「彼らに主の名をほめたたえさせよ! パート17
~人とは、何者なのでしょう?Part2~」

2018年9月9(日)
新城教会主任牧師 滝元順
詩篇8篇1節〜9節

『私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。あなたのご威光は天でたたえられています。あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち建てられました。それは、あなたに敵対する者のため、敵と復讐する者とをしずめるためでした。あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。すべて、羊も牛も、また、野の獣も、空の鳥、海の魚、海路を通うものも。私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。』

 ハレルヤ!みなさん、おはようございます。今朝は、雨が降っていてどうなるかなと心配しましたが、なんとか守られて感謝します。
 秋になってきまして、周囲は美しい景色です。この写真なかなか、良いでしょう。

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 しかし日本は度重なる災害で苦しめられています。今、日本がすべての面で問われているような気がします。こんなときにこそ、クリスチャンの役割は大変重要ではないかと思います。

 ひさしぶりに礼拝メッセージを語らせていただけるのですが、この夏は私にとって怒濤のような日々で、様々な働きがありました。しかしみなさんに祈っていただき、守られ、導かれたことを心から感謝します。「霊的戦い専門課程スペシャル」があって後、すぐに「ミュージックアカデミー」があり、その後、アメリカに行きました。まずはロン・ブラウンさんのお見舞いに行きました。ロンさんの健康は、なかなか厳しいところがあります。ジョー先生とティムさんと一緒に訪問しました。英語は忘れちゃったみたいで、なかなか反応しにくいのですが、私が日本語で話しかけてお祈りすると、涙を流しておられました。二日間にわたって訪問して、一緒にお祈りしました。最初の日は笑顔もなく、表情もなかったのですが、二日目は、こんなすばらしい笑顔を見せてくれました。

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 是非ともロンさんのいやしのために、祈ってください。ロンさんが日本に来てくださったことによって、日本の宣教は前進しました。そして多くのクリスチャンのミュージシャンが誕生しました。彼の働きは、本当に大きかったと思います。是非とも彼のいやしと守りのために、また、ご家族のためにお祈りしていただきたいと思います。

 それが終ってから、ワシントン州シアトルに行きました。ここに来てくださいます、竹内先生の教会の修養会で奉仕をさせていただきました。

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 綺麗な湖のほとりにキャンプ場がありました。これは私の部屋の前の景色でしたが、残念ながら、この椅子に一度も座ることもなく終わってしまいました。竹内先生の教会には日本人、アメリカ人、ハーフの方々、いろいろな方々が来られていて、すばらしい集会となりました。

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 これはベレビューという街での写真です。

 火曜日に日本に帰って、その週の金曜日から、金・土・日と那須塩原のほうで奉仕しました。時差が直ってない感じでしたが、森の中の綺麗な教会で、三日間霊的戦いセミナーをさせていただきました。

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 この地域の教会は、心を一つにして、十年間くらい、毎月、山の頂上に登って、真剣に街のためにとりなし、霊的戦いをしています。
 「すごいですね!どうして始められたのですか?」と聞いたら、十年以上前に一人の牧師が、ある牧師にある事を相談したというのです。「今、いろんな問題が教会にあるのですが、どうしたらいいですか?」と聞くと、その牧師が、「山頂に登って祈れ!」とアドバイスしたと言うのです。「誰がそんな事、言ったんですか?」と聞くと、「順先生、あなたが言ったんです。」「えっ!?そんなこと言いましたっけ?」という感じでしたか、ややこしい問題だったので、とりあえず高い所で祈れとか言ったのかなぁと思いますが、その教会と周りの教会が、十年間、ずっと地域の為に祈っているのです。
 そんな中、彼らは霊的戦いに目覚めたそうです。地域には熱心な教会がいくつもあって、たいへん良いセミナーになりました。疲れた中で行きましたが、そういう時にこそ、聖霊さまが働いてくださるんだなぁと感動しました。

 今回私は、塩原温泉に泊めていただきました。那須のちょっと郊外に、塩原という場所があります。「疲れていると思いますから、温泉にでもゆっくり入ってくださいね!」と言われて、それは嬉しいなぁ!という感じで、宿泊させていただきました。その時に、ふっと、思い出したことがありました。
 日本の教会は、数年に一度、「日本伝道会議」という会議を開きます。すでに、何回も開かれているのですが、それは日本のすべての教会が、これからの宣教戦略を共に考え、祈り、毎回、宣言文を発表します。「これからの日本の教会は、こうありたい!」という宣言を発表するのです。
 実は、一九九一年、塩原に日本中の教会の牧師たちが集まって、「塩原宣言」と宣言文を発表しました。そういえば、ここだったな・・・?と、思い出して、調べてみました。やはり、一九九一年に、塩原温泉を会場に、「日本、アジア、そして世界へ!」というテーマで、「第三回日本宣教会議」が開かれたという記事が残っていました。

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 一九九一年に、日本のすべての教会が、どのような宣言文を採択したのかというと、「霊的な戦いと宣教戦略」という宣言文を出しているのです。これは、日本教会共通のコンセンサスです。その一部を読んでみますと、次のようになっています。

“福音が全体として提示される時、おのずと宣教はこの世の諸権力の反応と、人々の様々な反応を招く霊的な戦いとなります。とりわけ、キリストの権威と聖霊の力により、サタンと罪の支配から信仰者を解放する活動は、教会の最も戦闘的側面であり、聖霊が与える剣である神のことばをはじめとする、神の武具と祈りがこの戦いには不可欠です。”

 なんと一九九一年に、日本の教会は、これからの宣教に関しては、霊的戦いがどうしても必要だ!という、宣言文を出しているのです。
 考えてみれば、この宣言文が出された翌年、一九九二年に新城教会で突然、主によって霊的戦いが始められ、九三年には甲子園ミッションが開催されました。そしてその戦いは、今もなお継続されています。
 一九九〇年代から、もしかしたら日本は新しい霊的領域に入ったのかもしれません。
 その後、一九九五年一月には阪神大震災、二〇一一年には東北での未曾有の大地震と原発の崩壊、そして、先週は北海道で震度七の大地震が起こりました。それに加えて台風、豪雨、猛暑など、日本はまさしく泣きっ面に蜂、踏んだり蹴ったりです。さらには、近づいている東南海地震や、首都圏大地震への恐怖で国民は今にも潰されそうです。
 一九九〇年代に入って、日本は様々な災いに巻き込まれています。しかし、それらに先だって、日本のすべての教会が「霊的な戦い」を決議し、宣言しているのです。
 しかし、日本の教会は、自分たちで決議した宣言文を覚えているのかなぁ、と時々思います。塩原宣言を突然、温泉に入っている中で思い出しました。大事な場所に来させていただいて、本当に感謝しました。力いっぱい奉仕をさせていただきました。

 そんな中、「人とは何者なのか」というテーマは、たいへん大きなテーマです。八月十二日の礼拝でも、すでに語りましたが、人は、赤ん坊で生まれて、やがて年を取って死んでいく運命です。人に生まれて良かったのだろうかと、話しましたが、詩篇八篇には、「人とは何者なのか」の答えが記されています。
 ダビデも、人とは何者なのかというテーマで悩んだみたいです。八月十二日に語ったメッセージを復習していただきますと、今日につながるのではないかと思われます。

 四節では二度、『人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。』と繰り返しています。
 最も遺伝子量が多い生物は、ミジンコだと言われます。それは人間よりも、ずっと多いです。ということは、神さまが被造物を創造したときに、人間よりも、池の中のミジンコに手をかけたことになります。そういうことが分かると、さらに人って何者なのだろうと考え込んでしまいます。しかし人の役割は、他の生物とは、一線を画しています。八編には、人に与えられている、「二つの役割」が記されています。第一に、

『あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち建てられました。それは、あなたに敵対する者のため、敵と復讐する者とをしずめるためでした。』

 神は、子どもたちの口さえも用いて、神に敵対する勢力、すなわち、悪魔と悪霊どもに立ち向かい、打ち破る戦士として、人を造られたのです。
 人類の歴史をみると、戦いの連続です。平和な年は、一年もないはずです。世界のどこかで、ずっと戦っています。

 今週私たちは、パプア・ニューギニアに行かせていただきます。そしてラバウルという町に行きます。お歳を召された方ならば、ご存じだと思います。ラバウルではかつて、本当に激しい戦いがありました。

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 パプア・ニューギニア全体で、日本兵は十八万人死んでいます。どのくらいの兵隊が投入されたかというと約二十万人だそうです。そのうち十八万人が死んだのです。
 今日の午後から、雅也先生がその事に関してのセミナーをしてくださいます。ぜひとも出席してください。日本の近代史は隠されていますから、おかしな方向に歴史は動きやすいのです。日本が今までたどってきた道も、戦いばかりでした。放っておけば、また同じことを繰り返します。特に若い世代が、そのことを知らないと大変なことになりかねません。
 十八万人の若い兵士達が、どうして死んだのでしょうか。太平洋戦争全体では、三百十万人くらいが亡くなったと言われます。しかし、銃弾で倒れたのではなく、ほとんどが戦病死です。そしてその多くが、餓死なのです。食糧がなくて、餓死したのです。そんな痛ましい歴史があるわけです。
 現地は、今でも日本に対しては、複雑な思いがあります。土地に血が流され、被造物も全て傷ついて、今でも島の人たちは苦しみの中にあります。日本に対しては憎しみもあります。やはり日本のクリスチャンたちがそこに行き、和解の働きをする必要があります。

 人類は戦いばかりしていますが、本来は、人と人、民族が民族、国と国が戦うのではなく、目に見えない人類の敵である「悪魔と悪霊どもと戦う」ために造られた存在です。国と国の間に、透明人間のような悪魔の軍団が入って、人類を引き裂いています。なぜなら、人類が見えない敵の勢力に気づいたら、彼らはひとたまりもないからです。「幼子、乳飲み子の口によって力を打ち立てられた」と聖書は告げています。やがてイエスさまは、この箇所を、「賛美」に置き換えられました。幼子たちの賛美によって、敵の力は破られるほど、人類は力強い存在です。目に見えない敵に対して勝利する権限、権威が神から与えられているのです。その事に気づかないように、悪魔は真剣に人と人とを戦わせるのです。
 しかし私たちが真の敵を知って、人と人との間に生じた憎しみや、様々な傷をいやすために働くとき、人類には真の平和がやってくると信じます。ぜひ午後のセミナーにおでかけ下さい。

 実は新城教会には、ラバウルの戦いに参戦して生き残った方がおられます。それがNさんです。Nさんは現在、百歳で病院に入院されています。今回、ラバウルに行く話をしたら、一緒に祈って下さいました。奥様も、近くの施設に入所されています。普段はお二人で、同じ施設に入っておられます。「私たちは和解の集会をラバウルで行いますよ!祈っていてくださいね!」と話しかけたら、そのことを理解して、病床で祈ってくれています。

 実は、私の親族の中にもラバウルで戦死した人がいます。それは、私の家内のおじいさんです。ニューギニア島で病死しました。
 たぶん餓死したのだろうと思います。心が痛いです。自分の親族の中でも、このような方がおられます。今回は、真剣にとりなして祈りたいと願っています。

 現地の方々は、人なつっこい人たちですが、彼らの島々が戦場となって大勢亡くなりました。
 さきほどのNさんですが、所属していた部隊は二万人くらいで、戦場で生き残ったのは五十名だったそうです。戦場から撤退して基地に着いたとき、突然、機銃掃射にあい、夏目さんの右と左の人に弾が当たり、それで二十五名が死んだそうです。最後に生き残ったのは、たったの二十五名だけでした。その一人が夏目さんであったわけで、一般的に言えば無茶苦茶、運がいいというでしょうが、そこに主の計画があったのです。その方が新城教会におられるのは、本当に貴重だと思います。
 今では忘れられたような島ですが、日本の責任として、私たちはとりなし、和解を求めなければいけないです。

 私が最も緊張しているのは、なんと言ってもマラリアをもたらす蚊です。世界最強生物は何かというと、シャチとかライオンではないのです。なんと「蚊」だというのです。人類にとって、蚊が一番怖いのです。

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特に怖いのが、このマラリアを運んでくる蚊です。今回、参加する方々は予防接種を打って、マラリアの予防薬とかを飲んで行かれます。しかし私は、何もやっていません。私は被造物と和解して行きたいと思っています。
 実は私、マラリアがなかったら、生まれていないのです。だから私はマラリアさんに感謝したいと思うのですが、なぜかというと、母は戦時中にインドネシアに教育部隊の一員として遣わされました。父は母より七歳歳下で、戦争には行きませんでした。しかし母は戦争に行き、インドネシアで働きました。インドネシアは、戦時中でも結構良かったようです。天国のインドネシア、地獄のインパール、そして、死んでも帰れないニューギニアと言われたくらい、ニューギニアは最悪だったらしいです。戦病死した人たちの多くが、マラリアで死んでいるのです。
 母は戦争が終わった時、インドネシア兵に捕まえられて、収容所に入れられたそうです。そのとき部隊長から、「大和撫子らしく青酸カリを飲んで死ね」と言われて薬を手渡されたそうです。インドネシア兵が竹槍を持って収容所の周りをとり囲んでいたそうです。
 そこで悪いことに、マラリアにかかったというのです。収容所の中にあった粗末な病院に収容されたそうです。マラリアは四十度くらいの熱が出て、本当に大変らしいのですが、隣のベッドの人が自分も病気なのにもかかわらず一生懸命看病してくれたそうです。今まで会ったことのない、親切な人だなぁと思ったそうです。病気が良くなったときに、隣のベッドの人がこう言ったそうです。「私はクリスチャンです。日本に帰ることができたら、是非、教会に行ってくださいね。」
 母はマラリアを通してクリスチャンと出会ったのです。日本に帰ると、さっそく教会に行ってクリスチャンになり、そこに愛知県の山の中から出てきた男、滝元明と出会い結婚し、私が生まれたのです。
 ということは、この蚊がいなかったら、私は生まれていません。

 日本のたどってきた歴史を振り返れば、本当に馬鹿みたいです。今から考えたら、全員、犬死にみたいなものです。一度しかない青春を戦いにかけて、皆滅びていったのです。
 なぜ、こんな悲惨な戦いがあったのかと言えば、他でもない、人が戦いのために造られた生物だからです。戦いの本能があるわけです。
 しかしこの戦いの本能は、人や国に対して向けられるのではなくて、目に見えない敵に対して向けなければならないのです。イエスさまはこの戦いについて、「強盗たち」、すなわち、「盗み・殺し・滅ぼす存在」、悪魔・悪霊に対して、権威は使われるべきであると語られました。

 そしてもう一つ、人とは何者なのかについて、八章六節。

『あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。』

と記されています。
 十二日にもお話しさせていただきましたが、『あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、』とあります。神が創造された被造物を、人に管理するように命じられたのです。
 ここでは「多く」と訳されています。神さまが十造った中の八かな?九かな?と思いますが、ギリシャ語においては、「諸々」です。「すべて」を、人に手渡したのです。
 人間は神が造った被造物すべてを管理する、管理人として造られたのです。実はこの言葉は、新約聖書ヘブル書二章六節〜八節に引用されています。
 聖書の中に度々引用されたり、特に旧約聖書の内容が新約聖書に引用されている場合、それは人類全体に対するテーマです。ちょっと読んでみたいと思います。

『むしろ、ある個所で、ある人がこうあかししています。「人間が何者だというので、これをみこころに留められるのでしょう。人の子が何者だというので、これを顧みられるのでしょう。あなたは、彼を、御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、彼に栄光と誉れの冠を与え、万物をその足の下に従わせられました。」万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。』

 ここでは「すべて」と訳されています。神が創造された被造物すべてを管理するために、神は人を創造し、人の足下に万物を置いたのです。
 しかし最後の部分でヘブル書の記者は嘆いています。どうも人は管理をちゃんとしていないじゃないか!と嘆いているわけです。
 人とは何者なのでしょう。まとめると二つに集約されます。第一に、人とは、「悪魔と悪霊どもと戦う戦士」です。
 そして第二に、人とは、「被造物すべてを管理する管理人」です。私たち人類は、この二つの大きな役割を、神から担わされているのです。赤ん坊として生まれた時から死ぬ直前まで、この使命は変わることはありません。
 お一人お一人、様々な領域で仕事をされていると思いますが、この二つの土台は、何をするにも、人生において最も大切な土台です。

 ヘブル書の記者は嘆いています。万物を足の下に従わせたけれども、『それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。』と嘆いています。
 しかし、ヘブル書の記者は続けて、次のように語っています。二章九節、

『ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。』

 「栄光と誉れの冠」とは何か。それは、すべての被造物を管理する権威権であると言われます。人は被造物を管理していないけれど、「イエスさまは違うぞ!」と語っているわけです。

 イエスさまはどういうお方なのか。それは、私たち人類の代表者です。本来、人類がやらなければならないことを、自ら実行してくださったお方、それがイエスさまです。
 イエスさまの行動を見る時、まさしくそれは主を信じる者たち、クリスチャンがやらなければならない行動でした。
 福音書の中に、イエスさまがなされた様々な働きが記録されています。それをまとめると、二つにまとめる事が出来ます。イエスさまが戦われたのは、目に見えない敵である、悪魔と悪霊どもでした。そしてもう一つは、神が造られた被造物を管理し、修理する働きであることが分かります。

 マタイの福音書八章・九章を見ると、イエスさまが行われた「十の奇跡」が記録されています。それらはイエスさまが神の子であることを証明する奇跡そのものであったわけですが、その中身の多くは、病をいやす働きでした。人が傷つき、壊れたとき、イエスさまはそれを修理されました。これは管理の働きです。
 そしてもう一つは、自然界に対しての権限を持っておられたことが分かります。 同時に、背後に働く、悪魔と悪霊どもと激しく戦われました。

 イエスさまが自然界に対して権限を使われた事実が、マタイの福音書八章二十三~二十六節に記録されています。

『イエスが舟にお乗りになると、弟子たちも従った。すると、見よ、湖に大暴風が起こって、舟は大波をかぶった。ところが、イエスは眠っておられた。弟子たちはイエスのみもとに来て、イエスを起こして言った。「主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです。」イエスは言われた。「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。』

 イエスさまと弟子たちが湖を渡って、ゲラサという地方に渡る途中、大風が吹いて舟があやうく沈没しそうになりました。そんなただ中、イエスさまは眠っていたというのです。すごいですね。普通なら眠ることなんてできないと思います。しかし、イエスさまは管理人ですから、管理人が安らぐ場所は仕事場です。それは大暴風の中でした。被造物の管理人として、暴風の中でも安らかに眠ることができる余裕を、イエスさまのように与えられたら最高です。

 その中でイエスさまが行われたことは、大暴風に向かって「だまれ!静まれ!」と叫ばれた事です。すると大暴風が、ぴたっと止まって大なぎとなったのです。そして、ゲラサの地についた時に出てきたのが、「レギオン」という、悪霊どもの軍団でした。自然界だけが荒れ狂ったように感じますが、前後を見ていきますと、実に怪しい風です。
 ゲラサは農耕地帯で、そこに祀られていたのは「デメテル」という、ギリシャ神話の女神でした。この女神は自然界を支配するというふれ込みの女神で、ゲラサの人々はその女神を真剣に拝んでいたわけです。
 ヨブ記を見ると、悪魔が神の前から出て行ったとき、大風が吹いて、家が潰れてヨブの子どもたちが死んだとあります。自然界の荒れ狂うさまの中に、霊的存在との関わりを見いだします。
 しかしイエスさまが持っていた権威は、悪魔と戦い、被造物を管理する二つでしたから、「だまれ!静まれ!」という命令は、両者に対するものであったと思われます。嵐と同時に、背後で蠢く敵にも向けられたのです。本来ならば、これは、クリスチャンに与えられている権威であり、使命です。

 先週も激しい嵐が来ました。関西のほうでは、かなりの被害が出たみたいです。この付近は守られ、関西の方々には申し訳ない気がします。
 クリスチャンが自然現象に対して権限を行使したら、台風でも、なんであれ、本来は人の足下にひれふさなければならないのです。
 災害王国日本の未来は、教会にかかっていると言っても過言ではありません。私たちクリスチャンが管理人である事に気づいて、これからも起こるであろう自然災害と呼ばれるものを管理する必要があります。しかし私は「自然」という言葉は、好きではありません。自ら然りで、進化論的な言葉だからです。
 クリスチャンに万物は任されているのですから、しっかりと管理する宣言をしなければならないのです。

 実はマタイの福音書で、「大暴風」と訳されている原語は、興味深い言葉が使われています。マタイ八章二十四節に、

『すると、見よ、湖に大暴風が起こって、舟は大波をかぶった。』

と記されています。大暴風と訳してあるのですが、ギリシャ語で読むと「セイスモス・メガス」という言葉が使われています。これは新約聖書中に十四箇所出てきますが、マタイの八章以外はすべて、「地震」です。素直に訳せば、「湖に大地震が起こって」となります。
 もしかすると、ガリラヤ湖に大地震が起こり、津波みたいのが来て舟が沈みそうになったのかもしれません。それはあくまで推測ですが、いずれにしても「地震」という言葉が使われていますから、もしかしたら日本のクリスチャンのために、「地震」という言葉を使ってくれたのかなと思います。
 先週も、北海道で震度七の地震が起こり、大きな被害が出ています。
 崖崩れが起こって、何十人もの方々が、犠牲となっています。しかしそれは人事ではなく、明日は我が身かという危機感があります。それらは日本のどこに起こっても、おかしくない、文句は言えない状態だからです。このような大地震が起こったら、次の瞬間、我々の生活は全く消え、全く違った生活になります。

 北海道は、先日、リバイバルミッション二〇一八で巡回させていただいた地域でした。すぐさま教会に連絡を取ったのですが、全く連絡が取れないのです。私の友人の牧師たちも大勢います。LINEしても返って来ませんでした。停電になって、スマホも全く機能しなくなり、通信の手段がなかったというのです。水はないし、食糧もそこをついて、大変だったというわけです。普通は、「どうですか?」と聞いたら、「まぁまぁ、大丈夫ですよ」という答えを期待しますが、そういう答えは返って来ませんでした。「大変ですから、祈ってください」という答えが来ました。相当大変なんだろうと思いました。北海道の方々のために、祈らなければなりません。

 しかし明日、または次の瞬間、何が起こるか分からない、同じ列島の上に私たちも住んでいます。私たち人類が被造物の管理人であることを理解して、すべての被造物に対して命じなければいけないのです。
 どうやって命じるのかと言ったら、いつも語っていますように、「彼らに主の名をほめたたえさせる」ことです。すべての被造物は、本来、神を賛美するために造られています。しかし人間の罪のゆえに、また、悪しき力の覆いによって、被造物が賛美するのをやめてしまいました。被造物に覆いをかけている暗闇の力を一掃し、彼らに主の名をほめたたえろ!と宣言するのが、重要な働きです。
 町の地下に、どんな断層があるとしても、断層だって神が造られたわけですから、人や他の被造物に害を与えるために造られたはずはないです。主をほめたたえるために造られたならば、地面に向かって、「主を賛美しろ!地震など起こすことはできない!」と、イエスさまが大暴風、言い換えれば「大地震」に対して、「だまれ!静まれ!」と宣言されたように命じるべきです。そのときに、大なぎになったように、私たちは管理人として、責務を果たすことを教えられます。
 今いろんな災害が日本に起こっていますが、この時にこそ、主を信じる者たちが重要です。大きな役割が任されているのです。

 振り返ってみれば、一九九〇年代に入ってから、日本に大きな災害が集中して起こるようになりました。しかし大災害を前にして、一九九一年の塩原宣言で、日本の教会全体が霊的戦いの宣言をした事を、忘れてはならないのです。その宣言は、大きなことだったと思います。続く一九九二年から新城で霊的戦いが始まり、九三年には全日本に霊的戦いを呼び覚ます、甲子園ミッションが開催されました。これは日本全体に対する、みこころがあるはずです。国の未来に関して、重要な地位を占めているのが、教会であり、クリスチャンであるということに気づかなければならないです。
 私たちが霊的戦いの戦士であり、同時に、被造物の管理人であることをしっかりと土台に据えて、毎日を歩むときに、国の歴史も、人生も守られると思います。

 私たちが管理人として働くために、戦いの勇士として働くためには、足下を固めなければなりません。
 この霊的戦いの中で、最も激しい戦いの領域は、どこであるかに関して、以前にもお話しさせていただきました。
 それがどこかというと、「経済の領域」です。私たちにとって切っても切れない経済の領域、そこに最も激しい霊的戦いが潜んでいるのです。意外なところに、最も強い、敵の勢力が展開しているのです。

 ルカの福音書十六章十節〜十四節を見ますと、経済の領域が戦いの領域である事を、イエスさまが語られています。
 ルカの福音書を十六章、十七章、十八章、十九章と連続して見ていきますと、イエスさまが語られているテーマは、ただ一つです。それは、経済のことを語られています。やがてイエスさまはエルサレムに行かれて、都を見て、都のために泣かれたという記事に行き着きます。
 ルカの福音書十九章四十一~四十六節。

『エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、言われた。「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」宮に入られたイエスは、商売人たちを追い出し始め、こう言われた。「『わたしの家は、祈りの家でなければならない』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にした。」』

 イエスさまはエルサレムを見て、どうして泣かれたのかを、ルカの福音書十六章から十九章に記されている一連の流れを見ると理解できます。
 十六章一節を見ると、まず出てくるのが、『ある金持ちにひとりの管理人がいた。』という「金持ち」です。
 そして十六章十九節にまた、『ある金持ちがいた。』と、ラザロと金持ちの話が出てきます。
 そして十八章に来ると、二十五節、『金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。』と言っています。
 そして十九章八節から、ザアカイという金持ちが、自分の持ち物の半分を貧しい人たちに施したら、「きょう、救いがこの家に来ました。」と言われました。

 この一連の箇所で語られているのは、「富裕層対貧困層」の対比です。イエスさまがなぜ、エルサレムを見て激しく泣かれたのかについて、以前、イスラエルに行ったとき、ガイドさんが説明してくれました。
 エルサレムは神が選ばれた町であり、やがてイエスさまが再び帰られる時には、世界の首都となる重要な町です。しかし、イエスさまが行かれたら、神の町どころか、大変な町になっていたのです。どんな町になっていたのかというと、これが当時のエルサレムを模型で造ったものですが、オリーブ山から見た光景です。

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 エルサレムが格差社会になっていたのです。上のほうには富裕層、下には貧困層が住んでおり、特に、神殿に仕える祭司階級が富裕層とつながり、貧乏な農民達から、小銭さえも搾り取るようなことが行われていたのです。

 今月号の「舟の右側」という雑誌に、私も記事を書いているのですが、その中で山口先生という方が、このことについて書いていました。
 イエスさまの敵はパリサイ人、律法学者でしたが、さらなる敵はこの神殿を牛耳っていた祭司階級たちであったと論じていました。そのことを知らないと、聖書を正しく理解できないとありました。

 富裕層が宗教家たちとつながって、一般の農民たちにひどい圧力をかけていたのです。こんな感じでしょうか。

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 そのような社会がエルサレムにできていたことに対して、イエスさまは嘆かれたのです。そして、最も強い、悪霊の軍団は経済の中にあり、格差社会を造り出す為に激しく働いているのです。

 そう考えるとどうでしょうか。今の時代はまさしく「格差社会」です。すごい金持ちもいるけれど、一方では、貧困で苦しんでいる人たちも多くいます。いくら働いても、もれていく人たちが多くいます。アジア諸国に行きますと、大変な格差の中に生活している人たちが多くおられます。
 私は八月にアメリカに行きましたが、アメリカの格差もかなりたいへんです。富裕層の人たちは、信じられない程、豊かな生活をしていますが、貧困の方々は逆で、本当に大変な中にあるわけです。
 日本もそうです。子どもの貧困も問題になっています。六人に一人の子どもが貧困家庭から学校に来ていると言われます。
 このような社会構造のただ中に、イエスさまは帰って来られるのです。それが聖書の告げている預言です。富裕層と貧困層の社会になったなら、イエスさまが帰られる時期は近いのです。
 私たちが身を置いている経済の世界、それこそが、霊的戦いの中、最も激しい領域であることを、知らなければいけません。
 現代は、経済のためなら、なんでもする世界です。ダニエルが解き明かしたネブカデネザルの夢も、足首が鉄と粘土でできていました。その時、山から人手によらずに石が切り出されて、巨像は粉々に砕けたのです。これは強い国と弱い国が、あたかもひとつかのようになっている時代でした。
 TPPなんかも、経済のためならば、歴史だって宗教だって言語だって、すべて越えてしまおうという構想です。このような中、私たちが経済界に働く、暗闇の力に立ち向かい、ルカ十六章にあるように決断しなければなりません。十六章十三節〜十四節、

『しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」さて、金の好きなパリサイ人たちが、一部始終を聞いて、イエスをあざ笑っていた。』

 『神にも仕え、また富にも仕える』という、「仕える」という言葉は、ちょっと弱く訳してありますが、「奴隷になる」という意味です。
 私たちは神の奴隷なのか、富の奴隷、マモン神の奴隷なのかの選択です。マモンとは当時の、稲荷だとか、恵比寿のような経済神です。その奴隷になるのか、二つに一つだ!と、厳しい言葉を語られています。

 私たちが神の奴隷、神の完全な支配下にあるためには、経済界の中の暗闇の力に対して、しっかりと立ち向かう態度が必要です。教会で献金があることは、大事なことだと思います。なぜならば、不正の富が用いられて、神の国の働きが広がるからです。
 勝ち取らせていただいた不正の富を、献金の時間に神さまに手渡すのは、これはマモンの力からの解放の宣言です。
 私たちが管理しなければならないのは、経済の領域です。そうでないと、足下をすくわれます。
 日本人は前にもお話ししましたように、金の奴隷的傾向が強い国民です。日本人の傾向は、金を貯め込む傾向があるからです。
 日米金融資産構成比率を見ると、日本では五十パーセント以上を現金か預金で持っています。しかしアメリカは十三パーセントくらいしか、現金・預金はないのです。なぜかというと、投資に回すからです。
 日本人が、なかなか投資に回せないのは、「金が自分の未来を守ってくれる」という、金を盾にし、主人として守ってもらおうとする考えがあるからです。
 なぜ、金の奴隷になるのかについても、以前に話したことがありますが、金はあくまでも手段なのですが、目的と手段が入れ替わると、人は奴隷になるとある番組の中でやっていました。
 チェコの経済学者が、「金が道具でなくて目的になってしまう。いつの間にか貯め込むことが喜びになってしまう。」「いつしか金が多ければ多いほど、より未来は安心だと感じる。それで人々は過剰に安心を求めてしまう。」
 その番組では、「人は貯蓄によって金の奴隷となる」と結論付けていました。

 知らないうちに、金に支配される構図が周囲にあるのです。そこには最も強い暗闇の力があります。金は決して私たちの未来を守ってくれません。イエスさまが私たちを守って下さいます。主が、私たちの人生を守ってくださると宣言することは大切です。これは管理の領域の中、最も重要かと思います。
 私たちが毎週、献金するときは、「イエスさまが王である!」という宣言です。不正の富を主に用いていただく瞬間でもあるわけです。

 人類が、神から与えられている領域、任されている領域は、悪魔・悪霊どもと戦う戦士であり、被造物すべてを管理する管理人です。そんな中、経済という領域も、しっかりと管理しなければいけないのです。
 「幼子と乳飲み子の口によって力を打ち立てられました」と語られましたが、富裕層たちが富を増やす為に、最も重要な場所として占拠していたのが、神の宮でした。そこが強盗の巣になっていたのです。
 しかし、子どもたちがその中で賛美したのです。最後に、マタイの福音書二十一章十五~十六節を読みたいと思います。

『ところが、祭司長、律法学者たちは、イエスのなさった驚くべきいろいろのことを見、また宮の中で子どもたちが「ダビデの子にホサナ」と言って叫んでいるのを見て腹を立てた。そしてイエスに言った。「あなたは、子どもたちが何と言っているか、お聞きですか。」イエスは言われた。「聞いています。『あなたは幼子と乳飲み子たちの口に賛美を用意された』とあるのを、あなたがたは読まなかったのですか。」』

 悪の巣窟であった宮の中で、子どもたちが賛美したのです。なんの経済活動もしない子どもたちが賛美したことによって、強盗の巣、すなわち経済の中に働いているマモンの力が打ち破られたのは、なんとも痛快な勝利です。これは詩篇八篇の引用でした。

 今年、主は、「すべての被造物を賛美させろ!」と教会に語ってくださっていますが、私たちはさらに、賛美の力をいただいて、すべての被造物を主のもとに引き出し、賛美させるために働いていきたいと思います。
 今週も、一人ひとりが、主の勇士として働くことができるよう、祈りましょう。一言祈ります。

 ハレルヤ、天の父なる神さま。み名をあがめて心から感謝をいたします。あなたが私たちを造ってくださり、私たちを管理人として、また、戦いの勇士として用いてくださることを心から感謝をいたします。今からの聖餐式を祝福してください。イエスさまとひとつとなって、イエスさまが管理人であったのと同じように、私たちもイエスさまと同じ管理人として働くことができますように。イエスさまのみ名によって、聖餐式を始めます。アーメン。