「主の声を聞いていますか?」

2018年10月21(日)
新城教会牧師 上條実
エレミヤ所10章13節

『主が声を出すと、水のざわめきが天に起こる。主は地の果てから雲を上らせ、雨のためにいなずまを造り、その倉から風を出される。』

 ハレルヤ!今日こうしてみなさんの前でみことばを語ることができることを心から感謝しております。本日は滝元順牧師ご夫妻は山形県酒田市にてリバイバルミッション二〇一八にてご奉仕しています。またざわめきの方々は神奈川県茅ケ崎市にて奉仕しております。ぜひお祈り下さい。
 またお祈り頂いたリバイバルミッション二〇一八も本日の週報に挟んでありますが金曜日から次週日曜日まで沖縄県で開催して、すべての地区を巡回が終了します。また来年も同様な形で行っていきますが、今年一年間主が祝福を与えてくださいました。全て栄光をお返しします。
 また十一月三日は甲子園ミッションアフター二五が行われます。既に定員三〇〇人を超す勢いです。この教会からも多くの方々が行く予定となっておりますが、続けてお祈り下されば幸いです。

 それでは先ほどお読みいただいたエレミヤ書十章十三節からみことばを学んで行きたいと思います。

『主が声を出すと、水のざわめきが天に起こる。主は地の果てから雲を上らせ、雨のためにいなずまを造り、その倉から風を出される。』

 このみことばは一九九三年の十一月に行いました全日本リバイバル甲子園ミッションのテーマになったみことばです。ときは既に二十五年が過ぎましたが、阪神甲子園球場にて、三日間で十二万四千人もの方々が集って下さり、大変祝福を頂いた大伝道会でした。三日間とも滝元明牧師がメッセージを語り、最後にあの大きな十字架の舞台の所に、主を信じる決心の応答に対して、涙ながらに出て行く姿を見て、とても感動したことを今でも昨日のように思い出します。圧倒的な聖霊の働きを感じる集会でした。そのニュースの中にも、甲子園ミッションで救われて、その後家族親族をあわせて十三名の方々が救われたなどという素晴らしい甲子園ミッションの時の思い出、証が掲載されています。まず今日始めに確認して信じていかなくてはいけないのは、今も私たちの主は生きています。ルカ一章三十七節

『神にとって不可能なことは一つもありません。』

 またルカ十八章二十七節、

『イエスは言われた。「人にはできないことが、神にはできるのです。」』

 このイエスキリストはへブル十三章八節

『イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。』

今も生きておられる主です。人間の領域にはできないことばかりです。しかし神の領域には、神にはできるのです。先ほど読んでいただいた

『主が声を出すと、水のざわめきが天に起こる。主は地の果てから雲を上らせ、雨のためにいなずまを造り、その倉から風を出される。』

 このみことばは、主が声を出すと『雨のためにいなずまを造り、その倉から風を出される。』

主の働き、聖霊の働きは、自然界の力を通して大きな力がこの地に表されるように、雨、いなずま、風など、私たちではどうすることもできない力。その力が聖霊さまと同じ力であると言っています。イザヤ書二十九章六節には

『万軍の主は、雷と地震と大きな音をもって、つむじ風と暴風と焼き尽くす火の炎をもって、あなたを訪れる。』

 万軍の主は雷、地震、大きな音をもって、またつむじ風、暴風、焼き尽くす火の炎のように、私たちに訪れるとあります。先日も大型の台風二十四号が、この地域を通り過ぎていきました。私たちはあの台風の進路や威力を操作することは何もできません。しかし私たちは主に「みことばを行うあらしよ!主をほめたたえよ!」と宣言し、主をほめたたえることができました。そしてこの地域は主の守りがありました。

 あの台風二十四号では被害があったところもあります。私はあの台風が過ぎた数日後、飯田線で乗り、野田城駅から東上駅の間の景色を見ました。すると森にある大きな木が、途中から倒れたり、根がむき出しになって倒れていました。あの台風は風が強かったのですが、大きく育った大木までなぎ倒してしまいました。またこの教会のすぐ前にあります茶臼山駅の隣の駅の前には、大きな寺がありますが、そこの樹齢百年以上の杉の木何本も倒れたとのことです。

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また桜淵公園でも

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このような被害がありました。また

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風でトタンがめくれてしまったりとか、南部地区の八名地区では信号機に何かが当たって信号の電球が飛び出てしまったようです。
 それと同じように、私たちの主は何でもおできになる方、不可能なことは一つもない主です。人にはできないことも神にはできるのです。とあります。私たちの主は全能なる方です。そのことを信じて今日みことばをぜひ握ってほしいと思います。

 本日配布させていただいたリバイバルミッションニュースの表紙に掲載されております、一麦西宮教会の牧師先生が市内を見渡すことのできる甲山でお祈りしているとき、甲子園球場を見て

「いつかあの甲子園球場で、日本人の伝道者によって、日本人の手で伝道会をしたい」

と祈りました。下條先生は主が声を出されたのを聞き、当時毎年のように愛知県民の森での「教職ゼミナール」でお証をされました。それを聞いた滝元明牧師も

「自分も日本人の伝道者の一人だ。二年後というのは難しいかもしれないが、五年後にリバイバルクルセードが集会をさせていただきます」と下條先生に手紙を出しました。滝元明牧師も主の声を聞いたのです。そして準備を始めました。その時多くの霊的戦いがありましたが、

『主が声を出すと、水のざわめきが天に起こる。主は地の果てから雲を上らせ、雨のためにいなずまを造り、その倉から風を出される。』

 このみことばを主が下さったので、このみことばを主が語ってくださったので、ストップすることがなく、七五〇ヶ所の教会で決起大会、また何度も長い時間の連鎖賛美。電車を借り切っての「リバイバルトレイン」また大型フェリーを借り切っての「リバイバルクルージング」などなど、とにかく主に期待して祈り、素晴らしい集会を行うことができました。これはただ主が声を出し、その声を聞いた方々が、その声を神のことばであると信じて前進したからこそ、素晴らしい勝利を頂くことができました。

神の声を聞いて、それを受け取った滝元明牧師をはじめ、私たちは有名になりたいとかいう、そんな打算的な考えではなく、このままであると愛する日本とその民は滅びてしまうという、滅び行く魂の救いを、必死に求めて働かせて頂きました。今日のみことばは、「主の声を聞いていますか?」というタイトルをつけさせていただきました。下條先生も滝元明牧師も神の声を聞きました。そして私たちもそのみことばを聞いて、信じて、日本のリバイバルの為に必死に働かせていただきました。伝道者の書の三章十一節

『神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。』

 すべて時にかなって美しいことをされる主です。そして時にかなって主が声を、今日も主は私たちに声を出してくださっています。申命記二十八章十二節~十三節、

『主は、その恵みの倉、天を開き、時にかなって雨をあなたの地に与え、あなたのすべての手のわざを祝福される。それであなたは多くの国々に貸すであろうが、借りることはない。私が、きょう、あなたに命じるあなたの神、主の命令にあなたが聞き従い、守り行うなら、主はあなたをかしらとならせ、尾とはならせない。ただ上におらせ、下へは下されない。』

 このみことばにあるように、『主は、その恵みの倉、天を開き、時にかなって雨をあなたの地に与え、あなたのすべての手のわざを祝福される。』主の声が時にかなって、私たちに語りかけ、私たちが聞いて、それに従っていく時に、このみことばのように、祝福を与えてくださる、頭となって尾にはされない。上におらせ下へは下されないとあります。
 聖書の中で神の声を聞いて一度失敗した人物がいます。それはヨナです。旧約聖書ヨナ一章一節~四節、

『アミタイの子ヨナに次のような主のことばがあった。「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。」しかしヨナは、主の御顔を避けてタルシシュへのがれようとし、立って、ヨッパに下った。彼は、タルシシュ行きの船を見つけ、船賃を払ってそれに乗り、主の御顔を避けて、みなといっしょにタルシシュへ行こうとした。さて、主は大風を海に吹きつけられた。それで海に激しい暴風が起こり、船は難破しそうになった。』

ヨナは神から「立ってあの大きな町ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。」と声を聞きました。しかし今読んだように、ヨナはニネベには行かず、主の御顔を避けてタルシシュへのがれようとし、立って、ヨッパに下ったとあります。この時イスラエルの民は大国アッシリアの捕囚の民でした。わかり易く言うと奴隷でした。そのアッシリア大きな大きな町、そこには王も住んでいるニネベという大きな町は首都のような存在でした。その二ネべは行き巡るのに三日かかるような大きな繁栄した町でした。そこに奴隷の民であるヨナが、『この町は滅びる!』と言いなさいと命令を主から受けたのです。皆さんはどう思いますか?奴隷が二ネべの街に出て行って「この国はまもなく滅びる」と告げたら、人間的にはヨナを捕まえ、またイスラエルの民に更に厳しい仕打ちをしてくると理解できます。だからヨナはイスラエルの民のことを考えてタルシシュへ逃げて行きました。その時大嵐になって、船は波をかぶり、進めなくなってしまいました。ヨナ一章四節から

『さて、【主】は大風を海に吹きつけられた。それで海に激しい暴風が起こり、船は難破しそうになった。水夫たちは恐れ、彼らはそれぞれ、自分の神に向かって叫び、船を軽くしようと船の積荷を海に投げ捨てた。しかし、ヨナは船底に降りて行って横になり、ぐっすり寝込んでいた。船長が近づいて来て彼に言った。「いったいどうしたことか。寝込んだりして。起きて、あなたの神にお願いしなさい。あるいは、神が私たちに心を留めてくださって、私たちは滅びないですむかもしれない。」みなは互いに言った。「さあ、くじを引いて、だれのせいで、このわざわいが私たちに降りかかったかを知ろう。」彼らがくじを引くと、そのくじはヨナに当たった。そこで彼らはヨナに言った。「だれのせいで、このわざわいが私たちに降りかかったのか、告げてくれ。あなたの仕事は何か。あなたはどこから来たのか。あなたの国はどこか。いったいどこの民か。」ヨナは彼らに言った。「私はヘブル人です。私は海と陸を造られた天の神、【主】を恐れています。」それで人々は非常に恐れて、彼に言った。「何でそんなことをしたのか。」人々は、彼が【主】の御顔を避けてのがれようとしていることを知っていた。ヨナが先に、これを彼らに告げていたからである。彼らはヨナに言った。「海が静まるために、私たちはあなたをどうしたらいいのか。」海がますます荒れてきたからである。ヨナは彼らに言った。「私を捕らえて、海に投げ込みなさい。そうすれば、海はあなたがたのために静かになるでしょう。わかっています。この激しい暴風は、私のためにあなたがたを襲ったのです。」その人たちは船を陸に戻そうとこいだがだめだった。海がますます、彼らに向かって荒れたからである。そこで彼らは【主】に願って言った。「ああ、【主】よ。どうか、この男のいのちのために、私たちを滅ぼさないでください。罪のない者の血を私たちに報いないでください。【主】よ。あなたはみこころにかなったことをなさるからです。」こうして、彼らはヨナをかかえて海に投げ込んだ。すると、海は激しい怒りをやめて静かになった。人々は非常に【主】を恐れ、【主】にいけにえをささげ、誓願を立てた。【主】は大きな魚を備えて、ヨナをのみこませた。ヨナは三日三晩、魚の腹の中にいた。』

 主はヨナに再度声を掛けました。それは「ニネベに行きなさい。」また奴隷の身であるヨナに王がいるような大きな町二ネべに行って、「この町は滅びる!」と伝えなさいでした。ヨナ三章一節~六節、

『再びヨナに次のような主のことばがあった。「立って、あの大きな町ニネベに行き、わたしがあなたに告げることばを伝えよ。」ヨナは、主のことばのとおりに、立ってニネベに行った。ニネベは、行き巡るのに三日かかるほどの非常に大きな町であった。ヨナはその町に入って、まず一日目の道のりを歩き回って叫び、「もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる」と言った。そこで、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者から低い者まで荒布を着た。このことがニネベの王の耳に入ると、彼は王座から立って、王服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中にすわった。』

と書いてあります。何と主の声を聞いて従ったとき、二ネべの民は高い位のものまで、悔い改めました。神の領域の業、不思議な出来事が起こりました。主はヨナに再度チャンスを下さいました。再度ヨナに主が声を出し、この声に従ったときすばらしい主の業が表されました。今日私たちも、神の声をしっかりと聞き、従う器になっていきたいと思います。
 今私たちが読んでいる聖書は、道徳の教科書のような存在ではありません。ヨハネ一章一節

『初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。』

 聖書六十六巻すべてが、主のことば。主であると語っています。ですから主のことばである聖書をよく読み、主が今、何を語っているかをぜひ聞いていただきたいと思います。先ほどお読みしたように主はすべて時にかなって美しい事をして下さる方です。今日あなたに主は、今日必要なことを語っています。あなたがその主の声を聞き、従う時祝福を頂けます。ある方は聖書を通読されておられると思います。またある方は様々な信仰本とともに、そのテキストにあわせて読んでおられる方もいらっしゃいます。すべてに主は時があると言っています。聖書を、注意深く読み、神が語ってくださっている声を聞くことのできる霊の耳を与えて頂きましょう。ヘブル四章十二節

『神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。』

とあります。神のことばは今も生きているとあります。聖書が書かれた時代だけでなく、今もみことばは生きて働きます。諸刃の剣、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通すことができる。また私たちには 心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができない時でも、みことばによって判断することができます。

 ですから今日、私たちはみことばを読んで、そして何を神が語ってくださるかということを聞きましょう。マルコ四章十五節~二十節に、こんなみことばがあります。

『みことばが道ばたに蒔かれるとは、こういう人たちのことです──みことばを聞くと、すぐサタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを持ち去ってしまうのです。同じように、岩地に蒔かれるとは、こういう人たちのことです──みことばを聞くと、すぐに喜んで受けるが、根を張らないで、ただしばらく続くだけです。それで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。もう一つの、いばらの中に種を蒔かれるとは、こういう人たちのことです──みことばを聞いてはいるが、世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望が入り込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです。」』

 みことばは種と例えています。祝福の源です。みことばは祝福の種です。あなたがみことばを聞いてもすぐにサタンに取られてしまったり、みことばを聞いて、受け入れるがみことばの為に困難などがあると、つまずいてしまったり、世の惑わしや富。欲望によってみことばを塞いでしまっていませんか?今日良い地に種がまかれて、三十倍、六十倍、百倍の恵みを頂けるように、主の声を聞いて行きましょう。

今日、神の声を聞いて、私たちがみことばの剣を持って戦っていく時に、三十倍、六十倍、百倍の恵みをくださるとあります。是非主のことばである聖書をお読みください。そしてみことばを読む時、主が時に必要なみことばを与えてくださいます。そのみことばを三十倍、六十倍、百倍の恵みをいただいたら、私たちは大きな勝利を見ることができます。

しかしある方は、みことばが「示されました」とか、みことばが「与えられました」とよく聞くけど、私には主の声なんて聞こえない。示されるなんて理解できないと言われる方もおられると思います。神が声を出しているという事が理解できないで、その声を聞くことができないで終わってしまっている方もおられます。今日みことばを読んで、良いみことばだなあと思うことありませんか?またメッセージを聞いて、理解ができた。教えられたと思うことがありますよね?そのみことばを大切にしてください。主が語っておられると信じます。

またある方は主の賜物として、直接みことばを語られたり、どこどこの何章何節と語られたりする方もおられると思います。ある方は映像などを見せられて主の声を聞くことができる方もあると思います。また「すべてに時があります。」とみことばにあります。ある時はふと思い出す人や、思い出す光景。出来事があります。是非そのような一瞬な出来事を大切にしてください。思い出すにも時があります。
 また町で出会う人々。出かけて行く場所なども大切にしてください。今まで何げなく過ごしていたことの中に、あなたに対して主が声を出しています。今日主に求めて祈りましょう。主の声を聞くことができるように、求めて祈りましょう。求めなさい。そうすれば与えられます。

 また信仰というのは、大変だと思うことがあります。この写真を見ていただきたいと思います。

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 これは数年前栃木県の鬼怒川の堤防が決壊し、濁流が町に流れ込み、多くの家や車などが破壊され、流されてしまった時がありましたが、その時の救助を待つ人の写真です。濁流にのまれ、その時電柱にしがみついて、救助をまつ男性の写真です。私はその時、テレビでライブ放送がなされていましたので見ていました。ものすごく緊迫した状況でした。川が決壊して水かさががどんどん増し続け、電柱にしがみついておられたとき、消防のヘリコプターが来て、命からがら助けられました。
 私たちの信仰生活も、結構同じ状況な方はいませんか?嵐の中で、苦しんで苦しんで、「イエスさま助けてください!」と、必死に電柱を握っておられる方いませんか?今日、ぜひ考え方を変えていただきたいのです。私たちは本当に苦しんで苦しんで信仰を守り通すような信仰ではありません。

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 私たちの信仰生活はこんなような、神さまが抱っこしてくださっています。またはおんぶしてくださっています。危ない時は主が私たちを守り、助けて下さいます。
エペソ6章11節

『悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。』

悪魔は策略を私たちに与えてきます。信仰はつらい。主の救いを小さく考えさせ、主の圧倒的な力、全能なる主であることを忘れさせてきます。子どもが助けを必要の時、親が手を出した時に、子どもが親の手を握っていたら、危ない時に親の手から外れてしまいます。。しかし親がしっかりと子どもの手を握ったら、転んでも絶対に離すことはありません。今日、私たちのために命をかけてくださった、十字架にかかって、あなたを救うために、あの天のみ国に入るために、あなたを愛してくださった神は、そんな苦しめ、あの電柱にしがみついているような信仰生活をしなさいというような、そんな神ではありません。私たちの主は不可能なことは一つもありません。ですから是非覚えていただきたいのです。ルカ九章十四節~十七節に、

『それは、男だけでおよそ五千人もいたからである。しかしイエスは、弟子たちに言われた。「人々を、五十人ぐらいずつ組にしてすわらせなさい。」弟子たちは、そのようにして、全部をすわらせた。するとイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福して裂き、群衆に配るように弟子たちに与えられた。人々はみな、食べて満腹した。そして、余ったパン切れを取り集めると、十二かごあった。』

 ここは有名な箇所です。二匹の魚と五つのパンで男五千人の方々に食べさせた、主の奇跡のヶ所です。男だけで五千人と言いますが、子どもや女性を含めるとある方は一万人とか、二万人という人もいます。少年が持っていた二匹の魚と五つのパン。彼のある意味お弁当を用いて、そこにおられた方々のお腹を満たし、余ったパンが十二かごあったと言われています。この子どもは、五千人の中に入っていません。頭数にも入らないような少年が持っていたその物を主は祝福し、みんなに配った奇跡です。あなたがいつ洗礼を受けたとか、年だからとか、信仰がないから私は、主に用いて頂く事は出来ないと思わないでください。数にも入らない子どもから三十倍、六十倍、百倍の祝福を頂きました。この時少年が、自分のパンだから、自分の弁当だから嫌だと言ったら、こんな神の栄光は現されませんでした。
 しかしその時に、「どうぞ」と提供した時に、その数にも入らない少年の持ち物を、主は用いて大きな祝福をくださったのです。「私は何もできないから、私は歳だから、私はどうだから」と、様々な条件を付けてしまいがちですが、今日主に聞いて「これをしなさい」と言われた時に、その声を聞き、小さな一歩かもしれませんが、そのみことばをしっかりと握って、みことばを実行していきたいと思います。主はあなたを通して祝福を与えようとしてくださいます。

 そしてイザヤ書四十六章三節〜四節に、こんなことばがあります。

『わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。』

 あなたが生まれる前からあなたを選んでいてくださいました。あなたが自分で神さまを信じたのではなく、あなたが生まれる前、胎内にいる時から主は名前を呼んでくださっていて、そして「年をとってもわたしは背負う、守ってあげるよ!」と言ってくださっています。あなたは神に選ばれた者です。ですから今日、本当にあなたは尊い方であって、主に選ばれた方です。あなたがぜひ神のことばを聞いて、それをしっかりと受け止めて、あなたが行動していく時に、神は大きな働きを与えてくださると信じます。

 こんな詩があります。アメリカの女性が作った詩です。

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「あしあと」マーガレット・F・パワーズ

ある夜、私は夢を見た。
私は、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上に二人のあしあとが残されていた。
一つは私のあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
私は砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
私の人生でいちばんつらく、悲しいときだった。
このことがいつも私の心を乱していたので、
私はその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。私があなたに従うと決心したとき、
あなたは、すべての道において私とともに歩み、
私と語り合ってくださると約束されました。
それなのに、私の人生の一番辛いとき、
一人のあしあとしかなかったのです。
一番あなたを必要としたときに、
あなたがなぜ私を捨てられたのか、
私にはわかりません」
主はささやかれた。私の大切な子よ。
私はあなたを愛している。
あなたを決して捨てたりはしない。
ましてや、苦しみや試みのときに。
あしあとが一つだったとき、
私はあなたを背負って歩いていた。」
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 私はこの詩を読んですごく励まされました。今日、どんな時でも、私たちは主に従っていく時に、この頃のザワメキの賛美の中でも、暗いトンネルの中にあっても必ず出口があるとありますが、主は大きな働きをしてくださいます。主はあなたを特別に選んでくださっている。自分は駄目だと思わず、今日あなたに語られた主の声を、聞いて従う時、大きな祝福をくださると信じます。

 ヨシュア記三章八節、

『あなたは契約の箱をかつぐ祭司たちに命じてこう言え。『ヨルダン川の水ぎわに来たとき、あなたがたはヨルダン川の中に立たなければならない。』』

 イスラエルの民は出エジプトし、はじめ紅海を渡りました。その時モーセは、何をしたかというと、モーセが杖を紅海に差しのばしたのです。イスラエルの前には、絶対に分かれることのない海。そして後ろには敵の大軍。絶体絶命の場面でしたが、モーセが杖を伸ばすと、紅海が真っ二つに割れました。渇いた地をイスラエルの人たちは歩くことができました。そして追ってきた敵であるエジプト兵たちはイスラエルが全部陸地に上がった時、海にのみ込まれてしまいました。
 しかし、ヨシュア記三章八節はヨルダン川を渡ろうとした時に、今度も杖を伸ばせと言ったわけではなく、契約の箱をかついだ祭司が、水の流れが激しいヨルダン川の中に入って立てということばを聞いて、その言葉通りにしました。すると多くの水があったあのヨルダン川が分かれました。目の前に濁流の川であろうとも、また海があろうと、主はそこを通らせることができます。主の声を聞きましょう。私たちの様々な問題に対して、あなたが今日主の声を聞いて、それを実行していく時、神は大きな勝利を与えてくださいます。最後に一つのみことばを紹介します。ヘブル十一章三十三節から三十四節、

『彼らは、信仰によって、国々を征服し、正しいことを行い、約束のものを得、獅子の口をふさぎ、火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました。』

 今日、何もできないと思っている方、あなたが主の声を聞いて、それを実行していく時、国々を征服することができます。あなたの小さな行いかも知れませんが、

『獅子の口をふさぎ、火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました。』

 あなたを大勇士として用いてくださいます。あなたが主の声を聞くものとしてほしいと主は願っています。私は小さな器です。何もできません。しかし神にはどんなことでもできます。神の領域を信じ、求めましょう。この現実の世界の中に、主の領域があらわれ、私たちが驚きあきれるほどの本当にすばらしい祝福を、三十倍、六十倍、百倍の実を見ることができることを信じましょう。

 今日ぜひ聖書を読んでください。メッセージを良く聞いてください。また時を無駄に過ごさないで下さい。今、あなたに一番必要な事を、主が語ってくださいます。主の声を聞くものとなりましょう。お祈りいたします。


<祈り>
 愛する天のお父さま、私たちは弱い者であり、当然滅びても仕方のない者でした。しかしイエス・キリストは私のために命をかけて打たれ、葬られ、三日目によみがえってくださったことを信じます。今日もう一度告白いたします。私はあなたを、救い主として信じます。私の心のうちにお住い下さい。
そして今日私は主の声を聞くものとして頂きたいです。主の声を聞かせてください。今日、「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。』という聖書のことばを信じ受け取ります。
 主よ、時にかなって美しい、必要な神のことばを私にお与えてください。それをみことばの剣として大胆に私たちは戦っていきたいと願います。主の声に従わせてください。今日、みことばが三十倍、六十倍、百倍の恵みをいただくことができるように、どんな時にも主は守ってくださり、助けてくださる方です。今から聖餐をいただきます。私の主として、イエスキリストを心の底から信じます。私の主はイエスキリストです。その全能なる主が声を出して下さり、私を主の声を聞く器とならせてください。主イエスキリストの聖名によってお祈りします。アーメン。