「彼らに主の名をほめたたえさせよ! パート15 
 ~人とは、何者なのでしょう?~」

2018年8月12(日)
新城教会主任牧師 滝元順
詩篇8篇1節〜9節

『私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。あなたのご威光は天でたたえられています。あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち建てられました。それは、あなたに敵対する者のため、敵と復讐する者とをしずめるためでした。あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。すべて、羊も牛も、また、野の獣も、空の鳥、海の魚、海路を通うものも。私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。』

 ハレルヤ!みなさん、おはようございます。今、石塚和樹君のすばらしい演奏を聴きましたが、彼らはCDを出しています。欲しい方はCDを買っていただきたいと思います。しかし、もう売り切れちゃったとも言っていましたが、また作ってくれるのではないかと思います。
 人は成長する動物だと本当に思います。彼は小学生の時代に、「きらきら星」からバイオリンを始めたのですが、こんなにうまくなりました。
 彼が小学生の時、水曜日のクリスマス会にゲストでバイオリン演奏を頼みました。しかし待てど暮らせど時間になっても、彼は来なかったのです。どうしたのかと思ったら途中で、いやになって新城駅の近くに隠れて現れなかったという事件もありました。しかし今や、堂々と演奏していて、すばらしいなぁと思います。

 みなさんのお祈りに支えられまして、昨日、一昨日と、「霊的戦い専門課程スペシャル」がありました。全国から五十名以上の方々が来てくださり、本当にすばらしいセミナーになりました。

 また明日、明後日は、「ミュージック・アカデミー」が開催されます。みなさんのお手元にチラシがあると思いますが、すばらしいコンサートもあります。屋台フードが付いて千五百円という、夏の夜にふさわしいすばらしいコンサートがあります。昨晩はそのリハーサルがあって、私も見せていただきましたが、すごいミュージシャンたちが演奏してくれます。
 今日はティム・ケプラーさんの息子さん、ガブリエルさんが来てくれています。彼は優れたドラマーですが、頭もめちゃ良くて、イエール大学の大学院生です。ティムさんに「誰に似たの?」と聞くと、「百パーセント奧さん!」と言っていました。そんなことはないと思いますが。
 多くの方々が助けてくださって、支えられてきたことを本当に感謝しています。

 実は今回の「専門課程スペシャル」に、たいへん懐かしい方が来てくださいました。この教会で二十年くらい前、共に礼拝を守り、やがてリバイバル聖書神学校を卒業して、牧師になった方です。彼は今どこで伝道しているかというと、沖永良部島です。

 みなさん覚えておられますか?今栄先生です。すこし、ご挨拶をただきたいと思います。

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 ハレルヤ!主のみ名を賛美します。このように二十年ぶりに、礼拝に出ることができました。感謝します。第一期生で、リバイバル聖書神学校にお世話になり、卒業してすぐに故郷の沖永良部島に移りました。
 故郷に帰った理由は、明先生に、「明先生、神学校を出てから、どこに私は行ったらいいのでしょうか?」と、行く宛がなかったので相談しました。すると明先生がしばらく考えて、『君のお母さん、お父さんはどこにいるの?』「沖永良部です。」『誰かお父さん、お母さん、見ているの?』「兄は東京に行き、姉や妹は神戸にいます。」『じゃぁ、あなたが沖永良部に行きなさい。』と簡単に言われたものですから、主のみこころかどうか祈っていましたら、出エジプト記から、「あなたの先祖の地へ帰りなさい」というみことばが来て、「わかりました」と言って、一番行きたくなかった、沖永良部島に行きました。
 と言いますのは、行きたくなかった理由は、私は親から勘当されていたからです。「仏壇を拝まない者は、今栄の子じゃない!」と勘当されていましたので、あの島に帰りたくないと思っていました。しかし神さまが送ってくださって、父も救われ、母も毎日、教会に来ています。

 新城で霊的戦いを学んだのですが、沖永良部は本土とは違って、沖縄周辺は神社や寺がほとんどありません。
 しかし何かと言ったらユタ信仰です。ユタとは先祖のふりをした霊を使って、いろんなことを教えるのです。何か問題があると、必ず人々はユタの所に行きます。「自分に大変な事故や問題が起きました。どうしてでしょうか。」と、ユタに聞くのです。するとユタは、「墓を掃除していない」とか、「玄関が南ではなく、北のほうになっているね。」とか、いろんなことを言うのです。人々は、それに聞き従うのです。そのような所ですので、本土とは違った霊的戦いの場所です。
 霊的戦いも激しく、私が行ったら、なぜか最初に救われたのがユタの家系の人たちでした。また違う教会でも、ユタの家系の人たちが救われるのです。ユタの家系は縛られています。ある時、「先生!あそこ、霊が飛んで行ったよ!」「遠くにあれが見えます。」とか、人間では考えられないことを語ります。でもそこで戦っていかなければならないのです。偽りの力も強く働いていますので、何度もやられました。また、続けて勉強させてもらっています。

 今回、二十年ぶりに新城に来て、私は嬉しかったです。専門課程のセミナーを聞いて、嬉しかったです。というのは、新城の霊的戦いがより深く、そして広く掘り下げられていたからです。それで、「あっ!神さまは、本当に新城教会を用いられているな!日本のリバイバルのために用いられているな!」と感じました。みなさんも仲間として、働いています。それが嬉しくてたまりませんでした。
 これからも日本のリバイバルに向けて、共に励んでいきましょう。沖永良部からも小さな働きですけれども、応援したいと思います。またよろしくお願い致します。どうも、ありがとうございました。

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 今栄先生、ありがとうございます。先生の働きのために、是非とも覚えてお祈りをいただきたいと思います。沖永良部という一般からは、忘れられているような離れ島ですが、日夜、島の宣教のために真剣に働いておられます。
 私も何度かお邪魔したことがあるのですが、すばらしい島です。本当に綺麗で、豊かな島です。お金と暇があったら訪問していただきたいと思います。

 教会には日々、敵との戦いがあります。それは目に見えない霊的な戦いです。ですから先生も、「何度も倒れた」と告白しておられましたが、時には倒れるようなこともあるわけです。しかしすべてのクリスチャンが心をひとつにして祈るとき、パウロも言っていますが、すべての戦いに勝利することができるのです。
 時には試練があったとしても、しばらくの苦しみの後で、堅く立たせ、不動の者としてくださるというのが信仰生活です。何もないということは、人生である以上、ありえないです。

 みなさんにも祈ってもらっていますが、K君が脳出血で倒れて、初めは、ほとんど駄目だ、両目の瞳孔が開いてしまっているということでした。病院に運ばれた時点では、脳死状態だと言われました。本当にどうしたらいいだろうかと思いました。しかしみんな祈ってくれました。そうしたら奇跡が起こりました。彼は生きていました。
 しかしたとえ良くなったとしても、植物と同じ状態だと宣告されました。そして一週間は死ぬのか生きるか、次の一秒後、分からないと言う状態でした。しかし、さらにみなさんが祈ってくださいました。なんと、彼はぐんぐんと山を乗り越えて、まだまだ戦いは続きますが、先週は、ついに一般病棟に移りました。
 そして、周囲の声に反応するようになりました。手を握ると、握り返すようになりました。まだちゃんと意識は戻っていないけれど、真瞬きをしたり、ぼんやり目を合わせるようにまでなってきました。もしも神が、彼の命を助けてくれたのなら、完全にしてくださるはずだと期待しています。教会全体が心をひとつにして、一致して祈るとき、主が勝利を与えてくださる!と信じます。

 今日、みなさんと学びたい箇所は、詩篇八篇です。そのテーマは「人とは何者なのでしょう」ということです。私たちは、気がついたら人間として生まれていました。しかし本当に人間に生まれて良かったのかなぁと、時々思います。犬や野良猫を見ると、彼らのほうが良かったかもしれないなぁ、と思ったりします。犬は一生繋がれていても、精神的に病むわけではありません。野良猫は明日の食事が決まっていなくても、別に心配している様子もありません。何かかっぱらって食べても、良心の呵責に苦しんでいるようでもありません。彼らのほうが良かったかもしれないな・・・、悲しんでいるとか、死に対する恐怖心もないし、どっちが良かったのかと思ったりします。
 最近は、動物愛護法なんかも整備されて、犬や猫も人権とは言えませんが、犬権というか、ニャン権というか、そういうのが認められてきて、ちょっとずつ立場も良くなっています。今日の動物に生まれたほうが良かったのかなぁ・・・と思うときもあるわけです。
 本当に、人とは何者かという感じですよね。赤ん坊で生まれ出て、だんだんと歳を取って死んでいく。なんの目的のために人は造られたのだろうか、と考え込んでしまいます。イスラエルで最も権力があった王であったダビデも、そのことを悩み、考えたみたいです。実際、人とは何者なのだろうか・・・と。

 その事が記されているのが詩篇八篇です。彼は、「人とは何者なのでしょうか」と問うています。すると続けて神が、ダビデの問いに対して、答えを与えているのも詩篇八篇です。詩篇八篇をよく読んでみると、ここには「人の目的」がはっきりと述べられています。
 私たちは、何をするにも基礎が大事です。音楽も基礎練習ができていなかったらうまくいかないように、スポーツも基礎ができていなかったら上達しないように、なんでも、基礎は重要です。建物も基礎が弱かったら、崩れてしまいます。
 人生もそうだと思います。高校を卒業するくらいになると、「将来は、何しようかなぁ」と考えて決めるのですが、「人とは何者なのか」をしっかりと理解した上で、私たちに与えられた役割を果たしていくならば、人生は安定したものになるわけです。

 聖書ははっきりと、創造主がおられることを語っています。人はAGCTという頭文字で示される四つの塩基ですべてできています。
 DNAがある単位でまとまったのが遺伝子ですが、遺伝子の発現によって、私たちの身体はすべてできあがっています。この会堂を建てる時、最初に建築家の方が図面をひいたのと同じように、DNAは三十億個くらいあるそうですが、これはたった四つの塩基物質の組み合わせによってあがっていて、将来起こるかもしれない出来事さえも情報があるというわけです。
 最初に情報ありきということですから、創造主を否定できません。

 人類は、多くの被造物の中で「最高のものだ!最高傑作だ!」と考えているかもしれないけれど、実は、遺伝子数から言うと、人間よりも遺伝子量が多い生物がいると以前にもお話ししました。それが、意外や意外、湖や沼に生息する「ミジンコ」です。ミジンコは人よりも多い生物最多の遺伝子を持っているというのです。人の約二万三千個の遺伝子に対して、ミジンコは三万一千個だというのです。人間よりも遺伝子量が多いということは、神は人間よりもミジンコに手をかけられたということになります。神さまはミジンコ・マニアじゃないかなぁと思います。ならば人間って、さらに何者なのでしょうか。

 聖書は何と告げているのかというと、『人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。』
 神は、すべての被造物に対して目を向けておられるのですが、人に対しては、かなり関心度が高いことも事実です。

 五節を見ると、『あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとした』というのです。「いくらか」という言葉はヘブル語では「ほんのちょっと」という意味です。ほんのちょっとです。人は神さまよりも、ほんのちょっと低い存在として創造されたというわけです。
 時々「私のようなちりあくたの、取るに足らない者を・・」というような表現を使う事がありますが、それは取り下げてくださいね。神さまは、そんなふうに人を造ってはいないからです。人は神よりも、「いくらか劣る、ちょっぴり劣る」存在として造られたからです。
 ですから人は、多くの被造物の中で、ずば抜けています。普通ではないことができる存在でもあるわけです。

 ではなぜ、人類はそのような高い能力を、神からいただいているのか、ということです。今や人類は、宇宙の果てにまで、知識を拡大しています。また、地のどん底にまで知識を持っています。さらには、ミクロの世界にまで知識を持っています。神が造られた被造物全般に関して、人は関心を抱き、今や、次ぎ次とその秘密を解き明かしています。それが他でもない、人類なわけです。
 ではなぜ、神はそのような能力を与えたのでしょう。八篇六節、

『あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。』

 神は、被造物すべてを人間の足下に置いて、管理をゆだねたからです。この事に関して、すでに何度もお話しさせていただいていますので、ご理解いただけていると思います。
 新改訳聖書だと、『御手の多くのわざを人に治めさせ、』とあります。「多く」と表現されていると、例えば、神さまが10種類の生物を創造したとして、その内の「多く」だから、たぶん「八くらいかな?九くらいかな?」と考えます。すべてじゃないけれど、かなり多くの部分を任せてくれているんだろうな、と考えるのですが、実は、これは正しい訳ではありません。
 「多くのわざ」をヘブル語で読んでみると、「もろもろのわざ」となつています。「多く」ではなく、「すべて」なのです。新共同訳聖書は正確に訳しています。八篇六節から、

『神に僅かに劣るものとして人を造り/なお、栄光と威光を冠としていただかせ/御手によって造られたものをすべて治めるように/その足もとに置かれました。』

「すべて治めるように」となっていますから、これが正確な訳です。
 神の創造の範囲は、宇宙の果てにまで及んでいます。アンドロメダ星雲なら、二百五十万光年くらい離れていると言われます。それも神が創造された被造物ならば、人間に管理を任せたということになります。いや〜人間ってすごいものですね。それゆえに、人類には様々な知識があふれているわけです。

 人類は何をしなければならないのか。それは神が造られた被造物全体に対して関心を持ち、それらを管理するのです。

 実は詩篇八篇には、大きく分けて、人には二つの目的がある事を示しています。最初は二節です。

『あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち建てられました。それは、あなたに敵対する者のため、敵と復讐する者とをしずめるためでした。』

 このみことばをイエスさまは、「宮聖め」の時に「子どもたちの賛美」として引用されました。
 その時、「神の宮が強盗の巣になっている」と言われました。聖書の「強盗」とは、本物の強盗も意味しますが、霊的な強盗、「盗み、殺し、滅ぼす、悪魔・悪霊ども」のことも意味します。人は悪魔・悪霊どもの勢力に立ち向かい、それらを打ち砕き、勝ち破るために造られたのです。
 赤ん坊が、なぜあんなに大きな声で泣くのか。赤ん坊が泣くだけで、敵はふるえあがり、倒れるのです。「また人類が一人増えてしまった!」
 このような基本的能力を身につけた人類は、神が造られた万物を足の下に置かれて、すべてを管理し、治める、そんな役割として造られたのです。人には霊的戦いの権威と、それに基づく被造物を管理する管理権の二つが与えられているのです。

 創世記一章二十八節。神は、最初の人類アダムとエバに、「地を従えなさい!すべての生き物を支配せよ!」と命じられました。これは初めの人類に語られたことばです。そして詩篇八篇は、ダビデにも同様に語られたのです。と言う事は、神の主張には一貫性があるのです。それは人類全体が被造物の管理人であることを示しています。

 詩篇百四十八篇からもわかるように、被造物は、「主をほめたたえるために存在する」のです。神が造られたものは一つ残らず、主をほめたたえる為の存在です。
 今栄先生が沖永良部から来られましたが、本当に美しい島です。あまり人は住んでいないかもしれないけれど、本当に美しい景色です。なんのために、やたらと美しいのかと思ってしまいます。こんなに美しい場所なら、もっと人が多く住める場所に造ってもよさそうです。案外、地球上で、目を見張るような美しい景色の場所は、人が住んでいない秘境に多いです。
 私は先月、宮古島に行きました。宮古島も美しいです。主を賛美しているのではないでしょうか。

 先週、ある方が、日本アルプスのほうに行かれて、写真を撮って送ってくださいました。すごく綺麗な写真です。この場所も、そう簡単には行けない場所ですが、こんなにも綺麗な花が咲いています。誰のために咲いているのでしょうか。まさか、ミツバチのためにだけに咲いているわけではないでしょう。
 ただ神を賛美しているのです。ということは、すべての被造物は、神を賛美している!という視点に立つと、物の見方が変わります。

 五月、六月になると、この近所ではカエルが鳴くようになります。うるさいなぁと思うわけですが、あれらも主を賛美しているはずです。動物たちの鳴き声だって、きっと主を賛美しているはずです。ゴリラだって賛美しています。なんか演歌歌っているみたいですね。

 人類は、まだ、賛美の輪に加わっていない、すべての被造物の所に出かけて行って、「彼らに主の名をほめたたえさせよ!」とあるように、主を賛美させる為の存在です。
 実は、「管理する」とは、究極的には、「賛美していない被造物の所に行って、主を賛美しろ!と宣言する」のが、究極的な管理人の仕事であり、役割なのです。
 それは一回や二回ではなく、ヘブル語で見ると、数回に渡って力強く宣言しなければいけないと前回、お話しさせていただきました。
 「彼らに主の名をほめたたえさせよ!」は「激しい動作や反復動作を表す自動詞」だと言うのです。特に、「未完了の部分に対して」、「主を賛美しろ!」と、激しい動作で促さなければならないのです。
 そんな役割が、私たち人類に課せられているのを、ここから見るわけです。

 詩篇百四十八篇八節には、『火よ。雹よ。雪よ。煙よ。みことばを行うあらしよ。』とありますから、自然現象も対象物です。自然現象と呼びますから、自然に起こるかのように思いますが、雨が降ったり、雪が降ったり、雹が降ったり、台風が来たり、それらは、自然に起こる現象ではなく、「神の被造物」です。どうも人類は、自然界と敵対しているように見えます。しかしそれらも神の被造物であり、彼らに対して、「主を賛美しろ!」と宣言しなければならないのです。
 火が燃えていたら、「主を賛美しろ!」と宣言できるわけです。この火は、雷を現しているのかも知れません。また、この季節はキャンプファイヤーなどもあるかもしれません。キャンプファイヤーの火を見たら、「主を賛美しろ!主をほめたたえろ!」と宣言してくださいね。

 今年のネパール旅行で大きな雹が降りました。頭に当たったら死んじゃうのではないかと思いました。初めは小さくて、みんなで喜んでいたのですが、だんだんでかくなって、びっくりして避難しました。
 雹に対しても、「主をほめたたえろ!」と宣言できるのです。初めての体験でしたが、みんなで「主を賛美しろ!」と雹に宣言しました。

 冬になったら雪が降ります。雪って不思議なものですね。結晶もあって。

 雪が降ったら、「主をほめたたえろ!」と宣言しなければいけないわけです。そしてまた「煙よ」とありますが、「霧」という意味もあります。時々、煙が立ったり、霧が立ちこめたりするとき、霧に向かって「主を賛美しなさい!」と命じる係が、他でもない人類です。

 そして、『みことばを行うあらしよ。』とあります。台風は、どうも、みことばを行うために来るようです。あらしにだけ、「みことばを行う」という説明書きが加えられています。あらしが何のために来るのか。台風が何のために来るのか。それは、神のみことばの実現のためです。
 しかしどうでしょうか。人類は台風が来たら、あっちに行け!来るな!と言います。神のみことばの実現のために来るのならば、敵対関係を解消して、台風が来たら、「よく来てくれました!みことばを行ってください。しかし私たちには害を与えないで下さいね。」と言ったら、きっと台風も人に危害を与えることはなくなるのではないかと思います。
 先日、七月二十八日頃に来た台風12号は、こんなコースで日本にやってきました。新手の台風だなぁと思いました。なんか、高速道路を逆走している人みたいな感じでした。しかしこのようなコースをたどって、なんらかの、主のみことばの実現のためであったと思われます。

 前回もお話ししましたが、台風十二号のとき、私たちは賛美大会の最中でした。それでみんなで台風に命じて、主に祈ったら、新城だけ、本当に新城だけ、豊川・豊橋はちょっと外れましたが、申し訳ないですが新城だけ、完璧に守られてしまいました。
 なぜなのかと考えると、教会の名前が新城教会だからではないかと思います。黙示録を見ると、教会にはすべて、町の名前が付いています。町に対する権限は教会に与えられていると思われます。「新城教会」と名が付いていますから、町にいろんな現象が現れるのではないかと、私は考えています。
 しかしこれを広げていけば、もっと広い範囲を勝ち取れると思います。私は台風が最も激しい時間に、台風の雨雲の動画を撮りました。



 見てください。絶妙に台風がよけるのです。道を空ける感じです。すごいです。この青い丸が新城教会です。台風に、「主を賛美しろ!主を賛美しろ!」と宣言すると、台風は新城市だけをさけて進んで行きました。
 新城市在住の方々は、実体験されたと思います。周辺が暴風雨のだだ中で、申し訳ないほど、「小雨とそよ風状態」でした。ちょっと、ぞっとしました。去年の台風二十一号でも、西三河北東部、東三河北部にだけ暴風警報が出ませんでした。それも新城市でした。二十二号も同じでした。現在、「三連勝」です。

 これからはどうなるのか分かりませんが、信じて行うと奇跡が起こると私たちは考えますが、もしかしたら、これは奇跡ではないのかもしれません。人間の役割ですから、役割を果たしたら、どこにでも、同じ事が繰り返し起こってくるのではないかと思います。
 この頃、愛知県の人たちはそのことに気づいているみたいです。ネットで調べてみてください。「愛知県最強説」なんかが唱えられていて、「直前に避けていくとか、直前に消滅するとか、夜に通過していく。この三つしかない!」とか言っています。ある人は、「どうも愛知県には魔界がある」というのです。魔界ではなく、聖霊によるのです。またある人は「愛知県のすごさは、まさかの単独フリーなんです。」なんて投稿していました。「愛知県というのはバリアがあって、正直、日本に台風が来ていることすら忘れるレベルだ」というのもありました。
 これらは、教会が管理人であると気づかせていただいてから、起こっているのではないでしょうか。
 今まで地震も、明日起きるかもしれないという恐怖があったけれども、ちょっとこの頃、その恐怖から解放されつつあります。地面に向かって、「主を賛美しろ!土地よ、変に動くんじゃない!」と宣言し、「主を賛美しろ!」と命じ、祈るようになったからです。人間に与えられている権限って、すごいものだなぁと感動します。

 日本人の自然界に対する考え方は、そもそも自然とは、「自ら然り」と書きますから、被造物という概念がないのです。「地球は進化してできてきた。しかし緒霊は宿っている」という考え方です。太い木があれば、「霊が宿っているんじゃないかな・・・、じゃぁ、しめ縄を張って拝もう。」みたいな考えです。
 家を建てる時は、「地の神さんの頭に杭を打つと、大変な事が起こるから」みたいな感じで、地鎮祭をやります。山に入る時には、「山神さんに許可を取らんといかん。」と言います。太陽はアマテラス、川にも竜が住んでいるとか、アニミズム的な考え方です。
 それは正しい考え方ではありません。聖書の世界観は、前にもお話ししましたが、「すべては神の被造物、命はすべて創造主から」という理解です。
 太い木に命を感じるのはなぜでしょうか。本来は、神が与えた命が宿っているからです。私たちの内側に宿っている命も、木の中に宿っている命も、元は同じです。「わたしは道であり、真理であり、命です」と語られた神、イエスさまから発せられているのです。
 偽りがあれば、偽りの父、悪霊どもが、神の被造物を乗っ取ってしまうのです。ゆえに、美しい被造物が悪魔に乗っ取られているのだと思われます。

 沖永良部も宮古島も、それらを神として拝んでしまったら、悪霊どもが島を乗っ取ってしまうわけです。
 しかし私たち人間は、本来、乳飲み子でさえも敵を打ち破る権威があるのです。悪しき力に対して立ち向かったら、敵は打ち破られ、美しい被造物は解放されます。そして解放された被造物に対して、「主を賛美せよ!」と宣言したら、世界は変わるのです。

 設楽原にも血が流されました。やはりこの近所は、変な心霊現象が起こります。なぜ、出るのかというと、間違った考え方を一般の人たちは持っていて、死者を礼拝したり、自然を礼拝しているからです。ゆえに被造世界を、悪霊どもに乗っ取られています。それではいけないわけです。
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 私たちクリスチャンが主を賛美したら、霊的な敵は打ち砕かれ、続いて「主を賛美せよ!」と宣言したら、被造物自体も解放され、賛美の輪に加わるのです。
 ゆえに、被造物も切実な思いで、「神の子どもたち」の現れを待ち望んでいるのです。被造物も真剣だと思います。神の子どもたちが現れるのを、常に待ち望んでいるのは当然です。
 「切実な思い」とは、文字通りに訳すと、「頭をまっすぐに伸ばして観察する」という意味です。どこかに神の子はいないのか?私たちを解放してくれないのか?と待っているのです。「誰か俺たちを救ってくれ」と叫んでいると思います。日本では、動物たちもすべて、偶像礼拝の対象となっています。彼らを悪しき力から解放する宣言をし、主を賛美しろ!と命じる係が私たちです。
 パウロがこんなことを語っています。コロサイ書一章六節、

『この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それをほんとうに理解したとき以来、あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で、実を結び広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです。』

 「福音」は、「本当に理解したとき」世界中に広がったというのです。しかし本当に理解しないと、広がらないわけです。
 何年か前に紹介しましたが、「福音の再発見」という本が出版されて、現代の教会が信じている福音の内容と、初代教会の理解は大きく違うと指摘していました。現代は、福音がかなり矮小化し、小さくなってしまっていると指摘しているのですが、本当にそうだと思います。

 パウロがどのような福音理解を持っていたのかを知ると、現代の教会とはかなり違う事がわかります。
 パウロが持っていた「福音とは何か」の定義です。それはコロサイ人への手紙一章二十節〜二十三節を読んでいただきますと、知る事が出来ます。

『その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行いの中にあったのですが、今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。ただし、あなたがたは、しっかりとした土台の上に堅く立って、すでに聞いた福音の望みからはずれることなく、信仰に踏みとどまらなければなりません。この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられているのであって、このパウロはそれに仕える者となったのです。』

 パウロの福音理解をまとめてみますと五つになります。

「十字架の血による平和」とは、
1,万物をみ子のために和解させて下さった。
イエスさまの十字架は、「万物との和解」です。
2,「あなたがたをご自分と和解させてくださった」
 それに続くのが、人との和解です。
3,「すでに聞いた福音の望みから外れるな」
 一番と二番の定義から外れるなと警告しています。
4,「この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられている」
 彼は再度、だめ押しで一番を強調しています。
5,「パウロはそれに仕える者となった」
 すなわちパウロは、「全被造物への宣教師」だったのです。

 これがパウロが持っていた、福音とは何か、宣教とは何かの定義です。しかしどうでしょうか。今日の教会は、一番と四番が欠け落ちています。ただ二番だけ実行しています。五つがすべて揃ってこそ、福音です。欠け落ちたらどうでしょうか。福音が矮小化していると言われても仕方がないです。いくら祈っても、いくら伝道しても、福音は広がらないのです。福音の基本理解が間違っていたら、それは致命傷です。ある註解書に次のように註解されていました。

 “キリスト教の救済論はコロサイ一章二十節のほとんどこの一節に、要約されている。万物すなわち、地上天上のすべてのもの、人間も動物も植物も生物も、個人も社会も国家も、キリストによって神とやわらがせることが、神の欲したもうところであり、喜びたもうところである。”

 社会にあるものすべては、福音の対象となるわけです。パウロは本当にすごい福音理解をしていました。ガラテヤ人への手紙6章14-15節

『しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。
割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。』

 聖書は「十字架以外に誇りとするものが決してあってはならない」と語っています。このことばはよく引用されるのですが、十字架の真理ってなんなのか、「世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。」とは、何を意味するのでしょうか。
 「世界」とは、ギリシャ語では「コスモス」です。「宇宙」とも訳すことができます。イエスさまの十字架は、「自分対宇宙、宇宙対自分」という、広大なスケールがあるとパウロは告げています。ちょっと受け入れがたい概念です。イエスさまが十字架にかかってくれたのは、自分が宇宙に対して十字架にかかったのと、また、宇宙が自分に対して十字架にかかったのと同じだと語っています。人の権限が、宇宙規模に及ぶことを告げているわけです。

 「人類は全宇宙に存在する被造物の一員であるがゆえに、十字架が全被造物との和解ならば、宇宙は私に対して、私は宇宙に対して十字架につけられたことになる。そして、大事なのは新しい創造、新しい天と新しい地の到来を待ち望むことだ」というわけです。
 人類は、どこまで管理できるのか、どこまで任されているのかというと、パウロの意見と合わせれば、まさに「宇宙の端まで」ということになります。私たちは宇宙全体に対して権限を持ち、神から与えられた奉仕に励まなければいけないのです。

 聖書には、「天のみ国」とか「天国」ということばがよく出てきます。しかし、日本語っていつも話しますが、単数とか複数がよく分からないのです。それが、訳にも影響しています。「天のみ国」という「天」は複数です。そして、「国」は「単数」です。「天のみ国」とは、正確には「諸天によって構成される、神が支配される一つの王国」と訳すことができるのです。
 神さまは、天をいくつも造られたようです。当時のユダヤ教のラビたちは、派によってそれぞれの意見を持っていたみたいです。しかし、天は複数あると理解していました。「はじめに神が天と地を造った。」あの「天」も複数で、諸天を造ったという事です。「天のみ国」とは、一つだけあるように考えますが、天が複数ですから、諸天によって構成される神が支配される王国(単数)なのです。
 神はすべての被造物を管理しておられるのですが、どうも、私たちが住んでいる宇宙に関しては、悪魔に奪われているようです。

 最新の宇宙論、超弦理論では、天は十とか、十一次元で構成されるとしています。そうでないと、今の宇宙は解き明かすことができないのです。相対性理論とか、量子力学も、ある程度まで宇宙を解き明しますが、一定の領域に達すると、理論が動かなくなるというのです。
 二つの重要な理論を統合するためには、天が一つだけでなくて、諸天、高次元があるという概念を導入しないと、説き明かすことができないというのです。
 その理論によれば、初め宇宙は、十くらいの次元が揃っていたというのです。秩序が保たれていたというのです。
 けれども、ある時突然、私たちが住んでいる三次元空間だけが膨張し始めたというのです。現在、宇宙が膨張しているのは、はっきりと分かっています。
 秩序の神さまなのにも関わらず、今や、私たちが住んでいる空間だけが膨張し、無秩序の中にあるわけです。これは天文学の話ですが、人の罪とか、悪魔・悪霊どもの働きが関わっているのではないかと思われます。

 しかし、今、この空間に遣わされている人類が、宇宙の果てにまで権限を持って、主をほめたたえろ!と宣言するとき、やがて神の秩序は回復されるのではないでしょうか。他の宇宙は、膨張していないそうです。それらは神の秩序の中にあるのならば、天のみ国の領域です。他の諸天は神の支配下にあるけれど、我々が住んでいる天だけが、悪しき力の支配下にあるようです。
 私たちがその事実に気づいて、管理人としての働きを開始するなら、やがて秩序の中に戻っていくのではないでしょうか。

 結論として、人とは何者なのだろうか。「全宇宙に存在する、すべての被造物に対して、『主を賛美せよ!』と宣言できる存在」と定義できます。それが私たち人類の存在目的です。
 私たちがイエス・キリストの十字架によって救われたならば、そこで止まるのではなく、すべての被造物に対して、救われていない人々に対しても、彼らが救われて主を賛美するように、さらには、すべての自然界も解放され、主をほめたたえるように宣言するのです。全宇宙に存在する、すべての被造物に対して主を賛美しろ!と宣言する係、それがクリスチャンであるわけです。
 今週、私たちはこの働きを基礎とし、土台として、お一人お一人の働きをその上にのせていくなら、麗しい主の働きが現れるのではないかと思います。

 今からいっしょに聖餐式を持ちたいと思います。聖餐式は、人の罪の身代わりという意味と共に、被造物全体をあがなうためとう意味があります。全被造物の回復の為に、イエスさまは地上に来てくださり、十字架にかかって、死んでくださったわけです。
 イエスさまの十字架による平和が、「万物をみ子のために和解してくださいました。」「あなたがたを和解してくださいました。」「福音は天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられている。」「私たちもそれに仕える者」として、聖餐式を持っていきましょう。一言お祈りします。

 ハレルヤ。天の父なる神さま、み名をあがめて心から感謝します。イエスさまの尊い十字架の血潮を、心から感謝します。これは私たちだけでなく、すべての造られたものに対して、主が和解を宣言してくださったことを、心から感謝します。今から私たちは聖餐式を持ちますが、聖書のみことばと、聖霊によって、聖餐式を祝してください。
 ここに備えられたパン、またぶどうのジュース、あなたの手の中で、あなたと一つになるひとときとしてください。今、被造物であるパンとぶどうのジュースを、主のみ名によって祝福します!イエスさまのみ名を通して祈ります。アーメン。