「神の国を押し進める力」

2018年10月14(日)
新城教会牧師 四元雅也
エペソ人への手紙6章18節

『すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。』

 ハレルヤ!今日はひさしぶりにこの礼拝の中で奉仕をさせていただけることを心から感謝します。
 今年は台風の当たり年で、毎週のようにこの日本に訪れたわけです。特にこの礼拝の中でも「みことばを行うあらしよ!」と、何度も語られて来ましたので、メッセージに応答するかのように台風も勢いぶいてこの日本にやってきたのかもしれません(笑)。今年の台風も先週のが最後のようで、過ぎ去りましたら、ここ二、三日一気に秋が深まってまいりました。秋が深まると食べ物が美味しくなりますよね。

 先週の日~月曜日に青年キャンプが行われました。先週末も台風が来ていまして、青年キャンプも無事にできるのかなぁとちょっと心配していましたが、みなさんの祈りもあって守られ、前日の夜中に台風が通り過ぎて、日曜日の朝には穏やかな良い天気になっていました。それで無事に午後から出かけましたが素晴らしい時を持つことができました。
 少しだけ写真をご紹介したいと思います。

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 これは宿舎で夕食はみんな同じ物を食べました。手作りのチキンカツカレーを作りました。全部で二十人参加しました。

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 こんな素敵なセコイヤ並木のある琵琶湖の湖畔でサイクリングをしました。湖畔で遊んだり、美しい景色を見て写真を撮ったりしました。

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 真ん中に変な顔の人が座っていますが、ここは恐竜博物館です。今回は琵琶湖と福井に行きました。

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 これが中です。何百体という骨格標本というのでしょうか。一人恐竜みたいな顔をしている兄弟がいます。

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 楽しんで来ました。全部本物ではないのですが、本物もたくさん展示してありました。骨格の標本を見ますと、なんでこんな鎧みたいな風貌をしていなくてはいけないのか、なんでこんな所に牙が生えていなくてはいけないのか、なんでこの手が大きいのか、小さいのか不思議です。ある標本は顎の下からアンバランスに見えるほど大きくて長い牙が生えていました。こんな牙で何ができるの?と思いました。こんなユニークな生き物が本当に生きていたんだということを見るだけでも興味深いです。これらを見るにつけても、進化でいろんな形ができたと言うけど、そうではないな、やはり神さまの創造のバリエーション、本当に創造力豊かなデザイナーの魅力をひしひしと感じたわけです。福井ではまた美味しい海鮮を食べたりして、楽しく過ごしました。
 みなさんのお祈りの中で守られて無事に帰って来ることができて感謝でした。

 今日は、「リバイバルを押し進める力」というタイトルでお話をしていこうと思います。主に二つのテーマを取り扱ってお話をしたいと思います。

 一つ目は先月のこと、僕はラバウルに行かせていただき、先々週の日曜日、この場所でも写真をお見せしながら報告させていただきました。今日は全体のことはお話しないのですが、ツアーの中で自分が経験した証しをひとつお話したいと思います。

 先ほど司会の先生がおっしゃっていましたが、悲しい知らせで、新城教会の最高齢、N兄が先週木曜日に天に帰られました。兄は来年の三月で百歳ということでした。本当に最後までお元気で過ごしておられたのですが、体調が悪くなられたのはラバウルに行く前の週のことでした。
 それまで豊川市の施設で暮らしておられたのですが、事情があってなかなかお会いすることができずにいました。しかし、ちょうどタイミングよくラバウルに行く直前にお会いすることができることになり、僕もその施設に訪問に行かせていただきました。その時はNさんもお元気で、奧さんもご一緒にお話をすることができて、本当に感謝な時でした。
 その後、九月七日か八日辺りだと思いますが、肺炎になって市民病院に入院されて、その時、瀧元望先生や教会のスタッフ何人かお見舞いに行き、ラバウルの直前に病床のNさんにお会いできました。
 Nさんは太平洋戦争でラバウルの戦地に出征されていました。ですからラバウルに行くにあたって一緒に祈ってから出かけていきたいと思っていたのですが、その願いがかないました。体調の悪い中でありましたが、一緒にお祈りをされて、そして「帰って来たら報告するからね!」と言って、ラバウルに行きました。

 帰って来まして、また訪問に行かせていただきました。まだ入院されていたのですが、Nさんにラバウルで撮った写真をパソコンで見せながら、「こんな所に行って来たんですよ。どうですか?」と、基地があった場所や、ラバウルのジャングルなど撮った写真をお見せしました。
 私の中では「ああ、こんなだった。覚えている。」と、昔の記憶がよみがえって、少しでも元気になっていただけたらいいなと思ってお見せしたのですが、期待していた反応とはちょっと違いました。「ラバウル・・。こんな所だったかなぁ。」と、ちょっと僕が期待していた反応と違って肩すかしを食らったような気持ちでありました。でも考えてみると、ああこれで良かったのかなと思わされました。
 Nさんの戦争中の記憶は、おそらく私たちが思うより遥かに越えた悲惨なものがあったんだと思うのです。だから晩年になって、だんだん他のことが忘れ去られていく中、対照的にラバウルでの記憶は残り続け、むしろ浮き彫りになっていくのではないでしょうか。何をしていてもその記憶がいつも頭の中をめぐっている、そういう状況だったようです。だから眠っていても、「大丈夫か!おまえ!」とか、戦争の中で戦友たちを呼んだり、そういうことを寝床で言ったり、また起きているときも「戦争で私はこんなことをした!」ということを何度となく繰り返してお話しする、そんな状況が晩年のNさんでありました。僕も何度もそんな話しを伺ったのを覚えています。
でもラバウルに行って、とりなしの祈り、和解の祈りがささげられていく中で、その記憶も良い意味で失われた、神さまが忘れさせてくださったんじゃないかと、面会の後で感じました。
 私たちが愛していたN兄弟が天に召されましたが、彼の人生の最後に、神さまがラバウルでとりなし祈る機会を私たちに与えてくださったことは、本当に素晴らしいことだったんだなぁと改めて思わされて、心から感謝した次第であります。
 ラバウルにみんなで行ってお祈りすることができたことは、神さまにあって、戦争に行かれた方々や、またその遺族の方たちにとっても、解放の時となっているのではないかと思わされました。

 ちょっと話は変わるのですが、ラバウルツアーは現地で六日間過ごしたわけです。この六日間は、日本で生活している日常とは違うリズムで過ごしました。
 一つはみなさんに覚えて祈っていただきましたが、マラリアを宿すハマダラカという危険な蚊がうようよいるわけです。連中は夜行性で、活発に活動する時間が夕方五時から翌朝七時までです。パプアニューギニア人は蚊を恐れてなのか、夜の活動が短いのです。だいたいスーパーやレストランも夕方の六時には閉まり、町明かりもなくなって活動が停止します。
 我々もご多分に漏れず、昼間は和解の集会とかとりなしとかいろいろ行かせていただいて忙しく過ごすのですが、だいたい夕方六時くらいになりますとホテルに戻されて、「明日また八時に来ます」という感じで、ホテルで十四時間とか時間がありました。街も眠りについて「さぁ何をしましょうかね」と。

 もう一つ、向こうの方たちはあまり食という物に関してこだわりがないみたいです。日本人だったらこの時期食欲の秋だし、朝食はご飯と味噌汁だったら、昼はスパゲティにしようかなとか、夜はお肉にしようかな、そして次の日のお昼には、昨日はスパゲティだったから今日はカツ丼にしようかなとか、中華にしようか、ラーメンにしようかと、バリエーションを考えるところがあるわけです。おやつにもケーキを食べようかアイスを食べようか、と。
 ラバウルの方たちは、そんなに食事に気を配らなくて、三食同じでも気にしない、と思います。一食につきかける金額もだいたい四十円くらい、元々椰子の実は自然に落ちている、バナナは自然になっているということで、椰子の実とバナナがあれば生きていけるわ、というところもあるのですが、パンを食べ、バナナを食べというのが結構毎日の定番でした。それが連続になっても気にしない、という感じでした。
 そんな生活を送っていますと、やはり考え方もちょっと改まってくるのでしょうか。結構日本人は食に頭を使いすぎだと思います。一般的にご婦人方だったら、毎日夕方の三時か四時くらいになると、「夕飯は何作ろうかな」と考えます。「面倒くさいなあ」と。僕もときどき家内から、「ねぇパパ、何がいい?」と自分が考えるのが面倒くさいもので僕にふってきます。そんなときは僕もむげにせずに考えてあげるわけです。でも例えば昨日ラーメン食べたら今日はまたラーメン食べようと日本では普通思わないですよね。二日も続けては食べられない!なんて考えるわけなのですが、でも現地ではそういうことも考える必要がない。
 だからホテルにリリースされた後も、じゃぁ今日は何を食べたらよかろうかと考えることはありませんでした。

 インターネットの環境も悪くて、日本は4Gとよく言いますが、僕が使っていたSIMカード、携帯に挿すカードで対応していたのが2Gでした。2Gはネットのスピードが遅すぎて動画を見たりホームページを見たりとか、そういうことが全くできないのです。テキストのメールをやり取りするくらいで、LINEのチャットはできたので、家内や日本とメールでやり取りをしたり、そんな程度でした。インターネットもできず、仕事もできない感じでした。
 日本人は自由時間があると一体何をするかネットで見ると、一般的な社会人の一日の平均自由時間は二時間だというのです。多い人も少ない人もいると思いますが、食事、家事、睡眠、仕事、そういう時間以外です。何をしてもいい自由になる時間。そういう時間を使って例えばジムに行って汗を流すとか、趣味のためとか、習い事なんかにも使いますが、最も多いのはテレビとインターネットだそうです。
 そう言われてみれば、僕も心当たりがあります。仕事が終わって家に帰ってやれやれとリビングのソファにどかっと座る。すると無意識のうちにリモコンに手が伸びてぽちっとやっている。また何も考えずにスマホに手が伸びてぬるぬるやっているとか。そういうことってあるじゃないですか。目的もなく漫然と時間を使ったりするのです。

 ホテルに戻り、時間があったので、僕はどうしようかなぁと、テレビも英語だから見る気もしないし、持って行った本を読んでみたりもしました。でもそんなこんなで最後に「お祈りしましょう!」となって、今回お祈りと聖書朗読は日本にいるよりたくさんできました。
 僕のパソコンの中には新城教会のメンバーの名前が全部入っています。なので、「よし!日本ではやったことないけど、教会員の全員のために名前をあげて祈りましょう!」と、お祈りさせていただきました。
 一人ずつ、家族ごとに、「この人はこんな家族がいたなぁ」「あの方はまだ家族が救われていないな」と、未信者の家族でも名前が分かる人は祈りました。「あの方は今進路について考えている」「この方はこういう問題で戦っている」とか、把握していることをとりなしながら、みなさんお一人お一人健康で支えられますように!祝福されますように!家族が救われますように!また、今ちょっと教会で見かけない、顔見てないなぁと思ったら、来れますようにと祈っていました。
 やっぱり一時間半から二時間くらいかかります。七百人くらいいますので。でもこんなふうにだらだらと、みなさんの名前をあげながら祈っていくのですが、思いの外恵まれました。思いの外と言ったら怒られるかもしれませんが(笑)。本当になんかすごく心がさわやかなすがすがしい気持ちになって、「あぁ人のために祈れるってこんなにいいのか!」と、これまでは名前をあげて祈ることができなかった方のためにも、祈ることができるのは素晴らしいと思わされ、こんなに素晴らしいなら是非日本に戻ってからでもやろう!と決意したのですが、戻って来たら途端にできなくなりましたが…。

 でも不思議なことに先週の水曜日、水曜礼拝のメッセージの奉仕をさせていただきまして、この恵みをお話させていただきました。
 そうしたらその日は目覚ましも鳴らないのに朝五時にぱっと目が開きました。それで「メッセージの準備をしようかな」と思ったのですが、「あ!これはこの祈りのために神さまが時間をくださったのかもしれない!」と思って、お祈りすることができました。
 そして今朝も五時十五分にぱっと目が開きました。それは五時十五分に世界宣教とりなしグループのアラームが鳴りました。それで目が開いてお祈りすることができました。とりなしメールで目が開いてとりなしの祈りをするという、このメッセージをさせていただく二日間は、神さまの憐れみによって、みなさんの名前をあげてお祈りをすることができた次第で、心から感謝しております。
 でも祈りながら素晴らしい恵みだと感謝したのですが、このことで感動しているようじゃ祈り手としてまだまだだなぁ、このことが普通になるくらいになりたいなぁと思わされました。

 旧約聖書のイザヤ書三十章十五節にこんなことばがあります。

『神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」しかし、あなたがたは、これを望まなかった。』

 先ほど自由時間の使い方のことをお話ししたのですが、私たちはやっぱり忙しい毎日をそれぞれ暮らしています。そんな中である意味わずかな自由時間を自分の使いたいように使う、それは結構なことだと思いますし、テレビを見るのも、スマートフォンを見るのも、悪いことではないのですが、神さまを求めていく中に大きな部分を占めるのは、静かに落ち着いて時間をとって神さまの前に出ることだと思います。マタイの福音書六章三十三節には、

『だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。』

というよく知られたみことばがありますが、この『神の国とその義とをまず第一に求めなさい。』の意味は、神さまの前に、毎日忙しい一日の中の一部分をしっかりとお捧げし、神さまと交わり神さまを求める時間を取る、ということではないかと思います。
 そういう中に神さまのみ業が現され、みこころが前進するのだろう、ラバウルでの経験を通して、自分自身再確認した次第であります。

 お互いに祈り合うことは素晴らしいことですよね。礼拝の最後の時間にも「お互いに祈り合いましょう」といった時間を持ったりしますが、そのことは私たちが思う以上に重要なことなんじゃないかと思わされます。
 身の回りに問題が起こってくるとき、しばしば私たちは自分の中では確信が持てず、信仰を持って一歩踏み出していくということがなかなかできないことがあるのですが、信仰の友であったり、互いの交わりの中で祈り合う時に、第三者だったら、当事者よりも、より単純に信仰を持ちやすいということが多いのではないかと思います。
 もちろん自分が確信を持って前進していくということも必要なことかもしれないですが、そのための励まし、押し出す力になるというのが他者のとりなしではないかと思います。お互いに力いっぱい祈りをささげ合う、そのような者となっていきたいなと心から思わされております。

 もう一つ別の話しになるのですが、先月は、私にはラバウルに始まり、ラバウルに終わるという、ラバウル月間と言ってもいいほどの一ヶ月間でした。というのも、ラバウルに行かせていただいた前後にもラバウルにからんだ働きがありまして、そのために奉仕する機会がいくつか与えられました。
 月に一回、「霊的戦いセミナー&実践」という学びの時があります。スタッフが周り順で担当して発表していくわけなのですが、九月はイエスさまタイミングだったと思いますが、僕が担当でした。
 テーマは担当者が自由に決められるので、「ラバウル」に決めて、七月末くらいから資料を集めたり、インターネットを見ながらラバウルについて勉強を始めました。そして九月六日にセミナーが行われました。そこで発表させていただき、みんなでとりなしの祈りをして、素晴らしい時を持つことができました。
 翌週の日曜日、九月九日は午後から「ラバウルセミナー」を私が担当して、みなさんの前で発表させていただきました。
 そして九月十二日から十九日まではラバウル和解&とりなしツアー本番で現地に出向いておりました。
 九月二十日の未明に新城に戻りました。その日の朝九時半には、霊的戦いの学びの時がありまして、そこでラバウルの報告をしました。
その午後から熱が出て二日間寝込んでいたのですが、週末には復帰することができました。
 その翌日の日曜日、二十三日には、礼拝でラバウルの報告をして、午後からもラバウルの証し会をさせていただきました。
 二十五日火曜日は、霊的戦い専門課程で一時間くらい時間をいただいてラバウルの報告をして、午後からはとりなしの祈りに出かけました。
その翌日の水曜日には水曜礼拝メッセージでラバウルのお話をしました。
 そして次の土曜日、二十九日には、インターナショナル浜松集会にて通訳付きでラバウルのお話をしました。そして、三十日日曜日の礼拝一日を過ごして九月が終わったわけです。
 ですから僕にとっては九月はラバウルに明け暮れたという感じでした。めまぐるしく過ぎて行き、お休みの日にもラバウルの調査、勉強をしたり、メッセージの準備をしたり、またツアーの買い出しと準備、そういうので全部費やして休むことなく「ラバウルー!」と突っ走りました。

 突っ走りながら決めました。「十月に入ったら休もう!」と。それで十月一日の月曜そして二日火曜日と連休にして、家内とも相談して、「この日はゆっくりしようね!」と。
何をしようか考え、日帰りバスツアー「シャインマスカット狩り」というのを予約しました。そして九月中、ずっと「あと何日で休みだな〜」と楽しみにしていました。
 ラバウルから帰って来ましたら、毎週訪れてくれる「みことばを行うあらし」台風24号が、また九月末にこの辺りを通過する予報でした。「いやぁ僕のお休みは大丈夫かなぁ」と心配で、「みことばを行うあらしよ!この地方に悪さをするな!みことばを行え!」と祈りながら経過を注視していたのですが、日曜日の夜から月曜日の朝にかけてこの地方を通過するということでした。ちょっとスライドがあると思うのですが、当時の天気予報の図です。

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 予報では九月三十日(日)夜に東海地方を足早に抜けて十月一日(月)未明には北日本に至ると聞き、これなら大丈夫かなと期待しました。前の日には旅行会社にも電話をして、「やる予定です。」と聞いて「よし!」と思っていました。
 三十日の夜十一時頃、台風の中停電で我が家の電気が切れました。暗闇の中で夜を過ごして、次の日の朝、天気は晴れ、風は穏やかでした。電気はまだ来ていませんでしたが、これならば大丈夫だな!と確信しました。
 しかし、朝七時に携帯電話が鳴り、旅行会社より「大規模停電が発生しており高速道路が広い範囲で通行止めになっております。安全な運行ができませんので、残念ではありますが、ツアーを中止とさせていただきます。」「あぁそうですか…。しょうがないですね…。」と、本当にがっかりしたわけです。
 明るくなってみますと、台風の爪痕が我が家にもありまして、屋根の下の軒下の天井が四箇所くらいはがれ落ちており、それから二階のベランダ排水溝が詰まってベランダがプールみたいになっていました。「これは大変だ」と思って修理部材を調達に行こうかと思ってホームセンターに行ったらこの停電で休業中となっていて、直すこともできずに排水だけなんとか詰まりを取ってベランダは直したんです。
 子どもたちも交通機関の乱れや信号機も停止の中、自宅待機ということで学校に行かず、夫婦二人で水入らずで過ごす予定が子どもたちもみんないるということで一日が悶々と過ぎました。うちはオール電化なので調理もできずに大変な思いをしました。その夜家内と「明日は絶対に朝から二人で出かけようね」と話して闇夜の中早めの睡眠につきました。
 翌朝になっても我が家の停電は回復していませんでした。日曜日から月曜日、二日分の家族八人分の洗濯物がたまったものですから、家内は朝から電気が回復しているコインランドリーに出かけました。すると洗濯する人で渋滞していました。それで順番待ちをしていました。
 そうしたら八時半頃に家内の実家から連絡がありました。何かと思ったら、九月の末に稲刈りがあって「はざかけ」をしたのですが、台風で全部倒れてしまったというのです。

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 これは資料映像なのですが、実際こんな感じになってしまったのです。実家は私が火曜日休みと知っていますので、「なんとかしてくれんか」と言ってきたのです。家内は私に気遣い「今日は無理」と言いました。ですが困っているだろうなぁと思うと、見捨てて遊びに行くことはできないと思いました。それで仕方ない、立て直すことを決意して、その日も「はざかけ」の立て直しで終わってしまいました。
 日帰り旅行を含めた連休計画が、台風来訪で水の泡となり、落胆と未練です。台風への恨みと、あのタイミングでコインランドリーに出かけた家内にも怒りがこみ上げてきました。いらいらむしゃくしゃして、一日中「はざかけ」直しながら一緒に作業している家内にも口もきかず黙々と作業を続けたわけです。あふれかえるイライラをどうしようという感じでした。家内に八つ当たりしても、家内は何にも悪くないのですが、こういう時一番身近でエゴが出せるところにしわ寄せがいくわけです。本当に悪い僕でした。

 でもそんな中で、一つのみことばが頭の中をめぐっていました。それはマルコの福音書六章三十節~三十三節、

『さて、使徒たちは、イエスのもとに集まって来て、自分たちのしたこと、教えたことを残らずイエスに報告した。そこでイエスは彼らに、「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい」と言われた。人々の出入りが多くて、ゆっくり食事する時間さえなかったからである。そこで彼らは、舟に乗って、自分たちだけで寂しい所へ行った。ところが、多くの人々が、彼らの出て行くのを見、それと気づいて、方々の町々からそこへ徒歩で駆けつけ、彼らよりも先に着いてしまった。イエスは、舟から上がられると、多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた。』

 ちょっと話が変わるのですが、今年は家内の実家で少しずつですが福音の扉が開かれて動きを感じる年になっています。
 家内が救われて三十年以上、また私と結婚してからは一緒に実家の救いのために祈り続け、機会があれば教会に導くこともしてきているのですが、なかなか救われる気配がない、相変わらず偶像の祭りに参加したり、家にも偶像があったりで悔しい思いというか、もどかしさがあって、祈りの課題になっているわけです。
 そんな中で、今年は春から実家のために仕えさせていただく機会が与えられています。それは家内の両親が八十歳も越えて身体が衰えたり、病気も重なって少し生活に不自由を覚えるようになってきています。最近はデイサービスに行くようにもなっているのですが、そういう中で家内もいろいろとお手伝いに行ったり、田植えや稲刈りなど、農業もお手伝いする機会が与えられたり、そんなことが少しずつ多くなっています。

 二ヶ月ほど前でしょうか。義母がこんなことを言い出しました。「井戸が気になる」と。実家の敷地内に古い井戸があります。その井戸が気になるというのです。この井戸は昔はずっと使っていたのですが、使わなくなって久しく十年ほど前に義父が埋めました。義母は埋めることに気が進まず反対していました。使わないのだから埋めればいいだろうと単純に考えるのですが、義母はなんか気になったのです。「反対したけどお父さんが埋めちゃった」と言うのです。その井戸が長年経った今になって気になるというわけです。
 義母は家内に、「井戸が気になるもんで拝んでほしい」と言いました。今年になって自分の身体が弱くなったり、家族で病気になる人がいたり、このところ良いことがない、それでいろいろ考えてみて「井戸が怪しいと私は思う」というのです。つまり霊的な呪いが井戸から来ているというのです。要するに「井戸のお祓いをしてほしい」というのです。
 家内は、「クリスチャンの私になんでそんなことを言ってくるの?お門違いじゃない?」と思ったわけなのですが、続いて義母が言ったのが、「雅也くんでいいから」でした!なんと私にお祓いをしてほしいということだったのです。それで家内は私に話してくれて、私も「わかった!それじゃぁお祓いに行ってあげましょう!」と、家内の実家に日を決めて行かせていただきました。本当にそれは素晴らしいときでした。
 実家のみんな私を待ってくれていて、そして「拝んでください」と言うのです。私は井戸の周りにみんなを集めて、そして義母に、「お母さん、この井戸が気になるというのは、この井戸から霊的な圧迫が来るということ?そう感じているということだよね。」『そう。』「これが家の問題につながっていると思っているっていうことだよね?」『そう。』「それならば僕が信じているイエスさまに頼れば絶対に大丈夫!」と言いました。「イエスさまはそんな悪いことをする神様じゃあない。良い神様。ここに悪い霊がいて家族に悪いことを起こしていたとしても、イエスさまはそんな霊よりも強い。イエスさまは、この天地を造った神さまで、この井戸もイエスさまにお委ねしたら、そんな悪い霊なんか何もすることはできないから、もう大丈夫。だからイエスさまに信頼しようね!いま僕の後について祈ってね!」と、「イエスさまを信じます!イエスさまに頼ります!」と僕の後について祈って頂きました。
 そして、僕が戦いの祈りをして、「ここに働いた悪魔の力を打ち砕きます!家になんの悪しき力も及ぼすことはできない!」と宣言して、その場所で一緒に聖餐式を持って、その井戸にも聖餐のパンとジュースを投げ込んで、一緒にお祈りするときを持たせていただきました。痛快なひとときでした。

 そういう中でありましたので、「はざかけ」をいらいらしながら直していたわけですが、みことばを思いながら、実家が頼ってきてくれて仕えることができるのは感謝しなくちゃいけないことだと思わされました。あのまま稲を濡れた田んぼに放って遊びに出かけても良い気持ちはしなかったと思います。
 その翌日には、実家の長男が会社の休みを使って脱穀作業しました。その週末また台風が来そうだということで、また倒される前に脱穀しちゃいましょうということでした。だから前日「はざ」を立て直したおかげで次の台風前に脱穀もできたのです。
 終わってみれば、手伝うことができて本当に良かったと思います。脱穀をした夜に、「本当にありがとう!助かった!」と言ってもらえました。一連の流れの中で少しずつ救いの扉が開かれていくのではないかと期待しています。
 当初僕はこの連休を「聖域!誰もここに侵入できない!」と決めていたわけですが、台風のおかげで思わぬ形で手放すことになりました。けれどもそれが主にあって良い実を結ぶきっかけとなったとすれば、台風24号は僕が祈っていたように「みことばを行うあらし」だったのだと思わされます。これも主のタイミングだったのかなと思います。ヨハネの福音書十三章一節〜五節、

『さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が神から出て神に行くことを知られ、夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。』

 イエスさまが次の日には十字架にかかる瀬戸際に、最後の晩餐として弟子たちと食事を共にされ、その中で行われた洗足の行為、そのことを記した場所です。イエスさまは最後の時を知られて、ご自分の弟子たちに対して愛を最後まで注がれたのです。
 その愛は、イエスさまを裏切るイスカリオテのユダの足も洗うという行為によって現されました。イエスさまは、この後イスカリオテ・ユダは裏切ることを重々承知であったのですが、彼に対してもイエスさまは愛を現されたのです。
 マタイの福音書の有名な山上の垂訓の箇所にもこう書いてあります。マタイの福音書五章四十三節~四十七節、

『『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。』

 このことをイエスさまは群衆に対して教えられたのですが、最後の晩餐に至ってこのみことばをイエスさまは実践なさったんです。イスカリオテのユダの足を洗うことで我々の模範になられました。
 主のみこころは時としてこういうことがあります。私たちが喜び勇んで、「大丈夫!喜んで従います!」と言えるようなところには、本当の意味で主の業は現されないのかもしれません。私たちが「いやだなぁ、そんなのやりたくないよ〜」「なんでこんな時に「はざかけ」を直さないといけないの?」というような状況の中に神さまの業はあるのかもしれないです。嫌なことをやらされる、嫌だけど神さまが「やれ!」と、心に迫りを感じる、これを見ないふりして受け流すことはできない!自分がやらなければ前に進まない!と、そう思って、それを行うときに、本当に神さまのみ業は現されるのかもしれないなぁと思わされます。

 ラバウルに行ってきて思うのは、何回も行きたい所ではないなぁと。いろいろと整っていないところも多いし、日本の食べ物は美味しい、腹を下す心配もないし、マラリアはいない、ネットはスムーズに動くとか、いろいろ感じるところはあるのですが、そんな場所に、新城教会からも何回も行って祈ってらっしゃる方がいる。滝元望先生はもう七回も行かれた。
またネパール宣教も同じですよね。本当に主が行けと言われる所に遣わされて行くというのは、人間的には楽ではないと思われることがあるかもしれませんが、それをやり遂げると何にも変えがたい平安の実が結ばれていく、本当に良かったなぁという思い。神さまご自身から与えられる充実感というものを得ることができます。
 イエスさまも十字架の苦しみを通られたのですが、苦しみのあとに救いを成し遂げられて神の右の座に着かれました。私たちも主と同じように父なる神さまのみこころを行うことを第一とする。それも忍耐を持って、ある意味では苦しみながらも前進していく、リバイバルを押し進める力は、そういった忍耐、主のみこころがなんであるのかを悟り行おうとしていく、そういった心の中にあるのではないかということを、自分自身の経験を通して教えられて感謝します。
 お互いに祈りをもって、互いに支え合いながら、このリバイバルの働きがさらに前進していくように、教会に与えられた使命が、リバイバルが、この地に大きく現されるために精一杯働いていく者となっていきたいと、願わされております。

 今日、このメッセージを通して学んだことを吟味しつつ、ご自分の中に今、忍耐を要求されるチャレンジを主から受けている人がいたら、そこに迷わずに前進していけるようにと祈ってください。
 また私たちが、与えられた信仰を、この恵みを、本当に主のために、リバイバルのために使っていくことができるように、精一杯働いていくことができるように、祈ることができるようにと、ご一緒にお祈りしていきたいと思います。

 ハレルヤ。主よ、私たちが互いのために、聖霊によって祈り、忍耐の限りを尽くし祈りなさいとありますが、主よ、この地のリバイバルのために私たちに与えられているあなたからの使命を全うするために、私たちがそのような祈り手、また忍耐のにない手となっていくことができるように、どうかお一人お一人を祝福してください。主イエスさまのみ名によって、信じ感謝してお祈りします。アーメン。