「彼らに主の名をほめたたえさせよ! パート16
〜待て。それは必ず来る。遅れることはない〜」

2018年8月19(日)
新城教会主任牧師 滝元順
ハバクク書2章1節〜4節

『私は、見張り所に立ち、とりでにしかと立って見張り、主が私に何を語り、私の訴えに何と答えるかを見よう。 主は私に答えて言われた。幻を書きしるせ。これを読む者が急使として走るために、板の上にはっきり書きしるせ。この幻は、なお、定めの時のためである。それは終わりについて告げ、まやかしを言ってはいない。もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない。見よ。心のまっすぐでない者は心高ぶる。しかし、正しい人はその信仰によって生きる。』

 ハレルヤ!みなさん、おはようございます。だいぶ涼しくなりましたね。先日までの猛暑が嘘みたいで、地球温暖化だと騒いでいましたが、今は温度が最低らしいです。あんまり信用ならないなと思います。過ごしやすい季節が近づいています。

 先週まではリバイバルミッションの働きで、「霊的戦い専門課程スペシャル」にはじまり、主日礼拝があって、「ミュージック・アカデミー」と続き、怒濤のような日々が続いていましたが、主の祝福の中で無事に終えることが出来ました。みなさまのご協力によって成し遂げることが出来ましたことを、心から感謝いたします。ちょっと写真をお見せたいと思います。

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 これはミュージック・アカデミーの写真です。大勢の方が参加されました。夜のコンサートも、地域の方々も多く来てくださって、すばらしかったです。感動的でした。
 スリヤ佐野先生が来られて、賛美についてのメッセージを語ってくださいました。賛美だけでなく、PAだったり、照明だったり、ピザ作りなんかもありました。さまざまな働きがあり、神の国の働きが広がっていることを感謝します。

 今日はお一人、皆さんに紹介したい方がおられます。横浜に、子どもたちが大勢集まって、日本一元気な教会があります。それは、「横浜みどり野キリスト教会」という教会です。今日はその教会の牧師であります、西村のぞみ先生ご一家がわざわざ新城教会の礼拝に来てくださいました。ですから、先生にちょっとご挨拶をいただいて、励ましていただきたいと思います。大きな拍手でお迎えください。先生、よろしくお願いします。

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 みなさん、おはようございます。今紹介いただきました、みどり野キリスト教会の牧師をしております、西村と言います。私たちの教会は十年ほど前に、長野にすばらしいキャンプ場を主が与えてくださいまして、この十年間は超教派のキャンプ、名前は「ぶっとびキャンプ」というのですが、夏は七月、八月はほぼ長野に張り付いています。数年前から、新城教会に一度来させていただきたいという中で、今日はスタッフには黙って休暇をいただいて、スタッフは横浜に戻っておりますので、今回この場所に、数年の念願がかなって来られて本当に喜びにあふれています。
 数年前から私たちの教会はWATOTOという、ウガンダのチームを受けるお手伝いをしているのですが、岩井さんがその音響をされて、数年間一緒に日本各地を回らせていただいて感謝します。
 私たちの教会は、三十年の歴史があるのですが、二十五年前に滝元明先生が私たちの開拓まもない教会に来て下さいました。ちょうどその時、まだ開拓したばかりで、小さなビルの一室で教会をしていたのですが、明先生が来られるということで、「この場所ではちょっと入りきらないぞ!」ということで、すぐ側に、私たちにとっては大きなスペースがあったので、借りて特別集会をしました。
 その時に先生に祈っていただいて、また励ましていただきました。その時、明先生から、「先生、こちらの場所でやったほうがいいよ!」というチャレンジをいただきまして、その後からその場所を借りて、私たちにとっては経済的にはすごくチャレンジだったのですが、その場所を借りるようになりました。そして十年後には、その場所を購入することができて、会堂が与えられました。そのきっかけとなったのが、滝元明先生が来られたことが、私たちにとっては本当に大きな励ましと、チャレンジになったことを心から感謝しています。
 今日はそんなことをみなさんに少しでもお伝えできるチャンスが与えられて、心から感謝をしております。夏は長野でキャンプをやっておりますので、私もこれが終わりましたら、また戻ってユースキャンプが今週あるのですが、ぜひお祈りに覚えていただけましたら幸いです。ありがとうございます。
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 先生、ありがとうございます。西村先生の教会は、ユースのミニストリーなら日本で一番恵まれている教会です。
 私の親父はいろんなところに関わっていました。先週は今栄先生が話していましたが、「沖永良部に行きなさい」とか、西村先生には、「このホールで教会はどう?」なんて言っていたみたいですが、でもそういうのが、各自の信仰によって実現したのはすばらしいですよね。
 教会は世界に、ただひとつです。主が導いておられる教会は、ただひとつです。それぞれに役割があるのです。キリストの体がひとつとなって、神の国は前進していくのです。

 今日はハバクク書の中から、みなさんと一緒に学んでいきたいと願っています。
 その前に、午後のプログラムの宣伝ですが、今日の午後からは「霊的戦いセミナー」です。特に、「家族の守りのために祈ろう!」というテーマで、家系のために祈ることはたいへん重要ではないかと思います。
 箴言の中に、『逃げる雀のように、飛び去るつばめのように、いわれのないのろいはやって来ない。』とありますが、すずめが電線に止まっていて、ぱーっと逃げる時って、我々が近づくから逃げるわけです。鳥が突然逃げるのは、何らかの原因があるわけです。それは私たちにも言える事で、様々な問題が家族の中に起こったり、人生の中に起こるのは、なんらかの原因があることを、聖書は示唆しています。
 一番大事なのは、「家族の守り」だと思うのですが、そのためには、自分の家系を見直して、そこに主をお招きして、勝利を宣言することが重要ではないかと思われます。
 この頃私は、偶像礼拝が三代・四代に至る呪いというよりも、「三代目、四代目に結果が現れる罪」である事をお話しさせていただいます。それを、「世代間弾道ミサイル」と名付けさせていただきましたが、偶像礼拝の結果が新しい世代に現れることがないように、具体的に祈りたいと思います。
 前半は聖書の学びをして、後半は、実際的に、お隣の方と一緒に祈り、家族全体の守りを宣言できたらと思います。
 教会の中にも、家族の中にも問題があったりして、絶対に家系をしっかりと扱う必要があるということを、最近、主から強く教えられています。教会はひとつのファミリーです。一人に悲しいことがあると、みんな悲しくなるし、一人の喜びが全員の喜びにもなります。家族全体の祝福は、重要なテーマだと思うので、そのための祈りの時間を持たせていただきたいと思います。プリントも用意しましたので、今日、セミナーに出られない方は、プリントを受け取ったら良いと思います。

 先週は、「人とは何者なのでしょう」ということについて、お話しさせていただきました。
 私たちは、気づいたら人間に生まれていました。人は多くの生物の中で、かなり特殊な存在です。人間よりも遺伝子量が多い生物もいますが、人とは何者かを理解する事は大切です。人は、「被造物の管理人」です。神さまは人間以外の被造物を、すべて人の足下において、「さぁ、これらを管理してください」と任されたわけです。
 人は被造物を管理するために、生物の中で最も知恵に長けていて、管理情報を神から任されています。そして、人は、神さまとコミュニケーションが出来る特別な能力が備えられています。だから、どんな人にも宗教心があります。クリスチャンであっても、なくても、祈り心ってありますよね。他の動物は、どうも祈り心って、見たことないです。良心もあるのかないのか、分からない感じです。しかし人には祈り心があります。日本人は、正月になれば八千万人くらい神社に初詣に行きます。それも、祈り心の現れです。クリスチャンでも、クリスチャンじゃなくても、何か、超自然的な存在に結びつきたいという願いがあるのは、管理人としての役割があるからです。
 私たちが本物の神さまにしっかりとつながり、正しい情報をいただいたら、神が造られた被造物全体に対して、責任を果たす事が出来ます。また、責任を果たしていくのが人の使命です。
 最初に造られた人間、アダムとエバに語られたことが、『地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」でした。
 先週は詩篇八篇から、学ばせていただきましたが、同じことを、神はダビデにも語っています。と言う事は、被造物の管理は、人類全体のテーマであるということです。

 そんな中、被造物の管理人である私たちが、どうしても必要なことを、今日は学んでいきたいと思います。
 読んでいただきましたハバクク書には、どのような時代背景であったのかというと、イスラエル、特にユダ王国に、バビロンの王が攻めて来るという噂がたち、噂だけでなく、実際に攻めて来る危機に瀕したわけです。
 当時バビロニア帝国は、世界最大の国で、その国の軍隊が小さな国に攻めて来たら、ひとたまりもない状況でした。人々の心は、不安と恐れに満ちて、追い詰められていました。国から慌てて逃げ出す人たちも大勢いたようです。
 そんな中、預言者ハバククが神の前に祈ったときに、神が何と言われたのかというと、『もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない。』と、主を信じる者達の祈りに、答えますよ!と、希望の預言をくださったわけです。
 ハバククに対して神は、「ちょっと待ってください」と待つことを要求されています。

 神さまと付き合うために必要なことは、「忍耐」ではないかと思います。私の親父がかつて、「サインしてください」と頼まれると、いつも「忍耐」と書いていたのを思い出します。彼の人生、やっぱり、忍耐しなければならない事が多かったのかもしれません。
 私たちはすぐに結果が欲しいと考えます。それが人間というか、性格というか、現代人は特にそうです。現代はコンビニが多くありますから、すぐに要求が満たされます。中国に行きましたら、中国のコンビニは「便利商店」とありました。コンビニって、本当に便利商店ですね。コンビニに行けば、欲しいと思ったものは、ほとんどすぐに、手に入ります。
 現代人の待ち時間の限界は「三分」だと聞いたことがあります。だからラーメンも、お湯を入れて出来るまでが、三分に設定されています。四分とか五分だとみんな買わないそうです。どうりで、ウルトラマンも三分だったなぁと思いますが、三分しかエネルギーがもたないみたいです。三分経つと我慢が切れてしまう世界に、私たちは住んでいます。「ちょっと待ってね」と言われても、待てないところがあるのです。

 私はブラジルに何回か行ったことがありますが、日本人とブラジル人ってやはり住んでいる環境が違いますから、「ちょっと待って」という言葉の意味も違います。日本で「ちょっと待ってね」と言われたら、十分かな、長くても十五分かなって思うでしょう。ブラジルに行って、「順先生、ちょっと待ってね」と言われたので、十分かな、十五分かな、と思っていたら、待てど暮らせど迎えに来ないわけです。すると、一時間半から二時間遅れて来ました。「ちょっと待って」が一時間、二時間かよ!とびっくりしました。
 また、「ちょっとそこまで」と言われたので、五分くらい向こうかなと思ったら、百キロくらい先でした。どうも基準が違うなぁと思いました。

 神さまの「ちょっと待って」も、我々とは時間の基準が違うみたいです。その違いを知ると、祈りの結果がどのようにして、私たちに届くのかが分かってくるかと思います。
 神さまが、ユダの人たちの緊急事態においても、「もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない。」と語られました。神さまは、のんきだなぁと思います。

 聖書のテーマは、「待つ」ことが、一つのテーマなのかもしれません。詩篇二十七篇十三節、

『待ち望め。主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。主を。』

 祈って、すぐに答えをいただければ嬉しいのですが、時に、すぐには答えが来なくて、「待ち望む」ことを強いられることがあります。しかし待ち望むことが、神さまとお付き合いする中で、大変重要な条件になることを知る必要があります。

 そもそも神の国の価値観は、我々の持っている価値観とは違います。そのことをイエスさまは語られたわけですが、その最たるメッセージが、山の上で語られた「山上の垂訓」と呼ばれる説教です。マタイの福音書五章三節〜六節まで、大変有名なイエスさまのメッセージですが、読んでみたいと思います。

『心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。』

 ここで述べられている事柄は、この世の価値観とは、すべて真逆だと思います。心の貧しい者が幸せ?心が豊かでないと生きていけないと私たちは考えます。なんとか心を豊かにしたいと、常に願っています。しかし神さまとお付き合いをするためには、心が貧しいほうが、幸せになるようです。それは、『天の御国はその人たちのものだから。』となっています。

 そして、『悲しむ者は幸いです。』と言うのです。普通は、喜んでいるほうが絶対に幸せだと思います。みなさんどうでしょうか。悲しむのと、喜ぶのと、どちらがよろしいでしょうか。どちらかを選んでくださいと言われたら、絶対に喜びを選ぶと思います。しかし人生の中で、時々、悲しみがあることも確かです。聖書は、それは幸せだと語っているわけです。

 『柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。』と書かれています。人生で一番もめるのは、相続らしいです。親が多くの財産を持っていると、親が死んだ時には、兄弟間で結構もめるみたいです。
 私の父が亡くなった時、父は「遺言書」を残していました。それが見つかって、私は長男ですから、遺言書を開いてみました。なんて書いてあるのかな・・・、どこかに隠し財産とか、金塊が隠されていたら嬉しいなと思って、おそるおそる読むと、「さて、経済のことだが、俺には残している金は一銭もない。」と書いてありました。「おまえたちに残すのは、ただ信仰のみだ。」なんて、偉そうなことが書いてありました。「えー!何もないの!?」本当に、何もありませんでした。だから、我が家には相続争いはありませんでした。親父は、持ち物をすべて教会に、宗教法人に寄付してしまったので財産は何もなくて、問題ありませんでした。
 でも多く持っていたらもめます。そして、多くの遺産を勝ち取る為には、柔和な者では駄目です。ずる賢い者が、より多くの地を相続するのです。イエスさまが普通の人ならば、「ずる賢い人たちは幸いです。その人は地を相続するからです。」と語られたはずです。柔和だったら、全て取られますからね。逆のことを語っているわけです。

 そして、『義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。』とありますが、飢え渇いているやつがなぜ、満ち足りるんだ?と思います。神の国の価値観は、私たちが日頃体験している事柄と、全く違うのです。

 山上の垂訓のメッセージを一節でまとめるとすると、やはり、五章三節だと思われます。

『心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。』

 「心貧しい」とは、どういう意味かというと、「霊的に貧しい人」というわけです。「霊的貧乏人、霊的乞食」が、人生で最も成功する人です。人生をうまくやりたかったら、霊的に乏しいというか、霊的にハングリーになったら、幸せになります。なぜなら、神の国、天のみ国がその人のものになるからです。
 時々、いろんな事件が起こって、神さまの前にハングリーにされることがあります。それは私たちにとって、あんまり嬉しいことじゃないというか、悲しかったり、苦しかったりしますが、そういう時は、「なんとか神さまに助けてもらいたい!」と、真剣に主を待ち望み、主の前に出ます。それは結果的に、大きな祝福をもたらすのです。なぜなら、「天のみ国があなたのものになります!」ということです。

 「天のみ国」とは、どういうものであるのか。聖書には、「神の国」とか「天のみ国」とか「天国」とか、いろいろな表現があるのですが、意味は同じです。
 「天のみ国」について、案外、知っているようで知らないのです。私もあまり知りませんでした。
 先日、ある記事を読みましたら、先週も話したことなのですが、「天のみ国」という「天」は複数であると書かれていました。そして「み国」、また「王国」は単数だというのです。これはどういう意味かというと、ギリシャ語から正確に訳すと、「諸天によって構成される神が支配される唯一の王国」となります。
 「天のみ国」というと、天のかなたにユートピアを神さまが造っておられるように考えるのかもしれないですが、そうではなく、神さまは天を一つだけ造ったのではないのです。
 『初めに神が天と地を創造した。』という、「天」も複数です。宇宙物理学は、宇宙を解き明かしていますが、そんな中で最新の理論、「超弦理論」においては、十とか十一くらいの高次元を設定しないと、現代分かっている情報を統合して、宇宙を把握できないというのです。
 私たちは見える空間だけ、物理学では四次元空間と表現するのですが、それだけがすべてと考えますが、実は、それだけでなく、さらなる高次元と呼ばれる天を、神は創造されておられるのです。
 当時のユダヤ教のラビたちも同様で、「天は七つある」、「いやそれ以上ある」と様々な意見を持っていたようです。当時の人たちは天が一つとは考えていませんでした。
 神の国は、「諸天によって構成される、神が支配されるただ一つの王国」と訳したほうがいいのです。

 私たちは「自然界の法則」に支配されていますが、この空間の法則内ですべてが治まれば、それは、それでいいわけです。例えば、病気になったら、病院に行って薬をもらったり、手術したら完璧に治るのだったら、この空間の法則内ですべて治まるわけです。車が壊れた時は修理屋さんに持っていったら、完璧に直ると言うように、私たちが住んでいる空間を支配している法則を使って、問題が解決すれば、それはそれで、いいわけです。
 しかし、多くの場合、祈りが湧いてくる時は、人の空間内での法則ではどうにもならないというか、日頃体験している法則では、手に負えない場合に、真剣に主を求めるようになります。神さまはさらなる天、高次元を造っておられますが、普通では他の天にアクセスすることは出来ません。限られた領域にしか生きることが出来ないのが人間ですが、私たちが神の前に出て、主を待ち望んで、慕い求めていくときに、「神の国があなたのものになる」のです。
 例えば、ドラえもんのどこでもドア。そんなものがあったらいいですね。しかし、普通では使えないです。通常は、空間は時間をかけて移動しなければならないです。もしも、もどこでもドアを使いたかったら、ドラえもんに頼むのか、それ以上の空間に行かないと、使えないわけです。私たちの住んでいる天よりも、さらなる高次元があったら、時間と空間に支配されませんから、どこでもドアは普通の事だと思います。
 私たちは限られた領域の法則だけで生きています。しかし神さまが造られた諸天においては、全く違った法則が支配しているわけです。そして私たちが祈るときに、神の支配される世界の法則、我々から見たら「超自然的法則」が使えるようになるのです。そのために必要なのが、粘り強く祈ることです。

 一ヶ月ほど前、Kくんが脳出血で倒れて、病院に運ばれたときには脳死状態だと言われました。翌日、彼を病院から運んで来ようと思っていました。しかしみなさんが真剣に祈って下さいました。そうしたら翌日、奇跡が起きました。彼は生きていたのです。
 そこから祈りの戦いが始まりました。先々週、彼は一般病棟に移りました。山を越えたわけです。普通の法則だけだったら、絶対に無理だったと思われます。真剣に主を待ち望んで、祈ってくださったからこそ、神が支配されている世界の法則を使うことができたと思います。
 先週、彼の状態は、さらに前進しました。先週のコンサートの様子を動画で送ったら、彼は、何度も何度も、ある曲を聴かせてくれと、目で合図したというのです。「これが聴きたいの?」「パチパチパチ」と。すると彼は賛美を聞きながら、涙を流したそうです。これは普通の世界の法則だけでは絶対に、無理ですが、神の法則が加わるときに、奇跡が起こるのです。
 しかし、私たちにとっては奇跡かもしれませんが、神にとっては当然の世界です。すでに、『初めに神が天と地を創造した。』という時に、多くの天を神は創造済みであり、それぞれの天は異なった法則で成り立っているからです。私たちの住んでいる天の法則には、限りがあります。しかし、私たちが心貧しくなって、主の前に出るときに、「天のみ国はあなたがたのものになります」と言われました。我々から見たら超自然と呼ばれる法則さえも、共有させていただけるのです。そのために必要なのが、「主を待ち望む」ことです。
 詩篇二十五篇三節に、こんなことばがあります。

『まことに、あなたを待ち望む者はだれも恥を見ません。ゆえもなく裏切る者は恥を見ます。』

 主に依り頼み、主を待ち望むときに、恐れもあります。「信仰をもって進んでいるけれど、大丈夫だろうか?」と。
 しかし信仰を持って神を待ち望むときに、「恥を見ることがありません」と約束されています。
 イザヤ書三十章十八節には、「主を待ち望む者は祝福を受ける」と約束されています。

『それゆえ、主はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。主は正義の神であるからだ。幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。』

 主を待ち望む者には、主が立ち上がってくださるのです。時にはさまざまな苦しみがあったとしても、待ち望んで、主の前に出る時に、主は立ち上がってくださるのです。これも神さまのご性格を表していると思います。

 またイザヤ書四十章三十一節には、「主を待ち望む者は新しく力を得る」あります。有名なみことばです。

『しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。』

 一九九二年二月十三日に、私たちは激しい聖霊の注ぎを体験しました。あの時もやはり皆が、飢え渇きを持っていました。日本のリバイバルのために、愛知県民の森に集まって、真剣に主を待ち望み、飢え渇いて祈っている最中に、聖霊が注がれました。力のないものでしたが、力が与えられて甲子園ミッションを成し遂げることができました。あの夜、主が力を与えてくださったことを、鮮やかに思い出します。
 「ちょっと力がなくなったな」という方は、主を待ち望み、主に信頼するなら、必ず主は、力を与えてくださいます。

 また、「主を待ち望む者は、戦いに勝利する」という約束もあります。エレミヤ書十四章二十二節。

『異国のむなしい神々の中で、大雨を降らせる者がいるでしょうか。それとも、天が夕立を降らせるでしょうか。私たちの神、主よ。それは、あなたではありませんか。私たちはあなたを待ち望みます。あなたがこれらすべてをなさるからです。』

 このみことばは、私にとって大変思い出深いみことばです。一九九二年二月に聖霊が注がれて、七月から霊的戦いが始まりました。
 聖霊が注がれて有頂天になっていたら、突然、霊的戦いが始まり、この世の「霊的現実」を知らされました。
 私はそれまで、「悪霊なんかいないだろう」と思っていました。きっとイエスさまが全て退治してくれたのだろうって。失礼な話ですが、「未開の地に入って行って、ジャングルの奥に入らなければ、悪霊なんかいない。近代都市にはいない。」と私は考えていました。
 しかし霊的戦いが始まって、日本は悪霊の巣窟だ!ということを知らされました。そしてこの町も、完璧に悪霊が支配していることを知らされました。霊の目が開かれるのは、ある意味で嬉しいような、悲しいような面もあります。なぜなら、現実を知ってしまうからです。どう説明してよいのか分かりませんが、私は、「主が立ち上がられた日」という本を書きましたので、また読んでいただければと思いますが、霊的な現実を知らされました。その途端、さまざまな問題が周りに起こって、押しつぶされそうになりました。「もうだめだ!こんな戦いは無理だ!」と思いました。「日本の長い歴史の中で、悪魔・悪霊どもは強力な要塞を、この国に築いている!これを変えるのは、私たちの力では無理だ!」と思いました。すごく落ち込んで、同時に、周りにも、実際的な問題がいっぱい起こって、立ち上がれないくらいになりました。「主よ、私はやめたいです!命を取ってください!」と思うくらいの気持ちになりました。
 その時に、鮮やかにエレミヤ書十四章二十二節のことばが与えられました。

『異国のむなしい神々の中で、大雨を降らせる者がいるでしょうか。それとも、天が夕立を降らせるでしょうか。私たちの神、主よ。それは、あなたではありませんか。』

 日本は、異国のむなしい神々の巣窟です。日本の偶像礼拝は、日本のものは何もありません。調査してみると、すべて異国から入って来たものばかりです。それらによって、何千年も塗り固められて、人々の心はがっちりと捕えられています。福音に覆いがかかっています。私たちがいくら福音を伝えても、光は届きません。
 しばらくは教会に来ても、人々は教会から去ってしまうのです。

 ある人が日本のクリスチャンが、信仰をどのくらい保っているのか、「信仰平均寿命」を調べたそうです。すると、だいたい三年くらいだったそうです。教会に来ても三年くらいすると、教会から去るというのです。
 しかしその時に主が、「わたしが大雨を降らせてあげます!リバイバルを与えます!異国の神々が満ちたただ中で、わたしが働きます!」と鮮やかに語って下さいました。
 そのために、あなた方は主を待ち望み、忍耐して祈り続けなさい!と語られ、もう一度、立ち上がりました。

 何度も話したことがあるのですが、その頃、ちょうど神戸のほうで集会をしていました。私の父と、韓国から申賢均という先生が来て、他にも日本の有名な先生方も集まって甲子園ミッションの為の準備集会がありました。そこに悪霊に憑かれた男が突然入って来ました。そして私の目の前に座りました。
 エクソシストとか、ホラー映画で目の玉が真っ白くなるのを知っていますか?本当にその男、目の玉がくるっとひっくり返って、真っ白になりました。その目で、私たちを睨むのです。ぞっ!としました。
 集会が終わったら、「おまえら!ここに集まれ!」と言って、会場にいた牧師達全員が集められ、その男に監禁されました。手には、袋を持っていて、当時、袋の中に包丁を忍ばせて、人を刺し殺す事件が多く起こっていました。彼の紙袋には絶対に包丁が入っているという雰囲気でした。日本の有名な牧師たちが監禁されました。「おまえら、こんな集会やめちまえ!」と脅されて、大変な目に遭いました。私も監禁され、殺されるかと思いました。
 でも私はその時、主の前にひざまづいて祈りました。「主よ。助けてください!勇気を与えてください!」と心の中で叫びました。そのように祈ったとき、主が私に、ちょっぴり勇気をくれました。そして、「袋の中を覗いてみろ!」と言われたような気がしたので、男が他の牧師と話している隙に、そっと袋の中を覗いてみました。すると中身は包丁じゃなくて、聖書でした。その瞬間、「なんだこいつ!」と思って力が湧き上がってきました。それで、私は一人で彼の後ろから飛びかかり、彼をぶっ倒しました。すると田中政男先生が、「順!やめろー!危ない!!」と叫んだ声が、今でも響いています。私は、そいつをのしてしまいました。
 すぐに警察が呼ばれました。彼は私たちを監禁していましたから、「犯人は…とこ?」と警察が言って、犯人に馬乗りになっていた、私が犯人のように始めは扱われました。しかし私が彼を逮捕したのです。
 もう駄目だと潰れそうなときに、主が勇気を与えてくださって、戦いは大変かもしれないけれど、忍耐して悪魔に立ち向かえ!そうしたら、必ず、戦いに勝利します!と励ましてくださいました。

 同時に、主から与えられたのが、ハバクク書のみことばでした。ハバクク書一章一節〜四節を見ますと、今、読んだ二章の前提が記されています。

『主よ。私が助けを求めて叫んでいますのに、あなたはいつまで、聞いてくださらないのですか。私が「暴虐」と叫んでいますのに、あなたは救ってくださらないのですか。なぜ、あなたは私に、わざわいを見させ、労苦をながめておられるのですか。暴行と暴虐は私の前にあり、闘争があり、争いが起こっています。それゆえ、律法は眠り、さばきはいつまでも行われません。悪者が正しい人を取り囲み、さばきが曲げて行われています。』

 ハバククの時代、社会がどのように混乱していたのかが、この記述から、よく分かります。神の民がいくら主に叫んでも、助けが来なかったのです。「あなたはいつまで聞いてくださらないのですか」という叫びが記されています。時々、人生の中で、これだけ祈っているのに、なぜ、神さまは助けてくれないの!という葛藤があります。そんな時神は、「待たせたな、じゃあ、助けてやるよ」とは、すぐには言われないみたいです。二章一節〜四節の中で、

『私は、見張り所に立ち、とりでにしかと立って見張り、主が私に何を語り、私の訴えに何と答えるかを見よう。』

とハバククは語っています。
 いくら祈っても、答えがない事があるかもしれないけれど、その時、「なんだ神さま!」と文句を言ってはいけないのです。その時もさらに待って、「見張り所に立ち、とりでにしかと立って見張り、神さまがどのように動かれるのかを眺めよう。」という、ハバククのような、余裕が欲しいですね。
 祈っても答えられないとき、「どのように祈りは答えられるのかを、見てみよう」という態度が必要です。

 ハバククは待ち望むことを知っていた預言者だったのです。その時、二節から見ると、

『幻を書きしるせ。これを読む者が急使として走るために、板の上にはっきり書きしるせ。 この幻は、なお、定めの時のためである。それは終わりについて告げ、まやかしを言ってはいない。もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない。』

 神さまが語ったことを、忘れないようにちゃんと記録しなさい!と言われました。
 当時、通信手段がありませんでしたから、預言者たちは神からのことばを、ボードに大きく書いて、みんなに伝えたらしいです。「神さまがこんなふうに語られましたよ!」と。私たちも、「神が語られたことを、ちゃんと記憶し、記録しておきなさい」と言うのです。主から示されたことを、ノートか何かに記録することは、大事じゃないでしょうか。
 『もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない。』と約束されました。これは今の時代にも共通する預言です。

 実はこのみこばは、宗教改革を行ったマルチン・ルターが引用したみことばでもあります。このハバクク書のみ言葉が、ヘブル書で引用されています。ヘブル人への手紙十章三十七節〜三十九節、

『もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。」私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。』

 このみことばをルターは掴んで、宗教改革という、多くの困難を伴う働きに挑戦し、勝利したのです。主を待ち望み、粘り強く忍耐して戦うことを学び取り、彼は「信仰によって義とされる」という真理を掲げて、ローマ・カトリックと戦い勝利しました。まさしく彼は待ち望むことを知っていた人物でした。

 時々、祈りが聞かれるまでに、物事が二転、三転する事もあります。それでも、私たちは主に信頼し、待ち望むか否かが、信仰の世界では勝敗を決めるのかもしれません。
 
 最後に一つの証しをしたいと思います。これは、うちの孫に最近起こった奇跡です。孫ネタでちょっと申し訳ないのですが、主が私の孫に見せて下さった奇跡なので、ちょっとシェアさせていただきたいと思います。孫の一人に、えりぃという男の子がいます。現在、小学校一年です。彼が近頃、奇跡を体験しました。
 彼は、どんな事でも祈ったら答えられる!ということを、教会で勉強したそうです。「信じて祈ったら、イエスさまは答えてくださる!」ということを、子ども集会で学んだり、親から聞かされて、彼はそのみことばを信じたそうです。彼の一番の興味は何かというと、大した興味ではなくて、カブトムシです。カブトムシの中でも、今年は、「アトラス・オオカブト」が、どうしても欲しかったそうです。

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 角が三本も生えていて、買うと何千円もして、高いのは何万円もするのです。こんなの小学一年生で、買えるわけがないです。でも彼は、信じて祈ったら与えられるというので、「俺は信じて祈る!」と言って、「アトラス・オオカブトをください!」と祈ったそうです。
 そうしたら、お母さんが、「お手伝いをしたら、アトラス・オオカブトを買ってあげるかもよ・・・。」みたいなことを言ったわけです。それで彼は、祈ったあとにお母さんが買ってくれるようなことをにおわせたものだから、「じゃぁ、やるやる!」と、彼にとっては困難な仕事を、お母さんと一緒に一日かけてやったらしいです。しかし一日中、「アトラス・オオカブト」「アトラス・オオカブト」とつぶやきながら、祈っていたそうです。
 でも、お母さんは、すでにちょっとした情報があったのです。近くのホームセンター「カーマ」で、アトラス・オオカブトの安売りをやっていて、一匹千円くらいで買えるということを知っていたわけです。だからお母さんは、彼に言うことをきかせるために、「祈りは答えられるから祈れ」みたいなことを言ったわけです。
 彼は一日の手伝いが終わったら、一目散!お母さんと一緒に、新城のカーマに行きました。そして、「アトラス・オオカブトください!」と言ったら、「あぁ、残念ながらすべて売り切れてしまいましたよ。」と言われたそうです。彼はかっかりです。全国のカーマの、アトラス・オオカブトの在庫をコンピューターで調べてもらったら、一匹も残っていませんでした。
 
 彼はもう、天国から地獄に突き落とされたような、大ショックでした。「あんなにも真剣に祈ったのになんでー!!!」
 幼い彼の心に不信仰。神に対する反逆みたいな気持ちがあって、お店の中で泣きじゃくって、「俺は信じて祈ったのになんでー!!」とか言って、騒いだそうです。
 そうしたら店の人も、かわいそうに思って、一生懸命、努力してくれたそうですが、残念ながらそういうバーゲンものは、あっという間になくなってしまうわけです。今後も入荷予定なしでした。
 最終的に、「あきらめてください」という答えでした。このカブトムシは輸入物なので、数にも限りがあり、千円くらいなら誰でも買うじゃないですか。夏休みの宿題とか、研究で買われてしまい、彼は、信仰と希望を完全に失ったわけです。

 しかしあまりにも、激しく失望しているえりぃを観て、お母さんが、お店の人にもう一度調べてくれるように頼んだそうです。すると、コンピューター上に、「一匹残っている」と表示されたのです。しかしその店に電話すると、「一匹残ってはいるけれど、脚が三本取れていて、たいへん弱っていて、いつ死ぬかわからない」という答えでした。
 それを聞いて、えりいは、またまた、大ショックでした。でも、「脚が三本取れたアトラス・オオカブトでよければ、安く分けてあげますよ」と言われました。しかし、明日まで生きているのかは分からないし、他の店にあるという事でした。しかしえりぃは、脚が三本とれたアトラス・オオカブトがほしいと言いました。

 神さまって、本当に愛の深い神さまだなと思うのですが、ちょうど彼はその前に、「パラリンピック」の映像を見たらしいのです。それを観て、たいへん感動したらしいのです。脚がなくても、手がなくても、活躍している選手達を観て、超かっこよかったというのです。パラリンピックの選手たちが、障がいがあっても活躍している姿に感動し、「アトラス・オオカブトだって、脚がなくたって、きっと、かっこいいに違いない!僕はその脚のないアトラス・オオカブトでいい!イエスさま感謝します!」と言って、脚が三本ない、アトラス・オオカブトをゲットする決断をしたのです。
 「明日、取りに来てください」ということで、翌日、脚が三本ないアトラス・オオカブトを迎えに行ったらしいのです。彼は一晩、心配でずっと泣いていたそうです。
 翌日、豊橋のカーマに行って、脚の三本とれたアトラス・オオカブトと対面して、彼は狂喜したそうです。見るなりに、「超かっこいい!」と言って、一目でたいへん気に入ったそうです。ついに彼は、アトラス・オオカブトをケットしたのです!

 しかしストーリーはここで終わりませんでした。お母さんが、豊橋のカーマは新しい店なので、少しショッピングしよう!ということで、受け取ったアトラス・オオカブトをレジに預けて、店内を散歩したというのです。
 するとあるコーナーに行ったら、夏休みくじコーナーがあって、「スクラッチくじ」だったらしいのです。スクラッチのくじでも、結構高くて千円で、いろんな賞品がありました。彼は、「これをやりたい!」と言い張ったそうです。お母さんは、ちょっとかわいそうだったから、少し高いけれど、「クラッチくじをやらせてやるか・・・」ということで、彼は大量のスクラッチくじの中から、一枚を引いたそうです。
 すると、「一等賞!」と出るかと思ったら、なんと、四等だったそうです。なんだ〜四等か!という感じでした。
 店員さんが、「四等ですね!では、四等の賞品を持って来ますね!」と、四等の品を持って来て、「はい!これ四等賞」と、彼に手渡しました。
 さてその中に、何が入っていたと思いますか?なんと!脚がちゃんと六本ついた、完全なアトラス・オオカブトが入っていたのです!!
 彼は、その場で、「イエスさま、ドすごい!!」と叫んだらしいです。
 いや〜、神さまのやり方って、無茶苦茶、手がこんでいますね。脚が取れたアトラス・オオカブトで、彼は十分、満足だったのです。まさか四等の箱の中に、ちゃんとしたのが入っているなんて、これっぽっちも、誰も、考えなかったわけです。一等賞ならまだしも、四等賞の中に、完璧なアトラス・オオカブトが入っていたのです!その日彼は、二匹のアトラス・オオカブトをゲットしました。

 彼は感動して、聖書の中からこのカブトムシたちに、名前を付けたそうです。み霊の実の中から、脚が取れたアトラス・オオカブトに、「へいあんくん」と名付けたそうです。そして、くじで当たった方は、「よろこびくん」と名付けました。これが、「へいあんくんと一緒」の写真です。

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 彼は現在、どちらを大事にしているのかというと、脚の取れた、「へいあんくん」のほうを大事にして、いつも持ち歩いています。あんまり持ち歩くから、弱って死んじゃうんじゃないかと心配しますが、子どもに起こった奇跡とはいえ、神さまは、こんなにもきめ細かい、芸をなされるのですね。

 さらに彼には、もう一つの奇跡があって、豊橋のカーマの前に、ミスタードーナッツがあるらしいのですが、彼は二匹をケットして、嬉しくて、嬉しくて、ミスタードーナッツに行って、お姉ちゃんたちにドーナッツを買ったというのです。六個買ったそうです。レジに持って行くと、店員さんが、「今日は詰め放題の日ですから、その箱に、もっと詰めてもいいよ!」と言われたそうです。それで彼、六個買ったのを、詰め直したら、十三個入ったというのです。そこでも、倍以上の祝福をもらってしまったのです。その日彼は、「ダブル・ブレッシング」でした。二倍の祝福の写真がこれです。

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 孫ネタで恐縮ですが、幼子の祈りにも、主は答えてくださるのです。それでも、やっぱり山あり、坂あり、谷ありみたいなところがありました。彼なりに、主を待ち望んで祈らされたわけです。その時、すごいサプライズがあったのですね。

 時々、「どん底!絶対に立ち上がれない!」みたいなことが人生に起こるかもしれませんが、信じて待ち望んでいくとき、「遅くなっても待っていてください。それは必ず来ますよ!」と語って下さったら、最高ですね。
 そのために必要なのは、やはり信仰だと思います。ヘブル書十一章一節に、

『信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。』

 今、様々な祈りのテーマがあるかもしれませんが、目に見えない世界、神の国では超自然でもなんでもないのです。神の国、諸天においては、それが自然の法則です。すでに実行されているのです。

 私たちが心を貧しくして、主に依り頼んで、待ち望んで祈るときに、「心の貧しい者は幸いです。天のみ国はあなたがたのものとなります!」と、幼い子どもにも主は心を向けてくださるとしたら、主の前に出る祈りに、答えないで放っておかれることは、決してないはずです。信仰を持って、主の前に出て行きたいと願います。

 最後に、お祈りさせていただいて、終わりにします。

 ハレルヤ。天の父なる神さま。み名をあがめて、心から感謝いたします。あなたは私たちに、良いものを用意してくださっていることを、心から感謝します。時に、途方に暮れるようなときもありますが、あなたは「待ちなさい」、「信頼しなさい。祈っていなさい」と言われますから感謝します。様々なことがありますが、主よ、あなたは私たちに、良いものを用意してくださっていると信じます。
 『もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない。』このみことばを教会に宣言します。
 今から聖餐式を持ちますが、聖餐式の中でイエスさま、あなたとの深いまじわりを与えてください。十字架の勝利は、私たちだけでなく、被造物全体との和解であったことを感謝します。まず、私たち管理人が、あなたとの関係を完全にして、主に依り頼んで、主からのみ声を聞く者となれますように。感謝を持って、イエスさまの名によって聖餐式を始めます。アーメン。