「主から祝福を受け、その救いの神から義を受ける。」

2018年7月15(日)
新城教会牧師 上條実
詩篇24篇

『地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものである。まことに主は、海に地の基を据え、また、もろもろの川の上に、それを築き上げられた。だれが、主の山に登りえようか。だれが、その聖なる所に立ちえようか。手がきよく、心がきよらかな者、そのたましいをむなしいことに向けず、欺き誓わなかった人。その人は主から祝福を受け、その救いの神から義を受ける。これこそ、神を求める者の一族、あなたの御顔を慕い求める人々、ヤコブである。 門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王が入って来られる。栄光の王とは、だれか。強く、力ある主。戦いに力ある主。門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王が入って来られる。その栄光の王とはだれか。万軍の主。これぞ、栄光の王。セラ』

 ハレルヤ!今日も主の祝福と臨在の中で素晴らしい礼拝を行う事ができますことを心から感謝致します。お祈りいただいています「リバイバルミッション二〇一八 北陸地区」は本日が最終日です。今日は富山県氷見市と高岡市において二つの教会で行われます。引き続きお祈り下さい。また滝元順牧師ご夫妻は「霊的戦いセミナー」のため神奈川県茅ヶ崎市にて奉仕をしております。また今週の木曜日から宮古島に出かけ、金曜日の朝十時からの集会を始め、四つの教会にてセミナーが持たれます。また、ざわめきの皆さんは今日の午後、西尾市で奉仕があります。全ての集会が祝福されますようにお祈り下さい。

 また一人ひとりの健康のために祈っていきたいと思います。この暑さというのは異常です。長雨があって、今度は暑い日が続いています。特別熱中症にならないように、注意しながら祈ってまいりましょう。水分や塩分などをこまめに摂取して、備えていきたいと思います。

 では「主から祝福を受け、その救いの神から義を受ける。」というタイトルで学んで行きたいと思います。

 この頃素晴らしいメッセージが、牧師先生方によって語られております。先週も滝元順牧師より、「神に従う祝福」と、「偶像礼拝における呪い」について語っておられました。出エジプト記二十章三節から六節

『あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。』

の所から、三代、四代にまで呪いが継続する。しかしそこから離れて、神の側について、偶像礼拝から完全に離れたら、「千代に至る祝福」があると語られていました。そして同時に、三代目、四代目が、私たちが日頃理解している数え方と違っていた。一般では、自分は一世、子ども達は二世、孫達は三世、続いて四世と考えるが、聖書の三代目、四代目とは、「三代目がひ孫世代」そして「四代目が玄孫世代」を現す。私たちの世代理解と一代ずれており、聖書は息子世代を一代目の世代としています。それから二、三世代と続くと言うのです。だから偶像礼拝の結果が現れるのは、「ひ孫、玄孫」たちの上に現れる。と語られていました。だから自分が攻撃されるのも、「三世代、四世代前」から弾が飛んでくる事になると教えて頂きました。また詩篇百四十八篇から「彼らに主の名をほめたたえさせよ!」と記されている。人の役割は被造物全体を、神の前に引き出して、主をほめたたえさせる役割である。「彼らに主の名をほめたたえさせよ!」をヘブル語で見ると、ヘブル語では動詞に「態」が七種類あり、これらは全て「ピエル態」という動詞が使われていて「激しい動作や反復動作を表す自動詞」だと教えていただきました。「主をほめたたえろ!」と人が宣言するのは、激しい動作である。それも反復してやらないといけない。私たち人類はもっと力を込めて、激しい動作で、「主を賛美しろ!」。それも一回限りだけでなく、何度も繰り返して宣言する。特に五節と十三節だけは「未完了形」です。だから宣言が完了していない場所に出て行って、「主を賛美しろ!」と宣言する役割が私たちにはあるとも教えて頂きました。目から鱗のように、素晴らしい真理を教えて頂き、私たちの毎日の生活が変わってきたと思います。至る所で宣言し、またどこから敵が侵入してくるかが理解でき、本当にすばらしい神さまの恵みを頂いています。牧師先生方のメッセージを聞きながら、素晴らしいメッセージだと感心し、今日メッセージする私はどんなメッセージをしたら良いのか困ってしまいました。先生方のメッセージを料理で例えると、最高級のステーキや、高級寿司のように、今まで食したことのないものを提供して下さっています。私はそのような素晴らしいメッセージはできません。私は庶民派の野菜炒めのような誰でも作ることのできるメッセージしかできないと思いました。私は、私なりに主から語られたこと、教えられたことを語ればよいと思いました。いくら野菜炒めのようなメッセージでも主が、語りなさいと言われることを今日語りたいと思います。今日主に教えられた聖書箇所、詩篇二十四篇を学んで行きたいと思います。

 先ほど読んで頂きましたがもう一度三節、四節、五節のみことばお読みしたいと思います。

『だれが、主の山に登りえようか。だれが、その聖なる所に立ちえようか。手がきよく、心がきよらかな者、そのたましいをむなしいことに向けず、欺き誓わなかった人。その人は主から祝福を受け、その救いの神から義を受ける。』

 三節、四節にはきよさの事に言及しています。だれが、主の山に登りえようか?だれが、その聖なる所に立ちえようか?それは手がきよく、心がきよらかな者、そのたましいをむなしいことに向けず、欺き誓わなかった人だと教えています。その人は主から祝福を受け、その救いの神から義を受けるとあります。

先ほども言ったように他の牧師先生のメッセージは料理でたとえると高級寿司のような、また最高級ステーキのようなメッセージだと思います。先生方から色々な角度からメッセージを頂き、本当に恵まれた時を頂いています。お昼がだんだん近づいています。みなさんこんなもの食べたいでしょうか?

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 最高のA5ランクの牛肉ステーキが昼食で出たら良いのになぁと思います。A5ランクなんてあまり見たこともなく、食べたこともありません。一度でも良いから食べてみたいなぁ!と思います。いつも私が食べるのはすじだらけのとっても安い肉です。こんなのお肉を一度でも食べてみたいと思います。

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 綺麗にカットされて、盛りつけられたステーキや回っていないカウンターで食するお寿司だとか食べることができたらどんなに良いのにと思います。まさに他の牧師先生のメッセージは今の画像のように素晴らしいメッセージです。将来と希望を与えて下さるとも語られていましたが、素晴らしい恵みを実生活で頂けると思うとワクワクしてきます。しかし今回、詩篇二十四篇を通して語るように導かれたのは、確かに将来と希望を私たちは頂くことができるが、その将来と希望を頂く私たちが、盛りつける器が汚かったら何もならないと語られました。お昼前で申し訳ないのですが、

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 この食後の洗いものが台所のシンクの中に置かれています。洗う前のお皿、それも誰が食べたか分からないお皿があります。もし最高級の店で先ほどのようにA5ランクのお肉を食べようとしている時、お店側でステーキを盛りつけるお皿がない!と言って、あそこにある食べ終わって洗っていないお皿を、洗わずにそのまま持ってきて、肉をどんなに飾って盛ったとしたら、みなさんは食べますか?こんな状態で出てきたら大問題です。怒ってしまいます。また

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 こんなゴキブリののっていたお皿で洗わずに、その皿に盛りつけて出したら最高のステーキであり、盛りつけ方も同じように提供されても絶対に食べません。すぐに捨ててしまいます。それと同じように、みことばは食材で言えば超最高級の食材です。主の権威のあることばです。そして先生方が最高のシェフとして調理をして下さり、素晴らしいメッセージが語られ、将来と希望、最高のものをいただく事ができたとしても、先ほどのような汚い皿に盛りつけてしまったらどうでしょう。その最高の食材であっても廃棄されなければならないと教えられました。特に今のような暑い時期は、食中毒に気を付けなければいけませんが、自分の器はどうだろうと点検しなくてはいけません。

 主は将来と希望を与えて下さる方です。しかし将来と希望を受け取る私たちの器が汚れていてはいけません。今日もう一度、救いを与えて下さったイエスキリストに目を留めましょう。罪を完全に赦してくださるのは、イエスさまが十字架の時に流してくださった血潮です。今日十字架を信じましょう。十字架を見上げましょう。先ほど読んだ五節が、本日のメッセージタイトルになっています。

『その人は主から祝福を受け、その救いの神から義を受ける。』

十字架の血潮によって聖められた器を主の前に差し出しましょう。先ほどお見せした、汚い器を出しても、喜んで受け取ることができません。いや、廃棄しなくてはならなくなってしまいます。せっかく祝福を頂いても、手放すことになってしまいます。先週のみことばでも、「将来と希望」のことが語られていました。究極的な「将来と希望」とは何か?私たちにとって、真の将来と希望とは何でしょう?いくら健康であっても、年を取れば病気になります。お金があっても無くなる日が来ます。いくら麗しい家族があっても、だんだん、家族はばらけていきます。これらは真の将来と希望ではありません。クリスチャンの最終的な将来と希望は、イエスさまがこの地上に帰って来られる「再臨」にあります。この地に神の国が現れる事を、最終ゴールとしなければいけません。本当の意味での将来と希望は、主が帰って来られる日です。では、主が帰ってくださるために、私たちは何をしたらいいのでしょうか。その秘訣が「賛美」にある。「彼らに主の名をほめたたえさせる」働きは、重要なテーマですと語られていました。

私たちは神さまがまもなく帰って来られるときに、聖らかな器を持って、「主の名をほめたたえます」と宣言していく者になって行かなくてはなりません。

 詩篇二十四篇七節に「門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王が入って来られる。」これはある意味、再臨のことを表していると思います。栄光の王が入って来られる。この世の中に主イエスさまが帰って来られる。そして八節から十節、

『栄光の王とは、だれか。強く、力ある主。戦いに力ある主。門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王が入って来られる。その栄光の王とはだれか。万軍の主。これぞ、栄光の王。』

 すばらしい栄光の主が私たちを迎えに、来られます。強く、力ある主。戦いに力ある主、万軍の主、栄光の王が帰って来られます。その時、器が聖らかであるか、それとも器が汚いか。大きな問題です。最高の主であるイエスさまが地上に帰って来られるのですから、私たちは再臨に向かって準備したいと思います。

 私たちはどんなときに主を求めますか?病気や問題などがあると真剣に祈ります。また家族や親族の問題、また近所付き合い、結婚のこと、などなど問題があると必死に祈ります。それが悪いことではありません。しかし私たちは「将来と希望」を頂きたいと、その将来と希望にだけ目を留めてしまい、救い主イエスさまから目が離れてしまうときがあります。先ほども読みましたが、詩篇二十四篇三節~六節、

『だれが、主の山に登りえようか。だれが、その聖なる所に立ちえようか。手がきよく、心がきよらかな者、そのたましいをむなしいことに向けず、欺き誓わなかった人。その人は主から祝福を受け、その救いの神から義を受ける。これこそ、神を求める者の一族、あなたの御顔を慕い求める人々、ヤコブである。』

とあります。きよさを求めていく。これこそクリスチャンです。ですから私たちは「病気のいやし」や「問題解決」などそのことにだけ目を留めてしまい、主から解決やいやしを頂くと主を求めることをしなくなってしまうことがあります。しかし今日土台をしっかりと見つめ直し、器が汚れていたら、主の十字架は自分のためであることを信じ、その愛を感謝していきたいと思います。

 今回私は祈っている時、主から悔い改めなさいと教えられた事がありました。それは二十五年前の出来事でした。なぜ二十五年前かというと、一九九三年に阪神甲子園球場で「全日本リバイバル甲子園ミッション」という大伝道会を開催しました。その恵まれた集会の中の出来事を悔い改めなさいと、主が語ってくださいました。それは何かというと、マタイの福音書七章一節~二節、山上の垂訓のみことばですが、

『さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。』

 『さばいてはいけません。さばかれないためです。』甲子園ミッションの働きを始めた時、様々な教団や団体に協力をお願いしました。キリスト教は愛の固まりですから、一致して日本のリバイバルのために団結して、ともに働いてくださると思っていました。結果的には最高の祝福をいただきました。

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 これは甲子園ミッションのときの写真です。阪神甲子園球場のグランドに、大きな十字架のステージを組み立て、その十字架上で賛美チームが賛美し、講師がメッセージを語りました。

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 そしてメイン講師は滝元明牧師でした。三十分くらいのメッセージでしたが、聖霊さまの油そそぎによって素晴らしいメッセージを語られました。そしてメッセージ後に、招きの時間を持ちました。イエスキリストを信じたいという人は、この十字架のステージに登って来なさいと招き、その招いた時の状況を移した写真です。

 「全日本リバイバル甲子園ミッション」は日本のキリスト教界の歴史を変えたといっても過言でないような、大伝道会でした。今までの大きな集会は、大きい教会の牧師たちで組織を作り、話し合いに話し合いを重ねて集会を行っていました。

しかし「全日本リバイバル甲子園ミッション」では組織はつくりませんでした。ただ主に押し出された人が集まって、準備をしました。全国の教会で決起大会を行い、七五〇ヶ所行いました。そして祈りを最重要と位置づけ、多くの祈りがささげられました。そして一九九二年の二月に聖霊の激しい注ぎが与えられ、そして霊的戦いが始まりました。多くの牧師先生方もその働きに加わって下さいましたが、多くの若い青年たちが命をかけて、働いて下さいました。そしてあの球場に、延べで十二万四千人の方々が集まり、素晴らしいみ業を見ることができました。

今でも「甲子園ミッションに私はいったんですよ」とか「あのとき献身して今、牧師になっています。」とか「私は癒されました。」とか、すばらしい奇蹟の業を見せていただいきました。しかし、その準備中にこの教会に大きな問題が起こり、教会員が分裂してしまいまいした。

そして甲子園ミッションに対して多くの反対もありました。誹謗、中傷が日本中に広まり、苦しい時がありました。そんなとき甲子園ミッションやこの教会の事に対して、悪く言う広告を様々なキリスト教会のメディアに発表されたことがありました。その為私も滝元明牧師に言いました。

「こんなでたらめな記事が掲載されているから、本当は違うと、こちらも掲載しましょう!」と訴えました。しかし滝元明牧師は「さばいてはいけない」「祝福しろ」その一点張りでした。しかし主は霊的戦いでの勝利を与えて下さり、大きなすばらしい祝福をいただくことができました。

 滝元明牧師が新城教会の礼拝でこんな事を話していました。少しお読みしたいと思います。

=滝元明師のメッセージ=
『一九九三年十一月の「甲子園リバイバルミッション」の時に、私は、十日間断食をし、県民の森の山に登って祈りました。そして、十一月三日に、山の上で切に祈りました。大きな戦いなので、「イエス様。どうしても力が必要です。私に力を与えて下さい。何でもしますので、悔い改めることがあったら 教えて下さい。」と祈りました。
 その時、聖霊さまが「あなたを裏切った人、妨害した人を心から赦しなさい。また赦すだけではなく、祝福しなさい」と語られ、山の中の誰もいないところで、具体的に声を上げて真剣に祈りました。
 「私は、あの人からこんなことを言われました。また、ある人は私を裏切って出ていきました。」と口に言い表し、「しかし、今日は、あなたの言われるとおりに、全てを赦します。また、あの方をイエスの御名によって、祝福します」と祈りました。最後の一人まで、「あの方も赦します、祝福します」と祈ったときに、聖霊さまが上から臨まれました。』

 全ての人を赦し、祝福した時、聖霊さまの力が与えられたと言っていました。さばいていたことを悔い改め、赦すこと。その人を祝福する時、祝福を頂くことができました。私たちもさばいている所を悔い改め、赦し、祝福を祈りましょう。

全日本リバイバル甲子園ミッションは、一九九三年十一月五日から七日までの三日間行われました。その大会の夜は、三日間とも伝道会でした。全て滝元明牧師が担当しました。その時のメッセージは、素晴らしいメッセージでした。それも言葉以上に聖霊さまがはたらかれた時でした。今から初日の五日の最後の部分の映像を見て頂きたいと思います。メッセージ後の招きの部分を見て頂きます。イエスキリストを信じ、決心する姿は何とも言えない感動をいつも持つことができます。

<映像>

 私は決心される方々が、十字架のステージに登って行かれる所に待機していました。今ご覧頂いた像では分かりにくいのですが、人々が泣きながら十字架の上に進んでいく姿を見たとき、準備段階であった苦労や辛かった事ありましたが、あの光景を見て報われた感じがしました。

 先ほども言いましたが、「さばいてはいけません。」というみことばによって、悔い改めたと言いましたが、この恵まれた招きの時に、私はさばいてしまいました。実は私は、先ほど言いましたが、十字架のステージに上がる袂にいました。そして私のすぐ横には、あるとても有名な牧師先生がいらっしゃいました。
 
 今見ていただいたビデオの中で、決心者を招いたときに、まずお二人だけが黄色いジャンバーのボランティアスタッフの先生に連れられて上がっていました。その後映像では短く編集しておりますが、なかなか他の決心者の方々が出てこられませんでした。会衆席になっているスタジアムには多くの方が席を移動していることが見えるのですが、決心者は全くグランドに姿を見えませんでした。そのとき隣にいた先生が、心配してだと思いますが、私にはすごく嫌味ったらしく聞こえたのですが、「何やってんの。誰も出てこないじゃない。」「しっかりスタッフは誘導しているの?」と言われました。私には「出てこないじゃない。」と頭ごなしに言われた感じがして、心の中で「何を言うんだ」とその先生をさばき、怒りました。顔では笑いながら「甲子園球場は広いので、まもなく出てきますよ」と答えましたが、いやな感じがしました。しかし最終的には見て頂いた様に多くの方が出てこられて、正直、「見たか。」と思ってしまいました。私はあんな恵まれた中で、その牧師先生をさばいてしまいました。二十五年前のことですが、今回のメッセージ前に示して下さいました。そして今回「さばいていました。赦してください。先生を祝福してください。」と祈りました。二十五年前の出来事ですが、今回祈ることができて心から主に感謝しました。

 またもうひとつ、神さまが私に示して下さったことがあります。それは「主は今、何を求めていると思うか?」と私に問われました。私は、「それはリバイバルです。たましいの救いです。」と優等生のような答えを主に答えました。そのときに有名なみことばを示して下さいました。ヨハネによる福音書三章十六節~十七節、

『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。』

 全能の王。栄光の王であるイエスさまが、この地上に来てくださって罰を受けてくださった。私のような者にも、みなさんお一人ひとりのためにも、愛をもって十字架にかかり、そして血を流され、滅んでくださって三日目によみがえってくださった。それを信じたときに、救われるとあります。しかし今、求めていること何だと言われると、「リバイバル。魂の救い」と偉そうに言いますが、実際は家内の病気のこと、将来と希望のほうに目を向けて、これをお願いします!これをお願いします!と、自分の得のために求める祈りになっています。今回主が言われたことは、ひとりでもたましいが滅びることをおまえはどのくらい考えているか?と言われました。

 私は正直に今回西日本を襲った水害で、約二百名以上の方が亡くなったり、まだ行方不明の方がいらっしゃると聞いています。被害の状況をテレビで見ながら、私が最初に思ったのは、「新城周辺は守られたなぁ。やっぱり祈っているからだなぁ。」と考えてしまいました。そして、本当に「祈らなくてはダメだ!宣言しなきゃだめだ!主を賛美せよともっと宣言しよう!」と思いました。しかし主は、「なくなった人のたましいに対しておまえは見ているのか?」と語られました。テレビで亡くなった方々の遺族が泣き崩れているのを見る時、かわいそうだなと思いますが、魂に対して考えているか?その人たちのためにも、命をかけてイエスキリストは犠牲となってくださった。イエスキリストがどれだけ悲しんでいるか考えたことがあるか?

あの二百名の中で、どれだけクリスチャンがいただろうかと考えたことがあるか?魂が亡びてしまった事に対してどう考えるか?と主の声が迫ってきました。この地方は祈って勝ち取ったと思っていました。それはそれで最高に感謝ですし、更に主に向かって宣言したいと願います。しかしひとりのたましいのために、私は命をかけた。しかし日本の全ての人のためにも、愛していることを忘れるなと語られました。

 今日家族でまだ救われていない人がいる方、祈りましょう。一日でも早く救われるように祈りましょう。今日も今から聖餐式があります。イエスキリストの愛で、救いが早く届くように。またこの愛する一億三千万の人々の救いのために祈っていきたいと思います。
 もう一度、詩篇二十四篇三節から五節、

『だれが、主の山に登りえようか。だれが、その聖なる所に立ちえようか。手がきよく、心がきよらかな者、そのたましいをむなしいことに向けず、欺き誓わなかった人。その人は主から祝福を受け、その救いの神から義を受ける。』

 悔い改めたときに、「主から祝福を受け、その救いの神から義を受ける。」とあります。
 今日、もう一度自分を吟味して、悔い改めるべきことは悔い改め、器をきよめて、最高の将来と希望。祝福をいただく事ができるように祈りましょう。お祈りします。

 愛する天のお父さま、あなたのみ名を心から感謝します。あなたは栄光の王であり、力ある方であり、そしてこの戦いでも力ある方です。その方が私に愛をかけてくださって、すばらしい救いを与えてくださいました。今日十字架で流された血潮を仰ぎます。器をきよめて下さい。私の器である心をきよめてください。そして将来と希望を受けることが出来ますように。また最高の状態で、「主を賛美せよ!」と宣言する事ができますように、今日この全地を造り、すべての被造物を管理されている主のみ名によって、聖餐をいただきます。この聖餐式を祝福してください。感謝してお祈りします。アーメン。