「何を与えることができるでしょうか?」

2018年9月16(日)
新城教会牧師 公畑フェルナンド
使徒の働き20章35節

『このように労苦して弱いものを助けなければならいこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである。』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。

 ハレルヤ!感謝します。いつも私のために、インターナショナル部会のために祈ってくださり、本当に心から感謝します。今日、順先生はラバウルでここにいないですが、私も何か月かぶりにここでメッセージができること、本当にうれしく思います。

 八月の中旬に、インターナショナル部会では洗礼式があり、九人の方が洗礼を受けられました。そのうち五人は新城教会の礼拝に来ている方で、四人は浜松の礼拝に来られている方です。本当は川に行き、洗礼式とバーベキューでの交わりを皆で持つ予定でしたが、連日の雨により、またその当日も雨が降っていたので、教会で行われました。ちょうど水曜日だったので、水曜礼拝が教会であったのですが、同じ時に集会を持つことになってしまい、ちょっと大変かなと思いましたが、とても恵まれたときになりました。写真がありますのでお見せしたいと思います。

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 これが九人の洗礼を受けられた兄弟姉妹です。

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 一人のバプテスマを受けた兄弟です。

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 ホールで水曜礼拝が行われていたので、私たちは少し上で集会を持ちました。下の集会にとって少しうるさかったかな、と思います。

 また、八月最後の日曜日には伝道集会が行われました。「アイスクリームパーティー」と題して行われました。そこでは特別プログラムとして、ダンスがあり、また救いのメッセージが語られ、集会の最後にはいろいろなアイスクリーム、かき氷が出されました。またいろいろな種類のコーヒーやゲームも用意されました。そこで何人かの新しい方々が救いのメッセージを聞くことができました!その写真もあります。

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 ダンスですね。

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 これが集会最後の交わりの時です。

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 「新城バックス」と題して、この日はいろいろと出しました。
これが最近行われたインターナショナル集会の報告です。

 それではメッセージにいきたいと思います。いつも聖書からのメッセージを聞くたびに、私たちは信仰の挑戦をしようと心に決めます。多くの場合、私たちはメッセージのタイトルを聞いただけでも、信仰によるチャレンジをしようという気になります。またメッセージのなかで、神さまは信仰による一歩を踏み出すようにと、直接、私たちに語られることもあります。ですから今日のメッセージもよく聞いていただき、神さまが何を私たちに求めておられるかということをキャッチしていただきたいと思います。
 隣の人に言ってください。「寝ないでね」と。「今日、神さまがあなたにみことばを準備していますよ」と言ってください。

 今日のメッセージのタイトルは、「私たちは一体、何を与えることができるでしょうか?」というタイトルです。私たちは皆、人に何かあげるよりも、もらうほうがいいと思います。あなたも同じように考えるかわかりませんが、しかし、いつも人に与えて祝福するほうが素晴らしいと思いませんか?
 今日最初にお読みしたみことばでも「受けるよりも与えるほうが幸いである」とありました。この「幸いである」というギリシャ語は「マカリス」という言葉からきています。そしてこの「マカリス」という言葉は「マカール」という動詞からきている言葉です。そしてこの「マカール」というギリシャ語は、「最高に祝福される」という意味があります。
 ですからこのみことばの意味が、本来言わんとしていることは、「神さまにとっては、受けるよりも与えるほうが最高に祝福される」という意味なのです!そして、また与える人には、神さまがそれ以上に与えてくださるということです。

 それではこれから、この「与える」ということがもたらす祝福をいくつか見ていきましょう。そのために使徒働きからお話をしたいと思います。
 聖書によると、ペテロとヨハネは祈りのために宮に上って行くところでした。彼らがそこに着くと、宮の門のところで一人の男と出会います。聖書によると、この男は毎日、宮の門に運ばれて来たとあります。それは歩くことができなかったからです。そこで施しを求めていました。また聖書は、この男は四十歳くらいであったと書いています。ですから、どれだけ長い年月、この男が施しを求めていたか考えてみてください。
 そこに二人の男たちがやってきます。何が起こったか、聖書を読んでみましょう。使徒の働き三章三節〜六節です。

『彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい」と言った。男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」』

 この男は一体何を求めていたと思いますか?お金です!彼は希望がなかったので、お金を待ち望んでいました。そして現代でもお金を待ち望んでいる人が大勢います。なぜならお金が即座の解決策であると信じているからです。彼はお金さえもらえば、その日の糧を得ることができたのです。しかしそれでは翌日には何も残りません!この男はおそらく希望を失っていたことでしょう。なぜなら、もう四十年過ぎていたからです。
 しかしこの男に驚くべきことが起こります。彼はイエスさまのうわさを聞いたことがあったと推測されます。その当時、イエスさまは実際そこにいたので、彼はイエスさまの評判を聞いていたと思います。しかし実際にイエスさまにお会いしたことはなかったと思います。また、知り合いにイエスさまの前に連れて行ってもらうこともありませんでした。おそらく彼は、自分がいやされる機会はもうないだろうと思っていたと思います。
 ですから、この時、ペテロとヨハネにあった時も、いやしを受けるという希望はなく、お金を待っていたのです。お金だけを待っていたのです。
 そして二人のとても貧しい男たちに出会います。聖書にペテロが「私には金銀はない」と言っていますので、お金がない、貧乏だったと考えられます。
ペテロは金も銀も持ってはいませんでしたけれども、しかし自分の師匠から学んだものがありました。彼はイエスさまと共に三年間過ごしました。三年間イエスさまと共に昼も夜も一緒にいました。そして彼はイエスさまのみわざを見ることができたのです。
 では、イエスさまの何を見ていたのでしょうか?聖書には、イエスさまは多くの人に食事を与えたと書いてあります。イエスさまが、人にごちそうするときに一番好きなメニューは何であったでしょうか?パンと…なんでしたか?パンと魚ですね!つまり、イエスさまが人々に食事を与えることをペテロは実際に見ていたのです!
 イエスさまは他に何をしたでしょう?イエスさまは人々をいやしました。み手を伸べて手を置き、人をいやしました。イエスさまはいつもでも人々をいやす用意ができていました。

 しかしそれ以外にもイエスさまがしたことがあります。自分に向かってくる全ての人にお応えになったことです。聖書のある箇所で、イエスさまは弟子たちとだけになりたかったと書いています。他の誰とも会いたくなかったのですが、この時は体が疲れていたからではないかと推測します。
 しかしすぐに人々が集まってきました。もしあなただったらこの場合、どうしますか?たぶん私たちだったら、「シー。電気消して!誰もいないよ。誰もいない!」というところでしょう。しかしイエスさまはそうなさいませんでした。イエスさまは彼らを受け入れ、対応されたのです。

 イエスさまは人々を哀れみ、彼らに手を伸ばされました。それはいつもイエスさまがその人たちに手を伸ばされたということです。らい病人を抱きしめていやしました。彼は大胆にもそれをした唯一の人です。社会から拒絶された人たちを受け入れました。あ、おかしい人たちだ、といわれた人たちにも話しかけられました。それがイエスさまの愛だからです。一人一人の個人的な必要をイエスさまは満たしました。

 ペテロは、今私がお話ししたこと以上の、いろいろなことをイエスさまと共に体験しました。その中でも、特に、私が語りたいと思うことがあります。それは、ペテロに「税金を払うように」とされたことです。「行って、湖で魚を釣りなさい。その魚の口に銀貨を見つけるから、それをとって、私とあなたの分として納めなさい。」とイエスさまは言われました。イエスさまは税金を払うようにペテロを促しました。イエスさまは、税金を払うようにペテロを促したのです!これは私にとってとても想像力豊かな奇跡だと感じます。銀貨が魚の口に入っていたのですから!とても想像力豊かな奇跡でしょう。

 それではペテロがイエスさまと共にいた三年の間、一体何が起こったでしょう?ペテロは自分の師匠であるイエスさまが、大きなみわざを行うことができるということを理解しました。そしてこの時、イエスさまから受けたものを与えるときが来たことを理解したのでしょう。
 ですから足の不自由な男に、「私にあるものをあげよう。」と言ったのです。考えてみてください。この足の不自由な男にとって、彼が求めているお金よりも、いやされることに価値があるのではないでしょうか?そうです!お金よりもずっといやしのほうに価値があったのです。いやされれば、この男は次の日からそこに座っていなくてもよくなるのです!歩くことができるようになるからです。
 私はこの奇跡が大好きです。なぜなら、立ち上がった後、この男が一番初めにしたことは、宮に行って神さまを礼拝したと書いてあるからです。自分の身に起こったことを人々に言いに行ったのではなく、宮に行って神さまがしてくださったことに感謝したのです。これがイエスさまの奇跡なのです。

 あなたにお伺いしますが、私たちも同じことを言えるでしょうか?「私にあるものをあげよう」と言えますか?それとも、「私にあるものは私だけのものだから、何も要求しないで」と言いますか?どちらを言うでしょうか?

 考えてみてください。今日、人々は何を求めているでしょう?お金でしょうか、それとも全てを与えることができる神さまでしょうか?医者を必要としているのでしょうか、いやしてくださる神さまでしょうか?人の愛でしょうか、それとも傷ついた心を愛していやしてくださる神さまでしょうか?話を聞いてほしいのでしょうか、それとも一日二十四時間、関心をもって祝福してくださる神さまを必要としているのでしょうか?
本当に人々に必要なことはどちらでしょう?

 与えることには多くの祝福が伴います。そして私が言おうとしていることはすべて聖書的な事柄です。私が経験したことをお話するわけではありません。
すべて聖書に書いてあることです。

与えることで受ける祝福は、

一.聖書には、「与えれば受ける」と書いてあります。わずかにまくなら、収穫はどうなるでしょう。わずかに刈り取るのです。しかし豊かにまくなら、豊かに刈り取るのです。どちらの場合も収穫することには変わりはありません。少し収穫するか多く収穫するかなのです。これは聖書の法則です。あなたはどちらの収穫をしたいですか?

二.神さまは豊かな恵みをもって、どんな状況下でも、必要なものをすべて与えてくださる方です。つまり、私たちは不足することはありません。神さまは、あなたが必要とする全てのものを与えてくださいます。

三.聖書はまた、もし今日、あなたが豊かであり、そして誰かが困っているのを見たなら、その人を助けなさい、気前良くなりなさいと語っています。なぜなら明日には、その困っている人は豊かになり、逆にあなたが砂漠のような時を過ごし、豊かではなくなるかもしれないのです。そのとき、前にあなたが彼に助けるために与えるなら、今その人はあなたに対して何をするでしょうか?もちろんあなたに与えるでしょう。それは聖書の平等性です。つまり、今日私は与え、明日私は受けるのです。

四.また私たちが与えるとき、聖書には「人々が神をほめたたえるようになる」と書いてあります。神を知らない人でも、神に感謝するのです。

五.神は喜びをもって与える人を愛します。それには私たちが与えるときに、神さまが喜ぶ方法をとらなければなりません。何も与えない人を神さまは愛さないとは言いません。神さまその両者を愛しています。与える人、与えない人その両者を愛しています。しかし喜びをもって与える人には、与えない人よりも、神さまの中の何かを呼び起こさせるのです。神さまは私たちが喜びをもって与えることを好むのです。悪い感情をもって与えるのではなく、怒ったり、強制されてするものではありません。

六.気前よく与えることです。神さまは私たちが気前よく与えることを好みます。なぜなら神ご自身が気前の良い方であるからです。例えば、あなたが誰かのために何かを買うとき、自分がして欲しいように、相手のために何を買うか決めますか?それとも百円ショップで適当なものを買ってきますか?安く済むからと百円ショップで買いますか?神さまは私たちに、気前良くなってほしいと願っています。

七.神さまは、私たちが決断をもって与えることを好みます。なぜなら私たちは時に感情的に動くからです。あなたは、たぶんこのメッセージを聞いた後、心燃えてここから出ていくかもしれません。そして姑に何かあげよう、舅を祝福しようと思うかもしれません。だいたいお姑さんやお舅さんとあまり関係が良くないのでこういう例を出すのですが、でも今日このメッセージを聞いて「受けるより与えるほうが祝福されるから舅さんに何かあげよう!」と考えるかもしれませんが、しかしもし今日あなたが何かあげないとしたなら、月曜日、火曜日、金曜日になると、お舅さんやお姑さんに何かあげるかどうかを考え直さないでしょうか?いや、やめよう。そのお金貯金しよう!と考え直さないでしょうか?それはなぜでしょうか?それは一時的な感情で物事を考えるからで、決断ではないからです。神さまは決断をもって人に与える人を好みます。もしそれをしようとしているなら、ぜひ、してください!

八.ルカによる福音書六章三十八節をお読みしたいと思います。

『与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」』

 あなたが与える時、神さまは一体何をなさるでしょう?あなたにどのようにお返しになるでしょう?まったく同じ量りによって返されるのです。しかし神さまはとても気前の良い方であるので、それに加えて、他のものも一緒にくださいます。神さまにとって、誰かに与える人には、神の祝福の手を伸ばさずにはいられないのです。

 しかしその祝福に対する敵がいると思います。与えるという祝福に対する敵がいます。そして時に私たちは、神さまが望まれるような生活をせず、むしろその敵と一緒に暮らしていることがあるのです。それは神さまの祝福を奪います。私たちはそれを自分の人生から取り除かなくてはなりません。それは何でしょうか?

 ―貧乏人や欠乏の考え方です。それは敵です。その考え方はあなたの言葉に現れてきます。いつも考えるのは、「私にはない。できない。いつか旅行に行きたいけれど、もし旅行に行ったらいくらお金を使うのだろうか?」そういったのが貧乏人というか欠乏の考え方なのです。

 ―そして他の敵はエゴイズムです。エゴイズムは他人ではなく自分のことだけを考えます。自分は自分本位だと感じますか?私はこのメッセージの準備をしている時に、私の中にもそのようなエゴイズムがあると気づきました。それで私もそれを打ち砕くことをしました。

 ―また他の敵、それはケチです。与えることはケチを打ち砕くことだと知っていましたか?欠乏を打ち砕くと共に、経済の呪いも打ち砕くのです。経済の呪いを打ち砕くことができます。しかし予防策を持つ必要があります。その予防策とは人々に与えることです。それこそが、呪いを打ち砕くことなのです。申命記十五章には、ケチにならないで、気前良くなりなさいと書いてあります。そうすれば、主はあなたのすることその仕事を祝福してくださると書いてあります。

 ―そして他の敵、それは負債です。負債があるとそればかりに目を留めがちになります。そして他人を見ることができません。そしていつでも、どんな時でも支払いのことばかり考えるようになります。そして他人を祝福することができません。他人に対して負債を負っているからです。

 ―またこの祝福に対する敵は憶測です。私にはわかりませんが、いつか神さまはあなたの心の中に、誰かを祝福をするように気持ちを置いたことがあるかもしれません。「あの人を祝福したい」という気持ちになったことがあるかもしれません。しかしあなたはこう考え始めます。「でも主よ、見てください。彼は物を持っていますよ!この人は何も必要としていないのではないですか?」そう考えるようになります。しかし、もし主があなたの心にその思いを置かれたのなら、神さまが言うことを成し遂げてください。あなたの隣の人を見てください。あなたはこの人が朝ご飯を食べたかどうかということを知りません。「でも牧師先生、この人はいい身なりをしていますよ!」とあなたは言うかもしれません。もちろんいい身なりをすることはできるかもしれませんが、もしかしておなかが空いているかもしれないでしょう。あなたにはわからないのです。もし神さまがその人を祝福しなさい!と言われるのであれば、どうぞそれをしてください。

 それでは、いったい誰を助ければよいのでしょうか?今日私たちが勉強したとおりに、ペテロとヨハネのところで学んだとおりに、「すべての人を」です。
 しかし、考えて欲しいのです。与える時には、目的をもって与えるべきです。目的をもって与えるとは、人に物質的なものを与えるのと同時に、イエスさまを証しすることです。申命記十五章七~八節をお読みします。

『あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地で、あなたのどの町囲みのうちででも、あなたの兄弟のひとりが、もし貧しかったなら、その貧しい兄弟に対して、あなたの心を閉じてはならない。また手を閉じてはならない。進んであなたの手を彼に開き、その必要としているものを十分に貸し与えなければならない。』

 このみことばでは、一体私たちは誰を助ければ良いと書いてありますか?教会の兄弟姉妹たちです。またはあなたの家庭集会のメンバーのためです。そうです、もちろん全ての人を助けるべきですが、しかし、私の教会の兄弟姉妹、信仰を分かち合っている兄弟姉妹たち、同じ教会に集う人たち、その人たちがまず優先されるべきです。まずその人たちを助けます。なぜならこれは聖書的なことだからです。

 最後にマタイ十章七節~八節をお読みします。

『行って、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊を追い出しなさい。あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。』

 何回このみことばを読みましたか?そして何回このみことばを実践、実行したでしょうか?あなたにお聞きします。あなたは出て行って、病人のために行って、その人のために祈りますか?私はこの質問を何度もしたことがあります。そしてだいたいこのような答えが返ってきます。「でも、もしいやされなかったらどうするのですか?」という答えが返ってきます。しかしあなたがいやすのではありません。それは神さまがいやすのです。それは聖書にある教えです。
 ツァラアトをいやすためには、その人に触れなければならないのです!その人の所に行って、その人の上に手を置いて、触れて、そして祈りをしなければなりません。その人がいやされるかいやされないかというのは、神さまの問題であって、私たちはただ聖書がいう通りに実行するだけです。

 またこのみことばにあるように、あなたにお聞きしたいと思います。「最近、何人の方をよみがえらせましたか?」え〜?牧師先生、何を言ってるんですか?と思われるかもしれません。これは肉体的な死について語っているとは思いますが、霊的な意味もあります。この世の中には死んでいるような人たちがたくさんいます。愛されたいと切に願っている人たちがいます。あなたがその人たちを愛し、そして同時にイエスさまを伝えるのです。
 これで終わりにしたいと思いますが、最後にお聞きしたいと思います。今日、または最近、あなたは何を受けましたか?そしてあなたが最近受けたことで人に与えられるものは一体何でしょうか?
 ペテロは「金銀は私にはない。」と言いました。「しかし、私にあるものをあげよう。」と言いました。私たちは何を持っているでしょう?それは私たちが自分のために持っているものではなくて、他の人に与えるものです。どうぞ、立ち上がってください。お祈りしましょう。

 二、三分取って考えてください。そして私たちに与えてくださっている恵みについて神さまに感謝しましょう。豊かに祝福してくださったことを感謝しましょう。健康であることを感謝しましょう。また神さまを礼拝する教会があることを感謝しましょう。自分の家族のことを感謝しましょう。仕事のことを感謝しましょう。そのほか神さまが与えてくださったたくさんのことを神さまに感謝しましょう!何も今、神さまに求めないでください。ただ感謝しましょう。お祈りしたいと思います。

 主よ、あなたが私たちに与えてくださったすべてのことについて感謝します。あなたはイエスさまによって救いを与えてくださいました。しかしこの地上にいる間にも、あなたは健康を与えてくださいます。仕事を与えてくださいます。家族を与えてくださいます。そして礼拝する教会を与えてくださいました。豊かに恵みを与えてくださることを感謝します。私たちは大金持ちではありませんが、しかし私たちに不足するもの、足らないものはありません。すべてのことを感謝します。
 しかし同時に私たちを赦してください。自己中心的であったことを許してください。また人に対する敏感さを失っていたことを赦してください。あなたが望んでおられるように人に与えなかったことを赦してください。人に対して哀れみの気持ちを与えてください。また人が必要としていることに敏感になることができますように。今日、すべての自己中心的な考えを断ち切ります。ケチな心を断ち切ります。また貧乏人の考え方も断ち切ります。お金に対する偶像礼拝を断ち切ります!何かを必要としている人たちに与えます。私が持っているものを人に与えることを宣言します。私たちにはイエスさまがいることを感謝します。人にイエスさまを伝えます。
 また全ての臆病を打ち砕きます。また私たちが臆病で何もできないと信じさせているその働きを打ち砕きます。気前の良いものになることを宣言します。イエスさまの名前によって豊かに人に与えます。他の人を祝福することを決心します。
 私たちにあなたの臨在を注いでください。出て行って病人の上に手を置き、いやしを宣言します。いやしを宣言します。出て行って死んでいる者をよみがえらせます。霊的に死んでいる人たちの所に行きます。あなたが私に既に与えてくださったものを人々に与えます。どうぞ新しい油注ぎを与えてください。新しい人に対する敏感さを与えてください。私の力を新しくしてください。
 そして私がとりなしをすることができるように助けてください。まだあと三日、ラバウルにいる兄弟姉妹のためにとりなしをすることができますように。その地で勝利をすることができるように、祈り続けることができるように、またその地のいやしについて祈り続けることができますように。
 また週報にも出ているように、多くの人たちが健康面での祈りを必要としています。毎日彼らのために私たちが祈ることができますように。私の力を新しくしてください。自己中心の考え方を取ってください。そして他人のことを思いやることができるようにしてください。
 また私の宗教的なところを取り去ってください。過去を取り去ってください。私の心の頑なな部分を取り去ってください。そして私を新しくしてください。一人ひとり、ここにいる人たちに聖霊さまの臨在を吹かせてください。私たちを新しくしてください。あなたに似た者になりたいのです!あなたが見るように人生を見たいのです。私たちを助けてください。イエスさまの名前によってお祈りします。アーメン。