みなさんも手にしていると思うのですが、私も持っています、このスマホというもの、ほんの十年前、みなさん手に持っていなかったと思います。
私は初めてスマホを見たのが、二〇〇七年のハワイのリバイバルミッションの時でした。その時にアメリカから来たミュージシャンがスマホを持っていて、指で画面を大きくしたり小さくしたりして、「すごいものがあるな」と思って見たのが初めてなのですが、このスマホの支配力ってすごいものがあるんじゃないかなと思っています。日々利用しているのは事実ですが、その利用の方法によっては、サタンの考えた最強束縛アイテム、その一つがスマホじゃないかなと本当に思います。
スマホとタブレットの端末所有率というものがありました。
今は二〇一八年、約八十パーセントの人たちが持っておられるそうです。この赤いグラフがタブレット端末機です。二〇一〇年の時、八年前は九・八パーセントから、十年前ほとんど皆、手に持っていなかったものを今は持っています。
たった十年でサタンはとっても悪い領域の扉を誰もが容易に開けられる方法を考え出したものだと思います。
ある意味、アップルのマークってリンゴをかじったようなマークで、人類は禁断の木の実をかじってしまったようなそんなものじゃないかなと思いますし、Windowsとはよく言ったものです。悪い窓開け閉め自由な時代です。私たちはこのスマホ到来という時代の中に生きていて、それが普通です。もうそういった社会なので、このスマホを通して情報をやりとりします。
私はよく中高生の集会の中で「スマホに気を付けてがんばってくれ。やりすぎるんじゃない。」と言うのですが、彼らにしたら「僕らが生まれたらこれがあった。だからこれが普通だからどうしたらいいんだ。」と言うのです。
今月また中高生のレッツプレイズという集会があります。レッツプレイズがあるたび、世の中の歌断食をしています。世の中の歌を聞かない、世の歌断食とともにゲーム断食をしています。もう一つ今年はユーチューブ断食というのも加えようと思っていますが、だけどそれを言ったら、「そうしたら僕は何をしたらいいんだ。やることないじゃないか。」と言うのです。やることっていろんなこといっぱいあると思うのですが、そんなことしたら息が止まっちゃうみたいな、そういう勢いなのです。
私たちはこういった社会の中で生きていて、主を待ち望むためには、閉じるべき扉は閉じないといけないと思います。簡単に悪い扉は開いてしまう時代です。ちょんっと画面に指先を触れるだけでサタンからどんっと汚れたものはいっぱい来ますし、いけないゲームをしたり、その他にも、そういうことっていっぱいあると思います。だからいかにして私たちはそういった中で神さまご自身が私たちに律法じゃなくて、「ここまででやめなさい」という声に聞くか聞かないかというのが、すごく大きなポイントではないかと思います。
今はSNSというのがすごく流行っています。ソーシャル・ネットワーキング・サービスですね。フェイスブックだとか、トランプさんがよくつぶやいているツイッターですとか、それから写真も一緒に送られてくるインスタグラム。若い子たちはそれをやっています。それらをやりだすと、自分がどういう評価をされているか気になり、また自分の行動をオープンに現して、そして人の生活も覗き見ながら、その中で関係を保つというのがあるのですが、一度一歩下がってこれっていいのかな?ともっと冷静に考えたら、これは良いことばかりじゃないぞと、神さまは「わたしはあなたに語りかけたいけど、あんたずっとそこを見ていたらわたしは語りかけられない。」
ともすると、神さまの声、このスマホの中から聞こえるくらいな勢いで私たちのすべての情報源はここ、神さまからの情報もここから吸い上げようというような、そういうものってあるのではないかと思います。
例えば一ヶ月間、これからずっとSNSなしという生活をしてくださいと言ったら結構きついと思います。できるならばやってみたらいいなと思うのですが、基本私はしないのでいいのですが、うちの子どもたちがしているので、こんな話をしてよいものか分かりませんが、ただ神さまのみこころ、これから主が働こうとされているこの二十五年のときに、主は何か私たちに、特に若いみんなに語っておられるのではないかと思います。
私は高校時代、少し変わっていました。私の息子が同じ学校に行きました。すると私を教えてくれた先生に息子が出会って、その先生、「おぉ、開の息子か。」と言われたそうです。そして開について何と語ったかと言ったら、「あいつほど学校に興味のない男はいなかった。」と言っていたそうです。
一番最後に学校に行って、一番最初に学校から帰るという生活をしていました。それでずっとベースを弾いていましたから、ちょっと変わっていたのですが、ただ学校に行って、毎朝行って、ある時、高校二年生の時だったのですが、疑問に思い出したことがありました。そもそも学校に興味のない者だったので、だいたいぎりぎりまで寝て髪の毛ぼさぼさのまま走って行って遅刻ぎりぎりのところというか、遅刻結構しちゃいましたね。全校の遅刻数の三分の一を私が持っていましたから。でも卒業できたので今はいいのかなと思いますが、こんなこと絶対に真似しないほうがいいですが。
でも学校に行って彼らが言うのが、最初、「昨日のあれ見た?」とテレビの話から始まるのです。「昨日のあれ見た?」「あれ」「あのドラマ」、そして「だれだれの歌がどうこう」という、そればかり話す一日から始まるのを見て、私はなんかむなしくなりました。
その当時、律法的な人間というか、律法的な中にいたためが、この教会で教えられていたのは、「あなたはクリスチャン。クリスチャンでない人は異邦人」と教えられていましたから、異邦人の子たちと手を結ぶなみたいな、結構過激でしたね。だからそれを私は純粋に受け止めていたので、「異邦人の言うこと、朝あれ見た?それから始まる。」なんかむなしくなっちゃったのです。そして何をしたかと言ったら、高校二年生の少年です。一年間、これほんと、テレビを絶ったのです。テレビを全く見なくしました。情報をカットしたらどんなにいいだろうと、そしてベースに没頭したという一年間でした。だからその当時、今の家電量販店みたいのはなくて、デパートに行くとテレビとかあるじゃないですか。そうすると私はテレビの横をこうやって(手で顔を覆い)歩きました。本当に変な男でしたね。
でも私、本気でイエスさまに出会ったのは高校二年生の冬なのです。今考えると、あれやっぱりイエスさまがさせてくださったなと思います。そんなの、いい話だけしていますが、「みかん食べ過ぎて手が真っ黄色になるから、この冬はみかん食べるのやめよう」みたいな変な男でしたけど、でも主が言われて、これ絶った時の祝福は絶対にあったなと思います。
私は高校二年生の冬に主を求めていました。以前もここで話したことがありますが、私は牧師の息子でイエスさまのために働こうとは分かっていたけど、「もっと新しい力をいただきたい!」というか、教職者ゼミナールに出ていてすごく高校二年生の男が飢え渇きを持ちました。「もっとイエスさまに近づきたい!」と思って、別になんというか近づくというより、「イエスさまとともに歩みたいなぁ!」とすごく思って一生懸命祈っていました。集会終わって私が祈っていたら、私の目の前に、なんとよみがえられたイエスさまがバーンッ!と現れたのです。嘘じゃない本当の話で、「イエスさま!」その時、涙と鼻でぐしゃぐしゃになって、本当に「イエスさま!あなたを愛します!」と祈った覚えがあります。
そしてそれからふと気づいて、その時私がイエスさまに出会って一番大きかったことは、「あ、死んでも怖くない。」と思いました。死んだら天国に行ける。イエスさまを信じたら天国に行ける。信じなかったら地獄だという、その事実は知っていましたが、高校二年生の冬にイエスさまに出会ってイエスさまが私に現れてくださって、「あ、死ぬこと怖くないな。」いや、すごかったですね。やはりイエスさまに出会うってすごく大きな恵みだなと思いました。
そのテレビを絶ったことがそのひとつのきっかけだったかどうかは分かりませんが、ぜひ主にあって歩んでいただければと思います。
マタイの福音書二十四章十二節に、こんなみことばがあります。
『不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。』
と書かれています。ご存じのとおりですが、多くの人たちの愛が冷たくなるので、どこかに愛を探したくなるような時代だと思います。どこに愛があるかなと。やっぱりそこでスマホを覗いてしまう。やはりそういった中でイエスさまの愛に包まれたらいいと思います。
さらに、ルカの福音書十章四十二節、
『しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。』
と書かれています。どうしても必要なことはわずか、いや、一つだけだ。私たちの人生の中でどうしても必要なこと。友達からのLINEをチェックしなきゃだめだから、どうしても必要だと思ってしまうのですが、イエスさまはそうおっしゃっていません。どうしても必要なことはわずかで、ただ一つ。イエスさまのみもとに来てマリヤがイエスさまのみことばに聞いた。そんな歩みを私たちもさせていただきたいと思います。
エペソ書五章十五節〜十九節、
『そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。』
と書かれています。
悪い時代ですので、私たちが愚かにならないで主のみ前にまっすぐに歩んでいく時に、神さまの祝福、主の力、主の恵みが注がれるので、やっぱりイエスさまのみ前に正直でありたいなと思います。
明牧師のいろんなメッセージの中で、この人、本当に正直だな!と思った衝撃的なメッセージがありました。父はご存じのように大衆伝道者で日本中一人で回って、だから夜はだいたいホテルで泊まるのですが、ある時、奉仕から帰って来て風邪を引いていました。そして、どうして風邪を引いたかということをなんと講壇で堂々と話しました。
どうして風邪を引いたかと言ったら、ある旅館だかホテルに泊まったら、すごく汚れた本があって、この世の中どうなってんだとちょっと見てみようと見て、そうしたらあまりにも汚れていてやめたそうですが、そうしたらもうくしゃんくしゃんの風邪を引いたというのです。それは神さまと明牧師との関係の中なので「イエスさま、見ちゃった!ごめんなさい!私を聖めてください!」と言えばそれで終わることなのですが、なんと講壇で「私はそのゆえに風邪を引いた」と、堂々と言っていて、本当に真実って強いなとすごくその父の姿を見て思わされました。
あまりにも汚れたこの時代の中で、これから本当にリバイバルを求めて、「主よ!来てください!」と心から願っていますし、「この世界変えてください!」もう甲子園ミッションから二十五年、なんか二十五年と言いますと、今年今ワールドカップをしていますがドーハの悲劇から二十五年なのです。あの時の失敗を繰り返さないように!と監督がいい判断しただかどうのこうの言っていますが、甲子園ミッションで、あの時はそこからリバイバルが起こってもう日本ががんっと変わるかなと思ったら二十五年の年月が過ぎました。
でも神さまはこの年月も必要な年月として用意してくださったことだと思います。でもやっぱりイエスさまが帰られる前にこの全日本、全世界が変わる、そのための働きをわたし始めるからそのために準備してくれ!とイエスさまはおっしゃっておられるのではないかと、そんなことをすごく強く感じています。
そんな中で、主を賛美する。主を賛美していくときに、心から主を賛美して礼拝していくときに、私たちだけでなく全被造物が一緒に歌って、そして主の帰られる道を備えるという働きがなされる。
サタンが神さまの栄光を奪い取ったのです。本来ある神さまの栄光、神さまだけが誉めたたえられて、神さますばらしい栄光に満ちたお方であったわけですが、サタンというのは元々、天使の長、ルシファーと呼ばれました。聖書の中には三人の天使の名前が出てきますが、ルシファー、ガブリエル、ミカエルが出てきますが、そのうちの天使の長の一人であるルシファー、神さまに最も近かった「美の極み」と言われた存在でした。
エゼキエル書二十八章十二節【新改訳2017】、
『「人の子よ。ツロの王について哀歌を唱えて、彼に言え。神である主はこう言われる。あなたは全きものの典型であった。知恵に満ち、美の極みであった。』
と書かれています。サタン、ルシファーの姿です。全きものの典型、模範中の模範、美の極み、最高の存在で主を賛美していました。しかし主を賛美していたその賛美を、あまりにも賛美には力があるし、そして賛美は栄光に輝いたすばらしいものを主に奏でて主にささげていたものが、この美しさ、自分にほしい!と思って、神さまの栄光を横取りしました。
その結果、何が起こったかというと、イザヤ書十四章十一節【新改訳2017】、
『おまえの誇り、おまえの琴の音はよみに落とされ、おまえの下には、うじ虫が敷かれ、虫けらがおまえの覆いとなる。』
琴の音とともに神さまの栄光の中にいたルシファー、サタンが、琴の音とともにこの地に落ちたというのです。だから音楽を持ってこの地上に落ちて、この地上を音楽を通して治めるという、そういった働きをしています。
何年か前に、「霊的戦いセミナー&実践」の中で、天使と音楽ということを勉強していたことがありました。勉強していくうちに、ひとつの疑問にぶちあたりました。神さまは天地万物を六日間通して造られたわけですが、いつ天使を造ったんだろう?と思いました。いつ造ったのかな?天使が造られたというタイミングに関しては書かれていないですね。だからいつ造ったのかな?と思っていたのですが、ヨブ記の三十八章を見ると、こんなふうに書かれています。ヨブ記三十八章四節〜七節、
『わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。あなたに悟ることができるなら、告げてみよ。あなたは知っているか。だれがその大きさを定め、だれが測りなわをその上に張ったかを。その台座は何の上にはめ込まれたか。その隅の石はだれが据えたか。そのとき、明けの星々が共に喜び歌い、神の子たちはみな喜び叫んだ。』
と書かれているのです。
神さまが天地万物を造ったときに、神の子たちは一緒に喜び叫んでいたのです。だからそこはどこが重要なことかどうか分からないですが、ただ神さまが天使を造った、それはひょっとしたら創造の前の話で聖書には書かれていないことなのかなと思ったのです。ですから、天地創造の目的そのものが、神さまの奪われた栄光を奪回するためなのかとすごく思わされました。
そして最近、特につい最近です。順先生から語られていることは、すべての物質、創造のすべての物質の大元、根源は振動する弦によって造られている、弦によって造られたということが語られて、全被造物のオーケストラを奏でるために神さまはこの全世界を造ったということを語ってくださっています。ですから少し、つじつまが合うような気がしています。サタンによって奪われた神の栄光の奪回のために、今、この終わりの時代に、真理を明らかにされ始めている気がしています。
音楽そのものの中にある力というのは本当に壮大な力があるものなので、私たちは、主が帰られる道を備えるために、そして、リバイバルのために、あらゆるものの根源から勝利するようなリバイバルのための賛美をささげていかせていただきたいなと本当に心から願っています。
そんな中での賛美の集会が行われますので、力いっぱい主を賛美して、そして主ご自身のみわざを拝していきたいと思います。今日は私たち、新しい力をいただくために、若者も、若い男も守られて、新しい力をいただいて、悪しき扉は閉じて、そして神さまご自身を求めていくときに、神さまが今解き放とうとしておられる賛美の力というものがどんなに大きなものかを知ることができます。この天地万物すべてを神の栄光の奪回のために造ったのであれば、被造物すべてに主を賛美させなければなりません。このことを知った今このとき、心からの賛美をささげましょう。この新城というこの大地と、この大宇宙にいたるまで主を賛美させる、天にあるすべてのもの、彼らに主を賛美させよとあります。
そしてまたこの地にあるすべてのものに、彼らを賛美させよ、その中に「若い男よ。・・年老いた者よ。・・・彼らに賛美させよ」とありますから、私たち、もう一度、主のみ前に新しい心を持って主に賛美をささげていきたいと心から願います。
みことばは以上です。一言お祈りさせていただきます。
ハレルヤ。愛する天のおとうさま。あなたのすばらしいみ名をあがめて心から感謝します。主を待ち望む者は新しく力を得る。鷲のように上ることができると、あなたのすばらしいみことばを今日私たち学ぶことができたことを心から感謝をいたします。
私たち今この時代に生かされ、あなたによって選ばれて今この時代に、今ここにあることを信じて心から感謝します。「あなたがたがわたしを選んだのではない、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命した。」と、あなたの選びの中で今私たちがここにあり、この時代の中に生きていることを心から感謝します。
この悪い時代の中で愚かになることがないように。そしてあなたご自身の力をいただくことができるように助けてください。疲れた者に力を与えられる主よ。精力のない者に活気をつけられる主よ、どうぞ今日新しい力を与えてください。若者も疲れたゆみ、若い男もつまずくとありますが、どうぞ主よ、疲れてつまずき倒れるのではなく、あなたによって守られて、そしてあなたの戦いを戦い抜く者となることができるように助けてください。
主を待ち望み、鷲のように新しい力を得て、主よ、このあなたのリバイバルの働きをまっとうすることができるように助けてください。今日のこの恵みのときを心から感謝します。今、すべての栄光を主にお返しします。イエスさま、心からほめたたえ、心からあなたを賛美します。尊き主イエス・キリストのみ名によって、この祈りを父なる神さまのみ前におささげいたします。アーメン。